ケインズ主義から新自由主義へ
- 一九七〇年代の経済危機とフランスの転進
日] 漢 はじめに 第 一 章 対 外 通 貨 政 策 の 転 換 ( 一 九 七 五 年 ) l 変動相場制の容認 - 仏米通貨協定 二 欧州「経済通貨同盟」 への新たなアプローチ権
上
康
男
国庫局長ラロジエールの覚書 第二葦 第七次プランと経済政策理念の転換 (l九七二∼七六年) 一 マネタリズムと通貨目標値 - フランスに特殊な事情 二 第 七 次 プ ラ ン 「 通 貨 ・ 物 価 ・ 成 長 小 委 員 会 」 に お け る 論 争 ケインズ主義から新自由主義へ 1- 「失業」と 「インフレ」 のいずれの問題を優先すべきか 三 第七次プラン ー 新自由主義的構造政策と欧州「経済通貨同盟」建設 第三章バール・プランへの道 二九七四と七六年) 一石油危機後のフランスの経済政策 - ケインズ主義的総需要管理政策 二 バール不在のバール・プラン (一九七六年五-八月) 三 新自由主義者レイモン・バール 第四章 バール・プラン (一九七六-七九年) 一 バール・プラン ー フランス版「社会的市場経済」 二 バ ー ル ・ プ ラ ン の 展 開 - 「 社 会 合 意 」 と 構 造 改 革 第 五 章 第 八 次 プ ラ ン ト 新 自 由 主 義 宣 言 一応用通貨研究小委員会の報告 二 金 融 委 員 会 の 報 告 - 「 ユ ニ バ ー サ ル ・ バ ン キ ン グ 」 へ の 漸 進 的 移 行 三 第八次プランの戦略 結 語 1 戦 後 経 済 史 の 大 転 換 2
はじめに
一九六〇年代から七〇年代中葉までのフランスの経済政策は'その後の時代と比べるならば'国際領域においても 国 内 領 域 に お い て も 特 異 と i i n n っ て も よ い ほ ど 個 性 的 で あ っ た O 国際領域ではフランスの政策はドル支配への挑戦を軸に組み立てられていた。周知のように一九六〇年代には、フ ランスはドゴール大統領のもとで、プレ-ンウッズ体制は金為替本位制の原則に忠実に運用されるべきだと主張し、 ドルを一介の国民通貨の地位に押し下げようとした。次いで六〇年代末にブレーンウッズ体制が動揺Lへ アメリカ合 衆国が為替変動幅の拡大、さらには変動相場制への移行に向けて動くようになると、今度は固定相場制の維持で欧州 諸国の合意をとりつけ'この超大国に圧力をかけた。一九七〇年二一月に締結されたスミソニアン協定はそうしたフ ランスの努力の結果であった。 欧州に地域を限定すれば'一九七〇年代におけるこの地域の中心的な課題は'通貨統合 - 欧州共同体内の一般的 用語法では 「経済通貨同盟」 - に向けて経済統合を前進させることであった。一九七〇年一〇月には'欧州閣僚理 事会のもとに設置されたヴエルネル (ウェルナー) 委員会が経済通貨同盟建設のための工程表をまとめた。それは、 三つの段階を踏んで一九八〇年までにこの同盟を完成させ'最終段階で単一通貨を導入するというものであった。ヴ エルネル報告にたいするフランスの姿勢は次の三点に整理できる。第一に'単一通貨が導入される最終段階はあくま でも目標であって'現実の課題とは見ない。第二に'実際に取り組むのは第一段階(軽微な縮小変動相場制としての 欧州通貨協力制度「スネイク」 の発足を含む) にとどめる。第三に、それゆえマクロ経済政策の中央決定機関の設置 3に代表される「制度問題」は検討の対象としない。こうしたフランスの姿勢は'最終段階を現実の課題と見て、「制 度問題」 に最優先に取り組むべきだとする他の諸国'なかでもドイツと真っ向から対立するものであった。一九七〇 年二一月に開催された欧州閣僚理事会は経済通貨同盟建設の工程表をめぐって大混乱に陥ったが、その原因はこうし ( -) たフランスの腰の引けた'しかも固い姿勢にあった。 一方、国内経済政策を見れば'戦後フランスの政権は最強の工業国(西) ドイツに追いつき追い越すことを政策目 標の中心に据えていた。この目標に近づくために'フランスの公権力は国有企業や準公的金融機関(この金融機関に ついては本論で立ち戻る) を介して投資や経済運営に深く関与するとともに'経済活動にさまざまな規制の網をかぶ せた。かくてフランスの市場は統一性を欠き、いちじるしく分節化することになった。また、介入政策の総括的な帰 結として'フランス経済は常にインフレ状態にありへ国民通貨フランは弱い通貨の代名詞になっていた。このような ヴ 工 ル チ ユ ( 2 ) 現実を反映して'フランスにはインフレを「徳業」 であるかのように見る風潮すら生まれていた。一方のドイツは 「 社 会 的 市 場 経 済 」 ( S o z i a l e M a r k t w i r t s c h a f t ) の 名 の も と に 新 自 由 主 義 的 政 策 - た だ し 、 市 場 経 済 と 社 会 と の 調 和 r o l に配慮した大陸欧州型の新自由主義的政策 - を遂行Lt安定した物価と強いマルクのもとで成長をとげていたか ら'フランスの経済政策は隣の大国ときわだった対照をなしていた。 容易に想像できるように、以上のようなフランスの対外政策と国内政策は相互に分かちがたく結びついていた。世 界レヴエルで固定相場制が維持されればスネイクの維持は容易であり、欧州「共同市場」 の機能が大きく損なわれる こともない。よって経済通貨同盟の建設を急ぐ必要もなくなる。そうなれば'強いマルクにフランが引き寄せられる ことはなくなり'弱いフランのもとで従来どおりの成長政策をつづけられる。また、欧州共同体 (以下'共同体と略 記) の諸機関への国家主権の移譲という、自らが危険視する問題に正面から向きあわなくてもすむ。要するに'プラ 4
ンスの関心は基本的に国際通貨問題の行方に向けられていたのであり、この国が経済通貨同盟の建設に応じたのはそ れ自体に意義を認めたからではなく、超大国アメリカに圧力をかけるための手段として欧州の結束を必要としたから ( 4 ) なのである。 しかし'フランスは一九七五-七六年を境に伝統的な政策を全面的に転換する。変動相場制を受け入れるとともに' 物価と通貨の安定を最優先する政策に国内政策を切り替えたのである。この国の政策は欧州経済ならびに世界経済の 枠組みをめぐる問題と深く結びついていただけにへ その変更はフランス自身にたいしてのみならず'欧州'さらには 世界の将来にたいしても重要な影響を及ぼすはずであった。 では、フランスの劇的とも言える政策転換はどのような歴史の文脈のなかで'どのようにして選択されたものなの か。時代が新しいことからこれらの問題に関する歴史研究は事実上存在せず、またその他の情報源もかぎられている。 しかし幸いなことに'ジョルジュ・ボンピドゥIとヴァレリー∴ソスカールデスタンの二代の大統領府文書と経済・ 財務省文書は利用可能である。本稿は、これらの良質な公的歴史文書に依拠しっつへ いわばフランスの国家権力の中 枢部から'未開拓の領域に歴史研究の光をあてようとするものである0
