母系社会のしくみ : 土方久功が住んだ50年後のサ タワル
著者 須藤 健一
雑誌名 国立民族学博物館調査報告
巻 124
ページ 593‑629
発行年 2014‑12‑25
URL http://doi.org/10.15021/00009330
はじめに
Ⅰ.サタワル社会の母系クラン 1.移住伝承と社会・政治的地位 2.クランの階層性と特権
Ⅱ.母系クランの人口動態と構成原理 1.1908 年からの人口と居住地の変化 2.首長権の継承とクランの存続戦略
Ⅲ.母系クランの属性と機能 1.伝統的知識の共有体 2.島間の親族紐帯と安全保障 おわりに
はじめに
パラオにわたった 1929 年 4 月 19 日から 2 年半,土方久功は先史遺跡や島の神話・伝 説,民族学的な調査,パラオ支庁の嘱託として公学校を巡回して島の子どもたちへの美 術(板彫り)指導,そして自らの創作活動を行っていた。1930 年代になると多くの日本 人がパラオに進出し,パラオ人とパラオ社会が日本化するのを実感した土方は,パラオ 脱出を計画する。
「私の唯一の,無二の目的は最も文明の影響の少ない,島民らが昔ながらの生活を続け ているところ」[土方 1943:24]への移住である。土方はパラオのカヤンゲル環礁で偶 然出会ったサタワル島の男,オジャレブルの語る孤島の話に強い興味を抱くことになる。
オジャレブルは,アンガウルのリン鉱石採掘人夫として南洋庁から強制雇用され,3 年 の任期を終えても島に帰らずにパラオで無為に暮らしていたのである。そして,1931 年 9 月 21 日に長明丸でパラオを離れた。その船は,年 4 回程度パラオを母港にヤップとそ の離島を回る 100 トンの機帆船である。
パラオを出てヤップ島とその 8 つの離島を巡って 17 日目の 10 月 8 日,土方は弟子の 大工さん(杉浦佐助)とともに,オジャレブルに導かれてサタワルに着く[須藤・清水 2011:528]。それから,1938 年 12 月末までの 7 年間,「この小さな島に,裸ン坊の島民 たちの中に暮らすことになったのだ。」と,土方は『流木』のサタワル島への旅の中で書 いている[土方 1943:22]。
土方が住んだサタワル島は現在,ミクロネシア連邦ヤップ州に属している。日本が統 治した旧南洋群島は 1947 年に国連の信託統治領となり,アメリカ合衆国に支配された。
日本統治時代のヤップ,トラック(現在チューク),ポナペ(現在ポーンペイ)の 3 支庁 の島々は,1986 年にミクロネシア連邦の名のもとに独立した。マーシャルはマーシャル
諸島共和国として 1986 年に,パラオはパラオ共和国として 1994 年にそれぞれ独立した。
また,サイパンはテニアン,ロタなどの島々と北マリアナ諸島コモンウエルスとして,
1978 年にアメリカの自治領になった。このように,小さい島々からなる旧南洋群島はア メリカとの自由連合協定による 3 つの独立国と 1 つの自治領に分裂したのである。
サタワルの人びとは,2007 年の調査によるとサタワル島に約 500 人,州都のヤップ島 に 290 人,ミクロネシア連邦の首都パリキールのあるポーンペイに 20 人が住んでいる。
そのほか,グアムに 80 人,サイパンに 30 名,ハワイなどアメリカ合衆国に約 20 人が住 んでいる。アメリカ合衆国に居住できるのは,ミクロネシア連邦がアメリカと自由連合 協定を結んでおり,居住と就労と移動の自由が認められているからである。
土方久功が調査に入った 1931 年のサタワル島には 286 人が住んでいたから,島人口は 今日までの 80 年間で約 2.6 倍に増えたことになる。筆者が調査を行った 1980 年の島人 口は 500 人であったから,現在とほぼ同じであるが,島外居住者が 450 人と増大してい る。島外移住の主な理由は,政府の公務員,観光業,建設業,サービス業などに従事し,
自らの家族の扶養とともに島の家族・親族への経済的支援のためである。
