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1. 生い立ち

筆者は 1941 年 12 月 , 戦争が始まった直後に東 京都中野区で生まれた.戦争の記憶はほとんどない が,武蔵野市にあった中島飛行機工場の爆撃に向か う B-29 から落とされた焼い弾で近所が火の海に なっているのが記憶の隅に残っている.食べ物がな くいつも空腹であったのは,当時の子供の常である が,筆者は幼少の頃から気管支ぜん息という持病が あり,外に出て元気に遊び回ることはできない虚弱 児童であった.当時は治療薬も余り良いものがなく, 呼吸困難でも我慢しろと言われていた.どうしよう もなくなると,エフェドリンを投与されたが,覚醒 剤の原料にもなるこの薬は,多用することを禁じら れていた.このため,本を読んで過ごすことが多かっ たが,算数や理科は得意でも国語の成績は全く駄目 であった. 季節の変わり目は特に体調が悪く,高校や大学の 入学試験のときは 40℃くらいの熱を出し,近所の 医院で解熱剤を打ってもらってから試験会場に向 かった.高校は何とか合格したが,大学入試では物 理の問題を勘違いして落ちてしまった.その後 1 年間は体調管理だけ気を付けて,翌年何とか合格す ることができた. 気管支ぜん息には後日談がある.50 歳の誕生日 を迎える 1 か月ほど前,ぜん息の発作で呼吸停止 し自宅から救急車で運ばれ病院の ICU(集中治療室) に収容された.ICU には 10 日ほどいたが,その間 多くの夢を見,記憶に残っていたので,意識が消え る直前から覚醒するまでを“私の臨死体験”という 題で随筆に書き残してある. 呼吸停止してから病院に運ばれるまで少なくと も 30 分くらい掛かっていたと思われるので,脳み そはほとんど死んでいたはずである.医学書による と,呼吸停止が 5 分以上続くと社会復帰は困難で あると書いてあるが,心臓に毛が生えているので何 とか復帰できたのだとうそぶいていた.実際は,呼 吸停止すると心臓も停止するそうで,筆者の脳細胞 はほとんど死んでいると思われる. 大学に入ってみると多くの俊秀がおり,中には フェルマーの最終定理を証明できたと騒ぎ立て,数 学の教授と議論する者や天文学に詳しい者など自分 の専門分野を決めている者が何人もいた.このよう な同級生を見て自分の能力の低さを痛感するととも に,背伸びをせずに自分の能力・体力に合ったこと を自分の仕事にしようと考えるようになったのは大 きな収穫であった. 余り理由もなく電子工学科に進学したが,筆者が 光に関心を持つようになったきっかけは大学祭で, ルビーレーザ光で風船を割るという企画に参加した ことにある.先輩の 4 年生が段取りしたことを言 われたとおりにやっただけであるが,レーザが発明 学校法人 千歳科学技術大学 理事長

伊澤達夫

Tatsuo Izawa

電気通信

電気通信

電気通信

から

から

から

光通信

光通信

光通信

への

への

への

のり

のり

のり

のり

のり

のり

伊澤達夫

(名誉員:フェロー)  1941生まれ.1970東大大学院工学系研究科博士課程了.同年日本電信電話公社 (現NTT)電気通信研究所入所,NTT光エレクトロニクス研究所長,研究開発本部 副本部長,取締役・基礎技術総合研究所長,1998∼2004 NTTエレクトロニクス 社長.2007∼2011東工大理事・研究担当副学長.2013から現職.本会名誉員.

私 の 研 究 者 歴

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私の研究者歴 My Frontier Journey 219 されてから数年しかたっていない頃であったので レーザ光線に大変興味を持った.

2. 研究者になるための修行

卒論は,大学祭にルビーレーザを貸してくれた神 山雅英教授の研究室を選んだ.特段何をやれという 指示もなく,先輩が作ったヘリウムネオンガスレー ザ装置が空いているので使ってよいとのことであっ た.貧乏な研究室だったので高価な装置を買うこと はかなわず,実験装置はほとんど手作りせざるを得 なかった.このため,ガラス細工や旋盤,フライス 盤,ボール盤を使った金属加工は何とかこなせるよ うになった. 気管支ぜん息で発作を起こすことが続いたので, 就職に自信がなく大学院に進学することにした.引 き続き神山教授の指導を受けたが,相変わらず研究 内容については何の指示もなかった.しかし,実験 に必要なものを買えなくて相談すると,どこからか 手に入れて渡してくれた. あるとき,アルゴンガスレーザを作ろうと考え, 大形サイラトロンのカソードを手に入れたいと相談 したら,真空管メーカに電話してくれ,すぐに手に 入れることができたときは教授の顔の広さに驚い た.当時,アルゴンガスレーザの市販品は余りなく, 発振したときは感激した. このほか,炭酸ガスレーザ,赤外線ホログラ フィーや計算機ホログラムの実験をするなどいろい ろな実験をしたが,追試の域を出ず,研究として評 価できるまでには至らなかった.それでも何とかホ ログラフィー関連の仕事を学位論文にまとめ,お目 こぼしで 1970 年春に博士課程を修了することがで きた. 大学院の 5 年間で学んだことは,どんな研究を すれば価値・意義があるか,具体的にどうすれば実 現できるかということを考える習慣を身に着けたこ とである.大学院では優れた研究成果を出すことは できなかったが,この習慣を身に着けたことは貴重 な財産であり,プロの研究者としてテーマ探索の際 大変役立った.