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r 変動相場制の容認 - 仏米通貨協定 欧州の結束を背景にアメリカに圧力をかけ、固定相場制を守らせる このフランスの戦略には、たしかに一九七 三年末までは現実味があった。ドイツは'自国通貨マルクが他の諸国通貨に比べて圧倒的に強かったために'一九五 5〇年代から投機的資金の大量流入に悩まされてきた。それだけにこの国には'経済大臣カール・シラーを筆頭に変動 相場制への早期移行を主張する論者が少なくなかった。しかしこのドイツも、フランスがスネイクにとどまり'共同 体が安定通貨圏として有効に機能している間はフランスの戦略に異を唱えなかったからである。 しかし一九七三年春の国際通貨危機、次いで同年末の石油危機'そしてその後の景気後退と、相次いで大規模な変 動が欧州経済を見舞うようになると'事態は一変する。欧州諸国の間には国際通貸問題への対応をめぐって亀裂が広 がる。弱い通貨国が自国の通貨を操作し危機克服を図ろうとしたからである。まずイタリア、イギリス'アイルラン ドがt T九七三年四月に発足した再編スネイク (いわゆる「空中のスネイク」) に参加しなかった。1九七四年一月 にはフランス自身も'スネイクを離脱してフランの単独プロ1-に移行することを余儀なくされる。こうしてスネイ クは'ドイツとその経済的衛星諸国からなる「ミニスネイク」 へと後退した。欧州諸国の結束の証になるはずだった スネイクが、反対に欧州の分裂を象徴する存在になったのである。 以後、固定相場制に固執するフランスは次第に国際的に孤立する。一九七二年八月にIMF理事会は「二〇カ国委 員 会 」 ( G g r o u p e 2 0 ) を 設 置 し 、 こ の 委 員 会 に 国 際 通 賃 制 度 改 革 案 の と り ま と め を 委 ね た . 1 年 後 の l 九 七 三 年 九 月 のナイロビ会議では'「調整可能で安定的な平価制度」 (oァ委員長素案) というのがこの委員会の最大公約数的見解 であったが、翌一九七四年六月のワシン-ン会議では固定相場制維持論は少数派に後退した。ドイツは変動相場制の 容認に決定的に傾き、他の欧州諸国もドイツに同調するようになった。さらに一九七五年の夏になると、フランスは 欧州諸国から固定相場制維持の主張を放棄するよう強-迫られる。同年八月二日の欧州通貨委員会では'デンマー クのような小国の代表ですら、アメリカが固定相場制復帰を固く拒んでいる現状ではフランスの主張は非現実的であ り、変動相場制の容認はやむをえない選択であると、公然と発言したO フランスは変動相場制容認派によって完全に 6
包囲されたのである。この日の会合でかろうじてフランスの代表にできたのは'秋の閣僚理事会まで結論を先送りす ( 5 ) ることだけであった。共同体加盟諸国は一九六四年四月一三日の閣僚理事会決議によって'国際通貨政策をめぐる決 定に関しては緊密に協調することを約束していたから、フランスにはもはや名誉ある撤退の道しか残されていなかっ ( 6 ) た。 こうしてフランスは、一九七五年二月のランブイエ・サミッ-の前夜にアメリカと秘密交渉を行うことになる。 そして、サミッ-当日の二月1七日にアメリカと協定を結びt IMFの規約を改正し、為替制度を自由選択性にす ることに同意した。この仏米通貨協定をうけて、翌一九七六年一月にキングズーン (ジャマイカ) で開かれたIMF ( 7 ) 暫定理事会においてIMFの規約改正が決まり'変動相場制が公式の制度として認められた。 世界固定相場制の維持はフランスの対欧通貨政策ならびに国内握済政策の前提をなしていただけに'変動相場制の 容認はこの国の伝統的政策の見直しにつながるはずであった。 二 欧州「経済通貨同盟」 への新たなアプローチ ー 国庫局長ラロジエールの覚書 対欧通貨政策の変化の兆しは、すでにフランスが変動相場制を公式に容認する以前から現れていた。 1 九 七 五 年 七 月 二 日 へ 経 済 財 務 省 ( 以 下 へ 財 務 省 と 略 記 ) 国 庫 局 長 ラ ロ ジ エ ー ル ( J a c q u e s d e L a r o s i e r e ) が 「 経 済 ( 8 ) 通貨同盟の将来についての考察」と題する覚書を作成し'大統領府に提出した。この覚書は、財務大臣ジャン-ピエ ール・フルカードが大統領ジスカールデスタンの求めに応じてラロジエールに作成させたものである。経済通貨同盟 の将来をあらためて問うわけであるから、国庫局長による覚書の作成は、フランスが対外政策の軸足を「世界」から 「欧州」に移し'経済通貨同盟問題に正面から取り組む予兆と見ることができる。 7
この覚書でラロジエールは、まず、経済通貨同盟をめぐって悲観論や懐疑的な見方が広がっている現状を問題にす る。彼はこの背景に経済通貨同盟にたいする偏った理解があると言う。それは、同盟は 「急激な制度変更」をつうじ て実現されるものであるから'各国は同盟建設の最終段階を受け入れる「政治的決断」を事前にしておかねばならな いというものである。ドイツやベネルクスが 「事前に政治を組織化し制度を変更すること」を主張するのは'まさに こ の よ う な 理 解 に 立 つ か ら で あ る 。 l 九 七 五 年 の 春 に 、 欧 州 委 員 会 の 前 副 委 員 長 マ ル ジ ョ ラ ン ( R o b e r t M a r j o l i n ) の 主宰する委員会が欧州委員会に報告書を提出しているが'この報告書も同じ考え方に立っている。実際、この報告書 は経済通貨同盟を、「各国政府が通貨政策および経済政策の運用を共同の諸機関に移譲Ltそれらの政策が共同体全 す) 体で実施されるようになること」と定毒づけている。明らかにこの文書は、経済通貨同盟を「国家主権の移譲」と同 一視している。もとよりこのような理解に合理的根拠のあることはラロジュールも認める。しかし彼は'政府が「完 壁に超国家的な同盟への移行」を決断しなくても「共同体の通貨組織に関して本質的な進歩を達成することは可能で あ る 」 と L t こ の 「 急 進 的 な 」 ア プ ロ ー チ を 除 け る 。 次にラロジュールは'経済通貨同盟の完成は三つの理由からフランスの国家目標にも適っているという。第一にへ 同盟が完成すれば'外国貿易の主要な部分が固定相場で決済できるからである。第二に、同じく同盟が完成すれば、 域外にたいして共同体は「統一的な国際収支をもつ均質の単体」になるからである。そうなれば'財貨・役務および 資本の域内取引が増え、欧州諸国は単独でとどまるよりも安定した環境のもとにおかれる。その結果、欧州通貨がド ルに部分的に代替し、「欧州がアメリカの通貨政策の好ましくない結果から保護されるようになる」。 残る第三の理由は制度に関係している。経済通貨同盟の 「制度問題」はフランスにとって悩ましい問題だっただけ に、ラロジュールはこの第三の理由に紙幅の多くを割いている。以下にその要点を紹介しよう。 8
欧州諸国の経済構造はあまりにも違いすぎるから、経済通貨同盟の建設が進んでも国ごとの政策の違いは残らざる を得ない。したがって、「単一の通貨・経済政策決定センターが現行の諸国家に取って代わり'共同体全体にたいし て古典的なマクロ経済手段を 二律に︺ 用いることは不可能である」ということになる。とくにマネーサプライと予 算収支は国ごと大きく異なっているために、「欧州政策の決定は'欧州を対象とする単一の政策の抽象的決定という ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ よりは、各国の必要の突合せというかたちをとらざるを得ない」 (傍点は引用者)。それゆえラロジュールは'経済通 貨同盟の建設にともなって生じる制度面の変化は 「言われているほど厳しいものには必ずしもならない」 と言う。し かし'だからといって共同体に政治・経済権力が不要なわけではない。ラロジュールが問題にするのは、共同体の内 部に生まれるこの権力も「各国の政治・経済権力のレベルで存在しっづけるとみられる目標や制約を抜きにしては考 えられない」 ということである。この点に着目すれば、現実には、「共同体の諸機関が各国で機能している現行の諸 機関と同じものになることはあり得ない」ということになる。 では'将来の共同体の諸機関はどのようなものになるか'またそれらの機関と各国の諸機関の間にどのような関係 が成立するのか。ラロジエールは、予測は不可能であるとしつつも通貨権力についてだけはこう明言する ー それは 「 現 行 の 発 券 機 関 の 消 滅 後 に 創 設 さ れ る 単 一 の 中 央 銀 行 と い う よ り も 諸 中 央 銀 行 の 同 盟 u n e f e d e r a t i o n d e s b a n q u e s c e n t r a l e s ) に 近 い も の に な る だ ろ う 」 ' ま た そ の よ う な 機 関 で あ れ ば 「 フ ラ ン ス の l 般 な 国 家 目 標 に 合 致 す る 」 と . ( S ) 以上のような制度問題に関する考察を補強するために'ラロジュールは国庫局内で作成された長文の覚書を参考 資料として自身の覚書に添付している。この添付覚書では、経済通貨同盟の建設が進むにつれてどのような権限が共 同体に移譲されることになるのか'また、共同体の機関と各国の国家機関の間にどのような権限の補完関係が成立す ることになるのかが、詳細に分析されている。ちなみに、この分析を貫く考え方は一九八七年のマース-リヒ-条約 9
