161
小説プロッ トとしての I nc es t
‑
Faul kne r
作 品 を例 に して ‑菊 池 昭
いささか回 り道 をす るようだが,話 を進 める順序 として初 めに小説 の成立 について ‑ とい うよ りはむ しろ,小説 なる もの はその発生 のむか しか ら一 体何 を措 きつづ けて きた.のか, とい うことについて簡単 にふ りか えってお き
たい。
まず,発生論的 に
" r omanc e"
とい う語 を吟味 して, それが含蓄 す る(平 曲 的, あるい はむ しろ浪 曲的 とさえ もいえる)語 り物 としての大衆性 と現実遊 離傾 向 を再確認 しておかなけれ ばな らない。た しかに, よ り近代的な用語 で あ る" no ve l "
の方 は, その原型nou e l l anar 7 1 a 7i o
‑" ne w ki ndofs t or y"
か ら 窺 えるように,空想的なr o ma nc e
とは異 なった,もっ とリア リステ ィックな 目で人 間世 界 を描 こ う とした もの に違 い な いが, しか しnove l
の た め にr omanc e
が全面的 に否定 され る ことになったので はもち ろんない。例 えば, 既知 の事柄 やpr o ba bl e
な ものだけを措 くのが小説 なので はな く, pos s i bl e
な ものについての語 り‑ つ ま りr o ma nc e
も,単 なる外面描写 に とどまらず に人間心理 に踏 み こんで描 くな らば,人 の心 を強 く把捉す る力 を もつ とい う 態 の主張 をしたHawt hor ne
な どを引 きあいに出す まで もな く,r omanc e
は いつの世 に も物語芸術 の一方 の極 としてその存在 を主張 しつづ けたのだ し, 土台小説 とい うもの は,nove l
とよばれ るようになろうと何 であろうと,その 性格上不可欠 の要素 としてr omanc e
性 を内包 してい るといえるであ ろう。ともあれ
r omanc e
は,十字軍時代 になって騎士道物語 とい う体裁 を とって 発展す ることにな り, しか もそうした物語 の出現 と不即不離 の関係 をもって 次第 に増加 して きた婦人読者層か らの需要 に基づいて,漸次 その存在 をはっ きりさせ るようになったの は周知 の通 りである。 一体 に小説 は,洋 の東西 を問わず元来 が婦女子 のための ものであった。つ ま り,婦女子 の
pa s t i me
とし ての読 み物 か ら発達 したのだが, この事実 は思いのほか重要 な意味 を もって いるようである。 すなわち婦人 たち とい うの は概 して甘 い色恋 の話 を好 む も のであ り,草創期 における単純 な色恋 の物語が1 8
世紀 か ら1 9
世紀 を経 て進 化 し洗練 され,複雑 な恋愛心理 の分析 を主題 とす る近代小説へ と進 んで はき た ものの,少な くとも西欧で は,男 と女 をめ ぐる愛 の物語 こそが,今 なお小 説 の主流で ある とい うその歴史的背景 を明 らか に してい る といえるだ ろう。例 えばフランス文学で は
,1 7
世紀 も後半 の1 6 7 8
年, Ma da med eLa f a ye t t e
は従前 のロマネス クな物語 とはいささか趣 の違 う,ルイ王朝 の宮廷生活 とそ こを舞台 にした男女宮廷人 の姿 をあ りの ままに写 し とる ことを目ざ して
La Pr i nc e s s ed eCl e t v e
を善 くのだが, しか しそれ はおのずか ら男女 の恋 の駆 けひ き,微妙 な心理 の綾 を ことこまか に描 き出す ことにな り,近代 フランス心 理主義文学 の草分 け ともいえる作品 になるのである。
この ことは,
(
「人間 とは何か」 を問 うもの とい う,近代 の小説定義 を もっ と噛 み くだいた具体 的な ことばで言い表わすの と同 じことになるが)小説 と い うもの はつ まる ところ,(この世 における愛憐,憎悪 あるい は犯罪す らも含 めた)人間 と人間 の種々 なるかかわ り合 い方,別様 にい えば人間世界 の さま ざまな場面 での個々人 のあ りよう‑ もっ と直裁的 にい うな らば,そ うした 局面 における人間 の心 の状態 を問題 として取 りあげるものだ とい うことの一 つの証 にな るだ ろう。それ以外 の もの,例 えば自然 それ 自体 の描写 な どは (ち ょうど絵画 の方で も
,1 9
世紀半 ばにフォンテーヌブローの森 に拠 ったCo r o t
が 自然 のあ りの ま まの写生 をめが けるまで は, 自然 は文字 通 りの添 え物 で しか なかった よう に),はっ き りいって小説 の本質的な部分 をなす もので はない と考 えられて き たのである。先 に触れたL aPr i nc e s s ed eCl e t v e
は, その中に自然描写 らし きものがただ一行 しかない ことで も有名 だが, しか しそれが現代小説 になる と,小説 にお ける自然描写 とい うもので さえ, そ こには何 らかのかたちで人 間の心が投影 されてい る と考 え られ るまでになる。 ある者 は, 自然 を措写 し小説 プロッ トとしての
I nc e s t
‑Faul kne r
作品を例 にして16 3
