積極的安楽死と消極的安楽死(1 )
一一「殺すこと j と「死ぬに任せること J 一 一
久 保 田 顕 ニ
安楽死に「穣壊的 J と「消額約 j の逮いがあることはよく知られている。そ して通常、このニつの簡には、その倫理性に関して大きな開きがあると考えら れている O とくに日本ではこのギャップは大きし (積極的)安楽死合法化運 動などここ当分起こる気配にない。先に世間の注目を集めた「東海大病院事件」
でも、もし監部が「消極的」方法を用いていたならば、社会開題にすらならな かったで、あろう o しかし、それほど大きな違いがあるのだとすれば、その根拠 は一体どこにあるのであろうか。あるいは、もしかすると、単に積種的安楽死 に乱暴な「印象 j が伴うことから、これを不当に拡大解釈しているだけなのか もしれず、厳密に検討してみると檎理的にはそれほどの議は認められないのか もしれない。哲学者、倫理学者のなかにも、この「違い J に疑問を盛する者が 少なくない。例えばレイチェノレス(J amesR a c h e l s ) は 、 「積極的 j か「消極 的 j かという方法の盤それ自体は道徳的に盤嬰でないとし、許容されるか苔か に関して両者はまったく対等の扱いを受けるべきで島るとしている O 以下では、
彼の意義輸をも審考にしながら、この問題について考えてみることにしたい。
にとり組むべき問題の位置を見定めるために、まず始めに安楽死 きたい。安楽死の分織の仕方は論者拡よっていくぶん異なるが、
…つの俳け宵介して次のよう訟ものが品る(1) 0
まず、安楽死行為誌、その紫行にき運行者の(積機的な)身体動作が伴うか苔
かという観点から、 ( p o s i t i v e e u t h a n a s i a ) と消毒量的安楽死 ( n e g ー
に!K部される。これは別名、能動的 ( a c t i v e ) 安楽死およ
び受動的 ( p a s s i v e ) 安濃死とも替われる。患者に空気や致死盤整の壌化カリウム
を静脈詮射
aして死なせるのは讃種的安楽苑の樹!であり、それに対して、延命の
ための生命維持活動を盤し控えたり、あるいは、束期患者が肺炎撃の比較的議
な形で死ねる病気を併発したとき に対し というのは消額的安楽死の例である O
的安楽死では人為的な手設で患者を「殺す J
打たずに患者に「自
い方もされる。もっとも、
えるのは誤ワであるし
を下したつするから)、 さらに、
一一これは、最初からスイッチを入れないこと かの位置づけが徴妙なものもある O
この箆到には、強にも ないくつかの 安楽死は「殺すこと
「死ぬ?こ缶せること(l e t t i n g 作為 ( a c t I commission) 極的安楽死については、とくに
ら解放し る霞 うもので る k i l l i n g ) J る呼称、が用いられ 今 、
0・
次に安楽死は、 の の 的)
死Ci nvoluntary とに さ る O
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これは、本人に
り、さらには、 緑
色掴いという 実施するもので、 号 、
のニっと並記されるときには、 ・ L . ,
勾ら には L 、 ら る O
に、安楽死は、 る 〉 ヵ :
しないでおく、
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も
〉、という いと
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、
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市/も
若干〆まヨ可 d 、 、
る も 、
」祖白・ ら る 。
し し
ら
る
的であるかによって、産接的安楽死 ( d i r e c te u t h a n a s i a ) と間接的安楽死(i n‑
d i r e c t e u t h a n a s i a ) とに区別される。間接的安楽死とはも例えば、モルヒネの ような鎮痛剤を投与することが患者の死期を早めることを知りつつ、しかも苦 痛の緩和のためにこれを投与し続け、そして実際、その結果死期が早まる、と いうものである O 積種的であれ摺極的で、あれ、産接的安楽死が「死 j そのもの 意図するのに対しでも関接的安楽死においては、 (麗接)意菌されているの は「苦繍の除去!のようなそれ以外の結果であるとされる O