に 盛 り 込 ま れ た こ と で 知 ら れ る 「 補 完 性 原 則 」 ロ n i p -e o f s u b s i d l a r i 旦 そ の も の で あ る 。 ところで、経済通貨同盟の建設をめぐる微妙でかつ困難な問題は為替相場の変更ができなくなることにある。経済 構造や経済政策の収敵が進んでいない段階で為替平価を固定すれば'共同体の対域外為替相場水準の決定をめぐって 強い通貨国と弱い通貨国の間に争いが生れる。また'経済通貨同盟が完成した段階においても域内諸国間における国 際収支の概念は残るから'域内諸国間で国際収支不均衡が生じることは避けられない。これらの問題を解決するには 域内信用制度の整備が不可欠であり、また域内諸国の経済社会構造を相互に近づけるための投資支援や地域政策も必 要になる。したがってラロジュールは'同盟の完成には相当の年月がかかり、それまでは為替平価の変更を認めざる を得ないと言う。 以上からラロジエールは次のような結論を導く。いずれにせよ、経済通貨同盟の建設には「プラグマティックで漸 進的なアプローチ」が望ましい。また、このようなアプローチであれば、ドイツやベネルクスのように「真の前進を 望んでいる加盟諸国」も興味を示すであろうLt イギリスのように 「将来における自由の放棄を意味する一切の動き に反対している加盟諸国」も安心して協議に応じるであろう。 ラロジュール覚書は'一九七六年一月にベルギーの首相レオ二丁インデマンスが欧州首脳会議に提出することにな る報告と重なる部分が多い。一方、その後の欧州通貨統合の歴史と重ね合わせるならば、この覚書には先見性があっ たといえる。 ラロジエール覚書にジスカールデスタンがどう反応したかは明らかでない。しかし、覚書の内容がその後の政府の 対欧政策の基本的要素になったことは、翌一九七六年七月に成立する第七次プランから見て疑う余地がない。次章で 明らかになるように、このプランには経済通貨同盟にたいするきわめて積極的な姿勢が示されているからである。 10
第二章 第七次プランと経済政策理念の転換二九七二-七」ハ年)Iケインズ主義から新自由主義へ
国内経済政策路線の転換は、一九七六年から八〇年までの五年間を対象とする第七次プラン1正式名称は「第七 次 経 済 社 会 発 展 計 画 」 ( 7 e P l a n d e d e v e l o p p e m e n t e c o n o m i q u e e t s o c i a l ) とその準備過程に'いち早く鮮明なかた ち で 現 れ る 。 フ ラ ン ス で は 1 九 四 七 年 か ら 「 モ ネ ・ プ ラ ン 」 ( P l a n M o n n e t ) で 知 ら れ る 五 力 年 計 画 が 採 用 さ れ て い た が 、 プ ラ ンの性格は戦後復興の終了とともに大きく変わるoとくに1九六〇年代に入ってからは'プランはいわゆる「柔軟な : e 円 プラン」に姿を変え、「長期戦略の手段」という性格を強く帯びるようになる。それだけにプランは、フランスの経 済政策理念の変遷を伝える情報源として貴重である。 第七次プラン法案は1九七六年四月二一日に閣議決定されたあと'五月1九日に経済社会審議会の承認を得たOそ して七月一日に上院、七月八日に下院をそれぞれ通過し成立する。この法案の準備段階で中心的な論点になったのは 通貨目標値の導入問題である。 一 マネタリズムと通貨目標値 - フランスに特殊な事情 ミルーン・フリードマンの提唱する経済学説「マネタリズム」は、一九六〇年代後半から、インフレに悩む欧米諸 国の経済諸官庁の強い関心を集めるようになる。フランスも例外ではなく'計画庁、財務省経済予測局、同省国立統 計 経 済 研 究 所 ( -z c o h w ) 、 応 用 経 済 学 研 究 所 ( h -, C / } W < ) ' フ ラ ン ス 銀 行 経 済 研 究 総 局 な ど の 国 家 機 関 で ' 理 論 研 究と実証研究が進められた。なかでも計量モデルを使った実証研究で重要な役割を担ったのはフランス銀行である。 ill同 行 で は 1 九 六 九 年 に 経 済 研 究 総 局 の な か に 「 計 量 経 済 室 」 ( b u r e a u e c o n o m e t r i q u e ) が 創 設 さ れ ' こ の 部 署 が 研 究 の中核を担った。マネタリズムに着想を得た国民経済の計量モデルとしてはセン-ルイス連邦準備銀行の手になる 「セントルイス・モデル」がすでに知られていたが'計量経済室は早くも一九七二年に、このモデルに倣って 「フラ ンス・モデル」を構築する。また、これと併行して'フランスでも中期については、GDP成長率とM2成長率の間 ( 3 ) に顕著な相関関係が認められることを、過去にさかのぼって確認する。そして一九七三年からは'非公式ながら年度 ごとに通貨目標値を設定し、通貨政策の運営に利用するようになる。 このようなマネタリズムにたいするフランス銀行の積極的な姿勢には、フランスに特殊な事情が深くかかわってい たO フランスの中央銀行はl八〇〇年の創設から1貫して'政策 (介入) の軸足を手形割引を介した信用の選別・配 分においてきた。しかし一九六〇年代の半ば以降、この伝統が根底から問い直されることになる。それは二つの事情 によるものであった。 第 l は 、 イ ン タ ー バ ン ク 市 場 と し て の 「 貨 幣 市 場 」 ( m a r c h e m o n e t a i r e ) に 生 じ た 変 化 で あ る . ア ン グ ロ サ ク ソ ン 諸国と遠い'フランスの貨幣市場はいちじるしく狭院で'しかも中央銀行の割引歩合 (固定金利) によって間接的に ( 1 3 ) 統制される事実上の 「中央銀行市場」 であった。つまり、「割引の付属物」とも呼べるような'きわめて限定された 役割しか果たしていなかったのである。しかし為替と資本取引の自由化が進むにつれて、貨幣市場は海外の諸市場や ユーロ市場の影響を強くうけるようになり、割引歩合による統制が及びにくくなる。このため、フランス銀行は一九 ( 3 ) 六六年以降'「好ましからざる」 あるいは 「不適切な」外資の流出入を抑える必要から'この市場に頻繁に介入する ( 1 5 ) ようになる。こうして貨幣市場はフランスの歴史上初めて'自立した市場として機能するようになったのである。一 方 ' 貨 幣 市 場 へ の 介 入 の 重 要 性 が 増 す に つ れ て 、 フ ラ ン ス 銀 行 は 創 業 以 来 「 信 用 政 策 」 ( p o l i t i q u e d u c r e d i t ) と 呼 ん 12
( S ) で き た 自 ら の 政 策 を 「 通 貨 政 策 」 ( p o l i t i q u e m o n e t a i r e ) と 呼 ぶ よ う に な る . 第二は'戦中から戦後にかけて形成されたフランスに独自な信用供与および通貨発行の仕組みである。それは、川 ( S ) 「 国 民 信 用 評 議 会 」 ( C o n s e i l N a t i o n a l d u C r e d i t ) と い う 国 家 機 関 が 信 用 政 策 と 信 用 条 件 の 大 枠 を 決 め 、 中 央 銀 行 が そ の枠内で自らの信用政策を実施する、佃したがって通貨発行は信用政策の結果として実現する、あるいは通貨発行量 は中央銀行が設定する信用条件(経済部門ごとに異なる政策金利'金融機関ごとに設定された再割引上限枠など) の 変更によって調節される、というものであった。この制度のもとでは経済政策の実現が優先されることから'戦後の フランスでは通貨の増発が恒常化し経済は慢性的なインフレ状態を呈することになる。インフレの源を断つこと、そ のために中央銀行の介入方式を変更することは、l九六〇年代に入りフランスが世界経済に深く組み込まれるなかで. 緊急を要する課題として浮上する。 こうした事情の変化に対応するために考えられたのが伝統的な中央銀行政策の全面的転換である。それは'フラン ス銀行が割引業務から手を引いて介入の場を貨幣市場に移し、信用配分を市場に委ねるというものである。この改革 ( 3 ) 案を公的機関としてはじめて提案したのは'首相モーリス・クーヴドゥミユルヴィルが一九六八年二月に設置し ( S ) た「賢人委員会」 - 通称「sォ^委員会」 - であるoそして1九七7年1月1九日から'フランス銀行がこ の委員会の答申に沿って政策の転換に着手する。すなわち、それまで常に貨幣市場金利の水準以下に設定してきた割 引率(公定歩合)を、貨幣市場金利を上回る水準に設定することにしたのである。この政策転換によって同行は'再 金融を原則として割引から貨幣市場に移し'自らの役割を流動性の管理に限定することになった。 か-て以上から明らかなように、完七〇年前後期のフランスでは、中央銀行の政策理念のレヴエルにおい(8) 「信用配分」から「流動性の管理」 へという流れが加速化していたのである。当然のことながら'マネーサプライの 13
