第71巻 第 4号 1999年 3月 227-252
近世後期秋田藩農村における農地価格について本
原
直 行
し は じ め に 1 , 本研究の位置付け 戦前期日本の農村構造を規定していた地主制は,その成立の端緒を1
7
世紀末 の元禄・享保期以降に展開する質地小作関係に持つ。幕藩体制下の搾取関係は, 農民の全剰余労働の搾取を本来的な関係とするものであったが,このような質 地小作関係形成の背景には,農業生産力上昇によって発生した農民的剰余の地 主による中間搾取の実現が可能になったことがあった。もちろん,農民的剰余 の獲得を求めて形成されてくる地主制は,その形成時期が地域によって異なる。 農業生産力の上昇,農村の商品経済化の進展が遅れた東北地方では,地主制の 形成は18世紀末以降になる。 さて,質地小作関係が形成されたのは,幕府や諸藩によって農地の売買が禁 止されていたため,農地の取引が質入形態をとったからであるが,農地売買に ついて積極的な禁止政策をとらなかった蕃では直接に売買が行われ,禁止政策 をとった藩においても, 18世紀以降になると禁止政策は形骸化し,農地の売買 が実際には盛んに行われていく。では,地主制形成の過程で農地はどのように 取引(売買)されたのだろうか。すなわち,農民的剰余の獲得を求める地主が*
本稿の作成にあたって,辻唯之(香川大学),山村能郎(香川大学)の両氏より貴重なコ メントを頂いた。ここに記して感謝したい。 (1) 秋田藩については秋田県編 (1965),山形・庄内藩については阿部 (1994) などを参照。-228ー 香川大学経済論叢 1284 農地を集積していくにあたって,どのように農地価格が決定されていたのだろ うか。膨大な地主制研究に比べて農地価格の決定方法についての研究は意外に 少ないが,これまでの研究によると,農業生産力の上昇にともなって生じた農 民的剰余をその時々の利子率で資本還元することによって農地価格が決定され るというものであった。これは事実上,収益還元地価決定方式であり,地主や 農民が農地売買において経済合理性基準に照らした経済行動をとっていたこと を示している。 ところで,これまでの研究はいずれも近畿,瀬戸内地方といった農業生産, 農村の商品経済の発展が早くからみられた地域を対象としたものであれ発展 が遅れた東北地方などを対象とした分析はほとんどなされていない。だが,経 済発展の進んだ地域における農地価格の分析だけではなく,発展が遅れた地域 における分析も重要であると考えられる。したがって,本稿では,近世期の東 北地方において農地価格がどのように決定されていたのかを,秋田県平鹿郡(近 世期は秋田藩)の地主家に残された土地証文の分析を通じて明らかにすること を課題とする。 本稿の構成について述べる。 Iの2以下では,分析対象(対象地域,対象地 主家)について概観する。 IIでは,近世期の土地証文(永代証文,書入証文, 年季売証文)について典型的事例を示し,その特徴を紹介する。本稿の分析の 中心である
I
I
I
では,先ず元治元年(
1
8
6
4
)
の農地価格決定方法について述べ, 次いでそれと同じ価格決定方法が近世期全体を通じでもあてはまるかどうかに ついて時期別に検証する。その際,分析に必要なデータの推定方法を明らかに した上で推定を行い,その分析結果を示す。I
V
では,本稿の分析の結果明らか になったことをまとめとして述べる。 (2 ) 大石 (1958),竹安 (1961),植村 (1986)などを参照。特に,植村氏は近世期讃岐農村 などを対象に農地価格について計量的手法に基づく詳細な実証分析を行っている。 (3 ) 本稿では,分析対象地主の近世期における商業活動を含めた経営全般についての分析 がなされていない点で一定の限界がある。近世期の経営も含めた地主の経済活動全般に ついての分析は今後の課題としたい。1285 近世後期秋田藩農村における農地価格について -229ー 2. 対 象 最初に対象地域である秋田藩平鹿郡の農業構造をみる。表
-1
は享保6
年(
1
7
2
1)の耕地構成をみたものである。ここでの特徴は秋田藩では水田中心で あり,雄物川流域の川辺・仙北・平鹿・雄勝の各郡では田の面積割合が70%
以 上,特に平鹿郡では約90%
にも及んでいるということである。秋田では冬季の 積雪により二毛作がほとんど不可能であるため,近世期以来,水田単作地帯で あった。 表-1 亭 保6年(1721)の耕地構成 郡名 回 畑 計 秋田郡 6842.2町 51693町 問 1L4町 57..0% 430% 山本郡 2345.1 1632..4 3977..6 59..0% 4LO% 川辺郡 1800.7 466.8 2267.4 79..4% 20“6% 仙北郡 8101..9 2190..2 10292..1 78.7% 21..3% 平鹿郡 5636..3 689..6 6325..9 89..1% 10..9% 雄勝郡 4457..6 1667..9 6125 5 72..8% 272% 計 29183..7 11816..2 41000..0 712% 288% 注)r秋田県史』第二巻近世編上, P274第69表より作成。 原資料は「出羽国下野国領知田畑町歩人数I候」。 次に農民階層の変化をみる。後述する地主家と直接かかわりがある村には農 民階層の変化がわかる資料が残存しない。そこで,同じ平鹿郡の平地帯に立地 する村で自然条件,社会経済条件とも分析対象村とほぽ等しいと考えられる住 吉荒田目村をみることによって,変化の動向の一般的特徴を確認することにす る。表-2は住吉荒田自村における農民階層の構成を3
時点で比較したもので ある。表一2
から確認できることは,①慶安元年(
1
6
4
8
)から文政
7
年(18
2
4
)
230ー 香川大学経済論叢 1286 表-2 農民階層(平鹿郡住吉荒田目村) 階 層 慶安元年(1648) 文政7年(1824) 慶 応3年 (1867) (石) 戸 数 % 石両 % 戸 数 % 石高 % 戸 数 % 石 高 % 15~40