自然 を通 して神 に近 づ こう とい う願 い を もち, あるい はまた ある者 は, 自然 を詠 んで 「人 の声」の限 りを極 め る ‑ 自然 の内懐 に とび こみ,人 間 のな し うるわ ざの限界 を極 めたい と望 んだ りもす るのだが, いずれ にせ よ, おのれ の内奥 を吐露す るため に現代作家 は自然 にす ら重要 な役割 を荷 わせ る ことに な るので\ある。
例 えば
He mi ngway
のTheOl dMa na ndt heSe a
において,再三 くり返 さ れ る自然 ‑Car l o sBake r
ふ うにT. S. El i ot
の ことばを使 ってい えば 「客 観 的相 関物」‑ の描写が, しか し実 は一人 の老人 の不屈 の意志, あ るい は 同 じことだが精神 の威 厳が もつあ る種 の美 しさ, そ して人 を愛 す る ことか ら 得 られ るささやか な よろ こび と悲 しみ ‑ 要す るにひ とりの人 間 の全生涯を支 えて きた心 のあ りようをのべ た もの とい うの は,今 や高校 生 で も口にす る常識 で ある。
私小説 とい う特異 な分野 のひ らけた国 とはいえ, 日本 の現代文学 も決 して 例外 で はない。例 えば昭和 の初期,水 晶の ように透明 な才能 を もちなが ら二 十五歳 で天逝 した梶井基次郎 の作 品 「闇 の絵巻」 な どはどうで あ ろうか。梶 井 はこの短篇 で,伊豆 の小 さな温泉宿 の暗 い夜,遠 い ともしび と川 の音 な ど
をひたす ら書 き綴 ってい るよ うなので はあ るが, その実 この作 品 をす っぽ り 覆 い くるんでい る もの は,壁 の ように立 ち はだか る厚 く固い闇 に も似 た,梶 井 の絶望 的 に深 い孤独感 なので ある。
か くの ごと くにして,人生 の写実, もっ と端 的 に言 ってそれ ぞれの場 にお ける人 間 の心 の状 態 の観察 ‑ これが本来 的 に小説 の 目ざす ものにな るの だが,更 にい えば, そ うした心 の状 態 とは結局 の ところ,夏 目軟石 の同種 の 指摘 をまつ まで もな く,(1)「男女 の愛」に集約 され, それ によって代表 され る とい えるで あ ろう。 西欧 において小説が文学 の主流 になったの は二百年 くら
(1)
夏目淑石,『軟石文芸論集』磯田光一編 (岩波文庫,1 986) ,p. 67
。 とりわけ 次の一文 に注目。「人を通 じて愛の関係 をあらわす もの,これは十中八,九い わゆる小説家の理想になってお ります。」い前 か らだが,この二百年 のあいだ西欧 の作家 は
,Faul kne r
の ことばを使 っ てい えば 「愛 は時 として ある普遍的 な力,人生 を生 き通す ための力 を持 ち う る。 こうい う愛 は何 も男女 の愛 とは限 らないのだが, しか し人 間 は男 に しろ 女 に しろ,本来的 に自分 のす ぐわ きにい る者 を相手 に愛 を追 い求 めて行 くも のだ」 とい う考 えに基 づ いて,(2)さ まざ まな愛 のか た ち を書 いて きたので あ る。例 えば
,1 9 8 7
年1
1月 に物故 したJame sBal dwi n
の場合 を考 えてみ よう。第二 次大戦後,彼 が黒人文学 の新 しい旗手 としてアメ リカ文壇 に登場 した と きに とったその思想的立場 は,従前 の ような 「白人 に対 す る憎 しみ と恨 みに 根 ざ した強 い抗議」とい う,いわ ば
Ri c har dWr i ght
に代表 され るPr o t e s t
派 の主張 とは明確 に一線 を画す る もので あった。それ は簡単 に言 って しまえば, アメ リカ はい まや 白人黒人 が互 いに相手 に対 して抱 いてい る憎悪 と怖 れ を捨 て,愛 による相互 の理解 によって新 し く生 まれ変 わ らな けれ ばな らない というものであった。
この考 えの根底 に はお そ ら く,「自分 の して もらいたい ことを他者 に もな せ,他者 を自分 自身 の ように愛せ よ」 とい う,西欧社会 に伝統的 なキ リス ト 教 の考 えが あるだ ろう と思われ る。
GoTe l lI to nt heMo unt ai n ( 1 953)
, あるい は評論集
TheFi r eNe xtTz ' me ( 1 9 6 3 )
中の" Downatt heCr os s "
な ど が伝 えるように,魂 の救 い を求 めて教会 にのめ りこんで行 った青春期 を,Ba1 ‑ dwi n
もた しか に持 ってい るのであ る。ところでBal dwi n
によれ ば,この愛 を 通 しての黒人 と白人 の相互理解, あるい は逆 の言 い方 をすれ ば理解 に基 づ く ところの愛 の関係 は,黒人 白人 の両方が,お互 いに隠 し合 って きた過去 の一 切, 自分 の内部 の恥 も怖 れ も,一切 を白日の もとにさ らけ出 して理解 し合 うことによって初 めて得 られ る ものなのである。
それな らば, こうした考 えか ら発 す る愛 とい うの はどうい うか たち を とり
(2) Fa ul k nne ri nt heUni v e r s i t y ,Fr e de r i c k
L.Gwy nna ndJ os e ph
L.Bl o t ne r
,( e ds . )( Ne w Yo r
k:Rando m Ho us e ,Vi nt a gee di t i o n ,1 95 9) ,p. 95.
