• 検索結果がありません。

ハチスンのモラル・センスと道徳的認識の問題 : フランケナとノートンの論争に関連して

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ハチスンのモラル・センスと道徳的認識の問題 : フランケナとノートンの論争に関連して"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ハチス ンのモ ラル・セ ンス と道徳的認識 の問題

´ ―

フ ラ ンケナ とノー トンの論争 に関連 して

(昭和55年5月31日受理) l―

l

モ ラル・ センスの「認識性」をめ ぐる問題 近年

,ハ

チス ンの倫理思想 がかなり見直 されて きている観 がある。 とくにかれのモ ラル・セ ンス の 囁忍識性」をめ ぐって多 くの論議 がなされているのをみる。 これはもともと道徳 的認識論 をそれ の主題 に しているハチス ンの倫理思想 が今 日の分析的倫理学の課題 と関連す るところ大 きいか らで あると思 われるが

,ハ

チス ン研究のこの動向 に先べんをつ けたのは

,な

ん といっても

,フ

ランケナ

(winiam Frankena)で

あった といえよ う。フランケナが1955年 」

ournal of the History of

ldeas誌に発表 した「ハスチ ンのモ ラル・セ ンス説」(1)は ,ノ ー トンの↓旨摘 をまつ まで もな く

,ハ

チ ス ン研究史上 まさに画期的 なもので あった。す なわちフランケナは

,こ

の論文 において

,ハ

チス ン の

,と

くに初期 の立場 における

,モ

ラル・セ ンスはなんら道徳的真理 の認識 を事 とす るものではな く

,単

なるわれわれの道徳的情緒 (emOtion)を感 じあるいは表出す る (express)だ けのもので し かない と断 じたのである。つ ま り

,モ

ラル・セ ンスは「非認識的」(nOn・cognit

c)で ,そ

の立場 はエ イヤー

(A.J.Ayer)の

それに近 い とい うので ある。ハチス ンのモ ラル・セ ンス に対 しては

,こ

れまで もしば しば

,理

性主義者の側 か らその相対主義 が指摘 されて きた ところで あるが

,か

れをい わば今 日の「 情緒主義」(EmOt

ism)の

先駆 者 とす るこの見方は

,フ

ランケナ自身 も述べている よ うに

,こ

れが最初 のことで あった。 フランケナはこの見方 に立 って

,ハ

チス ンは倫理学の歴史 に おいて これまで よ りも一層重視 されるべ きで あり

,そ

の考 え方 は現代倫理学 に示唆す るところ大 き いと結んで いるのである。 この論文の後

,と

くに現代倫理学 との関連 において

,数

々のす ぐれたハ チス ン研究 が世 に問われることになったのは

,明

らかにこれに刺激 されたもの とい わな くてはなら ないで あろ う。

ところが

,最

,上

述 したカナ ダの ノー トン

(David Fate NOrtOn)が

, しヽチス ンのモ ラル・

セ ンス説再考」(2)と

題す る論文で

,真

っ向か らフランケナに挑み

,ハ

チス ンのモ ラル・センスはあく

まで 囁忍識的」(cognit

e)で

あ り

,フ

ランケナは誤 っていると論ぱ くして

,問

題 は又ふ り出 しに

戻 された観 を呈 している。もっともノー トンはフランケナの主張 のすべて を否定 したわけで はなく,

(2)

2横 決 してエ イヤ ーの立場 にはな らない とい うので あ る。 ノー トンはむ しろハ チス ンのモ ラル・セ ンス の もつ その よ うな特色 のゆ えにこそ

,か

れ は倫理 学 の歴 史 において よ リー層重視 され るべ きなのだ と して い るので ある。 われ われは この ノー トン論文 の反応 を きいて はい ない。 しか し思 うに

,こ

のモ ラル・セ ンスの 囁忍 識 性 」をめ ぐる問題 はそ うたやす い問題 で は ないよ うで ある。ハチスンにおいて概 念 そのものが 一 なによ りもそれ を明確 にしよ うとしたハチス ン自身の意 図 にもかかわ らず ― は なはだ あいまいで, その表現 は実 に多様 な意味 を もつ とは これ まで も常 に指摘 されて きた ところで あ るか らで あ る。 ブ ラ ックス トン

(W.Blackston)の

言葉 を借 りて い えば

,ど

れ に「区分 けすべ きか まこ とにむつ か し ぃ」(3)も の があ る。フランケナ か らノー トンに至 る間の多様 な解釈 もそれ を示 して い るで あろ う。た とえば上述 した ブラックス トンや ピーチ

(B.Peach)な

どは基本的 にはフ ランケナの立場 に立 ちな が らも

,な

お そ こにある種 の 「客 観 性 」 は主張 で きると してお リサ)ス ミス

(J.W.Smith)は

ハ チス ンにおいて道徳 的判断 の客観′性は主張 されてい るけれ ども

,モ

ラル・セ ンスの是認 はそれ と結 びつ かず, そのギ ャップをうめるため にかれは結局 神学 に逃避 した とみて い るF)イ エ ンゼ ン (H.Jensen) も

,モ

ラル・セ ンスの 晴忍識 的」側 面 と「非認識的」側 面 の両面 をつ きとめて

,ハ

チ ス ンは結局,

原理的に矛盾

,混

乱 していると断 じているのである炉

)こ

のほかに

,直

接的な論述はす くないが,ロ

バーツ (T.A.Roberts)は 「ハチスンのモラル・センスないし直覚

(intuition)」

は り

,認

識的」

あ るい は「)F知 性的」(nOt―intellectual)であ るが

,か

れ は決 して「道 徳 の主観 主義者 (subjec―

ti

st)で

は ない」 と見γ)ハ ドソ ン

(W.D.Hudson)は

一 種 の感 情 的 直 覚 と して その 「認 識的 」 な

機能をとらえている伊

)こ

れらに古くからのハチスン解釈を合せ考えると

,モ

ラル・センスの見方

I土 多様極 ま りない とい うほかないで あろ う。 ただ

,そ

れ に もかかわ らず

,否

,あ

る意味 で は その多様 な側 面の ゆえに

,ハ

チ ス ンは もっ と注 目 されて よい とは

,多

くの研 究者 の指摘 す る ところで もある )以下 において われ われ も

,こ

れ までの 論議 をふ ま え

,主

にフ ラ ンケナ とノー トンの議論 に沿 って

,こ

のモ ラル・セ ンスの 晴忍識性 」の間 題 につ いて考 えてみ よ うと思 うよ0わ れわれのみ るところでは

,そ

のモ ラル・ セ ンス は

,ハ

チ ス ンの 経験 主 義 的倫理 学の原則 に立つ限 り,「)F認 識 的」で

,し

か しそこには なん らかの 「客 観 性 」ない し 「妥 当性 」 は主張 され うると思 われ る。 ただ

,ハ

チ ス ン自身 その経験 主義 を必 らず しも徹 底 して い なか ったので は あるまいか。 l l フランケナ・ ノー トン論争のあらま し まず

,こ

の論争の両極 にあるフランケナ とノー トンの議論 をあらためて要約的 に整理 してい くこ から考察 をは じめよ う。 フランケナはハチス ンの経験主義的倫理学 に開かれている立場 は三つ あるとして

,そ

の第一 を, 作

(3)

