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ラダック王国史の人類学的考察 : 歴史 生態学的視 点

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ラダック王国史の人類学的考察 : 歴史 生態学的視

著者 煎本 孝

雑誌名 国立民族学博物館研究報告

巻 11

号 2

ページ 403‑455

発行年 1986‑12‑20

URL http://doi.org/10.15021/00004370

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煎本  ラダ ック王国史の人類学的考察

ラ ダ ッ.ク王 国 史 の 人類 学 的 考 察

歴 史 一生 態 学 的 視 点

孝 *

An Anthropological Study on the History of the Kingdom of Ladakh

—A Historical-Ecological Approach—

Takashi IRIMOTO

The history of the Kingdom of Ladakh, Western Tibet, is examined from an anthropological point of view. La-dvags- rgyal-rabs is used as a source for hiStorical-ecological analysis of the systems of economy, politics, and religion of the kingdom.

The following three results have been found.

(1) INTERRELATIONSHIPS BETWEEN THE SYSTEMS OF ECONOMY, POLITICS AND RELIGION :

The systems of economy, politics, and religion can be seen as an integrated system of the kingdom; i.e., a ruling system. This system of integration was based on the transit trading economy between Central Asia and India—the sovereign right being succeeded by the rNam-rgyal dynasty—and the cultural identity of the people as Buddhist. However, the internal mechanism of the kingdom was motivated by the antagonism among the dynasty, the prime, minister and the Buddhist temples. Also, the rivalry among the local noble families as well as the different schools of Tibetan Buddhism produced an effect on politics.

(2) RELATION OF THE SYSTEMS TO THE HISTORICAL PROCESS OF THE KINGDOM

The historical process of the Kingdom of Ladakh—i.e., formation, development and decline—can be seen as the changes of the system of integration. That is, the formation of the kingdom was dependent on control over the formerly independent

* 北 海道 大 学 ,国立民族学博物館研究協 力者

  本 稿 は昭 和58年 度 文 部 省在 外 研 究 員 派遣 (昭和 58年 6月 〜 5d年 4月 ) によ る研 究 成 果 の一 部 で   あ る。 な お, 本 稿 の 一部 は国 立 民 族 学博 物 館 共 同 研究 「ユ ー ラ シア と北 ア メ リカ にお け る北 方   狩猟 採 集 民文 化 の比 較 研究 」 (昭和 59年 5、目11日) に お いて 報 告 した 。

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国立民族学 博物館研究報告   11巻 2号

local chiefs, and the control of trading routes and trading acti- vities. The development of the kingdom was dependent on the improvement and expansion of the trading economy, on which the political system was established. Subsequently, the political system functioned for the maintenance of the economic system, through positive feed-back mechanisms. In this stage, the formation of the strong ruling system was represented by Sen- ge-rnam-rgyal, the king who concurrently served as prime minister.

The kings supported the religion both on the levels of ideology and economy. In return, the religious system justified the king- ship. This process could have been indicated by the new role of the monasteries belonging to anuttara-yoga Buddhism, the nature of which is secularism and education for the people in general.

These monasteries were founded during the second dynasty after c. 1400 A.D., the development stage of the kingdom, in place of yoga-tantra Buddhism, which was solely aimed at individual enlightenment. The decline of the kingdom was the result of the dispersion of political authority due to the maturing economy which at this time functioned towards disintegration of the political system. This view is different from the traditional interpretation of the decline of the kingdom, in which disability of individual kings was said to be a cause of this tragedy. It was also pointed out that the process of decline of the Kingdom of Ladakh may be characterized by the fusion of the kingship not only with the office of prime minister but also with the Buddhist temples.

(3) THE ECOLOGICAL SIGNIFICANCE OF THE SYSTEMS

The system of integration of the Kingdom of Ladakh could be analysed in terms of ecological niche—i.e., ecological location of the state and its relation to the external world. It has been revealed that the nature of the ecological niche of the Kingdom of Ladakh was not the internal completeness of a closed system, but that it was permeable which enabled the cultural-economic transmission between Central Asia and India through the Ladakhi political-religious boundary. The carrier of economy and culture were the Kashmiri merchants as well as ' AM-rgon traders : the mixed population between Yarkandi merchants and Ladakhi Women. As traders, they invaded the geographical and political boundary of the kingdom, but religious identity separated these Moslem traders from the Buddhist inhabitants in Ladakh.

Therefore, it should be pointed out that religious identity,

functioning as a boundary maintenance mechanism, made

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煎本   ラダ ック王国史の人類学的考察

permeability of the north-south cultural-economic transmission possible, and that it makes the system of integration of the Kingdom of Ladakh consistent.

1. 序 2. 経 済 機 構

1) 生 態 的条 件

2) 交 易経 済

交 易協 定 3. 政 治機 構

1) 王

) 官

3) 王 朝 と官僚 の 関係 4. 宗 教 機 構

) 宗 教 の歴 史 的 背 景

) 宗 教 政策

) 教 会 と王 朝 の関 係 5. 結

1. 序

  西 チ ベ ッ ト, ラダ ッ ク王 国 は南 を大 ヒマ ラヤ 山 脈 ,北 を カ ラ コル ム 山脈 に囲 まれ た 厳 しい地 形 的条 件 と生 態環 境 に あ りな が ら, 地 理 的 には 中央 ア ジ ア と イ ン ドとの境 界 領 域 を 占 め る。 この た め ,古 来 よ りイ ン ド, チ ベ ッ ト,東 トル キ ス タ ンな ど との経 済 , 文 化 交 流 を 通 じて , ラダ ック独 自 の歴 史 を 展 開 して きた と考 え られ る。 した が って , ラダ ック王 国 の研 究 に と り, そ の歴 史 的 背 景 と変 遷 過 程 の 理解 は 必須 で あ る。 そ こで , 本 稿 にお いて , ラダ ッ ク王 国史 の人 類 学 的 考 察 を 行 な う。 人 類 学 的考 察 と は, 人 類 と その 活 動 と い う研 究 対 象 の総 合 的把 握 と理 解 を 目的 とす る。 即 ち ,従 来 よ り, 歴 史 , 経 済 , 政 治 ,宗 教 な ど の各 専 門 分 野 にお い て 断片 的 ,個 別 記 載 的 に行 な わ れ て きた考

証 を , よ り広 い枠 組 の 中 で総 合 的 に検 討 す る こ とを 意 味 す る もの で あ る。

  歴 史 一生 態 学 的 (hioralcolgical)視 点 と は, 歴 史 を 生 態学 的視 点 か ら分 析 , 統 合 す る研 究 方 法 で あ る。 分 析 , 統 合 とは対 象 を構 成 す る各 要 素 の 抽 出 とそ れ らの間 の 相 互 関 係 の 検 証 で あ る。 しか し,対 象 は変 化 す る もの , 即 ち通 時 態 で あ るか ら, そ こ に静 的 な 構 造 を 前 提 とは しな い。 した が って , 従 来 ,共 時 態 の分 析 概 念 と して 用 い られ て きた 機 能 とい う概 念 も, こ こで は変 化 (時 間 ) そ の もの の 中 に認 め る こと にな る。

  生 態学 的視 点 に お け る 生 態 とい う用 語 に は 2つ の概 念 が 含 まれ る。 そ の第 1は環 境 要 因 を 意 味 す る もの で あ り, 社会 一文 化 の外 側 に あ り, それ らに一 方 的 な条 件 を与 え る外 部 要 因 と して 従 来 考 え られ て きた もので あ る。 しか し, 生 態 的 要 因 は 社会 一文 化