アメリカ統治時代には島に小学校,診療所,無線所が設置され,1953 年からは首長の 指示でカトリックに集団改宗し,教会も建てられた。1970 年代からは,船外機付きのボ ートが導入されてトローリングなどの漁労活動に使用されている。島の人びとの生活に 直結する州都への連絡船サービスは,年に 6 回程度と改善されている。筆者は 1978 年 6 月に石森秀三さん(現北海道大学観光学高等研究センター長)とサタワルに予備調査に 入った。そのとき乗船した船は,日本が戦争賠償として贈った 500 トンの貨客船,マイ クロスピリット号で,その処女航海であった。2008 年からは,中国の援助で新造船が就 航している。
一方,家屋もココヤシの葉やトタンの屋根だけでなく,現在はコンクリート製のもの まで建設されているという。一方,大型カヌーでのサイパンやプルワットなどほかの島 への航海や無人島への漁労活動は依然として行われている。船外機つきのボートを導入 しても,カヌーの建造技術と伝統的航海術は継承され,実際に使われている。また,バ ナナやオオハマボウの内皮から糸をつむいで腰機で布を織る技術も維持されている。現 在,島の人びとの生活は土方の住んだ時代とは大きく変わっているが,島社会の組織と 基本となる営みは維持されているようである。
本稿では,土方が滞在した 1930 年代と筆者が調査を行った 1978 年から 80 年にかけて のサタワルの人びとの行動を律する人間・社会関係を中心に,親族集団と社会組織の持 続と変化について記述することを目的とする。須藤の資料は須藤[1985:838 865 ]に 依拠するが,記述内容は大幅に修正されている。ミクロネシア諸語,トラック語系に属 すサタワル語の音声表記は,須藤・
Sauchomal
[1981:656]に準拠する。Ⅰ.サタワル社会の母系クラン
土方は,サタワルで生活を始めて 1 年後,1932(昭和 7)年 9 月 14 日の日記に「女系 氏族」について次のように記述している。
この島はなにぶん小さな島であり,全人口にしてわずか 300 人に足りない少数であるから,
氏族も極めて簡単でかつはっきりしている。―中略―まずこの女系氏族のことをヤイナ ンというが,ヤイナンには島の酋長を出すヤイナンギ・ニ・サモーヌ(酋長氏族)と,酋長 を出すことのないヤイナンギ・ニ・アラマス(平民氏族―アラマスは人間の意)とがあり,
ヤイナンギ・ニ・サモーヌは次の三氏で順位が定まっている。
第一氏,ネーヤジ。第二氏,エアナティウ(原名サファナジク)。第三氏,ノーソマル。
第一のネーヤジ氏のサモーヌ(酋長=族長)が島の第一サモーヌ(酋長)となり,第二の エアナティウ氏が島の第二サモーヌとなり,第三のノーソマル氏のサモーヌが島の第三のサ モーヌになるのである。エアナティウ氏は西方のサウファナジク氏で,この島でもその原名 が忘れられてはいないのであるが,普通にはその居住地区の名をもってエアナティウ氏と呼 ばれるのである。アラマス氏族には順位がなく,次の五族がある。サウサット氏。マーサノ ェ氏。カタマン氏。サウェン氏。ピーク氏。[土方 1943:308 309 ]。
本章では,サタワル社会で人びとの生存と社会生活の基本となる親族集団,土方のい う「女系氏族」の歴史伝承と政治的地位などについて述べることにする。
筆者が調査を行った 1980 年当時のサタワルには,土方の滞在時と同じく 8 つの固有名 称をもったアイナン(yáinang)とよばれる母系出自集団があった。土方はアイナンを ヤイナンと記して「女系氏族」の用語を当てているが,本稿ではアイナンと表記し,社 会人類学の用語である「母系クラン」,ないしは「母系出自集団」の語を当てることにす る1)。まず,サタワル社会の人口動態と親族集団の構造について記述する。
1.移住伝承と社会・政治的地位
土方が住んだ 1930 年代と同様,1980 年当時,サタワルには 8 つの母系クラン(以後,
クランと略記する場合もある)が存在している。人びとはそのうちどれか 1 つに帰属す ることによってのみ,島社会での生活が可能になる。母系クランの名称は,(1)ネヤー ル(