ハチスンのモラル・センスと道徳的認識の問題

3

「 あ る種 の 自然主義

,つ

ま り

,そ

れ によ る と

,倫

理 的判断 は認識 的で あ り

,あ

らゆ る倫理 的名辞 は 複 合的で

,経

験 的概 念 ない し性 質 との関連 において定義 され うる」 もの と し

,そ

の第二 の立場 は, 「倫理 的性 質 は経 験 的で は あ るが単純 で

,特

殊 な

<セ

ンス

>に

よって感 知 され る (apprchend)と す るもの。 この見解 によれ ば

,倫

理 的判 断 は認識 的で ある。事実

,こ

の見解 は

,合

理 的で も非合理 的 で もない けれ ども

,一

種 の直覚主義 といってよい。」第二 の立場 は「ある種 の倫理 的情緒 説 ない し 非認 識説 」で あ ると し

,一

体 ハ チ ス ンは この二つ の立場 のいず れ に属 す るか と問題 を提起 す るこ と か らその論考 をは じめて い るので ある。 この問 い を解決 す るため にフ ランケナは

,ま

,道

徳 的 区別 は理性 か らで は な くてモ ラル・セ ン ス か らくるこ と

,そ

のセ ンス は他 の 自然的性 質 か らまった く独立 した

,そ

して独 自なもので あ るこ

,つ

ま り

,道

徳 的 区 別 は まった く独 特 の (uniquc original)セ ンス によって知覚 (perceive)

され る もので あ るこ と を強 張 し

,し

か しなおハテ ス ンの考 え方 は不 分 明 で あ ると して

,ブ

ロー ド

(C.D.BrOad)の

「倫理 説 の三分類

Jを

援 用 し

,ハ

チ ス ンの立場 を決 め よ うとす るので あ る。参 考 まで にブロー ドの三分類 を全文引用 してお く。

「A.主観 的 モ ラル ・セ ンス説 (The Subject

e form of the MOral Sense Theory)こ

れ は

一種 の 自然主義 で あ り

,そ

れ による と

,倫

理 的名辞 や命題 は認識 的で あるが

,話

者 や ほ とん どの ひ

とび とな どの主 観 的状 態 との関 連 で分析 で きる。つ ま り

,そ

れは

<Aは

倫 理 的 賓 辞

EPを

もって い

る>と い う私 の陳述 を

<私

のモ ラル・ セ ンス はAを是 認 す る>と か

,<大

て いの ひ とび とのモ ラル

・セ ンスはAを是認 す る

,も

しも…… ならば

>な

ど と分析 す るもので ある。」「B.素 朴実在的モ ラル・

セ ンス説 (The Naively Realistic fOrm of the Moral Sense Theory)す なわ ち

,倫

理 的性 質

は行為や人物 に本来的で

,単

純 な経験的性質で あ り(つまり客観的

),特

殊 なモ ラル・セ ンスによっ

て直覚的 に感知 されるとい う見解。 この見解 によれば

,道

徳 的判断は

,先

のそれと同 じく

,認

識的

で ある。ただ

,先

の見解ではモ ラル・セ ンスその ものは認識的ではない。それは単 なる情緒的反応

で しかない。 こちらの見解では

,そ

れはある行為や人物 に徳 や善

,正

しさなどの独 自な

,定

義で き

ない性質 があるかどうかを認識す る能力で ある。」「C.感嘆説 (The lnterieCtiOnal Theory)こ れ

は主観説 に対 しては倫理的判断は認識的 (真あるいは偽

)で

はない とし

,素

朴実在説 に対 してはモ ラル・セ ンスは認識的能 力ではない, と主張す るもので ある。つ ま りそれは倫理的発言 を

,情

緒 を 表出 し

,発

す るもの として

,表

現上 も行為上 もまった く「 情緒的 な」 (emOt c)ものと見 なすもの で ある。ただ

,そ

の表出 され

,発

せ られた情緒 は独 自な道徳的情緒で あって

,単

なる賛否の態度で はな く

,ま

してや単 なる仁愛 (benevolence)や 同感

(sympathy)で

はない。」 これがブロー ドの「倫理説の三分類」で あるが

,ハ

チス ンはこの中のいずれに属す るかとい うの がフランケナの探究の 目的 となったわけで ある。 そこでかれは

,こ

れまでの大ていの研 究者 はBの 素朴実在説又はある種の主観説の立場 をとっていた とし

,あ

えてこれに対 して

,Cの

感 嘆説の立場 をとろ うとい うのである。

(4)

4横 フランケナによれば

,た

しかにハチス ンにはある種 の主観説のよ うに見 える面 もあるが

,ハ

チス ンは決 して統計 に訴 えてわれわれの道徳的判断 を正当化 してはいない。又

,素

朴実在説のよ うに見 える表現 も時 に見 られるが

,そ

こではハチス ン自身記述 が不完全だ とい うことを認めている。

<セ

ンス>と か

<知

覚す る

>(perceive)と

, <感

知す る

>(apprehend)な

どの用語 も

,当

時のつ かい方やハチス ンの用例 か ら見て

,こ

れを直覚 ととる必要 はないとい うので ある。そ して更 に決定 的 なことは

,ハ

チス ン自身 ある行為 を善 と判断す るとはそれ らを眺 めて快 を感ず ることであるとし ていることだ とい うので ある。ただ

,そ

うなると

,ハ

チス ンの立場 はむ しろ主観説のよ うに見 えて くるが, しか しわれわれの道徳的判断は

,何

よ りも

,ひ

との行為の動機 や意図 にかかわり

,そ

れを 認めてモ ラル・セ ンスが映苦 の感 においてそれに反応す るとい う形 をとっているので あって

,こ

れ をもし

,わ

れわれがその行為 を眺めて快感 を感ず るとい う事実 を表明 していると解す るなら

,ハ

チ ス ンはまった くでた らめとなって しまうとい うので ある。実際

,主

観説は感情 によって道徳的区別 を主張 す るハチス ンの意図 にも合致 しない。 なぜ なら

,快

苦 の感 についての経験 的命題 は経験的探 究の仕事であ り

,理

性のなすべ きことで あるか ら, とフランケナはい う。つ いで に

,フ

ランケナに よれば

,素

朴実在説 もハチス ンの理性主義批判の意図 に合致 しない。ハチス ンでは動機づ けや義務 は真理 の認識 に究極的 に基づ いているのではない。 ところが

,素

朴実在説では行為やひとの性格 に つ いての真理の認識 がす くな くともその正当化の究極的根底 をなしているからである。 か くて

,フ

ランケナによれば

,私

は単 にある独特 な快感 を感 じ

,言

葉 によって これを表 わ し, も し同 じよ うな状況 にあれば他 のひとびとも同 じよ うに感 じるで あろ うと確信 しているにす ぎないの で ある。つ ま り

,私

の道徳的是認 は 弓F認識的」で

,エ

イヤーの最近の立場 に極 めて近 いことにな るとい うので ある。 もっとも

,現

実的 には

,モ

ラル・セ ンスは仁愛 を是認す ることになっている。 それをどう説明す るか。フランケナは

,そ

れに対 して

,モ

ラル・セ ンスの仁愛への対応 は外 から眺 めると実 は偶然の一致で しかないことをハチスンは認めるに違 いない。ただ

,そ

れにもかかわ らず, 内側 か ら見 ると

,そ

れは理性主義者 と同 じく必然のよ うに感 じられるとハチス ンは主張す るで あろ うと答 えている。 以上 がフランケナのモ ラル・セ ンスを「非認識的」 とす る主張 のあらま しで あるが