経 済一政 治 一宗 教 ) に よ り開 発 , 利 用 さ れ る こ と に よ り変 化 し, さ らに この こと に よ

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国立民族学博物館研究報告  11巻 2号 って 経 済 一政 治一宗 教 との関 係 が 制 御 さ れ る と い う フ ィー ド ・バ ック機 構 (ed−bac m ehanim)を認 め ね ば な らな い。 した が って ,生 態 は ラダ ック王 国 史 の 人 類 学 的 考 察 にお い て は, 経済 , 政 治 ,宗 教 と 同様 , 王 国維 持 機 構 とその 変 化 の 動 的 構 成 要 素 の 一 つ と して 考 え られ るべ きで あ る。 次 章 以 下 ,考 察 され る生 態 的 条 件 と は この よ うな 意 味 にお け る動 的構 成 要 素 で あ る。

  生 態 の 第 2の概 念 は対 象 の全 体 性 で あ る。 人 類 の諸 活 動 を伴 う生 活 全 体 が 人 類 の 生 態 と して 捉 え られ る と同様 , ラダ ック王 国の機 構 の全 体 性 を ラダ ック王 国 の 生 態 と し て 捉 え る こ とが で き る。 この生 態 概 念 は無 論 , ラダ ック王 国 が有 機 体 あ る い はそ れ と 相 似 の もの で あ る とい う前 提 を意 味 す る もの で はな い。 研 究 対 象 は人 問 活 動 に よ って 創 造 され た ラダ ック王 国 の 機 構 で あ る。 した が って , こ こで の生 態 とは 前 記 の 生 態

条 件 ),経 済 , 政 治 ,宗 教 の包 括 概 念 とな る。 この全 体 性 を考 察 す る時 に生 態 的地 位

ecologicalniche) と い う分 析 概念 を用 い る こ とが有 効 で あ る。 生 態 的地 位 とは , 動 物 生 態 学 の 用 語 と して ,生 物 的 環 境 にお け る動物 の場 所 , 食 物 , 敵 との 関係 を 意 味 す る [ELToN  l927:63−68] もの で あ る。 社会 人 類 学 の分 野 にお いて も民 族 集 団 の分 布 と集 団 間 の 関係 に お け る地 理 的 要 因 と して 用 い られ [BARTH  l956: 1079−1089,

969], さ らに生 態人 類 学 の 分 野 にお い て も人 間 集 団 の 利 用 す る計 量 可 能 な環 境 資 源 的 要 因 と して 用 い られ [HARDEsTY  l977:109−10] て い る。 しか し, い ず れ の 場 合 も,外 的環 境 条 件 と して の 意 味 に重 点 が 置 か れ ,人 間 集 団 の 自然 お よび他 集 団 との 関 係 にお け る全 体 的位 置づ け と い う視 点 を欠 い て い る。 本 論 にお いて は, 第 5章 に お いて 考 察 され るよ うに ,生 態 的 地 位 と い う用 語 を ラダ ック王 国の 機 構 の 全 体 性 お よび そ の 位 置 づ け を考 察 す るた めの 概 念 と して用 い る こ とにす る。

  以 上 述 べ た よ うに , ラダ ック王 国 史 の 人 類 学 的考 察 とは , ラダ ック王 国 の 成 立 か ら 発 展 ,衰 退 とい う歴 史 的 (時 間 的 ) 過 程 にお け る生 態 ,経 済 ,政 治 , 宗 教 相 互 間 の 動 的 関係 の分 析 で あ り, その 機 構 の 全体 性 の考 察 で あ る と規 定 す る こ とが で き る。 この 理 論 的 枠組 に基 づ く と, ラダ ック王 国 史 の人 類 学 的考 察 にお け る問 題 点 を 以 下 の様 に 設 定 す る こ とが で き る。 第 1の問 題 は生 態 ,経 済 , 政 治 ,宗 教 の 間 に如 何 な る関 係 が 存 在 す るの か とい う こ とで あ る。 第 2の 問題 は この 関係 が ラダ ック王 国 の 歴 史 的 過程 と如 何 に関 連 す るの か とい う ことで あ る。 さ らに第 3の 問題 は ラダ ック王 国 の 歴 史 的 過 程 にお け る生 態 学 的 意 味 づ け で あ る。 この 最 後 の 問 題 に お いて は環 境 要 因 と して の 生 態 的 構 成 要 素 の 役 割 と, ラダ ック王 国の 全 体 性 と して の生 態 的地 位 の問 題 を それ ぞ れ 明 らか に す る必 要 が あ る。

  次 に,人 類 学 的考 察 に お け る方 法 論 と して , ラダ ック王 国の 歴 史 資 料 の 検 討 , 整 理

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煎本  ラダ ック王国史の人 類学的考察

が 必 要 で あ る 。 資 料 と して , Antguis f lndian Tibet Part II.[FRANcKE  1926]

に 註 釈 を 加 え て 収 め られ て い る ラ ダ ッ ク 王 統 史 (La一伽 g∫−gyalrabs) を 用 い る1)。 ラ ダ ッ ク 王 統 史 は 全 10部 よ り成 る。 第 1部 は 賛 歌 で あ る 。 第 2部 は宇 宙 論 で あ る 。 第 3 部 は サ キ ャ (Sa−kya) の 系 譜 で あ る 。 第 4部 は 仏 教 の チ ベ ッ トへ の 最 初 の 伝 播 に つ い て で あ り , ラ ンダ ル マ (Glah−dar−m a) に 至 る チ ベ ッ ト諸 王 の 系 譜 が 述 べ られ て い る。

第 5部 は ラ ンダ ル マ に よ る 仏 教 迫 害 と仏 教 の 衰 退 に つ い て 述 べ られ る。 第 6部 は 仏 教 の 復 興 に つ い て で あ り , 西 チ ベ ッ ト王 朝 に お け る 諸 王 の 系 譜 を 含 む 。 第 7部 は 西 チ ベ ッ ト, ラダ ッ ク 王 国 第 2次 王 朝 の セ ン ゲ ナ ム ギ ャ ル (Seh−ge−rnam −rgyal) に 至 る諸 王 の 系 譜 で あ る。 第 8部 は グ ラ ブ ・シ ン 王 (R aja G ulab Singh)の ラダ ッ ク に 対 す る 戦 争 , 即 ち ドグ ラ戦 争 (Dogra W ar) に 至 る ま で の 独 立 王 国 と して 最 後 の ラ ダ ッ ク王 国 の 諸 王 の 系 譜 に つ い て 述 べ ら れ て い る 。 第 9部 は ドグ ラ戦 争 そ の もの の 記 載 で あ る,

最 後 の 第 10部 は ドグ ラ戦 争 以 後 の ラ ダ ッ ク に つ い て の 記 載 で あ る 。 こ れ らの う ち , ラ ダ ッ ク 王 国 の 興 亡 に 直 接 関 係 す る の は 第 6部 以 後 , 第 8部 ま で で あ る 。 も っ と も , 第

6部 前 半 部 分 は ラダ ッ ク の 第 1次 王 朝 の 諸 王 が チ ベ ッ トの 諸 王 の 系 譜 に さ か の ぼ り得 る も の で あ る こ と を 正 当 化 す る こ と が 記 載 の 目 的 で あ る 。 しか し, 第 7部 の ラ ダ ッ ク 第 2次 王 朝 以 後 に な る と 諸 王 の 系 譜 も詳 細 に な り, 歴 史 的 事 実 の 具 体 的 記 載 が 多 く な る。 そ の 年 代 も , ム ガ ー ル 帝 国 下 に あ っ た カ シ ミ ー ル の 記 録 か ら比 較 決 定 す る こ と が 可 能 に な る 。

  本 稿 に お け る 考 察 で は ラ ダ ッ ク 王 国 史 は , 成 立 期 ( c・900−1400 A ・ D . ), 発 展 期 (c.

