(注)本稿は「中東協力センターニュース」2008 年 6/7 月号に発表したものです。 「GCC 諸国の王家・首長家」(第 1 回) ドバイ・マクトゥーム家 1. マクトゥーム家の歴史 アラブ首長国連邦(UAE)の一つであるドバイ首長国はマクトゥーム家が支配する首長国で ある。マクトゥーム家は元々アブ・ダビに住んでいたが、1833 年、当時の家長シェイク・マク トゥーム・ビン・ブティが総勢800 人の仲間を率いて、アブ・ダビから北西 140KM にある入 り江のドバイに移住し、現在のドバイ首長国を興した(地図参照)。 マクトゥームの次男ラーシド 第4 代首長(在位 1886-1894 年) の時代に、ドバイはアブ・ダビ、 シャルジャなど周辺の土候国と 共に英国と「排他的な条約関係」 にはいった。これによって首長 たちは英国による保護と引き換 えに、英国以外の他の外国政府 とはいかなる関係も持たないこ とを義務付けられた。 19 世紀から 20 世紀前半まで のドバイの主要産業は、アラビア湾の交易と天然真珠の採取であった。しかし 19 世紀後半、 スエズ運河が開通したことによりアラビア湾の海運は衰退し、また天然真珠も 20 世紀はじめ には日本の養殖真珠に取って代わられた。 ドバイに転機が訪れたのはラーシド第8 代首長(ムハンマド現首長の父親、在位:1958-1990 年)の時代である。アブ・ダビの石油発見及び商業生産開始に引き続き、1966 年にはドバイで も石油が発見され、その後の二度の石油ショック(1973 年及び 1979 年)により、ドバイは石油 ブームの恩恵を蒙った。しかしドバイの石油は隣国アブ・ダビと異なり急速に枯渇する運命であ った。 このため石油枯渇後に備え、ラーシド首長は、クウェイトからの借款によりクリーク(入り江) を浚渫し、地域の物流拠点としてのインフラ整備を進め、さらにはドバイ国際空港、ジュベル・ アリ自由貿易特区(JAFZA)を開設した。これによりドバイはアラビア(ペルシャ)湾一帯にと どまらず、中央アジアからアフリカ東海岸までの物流拠点としての地位を確立し、今日の繁栄 の基礎を築いたのである。 なお同首長の時代の1971 年には、アブ・ダビ及び他の 5 つの首長国と共に 7 カ国によるアラ ブ首長国連邦(UAE)が結成された。アブ・ダビのザイド首長(当時)が連邦大統領となり、副大 統領にはラーシド・アブダビ首長、また首相にはラーシドの長男マクトゥーム・ドバイ皇太子
がそれぞれ就任した。以来、連邦大統領にアブ・ダビ首長、副大統領にはドバイ首長が就任する ことが慣例となり、現在の連邦大統領はカリーファ・アブ・ダビ首長(ザイド前首長長男)、副大 統領はムハンマド・ドバイ首長である。なおムハンマドは連邦政府首相も兼務している。 UAE は連邦という政体をとっているが、経済及び内政面では各首長国に大幅な権限が与えら れている。石油が豊かで人口、経済規模とも圧倒的なアブ・ダビが UAE の屋台骨を支えている ため、それ以外の首長国とりわけドバイは自らの国造りに専念することが可能となり、ラーシ ド首長は経済発展に焦点を当て大胆な政策を推し進めたのである。 ラーシド第8 代首長は 1990 年に 80 歳で亡くなり、長男マクトゥームが第 9 代首長に即位し た。このとき彼は連邦政府における肩書も踏襲したため、連邦政府副大統領兼首相となった。 マクトゥームにはハムダーン(1945 年生)、ムハンマド(1949 年生)及びアハマド(1950 年生) の3 人の弟がある。マクトゥーム首長は即位当時 47 歳であったが、父親の前首長の路線を踏 襲してドバイの経済発展を更に押し進めた。しかし彼は 2006 年に旅行先のオーストラリアで 急死し、ムハンマドが第10 代の首長に即位して現在に至っている。 2. 現代のマクトゥーム家(末尾家系図参照) ムハンマド現首長(写真)は第 8 代ラーシド首 長の 3 男として 1949 年に生まれた。先に書い たとおりラーシドには4 人の息子がいるが彼ら は母親が同じ同母の兄弟である。これは湾岸の 王家(首長家)では実は珍しいことなのである。 と言うのは例えばアブ・ダビの場合、ザイド前首 長は 6 人の王妃との間に 19 人の男子をもうけ ており、カリーファ首長はその長男であるが、 同腹の兄弟は無く、皇太子のムハンマドには 5 人の同腹の兄弟がある、といった具合である。 