との と啄ばれる就に
wついて
ケースにおい
ることはよく知ら 母親が子宮ガ γ をわずらい、
いては、ニ麓結果説 ( d o c t r i n eo f d o u b l e e f f e c t ) おかなければならない ω 。これは、関接的
を招来するある種の行為を、ある特別な 島り、カトリック教徒がこれを としてよく号 i かれるのは、経擬中の うすれば当然胎児は死ぬであろうことを予想し つつ、総省か時:殺の館を釈うために子宮摘出乎織を行う、といった場合である。
これと一見よく訟でいて、しかもこれとは明穫に底知されるのは、例えば、子 ガ γ の母親を救うためにも
と(殺すこと)で島る O
と惑い結果とがこ璽に生じる
る と 、
は 、
、四つ
によって胎児を宛に査らしめるこ
も合めれ
々の行為からは、蕃い結果 意図きれ ない(あるい ると、この鋭の
るが、害事い行 しきもう
には、
との関の関部
とはも
ょっ
ることが
できる(かっ、こ ならなし
な安楽死 1 (例えば、
意的な安楽死 J (部え
意的な安楽死 J (例えば、リヴイ
「消種的で非缶意的な
れてきたときに手術をしない ところが、積機的@消極的と、
る
ペ 〉
、 も
る 。
@
これとは同じでないように思われる O というのも、
楽死と多分に共通する一面が品るように思われるからで ように、間接的安濃死的な状況とは、ある
目指してそれをき軽現するため
、
しなしウ、
してさ色室
、
し 、 、
そしてその過程でもう一つの静ましくない結巣〈患者や胎児の苑)が生ずるが、
後者の結果についてはこれを生ヒる仁在せておく、という状況 ι 龍ならない。
従ってもある惑しき結果に対して何ら穣種的な措置を講じない では、それは捕撞的安楽死とまったく間じ もっている O
者がそうしているように、これにも「死ぬに缶せる J という は何ら不自然でなく、かっ、一方の考察によって得られ にも適用できることが期待される ω 。それゆえ、弘下では 合む形で「死ぬ U こ任せること J を開題にし、それと「殺すこと J
的な謹異について検討してゆきたい。
なお、本稿では探く立ち入らないがも資楽死誌、
者を苦痛から解放するためのも v 、
ためのもの(噂厳死)、社会檎理的な爵的(例え 配分、共同格の存競@発農、家族が負う経済的@
施されるもの、に分類されることがある ω 。
為形態」に議隈した符為論的な分類で品るのと L
〉航岨われる「自的」に潜践したうえの分類であり、人間生活の基本的翻{護 人格や自禅、正畿、毒事)に誉 2 えするものである。
てること まま他方
ら 、 しない
こうした分類、および、これと先の分類との関係について、五つの点を
し、 、こうし いる立らぜか冶
も も ぐる る
り 、
く
る
‑of 王 )
、とし、うこ る O
はそれ しては、
も結びつけることができる。しかし と
の
なる艇 のどれと い組み合せ めなけれ誌ならない。例えば、笹
び、つきにくい から) 0
びつきやすく、
うまで、もなく、穣種的な
とは比 とるほうが苦痛が制民び
という 自の慣用には る O 潤
いられることが多く によっては、本人 る滞極的安楽死そのものと等畿されることも品る o し かし、明らかなように、両者はそもそも分類、の基準が選っているし、さらに、
、時剛、 y いと結びつくべき「必然性 j があるかどうかも つい少なくとも、讃壊的安楽死と消極的安楽死との区別について、
問 、 について
とく うし
には、こ に予断 るこ ると思う る ( 6 ) 0
2
私個~るこ
、もらゆる
さ L 、 る け
ない な るとし、うことは、 にも匹敵する ると われよ うむしかし問題は、一般にも i く 「殺すこと」と
に桂せること J と によ道議的な を認めることが適切で るか、と
いうことである。倫理学説のなかにもも両者の間の原理的な差異を認めること に繋成するものとそうでないものとがある O 後者の代表は、功利主畿を始めと する:締結主義であり、それは賭知にように、行為を、その総体的な帰結の馨し
しだけから評価する。従って、も さ J が同等であればそのニつ しても、それはあくまで帰結の議い