小説プロッ トとしての
I nc e s t‑ Faul kne r
作品を例 にして165
うるで あ ろうか。二人 の人 間がおのれの奥底 をすべて さ らけ出 し,真 の魂 の 触 れ合 い を求 めて向い合 うな らば, その二人 の人 間 とは,黒人 同志で あるの は もち ろん, 白人 同志,更 に は現在 のアメ リカ社会 で は決 してあ りふれた も の とはいえない白人 の男 と異人 の女,黒人 の男 と白人 の女 とい う組 み合わせ にな ることも,当然 にあ りうる ことだ と
Bal d wi n
は考 えるので ある。アメ リ カ にお ける白黒 のカ ップルな ど,現実的 に は彼 らに反 って地獄 の ような苦悩 を味 わわせ るだ けの はずであ るが,二人 の人 間が真実 を もってかかわ り合 う 限 り,愛 はどうい うか たちを もとりうる と考 えるので ある。そ して その考 えの進 む ところ,愛 は男女 の間 だ けで はな く,男 同志 あるい は女同志 の間 に生 じて もいい とい うことにな る。
Bal dwi n
は (彼 自身が ホモ セ クシャルで\あった とい うこともい くらか は影響 してい るだ ろうが) しば し ば男同志 の愛 を とりあげ,例 えばGi o v a nni ' sRo o m ( 1 956)
で は白人 男性 の ホモセ クシャル な愛 を描 いてい るのだが, これ らの事柄 をま とめてBal dwi n
の言 いたい こ とをひ とことで要約 すれ ば, それ は 「この世 に は, あ る とすれ ば愛 とい うものだけが あるのであって,人種 の違 い は もち ろん,実 は性別 と い うもの さえ意味 のない ものだ」 とい うことで あ ろう。こうい う考 えを引 き延 ば して行 けば, お そ ら くその先 に近親相姦 とい う問 題 がみ えて くるに違 いない。愛 だ けが真 に存在 す る もので,性別 さえ も無意 味 な らば,血筋 だの骨 肉だの とい うことも無意味 とす る考 えが 出て きて も不 思議 で はない。最近 もアメ リカの作家
Jo hnl r vi ng
は, その作 品TheHo t e l Ne u )Ha mps hi r e ( 1 9 8 1 )で,少女時代 に受 けた レイプのため に心身 に傷 を負
うた女性 が, さ まざ まな苦 しみのあ と,最後 に は実 の弟 へ の愛 によって立 ち 直 る きっか け をつか む とい う話 を述 べ て い るが,翻 って遠 い過 去 に さか の ぼ ってみ る と,古 い神話 の世界 で は,近親相姦 ‑ 父 と娘,母 と子 の結 びつ きはさほ ど珍 しい もので はなか った ことに気づ く。有名 な ところか らい えば, 紀元前
8
世紀頃 に輪郭 を整 えた らしい旧約聖書 「創世記」には,Lot
と二人 の 娘 の話 が 出てい る。退廃 の町 ソ ドム とゴモ ラが天 か らの火 と硫黄 に よって滅 ぼ された時,Lo t
と娘 たち は共 に逃 れ出て山中 に隠れ住 むのだが,あ る日姉 と妹 は語 り合 う。
" t he r ei snotamani nt hee ar t ht oco mei nunt ousaf t e r t hemanne rofal lt hee ar t h:c ome, l e tusmakeourf a t he rdr i nkwi ne ,and wewi l ll i ewi t hhi m,t hatwemaypr e s e r ves e e dofourf at he
r."( 1 9:
3 1 ‑3 2 )
一方,同 じ古代人 の著作 とい うことで我々が旧約聖書 に並べてす ぐ思 い起 こすの はギ リシャ悲劇 だが,一人 の男が苛酷 な運命 に導かれ るまま知 らない うちに父 を殺 し,実 の母 と結 ばれ る ことにな り,みずか ら両 目を くりぬ くと い うあの
Sophokl e s
のOe d Z i ) u st heKi ng
の原型 は,紀元前8‑ 9
世紀頃 に 書かれたHo me r
の0
め′ssey中に伝説 とい うかたちで出て くる もので, この ことは (旧約聖書成立 とほぼ同 じ時期 である)紀元前八百年当時 のギ リシャ 人が,すで に母子相姦 を罪 と考 えていた とい うことを示す。 旧約聖書 の方 はLo t
の話 に関す る限 り,それ を一つの事実 として淡々 と述べ るにす ぎず,まる で古代 ユダヤ人 はこうした問題 に善悪 の批半田まなか ったかの ようにさえみえ かねないのだが,事実 はそれ とは全 く逆で,レビ記( 1 8:6 ‑1 8 )
,申命記( 2 7:
2 0 ‑2 3 )
において は様々なケースの肉身近親 の交わ りを想定 し, む しろギ リ シャ人以上 の きび しさを もって近親相姦 をい ましめてい るのである。 しか もEr i c hFr omm
の主張 を引 くな らば,旧約聖書 にお ける近親相姦 の否定 は単 な る人倫上 の事柄 なので はな く,神への従順 とい うユダヤ教 の根源 に深 くかか わ る問題 とい うことにさえなって くる。Fr o mm
の使 うこの場合 の 「近親相 姦」 は必ず しも性 的なつなが りを意味す るので はな く,肉身,血縁 に対 す る 情緒 的束縛 とい うことを意味 させてい るのだが,親兄弟 とのつなが りを 断ち 切 って精神 の本 当の自由 をうるのでなければ,人間 は神 によって示 された道 を辿 るこ とがで きない とい うのが古代 ユ ダヤ人 の考 えで あった。Abr aham
が そのひ とり子 をいけにえにす るよう告 げ られた とき,彼 はこの近親相姦 的きず なを断 って,真 に自由にな ることを神 に求 め られたのだ と
Fr omm
は主 張す るのである。(3)こうして眺 めて くる と,人間 は古 い昔か ら, どうも近親相姦 とい う人 間 に とって最 もきわ どい もの をダシに使 いなが ら, それ に対 す る厳 しい否定 を通
小説プロットとしてのI
n c e s t
‑Fa ul kne r
作品を例にして1 67
して実 は倫理的 あ るい は宗教 的 に極 めて深刻 な問題 を追求 していたのだ とい えるような気がす る。 つ ま りギ リシャで は,人 間 を支配 す る運命 と,破滅 す るこ とを承知 の上 でその運命 と闘 う人 間の意志 について, そ して古代 ‑ プラ イ人 は,神 によって祝福 され る自由 とは,実 は親 とか兄弟 とかい う近親 を切
り捨 てただ一個 の神 の僕 とな り切 った ところで得 られ る とい うことを訴 えて いた と考 えていい ように思われ る。
と′ころが, ここで 目を我 が国 に向 けてみ る と,我 々 の祖先 は,近親相姦 に ついてギ リシャやユダヤ とほ とん ど正反対 ともい える観念 を持 っていた こと が窺 える。 先 きに触 れた通 り, 旧約聖書で も
Lot
とその娘 たちの場合,ある い はTamarと義弟 ,義父 の場合 (
創世紀,3 8:6 ‑l l )にみ られ るように