,こ

れに対 し てノー トンはどのよ うに反撃す るであろ うか。 ノー トンは

,ま

,フ

ランケナ論文の形式 からその論 ぱ くを開始 し

,フ

ランケナがブロー ドの三 分類 に従 って消去法的 にAと Bの 立場 を否定 してCの 立場 をとるとい うや り方 をとり上 げて

,こ

れが 解釈 され うるすべてではなく

,又 ,モ

ラル・セ ンスは決 して単 に一つの機能のみをもつ ものではな いとしてフランケナに反撃す るので あるが

,モ

ラル・セ ンスを りF認識的」 とす る見方への直接的 反論 としては

,二

つの観点 か らこれを行 っている。 その一つは

,ハ

チス ンの倫理学の意図 に関す るもので, ハチス ンはモ ラル・セ ンスの認識性 と動 機性 を決 して相 いれないもの とは していない

,つ

まり

,動

機 となれば認識的 にはならぬとは限 らぬ 作

(5)

ハチスンのモラル・センスと道徳的認識の問題

5

とし

,更

に重要 な意図 として

,ハ

チス ンの真の敵は理性主義者ではな くてホッブズやマン ドヴィル, それに多分 ロ ックなどの道徳 の懐疑主義者で あ り

,ハ

チス ン自身 はあ くまで シャフッベ リーの立場 を率匹承 しよ うとしたもので あった とい う。 ノー トンの第二の反論 は

,ハ

チス ンはシャフッベ リーに 従 って

,常

に人間本性 (human nature)に 留意 し,そ こに道徳 が実在す ることを確信 していた とい うことで ある。ノー トンによれば

,ハ

チス ンは人間本性の観察 か ら

,至

るところで

,ホ

ッブズやマ ン ドヴ ィルの利己説は誤っているとし

,道

徳 を自利のための人工的産物 にす ぎないとす る厭世的で 皮肉な

,危

険 な考え方 を鋭 く批半」して

,道

徳 の実在 (reality)を 強調 しているとい うので ある。 ノ ー トンのフランケナ批判の第二点 は

,ハ

チスンにおける超越論的論法 (transcendental argument) の使用で

,ハ

チスンは道徳的区別 の事実の説明はモ ラル・セ ンスを仮定せず にはあ りえないこと,

理性主義の立場でもそれを仮定せずには説明が成り立たないことを特に『モラル・センスの例証』

で強調 しているとい う。 ノー トンは以上でフランケナの非認識説の論ぱ くは決定的 になった とし

,論

ぱ くの出発点でふれ たモ ラル・セ ンスの複合的機能 につ いて言及 してい くので ある。ノー トンによれば

,モ

ラル・セ ン スはす くなくとも二つの異 なった 一― しか しそれぞれ切 りはなしがたい 一 感性 (sensibility)な

いし機有ヒ(function)を もっているという。その一つは「意向」(The DispositiOnal Sensibility)

,ノ

ー トンによれば

,モ

ラル・セ ンス な しにはわれわれは徳 を賞讃す ることも

,道

徳的結果 を利

害 をはなれて判断することもで きない。つ まり

,一

切の道徳的メす応 が不可能 になるとい う。第二の

感性 は「動機づ ける力」

(The Mot

ating Sensibility)で

,モ

ラル・セ ンスは

,先

に述べたわれ

われの行 為 を導 く機能 をもつ とい うことであ り

,第

二の力が 噺忍識 力」(The Cognit e Sensi―

bility)だ とい うのである。 ノー トンはここでフランケナの指摘 したモ ラル・セ ンスの「 謄緒 的」 性格 を否定す るものではないとし,「モ ラル・セ ンスは道徳 的 実在 を直接知覚す ることは不可能で あるとしても

,そ

の実在 を間接的 には知覚す るので あり

,認

識的 と考 えられな くてはならない」 と して くるので ある。

9

ノー トンの反撃の意義 さて

,以

上のフランケナとノー トンの論争 に対 して

,わ

れわれ としてはどう考 えるべ きで あろ う か。 ノー トンの反撃 によってフランケナは論ぱ くされつ くしたのであろ うか。 われわれとしてはノー トンの反撃 がフランケナの主張の十分 な論ぱくになったとは考 えがたいが, この反撃 はフランケナの見方の行 きす ぎを是正す るのには大 きな意味 をもっていると思いたい。 と くに

,ハ

チス ンの意図や人間本性 における道徳 的判断の事実 に留意 し

,そ

こに道徳 の実在性 を見た 意義 は大 きいで あろ う。 ノー トンの 「客観性」の見方 には問題 があるとして も

,ハ

チス ン自身道徳 的是認 を単 なるわれわれの情緒 の表出 とは決 して考 えていなかったで あろ う。す くなくともハチス

(6)

6 れ贅 ンは道徳 の懐疑主義者ではない。人 間本性 において道徳 の究極的根拠 となっているモ ラル・セ ンス が現実的 には大 きく変動 し

,そ

の判断 が多様 となりうることはハチスン自身認め るところで あるが, しか しそれにもかかわらずハチスンはモラル・センスの是認や非難 には大 きな斉一性 (uniformity) があるとし

,そ

れは普遍的で あることを至 るところで強調 しているので ある。ハチス ンによれば, モ ラル・セ ンスの変動は

,実

,セ

ンスその ものの誤 りとい うよ りもむ しろ主 にそれに先立つ事実 の訣認 によるもので

,セ

ンスその ものはほ とん ど常 に誤 ることなく仁愛的行為 を是認す るとい うよ〕 ある行為の見方 につ いて対立 があった場合

,そ

の行為の人類全体 の自然的善 に向 う傾向 ない し影響 の点で合意 がえられれば

,道

徳性 は直 ちに決定 される12ともいわれている。 ブラックス トンや ピーチ などが基本的 にはフランケナの立場 に立 ちなが らも

,な

おそこになん ら かの客観性 を見 よ うとしているの もここにあるであろ う。われわれもなん らかの意味でハチス ンの モ ラル・セ ンスとその判断 にはある種 の客観性 ない し妥当性, あるいは意味 があると思 う。 否

,ハ

チス ンの表現だけをとって見 るなら

,そ

こにはモ ラル・セ ンスを明 らかに 欧 識的」 とさ せ る数多 くの ものを見出す ことがで きるよ うで ある。た とえばハチス ンは真 に有徳 な行為 とは「人

間本性の真の状態

(real State of Human Nature)に

適合す ること」で あるとし19これを「真 の

顔」(true face)はむとも語っているのを見 る。『美 と徳の観念の起源研究』第二部 冒頭で,「 この書 で道徳 的善 というとき,それは是認 を うるよ うな行為 に認 め られるある性質の観念 を意味す る」ほDと 宣言 し

,更

には,「 われわれのモラル・セ ンスによって是認 される性質は是認 され る当の人物 に存 し ていると考 えられる」は0と して

,道

徳 的性質の客観的実在 を主張 しているよ うに見 える。これらはそ のまま,「 われわれはあるものがす ばらしい (exCellent)か らそれを眺 めて'際適 になるのであって, それがわれわれに快感 を与 えるか らすば らしい と判断す るのではない」仕ηとする後の

,ハ

チスンとし てはかな り変化 した立場 に通 じるもの ともとれるで あろ うよ9 フ ラ ンケナの解釈 はす くな くとも極 めて極端 で あった ことは否 め ない と思 われ る。 lrll モラル・ センスの「非認識的」側面 しか し

,そ

れならば

,フ

ランケナは本艮本的 に誤 った解釈 をしたので あろ うか。ハチス ンのモ ラル ・セ ンスをわれわれも又積極的 に「認識的」 と見 るべ きであろうか。そ うではないよ うに思 う。ハ チス ンの経験主義的倫理学の原則 に立つ限 りでは

,フ

ランケナの主張 は全面的 には否定 され えない ものをもつ もののよ うである。 これを

,ま

ず,ノ ー トンの反撃 の方 か ら見てみよ うと思 う。主 にハチス ンの意図や人間本性 にお ける道徳 的是認の事実 に基づいてフランケナを論ぱ くす るノー トンの意義 につ いては上 に見 た とこ ろで あるが