1400− 1600  A . D . ), 衰 退 期 ( c.1600− 1834 A . D . ) の 時 期 に 分 類 さ れ る 。 成 立 期 は キ デ ニ マ ゴ ン ( s K yi d− l de ] 薗i − m a−m gon c.900−930  A . D . ) か ら ロ ト 。 チ ョ ク ダ ン (Bl o−

gr os− m cho9−l dan c.1440−1470  A . D . ) に 至 る ラ ダ ッ ク 王 国 第 1次 王 朝 の 時 代 で あ り , 王 統 史 第 6 部 に 相 当 す る が , 部 分 的 に は 第 5部 の ラ ン ダ ル マ の 記 載 も 関 連 す る 。 発 展 期 は ラ チ ェ ン ト ラ ク パ ブ ム ( Lha− chen  G r ags− pa− hbum  c.1400− 1440  A . D . ) か ら セ

1) ラ ダ ッ ク王 統 史 の 存 在 は Francke 口 926:1 −2] に よ れ ば , 1 820−1830  A. D. に か け て ラ ダ ッ ク に 入 っ た Cs om a  de  K6r 6s に よ り 指 摘 さ れ た 。 そ の 後 , 1 846−1 847   A. D . に ラ ダ ッ ク を 調 査 した Si r   Al exander   Cunni ngham [1 854] に よ り 利 用 さ れ て い る 。 さ ら に 原 書 は 写 本 さ れ , H er m an  v.   Sc hl agi nt wei t に よ り ヨ ー ロ ッパ に 持 ち 帰 ら れ ,   Em i l   v.  Schl agi nt wei tに よ り そ の 独 訳 が , Abh and l u n ge n  d e r k gl ・ba ye r i s c he n   Aka de mi e  de r   W i s s e n s c ha ft e n,  vol ・X ,1 866 と して 出 版 さ れ る 。 そ の 後 , モ ラ ヴ ィ ア ン宣 教 師 の K ・M ar x は ラ ダ ッ ク 滞 在 中 に 原 書 に 基 づ き ラ ダ ッ ク の 歴 史 を 編 集 し, さ ら に 王 統 史 に M uns hi   D pal − rgyasに よ る ドグ ラ 戦 争 の 記 載 を 加 え る 。 こ の ラ ダ ッ ク の 歴 史 は Jo ur n al   o f  t h e   As i at i c   So c i e t y   e f  Be n gal( Cal cut t a) の 1891, 1 894, 1902年 に掲 載 さ れ , そ れ ぞ れ 1 0世 紀 の Ni − m a− m gon か ら17世 紀 の Seh− ge− r nam − r gyalま で ,   Bde− l dan−

r nam − r gyalか ら 1 834   A・ D ・の ドグ ラ 戦 争 ま で , そ し て ドグ ラ 戦 争 の 記 載 と い う三 部 構 成 に な っ て い る 。 A .   H ・Francke は こ れ らの 研 究 成 果 に 基 づ き な が ら, ラ ダ ッ ク 王 統 史 の よ り 完 全 な 編 集 を 行 な い , Ant i q ui t i e s   q f  l ndi an Ti b e t ・ Par t( Vol um e)II と して 出 版 す る に 至 る 6

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国立民族学博物館研究報告   1巻 2号 ン ゲ ナ ム ギ ャ ル (Seh−ge−rnam −rgyal c.1569−1594 A.D .) に 至 る ラ ダ ッ ク王 国 第 2 次 王 朝 前 半 期 の 諸 王 の 時 代 で あ り , 王 統 史 第 7部 に 相 当 す る 。 第 1次 王 朝 と第 2次 王 朝 と は年 代 的 に は 重 複 す る が , 実 質 的 な 交 替 が あ った の は c.1470 A .D . の ラ チ ェ ン バ ガ ン (Lha−chen Bha−gan c.1470−1500 A ・D ,) の 時 で あ っ た と 考 え られ る。 衰 退 期 は デ ル ダ ン ナ ム ギ ャ ル (bD e・dan−rnam −rgyal 1594−1659/60 A ・D ・)か ら ツ ェ ワ ン

ラ プ タ ン ナ ム ギ ャ ル (Tshe−dbah−rab−brtan−rnam −rgyal l830−1835 A ・D ・)に 至 る ラ ダ ッ ク王 国 第 2次 王 朝 後 半 期 の 諸 王 の 時 代 で あ り , 王 統 史 第 8部 に 相 当 す る。 な お 部 分 的 に は第 9部 の ドグ ラ戦 争 の 記 載 も 関 連 す る。 ラ ダ ッ ク 王 国 諸 王 の 在 位 年 代 に 関 し て は , キ デ ニ マ ゴ ン (c.900−930A .D .) か ら ジ ャ ム ヤ ン ナ ム ギ ャ ル (Jam −dbyahs−

rnam −rgyal l560−1590 A .D .) に 至 る ま で は フ ラ ン ケ [FRANcKE  l926] に 準 拠 す る が , ジ ャ ム ヤ ン ナ ム ギ ャル の 死 亡 年 代 を 1569 A .D . と し , こ れ に続 く セ ンゲ ナ ム ギ ャ ル (1569−1594 A.D .) か ら ツ ェ ワ ン ラ プ タ ン ナ ム ギ ャ ル (1830−1835 A 、D .) に 至 る ま で は ゲ ル ガ ン [GERGAN and H AsNAIN   l977] に 準 拠 す る 。 な お , ラ ダ ッ ク 王 国 の 諸 王 の 名 前 の チ ベ ッ ト名 片 仮 名 表 記 に 関 し て は , ラ ダ ッ ク に お け る発 音 を 準 用 す る こ と に す る。 こ れ ら は 人 類 学 的 考 察 に お け る基 礎 資 料 と な る も の で あ る が , 「ラ ダ ッ ク王 国 史 覚 書 」 [煎 本   1986] と して 発 表 さ れ る の で , こ こ で は 重 ね て 記 載 は行 な わ な い 。 た だ し本 稿 の 理 解 に と り 必 要 と 考 え ら れ る歴 史 的 背 景 に 関 して は註 釈 を も っ て 説 明 を 加 え る。

  ラ ダ ッ ク 王 統 史 は そ の 性 質 上 , ラダ ッ ク 王 国 諸 王 の 系 譜 と業 績 の 記 載 に 飾 られ る が , 経 済 , 政 治 , 宗 教 に 関 す る 客 観 的 記 述 に は 乏 し い 。 し た が っ て , こ の 資 料 の み か ら ラ ダ ッ ク 王 国 の 人 類 学 的 考 察 を 行 な う こ と は 困 難 で あ る 。 し か し , 1846−1847A .D . に か け て ラ ダ ッ ク を め ぐ る チ ベ ッ トと ド グ ラ の 戦 争 調 停 の 可 能 性 を さ ぐ る た め 派 遣 さ れ た 英 国 陸 軍 大 尉 の カ ニ ンガ ム (Cunningham , Si Alexander) に よ る 報 告 書 「Ladak,

Phyial Statstcaland・H ist・ral wih N・ts of he S・rroundig C・untris.」 [CUN−

NINGHAM  1854]に , ドグ ラ戦 争 以 前 の ラダ ッ ク 王 国 の 交 易 経 済 , 政 治 的 側 面 に 関 す る統 計 資 料 が 含 ま れ て お り , こ れ を ラ ダ ッ ク王 統 史 の 歴 史 的 記 載 の 解 釈 に 活 用 す る こ と は 不 可 能 で は な い と 考 え られ る 。

  こ れ ら諸 資 料 に 基 づ き , 第 2章 は ラダ ッ ク 王 国 op交 易 経 済 機 構 に 関 して , 生 態 的 条 件 , 交 易 経 済 , 交 易 協 定 の 各 項 目 別 に 記 載 す る 。 さ ら に , 交 易 経 済 に つ い て は , 交 易 活 動 と交 易 路 , 交 易 商 人 , 交 易 商 品 と 経 済 と い う小 項 目 に つ い て 述 べ る 。 交 易 協 定 に つ い て は , ラダ ッ ク 王 国 と 隣…接 諸 国 間 の 経 済 的 , 政 治 的 関 係 の 把 握 を 目 的 と し, テ ィ ン ス ガ ン (gTih−gah) の 交 易 協 定 , ワ ム レ (W am −e) の 交 易 協 定 , ラダ ッ ク (La一