3. ガラスとの出会い

学位論文がほぼ完成した頃,神山教授のもとに日 本電気の役員が 1 mほどのガラスの糸を持ってき た.光ファイバコアの屈折率が中心部から放物線状 に小さくなっている Graded Index Fiber と呼ばれ

る多モード光ファイバで,「セルフォック」という 商品名が付けられた製品である.こんなものができ たが,使い方についてコメント頂きたい,というの が来訪の趣旨であった. 東北大学の川上教授らが理論的解析論文を発表 しておられ,光がコアの中をどのような経路を通っ てもほぼ同一時刻に到着するので通信に使うには優 れた光ファイバであった.それが実際にできたとい うのである. 研究室の中で使い方について議論していると,興 味はその作り方に移っていった.そのとき,神山教 授は大変興味深い話をしてくれた.戦前の応用物理 学科の学生実験の一つに,光電管を作る実験があっ たという. フラスコのようにガラスで作った球形の容器に 電極を封止し,ロータリポンプで真空にする.硝酸 ナトリウムなどのアルカリ塩を耐熱容器に入れガス バーナで加熱溶融し,電極を入れておく.二つの電 極の間に電圧を掛け放置すると,アルカリイオンが ガラスを透過しフラスコ内面に薄膜として付着す る.この膜を光電膜として利用すると光電管を作る ことができるという.真空技術が十分発達していな かった時代に簡単にアルカリ金属薄膜を作る手法で あった.図 1 は,学生実験の基になった米国特許 に記載されている実験の概念を示した図である. ガラスの中をアルカリ金属イオンが動くことを 知って,セルフォックの作り方は容易に推察するこ とができ,後にその推察が正しかったことを知った. このことをきっかけにガラスに興味を持ち,ガラス B ブンゼンバーナ E F 耐熱容器 硝酸塩融液 MOLTEN NaNO3 110 VOLTS + R Na C MA 電流計 図 1  学生実験の基になった, イオン拡散を使って光電管を作る実験の概念図

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関係の教科書やハンドブックを読破しガラスの基礎 知識を習得した.

4. 研究者としての第一歩

1970 年に大学院を修了する半年ほど前に,日本 電信電話公社(現 NTT)電気通信研究所の入社試 験を受けた.給与は安かったが,大学や他企業に比 べ研究費がふんだんにあり,実験を主とする研究者 にとっては魅力的な職場であった.研究所は中島飛 行機の跡地で,建物の一部は工場で使われていたも のを改修したものであった.建物を新設する際に爆 弾が掘り起こされることもあり,幼少の頃,戦火の 中を逃げ回ったことが思い起こされた.給与は月額 45,000 円,三鷹駅前にあったパン屋の店員募集広 告に載っている金額と同一で,翌年昇給したがこれ も店員さんと全く同じであった. 配属されたのは,光通信の基礎研究をしている研 究室で,ヘリウムネオンガスレーザ光を空中伝搬さ せて通信の実験などをするとともに,光変調器や非 線形光学の研究が行われていた.優秀な先輩がたく さんいて圧倒されたが,特に,論文を月に 1 編く らい書く人もいて,何もできない自分に自信を失い ノイローゼ気味であった. 研究室長から半導体レーザの動特性を明らかに せよ,という研究テーマを与えられた.液体窒素で 冷却しなければ発振しなかった半導体レーザが,室 温で発振するという論文がベル研究所から発表され たばかりであった.どのような特性を持っているか 明らかにすることは,通信に使う上で重要なことで あった.実験に使う常温で発振する半導体レーザは, 隣の研究室で開発中とのことで,それをもらって研 究せよとの指示であった.しかし,その半導体レー ザはなかなか手にすることができなかった.そこで, 液体窒素で冷却するレーザで基礎的実験をしなが ら,自分で考案した研究テーマを開始した.

5. イオン交換法による

平面光回路の開発

セルフォックのような光ファイバが開発された ので,光ファイバ通信が近い将来実現されるだろう と考えた.光ファイバ通信が実用化されれば,光の プリント配線板のようなものも必要になると考え た.作り方もすぐに思い付いた.光電管を作る実験 と同じように,電界を掛けながら屈折率を大きくす るタリウムのようなアルカリイオンをガラス板に拡 散させ,更にカリウムのような屈折率を小さくする イオンを拡散させれば,ガラス板の内部に屈折率の 高い層を形成することができる.イオンを拡散させ る際に回路形状のマスクで被覆しておけば,任意の 形状の光回路を作ることができるというシナリオで ある. この実験は考えたとおり進み,想定どおりの平面 光回路を作ることができた(図 2).国際会議での 発表や米国の学会誌に論文を投稿することもでき, 研究者としてやっていけるという自信を持つことが できたのは何よりであった. この平面光回路製法は拡散を使ってコアを作る ため,寸法精度を出すことが困難であるという欠点 を持っていたが,簡単な光回路なら作ることができ た. この技術を使って米国のガラスメーカ,コーニン グ社によって光回路部品作りが進められたことがあ る.東西ドイツが統合され,旧東ドイツ内の通信設 備を増強するために光ファイバを使った加入者線シ ステムの設置が計画されていた頃である.このシス テムに使われる光ファイバの分岐回路と呼ばれる部 品を作ろうとパリ郊外に工場を建設していた. 工場が製品を出荷する直前に見学させてもらい 技術者と議論したが,彼らはこの製法は大変優れて いると高い評価をしていた.筆者は,後に述べる別 の製法を既に開発していたので否定的な意見を述べ たが,議論はかみ合わなかった.その後どのくらい の製品を出荷したか定かでないが,筆者が開発した イオン交換による平面光回路の製法がガラスの専門 技術者集団のコーニング社で評価され実用化された ことは,興味深く印象に残っている.

