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モンゴル語訳『八千頌般若経』の文献学的研究 利用統計を見る

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モンゴル語訳『八千頌般若経』の文献学的研究

著者

オーダム

学位授与大学

東洋大学

取得学位

博士

学位の分野

文学

報告番号

32663乙第213号

学位授与年月日

2014-12-22

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007385/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

2014年度

東洋大学審査学位論文

モンゴル語訳『八千頌般若経』の文献学的研究

(3)

1

目次

序論 研究目的と論文の構成・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3

第一部 モンゴル語文献における『八千頌般若経』

・・・・・・・・・・・・5

第一章 モンゴル語訳大蔵経の成立について・・・・・・・・・・・・・・ 6

第一節 モンゴル帝国時代と元朝時代のモンゴル仏教・・・・・・・・・・・・ 6 第二節 16 世紀から 17 世紀のモンゴル宗教的背景と特徴・・・・・・・・・・10 第三節 アルタン・ハーンとその後継者たちの時代・・・・・・・・・・・・・12 第四節 リグデン・ハーンの時代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14 第五節 清朝時代のモンゴル仏教・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18 まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19

第二章 モンゴル語訳『八千頌般若経』の成立について・・・・・・・・

・22 第一節 コペンハーゲン写本『八千頌般若経』奥付・・・・・・・・・・・・・22 第二節 シレート・グーシ・チョルジの訳・・・・・・・・・・・・・・・・・23 第三節 サムダンセンゲの翻訳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25 第四節 モンゴル・ガンジョール所収『八千頌般若経』の奥付・・・・・・・・28 第五節 トド文字版『八千頌般若経』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29 まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30

第三章 モンゴル語訳『八千頌般若経』の系統分類・・・・・・・・・・

・33 第一節 はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33 第一項 書誌的事項・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33 第二項 チベット語訳『八千頌般若経』について・・・・・・・・・・・・35 第三項 モンゴル語訳『八千頌般若経』について・・・・・・・・・・・・35 第四項 チベット語訳とモンゴル語訳の奥付の比較・・・・・・・・・・・37 第五項 『八千頌般若経』諸本の各章の構成・・・・・・・・・・・・・・38 第二節 モンゴル語訳『八千頌般若経』諸本と『随順』との比較・・・・・・・45 第一項 モンゴル語訳『八千頌般若経』第一章の比較・・・・・・・・・・46 第二項『八千頌般若経』第十二章に見られる新旧の異同・・・・・・・・・47 第三節 『八千頌般若経』諸本の系統に関する考察・・・・・・・・・・・・・49 第一項 研究方法とその範囲・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・50 第二項 章題の区別を基準とした比較・・・・・・・・・・・・・・・・・50 第三項 第一章の問答を基準とした比較・・・・・・・・・・・・・・・・50 第四項 諸本の章区分について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51 第五項 第一章の問答を基準とした比較・・・・・・・・・・・・・・・・53

(4)

2 まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・55

第四章 モンゴル語訳『八千頌般若経』の特徴について

・・・・・・・・・62 第一節 モンゴル仏典用語について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・62 第二節 モンゴル語訳『八千頌般若経』における仏教用語・・・・・・・・・・・63 第一項 モンゴル語仏典の外来語・・・・・・・・・・・・・・・・・・・63 第二項 四種の外来語区分・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・64 第三項 ウイグル語からモンゴル仏典用語・・・・・・・・・・・・・・・・66 第四項 モンゴル語の音訳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・66

第五章 モンゴル語訳『八千頌般若経』における心性本浄説について

・・・69 第一節 第一章における心性本浄説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・69 第一項 サンスクリット本の記述・・・・・・・・・・・・・・・・・・・69 第二項 モンゴル語訳の記述・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・70 第三項 『現観』における「離一多性」・・・・・・・・・・・・・・・・71 第四項 『随順』における三性説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・72 第二節 第十二章における心性本浄説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74 第一項 サンスクリット本の記述・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74 第二項 モンゴル語訳の記述・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74 第三項 『随順』における解釈・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・75 まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・76

結論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・78

第二部 モンゴル語文献における『八千頌般若経』第一章の四種の対照テクス

トと和訳

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・81

参考文献

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・206

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3

序論 研究目的と論文の構成

モンゴル仏教の文献学的研究は欧米の学者たちによって精力的に進められてきた。た とえば、N. Poppe、E. Haenisch らのモンゴル語訳仏典研究がその代表である。特にハ ンガリーのL. Ligeti はモンゴル語訳大蔵経の目録を完成し、ドイツの W. Heissig は木 版経典の書体論に関する数多くの著作を著した。かれらの研究成果によって、モンゴル 仏教の独自性が認められるようになりつつある。一方、日本のインド学仏教学界におい ては、チベット仏教について研究が進展を示しているのに対して、モンゴル仏教の研究 はまだ始まったばかりであり、重要な研究成果も少ない状態である。これはモンゴル語 訳仏教経典がチベット語訳からの単なる重訳とみなされて、モンゴル仏教自体がチベッ ト仏教の亜流として扱われて来たことによるところに起因する。しかし、実際はモンゴ ル仏教経典の性格も、モンゴル仏教史についても、細部にわたっては不明な点が多いの である。 このような状況の中で、著者はモンゴル仏教には独自の性格があることを明らかにし ようとし、そのために、個々のモンゴル語訳仏教経典の研究を積み重ねていく必要があ ると考えた。その第一歩としてモンゴル語訳『八千頌般若経』の文献学的研究を行なっ た。 本論文はモンゴル語訳『八千頌般若経』の文献学的研究を主たる内容としている。第 一部は本論であり、第二部は資料篇であり、モンゴル語訳『八千頌般若経』第一章の四 種の対照テクストと日本語訳からなる。第一部は序論を含め、五つの章からなる。 第一章では、モンゴル大蔵経の歴史的背景、内容に基づいてその成立を明らかにする。 周知のように、モンゴル語訳大蔵経は、ガンジョール(経と律)とダンジョール(論)から なり、その内容は8 世紀末以後、主にサンスクリット語仏典をチベット語に翻訳して編 纂されたチベット仏教経典のモンゴル語訳が主体となり、それに一部はウイグル語やイ ンド系言語、あるいは漢文からの重訳を含む仏典の集成である。しかし、細部にわたっ て不明な点が多く存在する。そのために、著者はモンゴル歴史書とモンゴル語訳『八千 頌般若経』に基づいてモンゴル大蔵経の成立を明らかにする。 第二章では、モンゴル語訳『八千頌般若経』についてその翻訳者と成立時代を明らか にする。モンゴル語訳『八千頌般若経』は16 世紀から 17 世紀にわたって成立した。 しかし、16 世紀から 17 世紀のモンゴルは第二次仏教弘通を迎えたのであったが、それ はすべてが単なる純粋な信仰によるものではなかった。宗教と政治が複雑に絡み合った ことは、この時代の特色である。そのために、本章で四種の『八千頌般若経』の奥付に 基づいて本経の成立を明らかにする。 第三章では、四種のモンゴル語訳『八千頌般若経』を基礎とし、さらに、世紀の

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4 P王朝時代に成立した、ラーマパーラ王著『世尊母随順と名づく解釈』に見られる『八 千頌般若経』の解釈を考察の補足資料として、モンゴル語訳『八千頌般若経』の系統を 明らかにする。また、モンゴル語訳『八千頌般若経』を現存するサンスクリット本・チ ベット語訳・漢訳などの諸本と比較検討し、諸訳の系統分類を行う。 第四章においては、主にモンゴル語訳『八千頌般若経』の中に、チベット語訳に存在 しないサンスクリット語が用いられていること、およびその他の外来語の使用について 考察する。モンゴルの文化の上で決定的な影響を与えた仏教文化圏の諸言語はほとんど 研究されていない状態である。その主な原因は、仏教学者が、モンゴル大蔵経はチベッ ト大蔵経の重訳になるため、資料的にも思想的にも価値がないとして顧慮されなかった と考えられる。しかし、モンゴル仏教は資料的にも、或いは思想的にも単にチベット仏 教の模造品として扱われるべきではない。すなわち、モンゴルという共同体の成立にと もなって、モンゴル仏教も成立したと考えるならば、その由来について触れなければな らない。そのために、本章ではモンゴル語訳『八千頌般若経』の言語的特徴に重点をお いて論じる。 第五章においては、現存する四種のモンゴル語訳『八千頌般若経』とハリバドラ著『現 観荘厳論光明』を基礎的資料とし、さらに、世紀の P王朝時代に成立した、ラー マパーラ王著『世尊母随順と名づく解釈』に見られる『八千頌般若経』の解釈を、考察 の補足資料として、モンゴル語訳『八千頌般若経』に見られる心性本浄説の解釈を検討 する。 