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煎本  ラダ ック王国史 の人類学的考察

dvags)と クズ (Ku−u)の 間 の交 易協 定 とい う歴 史 的 事例 につ い て考 察 を行 な う。第 3章 は , ラダ ック王 国 の 政 治機 構 に 関 して, 王 朝 , 官 僚 , 王 朝 と官僚 の関 係 の各 項 目 別 に記 載 す る。 官 僚 制 に関 して は ,宰 相 ,官 僚 につ いて述 べ ,王 朝 と官 僚 の関 係 に関 して は ,徴 税 と分 配 , 政 治権 力 に つ い て論 じる。 第 4章 の ラダ ッ ク王 国 の宗 教 機 構 に 関 して は, ラダ ック にお け る宗 教 の歴 史 的背 景 , 宗 教 政 策 , 教会 と王 朝 の関 係 の各 項 目に つ い て記 載 を行 な う。 宗 教 の歴 史 的 背景 に関 して は, 寺 院 と宗 派 ,歴 史 的位 置の 各小 項 目に つ いて 述 べ , 歴 史 的 関 係 を 明 らか にす る。 宗 教 政 策 に関 して は, イ ス ラム の影 響 ,宗 教 維 持 機 構 の 各 小 項 目 につ い て考 察 を行 な う。 最 後 に, 第 5章 に お いて 序 論 で設 定 した 諸 問 題 に関 す る結 論 を試 み る。

2. 経 済 機 構

(1)  生 態 的 条 件

  ラ ダ ッ ク (Ladakh; チ ベ ッ ト語 :La−dvags) は ヒ マ ラ ヤ 山 脈 北 西 部 に 位 置 す る。 そ の 東 に は 高 度 4,700 m か ら 4,800 m の チ ベ ッ ト高 原 が 広 が り, 南 に は 高 度 7,135m の ヌ ン (N un),高 度 7,077m の ク ン (K un)を い た だ く大 ヒマ ラ ヤ (Great H im alaya)

山 脈 , 西 に は ピル ・パ ン ジ ャ ル Pi Panjal) 山 脈 か ら ヒ ン ド ゥ ー ・ ラ ジ H indu R aj) 山 脈 , ヒ ン ド ゥ ー ・ ク シ ュ (H indu K ush) 山 脈 が ア フ ガ ニ ス タ ン へ と 続 き ,

北 に は高 度 8,611m K 2 を 盟 主 とす る カ ラ コ ル ム  (K arakoram ) 山 脈 と毘 需

K unlun) 山 脈 が 新 彊 (Sinkiang) と の 境 を 接 す る。 ラダ ッ ク は 周 囲 を ヒ マ ラ ヤ の 山 脈 群 に か こ ま れ た 地 域 で あ る。

  ラ ダ ッ ク の 地 形 は ト ラ ン ス ヒ マ ラ ヤ Transhim alaya) と も 呼 ば れ る ラ ダ ッ ク

Ladakh) 山 脈 , カ イ ラ ス (K aias) 山 脈 , ザ ン ス カ ー ル Zangskar) 山 脈 と そ れ ら の 間 を 平 行 に 南 東 か ら北 西 方 向 へ と 流 れ る イ ン ダ ス (Indus)河 の 深 い 漢 谷 に よ っ て 特 徴 づ け ら れ る 。 標 高 は ラ ダ ッ ク の 中 心 地 レ ー (Leh) で 3,554 m で あ る 。 雨 量 は年 間 50m m と き わ め て 少 な い 。 した が っ て , 植 生 は 高 山 性 の ス テ ッ プ (Alpine stepPe)

と石 の 多 い 砂 漠 D esert) と な る 。 気 候 は一 日 に お い て も, ま た 年 間 に お い て も寒 暖 の 差 が 大 き く, レ ー の 7月 の 最 高 気 温 は 33。C, 1月 の 最 低 気 温 は 一 25。C に 達 す る 。 積 雪 量 は少 な い が , 乾 燥 寒 冷 な 冬 は ユ ー ラ シ ァ 北 方 の 厳 し い 気 候 条 件 と も共 通 す る。

し た が っ て , ラダ ッ ク の 自 然 環 境 は , 高 標 高 , 乾 燥 , 大 き な 寒 暖 差 を そ の 特 徴 と す る と い う こ と が で き る 。

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国立民族学博 物館研究報告  11巻 2号 ラダ ッ ク の 人 口 は 約 100,000人 で あ り , そ の 面 積 は 97,872平 方 km で あ る。 した が

っ て , 人 口 密 度 は 1平 方 km あ た り約 1.0人 と な る 。 この う ち 多 く は 仏 教 徒 で あ る が , 他 に イ ス ラ ム 教 徒 , ヒ ン ド ゥ ー 教 徒 , キ リス ト教 徒 を 含 む 。 言 語 は チ ベ ッ ト語 の ラ ダ

ッ ク 方 言 (Ladakhi) で あ る 。 こ れ は チ ベ ッ ト北 東 部 の ア ム ド (Am do) 地 方 の 方 言 と と も に , ラ サ (Lhasa) を 中 心 と す る 中 央 チ ベ ッ ト方 言 に 比 較 して よ り 古 い 型 を 残 す と さ れ る 。 ラダ ッ ク 方 言 は レ ー を 中 心 とす る レ ー 方 言 , こ れ よ り イ ン ダ ス 河 上 流 域 の m ン (Rong) 方 言 , 下 流 域 の シ ャ ム (Sham ) 方 言 に 細 分 さ れ る 。 こ れ よ り西 部 で は プ ー リ ッ ク (Purig)方 言 , バ ル テ ィ (Balti)方 言 と な る。

  住 民 は 農 耕 と牧 畜 を 生 業 とす る 。 農 耕 は 小 麦 と 大 麦 の 栽 培 が 行 な わ れ る が , 高 地 で は , 大 麦 の み と な る。 豆 , ジ ャガ イ モ , 野 菜 の 栽 培 も行 な わ れ , ま た イ ンダ ス 河 下 流 域 に お い て は ア ン ズ , ク ル ミ, リ ン ゴ , ナ シ な ど の 果 樹 が 植 え られ る 。 牧 畜 は , 山 羊 , 羊 , 牛 , ヤ ク , 牛 と ヤ ク の 雑 種 が 対 象 と な る 。 夏 の 間 , 山 羊 , 羊 は 村 の 近 くの 牧 草 地 に 連 れ て 行 か れ , 夜 に は 村 に も ど さ れ る。 ヤ ク な ど の 大 型 動 物 は 村 か ら離 れ た 高 地 に あ る夏 の 牧 草 地 に 放 牧 さ れ る 。 こ こ で は 乳 が し ぼ られ , 凝 乳 , バ タ ー , チ ー ズ が 作 ら れ る [煎 本   1981:344−−348]。

  しか し, こ の 自 然 環 境 と生 業 形 態 の 特 質 は ラ ダ ッ ク 王 国 の 閉 鎖 性 を 意 味 す る も の で は な い 。 ラ ダ ッ ク は ヒ マ ラ ヤ の 山 脈 群 に 囲 ま れ た 近 づ き難 い 地 理 的 条 件 に あ り な が ら,