とそれに対応す品る不作為との帰結の また、たとえ等{障でないと
そのもの 道籍、的議異
くわけではないこと る鋭
との
潜んでいるように思われる O こ 果説である。
のようなある一窓の惑しき 為)は、その~需給がどうであ
あれー‑‑常に不正であり、ま ること(不作為)
ること j ること(作 もたら
〉鋼
、
も に叩
U こょっ
しかし、 に見れば、 りも
的にはるかに不正で品るよう を数う努力をしないことは、
邪悪であると患われない。
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、 き 、 し るが(1 0 ) 、一 し とこ で 、 は 、 t ま な とい うよりもも し 、 と りなく) し いるプロセスに、
(そうし うと ばできる)盟止のた えないということ り 、 っしてイ l V ふ九 / μ で〈てりも こととは 貯 ‑ う O で
ら救辞される ること j とし、うこ
く 、
喝 も るが、こうし うによち
、闘期的 弘 と す る りも
し 、 。
第ニの理出として、不作為には、状況や人物に関わる「偶然性 J とでも言う べき特徴がある。不作為では、行為者は擁して、その状況に偶然に出くわすの であり、それは、事前の計画や意閣の下に状況そのものを作り出していると考 えられる作為の場合とは事情が異なっている(もっとも、もう少し広い文脈で 考えれば単純にそうとは割り切れないが) 0 そして、そこからは備えば次のよ
うな相違が生じてくる。
不作為の場合、行為者は概して、告分の不作為行為によって被害を受けるの が誰であるかを知らないし、とくに、救撲物資を送らないような仕方で人を死 ぬに任せる場合には、不特定多数を相手にするわけだから、行為審議人には、
救済しないことによって死ぬはずの者、死んだはずの者が、そのなかの設であ るのか、あったのかは永遠にわからなし、 これに対して、作為の場合には、
一一無議 i i J r 嬢弾テロによって人命を藤うような場合を加にすれば一一概して行 為者には、自分の芋 U こかかって危審をきをけるのが誰でめるのかが事訴にわかっ ている O 従ってそれは、特定の人物を知りつつ、書わばその「人格 J を意識し たうえの不正行為であり、そこにはより程度の高い邪悪さが感じられる O また、
不作為は偶然的なものであるから、それをするのに時間や努力が必要なく、作 為にはそれが必要であることになる。従って、後者の場合、その行為に敢えて 踏み切った背後には、放置されると危険で為るような邪態な「動機 J や「性格 傾向 j の存在がうかがわれる O
ココに、不正な作為と、 に対応する とが等価でないという ことには、もっぱら道徳的であるような理出
「殺すこと J のような作為が不正であるとすれば、
きる。もしも、
に誌とて我々には、
さないこと J が 、
〈ないしは消
〆令 Uこ v~工、
p o s i t i v e d u t i e s ) が諜せら
「殺すこと」に対応する せること」に対応する
このことはこつの
「不二子捗 (non‑
ょう
‑24‑
J という形の不作
、
も
れに応
は逆に、
なく、 「死ぬに f ま ることになる。そして%
もつように思われる O
まずーっは、義務の履行可能性 C d i s c h a r g e a b i l i t y ) ということである O 殺さ ないでいることには時間と努力(内心の衝動を抑える努力を別にすれば)とが 必要でないから、殺さない義務、一較に不干渉の畿務は、これを完全に駿行す ることができるの我々は一生を通じて、 (殺すことのできる)ただ一人の人を も殺さないで済ますことができる O 有害な殺人を犯すことは、これを完全に避 けて通ることができる O これに対して、伶為畿務はこれを完全に嬢行すること が可能ではない。救える範囲の人に騒っても、すべての人を救うことは到底不 可能で、ある。それがいかに有害であれ、死ぬに任せることは時には避けて通る
ことができない。部えば、罷者の場合で、あれば、あるいは、治癒の見込みの高 い別の患者の世話に専念せざるをえない等の理由から、ある患者を死ぬに任せ るということがめるかもしれない。従、って、もしも「殺すこと J と「死ぬに径 せること」とが関謹麗に不正であるとすれば、我々に、履行可能でなく、興効 性にも乏しい畿務が一一そうではない畿務と間程度に一一ー諜せられるという不 合理が生ずることになる o