サウジアラビアのサウド家も同様で、初代国王 は26 人の王妃を娶り、王子 36 人が生まれてい る。カタル、クウェイトの各首長家も同じよう な状況である。 母親の異なる兄弟が多い場合、えてして内紛の種になることが少なくないが、この点で同腹 兄弟だけのマクトゥーム家は兄弟間の結束も堅く、また意思決定が迅速である。ドバイが急速 な発展を遂げた要因には、ラーシド前首長の先見の明に加え、彼の息子達の結束もあげること ができよう。 ムハンマド現首長はドバイでの基礎教育を終えた後、英国に留学した。1971 年に UAE 連邦 が結成されると、長兄マクトゥーム首相のもとで国防大臣に任命された。因みに翌年発生した 日航機ハイジャック事件に際しドバイ空港でハイジャック犯と交渉をしたのは彼である。四兄 弟は、父親ラーシド首長を補佐して連邦政府或いはドバイ首長国の要職に就いたが、父親が壮 健の間は競馬の馬主として名を馳せており、現在でも兄弟の「ゴドルフィン・グループ」は各
国に牧場を保有し、世界有数のブリーダー(サラブレッド生産者)として有名である。 1990 年に父親が亡くなり、長兄のマクトゥームが第 9 代首長に即位すると、四兄弟はドバ イの国政に本腰をいれるようになり、1995 年にはムハンマドが皇太子に指名された。2006 年 にマクトゥーム首長が旅行先のオーストラリアで亡くなったため、ムハンマドは兄の跡を継い で第10 代ドバイ首長及び UAE 連邦副大統領兼首相となり現在に至っている。 ムハンマド首長には二人の王妃があり、最初のヒンディ王妃との間にはハムダン(1982 年生、 現皇太子)、マクトゥーム(1983 年生、現副首長)及びマエド(生年不詳)の 3 人の息子が生まれて いる。彼は2004 年(皇太子時代)にヨルダン・アブダッラー国王の異腹の妹であるハヤ王女を第 二王妃に迎えている。湾岸の王家・首長家は同族結婚あるいは国内の有力部族と姻戚関係を結 ぶケースが殆どであり、他国の王家・首長家との婚姻関係は全くといってよいほど無いのが現 状である。その点ではヨルダン王家と姻戚関係を結んだマクトゥーム家のケースは極めて異例 のことである。二人の間には昨年12 月最初の子供(王女)が生まれている。 3. 政府系組織における首長家一族 マクトゥーム家の王族は UAE 連邦政府およびアブダビ首長国の行政組織で重要なポストに 就いている。しかしサウド家(サウジアラビア)、ナヒヤーン家(アブ・ダビ)、サバーハ家(クウェ イト)、アル・サーニー家(カタル)、ハリーファ家(バハレーン)など近隣諸国の王家・首長家で は王族が閣僚など多くの重要ポストを占めているのに比べて、マクトゥーム家王族の露出度は さほど大きくない。 その第一の理由は、マクトゥーム家の歴史そのものが比較的新しく本家・分家を含めた王族 の絶対数の少ないことがあげられる。巷間王族数千人といわれるサウド家とはその点で大きく 異なっている。第二の理由は兄弟の数が少ないことである。ムハンマド首長は長兄が亡くなっ ているため現在は 3 人兄弟である。これに比べてアブ・ダビのカリーファ首長には母親の異な る18人の兄弟があり、またサウジアラビアのアブダッラー国王も36人兄弟である。 さらにマクトゥーム家に政府要職者が少ない理由としては、ドバイでは GDP に占める民間 部門の比率が高いことでわかるように、王族が民間ビジネスの要職に就く機会が多いためと考 えられる。バハレーンやクウェイトなどでは民間部門は非王族の有力マーチャント・ファミリ ー(商業財閥)が牛耳っており、王族は必然的に行政ポストに集中することになる。その点でマ クトゥーム家の王族は職業の選択肢が広いと考えられる。第四の理由としては、UAE 連邦政府 は石油収入に裏付けられたアブダビが支配していることである。事実アブ・ダビのナヒヤーン家 の王族が大統領以下7 人の閣僚ポストを占めているのに対して、マクトゥーム家はムハンマド (副大統領兼首相)及び彼の実兄ハムダン(財政相)の二人だけである。 ムハンマドの略歴は既に述べたが、兄のハムダン連邦財政相は 1945 年生まれである。彼は ムハンマドがドバイ首長に即位した時に副首長に指名されている。3 男 3 女の父親。末弟のア ハマドは1950 年生まれで、連邦政府の中央コマンド司令官である。 このほかドバイ政府及び政府系組織の要職についているマクトゥーム家王族は次のとおりで ある。 ・ アハマド・ビン・サイード:民間航空長長官兼エミレーツ航空会長(ムハンマド首長の叔
