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ばばだいもんなみき馬場大門ケヤキ並木 ばばだいもんなみきさくらどおとりいあと馬場大門ケヤキ並木は 桜通りの一の鳥居跡から大國魂神社 しょうめんさんどうてまえなみきりょうがわま正面参道手前までの並木と その両側をさします 真ん中 ば ばなかみちだいもんや大門と呼 馬場中道 へいあんじだいこうきこうの康

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Academic year: 2021

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(1)

こども府中はかせ 4

府中

ふちゅう

と馬

うま

府中 ふちゅう と馬うまは 昔むかしから関かかわりが深ふかいんだよ。 おもしろい 話はなしをしてあげよう。 それはね・・・

(2)

2 馬場ば ば 大門だいもんケヤキ並木な み きは、 桜さくら通どおりの一の鳥居と り い跡あとから大國魂神社おおくにたまじんじゃの 正 面 しょうめん 参道 さんどう 手前て ま えまでの並木な み きと、その 両 側りょうがわをさします。真ま ん中なかの道みちは、 馬場ば ば 中道なかみちや大門だいもんと呼よ ばれ、 昔むかしは大國魂神社おおくにたまじんじゃの参道さんどうでした。 平安へいあん時代じ だ い後期こ う きの康こう平へい5年(1062年)頃ごろに、 源みなもとの頼義よりよし・義家よしいえ父子お や こ が 戦 勝せんしょうの お 礼れいに と ケ ヤ キ の 苗木な え ぎ千 本ぼんを 寄贈き ぞ うしました。これにならい、慶 長けいちょう11年 ( 1 6 0 6 年 ) に は 、 徳川とくがわ家康いえやすが 同様どうように 六所宮 ろくしょぐう (大國魂神社おおくにたまじんじゃ)にケヤキの苗なえと馬場ば ば (乗馬じょうばの 練 習れんしゅうをしたり馬うまを走はしらせたりす る場所ば し ょ)を奉納ほうのうしました。はっきりとした ことはわかっていませんが、こうした説せつが 起源き げ んとして知し られています。このような 話はなし は、六所宮ろくしょぐうの言い い伝つたえを通つうじて広ひろまったと 考 かんが えられています。 寛文かんぶん7年(1667年)、神社前じんじゃまえに立た て られた制札せいさつ(注意ちゅういやお知し らせが書か かれた

馬場

ば ば

大門

だいもん

ケヤキ並木

な み き

(3)

3 看板 かんばん )に、「馬場ば ば の土手ど て に植う えた苗木な え ぎを抜ぬ き捨す てないこと」とあり、 この頃ころには木き が植う えられていたことがわかります。 ケヤキをふくめた巨木きょぼくの並木な み きはめずらしく、 大 正たいしょう13年(192 4年)12月9日、馬場ば ば 大門だいもんのケヤキ並木な み きは国くにの指定し て い天然てんねん記念物き ね ん ぶ つに なりました。 競馬式こ ま く ら べは数頭すうとうの馬うまを3回かい走はしらせる千年ねん以上いじょう続つづいている儀式ぎ し きで、「駒こま くらべ」と書か かれることもあります。 むかし、府中ふちゅうに武蔵国むさしのくにの国府こ く ふがあった頃ころ、府中ふちゅうしゅうへん周 辺には良よ い馬うまが 育 そだ つ 牧 場ぼくじょうがたくさんありました。その中なかからより良よ い馬うまを選えらんで 朝 廷 ちょうてい (政治せ い じを 行おこなう機関き か ん)に納おさめるために、国司こ く し( 朝 廷ちょうていから来き た役人やくにん) はたくさんの馬うまを集あつめて走はしらせていました。これが競馬式こ ま く ら べのはじま りだとされています。やがて、馬うまを納おさめることはしなくなりました が、競馬式こ ま く ら べは大國魂神社おおくにたまじんじゃで 行おこなわれるくらやみ 祭まつりの行事ぎょうじのひとつと して残のこっています。

競馬式

こ ま く ら べ

と馬市

うまいち

(4)