6. 光ファイバの開発

6.1 光ファイバの低損失化 イオン交換で平面光回路を作る研究が一段落し て研究者として幾分自信を持った頃,冷静になって 図 2 電界イオン拡散でガラス表面に作られた光導波路断 面(縞模様が屈折率の等高線を表している)

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私の研究者歴 My Frontier Journey 221 考えると通信に使える光ファイバなど実在しないこ とに気付いた.ガラスに含まれる遷移金属イオンな どの不純物が光を吸収するため,光はガラスの中を 1m伝搬すると強度は半分以下になってしまう.そ こで,光ファイバの低損失化を真面目に取り組むこ とにして研究を始めた.ガラスメーカの技術者とい ろいろと議論したが,従来のガラス製法ではほとん ど不可能であることを知った. 検討を始めて間もない 1970 年秋,コーニング社 の技術者が 20dB/km という画期的な低損失光ファ イバを開発したというニュースが入ってきた.従来 のガラスは 1,000dB/km 以上の損失があったので 飛躍的改善であり,光ファイバ通信も可能な値で あった.国際会議で発表されたもので,会議要録を 読み,その後論文誌にも掲載された論文を見る限り, 光ファイバ低損失化の基本技術は完成しており,更 なる研究は必要ないと思い落胆した. しかし,追試くらいはやってみようと思い直して, 実験を始めた.発表された論文等には製法や素材に ついて全く記載がなかったが,引用文献などから容 易に製法を推定することができた.コーニング社は, 大形天体望遠鏡の鏡に使う線膨張係数の小さなガラ スの製法について 1933 年頃特許を出しており,こ の製法で不純物を全く含有しないガラスを作ること ができる.このガラスは,二酸化シリコンに二酸化 チタンを少量添加したもので,比較的線膨張係数の 小さい石英ガラス(二酸化シリコンガラス,シリカ ガラスとも呼ぶ)の 1/10 程度の線膨張係数になる. このガラスの原料は,通常のガラスの原料として 使われる鉱石を粉砕したものでなく,シリコンやチ タンの塩化物が使われている.このガラスは融点が 高く,通常のガラスのように粉末原料をるつぼで溶 かして作ることが困難なためこのような製法が考案 されたと思われる.原料に使われる塩化物は液体で, 蒸留によって容易に高純度にすることができる.こ の原料を酸水素バーナに吹き込んで出発材に吹き付 けると不純物濃度の低いガラスを作ることができ る. 古い特許に書いてあるとおりの方法でガラス 作ってみると,簡単に作ることができた.このガラ スを棒状にしてその上に純粋なシリカガラスで被覆 すると光ファイバの母材が出来上がった.中心部に ある二酸化チタンが入ったコア部分の屈折率が周囲 の純シリカガラスより高く,光ファイバの構造に なっているのを確認した.あり合わせの材料で作っ た線引き装置で糸にしてみると,300m くらいの見 事な光ファイバが完成した. 早速光ファイバの一端から光を入れてみたが,他 端に光は全く出てこなかった.極端に短くするとか すかな光が見えたが,明らかに光がガラスに吸収さ れているようだった.昔読んだガラスハンドブック に,ガラスの中の二酸化チタンは薄紫に着色すると 書いてあったことを思い出した.二酸化チタンの酸 素の一部が欠落し,光を吸収するという.酸素雰囲 気中で高温加熱すれば光の吸収はなくなると書いて あったので,高価な石英ガラスで作った容器とドラ ムを用意した.石英ガラスドラムに光ファイバを巻 き取り,更に汚染防止のため石英ガラス容器に入れ, 電気炉に入れて半日ほど加熱した.こうして出来上 がった光ファイバに光を入れてみると見事に光は伝 搬し他端から出てきた.損失を測定してみると,報 告されたとおり 20dB/km であった. コーニング社の技術は,初めて光ファイバの低損 失化が実現可能であることを示した優れた研究業績 で,ノーベル賞を受賞してもおかしくない成果であ る.C. カオが光ファイバでノーベル賞を受賞した 際,コーニング社の研究者が受賞者に入っていない ことを大変怒って,ノーベル物理学賞選考委員会に 抗議のメールを送るよう頼まれた.世界中の光ファ イバ技術者有志がコーニング社の研究者が受賞に加 えられなかったのは不当である,という趣旨のメー ルを送ったり他の大きな賞に推薦状を書いたりした が,彼らの怒りが収まったとは思えない. コーニング社のこの光ファイバは,損失が低かっ たが致命的な問題があった.高温で熱処理するため, 光ファイバの表面に細かなクラックが入りもろくな り,少し力が加わるとばらばらになってしまう.こ れでは光通信には使えない.二酸化チタンに代わる 良い添加剤を探す必要があり,研究としてまだまだ 解決すべき課題は多くあることを知り,低損失化の 研究を続けることにした. 周期律表と化学ハンドブックをにらみながら最 適材料を探したが,意外にも簡単に結論が出た.少 量の添加でシリカガラスの屈折率を変えることがで き,光の吸収がない材料は非常に限られている.中 でも二酸化ゲルマニウムが最適であることは容易に 結論付けられた. 早速,二酸化チタン入りのガラスと同じような方 法で作ってみたが,出来上がったガラスには二酸化 ゲルマニウムは全く入っていなかった.シリカガラ スが溶ける温度では二酸化ゲルマニウムの蒸気圧が 高く蒸発してしまうためである.発色性のない酸化 アルミニウムなど他の材料も試してみたが,屈折率 の制御が十分できず困ってしまった.