Neyáár
),( 2 )アーナティウ(Yáánatiw
),( 3 )ノーソムァル(Noosomwar
),(4)カタマン(
Kataman
),(5)ピーク(Piik
),(6)サウェン(Sawén
),(7)サウサ ット(Sawsát
),( 8 )マーサノェ(Maasané
)である。それらのうち,( 1 )〜( 3 )の 名称は,いずれもサタワル島の地名に由来している。その理由は,それら 3 クランの先 祖がその土地をきり開いて居住地としたからである。その土地はかならずしもクランを 創設した開祖が住んでいた場所ではないが,少なくとも 5 〜 6 世代前の祖先が占居した ところである。それにたいし,(4)〜(8)のクラン名称は,サタワル島の地名にちなんだものでなく,
中央カロリンやチューク(旧トラック)の島々に分布するクラン名称と共通している(表 1 参照)。(1)〜(3)のサタワルの地名を冠するクランも,他島のクランとの関係におい ては,それらの島々に共通する名称をもっている。( 1 )
Neyáár
は,アトノヨン(
Yatonoyong
),( 2 )Yáánatiw
は,土 方 も 指 摘 し て い る よ う に サ ウ ファ ナ チ ク(
Saufanachik
)ともよばれる。また,Yáánatiw
は,(3)Noosomwar
とともにモゴヌ ファル(Mongonufarh
)とよばれる。(2)と(3)が同一の名称をもつのは,サタワル 島へ移住前に,サタワル西方のイファリク(Ifalik
)島で 1 つの母系出自集団(クラン)を構成していたからである。そして,イファリク島から他島への移住の過程で 2 つの独 立した集団になり,それぞれが時期を違えてサタワル島に渡来したのである2)。したが って,サタワル島に定住したときから,元来はクランの名称を同じくするが,別個の出 自集団を形成している。
土方はこの島には「昔話」はたくさんあるが,それは歴史的な色彩がほとんどないと 述べた後で次のように記している。「島民間には自分達の歴史に関心を持つということが 殆どないので,七年もの長い間に,私は島民達から何らの歴史的事実を引き出すことは できなかった」[土方 1984:21]。この背景には,死者の名をよんだり,死者を思わせる ような話を極度に慎むという観念があり,系図や一族の系譜などを知っているものに出 会わなかったとも語っている。
筆者も調査の当初は母系クランの系譜は一族の「秘密の知識」で部外者には教えられ ないといわれていた。しかし,数か月後から「秘密の知識」を継承してきた高齢の女性 から,自分の一族の歴史には若者が関心を示さず,忘れ去られるので「紙に書き残した い」という希望がでて,筆者は母系クランのラピトととよばれる起源譚を記録すること ができた。
8 つの母系クランはそれぞれ,起源地とサタワル島までの移住経路を伝える口頭伝承 をもっている。これはラピト(rapito),つまり「(クランの)来住の根幹となる伝承」
とよばれ,クラン成員外に伝授することが禁じられる。各クランのラピトで語られるク ランの起源地と移住経路を示すと表 2 のようになる。そのうち( 1 )
Neyáár
,( 2 )Yáánatiw
,(3)Noosomwar
と(7)Sawsát
の各クランの起源地は,いずれもサタワル から 1500km
も東方のコスラエ(Kosrae
,旧名Kusaie
)島である3)。それらはサタワ ル島へ移住した時期がほかの 4 つのクランよりも古いといわれる。そして,島への移住 伝承が,クラン間の政治的序列を決定する重要な要因となっている。ラピトによると,サタワル島へ最初に移住したクランは(7)
Sawsát
である4)。そこで,
Sawsát
クランのサタワル島への移住と島づくりの口頭伝承に基づいて,サタワル島のクランの関係とそれらの政治・社会的序列を明らかにしてみたい。
Sawsát
は「海の人」ないし「サタワルの人」という意味である。サウ(saw)は「人」を意味するが,とくにすぐれた知識や技術を修得している人をさす。また,