,

しか し

,果

してそれだけで決定的 となるであろうか。「大切 なのは作品であり

,意

図で はない」 とす るほど結果 を重んず るわけではないが

,ノ

ー トンの反撃 はフ ランケナの提起 したもの 作

(7)

ハチス ンのモ ラル・セ ンス と道徳的認識の問題

7

に対す る十分 な論 ぱ くとはなっていないのではなかろ うか。 人間本性 に道徳的是認や非難の独 自な感 が自然的 に

,根

源的 に存す ること

,そ

れは自己の利害の 念 とまったく異質の もので あることになによ り留意 したのはた しかに重要 なことであった。 しかし, その ことが直 ちに

,モ

ラル・セ ンス とその判断 をブロー ドのい う意味での道徳 の 「客観性」 ない し 「実在性」の立場 とさせ ることになるかど うか。人間本性 に独 自な道徳 的区別の感 が存在す るとい うこ とがそれが 「直覚」で あることの証明 となるかど うか。 もしそれで十分 なら

,道

徳的是認 や非 難の念 が人間本性 に生来的 にそなわ り

,教

育や政治 などか らそのすべてが くるので は決 して ない と 至 るところで強調 しているヒュームにおいてなにゆえに情緒主義的側面 が しば しば指摘 されるので あろ うかよ9ハチス ンはた しかに道徳 の独立 を説 き

,人

間本性 におけるその根拠 を強調 している。 し か しそれはなによ りもホ ッブズやマ ン ドヴ ィルなどの利己説 に対 していっているので あって 一― も ちろんそれも道徳 の一種の実在性 を示す ことになるが 一

,そ

の こととモ ラル・セ ンスを直覚的能 力と見 なす こととの間 にはなお距離 があるといわな くてはならない。 そもそも先 にふれたよ うに, フランケナがブロー ドの三分類 を適用 しえたの も

,そ

の人間本性 におけるモ ラル・セ ンスの独 自な 性格 を確信 したからで あった。フランケナのその分類の適用の仕方 にも問題 は残 るとしても

,フ

ラ ンケナ とノー トンの議論 は

,す

くな くとも十分 かみ合 っていないよ うに思 われる。 ノー トンはわず かに脚注で リー ド

(T.Reid)の

言葉の中に快 を感 じることと外物 の感覚 とが別 もので ないとす る表 現 が見 られるとし

,当

時 において も

<セ

ンス

>や <知

>に

囁忍識的」 なはた らきは見 られていた と実只的批半Jを加 えているが '0こ れとてもフランケナに対す る決定的 な反撃 とはならないで あろ う。 す くな くともモ ラル・セ ンスを直覚的能 力とさせ るには十分ではないといわなくてはならない。 そもそもハチス ンが真理認識の能力で あるとされ る理性 に道徳的区別 の力を拒み

,そ

れは独 自な 感 じによるとしたとき

,モ

ラル・セ ンスに真理 の認識 はすべて否定 された といってよいので はなか ろ うか。ハチス ンは

,あ

らためて述べ るまで もなく

,原

則的 にはロ ック的 な経験主義の立場 に立 っ てお り

,そ

こではまだ直覚の作用は見 られていなかったからである。 これを「感情的直覚」 ととる ことも

,ハ

チス ンの認識論の立場 からして

,や

は り無理 と思 われ る。ハチス ンはた しかにそのモ ラ ル・セ ンスを しば しば「不可思議 な性質」(occult quality)の 「木能」とも呼んでいるが

,そ

の場 合で も

,経

験主義的 に説明 される限 りでは

,他

の五官 などとなん ら違 った意味のもので はない とい われているのを見 るピ0モラル・セ ンスは一般的 にはた しかに斉一的で あるとは上 にふれた ところで あるが

,

しか し

,そ

れはなにも絶対無過誤の神秘的能 力ではなく

,先

にふれたよ うに現実的 にはか なり大 きく変動 を余儀 な くされることは事実 なので ある。 これに関連 してハチス ンが次のよ うに加 えているのを見 る。「これにこたえるためにわれわれは色

,音,味

,匂

,快

苦のような感覚的観念 のあるものはただわれわれの心の中の知覚で しかなく

,外

にある性質のイメージでは決 して ないこ と

,反

対 に持続

,数

,延

,運

,休

止 などのよ うな他 の観念はある外 にあるもののイメー ジで あ ることを思 い起すべ きで ある。今

,区

分上

,後

者の方 を感覚の付随的観念 と

,前

者の方 を糸屯粋 に感

(8)

8横 覚的観念 と呼んでいいと思 うが,糸屯粋 に感覚的観念はわれわれの器官の不調 によって変化 し

,同

じ ものが別の ときには違 ったもの としてわれわれに感 じられることをわれわれは知 っている。 われわ れは不調の ときのわれわれの知覚 によってではなくて

,わ

れわれの通常の (ordinary)知覚 ない し 好調の ときの他 のひとびとの知覚 によってこれを行 うので ある。で も

,そ

のゆえに

,だ

れも色 や音 や味 が感覚的観念ではないと思 うものはない。……。(道徳的

)是

認 は調和 や味や匂 いの快以上のあ る外の もののイメージであると思 ってはならない」 とピD もっ とも, ノー トンがハチス ンのモ ラル・セ ンスを 晴忍識的」 とす ると き, それ を必 らず しも 喧 覚」 ない し「素朴 実在的モ ラル・ セ ンス」 と見 な してい るので は ないか も知 れ ない。 ノー トンの他 の ある書評99などか ら見 ればそれは明 らかに直覚的 な意味で の認識 をさ して い ると思 われ るが,ノ ー トン自身 は先 の論文で は「自然主義 」 ない しブロー ドの い う意味 での 「主観 的」 な立場 につ いて は なん ら言及 してお らず

,い

ず れの立場 での 「認識的」 とも述 べ てい るわけで は ない。で は

,ハ

チ ス ンの子 ラル・セ ンスは「自然主義」の立場で とらえるべ きで あろ うか。 しか し

,そ

れ も

,フ

ラ ン ケナ とともに無理 と思 われ る。 もっ とも

,ハ

チ ス ンは

,フ

ラ ンケ ナの見 る以上 に「 自然主義 」的側 面 を有 して いることは否定で きないよ うに思 う。フ ランケナのハ チス ンヘ の言及 はセ ル ビー・ ビ ッグ (Selby―

Bigge)の

抜粋 版 によるもので

,そ

の点でも はなはだ限 られた もの になって い るとは ノー トンが先 の書評で指摘 して

いるところでもあるが

'0そ

の限られたテキストにおいてさえ

,フ

ランケナ自身しばしば「自然主義

的」 と見 える表現 に出 くわ し

,か

な りの戸惑 いを見せている。 われわれはフランケナの引用す るも の以外 にも数多 くのそのよ うな表現 を見 ることがで きるで あろ う。既 に先 に引用 した「われわれの 通常の知覚 ない し好調の ときの他 のひとび との知覚 によって……」とぃうのもそれを示すが,「 われ われの自然の構造 が