。。 。。
4 13 79..9 33 6 17 138..0 56 5~14.9 11 92 98..3 96 16 53 145.8 60 11 32 82.7 34 4..9以下 1 8 3.6 4 10 34 17..7 7 18 51 26..0 10 計 12 100 10L9 100 30 100 243..4 100 35 100 246..6 100 注) W秋田県史』第三巻近世編下, P72第38表より作成。原資料は「慶安元年検地帳写j, 「文政七年住吉荒田目村打直検地帳j, '慶応三年符人苅分書抜帳」。 にかけて新田開発による石高の増大とともに農家戸数が増加すること,②,① の時期における農家戸数の増加とともに農家階層の分解がみられること,③文 政7年(1824)から慶応3年(1867)にかけては農家戸数,石高の増加が微増 にとどまること,④,③の時期における農家戸数,石高の微増にもかかわらず, 階層分解の一層の進展がみられること,などである。結局,階層分解の進展が 19世紀に入って本格化するのであるが,当該期にこの地域で大経営の存在がほ とんど確認されないことから,その背景には地主一小作関係の展開があったこ とがわかる。 次に分析対象となる地主家についてみる。小西彦四郎家(彦四郎の名は代々 襲名される。以下,小西家とする)は正徳 3年 (1713) に今宿村小西久兵衛家 から分家して始まり,薄井村(現在は平鹿郡雄物川町)の肝煎を代々勤めた村 方地主である。小作地経営の他には年貢米の取り扱いを中心とする商業活動, 酒造業,貸金業などを営んでいた。表-3
は小西家の小作料総量をあらわした ものである。この表- 3によると,小西家では19世紀前半にはすでにかなりの 表-3 小西家の小作料総量 小作料総童 文政元年(1818) I 1617俵 天保3年 (1832) I 2225 嘉永5年 (1852) I 2975 注) r雄物川町郷土史J,P 343表73より作成。 原資料は「小西家文書」。1287 近世後期秋田藩農村における農地価格について -231-小作料を得ており,その後も順調に小作地を拡大していったことが確認できる。 さらに,表
-4
は田に限定して土地証文の数を時期別にみたものである。この 表- 4によると,小西家では18世紀後半から永代売買を中心に取引が行われ, 書入証文も 19世紀以降増加していったことが確認できる。また,小西家の小作 地の在所を村別にみると,居村の薄井村を中心に小出新城村・下関村・船沼村・ 大見内村・大塚村・平柳村・藤巻村・西石塚村・向田村と周辺村落に展開して いる。小西家は幕末に一族内の紛争などがあり土地所有は停滞するものの,明 治期に入ると再び土地集積を行い,明治34年(1901)には所有水田面積62..1町, 大正10年(1921)80“4町,昭和15年 (1940) 89..7町と順調に土地所有を拡大 表 4 土地証文の数(聞のみ) 商 家 塩 永代証文 年季証文 書入証文 永代証文 1800年以前 48 4 2 1801~1830年 38 10 23 1831~1867年 42 28 25 計 128 42 50 注1),小西家文書」より作成 注2)各土地証文とも取引価格のわかるもののみ集計。 注3)分米合計の90%以上が田であるもののみ集計。 注4)有合証文(塩田家で11件)は永代証文に含めた。 していく。。
4 28 32 田 家 年:季証文 番人証文。
5。
7 2 59 2 71 次に塩田団平家(団平の名は代々襲名される。以下,塩田家とする)につい てみる。塩田家は宝永6年(1709),沼館村小柳庄兵衛の次男団平が雄勝山蔵光 院の中興開山である宥受法院からその俗姓塩田姓を譲られ独立したことに始ま ( 4) 1831 年~1867 年の年季売証文の農地譲渡主体は小西家である。また,その他の証文に おいても農地譲渡主体が小西家,塩田家であるものが若干ながら存在するが,分析の際は それらも含めている。 ( 5) 雄物川町郷土史編纂会 (1980),
p 342~ P 343を参照。 ( 6) 品部 (1978),P 24を参照。-232- 香川大学経済論叢 1288 る。この時,下川原村に石高1斗
8
升7合の下回を与えられているが,初代団 平は「商J(具体的内容は不明)を営んでいたとされている。その後, 18世紀後 半には質屋業, 19世紀前半には酒屋業,山林経営にも乗りだし,これらの経営 から得た資本の蓄積をもとに土地所有を拡大していく。すなわち,安永3
年 (177 4)には石高6..9石,文化12年(1815)29..3石となり,弘化年間(1844""'47 年)には221“5石 と 顕 著 に 増 大 す る 。 先 の 表- 4に よ れ ば , 塩 田 家 で は 1831""'1867年の幕末期に土地取引を本格化させていったことがわかる。塩田家 の小作地の在所を村別にみると,居村である沼館村をはじめとして下川原村・ 柏木村・深井村・砂子田村・矢神村・薄井村・西石塚村・睦合村・里見村・八 木沢村など広範囲に及んでいる。このことは塩田家が商人地主として商業活動 を手広く展開していたことを物語っている。明治期以降の土地所有については 明治30年(1897)の所有水田面積134“1町,大正9年 (1920)210..1町,昭和 15年(1940) 213ゎ6町と巨大地主に成長していく。 II.土地証文について 秋田藩は近世初期以来,積極的な土地移動禁止令を出しておらず,むしろ, 文政12年(1829)に土地移動を確認する目的から,売買を行った当事者の百姓 とともに肝煎や長百姓が土地証文に捺印し,検地帳も名を張り替える「田畑売 買年季名張帳」の作成を命じるなど,事実上,土地移動を容認する姿勢であっ た。