成長率を管理することによってインフレを抑制しようとするマネタリズムの政策論は'フランスの中央銀行にとって きわめて魅力的であった。第七次プランでは'こうしたフランス銀行とその周辺で形成されていた流れをプランにど う反映させるかが'真っ先に議論されたのである。 14 二 第七次プラン「通貨・物価・成長小委員会」における論争 - 「失業」と「インフレ」のいずれの問題を優先す べきか 第七次プランの策定に向けた最初の準備作業は'第六次プラン (一九七一-七五年)が議会を通過し実施段階に入 った1九七二年1月から始まる.その任務を託されたのは計画庁内に組織された「通貨・物価・成長小委員会」 ( G r o u p e M o n n a i e -P r i x -C r o i s s a n c e ) で あ る O 委 員 長 は フ ラ ン ス 銀 行 次 席 副 総 裁 ラ ッ ー ル ( A n d r e d e L a t t r e ) 、 委 員 は 計 画 庁 ' 財 務 省 国 庫 局 、 同 経 済 予 測 局 ' -Z < x i H W 、 フ ラ ン ス 銀 行 の 各 代 表 か ら 構 成 さ れ て い た 。 小委員会が最初に取り組んだのはマネタリズムの理論的検討である。委員会は各機関を代表するエコノミストたち の報告にもとづいて、約一年をかけてこの作業を行った。そして、マネーサプライの変動が物価に影響を及ぼす経路 やメカニズム1いわゆる「伝達」 (transmission) の問題Iなど未解明の部分はあるもののt l般に通貨と物価と 成長の間に相関関係のあることを確認した。 次いで小委員会は'一九七三年から通貨目標値の導入問題の検討に入る。この作業は各機関によって順次用意され た覚書にもとづいて行われた。そこで鮮明になったのは国庫局とその他の機関の間の意見の隔たりである。国庫局は 経済政策の実務一切を管掌する財務省最強の部局であり'前述した国民信用評議会を介してフランスの信用政策全般 に絶大な影響力を有していた。そのうえ同局は投資金融にも直接関与しており'そのために大量の国庫証券を準公的
( S ) 金 融 諸 機 関 に 引 き 受 け さ せ 、 い わ ゆ る 「 国 庫 の 回 路 」 ( c i r c u i t d u T r e s o r ) を 形 成 し て い た . か く て 国 庫 局 は ' フ ラ ン ス銀行とともに通貨政策の重要な一翼を担うとともに、国家介入の中央機関としての役割も果たしていた。この重要 な機関の意見が他の機関と大きく違っていたのである。 国庫局の主張は二つの部分からなっていた。一つは技術的なものである。すなわち、フランスでは経済への信用供 与が流動性創出の主要な源泉になっているために、通貨の厳格な統制は困難である。また、通貨と物価の関係には未 解明の部分が多く'「完全雇用と物価安定を同時に保障するような通貨ス-ツクの適正成長率をあらかじめ決めるこ ( 2 2 ) とは不可能である」というのである。いま一つは'フランスに特殊な事情である。フランスでは非賃金所得者が多く、 「 所 得 政 策 」 ( p o l i t i q u e d e s r e v e n u e s ) の 実 施 が 難 し い o ま た 中 小 企 業 が 多 い こ と か ら 物 価 の 管 理 も 難 し い O こ の た め 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 / C O " i 「フランスでは通貨政策が短期握済政策のなかで決定的な役割を果たすようになっている」 (傍点は引用者)。一方' 通貨政策には、国会の議を必要とする予算政策とは違い'「操作がきわめて柔軟で、かつ手軽である」、「自由な裁量 によって'経済全体に長期にわたって徐々に効果を及ぼすことができる」という利点がある。かりに通貨目標値が設 定されることになれば、通貨政策から柔軟性が奪われ短期経済政策の運営に支障が生じる。かくて国庫局の結論は明 ノ ル ム 快であった - 「現在分かっているかぎりでは'基準値︹通貨目標値︺の設定は望ましくもなければ現実的でもない。 ( 2 4 ) 通貨政策は公権力が自由に使える短期の調節手段にとどめるべきである。」 これにたいして計画庁'経済予測局''StOWW、フランス銀行の各代表たちは'程度の差はあるものの、いずれ も通貨目標値の導入に肯定的であった。国庫局が問題にする技術的な困難については、自身が計量経済の専門家でも あった彼らは'解決不能な問題は基本的にないと反論する。フランス銀行の代表はさらに進んで、中期のみならず年 単位で通貨目標値を設定することの意義すら強調した。一万㌧国庫届が短期経済政策しか問題にしようとしないこと 15
にたいしては'同じ財務省の経済予測局が厳しい批判を浴せた。なかでも注目されるのは次の二方向からの批判であ る。第一に、短期の経済・社会問題への対応を優先すると、「常にインフレ方向に強いバイアスがかかってしまう」。 「実際'当局はインフレよりも失業問題を重視しており'通貨制度もインフレの抑止よりも失業の回避を目的として ( 8 ) 組み立てられている」。短期の通貨政策といえども中期の通貨目標値を念頭において実施するようになれば、こうし た弊害は改められるはずである。第二に、国庫局の主張は、つまるところイギリスにおける「ズーップ・アンド・ゴ ー」政策と変わるところがない。当局が当面の課題を優先する政策運営をつづければ、企業家たちはやがて政策変更 のくり返しに慣れ'変更をあらかじめ織り込んで行動するようになるから、政策の実効性は失われる。 以上の経済予測局による国庫局批判にうかがえるように、論争の背景にあったのは'政策課題の優先順位をめぐる 認識の違いである。すなわち、従来どおり「失業」問題を優先するのか'それとも「インフレ」問題に課題を切り替 えるべきなのか、である。そして'計画庁を筆頭に他の諸機関がいずれもインフレ管理を優先しょうとしたのにたい して'国庫局だけがそれに応じなかったのである。この結果、一九七四年春に作成された小委員会の報告書には両論 8) が併記され、少数意見が国庫局だけであることが明記された.強大な権勢を誇る国庫局が「少数派」として公文書に 記されたのは異例である。 この異例さを伝える文書が国庫局文書のなかに残されている。小委員会における国庫局代表が国庫局長のために作 成した覚書である。この覚書は小委員会を主導した計画庁の代表たちと彼らが依拠する計量経済学の手法を厳しく批 判しているが、そこには、時代の変化に遅れかけた国庫局のエリー-官僚の怨嵯の感情もかいま見える。 16 フランスの計画化は今日、虚構の様相をますます強-帯びるようになっている。プランは実体経済からはみ出