,(4)子孫 を後世 に残 す とい う緊急差 し迫 った問題 の解決 のために,親子 の肉体 的 結合 をよし とはしない まで も一 時 目をつぶ ってい るような趣 が感 じられ たの だが,外部 の血 をまぜ ない とい うことを理 由に してお こなわれ た 日本古代 の 支配 階級,特 に天皇一族 の濃密 な血族結婚 は (古代 エ ジプ ト,ペ ル シャ,戟 鮮 な どで も実 は同 じこ とがお こなわれてい たが)(5)現代 の我 々 に はただ呆 れ 果 て るしか ない もので あった。叔父 と姪 (例 えば天武 く大海人皇子)と持統 (鹿 野皇女),叔母 と甥 (時代 は下が るが,在原業平 の両親 伊登 内親王 と阿保親 王) な どはな まや さしい方で,母 が違 うとはい うものの,兄が妹 と結婚 しさ
(3)
Er i c hFr o mm
,『ヒューマニズムの再発見』飯坂良明訳 (東京 :河出書房,1 96 8) ,pp. 94 ‑ 9 8,1 2 0
。ついで乍 ら,ユダヤ教に限 らず仏教においてもとり わけ精神のきびしさを求める禅宗にあっては,『臨済録』の中にFr o mm
の考えと同種の次のようなことばが見出せ る。「父母 に逢 えば父母 を殺 し,親啓に 逢 えば親香 を殺 して,始めて解脱 を得ん。」
(4)
Tamar
という名の娘が実の兄,父 と交わるということを内容 にしたRo bi n‑
S onJ e f f e r s
の叙事詩 "Ta m
ar"は,創 世記第
38章のこ
の挿話 を底本にしたも のであるか もしれない。J ohnT. I r wi n , Do ub l i n ga ndZ nc e s t IRe pe t i t i o nand Re v e n ge( Bal t i mor ea ndLondon:TheJo hn Hopki nsUni ve r s i t yPr e s s
,1 97 5 ) ,pp. 1 7 ‑ 2 0
参照。(5) Cons t a nc eHi l lHa
ll," I nt r o duc t i on
,"i nI nc e s t
inFaul kne r . ・A Me t a pho r
j
Tort heFal l( AnnAr bor :UmiRe s ear c hPr e s s ,1 9 86 ) ,p. 5
参照。え してい る(例 えば敏達 と推古)。記紀 か ら窺 える,近親相姦受 け入れ の この 傾 向 は単 に奈良時代 まで の こ とで はな くて上記業平 の両親 の例 にみ られ るよ うに平安朝 にまで続 き,例 えば 『源氏物語』 で は主人公 (光源氏 )が,死別 した実母 (桐壷 の更衣) の面影 を求 めて名 目上 の母 (中宮藤壷) と肉体 関係 を もつ とい う,二重 の意味で母子相姦 を犯 す話 は周知 の もので ある.
作家 中村真一郎 に よれ ば, 『源氏物語』以前 に も二,三 の歌物語
(
『茎物 語』『伊勢物語』)
や作 り物語(
F,宇津保物語』)に兄 が (異母 に しろ同母 にしろ)妹 に恋 ごころを抱 くとい う話が述 べ られ てい る との ことで, 当時 の 日本 人が兄妹相姦 を一 つの正常 な男女関係 とみていた ことが窺 えるし,本居宣長 は, 『源氏物語』 を中心 とす るこうした近親相姦 的愛 を, それが障害 の多 い, 決 して安易 に結 ばれ る ことのない愛 だか らこそ,一層深 く 「物 のあわれ」 を 感 ず るのだ とい うことばで, 日本人 の微妙 な心情 を説 き明か してい る と指摘 す る。(6)
こうい う文化伝統 を もつ 日本 で さえ, しか し時代 が進 んで市民道徳 (と称 すべ きもの)が確立 し,特 に明治 にな ってか らのキ リス ト教的倫 理感 な ども 影響 して,近親相姦 が非難 され るもの とな るの はや は り自然 の流 れ といわな けれ ばな らない。 そ して この ことの文字面へ の影響 は,例 えば島崎藤村 が実 兄 の娘 との肉体 関係 を 『新生』 でみずか ら世 間 に暴露 した ことについて, そ の意 図 は世 間 の非難 をいわ ば逆手 に利 用 して近 親相 姦 の泥 沼 か ら這 い あが り, 自分 を救済 しよう としたのだ と解釈 され, そ してその解釈 は大筋 におい て正 しい と受 け入 れ られ る ところまで行 くのであ る。
さて,今 まで静 々述べ て きた ことの眼 目をひ と くちで い うな らば,古来,
(6)
中村真一郎,『色好みの構造 ‑ 王朝文化の深層』(岩波新書,1 9 8 5 ) ,pp. 1 0
,4 2 ‑ 4 3
。例 えば 『伊勢物語』四十九段の語 るところは次の通 りである。「昔, 男,妹のい とをか しげなるを兄をりて,うら若み寝 よげに見ゆる若草を人の結ばむことをしぞ思ふ と聞えけり。返 し,
初草のなどめづ らしき言の葉ぞうらな くものを思ひけるかな」
小説プロットとしてのI
nc e s t ‑ Fa ul kne r
作品を例にして169
文学 に近親相姦 的愛が とり上 げ られ る とき, そ こには必 ずや (性 的な もの を 超 えた)深 い意味 が こめ られ た とい うことにな るだ ろう。(7)
それな らば,Faul
kne r
においてその近親相姦 の筋書 きは どんな意味 を もっ ているのだ ろう。 それ を以下 に考 えてみたい。Faul kne r
は生涯 に戯 曲形式 のRe q ui e m f o r a Nun
を除 いて十七篇 のnovel
を書 いてい るが,三分 の一 に近 い五籍,更 に これ に既発表 のs t or yの集
成 で あ るGoDo wn
,Mo s e s
中の中篇" TheBear"と未完 の中篇 El me r
を加 え ると,(8)実 に七篇 もの作品 に 「近親相姦」のプロ ッ トを使 ってい る。 その う ち アメ リカ南部 開拓 期 の黒 人奴 隷 にか か わ った" TheBear "
の もの を除 い て, あ とはすべ て兄 が実 の妹 を愛 す る とい う筋 で あ る。この兄妹相姦 は
Faul kne r
文学 において どうい う意味 を持 つ ものな のか。これ らの兄 と妹 の関係 は,理 の当然 とい うべ きか とにか く結末 は概 ね悲劇 的 で あ る。 それ な らば, それ らを本居宣長 の 「物 のあわれ」 と同 じ線上 に置 い て,例 えば人間 の本性 のかな しさの ご ときものを示 そ う とした と考 え られ る か どうか。 どう もそ うは考 え られ ない ようで ある。
キ リス ト教 の教 えに基 づいて男女 の関係 を考 える西欧 と, それ とは異質 の 文化背景 を もつ 日本 で は, 「愛」とい うことばに実 はまるで違 ったニ ュア ンス
を こめて使 ってい るのだ と述 べ たの は,作家 伊藤整 で ある。
西欧での 「愛」 は,基本的 にキ リス ト教 でい う 「他者 を自己 と同 じに愛せ よ」 とい うことか ら発 した ものであって, その行 きつ くところ,近代西欧文
(7)
文学テーマ としての近親相姦が,その合意するところとは別に,かたちの上 からは多 くの場合,廃滅や荒廃の結末になるというHallの指摘 も心にとど めておいていいことだろう。Ha
ll ,p. 8.