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5

第一部

モ ン ゴ ル 語 文 献 に お け る

『八千頌般若経』

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6

第一章:モンゴル語訳大蔵経の成立について

モンゴル語訳大蔵経は、ガンジョール(経と律)とダンジョール(論)からなり、その内 容は8 世紀末以後、主にサンスクリット語仏典をチベット語に翻訳して編纂されたチベ ット仏教経典のモンゴル語訳が主体となり、それに一部はウイグル語やインド系言語、 あるいは漢文からの重訳を含む仏典の集成である。モンゴル語訳大蔵経は一般的に大き く四つの段階を経て翻訳と出版が行われたとされている。すなわち、第一期は元朝(1271 ~1368)治下にチォイジオドセルを中心とした仏典翻訳事業で、第二期は北元(1368~ 1627)のアルタン・ハーンとその後継者たちの時代に行われた翻訳事業である。第三期 は、同じく北元時代のリグダン・ハーンの勅令によって行われた翻訳事業であり、そし て、第四期は清朝(1616~1911)の改訳と、木版によるその完成の刊行時代である。本章 では、モンゴル語訳大蔵経の成立に関する歴史的背景、内容に基づいてモンゴル語訳大 蔵経の特徴を検討する。

第一節 モンゴル帝国時代と元朝時代のモンゴル仏教

モンゴルの祖先は遥か紀元前 200 年にさかのぼる匈奴である。モンゴル高原は匈奴 時代を経て、テュルク人(6~8 世紀)とウイグル人(8~9 世紀)に相次いで支配された。9 世紀のウイグル国家の崩壊以降、統一政権が存在しない状況になり、契丹の住む南モン ゴル(現内モンゴル自治区)は遼朝や金朝の支配下にあったが、北モンゴルでは遊牧民が 様々な部族連合を形成し、お互いに抗争していた。 1206 年チンギス・ハーンはモンゴル高原のあらゆる部族を統一して、モンゴルとい う国を創った。モンゴル帝国のあらゆる部族の中には仏教を信仰する者もいれば、キリ スト教、イスラム教を信仰する者もいた。特に、西部モンゴルにおける諸部族の大半は キリスト教を信仰していた。その当時仏教は国教ではなく、シャマニズムがモンゴルに とって最大の宗教であった。こうした文化的な諸要素がすでに存在していたのが、シャ マニズムを信仰していたチンギス・ハーンが各宗教に対して自由平等な政策をとった理 由の一つだと考えられる。 モンゴル人が最初に仏教と出逢ったことについては、モンゴル史書に様々な説がある。 特に、17 世紀以降から現れ始めた多くのモンゴル史書に、インド・チベット・モンゴ ル三カ国の王統を並列的に記述する方法が定着し、いずれもインドからモンゴルに至る 王家の血統がはっきり繋がっているとしている。また、多くのモンゴル史書には、チン

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7 ギス・ハーンがチベットに遠征する際に、チベット仏教と出逢ったと記述する1。しか し、こうした記録から事実として浮かんでくるのは、チンギス・ハーンがインド・チベ ットの王統を受け継いでおり、チベットに遠征する際にチベット仏教を受け入れたとい う印象を受ける。しかし、それ以前に、ウイグル仏教と出逢った可能性は否定できない。 モンゴル仏教は、モンゴル帝国が建立された13 世紀に、中国仏教、契丹仏教、西夏 仏教、ウイグル仏教など多くの周辺集団の影響を受けて成立したが、モンゴル帝国の官 房においてウイグル文字が採用されたことにより、ウイグル語の仏教用語が広くモンゴ ル語に導入された。そのため、13 世紀から 14 世紀のモンゴル仏典文献は、ウイグル語、 あるいはウイグル語に借用されたサンスクリット語の仏教用語に満ちており、初期モン ゴル仏教の成立時にウイグルの仏教僧が大きな影響を与えていたことが分かる。その意 味で、モンゴル仏教の産みの親はウイグル仏教といっても過言ではない。現在我々が利 用できるモンゴル仏典文献は、ほとんどチベット仏教僧が翻訳したものである。そのた め、チベット仏教の方に傾く傾向が強い。 チベット仏教が公式にモンゴルに伝わったのは、チンギス・ハーンの孫、第二代皇帝 オゴディの息子ホデン太子の時代である。ホデンはチベット方面軍総司令官とも言い得 る人物で、仏教国チベットと接触するには極めて好条件にあった人物である。彼は、チ ベットからサキャ派の学僧サキャ・パンチェンを招請して、両者は1247 年西涼州(現在 の武威市)で会った。このできことをもって、モンゴルにおけるチベット仏教のサキャ 派の伝播が始まった。モンゴル仏教史上、最も重要なことの一つは、上述したサキャ派 の学僧サキャ・パンチェンと伴ってきた甥のパクパがモンゴルに来たことである。パク パはフビライ・ハーンの在位中に、多数の著作を著し、またパスパ文字というチベット 文字を基にしたモンゴル文字を作成するなど当時のサキャ派の最高権威として大いに 活躍した。その後、国師を経て1270 年、皇帝の仏教上の師匠である帝師に就任し、サ キャ派が元朝において絶大な影響力をもつことに重要な役割を果たした。こうしてチン ギス・ハーンが定めた各宗教に対する平等な政策は、元朝時代に至るまで実行されてい た。しかし、フビライ・ハーン時代になって、大ハーン本人とチベット仏教のサキャ派 のパクパとの特別な関係によって、変化が起きはじめた。チンギス・ハーン時代からム ンケ・ハーン時代に至るまでは、モンゴルの支配地域の仏教の主導権がほとんど中国仏 教の禅宗、或いは西域の僧侶たちに委託されていた。ムンケ・ハーンが死去した後、フ ビライ・ハーンは自ら大ハーンとなり、チベット仏教のサキャ派のパクパラマを重用し て、元朝の仏教界の最高指導者に任命した。それは、フビライ・ハーンは政治、パクパ は宗教のために相互に利用したといえる。すなわち、フビライ・ハーンはチベット地域 を帝国支配化に収めるため、パクパを利用した。これに対して、パクパは他の宗派との 争いに勝つため、王侯貴族たちと往来していた。この結果、モンゴルの王侯貴族たちが 徐々にチベット仏教に信仰心を起こし、仏教徒になった。 元朝時代には、1270 年代「梵像局」を設置し、1279 年に北京の大都で「聖寿万安寺」