,こ

れ らの愛情 が示 されたとき

,そ

れに影響 されるよ うに

,そ

してそれ らをす くな くとも悪 いものではないと是認 させ るよ うにつ くられているので ある。」¢〕「もしわれわれが至 るところで

<気

だての優 しい

>(amiable)と

いわれているすべての行 為 を調べ

,そ

れ らが是認 さ れる根拠 をたずねるならば

,そ

れ らを是認す るひとびとの意見の中で

,そ

れ らは常 に

<仁

愛的

>あ

るいは

<ひ

とへの善意

>な

い しそのひとびとの幸福 を図 る気持 から流 れ出ていることを見出すであ ろう。……そこで

,他

人 を幸福 にさせ るよ うなすべてのや さしい行為 と

,そ

のよ うな愛情 か ら流 れ 出ると思 われる行為は

<道

徳的 に善>だ と思 われる。」90これ らの表現 か ら統 計的方法 を汲み とるこ とも不可能ではないよ うに見 える。 しか し

,そ

れにもかかわらず

,わ

れわれも

,フ

ランケナ とともに

,自

然主義的解釈 は退 けざるを えない。 なぜ なら

,既

にこれ らの例 にも同時 に明 らかで あるよ うに

,ハ

チス ンにおいて道徳的是認 ない し正当化 が第一義的 にその統計か らきているのではないか らである。是認や非難は

,ま

ず はな によ りも

,あ

る独 自な映苦の感 の中にあるので あ り

,

しかも

,そ

の快苦の感 がそれ自体で是認や非 難 を構成す るので もないからで ある。「是認する者の知覚はた しかにある快 を伴 うが

,そ

れはその快 作

(9)

ハチスンのモラル・センスと道徳的認識の問題

9

とは明 らかにまった く異質の ものをあ らわ している。」¢ηハチスンにおいて道徳的是認 と自然 との間 には

,フ

ランケナの見 る以上 に深 い関連 があるよ うに思われるが

,そ

れにもかかわらず われわれは, やは リフランケナ とともに

,モ

ラル・セ ンスの もつ独 自のはた らき

,道

徳独 自の「 情緒的」側面 を 認めな くてはならないよ うで ある。 フランケナは依然 として論 ぱ くされつ くさないものをもっているかのよ うに見 える。 ノー トン自身

,先

にふれたよ うに

,そ

の論文の最後でモ ラル・セ ンスの「 情緒的」側面 を認め, 「直接知覚す ることは不可能」 とした とき

,道

徳 的真理の認識 がハチス ンの経験主義的倫理学の体 系 においてはなはだ困難であることをよ く見ていたのではなかろ うか。 ノー トンはモ ラル・セ ンスの 「認識的」機能のほかに「意向」機能 と「動機づ け」の機能 をとら えたことは先 に見たところで あった。 これはハチス ンのモ ラル・セ ンス をよ り深 くとらえたもの と してはなはだ意義のある解釈で あるが

,実

,そ

れ らは

,モ

ラル・セ ンスを 晴忍識的」 とさせ るよ りは

,む

しろ り仁認識的」 とさせ るの に力を貸すのではあるまいか。

lll「

ヲF認識的」害観説 われわれは

,こ

のようにして

,ハ

チスンのモラル・センスの立場 は決 して道徳の懐疑主義ではな いにもかかわらず

,そ

の道徳認識論 に即 して見 る限 りでは

,そ

れは依然 として「非認識的」で しか ないことを見てきたわけである。では

,ハ

チスンは,イ エンゼンなどがい うように

,や

はり矛盾, 混乱 していると見るほかないのであろうか。 そこに至る前 に

,そ

の両側面をつなぐべ く

,今

すこし努力してみる必要があるように思 う。幸い にしてわれわれは

,ブ

ラックス トンやピーチなどのいわば折哀的 ともいえる考え方を知っている。 このひとたちはその間をどうつないでいるのであろうか。 ブラックス トンがピーチをか照 しているように

,両

者はほとんど同 じような考え方であるといえ ようが

,ま

ず, ピーチの方から見ていくと

,モ

ラル・センスは

,フ

ランケナとはすこし異 なった根 拠で

,や

はり, 聘F認識的」とされる。それは

,も

しモラル・センスが 囁君識的」で直覚を意味する なら

, 1.そ

れが誤るはずがなく

, 2,そ

れは理性 ということになる。

3.ハ

チスンは道徳的性質 をなん ら客観的 としておらず

, 4.フ

ランケナの主張するように

<セ

ンス>と か

<知

><感

>

などの用語はなんら直接的認識 をあらわしていないからとい うのである。 しか し

,そ

れにもかかわ らず

,道

徳的判断は一種の「正当化の理 由」(justifying reason)を もちうる。それは

,モ

ラル・ センスが仁愛を是認するときのいわばノーマルな状態ないし条件があるからで

,逆

に,矢日識

,情

報, 公平無私 (impartiality),整合性

,一

般性 などの点で整っていないとそれは正常に機能 しないとい うのである。これがピーチの複合的な意味でのモラル・セ ンスの 「客観性」であるピ0 ブ ラックス トンによれ ば

,ハ

チ ス ンのモ ラル・セ ンスは「)F認 識 的」 な点でエ イヤー に似 るが,

(10)

10 横 その道徳 的判断のあるものは「

I当

」 ない し「妥当」 (valid)と されて

,つ

ま り「正 当化の理由」 によって支持 されなくてはならないので あって

,そ

の点

,エ

イヤー とは根本的 に異 なるとい う。 し か し

,情

緒 の表出で しかない道徳 的判断 が事実的陳述で ある「正当化の理由」 によって支 えられる とはど うい うことか。ブラックス トンによれば

,道

徳 の議論 (mOral disCouse)は 他 の議論 とはま った く違 ったそれ自体の論理 をもっているので′あ り

,ハ

チスンの立場 は トウル ミン (S.Toulmin)

などの「 しかるべ き理由説」

(gOOd reasons approach)に

近 いのだ とい う。つ ま り道徳的判断 は

判断者の態度 とは別個 の

,経

験的 に検証で きるデータない し情報 との関係 において正 当化 され うる

とい うのである。この意味 においてハチスンは

,む

しろ

,倫

理の客観主義者 (ethica1 0biect iSt)

であるとい う。その正 当化 の究極 的根 拠 は

,ブ

ラックス トンによれば

,F功

用性」(utility)で あ るま9 これ まで も しば しば述 べて きたよ うに

,わ

れ われ もなん らかの形 で これ に近 い見方 を したい と思 う。す なわ ち

,ハ

チス ンのモ ラル・セ ンス とその判断 は りF認 識的」で

,つ

ま りは一種 の道徳 的態 度 (attitude)の 表明で しかないが

,し

か し

,そ

こにはなん らかの形で 「客観性 」ない し「妥 当性 」 はい えるはずで あると。す くな くとも道徳 的是認 にはなん らかの意味 がある と。 そ して又

,ハ

チ ス ンに原理 的 な矛盾 がない限 り

,先

に見 たモ ラル・セ ンスの二つ の側 面 か らも, この結 論 は不可避 と 思 われ る。 ただ

,上

に見 た ピーチや ブ ラックス トンの考 え方 には問題 が残 らないで あろ うか。 イエ ンゼ ンに よれ ば

,ハ

チ ス ンの理 論 は決 して 「 しか るべ き理 由説」で はない ―― それ に似 た面 は もつ と して も 一 。 なぜ な ら

,ハ

チ ス ン自身 しば しば「正 当化 の理 由はモ ラル・セ ンス を前提 す る」 とい つて い るか らである。つまり,「正 当化 の理 由」が行為 を是認 に価 いす るか ど うか確 かめて い るわけで は な くて

,モ

ラル・セ ンスが正当化の究極的 な根拠 なのだからとい うので ある彗0ノ ー トンも書評で同 じ よ うな批半Jを加 え

,道

徳的行為の究極的正 当化 は功用ではなくてモ ラル・セ ンスその もので あると し

,ピ

ーチなどを 囁忍識的 か非認識的 か」の問題の本質をよくわきまえていないと酷評 しているの を見 るよ〕 ピーチやブラックス トンに対する上の批半Jには議論 としてかみ合 わない面 もあるよ うに見 えるが, とい うのは,イ エ ンゼ ンやノー トンはあ くまでモ ラル・セ ンスー般の, しかもぞの感 じにおける客 観性 を問題 としているのにピーチやブラックス トンは個 々の しかも現実 における道徳的是認の客観 性 を問題 に しているから 一