てしまい'プランは実体経済にたいしてほとんど影響力をもたない。 計画庁は近年へ計量経済学的手法のいちじるしい改良のための場であり機関であった。それに、そこには優秀 な理論家たちが集まってきている--。プランは'それをつうじて計量経済学の改良がなされていることから、 ︹本来︺ 行政が取り組まねばならない経済および社会の実態からかけ離れてしまっている。--計画庁は政策決 定機構のなかでほとんど実質的な役割を果たしていないにもかかわらず'プランの準備や監視のためには多大の 行政活動が必要とされる。これにかかる行政費の負担は学問的には意味があるもののへ おそらく'負担の大きさ 爺E は実際上の成果にもはや見合っていないであろう。 小委員会における論争と、論争における国庫局の事実上の敗北は、フランスの中央経済行政の内奥で進みつつあっ た政策課題の転換と、それに対応する政策思想の転換を伝えるものとして興味深い。しかもこの転換が'1九七二-七三年という一九六八年の 「五月危機」 からそれほど遠くない時期に生じていることには、いっそう興味深いものが あ る 。 三 第七次プラン ー 新自由主義的構造政策と欧州「経済通貨同盟」建設 第七次プランの準備はその後'一九七三年末から七五年にかけて、フランス経済が石油危機、インフレ、景気後退、 そしてまたインフレと、相次いで大きな変動に見舞われるなかで進められた。この過程で、財務大臣フルカードがイ ンフレの猛威に対処する必要から通貨目標値の導入を決断する。このため国庫局も'一九七五年からフランス銀行と 協力して経済政策の運営に通貨目標値を利用するようになる。ラッ-ル小委員会で展開された国庫局の主張は'石油 17
危機以後の現実によって乗り越えられてしまったのである。 l方、この間に、l九七四-七五年の経済危機が二つの点でまったく新しい性格を有しているという認識も'経済 官僚たちの間で共有されるようになった。一つは、次節で詳しく見るように'通貨の切下げがかつてのような均衡回 復効果を生まず'インフレの継続'さらには加速化をもたらしている点であり、いま一つは'従来のケインズ主義的 総需要管理政策では解決できない新しいタイプの失業が発生している点である。要するに、経済危機は 「循環的」 で あると同時に 「構造的」 であるという認識が政策当局者の間に広がったのである。 l 九 七 四 年 一 〇 月 か ら は 、 中 央 計 画 化 審 議 会 ( C o n s e i l C e n t r a l d e P l a n i f i c a t i o n ) が 発 足 し ' 第 七 次 プ ラ ン の 策 定 作 業が本格化する。そしてプランは'さまざまな審級の機関の議を経て一九七六年七月二一日法として施行された。 第七次プランは、以上のような経過を反映して二つの課題を軸に組み立てられていた。第一はインフレの克服であ る。プランの総括報告書の冒頭部分を引用しよう。 18 二つの対立する政策がある。第一は'成長を擁護しようとしてインフレを認める。それは ︹成長と雇用の︺ 双 エ ク ス パ ン シ ョ ン 方を失い'破局にまでいたる。第二は、通貨のために 拡張を犠牲にするように見えるが、実際には一方 ︹通 貨︺ を優遇して他方 ︹成長︺ を強化している。--政府は堅実な道を選択した。--インフレが成長を促進し雇 I c M . ) 用状態を改善するという古い幻想は打ち破る必要がある。 ここに謂われた 「成長」優先から「通貨」優先へという政策路線の転換は'いうまでもなく、フランスが戦後にほ ぼ一貫してつづけてきたケインズ主義的成長政策との決別にはかならない。問題はこの政策転換をどう具体化するか
である。プランには二つの方向性が示されている。一つは、構造政策ないしは構造改革である。その主要な内容はt m 「 競 争 政 策 」 ( p o l i t i q u e d e c o n c u r r e n c e ) と 独 占 禁 止 政 策 の 、 制 度 と 運 用 の 両 面 に お け る 強 化 ' 佃 財 政 均 衡 の 実 現 ' とくにそのための社会保険制度の改革、刷企業なかでも公的企業における自己金融比率の引上げt の三系列の施策で ある。いま一つは'通貨目標値の導入である。プランにはこう記されている - 「通貨・信用政策は'マネーサプラ ノ ル ム イの成長をGDPの目標成長率に近い水準に維持するというものになるだろう。それは主として、年々の基準値を設 ( 2 9 ) 定する仕組みを維持することによって実現されるだろう」。通貨目標値は、先のラッール小委員会における議論の域 を大きく超えて、年度ごとに設定されることになったのである。 プ ラ ン が 掲 げ る 第 二 の 課 題 は 、 「 ミ ス マ ッ チ の 失 業 」 ( c h o m a g e d e i n c o h e r e n c e ) と 命 名 さ れ た 新 し い タ イ プ の 失 業 への対応である。プランによれば、現在ある失業には循環性の不況がもたらした失業以外にこのタイプの失業が含ま れている。このため、経済が回復しても完全雇用が実現するとは考えにくい。新しいタイプの失業の背景には'「若 v c o ) 年労働者たちの一般的文化水準および知的水準の向上にともなって仕事の質の向上が求められている」という現実が ある。図1に明らかなように、一九七〇年から七三年にかけて 「未充足の求人数」 が急増している。このカテゴリー の求人数は一九七四年から急減するが'それは景気後退によるものであり、一時的に隠蔽されているにすぎない。景 気が回復し求人数が増えても'それが単純労働であれば移民労働者によって充足されるだけで、質の高い仕事を求め る人々の失業が再び現れるはずである。つまり、問題は労働市場の 「構造的不均衡」 にあるというのである。プラン によれば、この不均衡を解消するには、従来のように「労働者を仕事に適応させる目的で」人材を育成するのではな く、「仕事を労働者たちに'彼らの文化水準に、そしてまた彼らの願望に合せるために'労働条件の改善に向けて国 ( 3 ) 民経済を根底から変える」必要がある。そのために取り組むべきは、雇用条件や労働環境の改善、つまり安全対策、 19
図1 フランスの労働市場(1970-」年) 1000人) 20 1970 1978 1980 月末における求職者数 月末における未充足の求人数 月間新規求職者数 日間新規求人数
騒音・暑さ・塵填からの保護、労働の編成、生産工程の改善などに向けた 「企業改革」 である。かくて、ここで問題 になっているのも構造政策である。 以上のような第七次プランに見られる課題設定と対応策から二つのことが確認できる。第一に'フランスの立法者 は'経済危機によってフランスが迫られているのは構造政策ないしは構造改革であって旧来の構造を再生産するケイ ンズ主義的総需要管理政策ではないと認識していた。第二に'この場合の構造政策・構造改革とは'市場経済の枠組 や発展の方向を変えることを目的とした国家の介入 K e n ) ( i n t e r v e n t i o n l i b e r a l l e ) で あ る . すなわち'仏独の新自由主義者たちのいう「自由主義的介入」 ところで第七次プランは'インフレと失業のほかに'いま一つの関心事によっても支配されていた。それは'フラ ンス経済が国際経済にますます深く組み込まれ、対外的要因の影響をうけやすくなっているという問題である。ただ し、その場合の国際経済とは自律的な国民経済の相互依存関係としての国際経済ではない。そうした古典的な国際経 済概念は、アメリカ系多国籍企業の登場とそれらの企業を介して行われる国際資本移動によってすでに過去のものに ( ' c o ' ) なっている。プランが問題にするのはへ 新しい国際経済関係のなかで'フランスを初めとする 「中規模の国」では経 ( S ) 済政策の 「自由度」 と経済の 「自律性」 がいちじるしく狭められているという現実である。では、「対外的拘束」 ( c o n t r a i n t e e x t e r i e u r e ) の 増 大 と い う 国 際 環 境 の な か で ' フ ラ ン ス 経 済 の 安 定 と 発 展 を 保 障 す る に は ど う す れ ば よ い のか。プランが期待を寄せるのは経済通貨同盟の建設である。 フランスの経済的・社会的発展は欧州建設の前進と結びついている0--第七次プランの成功は、其の経済通 貨同盟を欧州に創設するというl九六九年の ︹ハーグ欧州首脳会議における︺合意に定められた目標が達成され 21