このような事情から,秋田藩の農村では永代売買を含む土地取引が展開し ていく。以下では,分析対象とする地主家に残された土地証文(永代証文,書 入証文,年季売証文)から典型的な事例を示した上で,この時期の土地取引の 特徴を紹介する。なお,各証文とも紹介する事例は典型的なものであり,年代 (7) 塩田 (1976), P (l) ~P (6)を参照。 ( 8 ) 岩本 (1980),P 272を参照。 ( 9 ) 秋田県編 (1965), P 124~ P 125を参照。 (10) この地域の土地証文の分析をしたものとして橋本(1983)がある。また,以下の証文中 における表記は当用漢字に直している。1289 近世後期秋田藩農村における農地価格について -233ー によって,また同時期のものであっても証文によって記載事項,文言の内容は 若干異なる。 1 . 永 代 証 文 先ず,永代証文をみる。以下の証文は,天保12年 (1841)に小西家が買い取っ た際に作成された証文である。 御団地永代地相渡証文之事 川添 下回四一四十四= 残壱斗五升八合 九郎左衛門 間 下 々 田 七 一 十 七 = 弐 斗 七 升 八 合 同人 分米合四斗三升六合 稲百苅 免四ツ五歩成此当高三斗弐升七合 御蔵御分 外ニ苗代壱枚田添有分添 右之御団地正銭四拾弐貫文只今随ニ受取此度貴殿方へ永代地ニ相渡事実正 ニ御坐候右相渡候事ハ去御収納米不足仕右銭ヲ以双方相済申候右田地之儀 ニ付於子孫ニも一言出入無御坐候為念之肝煎殿御役印申請永代地証文一筆 知件 天保十二年丑正月 大 塚 村 渡 主 九 郎 左 衛 門 印 小西彦四郎殿 前文之通リ相違無御坐候以上 肝 煎 長 左 衛 門 印
-234- 香川大学経済論叢 1290 さて,文中の「下回四一四十四」は土地等級と農地面積を表しており,この田 は下回で農地面積が縦4間×横44間=176歩
=5
畝2
6
歩である。「残壱斗五升 八合J,r弐斗七升八合」は分米を表しており,両者合わせて「分米合四斗三升l 六合」となる。分米とは,秋田藩の場合は通説に従えば貢納籾高のことであり, 同時に公定生産米高=石盛(斗代)を指しているという。これに r免四ツ五歩 成」とあるように,免(
0
4
5
)
を乗じて物成が算出されるが,秋田藩では,こ の免にさらに10/6
を乗じて「此当高三斗弐升七合」とあるように,当高制と 呼ばれる藩独自の徴税制度をとっている。「稲百苅」の苅(または刈)とはこの 地域で流通していた耕地面積の単位である。刈は秋田藩に限らず,東北地方や 北陸地方で農民間で広く用いられていた耕地面積の単位であっ足。結局,この 取引事例では農地を正銭42貫文で永代売買している。売買した理由としては, 年貢納入にあたって不足が生じたためとあるが,文言中に売買理由が述べられ ている証文のほとんどがそのように記述されており,形式的なものとも考えら れる。文末には取引以後,紛争のないように肝煎が署名・捺印しており,この 点,上述した秋田藩の土地施策とも符合している。 2.. 書 入 証 文 次に書入証文についてみる。書入とは,土地や家屋敷などを担保にして米銭 を借用するものである。 田地書入証文事 明神前 (11) ただし証文上の原表示は若干異なる。なお,幕府は方6尺1分を1歩としたが,秋田務 では方7尺を1歩としている。秋田県農地改革史編纂委員会 (1953),P 20を参照。 (12) 秋田県農地改革史編纂委員会 (1953),P 25~ P 34を参照。 (13) 秋田県農地改革史編纂委員会 (1953),P 36~P 39を参照。 (14) 刈については渡辺 (1990),P 224~ P 239を参照。また,阿部(1994),P 19~ P 32, によると,山形・庄内藩ではこの刈が実際面積を反映した数値であったという興味深い指 摘がなされている。1291 近世後期秋田落農村における農地価格について 235-下々田六一十三=壱斗八升弐合 清左衛門 下々田十一一十八= 四斗六升弐合 同人 分米合六斗四升四合 免四ツ五歩成此当高四斗八升三合 後藤平四郎殿分 稲八十苅 右御田地書入仕此度調銭弐拾貫文月弐分利足ニ而拝借仕憧ニ受取申候所実 正ニ御坐候右銭入用之儀ハ去御収納不納有之右銭を以上納相済候上者毛頭 相違無御坐候御返済之儀ハ当十二月廿日限り元利吃与御返済可仕万一御返 済相成兼候ノ、ノて此証文を以永代地ニ相渡可申後日一言之異論為無之肝煎殿 御役印井組頭印形申請受合相立書入証文一筆如件 天保八年酉三月 借 主 重 五 日正 受 合 松 之 助 印 組 頭 重 五 郎 印 小西彦四郎殿 前文之通相違無御坐候以上 肝 煎 佐 藤 儀 八 郎 印 彦 三 郎 印 以上のように,書入証文は永代証文と形式的には変わらないが,利子の規定(月 利20%),元利返済期間,返済ができない場合の担保物件の譲渡などが明記さ れている。利子率は年代によって異なるが,元利返済期聞は通常
1
年以内となっ ている。また,返済時期は書入取引後,最初の稲収種が終わった時期 (11月か 12月中)に集中していることから,書入取引を行った農民は稲を売却すること によって借入金を返済していたと考えられる。236~ 香川!大学経済論叢 1292 3. 年季売証文 年季売証文についてもみておこう。年季売による農地売買は元治元年
(
1
8
6
4
)
に小西家によって行われたものに集中している。ここでは文言部分のみに限っ て紹介する。なお,その他の部分は永代証文,書入証文と形式的には相違がな いので省略する。 右御団地代として正銭0 0
貫0 0
文'随ニ受取当子年より向寅年迄十五ヶ年 季ニ相渡候所実正ニ御坐候十六ヶ年め卯年三月迄ニ受返定若同年請返兼候 はば翌十七ヶ年め辰年より申年迄五ヶ年中有合勝手之年三月迄ニ安堵銭O
O
貫0 0