,た

,道

徳的善悪の区別 ない し行為の正 当化 の究極的根拠 は

,そ

の 理由で も功用性で もなくて

,あ

くまでモ ラル・セ ンスそのもので なくてはな らないとす る指摘 は正 しいもの といわなくてはならない。 いずれに しても

,わ

れわれはモ ラル・セ ンスそのものの中に「正当化」の根拠 を見出 さなくては ならないわけで ある。いいかえれば,「非認識 的」で しかないモ ラル・セ ンスがいかに して仁 愛 を 一 ピーチやブラックス トンではそのメ寸応関係 がすで に前提 されているともいえる 一 普遍的 に是 作

(11)

ハチス ンのモ ラル・セ ンス と道徳的認識の問題 11 認で きるかとい う問題でもある。 ∩ 道徳的態度の客観性 われわれとしては

,こ

こで

,モ

ラル・セ ンスの根底 の道徳的態度 をさぐり

,そ

の構造 を明 らかに してみ る必要 があるので はなかろ うか。 もちろんハチス ンにおいてその構造 が十分体系化 されてい るわけではな く

,わ

れわれの推測 を加 えな くてはならないが, しか し

,ハ

チス ンか らそれほ どそれ ることな しに

,そ

の底 の独 自な構造 をとり出す ことは不可能ではないよ うに思 われる。 ハチス ンにおいて道徳 は神 の意志からのみならず 自然からも一応独立 していることはあらためて 述べ るまで もないところで

,そ

の道徳 的是認や非難 は道徳独 自のある情緒 の表出

,つ

ま りは道徳 的 態度の表明にほかならない と考 えざるをえない とはこれまで見て きた ところで あった。 それはハチ ス ン倫理 学の一つの特色 ともなっているわけで あるが, しか しそのことは

,そ

の道徳独 自の態度 が 自然 と運関 してあることまで否定す ることにはならないと思 われる。否

,む

しろ

,両

者 はほ とん ど 不可分 ともいえる密接 な連関 をなしているといってもよいのではあるまいか。先 に

,ハ

チス ンの基 本的立場 は自然主義で はないけれども, しか しそのよ うに見 える数多 くの表現 があると述べたが, そこにその特殊 な関係 がよ くあ らわれているで あろ う。そもそも

,ハ

チス ンにおいて

,モ

ラル ,セ ンスとは,「 われわれの前 にあるものがあらわれ出たとき

,わ

れわれの意志 とかかわ りなく

,そ

のも のか らある観念 を うるよ うに心 が決定づ けられること」90と定義 されているので ある。 ハチス ンにおいて道徳 の独立はいわば形式的で

,そ

の実質は自然 か らくると見ていいのではある まいか。 そのハチスンにおいて

,自

然は

,い

うまで もな く

,大

いなる斉一性 (uniformity)を もってい る。 仁愛 は人 間本性 に生来的で あ り

,悪

は本来存 しない。ハチス ンの道徳論 はその自然へのゆるぎない 信頼の上 に成 り立 っているといってもよいであろ う。従 って

,こ

れ とわれわれの道徳的態度 が連 関 しているとすれば

,そ

こにはなん らかの 「客観性」が見 られることにな らないで あろ うか。 もちろん

,ハ

チス ンにおいて

,ひ

とは自然 によって一義的 に決定 され る存在ではない。道徳 的善 は自然的菩 とは明 らかに異質のものであるとはハチスンにおいて くり返 し述べ られているところで, ノー トンのみ ならずフランケナもそれの確 認 の上 で議論 を展 開 していることは先 にふれた ところ で あった。ハチスンの人間論 において主体 はた しかにあいまいで あるが

,人

間は単純 に自然的存在 で ないことは

,こ

こで くわ しく述べ るまで もない。 われわれは独 自な道徳的態度 において自他 の行 為 を是認 ない し非難 し

,自

他 に道徳的行為 を要求す る道徳的存在であるといえる。 自然 との連関 が いかに大 きいとはいって も

,自

然の情のすべてが是認 されるわけではない。われわれの是認す る自 然 は

,現

実か ら見 れば

,い

わば理想の自然

,理

想の姿で あ り

,人

間はそ うい う理想の姿

,価

値 を自 他 に期待 し

,要

求 してい く存在で あるともいえるで あろ う。モラル・セ ンスは

,ハ

チスンにおいて,

(12)

12横

た しかにある快苦 の感 において是認や非難 を行 うが

,し

か し,そ れは常 に「反省的」(reflect c) に用い られているのを見 る。 自他 の行為 を反省的 に吟味 した ときいわば結果 として出て くるのがそ の快苦の感で あるといって もよいであろ う。そこには当然 自他 に対す るある要求 をもった独 自な道 徳的態度 があるわけである。 ただ

,ハ

チス ンにおいて

,そ

の道徳的態度 は

,い

かにそれが自然か ら独立 し

,又 ,独

自的であっ て も

,ま

った く恣意的 にはた らくわけではない。 自然 を越 えるかに見 えるその理想 も

,決

して自然 の基本的メカニズムを越 えてまで要求することはないのである。逆 にいえば

,わ

れわれの道徳的態 度 はあくまで 自然のメカニズムに即 し

,そ

の中でいわば理想のあ り方 を見定め る力で しかないので ある。ハチス ンはモラル・センスの是認の根底 をさぐって

,次

のよ うに述べている。「われわれはひ とはすべて自愛 によってのみ行為す るとは決 して考 えない。われわれはひ とは公共 に対 して配慮す る気持 をもっていると期待 してお り

,こ

れがないことは単 に道徳的善や徳 がないとい うだけで な く て

,積

極的 に悪で あ り

,憎

むべ きことだと考 える」00と。 ハチス ンにおいて

,道

徳 的態度 とは

,そ

のよ うに

,い

わば自然のメカニズムに即 した形で

,

しか しそこに理想 を求 めてい くはた らきだ とすれば

,そ

こか ら

,そ

のはた らきの独 自な形式 も又

,感

知 されて くるよ うに思われる。 それはす くなくとも二つ はとり出 しうるよ うで ある。その一つ は美的 調和 の形式で あ り

,他

は「公平無私性」(impartiality)と 「一般化 ない し普遍化」(generalisatiOn or universalizability)で ある。ハチス ンは行為の道徳性 を常 に美感 との類比 において評価 して, 美的調和

,秩

序 を何 より重視 し

,又

,そ の態度 が常 に無私 (disinterested)な ることを強調 してい る。 まだ ヒュームゃァダム・ス ミスほどの「公平無私性」の視点はもち込 まれていないとしても, それを道徳 的態度の基本 と見 な していることは否定 しえないところで ある。「普遍化」の形式 もハ チス ンにおいて極 めて特徴的で ある。われわれはた しかに仁愛 を是認す るが

,

しか し

,ハ

チス ンに おいては

,そ

の仁愛 も

,で

きるだけ一般的 な形の もの

,そ

して広 はんに及ぶ (extensive),穏和 な (calm)も のほど高 く賞讃 され

,直

接的 なものはそれほどには賞讃 されないとい う。反対 に

,全

体 の秩序 に合致す る形 ならば

,自

愛 も高 く賞讃 されるとしている。行為の動機 と結果 にしてもしかり。 賞讃 され るのは必ず しも単 なる動機 だけではないことに気付 く。ハチス ンにおいては