父) ・ ムハンマド・ビン・カリーファ:国土庁長官(ムハンマド首長の従兄弟) ・ ハシュル・ビン・マクトゥーム:情報文化庁長官(故マクトゥーム前首長 3 男) ・ マクトゥーム・ビン・ムハンマド:副首長兼ドバイ執行会議議長(ムハンマド首長次男) 3.ドバイの政府系ファンドについて アブ・ダビに比べ石油資源の乏しいドバイはムハンマドの父ラーシドの時代から脱石油すな わち商業及びサービス産業の興隆につとめ、そのために国家の運営に民間企業の経営手法を取 り入れたのである。それがムハンマド首長が「ドバイ株式会社のCEO」と呼ばれる所以である 1。ドバイは周辺の豊かな産油国のオイル・マネーを呼び込み近代的な物流基地(ジュベル・アリ 自由貿易特区:JAFZA)、金融特区(DIFC)、観光施設(Palm Jumeirah 他)などを国内に整備し、 さらには有利な投資先を求める近隣諸国の資金を吸い上げて欧米企業のM&A を展開している。 ムハンマド首長はドバイをヒト、モノ、カネの一大集散地に仕立て上げようとし、少なくと も現在の段階では彼の意図は着実に実現されつつある。そのムハンマドが率いるのがドバイの SWF(政府系ファンド)と呼ばれる Dubai Holding、Dubai World お呼び Emaar Properties で ある。 Dubai Holding は 2004 年 10 月に設立され、商業活動グループ 5 部門及び投資グループ2部 門で構成されており、従業員総数は3 万 2 千人である。その傘下には 40 近い企業或いは開発 プロジェクトが連なっている(ドバイ日本総領事館ホームページより2)。代表的なものをあげれ ば、商業活動グループにはエミレーツ・タワーズ、ジュメイラ・ビーチ・ホテルなど各種ビジ ネス、レジャー施設の建設・運営、或いはドバイ・メディア・シティ、ドバイ・インターネット ・ シティなどの不動産開発プロジェクトがある。そして投資グループには Dubai International Capital(DIC)社がある。DIC は投資企業であり、欧州エア・バスの親会社 EADS など欧米一流 企業の株式を所有しており、最近ではソニー株の取得やサブプライム問題で揺れるHSBC(香港 上海銀行)に 10 億ドル投資するなど3、総投資額は75 億ドル程度といわれている。
Dubai World も Dubai Holding 同様 30 以上の企業群が港湾サービス、不動産開発、投資な ど多様な活動を行っている(同じくドバイ総領事館 HP 参照)。このうち港湾サービス部門は DP World 社が統括しているが、同社は 2006 年に英国の P&O を買収している。なおこの時、P&O 社が米国に有する6 つの港湾施設を米国議会の反対により手放している。不動産開発分野の中 核企業はナヒール社(資産 422 億ドル)であり、同社はパーム・ジュメイラ、ザ・ワールドなど沖 合い埋め立てによる大規模な別荘地分譲事業を手がけ、投資会社イスティスマールはスタンダ ード・アンド・チャータード銀行への2.7%の資本参加、米衣料品卸大手バーニーズの買収など 総額 150 億ドルの投資事業を行っている。因みにバーニーズ買収で日本のファースト・リテイ リング(ユニ・クロ)社と M&A 合戦を繰り広げたのは同社である。 1997 年に設立された Emaar Properties は 3 社の中で最も古く、またドバイ初の不動産企業 である。同社は世界最高層ビルのブルジュ・ドバイを建設中であり、最近では上海の国営企業 と中国国内の不動産開発事業について MOU を締結している。 このように3 社の活動状況を併記すると、それぞれが重複した分野で事業活動を行っている