4 むかし、府中ふちゅうには馬うまを売う り買か いする馬うま市いちという市場い ち ばがありました。 いつから始はじまったのかわかっていませんが、大國魂神社おおくにたまじんじゃの近ちかくで 行おこな われていたようです。江戸え ど 時代じ だ いの初はじめには、府中ふちゅうの馬うま市いちは良よ い馬うまが手て に入はいることで有名ゆうめいでした。言い い伝つたえによると、徳川とくがわ家康いえやすが天下て ん かをと るきっかけになった 戦たたかいでは、府中ふちゅうで買か った馬うまがたくさん使つかわれた と言い われています。そして、幕府ば く ふが役人やくにんを派遣は け んして 将 軍しょうぐんのための馬うま を選えらぶようになると、 大 名だいみょうたちも府中ふちゅうで馬うまを買か ったので、馬うま市いちはよ り多おおくの人ひとでにぎわいました。 しかし、江戸え ど じょう城 の近ちかくに 新あたらしい馬うま市いちができたことや、 戦たたかいが減へ って馬うまを使つかう機会き か いが少すくなくなったことなどが原因げんいんで、府中ふちゅうの馬うま市いちは だんだんと規模き ぼ が小ちいさくなり、いつしか 行おこなわれなくなりました。 江戸え ど 時代じ だ い、幕府ば く ふは 重 要じゅうような道路ど う ろを五ご 街道かいどうと決き めました。そのうち、 江戸え ど と甲府こ う ふを結むすぶのが 甲 州こうしゅう街道かいどうです。その 中 間ちゅうかんにある府中ふちゅうは、府中ふちゅう 宿 しゅく と呼よ ばれる宿場町しゅくばまちとなり、番場ば ん ばしゅく宿 ・本町ほんまち・ 新 宿しんしゅくからなりたって いました。

伝馬役

て ん ま や く

(5)

5 昔 むかし は、車くるまや電車でんしゃがなかったので、たびたび馬うまに乗の せて人ひとや荷物に も つを 運 はこ ぶことがありました。運はこび手て となる人ひとや馬うまは、それぞれの 宿しゅくで 用意よ う いします。この役目や く めを伝馬て ん ま役やくと言い います。 たくさんの人ひとや荷物に も つが府中ふちゅうしゅく宿 を通とおりました。府中ふちゅうしゅく宿 では、 東ひがしは 布田ふ だ 五ご しゅく宿、西にしは日野ひ の しゅく宿 、また高札場こ う さ つ ばから 南みなみは 相 州そうしゅう道どう関戸せ き ど、北きたは川越かわごえ 街道 かいどう 小川村お が わ む らまでの運送うんそうを 行おこなっていたようです。 宿 しゅく ごとにある問屋場と い や ばでは、継つぎ立たてと呼よ ばれる人ひとや馬うまの乗の り換か えが 行 おこな われます。 宿しゅくでは、決き まった数かずの人ひとや馬うまを用意よ う いすることになっ ていました。足た りなくなると近隣きんりんの村むらから助たすけてもらう、助郷すけごうとい う制度せ い どがありました。 人 ひと や 馬うまに荷物に も つを 振ふ り 分わ け る役割やくわりの ことを、馬指ば さ しや人馬指じ ん ば さ しと言いいます。 ふだんは交代こうたいで仕事し ご とをして、 大 名だいみょう 行 列 ぎょうれつ の時ときには全員ぜんいんで 働はたらきました。

(6)

6 むかし、「御馬屋お ん ま や」とか「御馬お ん ま屋敷や し き」と呼よ ばれていたお屋敷や し きが、 大國魂神社 おおくにたまじんじゃ の東南とうなんの辺あたりにありました。そこに住す んでいたのは下しも氏し という一族いちぞくで、代々だいだい、下しも与よ いちろう市郎の名前な ま えを引継ひ き つぎ、御家人ご け に んとして江戸え ど 幕府ば く ふに仕つかえてきました。 御家人ご け に んとは、徳川家と く が わ けに 直 接ちょくせつ仕つかえている家臣か し んのうち、『お目め 見みえ以下い か ( 将 軍しょうぐんに会あ うことができない立場た ち ば)』のものと一般いっぱんに言い われていま す。下しも与よ 市郎いちろうはその中なかでも、相続そうぞくする時ときに江戸え ど じょう城の『躑躅之間つ つ じ の ま』で 言い い渡わたされる『席せき以上いじょう』という身分み ぶ んでした。御家人ご け に んの多おおくは江戸え ど じょう城 の近ちかくに住す んでいました。しかし、下しも氏し の家いえは御家人ご け に んとしてはめず らしく、江戸え ど じょう城 から離はなれた府中ふちゅうにありました。 下しも氏し が府中ふちゅうに住す むようになったのは、江戸え ど 時代じ だ いの初はじめ頃ごろにまでさ かのぼります。青梅村お う め む らに住す んでいた初代しょだいの下しも与よ 市郎いちろうは、大坂おおさかの陣じんに 徳川 とくがわ 家康 いえやす もしくは徳川とくがわ秀ひで忠ただのお供ともをし、馬うまの治療ちりょうや世話せ わ などをした そうです。その後ご 、府中ふちゅうにお屋敷や し きを与あたえられ、初代しょだいから三代目だ い めまで は 将 軍しょうぐんが使つかった馬うまや病気びょうきになった馬うまなどを御厩おうまや(馬うまを飼か っておく 小屋こ や )で預あずかっていたようです。享 保きょうほう8年(1723年:第だい八代だいしょうぐん将 軍