(8) GoDo wn,Mos e s ,andOt he rSt or i e s( Ne w Yo r
k:Ra ndo m Hous e,1 9 4 2 ) .
" TheBe ar "
ほか七つのs t o r y
を含む。冒頭の" Was "
のみ初出。第二刷以降, 標題のH andOt he rSt o r i e s "
は除かれる。El me r
については,拙論 「未改訂S a nc t u a
町 におけるHo r ac eBe nbo w
のinc e s t uo us
な感情 をめ ぐる問題」,『ウイリアム・フォークナ‑』大橋健三郎編第
1
巻第1
号 (南雲堂),( 1 9 7 8 )
,p. 4
を参照 されたい。学 の多 くは女性尊重,恋愛至上主義 的姿勢 を とるのだが,一方 日本人 に とっ て 「愛」とは肉体 的な執着 をその中に学 んでいる ところの,「惚れ る」とい う ことであ り「慕 う」ことで あ り,つ ま り最 も本来的な意味 において男女が 「恋 す ること」である と, この犀利 な作家 は説 くのである。(9)
Fa ul kne r
の兄 と妹 の愛 も,日本的な惚 れ る,慕 うとは違 うものだ ろうとは 思 うのだが,Faul kne r
の場合,それぞれの小説 中の兄 と妹 の関係 を一 つずつ 個別 に と̲り上 げて考 えて もFa ul kne r
の意 図 を見通 す こ とはで きず, くだんの六つのプロ ッ トを横一列 に並べて視野 の中に置 きなが ら,それ らが
Fa ul k‑
ne r
文学全体 の中で どの ような位置 を占めるのか を見究 めるこ とが必 要 とい わねばな らない。 それ とい うの も,一つ一 つの兄妹関係 は近親相姦 な どとい うどぎつい言い方が不似合 なほ どあわあわ しい記述 だか らなのであって,例 えば六つの作品の うちで (習作 のEl me rを除 き)一番早 く発表 された Mo s ‑ q ui t o e s( 1 9 2 7 )
にお けるPat r i c i a
とい う十八歳 の娘 は,双子 の兄 のJo s h
以外 の男 には全 く興味 を示 さず, ただひたす ら兄 のそばにいたが り,時 には兄 の ベ ッ ドに一緒 に寝 させて くれ とせがみ, そ して何 か母親 の ようなや さしさの こもった ことばを咳 きなが ら兄 の耳 を噛む とようや く安心 して眠 りにつ くと い うのである。 ここには精神分析的 には近親相姦 と密接 な関係 のあるナル シ シズムの問題 も考 え られ るのだが, この ことの考察 はまた別 の機会 に譲 りたい 。
ところで この
Pat r i c i a
のか らだつ きは,ぜい肉な どの全 くない少年 のよう なか らだ と記 されてい る。 よ くいえばス レンダーだ ろうが, はっ きり言 って 骨 と皮 の ような この娘 のか らだを, しか し作 中人物 の一人で ある彫刻家が理 想 的 な女性美 とみな し,肉欲 とは全 くかか わ りのない プ ラ トニ ックな愛 をPat r i c i a
に捧 げ る。(1?)実 はこの ことは,本論文 で提起 した問題 を追 って行 く 上 で重要 な道 しるべ になるのであって,Pa t r i c i a
は兄 とい うmal e
が好 きだ(9 ) 伊藤 整, 『 求道者 と認識者』 ( 東京 :新潮社 ,1 9 6 2 ) ,pp. 8 4 ,1 9 6 .
小説プロットとしての
I nc e s t‑ Fa ul kn e r
作品を例にして17 1
か ら他 の男 に興 味 を示 さない とい うので はな く
, mal e
それ 自体 を意識 しない 女性 なので あ り,しか しその ことによって逆 に彼女 は,男 たちのある者 に とっ て は性 とは無縁 の, いわ ば無垢 を象徴 す る存在 にな る ことを指摘 してお きたい。
さて,次 の
Sar t or i s
にな る と,今度 は兄 の方が積極 的なか たちで妹 へ愛情 を示す ように描 かれ る。戦争 のため長 く妹 に会 わず にいたHor ace
とい う兄 は, ようや く妹 と再会 す る とその場 で妹 の口にキス を し,抱 きしめて頬 を撫 で なが らまるで夢見 ごこちで妹 の名 をよぶので ある。(ll)強 い親 しみの感情 を示す ために親子, あるい は兄 と妹 で もアメ リカ人 は口 づ けをす る ものなのか どうか。
" ki s s i ng cous i n"
とい うきま り文句 もあ る こ とだか ら,親戚 の, それ も子供 とい うのな ら少 し話 も違 うだ ろうが,兄 と妹 のキス となる と, アメ リカ人 で も大方 の人 間 に はや は り普通 にある こととは 考 え られ ない ものの ようで あ る。ともあれ こうした表現 に接す る と, とりわ け我々 日本人 はい ささかな らず ぎょっ とな るのだが, ここで見落 としてな らない こ とは, この兄 と妹 はお互 いに結婚 とい うかたちにしろ, あ るい は言 うところの大人 のつ き合 い とい う か たちに しろ,妹 あるい は兄が他 の男 また は女 と肉体 的 に結 びつ くこ とを「汚 れ」 とみてい る とい うことである。(12)
3
番 目のTheSo undandt heFu町
で は,妹 に対 す る兄 の気持 は もっ とあ らわな ようで しか し もっ とあい まいに示 され,一層複雑 な ものになってい る。( 1 0 ) Davi dMi nt e r
,W2 '
lli a m F a ul k ne r . ・Hi sLi f ea nd Wo y 滋 ( Bal t i mor eand Lo ndon:TheJo hnsHo pki nsUni ve r s i t yPr e s s ,1 980) ,pp. 66,68; Cl e ant h Br ooks , Wz ' l l i a m Fa ul k ne r ITo war d Yo k na pat a u
)ph aa ndBe yo nd ( Ne w Ha ve nandLo ndo n:Yal eUni ve r s i t yPr e s s ,1 97 8) ,p. 1 36 参照。
( l l ) Sa r t o r i s
は, まず1 9 27
年にFl a gsi nt heDu s t
の標題で書 き上 げられたのだ が出版の見込みが立たず,192 9
年になって若干の修正 を施 し,タイ トルを変 えてようや く出版 された。 ここでは原型であるFl a gsi n t heDu s t
のページ ネーションを示す。Fl a gsi n t heDu s t ,Dougl a sDay ( e d. )( Ne w Yo r
k:Random Hous e ,1 973) ,p. 1 45.