決 して 文 化 的 , 歴 史 的 に 孤 立 して い た わ け で は な い。 逆 に , 中 央 ア ジ ア と イ ン ドを 結 ぶ そ の 地 理 的 位 置 ゆ え に , 南 北 , 東 西 に わ た る交 易 と文 化 交 流 を 通 して , イ ン ド,、チ ベ ッ ト, 中 国 と い う大 文 明 の 影 響 を 受 け な が ら ,独 自 の歴 史 を 展 開 して きた と考 え る こ と が で き る の で あ る 。 た と え ば , ラ ダ ッ ク の レ ー は イ ン ドの ジ ャ ム (Jam m u)あ る い は カ シ ミ ー ル (K ashm ir) か ら , 中 央 ア ジ ァ の ヤ ル カ ン ド (Yarkand), カ シ ュ ガ ル

K ashgar), コ ー タ ン (K hotan) へ の 交 易 路 に あ た っ て い た 。 ま た レ ー は イ ンダ ス 河 に 沿 っ て チ ベ ッ トの ラ サ (Lhasa) へ の 通 路 に も あ た る。 こ れ らの 交 易 路 は カ ラ コ ル ム 山 脈 , 毘 喬 山 脈 , チ ベ ッ ト高 原 , 大 ヒ マ ラ ヤ 山 脈 の 高 い 峠 を 越 え る も の で は あ っ た が , 古 来 よ り イ ン ド, 中 央 ア ジ ア , チ ベ ッ トを 文 化 的 , 経 済 的 に 結 ぶ 役 割 を 担 っ て き た の で あ る。

  事 実 , イ ン ド と ヤ ル カ ン ド と の 間 の 交 易 は , ラ ダ ッ ク 王 朝 成 立 以 前 か ら こ の 地 に お い て 行 な わ れ て い た と考 え られ る 証 拠 が あ る 。 カ ラ ツ ェ (K ha−a・rtse) の 近 く に は , イ ン ダ ス 河 に 掛 る橋 を 警 護 して い た と 考 え られ る 要 塞 形 式 の 税 関 跡 が あ り , こ こ か ら 多 く の 玉 が 出 土 して い る 。 年 代 は チ ベ ッ トが 吐 蕃 王 国 の 支 配 下 に 置 か れ た 800・OOO A .D .と 考 え ら れ る [FRANcKE  l977:80−8 1]。

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煎本  ラダ ック王国史の人類学的考察

後 にな る と, ラダ ック王 統 史 に は交 易 に関 す る記 載 を数 多 く見 出 す こ とが で きる。

た と え ば , ラ チ ェ ン ツ ェ ワ ン ナ ム ギ ャ ル (Lha−chen Tshe−dbah−rnam −rgyalc.1532

−1560 A.D .)が , ラダ ック北 方 の ホ ル (Hor:Turkmans)2)に対 して 戦 争 を仕 掛 け よ う と し た の を , ヌ ブ ラ (N ub−ra)の 住 民 の 反 対 の 嘆 願 を 受 け て , 思 い と ど ま っ た の は , ヌ ブ ラ が ラ ダ ッ ク と ヤ ル カ ン ドの 間 の 交 易 路 に あ た り , 当 時 , 住 民 が 交 易 活 動 へ の 害 を 恐 れ た 結 果 で あ る と解 釈 で き よ う [FRANcKE  1977:106]。

  ま た , モ ン ゴ ル 戦 争 (c.1679−1685 A .D .)3)後 , カ シ ミ ー ル お よ び チ ベ ッ トと ラ ダ ッ ク と の 間 の 講 和 条 約 に お い て , 交 易 に 関 す る協 定 が 取 り決 め られ る の は , ラダ ッ ク 王 国 と 隣 接 諸 国 に お け る 交 易 経 済 の 重 要 性 を 示 す も の で あ る と理 解 で き る 。 さ ら に , プ ー リ ッ ク (Pu−rig)地 方 の 支 配 権 を 持 っ た ド ラ シ ナ ム ギ ャ ル (bK ra−9is−rnam −rgyal が ,  ラ ダ ッ ク 王 国 の プ ン ツ ォ ク ナ ム ギ ャ ル (Phun−tshogs−rnam −rgyal  1739−−1752 へ.D .)の 治 世 , 王 位 継 承 抗 争 に か ら み , カ シ ミ ー ル か らバ ル テ ィ ス タ ン お よ び レ ー へ の 交 易 , さ ら に イ ン ドか ら レ ー へ の 交 易 使 節 団 と 使 者 に対 し干 渉 を 加 え よ う と し, ワ ム レ (W am −e) の 条 約 (1752 A 。D .) に よ り こ の 試 み が 阻 止 さ れ た 経 緯 は , ラダ ッ ク 王 国 に お け る 交 易 活 動 と交 易 経 済 の 重 要 性 を 示 す も の で あ る。

  同 様 に , ドグ ラ 戦 争 (1834 A .D .)4)後 , チ ベ ッ トと ラ ダ ッ ク と の 国 境 線 の 明 確 化 と 交 易 活 動 の 確 約 が 取 り 決 め られ た の は , こ の 時 期 に 至 る 交 易 活 動 の 重 要 性 を 裏 付 け る

2) ホ ル ( H or )の 称 は チ ベ ッ ト語 で は ウ イ グ ル 種 族 を 指 す 。 チ ュ ル ク の 一 支 で あ る ウ イ グ ル 人 が タ リム の 北 (ト ゥル フ ァ ン等 ) に あ る オ ア シ ス 地 帯 に 拠 り, つ い で 872年 頃 に は 甘 州 地 域 に 至 っ た 。 こ の ウ イ グ ル 人 は ホ ル ( H or:H o− yo− horの 略 ) と 呼 ば れ , チ ベ ッ トで は 軍 隊 , 馬 , 野 蛮 , 乱 暴 の 観 念 と 結 び つ い て 残 っ て い る [ STEI N  1 971147] 。 し か し, ホ ル の 名 は 後 代 に は ジ ンギ ス ・カ ー ンー 党 の モ ン ゴ ル 人 を 指 す よ う に も な っ た 。 た と え ば , カ ム 地 方 (ガ ンゼ , ペ リ 地 域 ) の ホ ル を 称 す る 五 公 国 は そ の 末 商 で あ る と 称 し て い る [ STEI N  1 971:17 ]。 な お , チ ュ ル ク 人 の 名 は 中 国 語 で は 突 蕨 ( 古 音 Tur kut )で あ る が , チ ベ ッ ト語 で は D r ugu, ま た は D r ug

と な っ た 。 さ ら に モ ン ゴ ル 人 は チ ベ ッ ト語 で ソ ク で あ る が , こ れ は も と も と 古 代 の ソ グ ド人 を い う 称 ( 古 代 チ ベ ッ ト語 で は So9− dag) か ら来 た も の で あ ろ う 。 彼 等 は コ コ ノ ー 一 一 一 ル 地 域 に 集 ま っ た モ ン ゴ ル 起 源 の 遊 牧 民 で あ る [ STEI N  1 971:20]。 な お ,   Francke [ 1926]は ラ ダ ッ ク 玉 統 史 に 登 場 す る ホ ル を Tur k,   Tur km ans と 考 え て い る よ うで あ る 。

3) ラ チ ェ ンデ レ ク ナ ム ギ ャ ル ( Lha − chcn bD e− l e gs − r nam− r gyal  1 660−1685   A. D ・ )の 治 世 , ラ ダ ッ ク 王 国 は モ ン ゴ ル ーチ ベ ッ ト軍 の 攻 略 を 受 け る 。 こ れ に 対 し ラ ダ ッ ク王 は 当 時 ム ガ ー ル 帝 国 下 に あ っ た カ シ ミ ー ル 太 守 に 救 済 を 求 め , 一 時 的 に モ ン ゴ ル ーチ ベ ッ ト軍 を 退 却 さ せ る が , こ の 代 償 と し て カ シ ミ ー ル に 多 大 な 債 務 を 負 う こ と に な る 。 さ ら に そ の 後 , 再 び 侵 攻 を は か った モ ン ゴ ル ーチ ベ ッ ト軍 の た め ラダ ッ ク 王 国 は 東 部 地 域 を 失 い , 結 果 と して ラ ダ ッ ク王 国 の 覇 権 は 著 し く 縮 少 す る こ と に な る 。