るならば、いちじるしく容易になるであろう。--この枠組みのなかでは、最初に'ドルにたいする欧州諸通貨 の共同管理を可能にする仕組みを構築すべきであろう。次に経済同盟を準備することになるが、そこでは'世界 における ︹欧州︺ 共同体の重みを利用すること、またその重みにもとづく自律性を利用して成長の再発進を促す ことになるだろう。かくて、欧州諸国は同盟を結成することによってのみ、一部の多国籍企業が競争を免れて行 ( c c ) っている力の行使を抑えることができるようになる--0 22 要するに、経済通貨同盟に関しても'フランスはそれまでの慎重姿勢を全面的に改め'その建設に積極的に関与す る意思を表明しているのである。しかもこの対欧政策の転換は'ドルをフロー-させ'多国籍企業の活動を制限しな かったアメリカの政策に淵源があった。というのは、このアメリカの政策のために失われた経済政策の 「自由度」 と 経済の 「自律性」をフランスに回復させることに、対欧政策転換の狙いがあったからである。
第三章 バール・プランへの道 二九七四-七六年)
一九七四年三月'石油危機後の経済混乱のさなかに大統領のボンピドゥIが死去した。同年五月に行われた大統領 選挙に勝利し、大統領職に就いたのはヴァレリー∴ソスカールデスタンである。この新大統領のもとで首相兼財務大 臣 レ イ モ ン ・ バ ー ル が 、 一 九 七 六 年 九 月 か ら 、 「 バ ー ル ・ プ ラ ン 」 ( P -a ロ B a r r e ) の 名 で 知 ら れ る 安 定 化 政 策 を 実 施 す る。これによってフランスの経済政策路線は一八〇度転換することになる。本章では、バール・プランが登場するま での前史を扱うことにする。ジスカールデスタンは財務省財務監察官として職業生活に入り、ドゴール大統領の時代から七つの内閣で延べ七年 間にわたって財務大臣を務めていた。新大統領は文字通りの経済・財政政策の専門家であった。それだけにボンピド ゥ-時代とは違って、大統領府の顧問たちが大統領のために作成した文書類には経済政策の細部に立ち入ったものが 多く'大統領自身が経済政策の決定に深-かかわっていたことがうかがえる。したがって以下においてはへ主として 大統領府文書に依拠しっつ考察を進めることにする。 [ 石油危機複のフランスの経済政策 - ケインズ主義的席需要管理政策 すでに述べたように1九七四年l月、フランスはスネイクを離脱して単独プロ1-に移行した.この政策選択は、 石油危機がもたらした国際収支危機への対応と一九六〇年代以来の成長政策の継続という二重の政策課題に応えるた ( 3 6 ) めのものであった。しかし、単独プロ1-への移行によって生じたフラン相場の下落にもかかわらず、フランスの貿 易赤字は減らずインフレも終息に向かう兆しを見せたかった。 こうした石油危機後の経済危機にどう対処するか。新大統領のもとで、ジャック・シラクを首班とする内閣の財務 大臣として'この間題に正面から取り組むことになったのはフルカードである。フルカードは財務大臣に就任して間 もない一九七四年六月、「経済財政均衡再建」 のための施策をまとめた。いわゆる「フルカード・プラン」 (P-aロ ( & ) Fo亡rcade) である。国民議会におけるフルカードの説明によれば'フランスが直面している危機は 「総需要の過多」 に原因があり、新たな施策の狙いはインフレを抑制し「フランスと他の欧州諸国とくにドイツとの間の価格差を縮め' ( 蝣 o o * │ 次いで消滅させる」ことにあった。 フルカード・プランについては'前首相のクーヴドゥミユルヴィルのように'前年の一九七三年にドイツが実施し 23
( 3 9 ) たと同様のジスインフレ政策、すなわちインフレの抑制と成長の維持を同時に可能とする「総合プラン」になること を期待する向きもあった。しかし実施されたのは、緊縮財政と通貨・信用供給の圧縮という従来型の総需要管理政策 であった。この結果、フランスの景気はその年の九月から後退局面に入り、失業が急増する。そしてへ年末が近づく につれて、世論の関心は政府の次の出方に集まるようになった。 そうした世論の動向をにらみつつ、二一月には政権の内部で景気後退への対応策が検討されている。そこでは、経 済危機に構造問題がかかわっていることが確認されてはいたものの、姐上に載せられたのは従来と同じ総需要喚起政 策 で あ っ た 。 大 統 領 府 経 済 担 当 顧 問 ス -レ リ ユ ( L i o n e l S t o l e r u ) が 、 l 九 七 四 年 l 二 月 二 〇 日 付 で 大 統 領 の た め に 覚書を作成している。この文書は政権中枢部の政策的対応がなお過渡段階にあったことを伝えている。 24 状況は過去二五年の伝統的な失業局面と大きく異なっている。︹かつて︺失業は、インフレ対策 (安定化政策) ないしは国際収支赤字対策によって引き起こされた一時的不正常にすぎなかった。ひとたびこれらの経済政策目 標が達成されれば、ブレーキを外すだけで経済は再発進し、完全雇用も再び正常に保障されるようになった。 今はそうではない。私の考えを言えば、新しい世界的諸事情から、一九七五-七六年には'経済安定化政策と ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ まったく無関係に完全失業が生じる可能性がある。一九七五-七六年については、低成長のもとで完全雇用を保 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 障するための構造改革を最優先しなければならない。したがって、この問題にたいする中央計画化審議会の決定 はとくに重要な意味をもつであろう。 とはいえ、これから六カ月か九カ月の間は別の行動に出る必要がある。なぜなら、今述べた構造改革は一九七 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 五年の秋か冬にしか実を結ばないからである。したがってそれまでは'財政出動によって古典的な短期景気浮揚
を行う必要がある。 それゆえ現在の問題は'いつ、どのようにして、またどのくらいの規模で、景気浮揚を行うかである。いつ行 うかといえば、--私の考えでは'ぎりぎりまで'頑なに現在の政策をつづけ'景気浮揚はインフレが月率〇・ 六ないしは〇・七%に下がったときか、失業が高い水準 (九〇万人程度) にたっしたときに行うべきである。景 気浮揚政策を急げば雇用よりもインフレを再発させることになり、うわぺだけの社会政策になってしまう。よっ て私は'大統領に'今後三カ月以内に景気浮揚政策を実施することは奨めない。 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ どのようにして行うかといえば'景気浮揚は予算によって、つまり'これまで効果をあげてきたケインズ以来 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ の伝統的な手段によって行われるべきであるように'私には思われる。政策手段には少なくとも四つの選択肢が ある。共同施設の増設、付加価値税(H><) の引下げ、購買力の選別的引上げ、投資の助成。--一部は投資 に向けられねばならない。しかし、残る三つの選択肢のいずれを選ぶかは微妙である。私個人としては第三の選 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 択肢、つまり社会政策による景気浮揚を選択したい。一九六八年五月のグルネル協定のあとの景気の回復ぶりを 見れば'購買力の付与がどれほど成長に有効かが分かる。消費をもっとも必要としているのが最貧の人々である ( 4 0 ) ことを考えれば、そのことは驚くにあたらない。(傍点は引用者) かくてズーレリユは'経済危機の性格が従来と異なることを認識しながらも、伝統的なケインズ主義的手法を、し かも投資とともに一九六八年の 「五月危機」 の際と同様の賃上げを大統領に奨めていたのである。 フ ル カ ー ド は 1 九 七 五 年 秋 に 「 経 済 支 援 プ ラ ン 」 ( p l a n d e s o u t i e n d e l ' e c o n o m i e ) 実 施 す る が 、 そ れ は ま さ し く こ の覚書に記されている古典型の景気浮揚政策であった。しかし、かつての同種の政策とは適い'この政策は二つの意 25