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8 が建立された2。この「聖寿万安寺」は、元朝の最高統治者即ち、皇帝のための寺院で あることが明らかであり、そのために「大聖寿万安寺」とも呼ばれる。大都では、この ほかに大護国仁王寺、普安寺、大與教寺、大天源延聖寺、大崇恩福元寺、大承天護聖寺 など多くの寺院があったが、その多くが中国仏教寺院であった可能性が高い。また、元 朝時代には、「国師」という高僧が自分の寺院をもっていたことが知られる。たとえば、 14 世紀初頭の頃、元朝の大都で国師・パンディタ・チョイジオドセルという高僧が活 動していた。彼は、1305 年から 1321 年にかけて 16 年間都に居て、主に仏教経典をモ ンゴル語に翻訳する、または編纂と出版などの活動をしていた3。その必要から、彼は モンゴル文字での仏教経典の翻訳・出版の新時代の幕を開いてくれたのである。これと 共に、「大聖寿万安寺」等の寺院に一般の仏教信者を受け入れ、王侯貴族等と往来する ようになった。特に、チョイジオドセルは比丘戒を受け、パンディタという学位号を取 得して、元朝統治者から国師の称号を得た。そのため、チョイジオドセルは当時の仏教 界と王侯貴族たちの間に信頼が厚くて、後の仏典翻訳事業の発展に欠かせない役割を果 たした。 元朝時代のモンゴル仏典の翻訳については現在多くの不明な点が存在する。元朝大徳 年の間(1297-1307)、ウルジト・ハーンの勅令により、帝師デシジャバエソが担当して、 チベット、モンゴル、ウイグルと中国の僧侶たちが参加して、チベット語大蔵経をモン ゴル語に翻訳したという説がある。また、ハイサン・ハーンの至大三年(1310)までにガ ンジョールの大部分が翻訳されたという諸説が伝えられるが、実証がはされていない。 この時に翻訳されたものを含め、清朝時代以前に翻訳されたモンゴル仏典の刊本・写本 はほとんどが今日に伝わらず、現在我々がみることができるモンゴル仏典の刊本のほと んど全ては清朝時代に開版されたものである。元朝時代に成立したモンゴル仏典を記録 する最初の文献は、中国で書かれた『元史』である。『元史』に以下のような三つの有 力な情報がある。 ①「至元十七年(1280)年十二月丙申、勅鏤板印造帝師新訳戒本五百部、頒降諸路僧 人」4 ②「迦魯納答思、畏吾人、通天竺教及諸国語。・・・以畏吾字訳西天、西蕃経論、既 成、進其書」5 ③「必蘭納識里・・・北庭感木魯国人。幻貫通諸国語。大徳六年(1297 年)従帝師授 戒於広寒殿、代帝出家・・・繙訳書梵経典。・・・其所訳経、漢字則有楞厳経、 西天字、即有大乗荘厳寶度経、乾陀般若経、大涅槃経、称賛大乗巧徳経。西蕃字 即有不思議禅観経」6 これらの記録から、元朝時代、経典翻訳の事業が始められたと言うことができる。 元朝時代の翻訳は迦魯納答思(チョイジオドセル)、必蘭納識里(シェーラブセンゲ)な

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9 どの有名な翻訳者が参加して、モンゴル語訳経典の性格を定めた。これら翻訳者を中 心として、サンスクリット語から直接モンゴル語に翻訳した。或いはチベット語、漢 語、ウイグル語から重訳したことも判明できる。特にチョイジオドセルはモンゴル仏 典翻訳の基礎を定めた最重要人物である。18 世紀のモンゴル人僧侶ダンザン・ダグ ワのモンゴル語で著した『心脂註解「虚空のマーニ」』にはチョイジオドセルについ て以下のように記述してある7。 武宗ハイサンはチョイジオドセルに「ガンジョールをモンゴル語訳せよ」と仰せに なったが、チョイジオドセルはパスパ文字でモンゴル語に経を翻訳することが出来 なかった。なぜなら、武宗ハイサン以前、ウイグル語で経を読んでおり、モンゴル では読んでなかった‥‥‥モンゴル文字による説教はできなったので、たいていウ イグル語で聞いていた。その後、武宗ハイサンは真の導師であり布教者たちの太陽 たる翻訳師チョイジオドセルと出会い、彼ら双方の方便と智慧の力によって、本来 のモンゴル語で経を広めた。 以上の記述は、チョイジオドセルはウイグル語に堪能な人物であり、ウイグル語に起 源を持つモンゴルの文章語で書かれた仏典の成立に欠かせない役割を果たしたことを 証明している。 刊行年代が明確にされているものの中で最も古い仏典は、トルファンから出土した 1307 年刊行の『入菩提経』の断片である。その奥付によると、本経をチョイジオドセ ルが武宗ハイサン・ハーン治下の 1305 年にモンゴル語に翻訳したと記している。続い て、1312 年の木版で刊行された『入菩提経疏』も彼によってモンゴル語に翻訳された8 そのほか、同地出土の資料はいずれも微細な断片であるが、その中で、成立年代が『入 菩提経』と前後すると見なし得る仏典としては『般若心経』『聖吉祥実名経』9の版本断 片がある。 また、同時期のものと推定されている中国内モンゴルのオロン・スメから出土した大 量の仏典写本断片の中に、『入菩提経』『金剛般若経』などが含まれている10。 六代泰宗帝の時代にはチョイジオドセルの弟子とされるサキャ派のシェーラブセン ゲが『五護呪』『金光明経』をチベット語からモンゴル語に翻訳した。『金光明経』はモ ンゴルにおいて、護国経典として国家的普及のみならず、ことに「四天王護国品」は北 方守護の毘沙門天信仰の根拠となった。チベット大蔵経とモンゴル大蔵経の中に、広(31 章)11・中(29 章)12・略(21 章)13三種の『金光明経』が含まれている。その中で、シェ ーラブセンゲが中(29 章)の『金光明経』をチベット語からモンゴル語に翻訳し、後世に わたって数回の開版印行あるいは手抄の形で広がった。 元朝時代の仏教は主に宮廷の貴族たちの間に信仰され、一般の遊牧民の間には依然と してシャマニズムが強く信仰されていた。しかし、それ以降 300 年もの激動の時代を

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10 経て、チベット仏教が再び弘通する時、歴史的背景と理論の根拠になった。

第二節

16 世紀から 17 世紀のモンゴル宗教的背景と特徴

16 世紀から 17 世紀にかけてのモンゴル宗教史の大きな特徴はおよそ五つある。第一 の特徴は、シャマニズムと仏教との対立とその融合である。シャマニズム的諸信仰の至 高神は、「永遠なる天」という天神である。モンゴル人の宇宙観では、宇宙に九十九天 があり、しかもそれらは西の五十五天と東の四十四天の二陣に分かれる。これは当時モ ンゴル国家の政治体制にも反映される。そして、モンゴル人はこの東西に分かれる九十 九天を支配しているのは永遠なる天であると考える。モンゴルのシャマニズム的観念の 立場から見ると、チンギス・ハーンをはじめ、モンゴル帝国時代のハーンたちは、自ら を天の子・天の使者と称したのは不思議なことではない。当時のモンゴル社会に生きる 遊牧民たちは、九十九天を信じており、安定した安全な社会生活を維持するために、天 の子たるシャマンやハーンの存在が不可欠であった。例えば、元々チンギス・ハーンの 父イスゲイ・バートルの支配下にいた諸部族は、イスゲイの亡くなったのち、チンギス・ ハーンから離脱して、当時の有名なシャマンであったテブ・テングリのもとに集まった が、後に再びチンギス・ハーンの麾下に自ら投降しにきた一例も、いずれかの天の子に 頼らなければならなかったという当該社会の実情を反映している。そのためチンギス・ ハーンはこのような永遠なる天の力によってこの世にあらわれ、全世界の主になれたと される14。 第二の特徴は、仏教が盛んになるにつれて、モンゴル土着の信仰であるチンギス・ハ ーン祭祀が大きく変化し、両者の融合が行われたことである。モンゴル宗教史において チンギス・ハーンが仏教の守護神とされることに至ったことは、モンゴル固有の文化と 仏教文化が相互融合した歴史の過程をよく表している。また、別の視点からすれば、16 世紀末、特に17 世紀からモンゴル仏教の経典、著作などをモンゴル語に翻訳する作業 が積極的に行われ、いわば、モンゴルの仏教文化が積極的に進められ、チンギス・ハー ンが仏教の守護神とされるに至り、土着の守護神でありながら仏教の守護神であるとい う二重神格化されたのである。 第三に、仏教伝来のルートが異なる。モンゴル帝国以前から、仏教がモンゴルの地に 伝来したル-トは,主に二つあったのである。その一つはインドからウイグルを経由し て伝来した。そのために、この時代の仏典には、サンスクリット語のものが多く、チベ ット語のものが少なかった。仏教伝来のもう一つのルートは、南の漢地からである。例 えば、中国仏教の禅宗の高僧である海雲禅師という者が大モンゴル国時代の1214 年に、 十三歳の時にチンギス・ハーンと会っており、その後中国北方の漢地仏教はモンゴルの 大ハーンたちの恩恵を受けていたのである。