さらに、観務の鰻行の仕方における非対称性ということは、 「偲人の自由 j の保障というより重量嬰な論理的自的とも関わってくるように思われる ( 1 1 ) 0 も
し仮に時間と努力とを要する「救援 J が、殺人を犯さないこととが間程度に厳 格な畿務であるとしたらどういうことになるであろうか。我々にはおそらく、
あまりに腎離で耐え難い生活が強いられることになろう O 我々は皆、人道的な 救嬢活動に一生を縛げなければならなくなる。一人でも若手くの人を救うために、
休日を返上し、睡眠時間を切り詰めなければならない。それどころか、自分自 るのを免れる鍵震の財産設を苧充に残して、残りすべてを に自さなければならな L 、。なぜなら、そうしないでいるとい うことは数える人を救わないことであり、そしてそれは殺人に匹敵することだ からで為る O これは何も、殺す、死なせるだけの問題ではな L 、。もしも、ゴミ
捨てないことと、落ちているゴミを拾うこととが間程度に強い畿務であると すれば、我々は、詰らゴミを捨てないことを決意した瞬間に、ゴミ拾いに奔走 しなければならなくなる。実際に試そうならずに辞んでいる一つの大きな理由 は、我々が、不作為は作為ほどには不正でなく、提って、作為畿務は不作為畿 ほどには厳格でない、と議じているためであると思われる O だからこそ我々
‑25‑‑
は、一一一内心では、世の中で誰かが救援を必要としていることは十分感知しつ つも一一安心して告ら選んだ活動に、没頭していられるのである O
3 レイァェ
以上のような理由に鑑みれば、 「殺すこと j と「死ぬに{ませること J との間 に、その邪悪さの程度において歴然とした謹があることはむしろ当然に思われ るが、ここで、翻って安楽死の場合につい みると、そこでは、このよう な理由は必ずしもすぐには当てはまらないように思われる O 穣事量的乎段を用い ようが消極的手段を用いようが、歴者には安楽死を施すべき自分の患者が雑で あるかがわかっているし、たとえ消極的な場合でも、そうすれば患者はほぼ確 実に死に芸さることを確信している o r 動 機 J に関して蓄えば、安楽死
者の動機には利己的で危険なものは徴麗も感じられず、積極的な場合であれ消 撞的な場合であれ、いずれも「人道的 J なものであることが期待される O また、
健康人を相手とするわけで、はなく、いずれにせよ近々死を迎える患者を相手と するわけであるが、このことも、安楽死を通常の殺人のケースなどからは明確
に区別する特徴でなければならない。安楽死とはまさに患者に死期が追ってい るがゆえに行われるものなのであるが、少なくともその死期が追ったことに対 しては、医者は多かれ少なかれ閤果的な関わりをしているはずである O
このようなことから考えてみると、こと安楽死に関しでは、作為と不作為と の聞に道徳的議異を設ける説には郎監には首肯し難いよう記思われる O 従って また、それが一見説得力をもつように見えるのは、おそらく次のような理出か らではないかと推測される O それはすなわち、こうした説では、比較されるべ き事例の選択を誤っているのではないか、ということである。少し反省してみ ればわかるように、 「死ぬに径せること j という表現でー揺されるもののなか には、殺人にも匹敵する邪悪なものから、その帯設すら知らない遠方の人を救 済しない場合のような、資任を関うことすら無意味なものに至るまで、突に多 種多機なものが含まれている。さらには、監者の人道的動機に警察づけられ、我々
の心に深い共感を呼ばずにおかないものまである。このうち、我々に身近なの は、スペクトラムのうちの資佳性の乏しいものであろう O ところが他方、 「殺 すこと J の併としては、毎日報道される最も凶悪な殺人事件がまず患い静かぶ。
‑26‑
我々は、 「殺すこと J と「死ぬに任せること j との差異を考察する場合にはこ の両者を比較しやすく(1 2 ) 、そして、それによって宵まれた、両者の邪悪さの 穏麗に関する観念を、安楽死の考察にもそのままもち込んで、いるのではないか と思われる。しかし、こういった観念は、突は、作為であるか不作為であるか というそのことよりも、むしろ、 「動機」の違いその他の、それと誌直接関係 ない事情に由来するものであるかもしれない。我々は、そうとは気づかずに、