ことがわかる。3 社はすべてムハンマド首長が絶対的な支配権を握っていることは言うまでも 無い。首長の方針は当面の間3 社を競わせることにあると考えられる。ただ今後も国内の不動 産開発、海外のM&A 事業を拡充すれば、いずれ首長一人の手に負えないほど組織が肥大化す る恐れもある。そのような中でドバイ・ワールド傘下のナヒール社とイスティスマール社を合併 させるという報道に見られるように事業の集約を図る動きもある。 またこれまでドバイとアブ・ダビはそれぞれ別々にSWF を運営してきたが、昨年 UAE 連邦 政府組織のSWF として Emirates Investment Authority(EIA、会長:マンスール連邦大統領 相)が設立された。その目的と業務内容は未だ明確ではないが、EIA 設立にはドバイのムハンマ ド首長とアブ・ダビのムハンマド皇太子(EIA 会長マンスールの長兄)の意向が働いているこ とは間違いなさそうである。因みに昨年アブ・ダビのSWF である ADIA がサブプライム問題に 揺れるシティ・グループの株式を取得した時、ムハンマド・ドバイ首長との緊密な連係プレー があったと言われている4。EIA は今後 UAE を構成する二大首長国が一体となりアブ・ダビの 資金力とドバイの運用ノウ・ハウを結合したSWF として機能する可能性を秘めている。 4.後継者問題 2006 年 1 月に第 10 代ドバイ首長となったムハンマドは今年 49 歳の働き盛りである。健康 に恵まれこれまで病歴は伝えられていない。従ってムハンマド体制は当分続くものと思われる。 彼は首長即位後次兄のハムダンを副首長に指名したが、皇太子は2 年強の間空席のままであっ た。そして今年(2008 年)2 月に勅令を公布し、彼の長男のハムダン(1982 年生)を皇太子に指名、 また次男のマクトゥーム(1983 年生)を次兄ハムダンと同列の副首長に任命した。 彼が2 年もの間、皇太子を指名しなかったのは、彼自身が皇太子に指名された経緯と酷似し ている。即ち1990 年に長兄のマクトゥームが第 9 代首長に即位したが、このときも皇太子は 暫く空位とされ、ムハンマドが皇太子に指名されたのは5 年後の 1995 年のことであった。マ クトゥーム前首長には3 人の男子があり、また次兄ハムダンがいたにもかかわらず、ムハンマ ドを皇太子に指名した理由は定かではない。多分自分の息子達がまだ幼く、また3 人の弟の中 でムハンマドが皇太子として最も相応しいと考えたからであろう。 現代では君主制を維持している国家は日本、英国などのような象徴的君主制も含め、長男が 継承すつ男系長子相続制が一般的である。マクトゥーム家の場合も第 7 代首長(現首長の祖父) 以後3 代にわたり長男が首長を継承している。従って前首長が皇太子を弟のムハンマドから長 男のサイードに代える選択肢は残されていたはずである。このような皇太子の交替は実は珍し いことではなく、ヨルダンでフセイン前国王が亡くなる直前に皇太子を弟のハッサン王子から 長男のアブダッラー(現国王)に交替させたような例もある。しかしマクトゥーム前首長はその ような手を打つことなく2006 年に 63 歳で急死したため、ムハンマド皇太子(当時)が新首長に 即位したのである。 このような経緯もあり、ムハンマドは実兄ハムダン或いは甥に当たる長兄の子供達に配慮し て即位後しばらく新皇太子を指名しなかったものと思われる。しかしこのまま皇太子の空位を 放置すれば、万一の場合を含め今後後継者問題で一族の間に混乱を生じる恐れがある。そこで ムハンマドは名実共にドバイ首長として支配権を確立した現在を見計らって、26 歳の長男ハム
ダンを皇太子に指名したのであろう。 マクトゥーム家の次世代への継承は比較的スムーズに行われるものと思われる。サウジアラ ビアのサウド家或いはアブ・ダビのナヒヤーン家は異母兄弟の人数が多く(サウド家36 人、ナ ヒヤーン家19 人)、サウド家の場合は第 2 代サウド国王以下第 6 代のアブダッラー現国王まで 兄弟が年齢順に王位を継承してきた(王位継承権を自ら放棄した王子を除く)。その結果、サウ ジアラビア国王は高齢化する一方、誰の息子を次期国王(または皇太子)にするかという次世 代へのバトンタッチが難問となっている。アブ・ダビもいずれそのような問題に直面する可能性 がある。その点でドバイは早目に手を打ったと言え、ムハンマドの決断はまさにドバイの CEO と言われ合理的で長期的なビジョンを持った彼の真骨頂を示すものと言えるかもしれない。
1 Newsweek, August 6, 2007, ’The CEO Sheik’ 2 http://www.dubai.uae.emb-japan.go.jp/index.htm
3 MEED, 8-14 February 2008, ‘West calls for greater disclosure’ 4 Gulf Times, 2007/11/30, ‘ADIA’s Citi deal has Dubai fingerprint’