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11 しかし、16 世紀後半からモンゴル各地に広まった仏教は、主に青海地方を経由して 伝来し、右翼モンゴル・トメィド部の首領アルタン15ら貴族たちによる仏教帰依から 広まったものであった。そのために、経典はチベット語のものが多かった。モンゴル人 は仏典のモンゴル語訳を積極的に進めたが、それでも仏教用語、人名、術語などはチベ ット語的表記をされ、チベット仏教文化はモンゴルに深く浸透したのである。 第四に、16 世紀から 17 世紀のモンゴルにおける仏教の弘通につれて、仏教文化の 人々の精神面における浸透は、これまでのいかなる時代よりも深くて、かつ広いもので ある。前述したように、仏教は遥か昔からモンゴルに伝播されたが、大モンゴル国時代、 元朝時代の仏教は基本的に貴族階級の範囲にとどまり、モンゴル人の伝統的信仰構造に は根本的変化をもたらされなかった。しかし、16 世紀後半からモンゴル各地に再び広 まった第二次仏教弘通は、モンゴル人の伝統的信仰構造に根本的変化をもたらし、16 世紀後半、特に17 世紀以降、チンギス・ハーンが仏教の守護神とされるに至り、モン ゴル人の複雑な信仰構造が次第に形成されたと言える。 第五に、第一次仏教弘通期と第二次仏教弘通期のいずれの時期においても、仏教の宗 派の名の下で、宗教と政治が深く絡み合っていたが、16 世紀から 17 世紀のモンゴル宗 教の状況は最も複雑であった。元朝の時代はサキャ派がモンゴルの軍事力の保護を求め、 「国教」の地位を得た。16 世紀後半、17 世紀前半のモンゴル宗教の歴史は、チベット 仏教の宗派間の権力闘争に巻き込まれ、モンゴル軍事力がチベット側に都合よく利用さ れたのである。 一方、清朝統治者たちはチベット仏教ゲルク派を巧みに利用し、仏教に対する保護政 策をとり、寺院などを多く建立した。民衆を政治的に統合するためであった。具体的に いうと、1636 年に内モンゴルの各部落、1691 年に外モンゴル(現在のモンゴル国)、1757 年に西モンゴル(オイラド・モンゴル)が、それぞれ満州人の支配下に入った。それに従 って、それぞれのモンゴル地域の仏教の独立性が次第に失われ、清朝のモンゴルを支配 するための道具になっていた。 その結果、20 世紀の初期に至るまでに、モンゴル草原で数多くの仏教寺院が建立さ れ、出家する僧侶も急速に増えたので、モンゴル人口は減る一方であった。僧侶数の増 加によって、戒律を守らない、経典を読まない、教理を知らない僧侶も増えた。モンゴ ル仏教の真の性質が失われたといえるだろう。 または、モンゴル地域の大活仏をほとんど青海省あるいはチベットから転生させてい た。そして、ほとんどの仏教寺院で既に翻訳されたモンゴル語の経典を読誦せず、チベ ット語の経典を読むようになった。そのために、モンゴル仏教が独立性を失っていき、 チベット仏教の亜流として扱われるようになった。 要するに、16 世紀から 17 世紀のモンゴルは第二次仏教弘通を迎えたのであったが、 それはすべてが単なる純粋な信仰によるものではなかった。宗教と政治が複雑に絡み合 ったことが、この時代の特色であると言えよう。

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第三節 アルタン・ハーンとその後継者たちの時代

1369 年、元朝が滅び、北京から逃亡してモンゴル草原に戻って来たチンギス・ハー ンの子孫たちの間で内部紛争が続いていた。その後、1480 年に、大モンゴル国の太祖 チンギス・ハーンの第十五代目に当たるダヤン・ハーンが即位して、モンゴルを六つの トゥメン(六万戸)に分割して息子たちに与えた。その六トゥメンのモンゴルは、東西 或いは左右に区分され、東(左翼)は、チャハル、ハルハ、オリヤンハンの各トゥメン からなり、西(右翼)はオルドス、トゥメド、ユンシェーブの各トゥメンからなる。 14 世紀後半から 16 世紀半ばまでの間、モンゴルにおける仏教は衰退した時代を辿っ た。モンゴル史書のほとんどが北元時代のモンゴル仏教の衰退に言及するが、これは早 急に仏教を復興させる必然性を導き出すことを示している。つまり、仏教が繁栄した元 朝時代と仏教が衰退した政治情勢不安定の北元時代を対比して記述することは、仏教の 再興を期待する人々の願いの現れである。このような必然性から、北元時代の仏教衰退 した状態に大きな変化が訪れたのは、16 世紀の半ばからである。 このことから、モンゴル仏教史上では大モンゴル帝国時代と元朝時代をモンゴルにお ける第一次仏教弘通期といい、16 世紀後半からの仏教再興を第二次仏教弘通というの である。 16 世紀後半にモンゴルにチベット仏教が再び浸透したことはモンゴルの文化だけで はなく、政治、社会を大きく変えることになった。モンゴル諸部において、地理的にチ ベットに比較的近い西部内モンゴル、すなわち 1480 年に大モンゴル国の太祖チンギ ス・ハーンの第十五代目に当たるダヤン・ハーンが定めた六つのトゥメン(六万戸)内 の、トゥメド万戸とオルドス万戸が先駆的な役割を果たした。 このような条件のもとにチベット仏教の再流入に関与した重要な人物は、モンゴル側 ではトゥメト万戸のアルタンとオルドス万戸のホトクタイ・セチェン・ホンタイジであ り、チベット側ではゲルク派の三世ダライラマ16であった。オルドスのホトクタイ・ セチェン・ホンタイジは1566 年に青海に対して遠征を行ったが、そこでチベット仏教 に出合って、仏教に帰依することになった。ホトクタイ・セチェン・ホンタイジはアル タンに対してチベット仏教の信仰を勧め、アルタンもこれに応じた。 当時チベットにおいては多くの宗派が存在し、チベット内で勢力争いを行っていた。 これらの宗派のいくつかは、その後ろ盾を求めて、モンゴルの王公たちに接近した。 ゲルク派は 1571 年、アセン(アシン)・ラマをアルタンのもとに派遣し、ゲルク派 への支持を求めた。アルタンはこれに同意し、ゲルク派の指導者ソナム・ギャムツォと の会見を約束した。両者の会見は1578 年、旧暦 5 月 15 日、青海のチャブチャルにお いて行われ、ソナム・ギャムツォはアルタンに対して仏法を説き、シャマニズムの放棄、 僧侶に対する暴力の禁止などを求めた。アルタンはこれに応じ、ゲルク派の施主となる

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13 ことを表明し、ソナム・ギャムツォにダライ・ラマ(三世)の称号を贈った。これに対し てダライラマもアルタンに「転輪聖王」の称号を贈っている。 このようなチベット仏教の再流入に伴って、チベット人僧侶や大量のチベット語の仏 典がモンゴルに入ってきた。 モンゴル大蔵経がすでに一部が元朝時代にモンゴル語に翻訳訳されていた。しかし、 元朝時代に翻訳された仏典は、それ以降 300 年もの激動の時代に如何してそれがモン ゴルで保存し得たのか疑問である。しかもチベット仏教に対する関心がほとんど失われ ていた時代である。この点についてハイシッヒは次のように指摘している。 中国に君臨した歴代のモンゴル人皇帝が十三世紀にラマ教を取り入れた後、この 1000 点を越える作品の大集成のモンゴル語訳を命じたといわれる。この大事業が 当時、本当に実行にうつされたことがあるがどうかには疑問の余地があり、少なく ともこの集成の当時のモンゴル語訳は片割れすら伝存していないのである17。 アルタン・ハーンとその後継者たちの時代に成立したガンジョールについて『アルタ ン・ハーン伝』に以下のように有力な記述がある。「ナムタイ・セチェン・ハーン(アル タン・ハーンの孫)、ジュンケン・ハトン、ホン・タイジの三人は、ハーンの政を法に 則って行ない、等しく御仏の説いた百八【巻】のガンジョールという法をモンゴル語に、 その時にシレート・グーシ・チョルジ、アユーシ・アナンダ・マンジュシリ・グーシな どと、驚嘆すべき三トゥメドの通事や賢者たちに、黒い寅年(1602 年)から赤い未年(1607 年)に至るまで、一切諸法をすべて翻訳させて、驚くべく適切に書籍となして安置した」 18。 さらに清朝時代に成立したモンゴル・ガンジョールに所収されている『一万頌般若経』 (QutuG tu bilig Un cinadu kijaGar-a kUrUgsen tUmen silUg-tU kemekU yeke kOlgen sudur)の奥 付に、「ナムタイ・セチェン・ハーン(アルタン・ハーンの息子)とジュンゲン・ハトン が施主となりガンジョールを翻訳させている最中にセチェン・ハーンが亡くなった。そ の後、ボショクト・ハーン(ナムタイ・セチェン・ハーンの孫)とジュンゲン・ハトン及 びオンボ・ホン・タイジの勅命によってシレート・グーシがガンジョールを翻訳した」 と記している19。両記述を比べてみると若干違うところが見出されるが、アルタン・ ハーンとその後継者たちの時代に成立したガンジョールはだいたいナムタイ・セチェ ン・ハーンの時代からボショクト・ハーン20の時代に至るまでに成立したと考えられ る。