4) ツ ェパ ル ミギ ュ ル ド ン ト ル ッブ ナ ム ギ ャ ル ( Ts he − dpal {mi − hgyur ] Don・ gr ub− r na m − r gyal 1 808−1 830  A・ D ・ ) の 治 世 , 当 時 勢 力 を 伸 ば して い た シ ー ク 王 国 下 に あ った ジ ャ ム ,   ドグ ラ

( Dogra)地 方 の グ ラ ブ ・ シ ン王 ( Raj a  Gul ab  Si ngh) と 将 軍 ゾ ラ ワ 」 ル ・シ ン ( W azi r   Zora war Si ngh) に よ り , ラ ダ ッ ク は 征 服 さ れ , 独 立 国 と して の ラ ダ ッ ク 王 国 の 歴 史 は 終 わ る こ と に な る 。 こ れ に 関 し て 王 統 史 第 8部 は , 木 一 馬 年 の 翌 年 ( 1 83 4 A. D. ) , シ ン ( Si h)軍 が ラ ダ ッ ク に 到 着 した と の み 記 して い る 。        ,

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国立民族学 博物館研 究報 告  11巻 2号 もの で あ る。 さ ら に, 中央 ア ジ ア と イ ン ドとの 間 の 交 易活 動 は大 英 帝 国下 にお いて 行 な わ れ , 1940A.D.の第 2次 世 界 大 戦 に よ る国境 封 鎖 時期 に至 る まで 継 続 され て いた の で あ る。 した が って ,交 易 活 動 はお そ ら くラダ ック王 国成 立 以 前 か ら 1,00年 間 に 及 び , 西 チ ベ ッ トにお いて 重 要 な 位 置 を 占め て い た こ とを指 摘 す る こ とが で き る。

  この交 易活 動 を成 立 させ て いた 基 盤 は, ラダ ッ ク王 国 の生 態 的 条 件 にあ る 。 ラダ ッ ク は ヒマ ラヤ 山脈 群 北 方 の 中央 ア ジ ア と南 方 の イ ン ドと の間 の生 態 的 境 界 領 域 と して 位 置 づ け る こ とが可 能 で あ る。 した が って , ラダ ック王 国 は これ ら生 態 的 , 文 化 的 に 異 な る地 域 を結 ぶ交 易路 を確 保 す る こ と に よ り, 交 易活 動 を王 国 の経 済 基 盤 の 一 つ に 成 し得 た と考 え る こ とがで き るの で あ る。

(2) 交 易 経 済

  (  交 易 活 動 と交 易 路

  中 央 ア ジァ とイ ン ドとを結 ぶ 交 易 路 は東 西 に走 る大 ヒマ ラヤ 山 脈 とカ ラ コル ム 山脈 を南 北 に横 断せ ね ば な らな い。 した が って , 限 られ た 峠 を越 え る い くつ か の 限定 さ れ た交 易 路 が存 在 す る こと にな る(図 1)。 北 イ ン ドの カ シ ミール を 起 点 と して古 来 よ り

      ラ

西 方 に ガ ンダ ー ラ (G andhara) に 至 り , カ ブ ー ル 渓 谷 を 通 り 中 央 ア ジ ア に 続 く交 易 路 が あ り , 北 方 に は ギ ル ギ ッ ト (G igit), フ ン ザ (H unza) を 経 て カ ラ コ ル ム 山 脈 の ミ ン タ カ (M intaka) 峠 , あ る い は ク ン ジ ェ ラ ブ (K hunjerab) 峠 を 越 え 中 央 ア ジ ァ の カ シ ュ ガ ル (K ashgar) に 至 る 交 易 路 , 同 様 に ス カ ル ド (Skardu) か ら バ ル トロ

Baloro) 氷 河 を 経 て , カ ラ コ ル ム 山 脈 の ア ジ ル ・デ プ サ ン (Aghi D epsang) 峠 を 越 え 中 央 ア ジ ァ の ヤ ル カ ン ド (Yarkand) に 至 る 交 易 路 , さ ら に大 ヒ マ ラ ヤ 山 脈 の ゾ ジ (Z(ji) 峠 を 越 え カ ル ギ ル (K argi) に 至 り , さ ら に ナ ミ カ (N am ika) 峠 , フ ォ ト

Photo) 峠 を 経 て ラ ダ ッ ク の カ ル シ (K hal)・ レ ー (Leh) に 至 り ,. こ こか S ヌ ブ ラ

N ubra) を 経 て カ ラ コ ル ム 山 脈 の カ ラ コ ル ム 峠 を 越 え て ヤ ル カ ン ド に 至 る 交 易 路 が あ る 。 ま た , レ ー か ら は 東 方 に ル ト ク を 経 て チ ベ ッ トの ラ サ Lhasa) に 至 る 交 易 路 が あ る 。

  こ の う ち ,ラ ダ ッ ク の レ ー と 中 央 ア ジ ァ の ヤ ル カ ン ド,あ る い は コ ー タ ン (K hotan)

を 結 ぶ 交 易 路 に は , 交 易 品 お よ び 利 用 時 期 に 基 づ い て 以 下 の 交 易 路 が 認 め ら れ る

BAMzAI  1962:229]。 即 ち , (1)レ ー か ら ヌ ブ ラ 渓 谷 経 由 , カ ラ コ ル ム 峠 , キ リ ア ン

K ian) 峠 を 越 え て ヤ ル カ ン ド に至 る 交 易 路 , (2)レ ー か ら シ ヨ ク (Shiyok) 渓 谷 経 由 で カ ラ コ ル ム 峠 , ヤ ン ギ ・ダ ワ ン (YangiD aw an)を 経 て ヤ ル カ ン ド に 至 る 交 易 路 ,

3)レ ー か ら チ ャ ン チ ェ モ (Chanchem o)経 由 で サ ジ ュ (Saju) 峠 を 越 え て ヤ ル カ ン ド

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煎本   ラダ ック王 国史 の人類学的考察

図 1  西 チベ ッ トに お け る中 央 ア ジ アーイ ン ド間交 通 ・交 易 路

に 至 る 交 易 路 , そ して (4)レー か らイ ル チ (Ilchi) 峠 を 越 え て 直 接 コ ー タ ン に 至 る交 易 路 で あ る 。 こ れ らの う ち , レ ー か ら シ ヨ ク 漢 谷 を 経 て ヤ ル カ ン ドに 至 る 交 易 路 は冬 期 に 利 用 さ れ る が , こ れ は 冬 期 に は積 雪 の あ る 峠 越 え よ り も結 氷 し た 川 上 の 通 行 が 容 易 と な る た め と 考 え られ る 。 ま た , イ ン ドか ら ラ ダ ッ ク の レ ー に 至 る 交 易 路 と して は , 先 に述 べ た ヒ マ ラ ヤ 山 脈 の ゾ ジ 峠 (3,444 m )を 越 え る以 外 に 以 下 の 様 な 交 易 路 が 可 能 で あ る 。 即 ち , ジ ャ ム (Jam m u)か らバ ル ダ ル ワ (Bhardarwah) を 経 て , 大 ヒマ ラ ヤ 山 脈 の ウ マ シ (U m asi)峠 (5,234 m ) を 越 え , ,ザ ン ス カ ー ル (Zanskar) に 至 る。