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こんな悩みを抱えていた頃,海外研修の機会を与 えられ,1974 年春から 1 年間米国西海岸で過ごす ことになり光ファイバ開発から離れた(図 3).こ の年の秋にベル研究所の研究者が,二酸化ゲルマニ ウムを効率良くシリカガラスに添加する方法を開発 し発表していた.この製法は,光ファイバを再現性 良く製造することができ,大変優れた方法であった. 更に,コアの屈折率分布を精密に制御することがで きるのも大きな特徴であった. 帰国すると研究体制が全く変わっていて,新しい 組織で日本独自の技術を開発せよとの指示を受け た.ベル研究所の方法による光ファイバ製作は別の グループで始められており,性能の良い光ファイバ が再現性良く作られていた.特性も向上し,多くの 論文発表が続けられていた.そのような環境下で独 自技術の開発と言われても困惑するばかりであっ た. 6.2 新製法の開発 ベル研究所で開発された製法は大変優れた方法 であったが,唯一の課題は,光ファイバの母材のサ イズに限界があり量産には向いていないことであっ た.そこで,量産可能な新しい製法に取り組むこと にした. 二酸化ゲルマニウムの蒸発を抑えるため,低温で ガラスの微粒子を作りこれを出発材に堆積させ棒状 に成長させる.この表面に純シリカガラスの微粒子 で被覆すると白墨のような多孔質の光ファイバ母材 ができ上がる(図 4).多孔質母材を高温のリング ヒータに挿入し加熱すると,微粉末は溶けて透明な 母材になる.二酸化ゲルマニウムを添加したガラス は,純シリカガラスで被覆されているので蒸発を防 ぐことができる,というシナリオである. 実験装置を設計し,機械加工やガラス細工の工場 に発注し,母材引上装置や電気炉,原料供給装置, 高純度カーボンヒータなどを取りそろえ実験を開始 した.実験をするたびに装置(図 5)の改良を重ね, 半年ほどで多孔質母材は寸法精度良く作ることがで きるようになったが,透明化は,装置改良や条件を 変えてもうまくゆかない.母材が白濁したり気泡が 残ったりしてしまい,光が散乱されてしまうので使 い物にならなかった(図 6).気落ちしていた頃, 上司からうまくゆかないなら諦めて別の方法を考え ろ,と言われてしまいますます落ち込んだ. しかし,この上司の一言で,それまで高価なため 使用しないでいたヘリウムガスを透明化工程の電気 炉に導入することにした.ヘリウムガスは熱伝導率 が高く理想的な温度分布が実現できると考えたから である.効果は絶大で,初回から透明化できるよう になり再現性も良かった(図 6).ヘリウムガスの 効果は大きいが,製造コストを上げる要因になって いる.最近のデータによれば,国内消費量の 15% 程度もの大量のヘリウムガスが光ファイバ製造に使 われている.このような状況はこの製法の残された 課題である.この製法は,当初,気相ベルヌーイ法 と名付けて電子情報通信学会の春季大会で発表した が,NTT 幹 部 に 名 前 が 不 評 で, そ の 後 VAD (Vapor-phase Axial Deposition) 法 と 改 名 し 1977 年秋に日本で開かれた光通信関係の国際会議 で発表した.

図 3 カリフォルニア大バークレー校

で研修時代の筆者と研究室の仲間 図 4 多孔質母材成長の様子(右)と完成した多孔質母材(左)

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私の研究者歴 My Frontier Journey 223 この会議に参加したベル研究所の研究者数名が 筆者の研究室を見学に来た.彼らは,実験装置を見 て,我々のグループが研究費をたくさん使っている ことに驚いていた.ベル研究所ではこれほどの設備 は作れないと言っていたから,当時の NTT 研究所 の研究費は世界的に見ても高水準にあったと言え る.この製法は比較的高く評価され,これで何とか 一人前の研究者としてやってゆけると思ったが,国 際会議の数か月後,上司から異動辞令を渡された. 元所属した基礎研究の組織に戻り,何か新しいこと を始めろという命令であった. VAD 法は同僚に引き継がれ改良が加えられ,研 究所の中にミニプラントを作り,量産化の問題点を 解決することなど多くの努力が重ねられ,電線メー カに技術移転された.しかし,この技術が使われる ようになるには多くの課題を克服する必要があっ た.この頃光ファイバ通信システムに使われていた のは,コア径が大きく接続が容易な Graded Index Fiber であった.VAD 法は,屈折率分布を精密に 制御することが難しかったため,電線メーカには不 評であった.原理的には製造可能であるが,装置が 複雑になり開発コストも掛かるため挑戦する者はい なかった.VAD 法は使われないまま消えてゆく運 命にあったが,コア径の小さな単一モード光ファイ バの接続技術が確立され,伝送容量も格段に大きい ことから次第に Graded Index Fiber は使われなく なり,VAD 法も復活した.

光ファイバ製造業界のレポートによると,現在, 世界中で作られる通信用光ファイバの 60%が VAD 法で作られているという.コーニング社は,その後 OVD(Outside Vaporphase Deposition) 法 と 呼 ばれる製法を開発して商品製造を続けている.ベル 研究所で開発された製法は初期に活躍したが,今で は余り使われていない.量産性が低いためであるが, 初期の光ファイバ通信システムの開発に果たした役 割は非常に大きかった.