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第四節 リグデン・ハーンの時代

リグデン・ハーンはモンゴルの最後の大ハーンであり、左翼の三万戸(チャハル、ハ ルハ、オリヤンハン)のチャハル・トゥメンに属する。チャハル・トゥメンはハーンの 正統を継承し、主流派を以って任じた。チャハル・トゥメンが仏教に帰依したのはトゥ メン・ジャサクト・ハーン(1539-1592)の時代と考えられる。 モンゴルの政教史の年代記『蒙古源流』に、「トゥメン・ジャサクト・ハーンは三十 八歳の丙子の年(1576 年)に、腰刀を結ぶカルマ・ラマと会い、仏法の門に入って、 六万人隊を集め、大政令を伝え示した」21と記されているように、この頃仏教が普及 し、モンゴルの国教となったことを示している。さらに、「トゥメン・ジャサクト・ハ ーンの年長のブヤン太子は、乙卯の年(1555 年)に生まれて、三十九歳の癸巳の年(1593 年)に帝位につき、セチェン・ハーンとしてあらゆる方向に有名になって、仏法と政道 をもってすべての国民を安楽にさせ、四十九歳の癸卯の年(1603 年)に亡くなった」 と記している22。 このように、チャハル・トゥメンはトゥメン・ハーンの時より仏教の輸入にあたり、 ブヤン・セチェン・ハーンの時には仏典を翻訳するなど仏法をさらに弘通させた。リグ デン・ハーンは殊に熱心な仏教信者であり保護者であり、チベットの高僧より密教の灌 頂を受け、釈迦牟尼の堂塔伽藍を建立した23。このようにリグデン・ハーンの家柄は 曽祖父の時から仏教色が非常に濃厚ということが明らかである。 現在モンゴル語に翻訳されたサンクトペテルブルグ大学所蔵モンゴル・ガンジョール (113 巻)と清朝時代に成立したモンゴル・ガンジョール(108 巻)に含まれている経典の奥 付の多くにモンゴル最後の大ハーンとされるリグダン・ハーンの名前が見られ、彼の勅 令によって訳されたことが記されている。モンゴルの歴史書『アルタン・エリヘ』に次 のように記されている。 リグデン・ホトクト・ハーンの御世にマイダリ法王ジョニ・チョルジより「秘密乗 の灌頂」などを受け、教えを保護して、またサキャのバンシャンラブ・ホトクトと 邂逅し、また「秘密乗の灌頂」を受け、またオチルド・チャガン・ホタという宮殿 を建てて、それに釈迦の像をお招きし、多くの寺を一夏に完成し終えた。また仏の 教えの化身であるガンジョールなる宝をモンゴル語に翻訳させた大いなる恩ある 者であった。その由はといえばまさにこのホトクト・ハーン様がすべての衆生の利 益と喜びが生じるために、仏の宝石のようなお言葉を太陽のようにモンゴル大地に 広がるがよいと、モンゴルの言葉に翻訳するようにおっしゃった。そしてそれらを 翻訳する学者、翻訳者たちが百十三のカラムリに集まるとき、蒼き、斑点のような 集まった空に太陽と月のように、金と銀の文字で記し、運命ある衆生の愚かさの暗

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15 闇を明るくし編纂したことは大いなる奇跡である。翻訳した尊き学者、翻訳者はホ トクト・バンディタ・マンジュシュリ法王、グンガオドセル、如来法光サムダン・ サキャ・ダルハン・ラマゲンデン・グーシ、この二人をはじめ大変多くの翻訳者が 翻訳したのである。その時は第二の土の龍(1628 年)の十一月の二十一日から始めて、 翌年(1629 年)の夏の中の五月の満月の日に終えた24。 ここで注目したいのは、リグデン・ハーンの勅令によってグンガオドセルとサムダン センゲを校訂委員長とする校訂委員会が設置され、1628 年から 1629 年にかけて翻訳・ 編纂・校訂した金字写本版が完成されたことである。当時、政治的権威を象徴するハー ンの玉璽、フビライ・ハーン時代から祭られてきた黄金のマハーカーラ守護神と、この 金字モンゴル・ガンジョールの三点は、リグテン・ハーンの「三宝」といわれている。 しかし、リグデン・ハーンの金字モンゴル・ガンジョール写本は完全な形で今日に伝 わっていない。モンゴルの歴史書『アルタン・エルへ』の記述によると、当時の東モン ゴルのヘシグテン地方の一王侯の信仰物となっていた25。その後、この金字写本の消 息は一時途絶えた。 現在金字モンゴル・ガンジョールのうち二十巻が、中国の内モンゴル社会科学院図書 館に所蔵されている。このうちの十数巻は1957 年に瀋陽の実勝寺から将来さたれたも のである。20 世紀の初期、内藤湖南が同じ実勝寺で発見し、1906 年の調査を経て日本 に将来し、東京帝国大学に所蔵されていたが、1923 年の関東大震災で焼失したのであ る。また、サンクトペテルブルグ大学図書館に所蔵されている写本モンゴル・ガンジョ ール113 巻も同系統である。 内モンゴル社会科学院図書館に所蔵されている二十巻は、以下の六部である。 ①秘密経部6 巻 ②大般若部1 巻 ③二万五千頌般若経1 巻 ④華厳経部1 巻 ⑤律師戒行経部5 巻 ⑥諸経部6 巻 そして、サンクトペテルブルグ大学所蔵モンゴル・ガンジョール113 巻の分類は、以 下の十部、計113 巻 883 件の作品から構成されている。 ①秘密経部26 巻 ②大般若部12 巻 ③二万五千頌般若経4 巻 ④一万八千頌般若経2 巻 ⑤八千頌般若経1 巻 ⑥一万頌般若経2 巻