( 1 2 ) Fl a g si nt heDu s t ,pp. 1 62,1 90.
この作品での兄 に とって, まず最愛 の妹 は子供 の時か らず っ と清 らかで明 る い純潔 の象徴 だった。ところが この妹
Caddyも思春期 を迎 え,十七 になった
ときに身 内か ら湧 き出 る性 の衝 動 に突 き動 か され て男 と関係 を持 って しま い,更 に翌年 には北部 出身 の くだ らぬ男 と結婚 す ることにな る。 この妹 の過 廃 は,自分 の生 まれ故郷 の南部 一 一 北部 か ら伝わ って きた金 もうけ主義 とい う毒 だけでな く,祖父, 曽祖 父の代 よ りもっ と昔か ら積 み重 なって きた奴隷 制度 に代表 され る呪いによって退廃 し破滅 して行 く南部,更 にその南部 の‑旧家である自分 の家 の破滅 と重 な り合 い, この兄 の心 を絶望で満 し,錯乱 さ せ,ついに彼 は,自分 は妹
Caddyとか らだの関係 を持 ったのだ と幻想 しつつ
川 に とび こんで 自ら命 を絶 って しまう。幻想 だか ら明確 な記述 は何一つな く, ただある雨 の降 る日,家畜置 き場 の 前 のけもののにおいのす る泥水 の中 を二人 で転 げまわ り, とっ組 み合 い,浴 互 いのか らだに泥 をなす りつ け合 った とい う暗示的な事柄が,混乱 した意識 の流れ として書かれているにす ぎない。(13)
多分 この兄 は,あ りていに言 えば妹 との近親相姦 な ど犯 して はいない ‑ つ まり,妹 のか らだを汚 してな どいないのだ と思 う。 彼 はむ しろ,かつて清 明 な純潔 の象徴 であった妹が (そ して古 い家筋 のわが家が, あるい は広 く南 部 自体が)内 と外か らの毒 によって崩れ退廃 して行 くの を目のあた りにして 絶望 し, その事実 を信 ず るよ りはむ しろ誰 で もない この 自分が妹 の純潔 を踏 みにじったのだ と思い こむ ことにし,すべての罪 を自分一身 に引 き受 ける こ
とで ‑ それが彼 の入水 自殺 の理 由なのだが ‑ 残酷無惨 な現実 を無 に還 して しまお うとしたのだ と考 えられ る。
さて
1 931
年 出版 のSanc t ua
77で は,先 に挙 げた Sar t o r i s
において互 い に 口づ け し合 って我々 をびっ くりさせ た兄Hor aceと妹 Nar ci s s a
が再 登場 す( 1 3 ) Th eSo unda ndt heFu 7 y( Ne w Yor k:Random Hous e,1 9 2 9 ) ,p.1 7 0 .
なおJ o hnT.I r wi nもまた, この作品における泥 と性的結合 との暗示的な関係 に
言及 しなが ら,同じ箇所を引用 している。I r wi n,p.4 5 .
小説プロッ トとしての
I n c e s t‑ Fa u l k n e r
作品 を例 にして17 3
るのだが,周知 の通 り公刊 され た この
Sanc t ua管
は,一度書 き上 げ られた原 稿 を書 き直 して印刷 に まわ した もので ある。 だが書 き直 され る前 の原型 の方 に兄 と妹 の関係 が よ りはっ き り出てい るので それ に従 って述 べれ ば,(14)この 作 品での兄 はロマ ンチ ックな理想主義者 として登場 し, その性格 のゆえに彼 は今 や,物欲 と肉欲 の渦巻 く世 間の中で窒息 しそ うにな ってい るので あ る。ただ妹
Nar c i s s a
だ けが この世 で ただ一人純 潔清浄 で あ る と信 じ, その清 ら か さに触 れて世 間の汚 れ を忘 れたい と願 っていた ところ,何 とい う驚 きで あ ろう,やがて この妹 こそが実 は世 の女 の うちで も最 も邪悪 な女 で あ ることを 彼 は思 い知 らされ る。一体
Faul kne r
はどうい う意 図か ら,前作 で は兄 に「かわいいNar c y
」とよ ばれ, 口づ けされたほ どの女 を,か くも心 の汚れ た人 間 にして しまったのだ ろう。い まさらNe w Cr i t i ci s m
を もち出す まで もな く, こうした問題 は作者 以外 の誰 に もわか る ことで はないが, あえて推測 すれ ば, このプロ ッ トの根 底 には,作者Faul kne r
が年齢 を加 えるにつれ,あ る種 の女 にみ られ る うわべ だ けの清浄 とい うウソに気づ き,一 方見 て くれのみすぼ らしさに もかかわ ら ず愛す る者 のために献 身す る女 の もつ真 の美 しさを知 るようになった, ということが あるのか もしれない。
実際
Faul kne r
は,この作 品か ら数年 たった1936
年 に,「憐 れ みを通 して耐 え しのぶ女性 を象徴 す る」 とも称 され るJ udi t h
とい う娘 を創造 し,(15)大 作Ab s al o m,Ab s al o m !
構成上 の最 も重要 なプ ロ ッ トの一 つ としてJ udi t h
をめぐる近親相姦 の問題 を とり上 げるのである。
大体 この
Ab s al o m,Ab s al o m !