7. シリカガラス平面光回路

光ファイバの研究グループから離れて,新しい研 究をせよとの業務命令を受け,ふてくされて数か月 何もせずに過ごしていた.その頃,研究所内で発行 されている新聞に,1µm 程度の厚い酸化膜をきれ いに加工できる装置が半導体加工装置研究室で開発 されたという記事が載っていた.当時は,0.1µm 程度の薄膜しか加工できなかったから大きな進歩で ある.この技術を平面光回路製造に利用することを 思い付き実験を始めた. 石英ガラス基板の上に屈折率の高いガラスの微 粉末を堆積させ,更に屈折率の低いクラッド層を堆 積させた後,高温炉で加熱透明化すると 2 層構造 の透明なガラス膜ができる.この基板に光回路パ ターンを焼き付け,開発されたばかりの装置でエッ チングすると,方形断面を持ったコアが見事にでき ていた(図 7).VAD 法を光回路作成に応用しただ けであるが,イオン拡散法に比べると寸法性制御性 が格段に高く,性能の良い光回路を作ることができ る.この製法には課題も残されていた.ガラス微粉 末を溶かして透明化する工程で,基板の石英ガラス が変形してしまうことである. 基本技術が確立された頃,またしても人事異動の 辞令を受け研究室を離れることになった.幸いなこ とに,光ファイバ開発に携わった同僚がこの技術に 関心を持ち改良を進めてくれた.基板を石英ガラス からシリコン基板に替え,精度の高い光回路を作る ことができるように改良してくれた. 図 6 透明化に失敗した母材(左)と 透明化に成功した母材(右) 図 7 新しく開発された装置で加工された平面 光回路の導波路コアの形状

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この技術が開発されたのは,光ファイバ通信シス テム実用化のための試験が行われていた頃で,光回 路の需要は全くなかった.しかし,1990 年代後半 にインターネットが広く使われるようになり,波長 多重通信が始まり,更に 2000 年以降加入者線に光 ファイバが使われるようになると,合分波器(図 8) や分岐回路など広く使われるようになり,今日に至 るまで多くの光回路部品製造に使われている.

8. 光ファイバ通信システムの

進展

ここで,部品材料研究者から見た光ファイバ通信 システム発展の経緯を振り返ってみたい.筆者が研 究を始めた 1970 年頃,多くの通信技術者の中で光 で通信ができると考えた人はほとんどいなかった. 次世代通信システムとしてはミリ波導波管や超伝導 同軸ケーブルなどの研究が大規模に行われていた. 光通信の研究は物好きな基礎研究者がやっている研 究であって,実用化はほど遠いと考えられていた. 光ファイバが通信媒体として使える可能性を明らか にして,ノーベル物理学賞を受賞した C. カオ が 1960 年代後半に電電公社の電気通信研究所で講演 し,共同研究をしようと呼び掛けたが関心を持った 研究者・技術者はいなかった. 幸いなことに,半導体レーザや光ファイバ技術の 進歩によって光ファイバ通信システムが構築できる ようになると,幹線網には導入されるようになった. それまで使われてきた太くて重い同軸ケーブルシス テムよりは軽量で,中継間隔も長いなど利点は大き かった.それでも,幹線網に入ってしまえば電話の トラヒックを十分賄うことができるので,一度設置 すれば増設の可能性は全くないと考えられていた. 状況が変わったのは,1990 年代後半に広がった インターネットの効果である.特に米国ではトラ ヒックの増大に対応するため,既設のシステムを波 長多重にすることによって伝送容量を上げるととも に,多くの波長多重伝送システムが新設された.そ の後,多くの企業によって実需を伴わない通信設備 の新設も重なったため,2001 年頃にはバブルがは じけ,ワールドコムやノーテルなど多くの名門企業 が整理統合されたが,長期的に見ればトラヒックは 増え続け,今に至るもシステムの増設が行われてい る.

9. 研究管理業務

平面光回路の基本技術が確立された頃,またも異 動辞令を受けた.研究所職員の人事管理をする部署 で,研究者の評価のとりまとめ,期末手当の配分, 昇給原資の配分など研究者にとっては雑用の最たる ものであった.しかもこの職場は 24 時以降も仕事 をする悪しき習慣があり,ぜん息の持病を抱えた筆 者にはきつい職場であった.同僚と同じように働い ていたら殺されると思い,23 時頃にはさっさと帰 宅することにしたが,そのうちに皆早く帰るように なった. 当時は,パソコンやプリンタが使われていなかっ たので,書類や名簿は手書きで人名は判子を使った が,非効率な作業の繰り返しであった.しかし,負 の要素だけでなく,この作業を通して優れた研究者 とはどういう特徴を持っているか,上司の評価と本 人の能力の差異はどのように生まれるかが分かった ような気がする.この経験がその後,管理業務に役 立っている.人事管理の仕事は 2 年で卒業するの が慣例であったが,元いた研究室に戻ることは許さ れず,自分の専門と全く異なる研究室の室長にされ てしまった.更に悪いことに,このとき以降,専門 分野の研究現場に戻ることはなく,雑用に明け暮れ ることとなった. 配属された研究室では,半導体結晶と磁気バブル メモリの研究が行われていた.当時,電話の交換機 のメモリは磁気ドラムが使われていたが,機械的な 機構を使っているため故障発生頻度を下げることが 大きな課題であった.磁気ドラムの代わりに機械的 機構のない磁気バブルメモリを使おうということで 研究が進められていた.調べてみると,当時発展途 上にあった半導体メモリに比べると速度,サイズ, 汎用性などの点で全く勝ち目がないことが分かっ た.担当者も現状以上の飛躍的発展は考えられない と言っており,この研究を中止する決断をした. この決断をして研究所内の手続きを進めている とき,朝日新聞一面に九州大学の教授が,磁気バブ 図 8 平面光回路の一例(合分波器)