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国立民族学博物館研究報 告  11巻 2号 ザ ン ス カ ー ル か ら は , ザ ン ス カ ー…ル 山 脈 の シ ン ギ (Singi) 峠 , シ シ (Shishi) 峠 を 越 え ラ マ ユ ル (Lam ayuru) 経 由 で レ ー に 至 る , あ る い は 冬 期 結 氷 した ザ ン ス カ ー ル 川 を 通 過 し イ ン ダ ス 河 と の 合 流 点 で あ る ニ ム (N im m u)を 経 由 して レ ー に い た る , あ る い は ザ ン ス カ ー ル 山 脈 の チ ャ チ ャ (Chacha) 峠 を 越 え レ ー に 至 る 交 易 路 が 考 え ら れ る。 あ る い は , イ ン ドの シ ム ラ (Sim la)か ら ラ ホ ー ル (Lahoul), ク ル (K ulu)経 由 で ロ ー タ ン (Rohtan) 峠 を 越 え ケ イ ロ ン (K eylong) に 至 る 。 こ こ か ら大 ヒ マ ラ ヤ 山 脈 の シ ン グ (Singo) 峠 5,097) を 越 え ザ ン ス カ ー ル 経 由 で レ ー に 至 る , あ る い は バ ラ ラ チ ャ (Bara Lagha) 峠 4,891), マ ラ ン (M arang) 峠 , タ グ ラ ン (Taglang) 峠 を 越 え , イ ンダ ス 河 上 流 ウ プ シ (U pshi) 経 由 で レ ー に 至 る 交 易 路 が あ る。 しか し , こ れ ら は い ず れ も大 ヒ マ ラ ヤ 山 脈 の 高 標 高 の 峠 を 越 え る も の で あ り , 積 雪 の た め 通 年 の 通 行 は 困 難 とな る 。 しか し, 後 に 交 易 協 定 の 項 で 述 べ る よ う に , ク ル と ラ ダ ッ ク と を 結 ぶ 大 ヒ マ ラヤ 山 脈 越 え の 交 易 路 は こ れ ら王 国 間 の 定 期 的 な 交 易 活 動 に 利 用 さ れ て い た こ と も 事 実 で あ る。

  カ シ ミ ー ル に お い て は 交 易 路 の 途 中 , 峠 に 監 視 所 (dranga) が 設 け られ , 同 時 に税 関 (Sulkasthana) と し て の 役 割 も は た し, サ ウ ル キ カ ス (Saulkikas) と 呼 ば れ る税 関 吏 が 輸 入 品 , 輸 出 品 に 対 して 課 税 を 行 な っ た 。 カ シ ミ ー ル 王 統 史 R妙 伽 7碗 g伽の の 記 載 に よ る と , こ の 輸 出 入 関 税 は 領 主 の 重 要 な 財 源 と な っ て い た [BAMZAI  l962:

229] こ と を 知 る こ と が で き る 。       

  ま た , ラダ ッ ク の レ ー か らチ ベ ッ トの ラ サ へ の 交 易 路 の 途 中 に も, 国 境 で あ る パ ン ゴ ン (Pangong)湖 東 端 に位 置 す る ル トク (R udok) に チ ベ ッ トの 前 進 基 地 が あ っ た 。 こ の 交 易 路 に は 25の 宿 場 が あ り , 幕 舎 , 家 屋 は 約 200名 の 旅 行 者 を 収 容 す る こ と が で き た 。 こ れ ら の 宿 場 は 官 吏 の 責 任 下 に 置 か れ ,鄧 便 物 な ど の 運 搬 の た め の ヤ ク な ど の 動 物 の 供 給 の 任 を 負 っ て い た BAMzAI  l980:26] の で あ る 。 カ シ ミ ー ル の ス リナ ガ ル か ら ゾ ジ 峠 を 越 え て ラ ダ ッ ク の レ ー に 至 る 交 易 路 は , 徒 歩 で 40日 を 必 要 と した

D EsDERI  l937:77;c£ Rlzvl  l983:76]。 さ ら に ,カ シ ミー ル か ら レ ー を 経 て 中 央 ア ジ ァ の ヤ ル カ ン ドに 至 る に は 2 カ 月 半 を 要 した CuNNINGHAM   1854:241] と い う 。 交 易 路 は険 峻 で あ り , 通 行 に は 地 形 的 困 難 さ の 他 , 戦 争 , 強 盗 な ど の 危 険 性 が 伴 っ た 。 交 易 品 の 運 搬 は 動 物 に 依 存 し, 馬 , ラバ , ロバ が 使 用 さ れ た が , 南 西 部 に お い て は ヒ ト コ ブ ラ ク ダ , 寒 冷 地 に お い て は フ タ コ ブ ラ ク ダ , さ らに 高 標 高 に お い て は ヤ ク , ヤ ク と牛 の 雑 種 が 用 い られ た 。 した が つ て , カ シ ミ ー ル か ら ラ ダ ッ ク経 由 で チ ベ ッ ト に至 る交 易 に お い て は , 「ラ サ (チ ベ ッ ト) に 行 っ た 者 は 二 度 と は 戻 ら ず , も し戻 る こ と が あ れ ば , そ の 者 は永 久 に金 持 ち で あ る 」 と い う カ シ ミ ー ル の 諺 [BAMZAI

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煎本   ラダ ック王国史 の人類学的考察

1980:28] に よ っ て 表 現 さ れ る よ う に , 交 易 の 困 難 さ と , 同 時 に そ の 利 潤 の 大 き さ を 示 して い る の で あ る。

  交 易 活 動 と 交 易 路 に つ い て さ ら に 検 討 す る た め , カ シ ミ ー ル と ヤ ル カ ン ドを 結 ぶ 交 易 路 に つ い て , 行 程 お よ び 標 高 を 指 標 に そ の 垂 直 断 面 図 を Gazeee of Kashmi and Ladakh [G ovERNMENT oF INDIA  1890] の 資 料 に 基 づ い て 製 作 し, 以 下 に 考 察 す る 。 図 2に ス リ ナ ガ ル (Srinagar) か ら ゾ ジ (Z(ji) 峠 , ド ラ ス (Dras), カ ル ギ ル (K argi),

ラ マ ユ ル (Lam ayuru)経 由 で レ ー (Leh) に 至 る 交 易 路 を 示 し, さ ら に レー か ら セ セ ル (Seser)峠 , カ ラ コ ル ム (K arakoram )峠 を 越 え て シ ャ ヒ ド ゥ ラ (Shahidula)経 由 で ヤ ル カ ン ドに 至 る 交 易 路 を 示 す 。 前 者 は カ シ ミー ル と ラダ ッ ク 間 の 交 易 に 最 も よ く 利 用 さ れ る交 易 路 で あ り , 後 者 も ラ ダ ッ ク と 中 央 ア ジ ァ と を 結 ぶ タ ビ ス タ ニ (Tabi stani) と 呼 ば れ る夏 期 の 交 易 路 で あ る 。 冬 期 の 交 易 路 は ザ ミス タ ニ (Zam itani) と呼

ば れ ,レ ー か ら デ ィ ガ ル (Digar) ま で は夏 期 と 同 様 で あ る が ,こ こ か ら シ ヨ ク (Shyok)

漢 谷 に 入 り, ム ル ガ イ (M urghai:Bulak−M urghai) に お い て 再 び 夏 期 交 易 路 と合 流 し, カ ラ コ ル ム 峠 を 越 え た 後 , ヤ ン ギ ダ ワ ン (Yangi D aw an) 経 由 で ヤ ル カ ン ド

に 至 る 。 した が っ て , 図 2 に 示 した 行 程 は , ラ ダ ッ ク 経 由 で イ ン ド と 中 央 ア ジ ア を 結 ぶ 最 も 一 般 的 な 交 易 路 で あ っ た と考 え る こ と が で き る 。