文積渡受返定御坐候尤金子両替時相庭ニテ相渡水田ニテ御返被成 候定右極通り受返兼候はば直々永代地ニ可仕候為後念肝煎殿御役印組頭印 形申受親類受合相立候上ハ毛頭相違無御坐候依テ証文如件 このように,年季売証文とは一定期間(通常は 10~15 年),土地を譲渡するも のであり,実質的には質地証文である。年季明け後の一定期間内に取引価格で 元の持ち主に請け戻されるが,返済が不可能な場合は質流れとなり,永代譲渡 される。 以上にわたって,永代,書入,年季売の各証文について,その内容を検討し たが,農民にとってこれらの取引にはどのような相違があるのだろうか。ここ では,永代取引,書入取引,さらに比較の対象として無担保金融を取りあげる。 表-5
は永代,書入,無担保金融の取引別に平均取引金額をみたものである。 これによると永代,書入,無担保金融の順で取引金額が高くなっていることが ほぽ確認できる。無担保金融の中には多額の借入をする商人も含まれるので, 農民層だけに限れば無担保金融の平均取引金額はより低くなると考えられる。 (15) 無担保金融については,小西家に残された「金穀借用護券」から得られたデータを用い ている。また,無担保金融の借入主体が農民であるか,商人であるかについては証文から は特定できない。しかし,借入を銭ではなく,金で行っている場合は借入主体が農民であ る可能性は低いと考えられる。なお,金で借入を行っている場合の借入金額は一般的に多 くなっている。1293 近世後期秋田審農村における農地価格について 表-5 各取引における平均取引金額 西 家 塩 田 家 永代証文 書入言正文 金 融 永代証文 1801~1810年 44..8 16.9 25.0 1811~1820 50..0 7.3 1L3 1821~1830 58..6 25..8 21.3 1831~1840 87..6 865 30..0 1841~1850 166.6 6..7 1851~1860 186.8 42..9 1861~1867 131..7 94..5 注1) r小西家文書Jr塩田家文書」より作成。 注2)各時期とも取引事例が3件以上の平均である。 注 3) 単位は貫文。 53..3 111..2 232..6 書入証文 1L9 23..3 2L8 60.4 65..5 130..4 -237-このことから,農民が借入を必要としている場合,その必要な借入額の大きさ によって取引形態が異なっていることがわかる。すなわち,農民は少額の貨幣 が必要なときは地主から無担保で借入を行い,それよりも額が大きいときは農 地を担保として借入を行い(書入取引),より多額の貨幣が必要なときは農地を 永代売買することによって入手しているのである。 III.農地価格について 1. 年季売証文における農地価格決定方法 では,農地価格は当該地域でどのように決定されたのだろうか。分析対象の 地主家に残存している土地証文は上にみたような内容であるため,証文そのも のからは農地価格の決定方法はわからない。しかし,わずかであるがそれがわ かる証文も存在する。そのような史料として,以下に小西家の元治元年
(
1
8
6
4
)
の年季売証文一ひとつは「覚J,もうひとつは「御田地年季地証文之事」ーを示 す。 覚 貴殿所持之御田地大見内五百刈(略)三回米廿五俵上川崎キ百八拾刈八俵 大見内字(略)三百刈拾三俵右三ω田面当高壱石ニ付十四ノかかりニ致回徳沼8 香川大学経済論叢 1294 壱俵ニ付金子五両宛ニ市持入候而十ヶ年め被受返兼候ノ、ノて十一ヶ年めより 向五ヶ年中有合返り証文付ニ而此度譲受候所実正ニ御坐候(以下省略) 元治元年子六月十一日 小西彦四郎殿 当 村 平 八 印 中 立 辰 之 助 印 この「覚」は,正式な契約証ではなく,小西家が平八に農地を年季売りする際 の仮契約証ともいうべきものである。そして,その
1
ヶ月後に正式に契約が結 ばれる。次にみる証文は,上記の「覚」で取引対象となった農地の一部(,大見 内字(略)三百刈J)についての正式な契約証である。 御団地年季地証文之事 大見内 下々田六一十三=壱斗八升弐合 彦四郎 <以下6筆 省 略 > 分米合弐石壱斗六升五合 免四ツ八歩成此当高壱石七斗三升弐合 稲三百刈 外ニ 大見内畑 中国三一九= 内七升四合 免四ツ五歩成此当高五升五合五 右者苗代壱斗九升蒔壱枚 当高合壱石七斗八升七合五 <以下,知行名別当高の記述は省略> 右御団地代として正銭百四拾六貫七百参拾八文髄ニ受取当子年より向酉年1295 近世後期秋田藩農村における農地価格について -239-ー 迄十ヶ年季ニ相渡候所実正ニ御坐候十一ヶ年め成年三月迄ニ受返定若同年i 請返兼候はば翌十二ヶ年め亥年より卯年迄五ヶ年中有合勝手之年三月迄ニ 安堵銭百四拾六貫七百参拾八文積渡請返定ニ御坐候尤金子i両替時相庭ニテ 相渡水田ニテ御返被成候定右極通り受返兼候はば直々永代地ニ可仕候為後 念肝煎殿御役印組頭印形申請親類受合相立候上ハ毛頭相違無御坐候依テ証 文如件 渡 主 小 西 彦 四 郎 印 同 貞 治 印 親類請合 彦 蔵 印 元治元年子七月 当村大見内 平八殿 前文之通り相心得申候以上 肝 煎 長 之 助 E:
P
同 役 源 左 衛 門 :EP
組 頭 小 西 彦 四 郎 印 上にみた2つの証文は農地価格の決定方法についてきわめて重要な手がかり を与えている。先ず「覚」からわかることは,①「大見内字(略)三百刈」の 田地からの「三.回米」は「拾三俵」であること,②「当高壱石」に付き「十四 ノかかり」であること,③「田徳壱俵」に付き「金子五両宛」で取引すること である。「三i回米」とは,この地域特有の表現であり,本来は小作料を意味して いる。当時は地主が小作料から年貢諸役を払っていたため,この場合は小作料 に年貢諸役を含めた分を意味する。「当高壱石」に付}き「十四ノかかり」とは, 「十四」が14割と考えられるので当高に1.4をかける。当高は物成のことであ れその他の諸役,村入費などを含めれば当高の1.4
倍になるという意味であ ろう。さらに「田徳」とは,農民的剰余のことであり,この場合は三回米から240ー 香川大学経済論叢 1296 年貢諸役(当高の1..