,道

徳性 はむ しろその形式 にあるともいえるよ うで ある。 われわれの道徳的態度のはた らく形式がそのよ うなものだ とすれば

,ハ

チス ンの りF認識的」モ ラル・セ ンスの立場 はエイヤーはもちろん

,ス

テーヴンス ン

(C.Stevenson)と

もかなり違 って, む しろヘ ア

(R.M.Hare)な

どの「t旨令主義」(Prescriptivism)の 立場 に近 く

,否

,ヘ

アよ りも 更に客観的で あるといっていいで あろ う。 いずれに して も

,わ

れわれは

,生

来的 にそのよ うな形で道徳的 にあ らざるをえない存在で ある。 これがハチス ンの「自然的」(■atural)と い うことの意味 だ といってもよいで あろ う。ハチス ンに おいては「自然的」あるいは「自然 に従 う」ことが道徳的だとされているのである。 作

(13)

ハチスンのモラル・センスと道徳的認識の問題 13 モ ラル・セ ンスが自己の行為 の動機 となるとい うの も本来 はそれ を意味 して い るはずで あろ う。 ハ チス ンにおいてモ ラル・セ ンス が自然 で道徳 的行為 の動機 とな りうるか ど うか につ いて は

,と

く に近 年

,か

な り争 われて い る ところで あ る。ハ チ ス ンはた しか にモ ラル・ セ ンス は われ われの行 為 を導 くと述 べ て はい るが

,仁

愛 な どの有徳 な行 為 とされて い るもの はモ ラル・セ ンス によ って反 省 す る以 前 に人 間本性 に存 す るもので な くて は な らず

,し

たがって

,反

省 によってその欠 除 を 自覚 し, モ ラル・セ ンスの快苦 の感 において有徳 と見 える行為 を実践 して も

,そ

れ はハ チ ス ンの前提 か ら し て既 に道徳性 をもた ない ことになる とい う考 え方 によるもので ある。ハ チ ス ンをい わゆ る「外面主 義 」(externalism)と見 る見方 で あ るが '4わ れ われ もハチスンの その面 は部 分 的 には認 め な くて は な らない と思 う。 しか し

,モ

ラル ・セ ンス は単 なる快苦 の感 の ことで は な く

,生

来 的 に上 に見 た よ うな独 自な道徳 的態度 による反省 を意味 す るもので あるとすれ ば

,そ

れ は それ 自体 で直接 的 に道徳 的行 為 の動機 にはな りえない と して も

,単

なる快 苦 を目ざす行為 とは違 った一つ の道徳 的動機づ け には な りうるで あろ う。 それは

,す

くな くとも

,わ

れ われの行為 の意味 づ けの原理 と して大 きな力 を もつ といって いいので は あ るまい か。道徳 的反 省 において 自己 自身 に不 安 に な り

,あ

るい は 自己 に満 足 しない (displease)と い うの はそれ をあ らわ してい るわけで

,ハ

チ ス ンの道 徳 的 態 度 は一 つ の 「動 能 」(conatiOn)の 作 用 を含 んで い る とい っていいで あろ う。 ノー トンがハチス ンのモ ラル ・セ ンス に認識 の機能 や態度 的機能 の ほか に 「動 機づ け」 の機能 を見 たの もそれで あるが

,た

だ, われ われ と して は

,そ

の動機 づ けも実 は態度 ない しノー トンのい う「意 向」 か らくると考 えざるを えず

,そ

の点で はノー トンと多少 見方 を異 にす るわけで ある。 ところで

,モ

ラル・セ ンスの是認 の根底 にあ る道徳 的態度 の構 造 がその よ うなもので あ るとす る と き

,そ

れ と仁愛 の是認 との関係 は ど うなるか。思 うに

,モ

ラル・ セ ンス と仁 愛 の是認 との間 には 論理 的必 然性 は必 らず しもないので は あ るまい か。道徳 的態 度 がい か に自然 と連 関 し

,特

有 な形 式 において はた らくとはいって も

,そ

れ が「非認識的 」で

,あ

る態度 の表 明で ある限 りは

,そ

れ と仁 愛 との対応 は必然的 とは な りえないで あ ろ う。 そ して又

,ハ

チ ス ン自身必 らず しも仁 愛 を徳 のすべ て と して い るわけで もない。 ただ

,そ

の対応 は決 して偶 然で もないで あろ う。 われわれの是認 がほ とん ど仁 愛的行為 に帰着 す るの は

,単

な る偶 然 の一 致 で は ない。 自然 の構 造 とその斉一 性 に上 の形式 を考 え合 せ る と き

,そ

れ は

,言

葉 の広 い意味 で は

,ほ

とん ど必然的 とさえい えるで あ ろ う。 それが更 にピーチやブラックス トンのいう仁愛がノーマルに是認 される条件 においてなされると き

,そ

の是認は大 きな客観性 をもちうるはずで

,ハ

チスンはその意味では「道徳の客観主義者」で あるともいわれていいと思 う。 もっとも

,こ

のように道徳的是認の客観性を自然の構造や人間本性 に基づ ける見方には当然異論 も提出されるであろう。たとえば,イ エ ンゼ ンは「自然的」とい う表現はあまりにも漠然 とし

,又

多様であるとい うよ9

(14)

14 横 われわれ もその 「自然」の概 念 の あい まい さに気付 かないわけで は ない。 しか し

,そ

もそもハ チ ス ン自身

,

しば しば述 べ た よ うにわれ われの経験 的道徳 的判断 に必 らず しも絶 対 の一致 を求 めて い るわ けで はな く

,わ

れ われのセ ンス は悪徳 を是認 し

,有

徳 を非認 す る こ とも十分 あ りうるこ とを認 めGOてい るので あ り,「モ ラル・セ ンス によって

,ど

の程度 まで罪 で ないか を正確 に定 め ることは容 易で ない」 'η 「大変 むつ か しい」G° ともいって い るので ある。セ ンス と して は是認 の大綱 において違 わ なけれ ば一応客観的 とい うこ とになるものの よ うで ある。 それがハ チス ンで は仁 愛 の原理 なので あ る。 ltl 結論 に代 えて われ われ は

,こ

れ まで

,ハ

チ ス ンのモ ラル・セ ンスの立場 は 「非認識 的」で はあ るがなん らかの 略 観 性 」 ない し「妥 当性 」 は主張 しうるもの とと らえ

,そ

の根 拠 を, なによ りも

,根

底 の独 自な 道徳 的態度 の構造 に求 めて きた わ けで ある。 も しわれ われの考察 が正 しい とす れ ば

,ハ

チ ス ンはや は り倫理 学 の歴 史 において よ リー層重視 さ れるべ きだ ということになろ う。 それはかれが

,そ

の独 自な態度 をなによ りも自然 と連 関 させ た こと によ って

,現

代倫理 学 の課題 にも示 唆 を与 えることになったか らで あ る。今 日の言語分析 的倫理学

において

,と

くにその りF認識 的 」,「)F記述 的」(nOn・descript

e)立

場 にお いて

,い

か に して道

徳 的判 断 や命題 になん らかの意味 を与 えるかは極 めてむつ か しく

,又

,重

要 な課題 で もあ る と思 わ れ る。す くなくともハチスンは

,そ

の規範的倫理 学 の面 を合 めて

,一

層研 究 されて よい よ うに思 う。 ただ

,わ

れ われの以上 の考察 に もかか わ らず

,当

初 提 出 した問題 は

,実

,完

全 には解決 されて い ないよ うにも思 える。 それ とい うの は

,ハ

チ ス ンには

,最

初 ふ れ た よ うに

,明

らか に 曙忍識的 」 ととれ る表現 が しば しば見 られ るか らで ある。 その意味 で は

,ハ

チ ス ンは結局

,矛

盾 し

,混

乱 して い る とい うほかないことになるが

,た

,思

うに

,そ

れは単系屯な矛盾

,混

乱 で は な くて

,結

局 はハ チス ンの倫理学 の方法 の不徹底

,つ

ま り

,な

によ りも

,そ

の経験主義的倫理 学 とかれの神 学 との分 離 が十分で なかったことによ るので はあ るまいか。 ハ チス ンはその倫理学 を神 の意志 か ら独立 してス ター トさせ たわけで あるが