とい う旧約聖書 サムエル記第二( 1 8:3)
か らとって きた題名 それ 自体 に, 旧約聖書 に記述 されてい る もう一 つの近業研目( 1 4)
以下オ リジナルS a nc t u a
町 にかかわることは,拙著 『手稿本によるオ リジナ ル版Sa nc t u a
73,の研究』 (小樽商科大学人文研究会,1 9 89 )
を参照されたい。( 1 5 ) Cl e a nt hBr oo ks , Wi l l i a m Fa ul k ne r :TheYo k na Pat a wPh aCo unわ/( Ne w
Ha ve n:Yal eUni ve r s i t yPr e s s ,1 97 4 ) ,p. 31 9
参照。姦 の話 (サムエル記第二,1
3:1 ‑1 4 )が暗示 されてい るのだが,作 品内容 を
極 く簡単 にい えば,三十年前 まだ胎児 で あった ときに父 に見捨 て られた男が, 成長す るにつれて父親 の認知 を求 めるようにな り, 自分 の顔 を知 るはず もない薄情 な父 に近 づ く方便 として まず
J udi t h
とい う腹違 いの妹 に結婚 を申 し 込 む。妹 は最初何 も知 らない ままに一人 の異性 として兄 を愛 し,兄 の方 も,Faul kne r
が作 中の‑人物 にいわせてい るこ とばを使 えば,はじめの うち こそ「シャーベ ッ トを食 べ る」ような一寸趣 の変 わった もの を味わ ってみ るのに似 た遊 び半分 の気分 で妹 に接 してい た ものの,(16)次第 に本 来 の 目的 を はなれ, 妹 に対 して性 とは無縁 の純粋 な愛 を感 ず るようになって行 く。 しか しその時 すで に遅 く,一家破滅 とい う悲劇 的結末 を迎 えることになる, とい う顛末 で あ る。
さて こうして
Faul kne r
の描 く兄 と妹 の愛 をず っ と眺 めて きて まず気 づ く の は,これ らの兄 と妹 の間 には どれ も実際的 な近親相姦 ‑ 実際的 な肉体 の 結合 はない とい うこ とであ る。 それ どころか,兄 に とって殊 はすべて何 らか の意味 で‑ Sanc t ua
7y において さえ,最初 の うち は間違 いな く‑ 清浄 純潔 の象徴 になってい る といわ ざるをえない。そ して もしそ うだ とすれ ば
,Fa ul kne r
にお ける兄 と妹 の愛 とは,た しか に 男 と女 の愛 に は違 いないけれ どそ こに肉欲 とい うもの を全 く介在 させない, 純粋 に魂 と魂 による愛, まさし くキ リス ト教 の教 える 「自分 の ご と く他 を愛 せ」とい う,そ うした愛 のか たちの変 わ っ‑た もの とい えるであ ろう。Faul kne r
の文学 は, そのみか け以上 に実 は西欧文化 の伝統 に深 く根 ざす ものだった と 考 えざるをえない ように思 う。それ な らば
Fa ul kne r
はなぜ, こうした近親相姦 とい う危 う く崖 ぎわ に立 つ ような きわ どい人間関係 を逆手 に利用 しつつ, いわ ば逆説的 に人 間 の魂 だ けによる結 びつ きの美 しさを訴 えようとしたのだ ろうか。眺 めわたす世 間が( 1 6 ) Ab s al o m,Ab s al o m I( Ne wYo r k:Ra nd o m Ho us e ,1 9 3 6 ) ,p. 3 2 3.
小説プロットとしての
I nc e s t
‑Fa ul kne r
作品を例にして17 5
余 りに物欲 肉欲 に汚 れて いたか ら, とい う こ とも全 くないわ けで はないだ ろ う。しか し
Faul kner
は誰 のためで もない,ただひ たす らわが身 のため に精神 の愛 を追 い求 めた のだ といわね ばな らない。Faul kne r
は自分 の中の肉欲 的衝 動 を圧 し殺 そ う として いた ‑ とい うよ りもむ しろ,自分 の中で人一 倍強 く 肉欲 的衝動 が うごめ く自覚 が あったか らこそ,逆 に (性 を超越 した近 身愛 に 象徴 され る)純 な精神 の愛 にひかれ たのだ と私 は言 いたい。Faul kne r
の作家活 動 をみ る とき,その作 品 の最初 か ら最後 まで,肉 と精神 の間 を揺 れ動 くFaul kne r
の悶 え,あ るい は実生活上 の性愛 的苦悩 を,無性 的「一一
一s exl es s
な精神 的愛 を措 くこ とで乗 り越 えて行 こう とす る, そ う した意 図 を正確 に反映 して い るの を我 々 は知 るので あ る。(17)い ま最 晩年 の作 品 につ いて だ け軽 く触 れ てお けば,五十代 も半 ばす ぎ,Faul kner
はふ とした ことで 知 り合 った二十一歳 の女子学生 に対 す る満 され ぬ恋 のた めに一種錯乱状 態 に な るほ ど苦 しみ悶 えるのだが, まさに この時期 に彼 は一 方 で,人 間全体 へ の( 1 7 ) Li ghti nAu gus t( 1 9 3 2 )
のJ oannaBur de n
,The m' l d Pal ms ( 1 9 3 9 )
中のChar l o t t e
とWi l bour ne
およびTal l Co nvi c t
の生 き方にも,肉欲 に対するFaul kne r
の怖れ と,それを精神 によって超克 しようとい う願いが投影 されて いるとみるのは容易であろう。そして また青年時,2 8
歳 のFaul kne r
は片思 いの相手He l e nBa i r d
との肉体的結びつ きの願 いを秘 めた極 めて性愛的な 詩集He l e n:A Co u
71 s h砂
を書 き進めなが ら,しか しそれ とほとん ど同じ時期( 1 9 2 6 )
,現世の女 との肉体的結びつ きほど汚れたむなしい ものはな く,理想 の女性 とはまさにLi t t l es i s t e rDe at h
なのだ と考 え,それ との合体 を願 って 入 水 し 自殺 す る騎 士Gal wyn
の物 語Ma yd a y
を書 い て い る の で あ る.Ma yda y( Not r eDamea ndLondon:Uni ve r s i t yofNot r eDamePr e s s ,1 9 7 6 )
,p.8 7
参照。Faul kne r