4
倍)を差し引いた剰余分を意味すると考えられる。そし て,この「田徳J (剰余分)に金5両をかけて農地価格を決定するということを 「覚J(仮契約証)は言っているのである。だが r覚J (仮契約証)では当高と 取引価格が明記されていなし〉。それらがわかるのが「御田地年季地証文之事」 (本契約証)である。ここから当高「合壱石七斗八升七合五J,取引価格「正銭 百四拾六台貫七、百参拾八文」がわかり r覚J (仮契約証)にある農地価格決定方 法に基づく算定が可能になる。すなわち,三田米13俵から,当高1..7875石を 1ι倍して俵に直したもの(この地域では米3斗を1俵としているので,1.. 7875x
1..4x
10/3俵)を差し引くと 13..975/3俵になる。それに金5両をか け,さらに元治元年の小西家の金両替率金1両=銭6買 300文をかけると, 146 買737文5厘となり 5厘を四捨五入すると 146貫738文となる。 このような「覚J(仮契約証)と「御団地年季地証文之事J (本契約証)の両 証文が残っているケースが全部で5件あった。それをみたものが表- 6である。 表 6から, 3と5は「覚J (仮契約証)の農地価格決定方法と実際の取引価格 が同額であり 4についてはわずか3文の差である。また2については r覚」 (仮契約証)に通常の農地価格決定方法による価格に加えて,さらに金1両(銭 にして6貫300文)を付け足すという規定があり,そこでそれを付け足すと 734 貫248文となり,これも実際の取引価格とわずか4文の差になる。以上のこと から,元治元年(1864)の年季売証文については,三回米から年貢諸役(当高 の1..4
倍)を差し引いた剰余分,すなわち,田徳に一定の金額をかけたものを 表-6 年季売証文の対応(元治元年(1864)) 刈 三国米 当 高 回 徳 (俵) (石) (俵) 1 300 15 1..935 5..971 2 830 41..5 3.941 23..109 3 330 16..5 1.298 10..442 4 180 8 L285 2..004 5 300 13 1 788 4..658 注1) r小西家文書」より作成。 注2) 1両=6貫300文で換算。 回徳(俵)x 5 (両) X63(貫文) 188..079 727..948 328.907 63.134 146“738 実際の取引価格 (貫文) 197505 734..244 328.907 63..137 1467381297 近世後期秋田藩農村における農地価格について -241ー もって農地売買価格としていることが確認された。 ここで問題となるのが田徳に一定の金額をかける際の,その金額にーついてで ある。田徳1俵に付き金5両(銭31貫500文。両替率金1両=銭6貫300文と して)とあるが,当時の米1俵当たり価格は銭1買850文であり,米価として は高すぎるのであ
Z
。この差をどう考えればよいであろうか。収益還元地価決 定方式では通常,田徳に米価をかけてそれを利子率還元する。そこで,銭31貫 500文が既に利子率還元されたものだと仮定するとどうなるであろうか。米1 俵当たり価格を1買850文として計算すると,利子率は5“87%,約6 %になる。 この時期の小西家での無担保金融の利子率は月利1,,5%,年利にして 18%であ るので,それに比べると 6%は低い。が,ここでの農地譲渡主体が小西家であ り,小西家が農民から購入するという通常の取引とは立場が反対であるため, 譲渡主体が交渉において優位に立ち利子率6 %として農地売買価格を高く評価 させたとも考えられる。それはともかく,ここでは銭31貫500文がすでに利子 率還元されたものだとしておこう。 また r当高壱石」に付き「十四ノかかり」についても触れておく。年貰諸役 分を含めて当高に1.4倍するのは小西家に限られたものではない。次の資料は 文化年間 (1804"-'1815)に平鹿郡の隣郡である雄勝郡西馬音内堀廻村において, 他村の地主に売却した田地について,村再興のために農民たちが買い戻そうと して提出した計画書の一部である。 田地刈高 一八000
刈 高 -'00
石 余 一 石 一 八O
刈として 三回米 八一O
俵 - ' 00
刈四俵半として (16) この時期の米価については,秋田県編(1965),P 109,第61表を参照。平鹿郡増田の 12月時点の米価である。 (17) 先に述べたように,小西家は幕末期に一族内の紛争等によれ 農地の一部を売却したと 思われる。 (18)秋田県編 (1965),P 750~ P 751を参照。-242ー 香川大学経済論叢 内五
00
俵 貰 租 分 - ' 00
石に一五掛として 残三一O
俵 作 徳 米 1298 ここでは「ー00
石に一五掛として」とあるように,貢租分として高に1..5倍 したもの (f五00
俵J) を三回米810俵から引いて作徳米(田徳)310俵を算出 している。この事例からも,年貢諸役分として当高に1..4""'1.. 5倍した上で田徳 を算出することがこの地域で一般的に行われていたことが確認できる。さらに, 天保13年(1842)の雄勝郡下仙道村における当高1石当たり貰租・村入費をみ た表一7
からも,年貢諸役,村入費の合計が当高の1..5
倍前後になっているこ とがわかる。以上のことから,小西家が田徳の算出にあたって当高に1..4倍し ているのは,当時の年貢諸役,村入費の合計が当高の1..5
倍前後であったとい う事実に基づいたものであったことが確認できる。 表 7 当高1石i当たり貢組・村入費 内容 米(石) (%) 物 成。
780 5L6 小役銀代米 0..444 29..4 五斗米 0..057 3..7 筆役米代 0..025 L7 諸連貿。
..206 13.6 1..512 100.0 注1) r秋田県史』第三巻近世編下, P89 第45表より作成。 原資料は『土田文書Jr下仙道諸掛」。 注2)天保13年 (1842)の雄勝郡下仙道村の データである。 注3) r五斗米Jr筆役米代Jr諸連貫」は村入 費に含まれる。2
"
農地価格の推定方法 では,先の年季売証文の分析を通して明らかにした農地価格決定方式が永代 証文(永代取引),書入証文(書入取引)においてもとられているのであろうか。 このことを分析するにあたって必要なデータは,証文1
件ごとの刈,三回米,1299 近世後期秋田藩農村における農地価格について -243-当高,田徳(三田米と当高から田徳がわかる),取引価格である。しかし,永代 証文,書入証文のいずれについても元治元年 (1864)の年季売証文のように, 三回米,田徳などがわかる「覚」のようなものはほとんど存在しない。したがっ て,分析にあたって不足しているデータ(刈,三回米,田徳)については推定 する必要がある。また,各年における農地の取引事例が少数のため,ある一定 期間の時系列でサンプルをとらなければならず,その場合,年次の異なる取引 価格についてはインフレ率を考慮しなければならない。だが,この時期の秋田 藩農村におけるインフレ率は不明である。そこで,その代理指標として各年の 米価を用いることにする。すなわち,取引価格をその年の米価で割って実物ター ムに実質化する。従って,米価も各年の動向を知る必要がある。以下では必要 なデータの推定方法について述べる。 先ず,刈についてみる。刈とは,前述したように,この地域で流通していた 耕地面積の単位であるが,証文によってはこの刈が記載されていないものもあ る。例えば,分析対象である塩田家の天保13年 (1842)~慶応 3 年 (1867) に おける永代証文21件のうち 8件,小西家の寛政4年(1792)~天保 3 年 (1832) における永代証文45件のうち 23件についてはいずれも刈が記載されていな い。時代をさかのぽるほど刈の記載は減る傾向にある。図- 1は小西家の土地 証文から刈と面積がわかるものの相闘をみたものである。図-1から明らかな ように,刈と面積にはきわめて高い相関があることが確認できる。ここから単 回帰式をあてはめると, Y二 107..65**X
+
67..67
*
*
(30.99) (2 77) R 2=0..944,サンプル数58, ( )はt値(Y:
刈,X:
面積(反),R
2 :自由度調整済決定係数, 本< 1 %
有意) となり,刈の表記されていない証文についても面積がわかれば刈を推定するこ とができる。-244ー 香川大学経済論叢 図ー1 面積(反)と刈の相関 3500 刈 3000 2500 2000 1500 1000 500 O
•
o
5•
• •
.