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私の研究者歴 My Frontier Journey 225 ルメモリの性能を抜本的に改善する技術を発明した という報道がなされた.筆者の判断に批判的だった 研究所幹部から研究を再開させろという圧力があっ たが,無視することにした.その後,磁気バブルメ モリが発展することはなく,筆者の判断は正しかっ たと言えるが,研究を中止することの難しさを実感 した. 1996 年頃,LSI 研究開発の責任者になったこと がある.NTT における LSI 研究は,日本における 初期の研究開発を立ち上げる上で大きな貢献を果た したが,この頃になると多くの企業が研究開発に参 画しており,通信サービスの会社がやる研究ではな いと思った.何より研究開発費用が膨大になってお り,製造に関連する研究は中止することにした.多 くの研究者から恨まれたが,急激に増大する試作装 置の更新,維持管理費を賄うことは不可能であった. 研究開発を促進するための決断も幾つか経験し た.1992 年に光エレクトロニクス研究所長に就任 した頃,平面光回路は実験には使われても,通信シ ステムに使われることはなかった.当時,NTT と 三菱商事,バッテルの 3 社は,米国に PIRI という 平面光回路の試作会社を作っていたが,経営が行き 詰まっていた.PIRI 社救済を兼ねて,光分岐回路 を大量に買い付け,光ファイバと回路の接続技術を 開発することにした.種々の接続法で作った部品の 耐久性試験をして信頼性の高い部品にしようという 計画であった. この企画はタイミングの良い技術開発で,高信頼 の分岐回路部品開発に成功するとともに(図 9), 米国で始まった波長多重通信方式に使われる合分波 器(図 10)にもこの技術が使われ,PIRI 社の経営 は急激に改善した.光分岐回路は,2000 年頃から 日本で始まった光加入者システム(FTTH)に使わ れることになり大量生産されるようになった.

10. 研究者と占い

うだつの上がらない娘婿を案じて義母が占い師 の所に相談に行ったのは,研究管理業務を始めて間 もない 1980 年早春であった.筆者の生年月日など を基に占いをし,「娘婿は幾ら努力しても報われる ことはない」というのが占いの結論だった.義母は 困り果てどうすればよいかと尋ねると,おはらいを した十円玉を四つ手渡されたという.これを本人に 持たせ近所の神社に行き,おさい銭箱の前で後ろを 向いたまま放り投げ,自宅に帰り着くまで振り返る なと言われた.そうすれば状況は一変し,周りから 仕事も評価され良い生活を送れるようになるだろ う,との御宣託であったと聞かされた. 占いを信じる気持ちはなかったが,老齢の義母が 言うことを無下に拒絶する必要もなかったので,言 われたとおり近所の神社に行き後ろを向いておさい 銭を投げ帰宅した.3 か月たった頃,米国の学会か ら手紙を受け取った.筆者に業績賞を授与するので 授賞式に来いという招待状であった.これが生まれ て初めてもらった賞で,その後も多くの賞を頂くこ とができたのは,占い師の御宣託を守ったからだと は信じ難いが,実話である. この占い師はこれだけでなく筆者の人生全般を 占い,振り返ってみると予言されたことが幾つか当 たっている.特に,50 歳頃大きな問題が起こるが, 何とか解決するだろうとも予言していた.冒頭に書 いた気管支ぜん息による呼吸停止が占い師の予言し た大きな問題だったかもしれない.おさい銭が米国 学会の選賞委員会に影響するはずもなく,10 年以 上先に起こる発病を予言したのも大変不思議な話で ある. 図 9 光分岐回路 図 10 波長多重通信に使われる合分波器

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11. 会社経営

1998 年の春,社長に呼ばれ,NTT 取締役を退任 するよう申し渡された.研究所の先輩が作った NTT エレクトロニクスという会社に行けというこ とであった.この会社は研究所の設備を借りて LSI の試作をすることが主要な業務であったが,試作注 文は減り続け経営は厳しい状況にあった. 新しい商品を開発しようという努力もされてい たが,どの企画も将来性があるようには思えなかっ た.その中で,かつて光ファイバ開発を一緒にやっ た技術者が,平面光回路で光合分波器や分岐回路部 品を量産し米国に売ろうという提案を持ってきた. この頃,光合分波器の需要は急増しており,PIRI 社だけでは製造が間に合わないほどになっていた. 小さな工場を建て(図 11),平面光回路部品の製 造を始めたが,光合分波器は飛ぶように売れ経営は 飛躍的に改善した.米国の複数の通信機メーカから は製造能力を強化するよう強く言われるようになっ ていた.2000 年頃から NTT が加入者線に光ファ イバを使う FTTH の導入を始めた.FTTH には光 分岐回路部品が必須で,この売上げも順調に伸び始 め,利益率の高い会社に変身した. PIRI 社は優良会社として米国で評価され,大株 主の NTT と三菱商事が米国企業に売却することと なり,両社にばく大な売却益をもたらした.光エレ クトロニクス研究所長時代,PIRI 社を助けるため に始めた技術開発がこれほど多くの果実を生むこと になるとは,当時夢想だにしなかった. 工場を拡大し株式公開を準備するほどになって いたが,好況は長続きしなかった.2001年になると, いわゆる IT バブルがはじけ,北米の通信機メーカ に納品した部品まで返品したいという乱暴な連絡ま で受け取るようになり,会社の経営状態は急落した. 銀行から借金をし退職金の割り増しなどをして 希望退職を募り,自らの給与も 4 割カットするな どして,職員数を減らし何とか経営を継続できる状 況に再建できた頃,内規に従って社長を退任した.