  カ シ ミ ー ル の ス リナ ガ ル の 標 高 は 1,600 m で あ る 。 こ こ は イ ン ドの パ ン ジ ャ ブ 平 原 よ り 1,000 m 以 上 も 標 高 が 高 く , ピ ル ・パ ン ジ ャ ル (Pir Panjal) 山 系 と 大 ヒ マ ラ ヤ 山 脈 に は さ ま れ た カ シ ミ ー ル 渓 谷 に 位 置 す る。 交 易 路 は シ ン ド (Sind) 川 に 沿 っ て ヒマ ラ ヤ 山 脈 南 面 を 登 り, 標 高 2,637m の ソ ナ マ ル グ (Sonam arg)を 経 て ゾ ジ (Z(ji 峠 を 越 え る。 標 高 は 3,444 m で あ る。 大 ヒ マ ラ ヤ 山 脈 を 越 え る と ド ラ ス (D ras)川 に 沿 っ て そ の 北 面 を 下 降 し , ス ル (Suru) 川 と の 合 流 点 で あ る カ ル ギ ル K argi) に 至 る 。 こ れ らの 川 は イ ン ダ ス 河 支 流 で あ る が , レ ー に 至 る 交 易 路 は 一 端 こ れ を 離 れ て ザ ン ス カ ー ル 山 脈 西 端 を 越 え , 再 び イ ンダ ス 河 本 流 に 下 る こ と に な る 。 こ の た め , ザ ン ス カ ー ル 山 脈 の ナ ミカ (N am ika) 峠 (3,627 m )お よ び フ ォ ト (Photo) 峠 (4,167 m ) を 越 え , ラ マ ユ ル (Lam ayuru)経 由 で カ ル シ (K hali: K halatse)に 至 る 。 カ ル シ は 標 高 3,048 m の イ ン ダ ス 川 沿 い に あ る 下 手 ラダ ッ ク 地 域 の 中 心 地 で あ る 。 こ れ よ り 先 , イ ンダ ス 河 に 沿 っ て 遡 行 し , 標 高 3,505m 地 図 資 料 で は 3,554m ) の ラ ダ ッ ク 王 国 の 首 都 レ ー に 到 着 す る 。 ス リナ ガ ル か ら レ ー に 至 る全 行 程 距 離 は 408・8 km で あ り , ス リナ ガ ル と レ ー と の 間 の 高 度 差 は , 1,905m で あ る 。 しか し, 行 程 は 図 2に 示 す ご と く登 黎 と下 降 と を く り 返 して い る た め , 累 積 登 肇 高 度 は 増 加 し , 3,991m 達 す る。 交 易 路 に お け る 最 高 到 達 高 度 は フ ォ ト峠 の 4,167m で あ る 。 気 候 条 件 も ヒ

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国立民族学博物館研究報告   11巻 2号 マ ラヤ 南 面 山 麓 の 多 雪 地 帯 か ら, ト ラ ン ス ヒ マ ラ ヤ の 乾 燥 , 寒 冷 地 帯 に 至 る。

  次 に , ラダ ッ ク の レー か らカ ラ コ ル ム 山 脈 を 越 え て 中 央 ア ジ ア の ヤ ル カ ン ドに 至 る 交 易 路 は ,  レ ー か ら北 方 に ラダ ッ ク 山 脈 を デ ィ ガ ル (D igar)峠 (5,456 m )経 由 で 越 え る 。 ラ ダ ッ ク 山 脈 の 北 を 南 東 か ら北 西 に 向 か っ て 流 れ る シ ヨ ク (Shyok)川 に 至 り , こ れ を 横 断 した 後 , 支 流 の ヌ ブ ラ (N ubra)川 を , 遡 行 す る 。 そ して , カ ラ コ ル ム 山 脈 東 端 の 支 山 脈 を サ セ ル Saser) 峠 (5,334 m ) で 越 え る 。 こ こ で 再 び シ ヨ ク川 上 流 を 横 断 す る 。 ア ク サ イ ・チ ン (AksaiChin) 高 原 東 端 の デ ブ。サ ン・(D epsang) 高 原 を 南 か ら北 に 横 断 す る。 標 高 は 5,425 m で あ る 。 再 び シ ヨ ク 川 右 股 の 源 流 を 横 断 し , カ ラ コ ル ム 山 脈 主 陵 を 登 肇 す る 。 標 高 5,654m の カ ラ コ ル ム 峠 を 通 過 し , 中 国 領 ヤ ル カ ン ド側 に 出 る 。 行 程 の 記 述 に よ れ ば , 呼 吸 困 難 で あ り , 地 表 は 砂 礫 と粘 土 が 暴 露 し, 草 , 燃 料 は な く, 登 り は 急 峻 で あ る と い う。 カ ラ コ ル ム 山 脈 を 越 え る と , ヤ ル カ ン ド川 支 流 に 沿 っ て 降 下 し , マ リク シ ャ (M aliksha:Aktagh) に 至 る 。 こ こ か ら さ ら に ス ジ ェ ト ・デ ィ ワ ン (Suget D iwan) 峠 5,368 m ) を 越 え て シ ャ ヒ ド ゥ ラ

Shahidula) に 至 る。 シ ャ ヒ ド ゥ ラ の 標 高 は 3,591 m で あ り , こ こ か ら ヤ ル カ ン ド に 至 る に は い くつ か の 経 路 が あ る が , サ ン ジ ュ ・ダ ワ ン (Sanju D awan), キ リア ン

・ダ ワ ン (K ian D awan),あ る い は ヤ ンギ ・ダ ワ ン (Yangi D awan)な ど い ず れ か の 峠 を 越 え ね ば な らな い 。

  シ ャ ヒ ド ゥ ラ以 降 の 行 程 に つ い て は Gazetee of Kashmi and Ladakh に は 記 載 が な い が , W ord Trave M ap N o.15 1ndian Sebcontnent(John Bartholom ew & Ltd. に 従 え ば , タ ク ラ ・マ カ ン砂 漠 (Tak−a M akan:Ta−k o】a−m a−kan sha−m o)南 縁 に 沿 って , グ マ (Gum a), カ ル ガ リ ク (K arghalk)経 由 で ヤ ル カ ン ド (Yarkand) に 至 る も の と考 え られ る 。 標 高 に つ い て は 地 図 の 色 彩 区 分 に よ る と , シ ャ ヒ ド ゥ ラ か ら タ ク ラ ・マ カ ン 砂 漠 へ 南 か ら北 に 横 断 す る に は 約 5,029 m の 峠 を 越 え , タ ク ラ ・マ カ ン砂 漠 南 縁 の 町 々 は 約 1,250m の 高 度 を 持 つ も の と考 え られ る 。 図 2 に お い て , こ れ ら の 行 程 は 点 線 で 示 した 。

  レ ー と ヤ ル カ ン ド と の 間 の 全 行 程 距 離 は 713.6 km で あ り , そ の 高 度 差 は レ ー の 方 の 標 高 が 高 く , 2,256m で あ る。 累 積 登 肇 高 度 は 7,468  に達 す る。 交 易 路 に お け る 最 高 到 達 高 度 は カ ラ コ ル ム 峠 の 5,654m で あ る。 気 候 条 件 は ト ラ ン ス ヒ マ ラヤ の 乾 燥 ・寒 冷 か ら, カ ラ コ ル ム 山 脈 の 高 標 高 山 岳 気 候 を 経 て , 内 陸 ア ジ ア の 砂 漠 , 乾 燥 気 候 に 至 る 。       

  以 上 , カ シ ミー ル の ス リ ナ ガ ル か ら ラ ダ ッ ク の レ ー を 経 由 して 中 央 ア ジ ア の ヤ ル カ ン ド に 至 る 交 易 路 1こっ い て 記 載 した 。 こ の 交 易 路 の 全 行 程 距 離 は 1,122.3 km に お よ

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図 2  カ シ ミ ー ル と 中 央 ア ジ ァ 間 の 交 易 路 の 垂 直 断 面 図 ( Sr i nagar − Leh− Yar kand)

参照

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