.
・
• •
10 注)r小西家文書」より作成。•
•
15 20 塩田家についても同様に単回帰式をあてはめると, y = 128..32料 X+
84..25** (24..56) (3..99)R
2=0..901,サンプル数 67, ( )はt値 1300•
25 30 35反 (y:刈, X 面積(反), R 2自 由 度 調 整 済 決 定 係 数 * <1 %有意) となり,小西家と同じように刈を推定することができる。 次に三田米についてみる。三回米については,土地証文に記載されていない のが一般的である。だが,幕末から明治初期にかけては三回米が記載される証 文が増加する。小西家では三田米の記載されている証文が 42件あり,表- 8は この 42件について, 100刈当たり三田米を量別にみたものである。表- 8から わかるように, 100刈当たり三田米は1.2石が 6件, 1.5石が 18件というよう に,農地l筆ごとに細かく設定されているのではなしある農地一帯(小字レ1301 近世後期秋田藩農村における農地価格について 245-表 -8 100刈当たり三回米 三国米(石) 件数 ~1 19 2 L2 6 1..21~1..35 6 L36~L49 2 1.5 18 L51~ 8 注)I小西家文書」より作成。 ベル)で標準的な三回米が規定されているようである。
1
.
.
2
1
-
-
-
-
-
1
.
.
3
5
石などにつ いても,土地証文1
件ごとのデータではなく,土地単位ごとに1
0
0
刈当たり三 田米をみれば,1..2
石や1..5
石はより増加する。いずれにしても小西家の1
0
0
刈 当たり三田米の推定については,その平均が1
.
.
3
9
8
石であったので,1.4
石とす る。一方,塩田家では三回米が記載されている証文1
1
件の平均が1
.
.
2
9
7
石で あったので, 1..3
石とする。 以上の分析から,農地面積,当高が土地証文に記載されていれば田徳を推定 することができる。すなわち,小西家については, 田徳=刈-
;
.
-
1
0
0
X
1
.
.
4
-
当高XL4
ただしy (刈)=
1
0
7
,6
5
X
(面積(反))+
6
7
,.
6
7
となる。当高を1..4
倍したのは前述したように年貢諸役分を含めているからで ある。塩田家については, 田徳=刈-
;
'
-
1
0
0
x
1..3-
当高XL4
ただしy (刈)= 12
8
刷3
2
X (面積(反))+
8
4
“2
5
(19) 土地証文中に,例えば200刈 (100刈当たり三回米15石)と300刈(100刈当たり三 回米12石)の農地の取引が含まれているケース(計500刈,100刈当たり三回米1.32石) を,それぞれの刈を分けて考えるという意味。-246~ 伽) となる。 香川大学経済論叢 おわりに米価についてみる。小西家,塩田家とも米穀商を兼ねており, 1302 その 取引についても史料が一部残っているが, そこから米価のわかる年は限られて いる。そのため,時系列で米価の推移がわかる別の資料を用いなければならな しユ。 ここでは, 『秋田県史』第三巻に載った
2
つの資料を使う。 1つは北秋田郡 鷹巣市場の秋米米価であり,寛政2年(1790)~嘉永元年(1848) までの米価 の推移がわかる。ただし,天保4年(1833)以降の米価については信濃性に欠 。 掛 けるため,寛政2年(1790)"'-'天保3年(1832)までを用いる。 もう1
つは平 鹿郡増田市場の米価 (12月時点)であり,天保13年 (1842)"'-'明治元年(1868) 仰) までの推移がわかる。平鹿郡増田は小西家,塩田家の居村に隣接しており,小 西家,塩田家における米価をよく反映していると考えられるが,北秋田郡鷹巣 は地理的に離れており,平鹿郡増田と比べて相関が低くなることが予想される。 分析に必要なデータ (刈, 三回米,当高,田徳,米価) の推定方法は以上の とおりである。以下では,上記の方法で推定されたデータに基づいて,近世期 の永代証文,書入証文における農地取引価格が年季売証文で明らかにした土地ω
価格決定方式によって決まっているかを確かめる。方法としては,永代証文, 書入証文についてそれぞれ時期別に分け,各時期別に証文1
件ごとに推定され た回徳(実物ターム;米)と取引価格(実物ターム;取引価格/取引年の米価) を単回帰式(定数項をOとする)にあてはめ,その相闘をみるというものである。 すなわち, 一定期間内に行われた取引を1
件ずつプール・データとしてとり, (20) 塩田家でも,田徳の算定にあたって,小西家同様,当高に L4倍したものを三回米から 引くものとしている。 (21) 秋田県編 (1965), P 108,第 60表を参照。原資料は『鷹巣町役場文書Ji永年記」。 (22) 確かに天保期は米価が高騰するが,東日本各地の米価と比べても鷹巣市場の米価は高 すぎる。東日本各地の米価については,岩橋(1981), P 187~ P 224や山崎(1983), P 225~P 238の各表を参照。 (23) 秋田県編 (1965), P 109,第 61表を参照。原資料は『国安文脅Jr日記帳」。 (24) 農地取引を銭ではなく,金で行っている事例も少数だが存在する。その場合,小西家, 塩田家について両替率のわかる時期についてはその両替率を用い,わからない時期につ いては松好(1965), P 304~ P 306,金銀銭比価一覧表の「金一両に付江戸相場」の各時 期の平均を用いた。1303 近世後期秋田落農村における農地価格について -247 -Y =aX (aはノfラメータ) (Y :取引価格, X 田徳) にあてはめる。