saw
は「本 幹」とか「元祖」という意味もある。そして,サット(sát)は「海」を表すと同時に,Satawal
のsat
を指示するともいわれる。したがって,Sawsát
は「海を支配する人」な いしは「サタワル島の元祖」とも訳せる。Sawsát
クランの先祖はサタワル島の東隣り,300
km
離れたプルワット(Puluwat
)島から移住してきた。そのとき,カヌーできた人 は 4 人の男性と 7 人の女性であった。彼・彼女らが島に上陸してみると無人島であり,11 人の新参者は礁湖の水路がある場所に住んだ。それから,各人は島の主要な土地に分 住し,外部からの侵入者を見張ることになった。彼・彼女らは「島を見張る人」として それぞれの役割をうけもった5)。
Sawsát
の男たちは西隣り 100km
にあるラモトレク(Lamotrek
)島へ航海した。そ の航海によって,ラモトレク島がサタワル島を支配する島,つまりサタワル島のサモー ン「首長」を出す島であることを知ったのである。それで,彼らはサタワル島の首長に なる母系クランの人びとをラモトレク島から招聘した。Sawsát
の人びとはラモトレク からの最初の移住者であるアトノヨン(Yatonoyong
)クランの人びとに島の南部の土 地を分与した。この人びとが現在のNeyáár
クランの祖先である。Neyáár
の語義は「ヤ ールの木の下に(住む人)」である。そして,Sawsát
クランの年長男性とNeyáár
クラ ンの女性から 1 人の男が生まれた。その息子は,父に従順で父の面倒をよくみたので,Sawsát
クランの人びとは,彼にサタワル島の南部を統治する権限を譲渡した。その結果,
Neyáár
クランの男性がサタワル島の最初の「首長」になった。
Neyáár
クランのつぎにラモトレク島からMongonufarh
クランの人びとが来島した。それで,
Sawsát
クランの族長(tenap)は,彼・彼女らに島の北部に住むように指示し て土地を分けてやった。その人びとが現在のYáánatiw
クランの祖先である。Yáánatiw
は「休憩する場所」の意味。そして,3 番目に来島した人びとも,ラモトレクの母系ク ランの人びとであったが,彼らはYáánatiw
クランとは系統を異にするMongonufarh
クランに属していた。そのために,Sawsát
クランの人びとは,彼・彼女らに自分たち の居住地であった島の中央部の土地を譲渡した。3 番目にきたMongonufarh
クランの 人びとが,現在のNoosomwar
クランの開祖となり,Neyáár
クランとYáánatiw
クラ ンの中間にある地域を統轄することになった6)。このようにして,サタワル島の最初の 住人であったSawsát
クランの人びとは,「首長の島」(ラモトレク島)からの移住者に 土地を分け,サタワルの統治権を譲った。その後,Sawsát
クランはNeyáár
クランの配 下として島の南部に住んだ。その結果,サタワル島は,南,中央,北の 3 地区(村)に 分割され,4 つの母系クランが共存する時代が長く続いた。そのあとサタワル島には,9 つのクランが移住してきたが,現存するのは,
Kataman
,Piik
,Sawén
とMaasané
の 4 クランである。Kataman
とPiik
は,島の北部に住むYáánatiw
から居住地を分与されて島で生活するようになった。Sawén
はNoosomwar
に養取の形でくみこまれ,
Maasané
はNeyáár
の監督のもとに島入りし,それぞれから 土地を譲りうけて独立した母系クランとしてこの島に住むようになった。以上が,
Sawsát
クランのラピトが語る 8 クランの移住伝承である。この伝承による と,サタワル島は,Sawsát
クランの人びとが来島する前は無人島で,ラモトレク島の 領有する島であったことが示唆されている。このサタワル島とラモトレク島との関係は,現在においても,ラモトレク島がカヌー の船体,サタワル島が風下側の荷台,ラモトレク島の西にあるエラート(