当蕗の主張にとって関係のない事情に鰻を向けているのかもしれない。
そうであるとすると、我々にとって必要なのはまずフェアな比較を行うこと で、あろう O 換雷すれば、 「殺す j か「死ぬに佳せる J か以外ではほとんどの点 で類似しているニつの事例を比較してみることであろう。このような潤察のも とに、積掻的安楽死。と捕器量的安楽死との道徳的差異の問題を論じようとしてい るのがレイチェノレス(J amesR a c h e l s ) で、ある O 彼は、我々がとり組むべき問 を 、 「現実の殺すケースの大部分は、現実の死ぬに任せるケースの大部分よ りも非難に値するものであるかという、それとは加の問題ととり違えて誌なら ない J ( 1 3 ハと述べている O そして、ここから彼が噂く結論は、両者はそれ自 体としては道帯、的に等価であるとするものであり、その主張は、表向きの体裁
としては、安楽死そのものの是非についてはそれ以上のコミットメ γ トを避け るもので島るが、しかし、援の最終的な狙いは、言うまでもなくも積極的安楽 死と補極的安楽死双方の許容性を鴇えることにある O
被は、中心となるこうした議論の飽にも、これを支持するための補足的な論 点をいくつか提出しているので、まずそちらのほうから見てゆくことにしよう O
に、灘極的安楽死〈ないしは不作為一般)の道徳性を問題にするとき、
は 、
設のなすことは、
れを純粋に「何もしないこと (not‑doing) J と間一視し るが、設によればこれは大きな誤りである。罷者が消極的安 は端的に何もしないのではなく、 「死ぬに佳せる J と褒現さ
ことさを行っている。記述の仕方次第では、確かに彼 に指図しない J のであるが、しかし、他方立た、
によっては「見殺しにする J とも記述できるようなこと である O その理由としては、一つには、 「救わないこと (not‑saving) J とい う記述が、産者のみならず、私ゃあなたのような他のすべての人々にも用いら
‑27‑
れうる記述であるのに対して、 「死ぬに缶せる J という記述は、唯一、救える 立場にある(専門技能や距離の点で)者についてのみ当てはまる記述であるか らであり、いま一つには、 「死ぬに任せること J は、単に「救わないこと J と は異なり、そして「殺すこと j と共通して、護国的Ci n t e n t i o n a l)で故意 ( d e l i b ‑ e r a t e ) であることがありうるからで為る O
第ニに、安楽死の状説とは、一般に、医者が患者の死期を平める決断を下し、
かっ、その結果、そう決断しなかった機合よりも実際に死期が早まる、という 状況である O こうした決断こそが、すべての安楽死 ι 共通する最も本質的な 棄である O だとすれば、その際いかなる手段を用いるかといった他の決断は、
すべてこれに従属する副次的で末節的な決断犯すぎないことになる。換脅すれ ば、医者が、この特定のケースにおいては患者にとって死ぬことは生存を統け ることよりも蕃である、と決定した以上は、いかなる方法においてこれを実行 するかはニ次的な問題でなければならないりそれゆえ、安楽死についてその 徳的是非が関われる場合も、それはめくまで、この根本的な決定が正、しいか否
かに基づかねばならず、いかなる手段が用いられるかによって左おされてはな らない。手段の違いは、それ自体がそこに道徳的相違を基づかしめるべき選い ではない、と授は誓う O
Z に、彼によれば、消極的安楽死によって患者を死なせるということは、
援者の書い逃れのための妥‑協策とも雷うべきもので、ある O 一方では盛者は、管 関する患者の饗に共感し、死にたいという設の願望を尊重したいと願う O とこ ろが地方、 「殺す j という形で患者の死に携わった場合の「鐸悪感 J や後味の 惑さから一一ーさらには、現行法に基づく刑事訴追の恐れから一一免れようと
る。そこで彼は、このジレ γ マから逃れるため、雷わば中間の方途として、
