曹操楽府詩論考
植木久行
曹操は'後漢の桓帝永寿元年(一五五)に生まれ'戯帝建安二十五年(二二〇)正月庚子(二十三日)に没した。
儒家的国家理念と社会の旧価値観とを次第に克服していった'その六十五年間の生涯は'祖父に百官をもつ'いわゆ
る商流家庭を母胎とするものであり'そこには'徹底した功利主義・現実主義の立場が認められる。
後漠王朝の政治的生命の崩壊期にあたる建安年間(1九六〜二二〇)は'中国古典詩史上'建安の風骨を以って知
られる時代であり﹃末書﹄謝塞遅侍論には'「至干建安'曹氏基命'二組陳王'威蓄盛藻'甫乃以情緒文'以文被質」ヽヽヽヽヽヽと'早‑も高い評価が賦与される。また'﹃文心願龍﹄才略篇に'「然而貌時話言'必以元封鶏群首未来美談亦以ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ建安烏口賓何也'量非崇文之盛世招才之嘉合哉」と記す劉故の説は'劉宋以後において'建安文学に対する評価
が次第に高まってきたことを示すものであろう。
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曹操は'暫現政権の政治上の債袖であったばかりでなく'曹基や曹植とともに文学上の債袖として'適切な保護と(1)指導を行なった。曹操詩は'鍾嘆の﹃詩品﹄で下品にランクされるが'清初の王士顧(1六三四‑1七11)は'﹃漁洋詩話﹄で'上品にあるべきだと主張する.さらに'その少し前'後七子の指導者である王世貞(1五二六‑九
〇)は'﹃蛮苑屈言﹄巻三に、「曽公葬葬'古直悲涼'子桓小藻'自是禁府本色'子建天才流麗'雑著冠千古、而寛遜
父兄'何以故'材大高'鮮太華」と述べて'曹操に高い評価を与える。彼の門下である胡応麟(1五五1‑1六1ヽヽヽヽへ2)二)は「論楽府也'読者不可偏泥」と注意するが'結局のところ'曹操の文学的地位への高い評価であるとl亨見よ
う。
(3)(4)現在、伝わる曹操の詩歌は'十八の完篇と少しばかりの断片である。その完篇は、全て楽府詩であり'相和歌辞の(5)範暗にはいる(郭茂情﹃柴府詩集﹄十二分類に従う)。そして'断片章句も「詰俗詞」の所属が不明瞭であるはかは'
皆な相和歌辞である。徒詩を全く残さないことは'作品が全て相和歌の曲題に従うこととともに'曹操詩の大きなヽヽヽ片寄りであると言えよう。
俗楽系統の宮廷楽の呼称である相和歌辞(相和六引・相和曲・吟歎曲・四弦曲・平調曲・清調曲・宏調曲・楚調曲
・大曲)の中で、曹操の手になる十八の完篇は'「嵩里行」「重富」「気出唱」三首「封酒」「度開山」「精列」「階上
桑」の合計九首が相和曲に属し、「却東西門行」「歩出夏門行」「善哉行」二首の合計四首が宏調曲に属し、「秋胡行」
二首「苦寒行」の合計三首が清調曲に属し'「短歌行」二首が平調曲に属している。
相和歌辞については'1般に'﹃末書﹄禁志三に記される「相和'漠替歌也'新竹更相和'執節者歌」という記述
によって理解されている。つまり'相和歌の宮廷雅楽としての形態は'笛などの管楽器と'琴・宏・撃などの弦楽器
から構成される管弦交響楽を伴奏にして'節(柑)を執る者が‑ズムをとりながら歌うものであるが'曹操の楽府詩(6)考察には'その起源を示す「漢替歌也」の指摘が最も重要であろう0ヽヽヽヽヽヽヽへ7)相和歌の「漠奮歌」起源説について'「凡楽章古詞'今之存者'並漢世街情話詣'江南可采蓮・烏生十五子・白頭(cr・)吟之展'是也」(﹃末書﹄禁志一)等の論述によって考えると'相和歌辞の中には'漠から魂にかけて市井に流行して