Elato
)島が 腕木にたとえられ,主島と属島という政治的地位にある。1950 年代まで,サタワルの人 びとは 1 年に 1 度,ココヤシの実と貯蔵したパンノキの実をラモトレクに貢納していた。また,エラート島はアオウミガメをラモトレク島に贈っていた。これは,「つり針航海」
とよばれ,2 つの属島がラモトレク島のつり針によって自由に釣りあげられることを意 味している。この貢納航海は,サタワル島を代表する首長クランがラモトレク島の母系 クランに出自しており,かつサタワルの人びとがラモトレク島の領土である無人島の資 源利用を許されていることに基づいている7)。この関係は,母系クランの序列にも反映 しており,主島であるラモトレクから早期に移住してきた 3 クランが,サタワル島を政 治・社会的に統治する首長を輩出し,「首長クラン」とよばれている。そして,来島の順 序にしたがって,土方が指摘した順位のとおり,
Neyáár
クランがサワタル島の第一位 の首長をだすクラン,第二位がYáánatiw
,第三位がNoosomwar
ということになる。首長クランよりあとに,サタワル島へ移住してきたクランは,「平民クラン」とみなさ れている。平民クランは,前述したように 3 首長クランの庇護のもとに土地を分与され たと語られている。そのために,土地の贈与集団と受贈集団とのあいだに,社会的地位 の格差が生じ,後者は前者の「言うことをよくきくひと」(yakkuné)といわれている。
あるいは,それら 2 集団間の関係は「お互いに知っているあいだがら」(kuneyfengan) ともいう。つまり,
Maasané
はNeyáár
,Kataman
とPiik
はYáánatiw
,Sawén
はNoosomwar
のそれぞれの従属クランになるのである。そして,主 従関係にある 2 集 団においては,従属的地位にある母系クランが,保護者的立場にある母系クランのカヌ ー,カヌー収納庫兼集会所(以後,カヌー小屋と表記)の建造や修復などの機会に労働 力を提供する義務がある。このような母系クラン間の主 従関係は,島社会のレベルで は,首長クランと平民クランという名称で表現され,階層差として認識される。そして,首長クランの族長はサモーンとよばれるのにたいし,平民クランのそれはテナップとよ ばれ,名称を異にする。
2.クランの階層性と特権
土方も指摘しているように,8 つの母系クランは,3 つの「酋長氏族」つまり「首長ク ラン」と 5 つの「平民氏族」つまり「平民クラン」とに階層化している。首長クランの
あいだでも 1 位から 3 位までの序列があり,平民クランでありながらもサタワル島の「元 祖」という地位を占めているクランもある。
首長クランと平民クランとの社会的地位差は,まず集会における発言権のちがいにあ らわれる。サタワル社会の集会は,成人男性によって構成される。島全体にかかわる問 題が生じた場合には,首長クランの首長 3 人,それぞれの次期首長候補者 3 人と平民ク ランではあるが,「サタワル島の最初の人」である
Sawsát
クランの族長の計 7 人で会合 をもち検討する。そこでの合意事項が,島の成人男性の全員参加の場となるカヌー小屋 で伝達される。その集会には島の中央部のカヌー小屋が使用される。それは,間口 12m
, 奥行き 20m
の大きさがある。集会で話しをするのは最年長の次期首長であり,彼が司 会役もつとめる。首長の合意事項の通達にたいして,質問ないし反対意見を述べること が許されるのは,首長クランの男性成員と平民クランの族長だけである。つまり,平民 クラン成員の族長でない男性は,何ら発言する権利をもっていないのである。平民クラ ンの出身者で,偉大な航海者,伝統的知識を修得している長老であっても,集会で自分 から意見を述べることは,「道をとおさない男」とみなされ,批難をあびることになる。政治的局面にかぎらず,儀礼的場面でも,首長クランと平民クランとのあいだにはち がいがみられる。人生儀礼においては,1950 年代までは子どもの誕生前後に,産婦と新 生児が産小屋に滞在したが,その日数は首長クランの成員の方が平民クランのそれより も長い。そして,産婦が家に帰ってからも,首長クランの場合は,その家の外側に禁域 を設定し,そこで子どもの水浴をさせる。これは,平民クランの人に「子どもの頭をふ みつけられる」のを忌避するからと説明される。初潮儀礼においても,初月経をみた首 長クランの少女は,頭を新しい腰布でおおって月経小屋に入る。