者を殺すことなく、延命努力の放葉によって死期を平める方法を選ぶ、という のである。従って、もしも、諮麓的安楽死には援者の密呂防禽措置という性格 が強いとすれば、このことは、檎理的に見た場合には「穣櫨的 j のほうが場合 よってはより妻子ましいかもしれない、という可能性を残す。実際のところ、患 者の苦痛の除去という安楽死の語的に鑑みれば、より効果的で患者にとっ
ましいのは積;罷的安楽死のほうであるとも考えられる、と彼は言う O
第四に、道徳理論として見た場合に授の最も盤擦な論点とも替えるものであ
‑28‑
るが、 「護観Ci n t u i t i o n ) J に対し の直観さ主議批判の立場がある ( 1 4 ) 0
「論証 (argumen t ) J を鱗携する後 と消極的安楽死との閣の、
「殺すこと J と「死ぬに桂せること J との簡の道徳的盤異を鳴える者が、議常 由競の大きな拠り所とするものの一つは、それが我々の遊織的薩観にじかに訴 えるカをもっている、という事実である(1 5)0 しかし設によれば、 「麗観 j に 対してそのように無批判的であることは、よその限界を自覚しない誤った態度で
ある。なぜなら、震観(道徳感構、罪悪、感、等も含めて)というものは、
ところ、既存の道徳、ノレールや命令を受容するための心理的機制にすぎないから ある O 実際、それは本性上、常に保守主裁に傾斜するのであり、従って、新 たな道徳的問題状況が生じたときに捻まったく無力であることが多い。従って、
々に必要なのは麗観に頼ることではなくも 「斑観 J についてもその真鵠を関 いうる「論証 j の視点に立つことである。既成の罪悪感に基づいて答えを出す ことではなく、罪悪に関する正しい判断を議事くことである O そして、設がこの 際「識経 J として念頭に置くものは、具体的には以下に見るような証明の手続
きであり、また、より援本的な道徳理論としては r 功利主義義 j である。
さて、すでに述べたように、積右霊的安楽死と消撞的安楽死との道犠的議異を るレイチェノレスの意見の最大の柱になっているのは、両者の相違を けるべく踏黙に援揺されるニつの比較事例の選び方がき建は適切なものではない、
という点である O そこで彼は、これを是正するために次のような論寵の方法を るひそれはすなわち、一方が「殺すこと j を含み、飽方。が「死ぬに任せ ること J
る、とし、う
いては、ほとん
はこれを、我々が
を比較してみ によって関果関係 きになぞらえている O そこでは我々は、爵をつけたある の事情だけが瓢 れの存苔を除いては能のすべての事情を可能な隈り等しく 比較するからである O これとパラレノレな設方で、鐙は、殺す か死ぬに笹せるかとし、う方法の違いだけを議立化させ、それが果たして、邪悪 さの程度に関する我々の道徳的判断のうえに違いを生ぜしめるかどうかを見出 そうとするわけである O 彼が用いる事前 j は、邪惑で、あることが殊の丹、獄事喜なも のであるが、彼の戦略はさ当然、そこで得られた結論を、邪悪さの不明瞭な一一…
‑2 9‑
だからこそ、議論の対象になるわけで、あるが一一一安楽死の場合にもそのまま類 推的に及ぼすことにある o 彼の文章をそのまま 5 1 いてみよう O
スミスは、万一、六裁になる従弟の身に何か組これば、莫大な遺産を苧に入 れる立場にある O そこである磁もその子が入裕している最中、スミスはこっ そりと風呂場に忍び込み、その子を瀦死させ、そしてそれを事故と見せかけ るためのとり繕いをする O このことは維にも気づかれず、スミスは遺産を乎 に入れる O
ジョー γ ズもまた、万一、六蔵になる従弟の身に向か起これば、葉大な遺産 を手に入れる立場に島る O そこでスミスと同じように、ジョー γ ズはそ を風呂で溺死させようと企んで忍び込む。ところが、ジョーンズが風呂場に 入るちょうどその瞬間、その子は足を措らせて踏を打ち、うつぶせになって 湯のなかに落ちてしまう。ジョーソズは歓喜する。彼は鋳観し、必嬰とあら ばその子の頭を押し込もうとしているが、その必要はな L 、。ジョー γ ズが伺
もせずに見守っている問、その子はたった数回のたうち回って、 「たまたま 運悪く J 一人で欝死してしまう O このことは殺にも気づかれず、ジョーンズ は遺産を手に入れる。
きで、レイチこにノレスはここから次のように結論する O スミスもジョー γ ズもまっ たく関じ動機に促され、まったく同じ話的を眠中拡驚いておりも逮いはた 1'‑ , . .