a
は単回帰l直線の傾きであるが,同時に永代取引においては利 子率の逆数と考えることができ,したがって,この式は収益還元地価決定式に もなっている。時期については,先に述べた2
つの米価指標で分け,平鹿郡増 田市場米価のわかる天保13年(1842)~慶応 3 年 (1867) を第 3 期とし,北秋 田郡鷹巣市場米価のわかる寛政2年 (1790)~天保 3 年(1 832) を第 2 期,そ れ以前を第1期とし,具体的には宝永8年(1712)~寛政元年 (1789) とする。 第1期の農地取引は小西家の永代売買のみであり,宝永8年 (1712)から永代 売買が行われている。また,この時期の米価は不明だが,農地売買は米で行わ れているので分析に支障はきたさない。天保4年 (1833)~天保 12 年 (184 1) については米価不明のため,分析対象から除外する。分析対象となる農地は原 則的には田のみであるが,農地取引において分米に占める田の割合が90%以上 (10%未満部分は畑・宅地)の事例についても分析対象に含めている。 3.. 推 定 結 果 表- 9は推定結果を示したものである。ここでは時代の新しい第3期からみ ていく。第3期(天保13年(1842)~慶応 3 年 (1867)) については,推定で きる取引事例が塩田家に多く,小西家は非常に少ないため,主に塩田家につい てみている。永代証文については,決定係数も 0.690(塩田家と小西家を合わせ たものでは仏685)と比較的高く,元治元年(1864)の年季売証文における農地ω
価格決定方式と同様の方法で価格が決定されていると考えられる。また,回帰 係数は5..768であり,これから利子率を求めると約18%になる。一方,書入証 文についても,永代証文と比べて決定係数は落ちるものの,やはり元治元年 (25) 刈,三国米がそれぞれ推計され,米価指標も異なる上,取引相手との関係によっても取 引価格は変動すると考えられるので決定係数が1にはならない。-248- 香川大学経済論叢 1304 表-9 推定結果 永 代 証 文 対 象 時 期 分析対象 a 回帰係数 自由度調整 サンプ 利 子 率 ( )はt値 済決定係数 ノレ数 (%) 第1期 宝 永8年 寛政元年 小西家のみ 4..708材 (914) 0..292 36 21.24 (1712~1789年) 第2期 寛 政2年 天保3年 小西家のみ 3..328料(1032)
。
..609 45 30..05 (1790~1832年) 小西家+塩田家 3..295材(1063) 0..608 48 30..35 第3期 天 保13年 慶応3年 塩田家のみ 5..768柿 (994) 0..690 21 17..34 (1842~1867年) 塩田家+小西家 5 552" (10 92) 0..685 26 18..01 書 入 証 文 無担保金融 a 回帰係数 自由度調整 サンプ 利 子 率 利 子 率 ( )はt値 済決定係数 ル 数 (%) (%) 1.473材 (940) 0..606 19 24 24 1417材(1054) 0..561 30 24 24 2 092" (958) 0.592 26 18 18 2..505" (7 37) 0.429 28 18 18 注1)Y=
aX
で回帰。Y:
取引価格,X:
田徳。ホ-:1
%有意。 注2)永代証文の「利子率」は1をaの回帰係数で割って算出。書入証文,無担保金融の 「利子率」は各証文に記載された利子率(年利換算)のうち最頻値をとっている。 (1864)の農地価格決定方式に基づいて書入価格が決定されていると考えられ る。書入の場合,担保物件の農地の移動は,借手の契約不履行があった後でな ければ生じないので,その分だけ永代取引に比べて取引価格の評価が厳密では ないと考えられる。書入取引を行う際,農地の評価に基づいて書入価格が決ま るというよりもむしろ必要な借入金額が借手にあり,その額に基づいて農地が 担保となると考えるほうが実態に即していると思われる。さらに,利子率につ いてみると,書入証文に記載された利子率(年利換算)で最も多かったのが18% であった。この時期の小西家による無担保金融の利子率をみると,最も多いの がやはり 18%である。つまり,永代取引,書入取引,無担保金融とも利子率が ほぽ同じとなっているのである。このことは,農地価格決定に際して,田徳を 当時の利子率で還元していることを示している。1305 近世後期秋田藩農村における農地価格について -24少ー 上のような事実を補足する事例を以下に示す。それは慶応元年
(
1
8
6
5
)
に塩 田家の永代証文に附された「返り証文事」である。返り証文とは,永代取引に もかかわらず,後に農地譲渡主体が譲渡した農地を買い戻すことを取り決めた 証文である。この事例では,農地譲渡主体がそのまま譲渡した農地の小作人に なっており,年貢諸役については農地譲渡主体が支払うことになっている。さ らに,この「返り証文事」には,農地譲渡主体が買い戻す条件として「田徳と して安堵代江月並壱半利足を加ひ」とあり,安堵代(取引価格)に加えて月利1
.
.