いた民間歌辞が多く採りあげられていたらしい。そしてへ一定の楽器伴奏を持たずに自由に歌唱されていたと思われ
る民間歌曲の調べが踏襲され'雅楽的に変曲演奏されたであろうことが'いちおう推測されるのである。
郭茂借の﹃楽府詩集﹄に付す注記に従えば'魂楽の奏する所は'「度開山」「薙露」「嵩里行」「封酒」の四首であ
り'魂晋の奏する所は'「善哉行」二首「歩出夏門行」「却東西門行」「気出唱」三首「精列」「秋胡行」二首の十首で
あり'胃楽の奏する所は'「短歌行」二首「苦寒行」「階上桑」の四首である。つまり'曹操の作品が'正式に一王朝
の宮廷雅楽としての地位を得たのは'曹基の天子即位後の魂晋王朝の頃であろう.しかし'それらの中には'楽辞と
して変形されたもののみが残り'本来の歌辞である'いわゆる本辞は'すでにその原形がたどりがた‑なっているも(9)のもあろう。
曹操が擬古楽府詩の対象にした市井の歌謡は'「哀楽に感じ'事に練りて車した」民衆の共有するさまざまな哀歓
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を綴るものであった。それはまた'民歌に普遍的な'社会や人生の苦しみの訴えと'素朴な恋歌を主要とするもので
あったとも言える。この民間歌曲を対象として'その擬作に励んだことは'曹操が他方で'荒廃した制度や儀礼の再
建の一環として'先代の古楽復興に尽力した政治行為と較べあわせると'その特色が明確になる。﹃末書」楽志一に
は'
数式中荊州'獲杜襲'喜八音'嘗馬漢雅楽郎'尤悉巣事'於是以馬軍謀祭酒'使瓶定雅楽'時又有郵諒・戸商'善訓雅楽'歌
師戸胡'能歌完廟郊和之曲'舞師渇商・服養'暁知先代諸舞'襲悉総領之'遠考経籍'近采故事'魂復先代古巣'自重始也'
而左延年等妙善部馨'惟襲好古存正蔦t
という記事があり'曹操が漠の雅楽郎であった杜垂を中心にして'伝統雅楽の復興に努力したことが理解される。そ
れは'建安十三年の荊州平定(劉環の降服)時以後である(﹃三国志﹄杜襲侍にも'同様の記述がある)0
その後'建安十八年'貌公に即いた曹操は'軒懸の楽と六槍の舞を賜わり'諸侯として宮廷楽団を持つことが'公
式に認められることになった。その年'侍中の官職に昇進した王粂(一七七‑二一七)は'﹃三国志﹄本俸に「時奮
儀巌弛'興造制度'粂恒典之」と記されるように額廃倫欠した雅楽の復興に従事して'雅楽歌辞を改作したように思
われる.﹃宋書﹄禦志1には'「魂図初建'使王薬改作登寄及安世・巴橡詩」とある。また'現存する王粂作「大鹿(10)頒」三幸は'宗廟創建時における'曹操の祖先をまつる頚歌であるLt王粂作「魂愈見舞歌」四首は'漢の「巴漁舞」
歌の改作で'「魂図初建所用」(﹃末書﹄禁志二所載'「貌愈見舞歌」四篇題下注)とあるように'同じ時期の魂徳をた
たえる雅楽である。
既述の二例からも理解されるように'曹操は'艮識ある政治家として杜壁や王条らに命じて雅楽に関する仕事につ
かせながら'他方においては'自ら'感情の豊富な民歌を'自己の情熱と関心をそそぐ唯一の詩歌様式の対象として
選択したのであった。そこには、曹操の公的側面と私的側面とが如実に表われているように思われる。
この古楽復興は'おそらく当時における楽府詩作成の空気を助長する1因にもなったであろうが、むしろ大切な点
は'雅楽歌辞の作成拒否(もし‑は'回避)に見られる曹操の私的側面である。荘重典雅ではあるが'退屈な伝統雅
楽については、自己の幕僚に委せ'自らは清新で活発な民歌を愛好して'その斑作を作成したのであった。