一方が子供を殺しているのに対して、他方はそれを死ぬに任せている点だけ ある O ところが、我々は再審を等しく邪惑であると判麟し、その違いをまっ
く認めない。それゆえ、 「殺すこと」と「死ぬに告せること J との拐逮それ自 体が、道繕的な観点から見て護饗な相主撃を生み出すとは考えられない、と(1 7)0
(1)この分類は次のものに負う。 JohnLad ふ I n t r o d u c t i o n E t h i c a l
e s R e l a t i n g t o L i f e and , John Ladd(e 止) , Oxford む , . , 1 9 7 9 , p . 8 f .
ー
‑3 ひ一
( 2 ) 本稿では主に次のものに期ってニ麓結果説を理解した。 P h i l i p p aFoot , The Problem o f A b o r t i o n and t h e D o c t r i n e o f t h e Double E f f e c t 押 , i n Oxford Review , no 点 ( 1 鉛 7 ) , r e p r i n t e d i n Moral Problems
Medicine , Samuel G o r o v i t z e t a l ( e d s . ) , Prentice‑Hal , l I n c . , Engelwood C l i f f s , 1 9 7 6 J o n a t h a n Bennett , "Whatever t h e
Consequences 押 , i nA n a l y s i s , voL 2 6 , no.3 ( 1 9 6 6 ) ; J o n a t h a n Glover , Causing Death and Saving L i v e s , P e l i c a n Books , 1 9 7 7 , Chap.6. ま T こ 次のものも参照、加藤尚武『バイオエシックスとは何か~ (来来社、 1 9 8 6 年) 72‑79 J 更 。
( 3 ) 間接的安楽死を、穣主量的安楽死と消者霊的安楽死との簡の中間形態として捉 る見方もある o A l a s t a i r V. Camp b e l l , Moral Dilemmas i n M e d i c i n e ,
e d . , 1 9 8 4 , C h u r c h i l l L i v i n g s t o n e , 1 9 8 4 , p p . 135‑140 。間帯成一『安 楽死~ (弘文堂、 1 9 7 7 年)、 1 4 賞 。
( 4 ) 例えば、プットはもニ麓結果説の分析によって得た結論を、力点を変えて のまま、積宅量的安楽死と消極的安楽死との関の道徳的な議異の問題へと ば、ニ議結果説がとり組もうとしている事態は、
)と宅建題的議務〈護助)という概念によって は 、
(さらには、問者の によって)解釈し
の遵徳的な および厳格きが同じでないという
も
ことができるものであり、従って、安楽死の場 の不麗符)と消麓的安楽死(嬢助義務 不麓行)とでは、その道徳的な意味はまったく選っている、とのことで る O P h i l i p p a F o o t 9 6 4 E u t h a n a s i a ?