味で大きな問題を残すことになった。一つは、大規模な財政赤字と引換えに実施されたにもかかわらず'その効果が 限定的だったことである。工業生産は回復軌道に入ったものの失業者数は九〇〇万人台という高い水準のままだった し'インフレ率も前年ほどではなかったものの一〇%を記録した。 第一の問題にも増して深刻だったのは第二の問題である。それは景気浮揚政策によって大量の 「過剰流動性」が創 出されたことである。一九七五年のGDP成長率は九・五%と前年の一五二一%に比べて大幅に減少したものの、マ ネーサプライ成長率の方は一五・五%と、前年の一八二%に比べてその減少は小幅にとどまった OPf^成長率と マネーサプライ成長率の蔀離幅は二・九ボイン-から六・〇ポイントに拡大しており'過剰な流動性が急増したこと を 物 語 っ て い る 。 創出された流動性の大部分を吸収したのは家計であった。実際'個人の保有する流動性は一九七四年末の六八五〇 億フラン (M3の八二%) ら一九七五年末の八二〇億フラン (M3の八五%) へと上昇した。上昇率は一八・三% と、M3の上昇率一五%を大きく上回っている。一方、個人保有の流動性の増大は'賃金をはじめとする各種所得の 増加によるものであった。ちなみに、一九七五年の物価上昇率は一〇%であったが'賃金上昇率は一五%であった。 1九七五年の賃金上昇率がきわめて大幅なものであったことはミクロの情報からも確認できる。l九七六年l O月に 3) 民間機関が実施した六〇の企業を対象とするアンケ1-調査によれば、賃金改定は「'2oQHH物価指数+Ⅹ%」と いう方式で行われており、一九七五年については、調査対象となった企業の五五%が <2c/3WH指数に二%を'また ( 3 ) 四五%の企業が一-二%をそれぞれ上乗せしていた。つまり'インフレを「既定の事実」として買上げが行われてい たのである。 このような物価上昇率を上回る名目賃金・非賃金所得の上昇率には、一九六九年に生まれた「契約政策」(po宗que 26
c o n t r a c t u e l l e ) と 呼 ば れ る 新 し い 賃 金 政 策 が 深 く か か わ っ て い た 。 こ の 賃 金 政 策 は 、 「 新 し い 社 会 」 ( s o c i e t e n o u v e l l e ) を旗印に一九六九年六月に登場したシャバンデルマス内閣のもとで実施されるようになったもので'とくに国有部門 において、労使の直接交渉による賃金決定に道を開いたことで知られる。賃金抑制を事実上意味する「所得政策」 で はなく「契約政策」 という名称が用いられていることにうかがえるように、新しい賃金政策は、一九六八年の 「五月 ( 4 3 ) 危機」後の社会状況のなかで'物価上昇率を上回る名目賃金の引上げを保障する賃金協定を生むことになる。こうし て契約政策は'石油危機後のインフレを加速させる重要な要因の一つになったのである。 それはともかくとして'過剰流動性問題にとくに危機感をつのらせたのは財務省国庫局である。この間題について は、国庫局長ラロジュールが一九七六年七月二七日付の覚書で詳細な分析を行っている。それによれば'過剰流動性 には二つの重大な問題が潜んでいた。一つは、家計に入った所得の大半が消費に向けられず貯蓄に回されていること にあるo l九七五年には、家計消費の伸び率が三二二%だったのにたいして貯蓄の伸び率は1七・七%にもたっした。 貯蓄総額は一三〇〇億フランを記録したが、そのうち証券購入に充てられたのが四七億'貯蓄金庫への貯蓄が四七〇 億 ( 前 年 比 二 四 % 増 ) 、 銀 行 の 普 通 預 金 ・ 定 期 預 金 な ど の 「 容 易 に 現 金 化 可 能 な 金 融 資 産 」 ( d i s p o n i b i l i t e s q u a s i -m o n e t a i r e s ) が 四 六 〇 億 ( 前 年 比 二 〇 % 増 ) で あ っ た 。 か く て ラ ロ ジ ュ ー ル は ' 「 こ れ ら 固 定 化 さ れ て い な い 巨 額 の ( 3 ) 金融貯蓄は、いつでも消費に回る可能性があり、間違いなくインフレをもたらすだけに危険である」と言う。 一方'個人金融資産が急増したことの反面として、M3に占める企業の金融資産分が大幅に減少した。これがいま 一つの問題である.銀行制度を介して供与される信用 - フランスの金融用語でいう「経済への銀行信用」 - がM 3に占める割合は、一九七三年が一六・三%'一九七四年が1五・五%、そして1九七五年がl四%と減りつづけて いる。これは'賃上げによって企業の財務内容が悪化し'銀行信用への依存が進んだことを物語っている。それゆえ 27
ラロジエールは'「こうした銀行への大きな依存は、経営者たちが企業経営にたいして、そしてとりわけ賃金の上昇 B 醒 E にたいして'警戒を緩めていると見なければならない」とiinnう。国庫局長は企業経営者の間に広がるモラルの低下を 懸念していたのである。 以上のような危機の構造分析から、ラロジュールは、経済政策の軸足を (通貨を犠牲にした)高成長による完全雇 用の保障から'安定した通貨のもとでの成長 (およびその結果としての完全雇用) へ移す必要があると結論づける。 彼は言う - 「今後は、完全雇用の追求は'インフレを生む高水準のGDPよりも'産業部門別の職業教育政策の整 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 備によってなされるべきであろう。民間投資について言えば、その回復は、産業企業家たちが通貨の堅固さと安定の 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 なかでの成長の可能性についてどのような展望をもつかに、基本的に依存することになるであろう」(傍点は引用者)0 ともあれ、以上から明らかなように、一九七四-七五年に財務大臣フルカードの手で実施されたフランスの経済政 策は典型的な「ス-ップ・アンド・ゴー」 に終り、「過剰流動性」というインフレの芽を残すことになったのである。 28 二 バール不在のバール・プラン 二九七六年五I八月) フルカードの 「経済支援プラン」がもたらした深刻な事態を前に、政府部内で最初に動いたのは計画庁次長アルベ ( 5 ) -ル ( M i c h e l と b e r t ) で あ る . 彼 は l 九 七 六 年 五 月 二 五 日 付 で 「 極 秘 扱 い 」 の 覚 書 ( 莱 ) を 作 成 し 、 大 統 領 顧 問 リ ユ オーに届けている。 覚書の冒頭で、アルベールは事態の深刻さに警鐘を鳴らす。インフレ心理がフランス全土に蔓延しており'夏のヴ ァカンス明けとともに 「第五共和政発足以来最悪のインフレ」 が発生する恐れがあるO失業も併行して増えつづけ、 経済の回復も息切れする可能性が高い。国政選挙が一九七八年に控えているだけに早急に手を打つ必要があるが、選