うま

の医者

い し ゃ

・下

しも

市郎

いちろう

(7)

7 徳川 とくがわ 吉宗 よしむね の時代じ だ い)、三代目だ い めの時ときに御厩おうまやが廃止は い しされると、四代目だ い めが相続そうぞく する時ときに『馬医ば い こころがけ心 懸』という 役 職やくしょくを与あたえられました。しかし、実際じっさい には名前な ま えだけで仕事し ご とはありませんでした。このまま新あらたな 役 職やくしょくが与あた えられることなく、下しも氏し は幕末ばくまつを迎むかえます。 慶応けいおう3年(1867年)に大政たいせい奉還ほうかん(幕府ば く ふが天皇てんのうに政治せ い じの権利け ん りを返かえ すこと)が起お こると、駿府藩す ん ぷ は ん(今いまの静岡県しずおかけん)の藩主はんしゅとなった第だい十六代だい 徳川家と く が わ け当主とうしゅ・徳川家達とくがわいえさとに 従したがって、下しも氏し の当主とうしゅは駿府す ん ぷに移うつり住す みます。 その後ご 、名前な ま えを下しも文朔ぶんさくとし、その息子む す こは下しも逸郎いつろうと名乗な の りました。下与し も よ 市郎 いちろう の名前な ま えは江戸え ど 幕府ば く ふが終お わると同時ど う じに使つかわれなくなったようです。 東 京 とうきょう 競馬場 けいばじょう の北側きたがわにある府中ふちゅう崖がい線せんは、こんもりとした森もりが広ひろがり、 静 しず かなたたずまいを見み せています。この森もりには、草くさぶき屋根や ね の茶室ちゃしつな どを持も った鳩 林 荘きゅうりんそうがあります。この鳩 林 荘きゅうりんそうの西にしに、北きたへ向む かう 急きゅうな 坂 さか があって、馬坂うまさかと呼よ ばれています。 江戸え ど 時代じ だ い、この辺あたりには幕府ば く ふ御家人ご け に んの下しも氏し のお屋敷や し きがありました。 この一族いちぞくは、将 軍しょうぐんが使つかった馬うまやこれから仕込し こ む馬うま、病気びょうきの馬うまなどを

馬坂

うまさか

(8)

8 預 あず かって世話せ わ をしていたと言い われています。馬坂うまさかという名前な ま えは、明治め い じ 時代じ だ いの頃ころにはすでに使つかわれていたようですが、その由来ゆ ら いは明あきらかで は あ り ま せ ん 。 こ の 地ち に 住す ん で い た 下しも氏し の 家いえが 「 御馬屋お ん ま や」 と か 「御馬屋敷お ん ま や し き」と呼よ ばれていたことから、馬坂うまさかと名付な づ けられたのかも しれません。 大 正たいしょうか ら昭和しょうわに かけ て、府中ふちゅうに は いろい ろな 所ところか ら大だい規模き ぼ な 施設し せ つが 進 出しんしゅつしてきました。昭和しょうわ8年(1933年)に目黒め ぐ ろから現在げんざい の場所ば し ょに移転い て んしてきた、 東 京とうきょう競馬場けいばじょうもそのひとつです。 目黒め ぐ ろから移転先い て ん さ きを決き めるときには、100を超こ える候補地こ う ほ ちがあげ られたそうです。土地と ち が広ひろく交通こうつうが便利べ ん りなこと・水みずが豊富ほ う ふで質しつが良よ い こと・競 走きょうそう馬ば に食た べさせる青草あおくさが 十 分じゅうぶんにあることなどのたくさんの 条 件 じょうけん を満み たしていて、さらに町まちをあげて熱心ねっしんな移転い て ん運動うんどうが 行おこなわれ たので、府中ふちゅうが最適地さ い て き ちとして選えらばれました。現在げんざいは、競馬け い ばの祭典さいてんと言い われる 東 京とうきょうゆうしゅん優 駿(日本にっぽんダービー)や、ジャパンカップなど大おおきなレ -スが開催かいさいされる国内こくないさいだいきゅう最 大 級の競馬場けいばじょうとなっています。

東 京

とうきょう

競馬場

けいばじょう

(9)