12. 大学管理・運営

12.1 国立大学法人の管理運営 社長退任後,比較的自由な時を過ごしていたある とき,日本学術振興会の理事をしておられた伊賀健 一さんに国際会議場で呼び止められた.伊賀さんは 東工大の学長候補になっており,学長に就任したら 理事・副学長になってくれないか,という話であっ た.国立大学法人は,理事のうち一人は学外者を任 命しなければならないという決まりがあり,学外の 適任者を探していたのである. 大学の客員教授や特別講義をすることは多く,大 学の先生方との付き合いもあったが,大学の管理運 営については全く経験がなかった.幾分ちゅうちょ したが,暇を持て余していたのでお引き受けするこ とにした. 研究担当副学長ということで,競争的研究費獲得 の支援,情報通信網管理,産学連携,安全管理,建 物管理など多岐にわたる仕事が担当であった.大学 で仕事をして驚いたことは,一部の教員であるが, 副学長の指示に従わないばかりか,法律や規則まで も無視する者がいることである.大抵のことは大き な問題にならないが,安全に関わることは守っても らわないと人命に関わる問題になる. 着任して間もない頃,安全巡視である研究室を訪 問した.実験器具や薬品類が乱雑に置いてあり,企 業の研究室では考えられないひどさであった.窓際 に目をやるとエチルエーテルの 18L 缶が 2 缶,日 の当たるところに置いてあった.空だと思ったが, 念のため持ち上げると未開封であった.引火性の強 いエーテルを学生が多数出入りする部屋に置いてお くことは規則違反で,引火すれば部屋中火の海にな る.更に,日の当たるところに置いてあるのは非常 識以外の何物でもない.学位論文や卒論の締切間際 の時期であったが,即刻,実験室の使用禁止を申し 渡した. 学生たちが 1 週間ほどで研究室をきれいに整理 整頓したので使用再開を許可してほしいと言ってき たので,許可するとともに,頑張った学生たちが慰 労会をするようポケットマネーから金一封を差し上 げた. 薬品の廃棄ルールを守らない人はたくさんいた. 酸を中和せずに下水に流すと,昔流された重金属と 反応して排水口での濃度が規制値を超えてしまい, 大学の排水ができなくなる.このような事態が発生 図 11 IT バブル崩壊直前に建設した NTT エレクトロニクス社茨城工場

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私の研究者歴 My Frontier Journey 227 しないよう大学の下水管には多くのセンサが設置し てあり,異常が検出されると担当職員がマンホール に入り何時間も掛けて清掃することになる.シアン 化合物の廃棄は細かな規定があるが,これを守らな いと,学内の廃棄薬品処理場で酸と混ざり青酸ガス が発生し,担当者は生命の危険にさらされる.幸い 在任中に大きな事故が起きることはなかったが,小 さな事故は頻発した. 大学の人事管理も難しい問題が多い.特に定年で 退職した教授の下で働いていた助教が再就職先を あっ旋されることもなく放置され困っていることが 多い.実力があれば他大学の教員募集に応募すれば よいが,そのレベルに届かない人もいる.技術職員 として働くことを提案し教員系の助教のポストを離 れた人もいたが,全学的な人事管理体制が必要だと 感じた.教授,准教授が運営する研究室単位で動く 個人商店のような組織の問題点が露呈している一面 である. 大形競争的研究資金を獲得した教員に対する研 究室の配分など建物の管理も悩みの多い仕事であっ た.また,新しい建物を建設する際,取壊しとなる 建物にある研究室の移転先を探すのも困難を極め た.移転先の一部を使っている研究室を別の建物に 移すなど玉突きをしないと条件を満たす空きスペー スを作ることは難しかったからである.東日本大震 災で大きな被害を受けた図書館は,このような作業 を繰り返した後で再建することができた. あるとき,同僚の副学長から相談があった.愛知 県岡崎市の研究所にいる研究者が関東圏に研究室を 移転したいと希望しており,レベルの高い研究をし ている人なので東京工業大学に呼びたい,学長の内 諾も取ってあるという.ついては,広い実験室を提 供できるかどうか検討してくれとの依頼があった. たまたま,すずかけ台キャンパスにある大きな建物 のフロアの 2/3 ほどが空いていたので候補として 提案した.この提案は受け入れられ,ほどなく研究 室が移転された. 大隅良典栄誉教授がノーベル賞を受賞した際,細 胞の自食作用であるオートファジーの研究をやって いる教授がなぜ東工大にいるのか不思議に思った人 もいると思うが,当時の学長,副学長の連携プレー の結果である. 国立大学法人の管理運営を4年間やってみて日 本の大学の管理体制,特にサポート体制が不十分で あることがよく分かった.米国の大学と違って教授, 准教授など教員数に比べサポート職員が極端に少な いのが実情である.結果として教授たちは,大学院 学生の研究指導,安全管理など研究室運営の全てを やり,競争的資金の申請書を書き,授業やゼミや学 会関係の仕事をこなし,更に政府の審議会などにも 出席することになる. 雑用が多くて困ると不平を言う教員は多いが,こ のように支援スタッフが少なく教授自ら全てを処理 するようになったのは,助手のポストを削り准教授, 教授のポストに替えたことも一つの遠因である.こ のような現状が良いはずもなく,大学の教育研究支 援組織・管理組織を充実させることは,日本の高等 教育が世界に通用するようにするためには喫緊の課 題だと考える. 安全点検担当者が不作法だったと教授会で糾弾 されたことや,大学の不祥事を謝罪するためテレビ カメラの前に立ち深々と頭を下げたことも一度なら ずあった.また,学長選考会議の議長として騒動の 渦中で苦労したことも今となっては良い思い出に なっている. 12.2 地方小規模私立大学の経営 4 年の任期を終了して,年金生活を楽しもうとし ていたある日,千歳科学技術大学の学長が訪ねてき た.理事長が急に辞めることになり適任者が見つか らないので,取りあえず後任の理事長に就任してほ しいとのことであった. 千歳科学技術大学(図 12)は,1998 年に千歳 市が設立した大学で,光科学の教育研究を標ぼうし ていた公設民営大学で,学校法人が経営する収容定 員 1,000 人程度の小規模私立大学である.大学設 立準備の中心になっていた慶大の佐々木教授から理 事になってくれと頼まれたとき,筆者は研究所の人 事担当をやっており,職員を送り込むことができる かもしれないと不らちな思いもあり引き受けた. 10 年ほど理事をしていたが,東工大の理事就任と ともに退任していた. 理事長に就任して大学の実情を知ると,理事会の 一員として見えていた大学とは全く違った経営状況 が見えてきた.収容定員を満たしたのは,数年しか なく,このままでは大学が長期にわたって運営でき るとは全く考えられなかった.大学設立の際,市議 会は設立後の大学に市から支援しないということを 決めたという話も関係者から聞かされた.減価償却 費を積み立てた資金があったのですぐに経営が危な くなることはなかったが,何らかの手を打つ必要が 差し迫っていた. 改善手法としては,①銀行から借金をしてでも大 学を抜本的に改組する,②他大学と連携・合併する,