この原因として考えられるものは'家庭環境と生来の気質である.祖父曹膳は、花嘩﹃後漢書﹄本俸に'「騰用事
省園三十除年'奉事四帝'未嘗有過'其所進達、皆海内名人」と記されるように'百官としてすぐれた能力を持って
いたようであるが、一面また'経済上の食欲さも宵宮の常として持っていたと思われる。また'その養子で曹操の親
にあたる曹嵩は'同侍に「嵩'蛋帝時'貨賂中宮'及輪西園鏡1億寓'故位至大尉」と記されるような人物であっ
た。このような曹操の家庭環境は'実に戦国処世の知恵を育てるにふさわしい功利主義・現実主義な立場にあったと
思われる。またその結果'伝統文化の制約がより少ないことになり'「少機警'有桂数、而任侠放蕩'不治行業」(武帝紀)と記されるような'少年期の放縦を喜び'礼教の拘束外に奔放にふるまう態度を'一層助長させたことで
あろう。この態度は'政界進出につれて'次第に屈折しながら'反伝統的実際主義へと顕在化するようになる。名門
勢力との'政治軍事方面における利害関係の対立と矛盾の中で'曹操の政治行為は'ますます'反伝統的態度を志向
する。こうした態度は'詩歌の実作という私的側面でも忌憧な‑発揮され'伝統の薄弱な民間歌謡の擬作行為へと次
第に結びついたものと思われる。つまり'その行為は'反伝統的現実主義という政治行為が'文学の創作に影響を及
ぼしたものであり'それはまた'自己の強烈な噂好性を重んじる自由な態度の表われであると考えることもできよう。
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0Er﹃文心離龍﹄章表篇に見られる﹃曹公構、﹃真木必三譲、又勿得浮華﹄、所以魂初表章'指事造寛'求其酵麗'則夫足
美」の記述は'このことを物語るであろう。同時にまた'当時の伝統的文学様式である辞賦作品の作成状況と関連さ
せて考えると'こうした傾向は'1層明瞭になる。蕨可均の﹃全上古三代秦漢三園六朝文﹄の輯録に基いて'賦数を
数えると'曹操(三)曹丞(二八)曹植(五四)院璃(四)王薬(二五)陳琳(10)劉偵(六)鷹揚(1四)徐幹(八)繁欽(7三)楊修(五)である.この数字は'各々の文人における文学意識の比重を示唆Lt曹操にあって
は'その詩歌作成行為のもつ余技性を示唆するように思える。曹操が簡潔さを好むため'助字を多‑使用する辞成体
を嫌ったらしいことは﹃文心願龍﹄章句篇に'「詩人以号字入於句限'楚節用之T字出句外'尋号字成句'乃語助飴
餐‑‑而魂武弗好'童不以無益文義耶」と記す劉鋸説によって知られる。曹操の現実的実際主義は'この面にも強く
働いているようである。(ll)次に'楽府詩が歌謡文学であるという点から'曹操の音楽愛好や歌謡愛好が'当然考えられるであろう。彼の音楽
才能については'後述するが'﹃宋書﹄契志に'「但歌四曲'出自漢世'無絃節作技'最先一人唱'二人和'魂武帝尤
好之」と記される記述は'曹操の歌謡愛好を示す資料である。また'曹操の音楽愛好や'その日常生活のありさまを(12)伝える資料に'﹃曹臓侍﹄の「大観番人挑易'無威重'好音契'侶優在側'常以日蓮夕・・・・・・毎興人談論'戯弄言詞'
壷無所隠'及欺悦大笑'至以頭没杯案中'肴膳皆清汗巾憤'其軽易如此」の記事がある。この資料を読むと'﹃文心
願龍﹄禦府篇に記される「俗聴飛馳'職競新異'雅詠温恭'必欠伸魚呪'奇辞切至'則桁解雀躍」の叙述が'改めて
思い出される。民衆の民歌愛好の特徴を記すこの記事と'前引﹃曹隔博﹄の叙述の問には'明らかに一種の近似性と
言えるものが存在するように思われる。曹操は'いわば漢代﹃詩経﹄学に代表される儒家的文学理念'すなわち'誼