また,葬送儀礼では,死者のでたサモーン(首長)クランの家へは,首長の指示で男 性がココヤシ,女性がタロイモ料理を贈る。また,その家の周囲の木に登ることや物を 頭上にのせて運ぶことが禁じられる。埋葬後,さらに一定期間の「労働の禁止」がとも なう。この首長クランの葬送儀礼について土方は,1932 年 1 月 2 日の日記に次のように 記している。
死人がサモーヌ酋長氏族のものであるならば,埋葬の翌日,村中の男が一人十個ずつのニ ュ(椰子の若実)を死人のあった家に持って行く。これはその家の女長が各氏に適当に分配 して残りをそのまま自分たちでとる。そして翌日は,今度は村中の女たちが全部芋田に出て 食物をとってきて,一人が一鍋または一皿ずつ食物を作って,死人のあった家へ持って行く。
これもまた家の女長が各氏に適当に分配して,あとは自分たちのものとするのである。
そして原則としては,サモーヌ氏族のものが死んだときは,四晩のエピヌ・エガン(労働 禁忌:筆者記)が伴うのである。―(中略)―なお,このサモーヌ氏族の者が死んだ時 には,ウォニ・ファイといって一般に喪のごとき一種のエピヌ(禁忌:筆者記)が守られる ので,それは普通にエピヌ・トェタ・エイ・ナン(高登りの禁)といわれ,その死人の家の 付近で高い所,椰子の木とか屋根等に上がってはならず,その付近では大声を出したり,高
い音を立ててはならないのである。また,その付近ではモノを高く差し上げて歩いたり,肩 にかついで通ったりしてはならないのである。[土方 1943:124;須藤・清水 2011:556 ]。
この記述から,首長クランの葬送儀礼の直後には,食べ物の贈与と再分配,首長クラ ン成員への敬意行動などが規範となっていることがうかがえる。この慣行は,1980 年に おいても遵守されていた。さらに,首長クラン成員の死にかぎって,死後 1 年以内に盛 大な食物の集積と分配が伴う追善儀礼(farik)も催されている[須藤 1989
a
:211 212]。 このように,首長クラン成員と平民クラン成員のあいだには,宗教的観念のうえでも,差異が存在する8)。しかし,日常的な対人行動や生産活動においては,階層差ないし身 分差はあらわれない。平民クランの成員が首長クランの成員にたいして表敬行動を義務 づけられるとか,平民クランの成員が首長クランのために食料生産に従事することはな い。また,序列化した 3 首長クランに帰属する人びとのあいだには,行動面において何 ら区別がない。同様に,それらの首長間には,権限行使の点においても格差が存在しな い。3 人の首長は,職務を分担しており,島の資源管理,海と無人島の資源利用,そし て島社会の秩序維持の 3 分野に関して,それぞれの首長が責任をもっている。それらの 職務は,数年ごとのもちまわり制である。
現在の国家体制のもとでは,それらの役割のほかに,年 2 度開催の「離島首長会議」
や州政府の行政連絡や会議に出席するための島代表としてのポストがある。首長会議に は,長老の首長が出席するが,行政連絡の職につく人は,首長クランの成員のなかから 3 人の首長によって指命されている。また,州議会議員の立候補者の選定も 3 人の首長 によって行われる。このように,首長クランの成員間および首長のあいだには,移住伝 承に依拠した序列化は顕在化していない。
他方,第一位の首長である
Neyáár
クランの首長は,島の人びとから,食べものの献 上をうける権利がある。その献上物は,パンノキの実の初収穫物とココヤシの葉柄の新 芽から採取する液汁である。前者は「初めてのパンノキの実」,後者は「最初のココヤシ の液汁」である。パンノキの実の献上は,それが豊作の年で 1 軒あたり 1 籠( 8 〜 10 個),ココヤシの液汁のそれは成人男性 1 人あたりびん 1 本(720m