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16 ⑦華厳経部6 巻 ⑧寶積経部6 巻 ⑨律師戒行経部13 巻 ⑩諸経部40 巻 サンクトペテルブルグ大学図書館に所蔵されている写本モンゴル・ガンジョール 113 巻の最後の「諸経部」に、北京版モンゴル大蔵経ではダンジョールに分類されるアビダ ルマの論書の経典が収められている。アビダルマの論書をガンジョールに含める分類は、 チベットで 1431 年に成立したテンパンマ写本カンギュルに遡るものであり、1351 に 成立したツェルパ写本カンギュルの流れを汲む北京版のチベット・カンギュルとは別系 統である。それをまとめると以下のように二系統に分類できる。 ①チベットのテンパンマ写本カンギュル→ 写本モンゴル・ガンジョール113 巻 ②ツェルパ写本カンギュル → 北京版モンゴル・ガンジョール108 巻 しかし、多くの学者は、ガンジョ-ルのモンゴル語訳はリグダン・ハーンの指導と発 案で 1628-1629 年の短期間に行われたとするモンゴル史書の記述に疑問を投げてい る。これに関してハイシッヒ氏は「この数字はリグダン・ハーンの35 人の翻訳者が 1628 年から1629 年の短期間に一人あたり幾ページの印刷面を翻訳せねばならなかったかを 算出する手がかりを与えてくれる。一人当たり2287 印刷面になる。これは写本のペー ジ数にすればもっとおおくなるだろう。そしてこれらの人のおのおのが 1628 年から 1629 年の短期間にこの巨大な仕事をほんとうにやりとげられるだろうか」と指摘して いる26。 さらに同氏によれば「1628 年、1629 年にはすでにリグデンとトゥメト・モンゴルの 間に戦火がまじえられた。リグデンが武力をもってしてはモンゴル人大衆をこれ以上と どめることができなくなったとき、宗教的宣伝を通じて彼らの歓心を買うために、ガン ジョール翻訳を横取りして、自分のものにしたという疑念はこうしていっそう深まって いる」と指摘している27。 サンクトペテルブルグ大学図書館に所蔵されている写本モンゴル・ガンジョール113 巻において、校訂委員長を勤めたグンガオドセルとサムダンセンゲが、数多くの仏典を モンゴル語に翻訳した。そのうちサムダンセンゲが翻訳したとみられる作品が32 部あ る。その奥付を調べてみると、『八千頌般若経』と『仏出現経』はリグデン・ハ-ン以 前の翻訳であり、残りの30 作品はすべてリグデン・ハ-ン時代に翻訳したものである。 『八千頌般若経』の奥付を分析すると、本経はトゥメド・モンゴルのボショクト28 が順義王になる前の1607 年から 1613 年の間に翻訳された。 サムダンセンゲの翻訳について、ハイシッヒ氏は、「リグデン・ハ-ンの校訂委員会 がトイン・チョルジの翻訳したガンジョールの第六巻の一部を、サムダンセンゲの訳と

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17 置き換え、または、サムダンセンのものにした」と指摘している29。 以上の根拠に基づくと、リグデン・ハーンの校訂委員会がシレ-ト・グ-シ・チョル ジがトゥメド・モンゴルにおいて、1593 年から 1600 年の間に訳した『八千頌般若経』 の翻訳をサムダンセンゲの翻訳と置き換えた可能性が充分考えられる。しかし、サムダ ンセンゲはリグデン・ハ-ンが校訂委員会を招集する以前には、トゥメド・モンゴルに おいて翻訳活動を行ったのは明らかである。このことは、リグデン・ハ-ンの指図によ って翻訳された多くの作品は、1629 年より以前トゥメッド地方で翻訳されていたから、 リグデン・ハーンはその翻訳の委任者の名前を自分の名前に置き換えたことを推測させ る。要するに、17 世紀前半に大集成されたモンゴル・ガンジョールの翻訳、編集、校 訂がトメット部のアルタン・ハーンとモンゴル最後のハーンであるリグダン・ハーンの 二段階を経て重層的に成立したと考えられる。 前節で述べたように、16 世紀後半からチベット仏教の再流入にあたって、最も大き な役割を果たしたのはアルタン・ハーンであるが、彼が帰依し保護したのはゲルク派で あった。アルタン・ハーンを継承した順義王家代々のハーンもこのゲルク派を導入し支 持した。 一方、リグデン・ハーンは師がサキャ派に属していたことからサキャ派に帰依し、同 派を支持していた。従って、リグデン・ハーンが第四代順義王ボショクトをトメィド部 の本拠地であった帰化城(現在のフフホト)から追い出し、銀仏寺を占拠して、ガンジョ ールの翻訳事業を横取りしたのは、ある意味では、サキャ派がゲルク派を破ったと理解 できる。 ここでアルタン・ハーンとその後継者たちの仏教文化の総本山であった銀仏寺に注目 したい。アルタン・ハーンとダライラマ三世ソナム・ギャムツォのチヤブチャル大会30 の翌年の1579 年、アルタンはダライラマの言葉に従い、帰化城(フフホト)で仏教寺院 を建立した。この寺院は、1580 年に明朝から与えられた漢名は「弘慈寺」であり、モ ンゴル語では yeke nigUleskUi sUm-e と言う。それが後の 1640 年に清朝に「無量寺」と 改称された。この寺には銀製の仏像、龍の彫刻、壁画という三つの宝があり、特に銀製 の仏像が当時の人々の信仰の対象とされ、「銀仏寺」とも言われてきた。 1602 年から 1607 年にかけて、仏教の集大成である大蔵経など経典がモンゴル語に翻 訳され、108 巻のモンゴル・ガンジョールが完成されたとアルタンの伝記に記され31 かつその翻訳作業は帰化城の銀仏寺で行なわれたと言われる32。そして現在も「ガン ジョールの寺」、即ち「経蔵の寺」とも呼ばれることがある。しかしこのことは他のモ ンゴルの諸歴史書に記録がない。 一方、モンゴルの諸歴史書にしばしば登場するのは、リグデン・ハーンの時代に成立 した写本版モンゴル・ガンジョールである。つまりモンゴル最後の大ハーンで、チャハ ル出身のリグデン・ハーンの勅令によって組織された校訂委員会が、1628 年から 1629 年にかけて翻訳、編纂、校訂した113 巻のモンゴル・ガンジョール写本版として完成し

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18 た。ところが、その翻訳・校訂された場所が必ずしも明確にされてない。ただし、リグ デン・ハーンの率いるその軍勢は、1627 年から帰化城地方を支配下においていたので、 翻訳・校訂作業が帰化城の銀仏寺で行なわれた可能性は充分あり得る。

第五節 清朝時代のモンゴル仏教

清朝のモンゴル・ガンジョ-ルは、清朝の第四代皇帝である康煕帝の勅令により、ド ロン・ノールの学僧団が 1718 年から 1720 年にかけて改訳と開版を行ったものである。 中国第一歴史資料館の史料によると、モンゴル語訳ガンジョールの開版に当たって、頭 等侍衛シャンジェゥという満州人の邸に保存されていたモンゴル語訳ガンジョールが 原本として利用された33。そして1684 年に開版され北京版チベット大蔵経を底本とし て校訂が行なわれ、最終的に1055 の別々の題名からなる作品を 108 巻に分けて改版し た。この時に原本として利用されたモンゴル語訳ガンジョールは、リグデン・ハーン時 代に成立したモンゴル・ガンジョール113 巻の系統のものであった。これを証明する有 力な情報がモンゴル語訳『八千頌般若経』に見られる。モンゴル語訳『八千頌般若経』 は四種あり、それらを大別すると新旧二種に分けられる。旧系統は、北元時代に成立し たコペンハーゲン写本『八千頌般若経』と、サムダンセンゲが翻訳した『八千頌般若経』 である。新系統は、清朝時代に成立した 108 巻モンゴル・ガンジョール所収の『八千 頌般若経』と、オイラート・モンゴルのトド版モンゴル語訳『八千頌般若経』である。 康熙帝の勅令によって開版された 108 巻モンゴル・ガンジョールは、開版にあたっ てリグデン・ハーン時代に成立した113 巻モンゴル・ガンジョールを底本とした。しか し、その改訂と編纂にあたって、旧系統であったサムダンセンゲが翻訳した『八千頌般 若経』を削除し、新たに新系統の訳を加えた34。そのため、本奥付においてモンゴル 語への翻訳事情についてまったくふれず、代わりに北京版チベット大蔵経収集の『八千 頌般若経』の奥付とほぼ一致するのはこの理由によると考えられる。要するに、リグデ ン・ハーン時代に成立したモンゴル・ガンジョール113 巻はチベットで 1431 年に成立 したテンパンマ写本カンギュルに遡るものであり、1351 に成立したツェルパ写本カン ギュルの流れを汲む北京版のモンゴル・ガンジョールとは別系統であることを証明して いる。 清朝時代の北京版モンゴル語訳ガンジョールの分類は、以下の六部である。 ①秘密経部25巻 ②般若経部22巻 ③寶積経部6巻 ④華厳経部6巻 ⑤諸品経部33巻