,そ

の こ とは

,ハ

チ ス ンと して は当然 の ことなが ら

,背

後 にお け る神 の意志 や法 の存在 を否定 した もので は もちろん な い。否

,ハ

チ ス ンにおいては

,自

然 の斉 一性 も

,結

局 は

,そ

の信仰 の上 に立 って い るので ある。 た だ

,そ

の限 りで は

,か

れの倫理 学 と神 学 とはそれぞれ独立 してお り

,従

って

,モ

ラル・ セ ンスの是 認 や非難 も直接的 には神 の意志 とは切 りは な されてい るので あるが

,ハ

チ ス ンは

,こ

の初期 の立場 にお いて も

,時

,そ

の経験主義 の視 点 をはなれて神 学的 な観 点 か ら直接発 言 して きて い るよ うに 見 える。混乱 と見 えるのはそれ によ るの傘 はあるまいか。た とえば,「も し問題 が

,わ

れ われの是認 す るもの を他 のすべての ひ とび とも又是認 す るとい うことがいかに して確 かめ られ るか, とい う意 作

(15)

ハチス ンのモ ラル・セ ンス と道徳的認識 の問題 15 味 なら

,こ

れをた しかめるすべはない。 しか し

,す

べてのひとびとのモ ラル・セ ンスはかな り斉一 的で あるとい うこと

,ま

,神

は優 しい気立て を是認 するとい うことは まず確 かなことで ある。 も しそ うで ないなら

,神

がわれわれに

,わ

れわれがモ ラル・セ ンスによってそれ らを是認す るよ うに とそのセ ンスを植 えつ けは しなかったで あろ う」Gひ とハチス ンがい うとき

,か

れは困難 な問題 に出 くわ してネ申学的 に逃避 しているととられて もやむ をえないことになるで あろ う。 もっとも

,ハ

チス ン自身は逃避 とい うよ りもは じめか ら経験主義 のみ に徹 してはいなかったのではあるまいか。 モラル・センスがその神 の意志 に直接 連 なる限 りでは,そ れは

,文

字通 りの「不可思議 な性質 」の 「本能」であ り

,神

秘的能 力である。 それはバ トラーにおいて

,良

心 が自己自身の声で あるととも

に文字通 り「内なる神 の声」(Voice Of God within)で もあったの と同 じで あろ う。

その ときは

,モ

ラル・セ ンスはもちろん 噺忍識的」で ある。ただ

,そ

れはもはや経験主義的概念

ではない。

(1)W.Frankena,Hutcheson's Moral Sense Theory」 ournal of the History of ldeas. l.(June,1955)

(2)D.F Norton,Hutcheson's Moral Sense Theory Reconsidered Dialogue,Xlll(1973) (3)WV.Blackston, Francis Hutcheson and Contemporary Ёthical Theory(1965)p.67

(4) W BlackstOn, op.c it. p.66ff

B,Pcach, IntrOduction to Hutcheson's lllustrations.(1971)p57ff

ct. llr.c swabey, Benevolence and Virtue The Philosophical Review No.10,(1943)

(5)J llr Smith, The British Moralists and the Fanacy of Psychologism. 」ournal of the History of

ldeas Xl.NO.2,(1950)

(6)cf,」 ensen,MOt ation and the Moral Sense in Francis Hntcheson's Ethical Theory.(1917)ch.Ⅱ ,

(7}T.A.Roberts.,The Concept of Benevolence.(1973)p.9

(8)W.D.Hudson,Ethical lntuitionism.(1967)ch Ⅳ.

(9) cf.llI Blackston, op c it. p81 B.Peach, op. cit.Preface

10

テキ ス トはフ ランケ ナ とノー トンに した が つて,主に以 下 のハ チ ス ン初 期 の もの に限 られた。An Enquiry into the Original of our ldeas of Beauty and Virtues. The fourth Edition.

IllustratiOn's on the Moral Sense(with letters,ed B.Peach)

参照,拙稿 「Moral Senseの一 考察 」 (倫理 学 年報 第 14集)(1965) 「モ ラル・セ ンス ー 自然 に土者 の道徳 感 覚 一 」(日本倫 理 学 会編 『感情 』理 想 社)(1975) (11)Hutcheson, Enquiry,I, IV はか HutchesOn, ib.p■ 69 (131 HutchesOn, ib. p.174 (141 Hutcheson, ib, p245 (151 Hutcheson, ib. p105 (10 Hutcheson, ib, p.130 (10 Hutcheson, System p 54 (10 cf. H」 ensen,op. C it.p.52 191 Hume,Treatise Bk. Ⅲ.

(16)

16横

山 兼 作

cf. N!KI Snith―,Thc Philosophy or DaVid HI単 9,p,201

J101Ur中心o■,Thじ EInOtive TheoFy bf thios.p.19,20,23

90 NOFtOれ, ol. cit p.5 f.■,

鬱O HutchesOn,Eiquiry,Ⅱi p認 72‐3

¢D Hutches。 ■,I11■stratio■s,p.16aF

¢O Nort94, B09k Review,111■ strations cnl the Moral Senso.The JouFna1 0f the HistOry of Pllilosoす hy

Vo.1,10,NO.1。 (」a..ary…,1972)

¢O ib.

951 HIttcい oso■, Ehl■,●ァ, II. p,141

90 Hutches。■, ,お. p.166

9' HutchesOn,ib.p.131

981 ttPcath, op. cit, p.`″ t

291 W.Blttkstoコ ,oコ .cit,pす06r,18f

1301 H.JenSen, op. cit. p.59

1311 NortOn, ibi and Bむ ok Revi.e"; rancis Hutcheso■ a■d Co■IⅢ00■rァ E:hic,l Tll.9。ry. 」0■ru■l ol

thd History of Pl,lo,o●hy.VoI.4.Nb.2.(ApFil,1966) 13D H■11heson,EllwiFy, 1, pi13

031 Hutcheso■ l ib.p.172 130 c■ H`」 ensen, Op. ci● p.93F 1351 HiJelso■ , 0,. Cit, コ,121

861 HItchesOn,IIlustrations,p■ 62

Gη Hutthes。と, ibi

130 Hitthe,。■, iL. │.la7

参照

関連したドキュメント

問についてだが︑この間いに直接に答える前に確認しなけれ

東京都は他の道府県とは値が離れているように見える。相関係数はこう

の総体と言える。事例の客観的な情報とは、事例に関わる人の感性によって多様な色付けが行われ

あれば、その逸脱に対しては N400 が惹起され、 ELAN や P600 は惹起しないと 考えられる。もし、シカの認可処理に統語的処理と意味的処理の両方が関わっ

層の積年の思いがここに表出しているようにも思われる︒日本の東アジア大国コンサート構想は︑

外声の前述した譜諺的なパセージをより効果的 に表出せんがための考えによるものと解釈でき

 問題の中心は、いわゆるインド = ヨーロッパ語族 のインド = アーリヤ、あるいはインド = イラン、さ らにインド =

従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