抑i nP h i l o s o p h y and PU b l i c A f f a‑
, voL6 , 紅 0 . 2 ( 1 9 7 7 ) , Ladd(ed , ) , pp.14‑40 , e s p . ,
( 5 ) { 1 I J
も、から、 を J r 寂普死 J r 尊厳死 J r 放
「淘故死 J してし,)5 0 営) I1佼行『安楽死の論理と論理~ ( 東
O
( 6 ) これはレイチェノレスが夙に指摘している点である。
( 7 ) ニ重量結果説に対しでよく向けられる批判としては、例えば、「意図さ'れる J
ものと「予見される」ものとの聞の区別の議機が酸味であるとか、あるい
‑31‑
は、この説は、普い行為と惑い行為とのクラスを、結果(帰結)の善し悪 しとは独立にアプリオリに同窓できるものとしているが、それはこの説が 宗教的権威に富従していることの証左である、といったものがある O
P h i l i p p a Foot , o p . c i t . , p p . 2 6 8 f . ; J o n a t h a n Bennett , o p . c i t . , p p . 8 4 f . ; J o n a t h a n Glover , o p . c i t . , p p . 8 8 f .
( 8 ) P h i l i p p a Foot , The Pro blem o f A b o r t i o n and t h e D o c t r i n e o f t h e Dou b l e E f f e c t , " p . 2 7 2 .
( 9 ) 以下の諸点は、主に次のものに多くを負っている。 J o n a t h a nGlover ,。ト
c i t , ・ Chap. 7 ; Richard L. Trammell , 商 品 ving and Taking L i f e , " i n J o u r n a l o f Philosophy , vo l . 7 ( 1 9 7 5 )
昏( 1 0 ) 不作為についても、行為の因果説的な分析の多くが当てはまることを指摘 するものとしては次を参照。 JohnLadd , " P o s i t i v e and N e g a t i v e E u t h a n a s i a , " i n John Lad せ ( e d .) , e s p . , p ト 170‑178.
( l l ) J o n a t h a n Glover , o p . c i t . , pp.104‑107 , p . 1 0 9 f.関越留の見解としては、
P . J . F i t z g e r a l d , Acting and R e f r a i n i n g 開 , i nA n a l y s i s v o l . 2 7 , no . 4 ( 1 9 7 3 ) , r e p r i n t e d Samuel G o r o v i t z e t a l ( e d s . ) , pp.284‑288.
( 1 2 ) J o n a t h a n Glover , . c i t . , p . 9 5 f .
( 1 3 ) James R a c h e l s , " E u t h a n a s i a , K i l l i n g , and L e t t i n g 9
押i nJohn Ladd(ed.) , ト 1 5 6 . 本橋では、主にこの論文に即して畿の見解を見てゆ
くが、その締約寂としては次のものがある o , " A c t i v e and P a s s i v e E u t h a n a s i a , 押 i n NewEngland
v o l . , n o . 2 ( 1 9 7 5 ) ,
Engelwood C l i f f s , (加藤縄武@
E t h i c s and PU b l i c , Tom P.Pinchar せ ( e d s . ) , … H a l l , ム 五 よ い 9
イ¥野谷加奈恵訳「穣額的安楽死と消極的紫楽死」
『パイオエシックス 所段、東海大学出絞 会 、 1 9 8 8 年) 0 また、次の邦訳も委主捕、 J . レイチェ/レズ『生命の終わり J
(加茂麗樹監訳、晃洋欝薦、 1 9 9 1 年) 0
( 1 4 ) ヘアの いれば、この違いはほぼ、道徳的思考 ( m o r a lt h i n k i n g ) における護観のレベル(i n t u i t i v el e v e l)と批判のレベル ( c r it i c a l l e v e l ) との遠いに相当する o R. M. , Moral Thinking , , 1 9 8 1 .
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( 1 5 ) r 積極的」と「滞種的 J との道徳的議異を疑問視する論者は、告説の展開 に際してはまず直観主畿批判を行うのが通例である o John Ladd , o p . c i t . , pp.166‑168.
( 1 6 ) 同様な論証はトゥーリーも行っている。 MichaelTooley , Abortion
and I n f a n t i c i d e , " i n P h i l o s o p h y and PU b l i c A f f a i r s , v o l . 2 , no.1 ( 1 9 7 2 ) , p . 5 9 f . 授の見解も、 「積壊的 J と「消極的 J との外見上の違いは、動機 その偵の事情の遣いに由来するとするものである O
( 1 7 ) こうしたレイチェノレスの議論に対しては、特殊な個別例を全体へと性急に 一般化している、等の反論がすぐに患い浮かぶ o Tom L. Beauchamp ,
叫