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19 ⑥律師戒行経部16巻 以上全部で108 巻、1055件作品から構成されている。現存するモンゴル語『ガンジ ョール』は、北京図書館、中国民族図書館、内モンゴル図書館、内モンゴル社会科学院 図書館、内モンゴル大学図書館とチベットのポタラ宮にそれぞれ108巻一揃えが所蔵さ れている。 モンゴル語訳ガンジョールの新版が完成後、ダンジョールのモンゴル語訳と刊行が緊 急の課題として強く要請されていた。そこで乾隆皇帝の勅命によって、乾隆7年(1742 年)にザンギャー·ホトクト二世·ロルビドルジが、蔵蒙対訳辞典『翻訳名義集』を完成 させ、また、モンゴル語訳ダンジョール編纂の軌範書である『諸賢者の源泉となる名を 持つ軌範語辞書』35が相次いて出版された。そして、ザンギャー·ホトゴト二世·ロル ビドルジとロブサン·ダンビ·ニマを中心とするモンゴルの仏教界の高僧たちの努力で、 乾隆七年から十四年まで8年かけて、モンゴル語木版ダンジョールの翻訳と刊行がおこ なわれた。その底本は1724年北京版チベット・テンギュルである。このモンゴル語訳 ダンジョールは225巻であり、収めた作品が3861種類にのぼる。

まとめ

本章において著者は、モンゴル大蔵経について歴史的背景、内容に基づいてモンゴル 大蔵経の成立を明らかにしょうとした。その結果、以下のような二つの系譜を明らかに することができた。 ①リグデン・ハーン時代に成立したモンゴル・ガンジョール113 巻はチベットで 1431 年に成立したテンパンマ写本カンギュルに遡るものであり、1351 に成立したツェルパ 写本カンギュルの流れを汲む北京版のモンゴル・ガンジョールとは別系統であることを 明らかにした。特に第二次仏教弘通において重要な役割を果たしたトゥメド・トゥメン とチャハル・トゥメンにおいて重層的に成立したことは、モンゴル大蔵経がいかに重要 視されたかを証明している。 ②康熙帝の勅令によって開版された 108 巻モンゴル・ガンジョールは、リグデン・ ハーン時代に成立した、113 巻モンゴル・ガンジョールを底本とした。しかし、その改 訂と編纂にあたって、旧系統であった経典を削除し、新たに新系統の北京版チベット大 蔵経のモンゴル語訳を加えた。そのため、リグデン・ハーン時代に成立したモンゴル・ ガンジョール 113 巻はモンゴル大蔵経の形成過程を考える上で重要な情報をもつ文献 といえる。

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20 1 Coyiji 1983, p. 17『元史』巻十六、三五四頁。『元史』巻十一、八頁。『元史』巻百三十四、八九頁。『元史』巻三十四、八十九頁。『元史』巻十五、四五一頁。Coyiji 1998, p. 32 宝力高 2012, p. 87第二次弘通期において、1592 年にトゥメドのアルタン・ハーンが出版した『聖吉祥真実名経』の梵・ 蔵・蒙・漢合壁版本が最も古い日付を有するものである。 10 W. Heissig 1976, p. 13

11 'Phags pa gser 'od dam pa mchog tu rnam par rgyal ba'i mdo sde'i rgyal po theg pa chen po'i mdo,

tr.by Chos grub(法成),P No.174,漢訳(義浄訳『金光明最勝王経』十巻 大正十六・四〇三上-四五 六下)よりの重訳。Mong.QutuG-tu degedU altan gerel-tU masi teyin bOged ilaGuGsan sudur-nuGud-un qaGan neretU yeke kOlgen sudur, P No. 176

12 'Phags pa gser 'od dam pa mdo sde'i dbang po'i rgyal po zhes bya ba theg pa chen po'i mdo,tr.by

Jinamitra,Silendrabodhi,Ye shes sde,P No.175;Mong.QutuG-tu degedU altan gerel-tU sudur-nuGud-un qaGan neretU yeke kOlgen sudur, P No. 177

13 'Phags pa gser 'od dam pa mdo sde'i dbang po'i rgyal po zhes bya ba theg pa chen po'i mdo,P

No.176;Mong.QutuG-tu degedU altan gerel-tU sudur-nuGud-un qaGan neretU yeke kOlgen sudur, P No. 178

14 A. TUmen&Carkim-a 2001, p. 15 15 内モンゴルのトゥメト部長。中国資料では俺答汗と表記される。バルス・ボラトの長子として生まれ、 その死後、トゥメト部を継承した。16 世紀半ばより、しばしば明の北辺に侵入し、明から恐れられた。 また同族のチャハル部を圧迫して、これを遼東辺外に追った。のちにこれと和解し、ダライスン・ゴ デン・ハーンからシト・ハーンの称号を得て、内モンゴル最大の実力者となった。1550 年 8 月にア ルタンは、明との正式な交易を求めて、北京を3日間包囲した。 16 三世ダライ・ラマ(1543 年-1588 年)は、第 3 代のダライラマ略名はソナムギャムツォという。モン ゴルのアルタン・ハーンは、青海へ遠征した際にチベット仏教に感銘を受けた。そして、青海でゲル ク派の転生僧であるソナム・ギャツォと面会し、転輪聖王号を授かった。一方で、ソナム・ギャツォ はアルタン・ハーンから「ダライラマ」という称号を贈られた。従って、彼はダライラマ三世とされ るが、この称号を用いた最初の人物である。 17 ハイシッヒ 1967, p. 157 18 吉田1998, p. 203 19 Касъяненко1993, p. 159 20 ナムタイ・セチェン・ハーンの長子である晁兎太子の長子。1607 年ナムタイ・セチェン・ハーン死亡 のさいに、父の晁兎太子はすでに亡くなっていた。ナムタイの死後、1611 年にジュンケン・ハトン との結婚が成立し、1611 年 6 月に第四代順義王に封ぜられた。 21 岡田2004, p. 244 22 岡田 2004, p. 245 23 岡田 2004, p. 246 24 Coyiji 1991, p. 110 25 Coyiji 1991, p. 111 26 ハイシッヒ 1967, p. 159 27 ハイシッヒ 1967, p. 168 28 20 を参照。 29 ハイシッヒ 1967, p. 219

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21 30 アルタン・ハーンとダライ・ラマの会見は 1578 年、旧暦 5 月 15 日、青海のチャブチャルにおいて行 われ、ソナム・ギャムツォはアルタンに対して仏法を説き、シャマニズムの放棄、僧侶に対する暴力 の禁止などを求めた。アルタンはこれに応じ、ゲルク派の施主となることを表明し、ソナム・ギャム ツォにダライ・ラマ(三世)の称号を贈った。 31 注 18 を参照。 32 Coyiji 1991, p. 110 33 宝力高 2012, p. 184 34 オーダム2011, p. 945 35 仏教学全般にわたって仏教用語の語義をチベット語・モンゴル語対訳形式で説明したもの。ジャンジ ャ・ホトクト・ロルビドルジがシレート・ロブサンダムビニマの協力を得てチベット語原文を著し、 20 人以上の学僧が 1741 年から 1742 年にかけてモンゴル語に翻訳した。

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第二章 モンゴル語訳『八千頌般若経』の成立

『八千頌般若経』は紀元前一世紀インドに成立し、現在サンスクリット・チベット語 訳・モンゴル語訳・漢訳のテキストが多数存在している。サンスクリット文校訂テキス トはすでに三種類刊行されており1、チベット訳は北京・デルゲ版をはじめとした版本 と写本が多数現存し、また漢訳は七種類2が現存している。 モンゴル語訳は四種あり、モンゴルでは本経を読誦することによって、重要な年に多 幸をもたらすとともに、種々の災いを降伏すると信じられ、最も重視されている経典の 一つである。本章においては、モンゴル仏典翻訳史における『八千頌般若経』の成立に ついて述べることとする。 モンゴル語の大蔵経は一般的に大きく四つの段階を経て翻訳と出版が行われたとさ れている。すなわち、元朝時代と北元時代のアルタン・ハーンとその後継者たちの時代 に行われた翻訳事業である。同じく北元時代のリグダン・ハーンの勅令によって行われ た翻訳事業であり、そして清朝時代などの四つの段階を経て成立した。モンゴル語訳『八 千頌般若経』は主に北元から清朝にわたって翻訳、編纂、校正されたと考えられる