択肢は二つしかない。一つは選挙を今秋に繰り上げて実施することであるが、たれは非現実的である。残る一つは、 インフレを押さえ込むためにヴァカンス前に「ドゴール風のショック治療」を実施することである。ショック治療と は、ドゴール大統領が1九五八年末に実施を決めた新自由主義的安定化政策のことである。この政策はリユエフ ( 3 ) ( J a c q u e s R u e f O の 主 宰 す る 政 府 委 員 会 に よ っ て 策 定 さ れ 、 フ ラ ン ス 経 済 を 「 奇 跡 的 」 復 活 に 導 い た こ と で 知 ら れ る 。 ちなみに、リユエフはフランスを代表する第一級の経済理論家でへ かつ新自由主義の理論家でもあった。リユエフは 7九五九年二月-1九六一年七月にも政府委員会を主宰Lt握済全般にわたる構造改革を答申しているoこの委員 会 - 通 称 「 リ ユ エ フ / ア ル マ ン 委 員 会 」 ( C o m i t e R u e f f -A r m a n d ) - の 事 務 責 任 者 を 務 め た の は ' ほ か な ら ぬ 財 務 ( 3 ) 官僚時代のアルベールであったOアルベールは新自由主義を理念とする経済政策の策定に通暁していたのである。 では、なぜ新自由主義的「ショック治療」でなければならないのか。それは'「インフレを容認しても失業を減ら ( 8 ) せなかったどころか間接的に深刻化させさえしており」、失業問題を最優先の政策課題にすべきだとする伝統的な政 策論はもはや通用しないからである。こうしてアルベールは、次の四項目を骨子とする政策的諸措置を提案する。Ⅲ 六カ月から1年の間'物価'各種料金、賃金を凍結する.佃労働者に賃金凍結を受け入れやすくするために、富裕層 にも労働者と同等の犠牲を求める.刷l九七五年から急増した財政赤字を国債発行によりコンソル化する。回生産的 { i n ) 投資を促す。これらの提案のあと、アルベールは「第七次プランを厳格に実施すればよいのである」という吉葉で覚 書を結んでいる。 アルベールから覚書を受け取ったリユオーは、一カ月後の一九七六年六月三〇日付で、大統領のために覚書を作成 している。このなかでリユオーもまた'ケインズ主義的政策を明確に否定する。 29
ケインズ主義的発想の政策は、予算とマネーサプライを強力に「引き締める」ことによって需要を圧縮するこ と'したがってまた成長を緩慢にすること、を目的としている。一〇〇万人の失業者がおり、多くの人が持続的 成長への西側経済の復帰を疑問視していても、そのような政策が実施可能である - こう仮定しても、私にはそ のような治療法が現状に合っているとは思えない。おそらくそれは、スタグフレーションを引き起こすことにな / 蝣 C M ¥ るであろう。 30 またリユオーは'単純な物価や各種所得の凍結は自由主義の経済原則に反するだけでなく、効率の良い経済が必要 デ ィ リ ジ ス ム とされる開放経済のもとでは実施できないtと旦二口う。このようにケインズ主義的政策と管理経済の双方を否定した うえで'リユオーが大統領に奨めるのは「第三の道」である。すなわち、ドイツとイギリスの例にならってジスイン フレ政策と報酬引上げの抑制を行うこと、しかもそれを数値目標にもとづいて行うことで「社会合意」 aceord s o c i 島 を 形 成 す る と い う 方 法 で あ る 。 七月の初頭には、前述したように第七次プラン法案が議会を通過し1九七六-八〇年の中期計画が確定する。これ をうけてフルカードは'財務省の五人局長たちに秋以降の経済政策について意見を求めた。時を同じ-して、経済政 策をめぐる論議は財務省以外の部局にも広がる。こうして'大統領府には七月二三日から二七日にかけて'局長たち 8) の作成した覚書が相次いで届けられる。それらの局長文書からは'実務当局者たちの間に三つの共通の認識が生ま れていたことがうかがえる。第一に、フランスの最大の政策課題はインフレの克復にある。第二に'ケインズ主義的 政策はフランスの現状に合わない。第三に、フランスが選択すべきはインフレの悪循環に陥った「イタリアの道」で はなく'安定した物価と通貨の基礎上に成長をつづける「ドイツの道」である。一
そこで問題になるのはフランスが「ドイツの道」に入るための方法である。局長たちの最大公約数的意見は、先の ( S ) リユオーの覚書と同様'賃上げの抑制で「社会合意」を形成することであった。ただしへ有名な「共同決定制」 ( M i t b e s t i m m u n g ) の も と で 労 使 協 議 が 定 着 し て い た ド イ ツ と は 違 い 、 フ ラ ン ス で 「 社 会 合 意 」 が 成 立 す る 可 能 性 は 少ない。よって国家が主導的役割を果たさないかぎり道は開けない。たとえば、財務省物価局長ヴィラン (CJaude V i l l a i n ) は 大 統 領 に 宛 て た 1 九 七 六 年 七 月 二 六 日 付 の 覚 書 に 次 の よ う に 記 し て い る . ア ク ト ウ ー ル 国家'雇主、労働組合という行為者三者のうちのいずれに、︹賃金の︺下方調整の口火が切れるであろうか。 労働組合については、とりわけ政治的理由から'たとえわずかであっても真に契約的な政策に向かうことは期 待できない。フランス雇主総同盟(osf^fn) はといえば'率先して賃金抑制を行うことはまったくないであろ ぅ . 私 が つ い 最 近 会 っ た 会 長 の セ イ ラ ッ ク ( F r a n g o i s C e y r a c ) と 副 会 長 の シ n l タ ー ル ( Y v o n C h o t a r d ) の 二 人 は 、 私にこう打ち明けた - ヴァカンス明けに共和国大統領自身が陣頭に立って心理的な動員をかけ'物価と賃金の 目標値を告知しないかぎり、雇主が公式に ︹賃金︺抑制に取り組むことはない'と。 ( S ) 結論的に言って、新たな均衡には国家の主導で到達するしかない0 このように'秋から実施すべき経済政策をめぐる論議が活発に交わされていたさなかの八月二五日、シラク内閣が 総辞職し、同日へレイモン・バールを首班とする新内閣が発足する。この政変直前の八月一九日にリユオーが大統領 宛 の 覚 書 を 作 成 し て い る O ま た 政 変 直 後 の 八 月 二 七 日 に は 、 計 画 庁 長 官 リ ペ ー ル ( J e a n R i p e r t ) と 同 次 長 ア ル " < -ル ( 5 6 ) の二人の手になる極秘扱いの覚書「反インフレ闘争のプラン」が大統領府に送られている。次いで八月三〇日にはリ 31
ユオーが再度、大統領のために覚書を作成している。いずれも五-六月に作成された覚書と基本的に同内容のもので あるが、政変後の覚書では提案内容にいっそうの厳密さと具体性が加わっている。計画庁のプランは、次章で見るバ ール・プランとほぼ同内容なので、ここでは立ち入らない。リユオーの八月三〇日付覚書は'構造改革に踏み込むよ う大統領に進言している点が注目を引く。 32 実施すべき措置の規模と範囲に関して'政治的な選択がなされるべきである。反インフレ闘争という短期の目 標のみを課題とし、限定的な手段しか用いない、もっぱら1時的な措置とするのか。それとも'数旦別の政変に ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 1 1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ よって生まれた活力を利用し、また世論の期待感を利用して'政府がtより野心的で構造的な広がりをもつ、イ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ンフレの根本原因に立ち向かうようなプラン1すなわち、社会保険制度の秩序回復、競争の拡大、省エルギ-に関する新たな取組み (料金'誘導的諸措置)、不平等の是正に向けた新たな前進Iを構想するのかO ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 私はといえば、第二の選択肢の方に傾いている。この選択肢は、経済秩序の回復およびインフレの構造的諸要 ( E 5 ) 傍 点 は 引 用 者 ) 因にたいする闘いのプログラムとして提案できるであろう--さらにリユオーは'「企業に信頼を回復させること」を経済政策の最重点項目とするよう大統領に強く進言してい る。「こうした︹政府の︺行動は現在の状況に照らして重要な意味をもつと思われる。実際、信頼の低下傾向は'企 アタンティスム業の'日和見主義で将来に責任を負おうとしない態度から生まれている。根本的な目標は、企業の状態と財務構造の (蝣oo¥Kin! 改善を促すことでなければならないであろう」。 次節で明らかになるように、バール・プランは以上のような計画庁と大統領府の間で固められつつあった政策構想