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③公立大学法人化する,の三つの選択肢が考えられ た.設立当時は小さな自治体である千歳市が公立大 学を設置することはできなかったが,その後,公立 大学法人に関する法律ができ,可能になっていた. しかし,設立時の市議会での議論があったため,公 立大学法人化は実現不可能と考えられていた. 公立大学法人化可否の判断は市長,市議会が決め ることで理事長には何もできない.否ということで あっても,それを明確にしなければ他の選択肢を検 討することもできなかった.そこで,大学幹部教職 員と市職員で三つの選択肢や他の公設民営大学の現 状などについて調査検討する打合せ会を数回開いて もらった. 公立大学法人化の利害得失について市職員の理 解が少し得られた頃,市長に公立大学法人化の検討 を正式に要請した.市役所内に担当者が置かれ検討 会議が開かれることとなり,市議会にも特別委員会 が設置され検討が始まった.新聞報道によれば,多 くの課題はあるものの市役所,市議会ともに公立化 を是として準備が進められている.この原稿が本誌 に掲載される頃,公立大学法人化の申請書が千歳市 から出されていれば,筆者の仕事は一段落する. 地方小規模大学の抱える課題は,公立大学法人化 すれば全て解決できるほど単純な問題でなく,今後 とも他大学との連携・統合も頭に入れて地方の高等 教育充実の方策を考える必要があるが,後任理事長 の仕事だと考えている.これまで多くの辞令を受け 異動したが,人生最後に受け取る辞令は,早い機会 に自ら出すことにしたいと思っている.

13. おわりに

研究者を目指して研究所に入り社会に役立つ技 術を開発しようと努力してきたが,研究に直接携わ ることができたのは 10 年ほどであった.短い研究 生活であったが,筆者が開発した VAD 法や平面光 回路技術は,同僚によって改良が加えられ 30 年以 上にわたって世界中で広く使われている.実用化に 至るまで多くの課題,苦難があったが,これらを解 決してくれた同僚に深く感謝の意を表したい. 幸いなことに,2015 年 5 月に VAD 法が IEEE のマイルストーンに登録された(図 13).これは, 電気電子技術分野で開発後 25 年以上にわたって高 く評価される技術を IEEE が認定したものである. 意に反して研究管理,会社や大学の経営管理の仕 事が 40 年近く続いた.この間,研究の中止,退職 先のあっ旋,会社のリストラ,大学の改革などで多 くの決断をしたので恨まれることも多いが,たまに 評価してくれる人がいたことが励みになっていた. 激励してくれた先輩・同僚に深く感謝したい.また, 病弱な筆者を支えてくれた家族,特に 2 年ほど前 に急逝した妻和子に深く感謝したい. 振り返ってみると,辞令に翻弄された人生であっ たが,筆者が最後まで研究を続けていたら開発が成 功したかどうかは分からない.辞令を受け取るたび に憤慨し,やる気がうせたのも事実であるが,最近 になって,「人間万事塞翁が馬」ということわざを かみ締めている. 時代背景も違い,研究者としては特異な経歴で あったので,この一文が若い研究者の参考になるか 甚だ疑問であるが,持病を抱えながらでも何とか社 会に役に立てる仕事ができたことが参考になれば幸 いである. 図 12 千歳科学技術大学のキャンパス 図 13 IEEE マイルストーン認定のプレート

参照

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