9 競馬場けいばじょうの北側きたがわ(宮町みやまち三丁目ちょうめ)には、現役げんえきのまま不幸ふ こ うにもけがや病気びょうき で亡な くなった 競 走きょうそう馬ば を供養く よ うするために建た てられた馬ば 霊塔れいとうがありま す。この塔とうの 両 側りょうがわには十数すうもの石碑せ き ひが建た っていて、レースに10戦せん 全 勝 ぜんしょう して「まぼろしの馬うま」と呼よ ばれた『トキノミノル』のほか、東 京とうきょう 優 駿 ゆうしゅん 大 競 走 だいきょうそう で 優 勝ゆうしょうした『ガヴァナー』など歴代れきだいの名馬め い ばの名前な ま えが刻きざま れています。また、馬ば 霊塔れいとうの 隣となりには馬頭ば と う観音かんのんがまつられています。

(10)

10 かつて、東 京とうきょう競馬場けいばじょうの西側にしがわ(矢崎や ざ きちょう町 一丁目ちょうめ)に日本に ほ ん国有こくゆう鉄道てつどう(J Rの 昔むかしの名前な ま え)下河原し も が わ ら線せんの 終 着しゅうちゃく駅えき、東 京とうきょう競馬場前けいばじょうまえ駅えきがありました。 現在 げんざい の下河原し も が わ らりょく緑 道どうがその路線ろ せ んにあたります。 下河原し も が わ ら線せんは 東 京とうきょう競けいばじょうまええき馬場前駅から北府中駅きたふちゅうえきを通とおり、国分寺駅こ く ぶ ん じ え きまで走はし っていました。もともとは多摩た ま 川がわでとれる砂利じ ゃ りを運はこび出だ すための 鉄道 てつどう でしたが、昭和しょうわ9年(1934年)から競馬け い ば開催かいさい期間き か んに限かぎって 乗 客 じょうきゃく を運はこぶようになったのです。 戦 争 中 せんそうちゅう の昭和しょうわ19年(1944年)には競馬け い ばもできなくなったの で、運行うんこうが中止ちゅうしされました。戦争せんそうが終お わって、昭和しょうわ22年(194 7年)に競馬け い ば開催かいさい日び の 営 業えいぎょうを再開さいかいし、昭和しょうわ24年(1949年)か らは一 年 中ねんじゅう運行うんこうするようになりました。そして、昭和しょうわ48年(19 73年)、武蔵野む さ し の線せんが 開 業かいぎょうした日ひ に廃はい駅えきとなりました。この 東 京とうきょう競けい 馬場前駅 ばじょうまええき と い う 駅名えきめいは 、 日本に ほ ん国有こくゆう鉄道てつどうの 中なかで 一番いちばん長ながい 駅名えきめいだ っ た 時期じ き (1949~1952年)があります。

東 京

とうきょう

競馬場

けいばじょう

前駅

まええき

と府中

ふちゅう

競馬

け い ば

正門前

せいもんまえ

えき

(11)

11 昭和しょうわ8年(1933年)、府中ふちゅうに 東 京とうきょう競馬場けいばじょうができると、新 宿しんじゅく方面ほうめん からの 観 客かんきゃくは京王けいおう電気で ん き軌道き ど う(京王けいおう電鉄でんてつの 昔むかしの名前な ま え)を利用り よ うしまし た。しかし、駅えきから遠とおく不便ふ べ んだったので、現在げんざいの東 府 中 駅ひがしふちゅうえきのある場所ば し ょ に臨時り ん じ競馬場前けいばじょうまえ駅えきを開設かいせつし、駅前えきまえから競馬場けいばじょうの入口いりぐちまで連絡れんらく自動車じ ど う し ゃ を走はしらせました。 昭和しょうわ12年(1937年)、駅えきの名前な ま えを東 府 中 駅ひがしふちゅうえきに変更へんこうしました。 やがて、もっと楽らくに競馬場けいばじょうへ 観 客かんきゃくを運はこぶため、昭和しょうわ30年(195 5年)に東 府 中 駅ひがしふちゅうえきから 新あたらしく路線ろ せ んを作つくり、競馬場けいばじょうの入口いりぐちに府中ふちゅう競馬け い ば 正門前 せいもんまえ 駅 えき が開設かいせつされました。

(12)

2 「府中と馬」 こども府中はかせ No.4 2015 年 3 月発行 府中市立図書館 編集・発行 http://library.city.fuchu.tokyo.jp/ さ が し て い る 本ほんが 見み つ か ら ないときは、図書館と し ょ か んの人ひとにき いてみよう。

参照

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