5%
(年利にして1
8
%
)
の利足を田徳として,買い戻す期日まで塩田家に支払 うことが明記されている。つまり,田徳とは取引価格に利子率(年利1
8
%
)
を かけたものであり,逆算して田徳を利子率で割れば取引価格となるのである。 結局,第3期については,田徳を利子率還元するという収益還元地価決定方式 で農地価格が決められており,地主や農民が農地売買において経済合理性基準 に照らした経済行動をとっていたことが確認できるのである。 次に第2
期(寛政2
年(
1
7
9
0
)
"-'天保3
年(18
3
2
)
)についてみる。第2
期は 推定できる取引事例が小西家に多いため,主に小西家についてみている。表-9
から第2
期についても,元治元年(
1
8
6
4
)
の農地価格決定方式と同様の方法で 価格が決定されていると考えられる。永代取引において第3期に比べて決定係 数が低くなっているのは,この時期の米価指標である北秋田郡鷹巣市場米価と 小西家での米価との相闘が低くなっていることによると考えられる。一方,書 入証文では永代証文と比べて決定係数が落ちるのも第3
期と同様である。また, 利子率については,永代証文で約30%
であるのに対して,書入証文,無担保金 融では24%
となっている。永代証文の利子率が書入証文,無担保金融と比べて 高い要因は,文化1
0
年(
1
8
1
3
)"
-
'
1
2
年(
1
8
1
5
)
の3
年間続いた凶作からくる田 徳獲得のリスクを考慮したことによると考えられる。結局,この時期について も地主や農民が農地売買において経済合理性基準に照らした経済行動をとって いたことが確認できる。 次に第1
期(宝永8
年(
1
7
1
2
)
"-'寛政元年(
1
7
8
9
)
)
をみる。この時期の証文 は小西家の永代証文に限られる。表-9からわかるように,永代取引における-250ー 香川大学経済論議ー 1306 決定係数は0..292と高くなしこの時期の農地価格は元治元年 (1864)の農地 価格決定方式と同様の方法で決定されているとは断定できない。そこで証文か らわかるいくつかの指標(面積,分米,当高)と取引価格(実物ターム)との 相闘をみたところ,分米と高い相関があることがわかった。単回帰式(定数項 0)にあてはめると, Y=5..406**X (18ゎ07) R2=0 “751,サンプル数35, ( )は t値 (Y :実物ターム取引価格(石), X :分米, " R2自由度調整済決定係数 **
1%
有意) である。分米とは前述したように公定生産米高を指している。このことから, この時期の農地価格算定にあたっては田徳を利子率還元する決定方式ではな く,公定生産米高である分米を基準とする算定方式が用いられていたことが推 測される。この時期の永代証文において,刈の記載があるものはわずか4
件で あるということも,田徳に基づく農地価格決定方式ではないことを示している ように思われる。 第1期から第2期へ至る間,農地価格の決定方式が変わったとすればその要 因は何であろうか。田徳とは農民的剰余のことであり,農業生産物から年貢諸 役と農民の再生産に必要な分を差し引いたものである。幕藩体制における年貢 収奪が農民の再生産をぎりぎり保証する程度に厳しいものであった近世前期・ 中期においては,田徳の発生する余地はない。したがって,田徳の発生は,基 本的には定額の年貢諸役のもとで農業生産力の上昇があって初めて可能とな ω る。そして,田徳が発生することによって,地主はその回徳の獲得を求めて農 (26) 秋田藩では寛文10年 (1670)以降,租税制度は基本的には変わっていなし3。雄物川町 郷土史編纂会 (1980),
p 173~P 174を参照。1307 近世後期秋田藩農村における農地価格について -251-地集積を進め,その進行の過程で地主一小作関係も生じてくるのである。秋田 藩における農業生産力の上昇をみると,寛政 5年(1793)の六郡開発令,寛政 7年 (1795)の所産物取立などの政策がとられた寛政期頃を境として,それ以 後,唐箕・踏車・備中鍬などの農具の普及,干鰯・荏粕などの金肥の使用といっ 仰) た稲作技術の発展がみられたという。こうしてこの時期以降,農業生産力が上 昇し,田徳が発生することによって,田徳、を利子率還元する農地価格決定方式 に変化していったと考えられる。また,第l期から第2期にかけて農地取引に おける大きな相違として,取引が実物タームの米から銭に変わったことが挙げ られるが,それはこの時期に農村における商品経済化の一層の浸透がみられた ことの他に,農地価格決定方式が変化したことを暗示しているのではないだろ うか。
I
V
.
お わ り に 本稿では,近世期の東北地方農村において農地価格がどのように決定されて いたのかを明らかにすべく,秋田藩の地主家に残された土地証文を資料として 分析を行った。推定にあたって得られるサンプル数が少ないという問題点を残 しているが,本稿の分析からは以下のことが明らかになった。 ①元治元年(18
6
4
)
の年季売証文では,三田米から当高にL4
倍したものを引 いた田徳(農民的剰余)をもとに農地価格が決定されていた。 ②推定した結果,元治元年(18
6
4
)
の田徳をもとにした農地価格決定方式がそ れ以前の時期(第 2期及び第 3期)の永代証文,書入証文においてもとられて おり,田徳を当時の利子率で還元して農地価格が決定されていた。これは事実 上,収益還元地価決定方式であり,地主や農民が農地売買において経済合理性 基準に照らした経済行動をとっていたことを示している。 ③しかし,第 l期である宝永 8年(1712)~寛政元年(1 789) においては,回 (27) 雄物川町郷土史編纂会 (1980),P 351を参照。なお,近世期秋田藩における農業生産 カの上昇を具体的に示す資料はほとんどない。-252ー 香川大学経済論叢 1308 徳をもとにした農地価格決定方式ではなく,公定生産米高である分米を基準と する算定方式が用いられていた。この分米を基準とする算定方式から田徳をも とにした農地価格決定方式への変化には農業生産力の一定の上昇が考えられ る。 参 考 文 献 秋田県編 (1964), W秋 田 県 史 』 第 二 巻 近 世 編 上 , 秋 田 県 秋田県編 (1965), r秋 田 県 史 』 第 三 巻 近 世 編 下 , 秋 田 県 秋田県農地改革史編纂委員会 (1953), '秋田県農地改革史J,秋田県 阿部英樹 (1994), '近世庄内地主の生成],日本経済評論社 岩橋勝 (1981), '近世日本物価史の研究],大原新生社 岩本純明(1980),r東北水田単作地帯における後退期地主経済の動向J, 鹿 児 島 大 学 農 学 部 学術報告J,第30号 植村正治 (1986), W近世農村における市場経済の展開J,同文舘出版 大石慎三郎 (1958), r封建的土地所有の解体構造ゎ御茶の水害房 雄物川町郷土史編纂会 (1980), ~雄物川町郷土史J ,雄物川町役場 塩田康之 (1976), r塩田家系譜についてJ,秋田農村史研究会『塩田家史料目録』 品部義博 (1978), r東北水田単作地帯における地主経営の展開構造J,土地制度史学],第 79号 竹安繁治 (1961), ,.近世封建制の土地構造.1,御茶の水書房 橋本玲子 (1983), r明治期土地証文の研究J,葉山禎作・阿部正昭・中安定子編『伝統的経済 社会の歴史的展開』上巻,時潮社 松好貞夫 (1965), '復刻.B本両替金融史論J,柏書房 山崎隆三 (1983), W近世物価史研究J,塙書房 渡辺景俊 (1990), W農と民俗J,秋田文化出版社