第一節 コペンハーゲン写本『八千頌般若経』奥付

コペンハーゲン王立図書館所蔵のモンゴル関係の文献は568 点にのぼる。それらは、 スウェーデン人ヘニング・ハスルント・クリステンセンの指揮によるデンマーク王立地 理学会の第二回中央アジア探検の際に、主として内モンゴル南部で収集したものである 3。以下はその中に所収されている写本『八千頌般若経』(MONG. 481, MONG. 482)4 の奥付である。

degedU boGda nom-un qaGan-u altan aci-inu:delgernggUi-e sajin-i ene jUg-tUr geyigUlUgci:degere Ugei buyan-i masida delgeregUlUgci:delekei tebcigUlUgsen buyan dayun secen qaGan kiged:caGlasi Ugei erdem bilig tegUsUgsen cu aldar-inu qamiG-a boluGsan:caG dara bodhi sadun-iyan qubilGan inu:caG Ugei buyan-tu jOnggin qatun-u duradduGsan-iyar:ene naiman mingGan sudur nom:endel Ugei uqaGan bilig tegUsUgsen:esergUlcen asaGuGsan-dur emiyel Ugei UgUlegci:erdem-Un sang boluGsan:diduGba gabcu lama-luG-a:durGar ombu snagbova baGsi:brasi baGsi GurbaGula

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UgUleltUn salbilcan:tObed-Un kelen-ece mongGul-un kelen-dUr orciGlbai

和訳:聖なる法王の恩恵が、弘通する教法を明かし、無上の善を完全に広めた、世 界を制圧したブヤン・セチェン・ハーンと、無量の徳を成就して名を広めたカ-ラ タ-ラ菩薩の化身、永遠の福であるジュンゲン・ハタンの提示により、この『八千 頌般若経』をディドッバ・ガブチュ・ラマとドルガル・オンブ・ノーボ師及びラシ 師の三人が論じ合って訂正し、チベット語からモンゴル語に翻訳した。 1480 年に、大モンゴル国の太祖チンギス・ハーンの第十五代目に当たるダヤン・ハ ーンが即位し、モンゴルを六つのトゥメン(六万戸)に分割して諸子に与えた。その六 トゥメンのモンゴルは、東西すなわち左右に区分され、東(左翼)は、チャハル、ハル ハ、オリヤンハンの各トゥメンからなり、西(右翼)はオルドス、トゥメド、ユンシェ ーブの各トゥメンからなる。そのなかでチャハル部はハーンの正統を継承し、主流派を 以って任じた。 チャハル・トゥメンが仏教に帰依したのはトゥメン・ジャサクト・ハーン(1539- 1592)の時代と考えられる。モンゴルの政教史の年代記『蒙古源流』に、「トゥメン・ ジャサクト・ハーンは三十八歳の丙子の年(1576 年)に、腰刀を結ぶカルマ・ラマと 会い、仏法の門に入って、六万人隊を集め、大政令を伝え示した」と記されている5 うに、この頃仏教が普及し、モンゴルの国教となったことを示している。 本奥付に登場するブヤン・セチェン・ハーンはトゥメン・ジャサクト・ハーンの息子 であり、モンゴル最後の大ハーンであるリグデン・ハーンの祖父に当たる人物である。 『蒙古源流』によると、トゥメン・ジャサクト・ハーンの年長のブヤン太子は、乙卯の 年(1555 年)に生まれて、三十九歳の癸巳の年(1593 年)に帝位につき、セチェン・ ハーンとしてあらゆる方向に有名になって、仏法と政道をもってすべての国民を安楽に させ、四十九歳の癸卯の年(1603 年)に亡くなった6。奥付に登場する翻訳官がブヤン をハ-ンと称えていることから、本経がモンゴル語に翻訳されたのは1593 年から 1603 年の間と考えられる。 チャハル・トゥメンはトゥメン・ハーンの時より仏教の輸入にあたり、ブヤン・セチ ェン・ハーンの時には仏典を翻訳するなど仏法をさらに弘通させた。『蒙古源流』によ ると「リグデン・ハーンは殊に熱心な仏教信者であり保護者であって、数回にわたりラ マより密教の灌頂を受け、釈迦牟尼の堂塔伽藍を建立した」と記している7。このよう にリグデン・ハーンの家柄は曽祖父の時から仏教色が非常に濃厚ということが明らかで ある。

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第二節 シレート・グーシ・チョルジの訳

シレ-ト・グ-シ・チョルジ(siregetU gUUsi corji)はダライ・ラマの直弟子として、16 世紀の後期すなわち、トゥメドのアルタン・ハーンとその後継者の時代に大いに活躍し た大翻訳者である。モンゴル語史料にはまたシディトゥ・ガブチュ(siditU gabcu)、シ レート・バンディタ・グーシ・チョルジ(siregetU bandita gUUsi corji)、ウルルグ・シレ ート・バンディタ・グーシ・チョルジ(OrlUg siregetU bandita gUUsi corji)、シレート・グー シ・マンジュシリ・バンディタ・チョルジ(siregetU gUUsi manjusiri bandita corji)など様々 に記されている。1578 年にダライ・ラマ三世に従ってモンゴルに来て、1585 年にダラ イ・ラマ三世の命をうけてアバタイ・ハーンとともにハルハ・モンゴル(現在のモンゴ ル国)に行った。1588 年ダライ・ラマ三世の死後、1600 年から 1602 年の間に、トゥメ ドの第三代順義王ナムタイ・セチェン・ハーン(チュルゲ)とジュンゲン・ハトンなど の命によってチベットに赴き、四世が転生者か否かを判断するためチベットからラマを 招いた。1602 年から 1607 年まで、ナムタイ・セチェン・ハーン、ジュンゲン・ハトン、 オンボ・ホン・タイジの命によってアユーシ・グーシ(ayusi gUUsi)など三トゥメン(右 翼)の翻訳官や賢者とともに百八巻のガンジュ-ルをモンゴル語に翻訳する8など当時 のモンゴル仏教界において著しく活躍した。そして、彼が広・中・略三種の般若経をモ ンゴル語に翻訳したことがモンゴル史書にしばしば記されている。 『般若経』には、広・中・略般若と総称される、『十万頌般若経』9『二万五千頌般若 経』10『八千頌般若経』の三つがある11『イシバルジル仏教史』に、尊者ダライ・ラ マの実弟子なるフフホトのバンディタ・シレ-ト・グ-シ法王が広・中・略三種の般若 経をモンゴル語に翻訳したと記されている12。またその翻訳年代について『アルタン・ ハーン伝』には、黒い辰年(1593)から白い子年(1600)に至るまでに訳したと記さ れている13。しかし、彼が訳した広・中・略般若経は完全な形で今日まで伝わってい ない。つまり、中の『二万五千頌般若経』と略の『八千頌般若経』が伝わらず、広の『十 万頌般若経』のみが現存している。 ではシレート・グーシ・チョルジが訳したとされる『十万頌般若経』の奥付を検討し て見てみよう。奥付には、チンギス・ハーン、フビライ・ハーン、フルグ・ハーン時代 に仏教が弘通したことを述べ、また、アルタン・ハーンの仏教導入を大いに讃えた。さ らに、次のような文章が続いている。

buyan-tu dayun secen qaGan-u ene caG-tur:caGlasi Ugei olan mongGul ulus irgen-i:cayilGaju erdeni Sasin nom-ud-i delgeregUlkUi ba:caGan degedU buyan-u mOr-tUr oruGulqui-yin tula:caqar tUmed-U nom un dayicing amutai bingtu qung tayiji noyan::tegUs buyantu uran secen qungsu qatun qoyaGula:delgernggUi arban qoyar debter-tU bilig baramaid-i: dabtan ulam ulam orciGul kemen duraduGsan-iyar tengsel Ugei mongGul

参照

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