が初期か ら肉 と魂 の狭間で苦悶 していただろうことはここか らも窺 えるが,更 にまた,「妹たる死 との合体」とい う観念がいわば文 学修業時代 にすでに現われ るとい うの も,
Faul kne r
のその後のi nc e s t uous
なプロッ トを考 える上で見逃せない ことで\あろう。Ca r ve l Col l i ns
," Bi 0‑
gr a phi calBa ckgr ound f or Faul kne r ' s He l e n
,"i n Wi l l i am Fa ul kne r
,He l e n:A Co ur t s hi z ・andMi s s i s s i pi ) iPo e ms( Tul aneUni ve r s i t yandYok‑
napat awphaPr e s s ,1 9 81 ) ,p.3 0
参照。なお この部分 および以下 については, 拙論 「一つのFaul kne r
像 :初期作品に現われ るイメージの持つ意味」,『ウ イリアム・フォークナ‑』第
5
巻第5
号 (南雲堂,1 9 8 3 );
「フォークナ‑晩年 の恋 一 新公開の書簡 をめ ぐって上 ・下」,『北方文芸』 (札幌 :北方文芸刊行 会)第2 0 7
号,第2 0 8
号( 1 9 8 5 )
も参照 されたい。愛 のために自分 のいのちを捨 て ようとす る,いわばイエス ・キ リス トになぞ らえられ る一人 の青年 を主人公 に した寓話
AFa b l e( 1 9 5 4 )
を書 くのであ り, 更 に死 ぬ数年前,実生活上 での彼 自身 は相変わ らず別 の若 い女性 と関係 を持 つ とい うことをしているのに,しか し文学 の方で は,二人 の女性 ‑ 官能的 で美 しい肉体 を持 った母親 と,彼女 と同 じ濃 い ヒヤシンス色 の目をしたその 娘 の二人 か ら愛のち ぎりを結ぶ ことを求 め られ るに もかかわ らず, そ うした 関係 になることを断乎 として避 け,二人 に精神 的な愛 を捧 げることで満足する男 の物語
TheTo wn
とTheMa ns i o n
を書 くのである.(18)キ リス ト受難 を踏 まえた
A
Fableが,死 ぬ まで 性愛 に引 きず りまわ されたFaul kne r
とい う作家 にお ける,肉体否定 のための一つの祈 りであった とした ら,死 ぬ間 ぎわに書 かれた二つの極端 なプラ トニ ックラヴの物語 は,彼が生 涯ついに果 しえなか った官能否定 とい うことへ の,最後 の夢 を描 いた もので あった といえるか もしれない。おそ ら く人間 は誰 しも,大 きい小 さいの違 い はあるにして もそれぞれが何 らかの十字架 を背負 って生 き,死 んで行 くもの なので あろう。書 くにしろ読 むに しろ,色恋 の話 に興 じうるのは比較的年齢 の若 い うちで あ り,今 までの 日本作家 の多 くが,体力 の衰 える老年 を迎 えるにつれ筆 を と ることが少 な くなる傾 向が あったの は, あるい はこのあた りに因が あるのか もしれない。
これ に対 し,西欧 の作家 は年 を とって も平然 と, ある意味で は臆面 もな く 愛 についての物語 を書 きつづ けて きたようにみ えるが, これ はあるい は彼 ら の描 いた愛がキ リス ト教的愛 に基づ くものであるとい うことに関係 してい る のか もしれない。
しか し
,2 0
世紀 も後半 になって,西欧社会 にお けるキ リス ト教 の影響力が( 1 8 ) Th eTo wn ( Ne w Yo r
k:Ra ndo m Ho us e ,1 9 5 7 ) ,pp. 9 3 1 9 4 ; Th eMa n s i o n
( Ne wYo r
k:Ra nd o m Ho us e ,1 9 5 9 ) ,pp. 2 3 8 ‑ 3 9
参照。小説プロッ トとしての
I n c e s t
‑Fa u l k n e r
作品を例 にして177
す っか り薄 れて きてい る今 日,西欧 の愛 の物語 もす っか り様変 わ りし,わが 国 の文化伝統 にみ られ るような (それの よい悪 いの批判 は別 にして)「惚 れ る」
「慕 う」 とい う肉へ の執着 を根底 に した ものになって来 た ように もみえる。
もしそ うだ とすれ ば,西欧 の小説 もだんだんその発生時 の姿へ逆戻 りし, 婦人読者 層が最大 のお と くい にな るか, あ るい はせいぜ い若者 たちだ けを相 手 にす る ものになって行 く可能性 もないわ けで はない ように思 う。先 に述べ た
Jame sBal dwi n
の,真 に人 間的な相互理解 を求 めての苦渋 に満 ちたホモセ クシャル小説 とはまるで趣 きの違 う,例 えばJohnFox
のBo y so nt heRo c k ( 1 9 8 4 )
の ような小 説 も現 われ る時代 で ある。Fox
の小説 で は, ホモセ クシャ ル は,苦 く痛 ましい精神 の遍歴 で あ るよ りも, もはやため らった り迷 った り す る要 もない, ほ とん どあっけ らか ん とさえい える くらいに明快 な一 つの愛 のかたちで しか ないのだが, しか しそれ は今や 「新 しい青春像 を浮 き彫 りに す るための新 しい修辞 になった」 とい う言 い方で強 く支持 す る者 さえ出て き ているのである。 時代 が こうい う方向 に進 んで行 ってい る となれ ば,近親相 姦 も今 まで とは異 なった取 り扱 い をされ るようにな るの も不思議 で はあ るまい。同 じ く先 に言及 した
Johnl r vi ng
のTheHo t e lNe w Hamps hi r e
で は, 姉Fr unny
と弟J ohn
はFaul kne r
の小説 と違 って はっ き りと肉体 的 に結 び つ き, その結 びつ きを二人 の精神 的再生 の手がか りとす るので あ る。(19)だが,私 の 目か らすれ ば, この小説 はまさに二人 の肉体結合 が実現 したそ の箇所 を境 に して, それ までの淡々 とした低声 の語 り口 ‑ それ だ けに一 層,移 ろいやす い人 の世 の悲 しみが しみ じみ胸 に しみて くるようで あったそ の語 りの世界 が,突如 緊張感 を失 い, だ らけた唯 のファルスにな り下 って し まうように も思 われ るので あ る。
(19)