1)である。Neyáár
クランの首長は,それらの一部をとったあとで残りを島の人びとに再分配する。この初 物儀礼は,献上するパンノキの実とココヤシの液汁の数量からもうかがえるように,第 一位の首長がそれらの贈与によって「富を蓄積する」といった性格のものではない。これは,キリスト教の受容前に,第一位の首長がパンノキの豊穣を祈願する儀礼を主 催する権限をもっていたこととも関連している。
Neyáár
クランの首長は,パンノキが 新しい実をつける時期(1 〜 2 月)に,その年のパンノキの実の豊不作を占い,パンノ キの実の豊穣を増進する「パンノキの専門家」に儀礼を催すように指示する。この儀礼 が終わらないと,人びとはパンノキの実を採取して食べることが許されなかった。初物献上儀礼は,タロイモとならんでパンノキの実に食料資源を依存しているサタワルの人 びとにとって,重要な意味をもっていた。
島の長老は,
Neyáár
クランが島の最初の統治者(namenam)であるから,この儀礼 を行うのだと説明する。それは,Neyáár
クランが,島の食料資源を統制する権限を保 持していることを示唆しているのである。つまり,初収穫物を第一首長に献上するのは,その首長が島の食料資源を管理,統制する最高責任者であるという役割と密接に結びつ いているのである。とくに,パンノキの実は,年中収穫が可能なタロイモと異なり 6 月
〜 9 月の季節的収穫物であり,また年間の雨量などによって豊不作が生じるために,超 自然的存在の加護のもとに栽培されるという特徴がある。これは,呪術・宗教的力を統 御する司祭者にたいして儀礼実修の責任をもつ首長への「謝礼」とみなすことができる。
最後に,サタワル島の草分けである
Sawsát
クランがもつ特権について述べることに しよう。そのクランの族長が,島の首長会議のメンバーであることは前述した。そのほ かに,サタワルの男たちはSawsát
クランの族長に,アオウミガメの頭部を献上するこ とが義務づけられている。ウミガメは,サタワルの人びとにとって,動物性タンパク源 として魚介類とならんで重要な食物である。しかし,この島でベッコウガメやアオウミ ガメを捕えるときつい禁忌がともなう。土方はその禁忌事項について,「マウ(鼈甲亀)を捕えたものは月が二つ変わるまでの あいだ海岸の砂浜に起居して穢れをはらわなければならない。その間は,断じて集落に でて来てもならないし,食物も一般の村人と別の火で調理されなければならない」と書 いている[土方 1943:37]。同様にウォン(正覚坊亀:アオウミガメ)を食べたものや 触れたものは,1 か月のあいだ森や湿地へ行ってはならない。このような禁忌は,1980 年当時には廃止されていたが,サタワル島で捕れたカメ類を食すことは禁忌とされてい た。そのため,島の男たちは首長の許可をえて 100
km
離れたウエスト・ファーユ(プ ケーノ)やピークなどの無人島ヘウミガメとりの航海にでかける。ウミガメが産卵のた めに無人島へ上陸するときや無人島の海域を遊泳しているのを捕える。産卵の最盛期(5 月〜 7 月)には,1 航海数そうのカヌーで 10 頭ものウミガメがサタワル島に運ばれる。また,島の周辺海域で海象が悪化し,漁労活動が不可能になる 11 月から翌年の 2 月まで の期間は,このウミガメが貴重な動物性タンパク源となる。
ウミガメがサタワル島に陸上げされると,その料理,解体,分配は,「海の首長」ない
し
Sawsát
クランの族長の指揮のもとに行われる。そして,胴体部の各部分の肉,血,卵などは島の人びとに均等に分配される。しかし,ウミガメの首より上部は,かならず
Sawsát
クランの族長に献上される。これは,「海の食料資源」でもっとも大事なウミガメは,サタワル島の「最初の人」である
Sawsát
クランのものであるから,と説明され る9)。つまり,この贈与行為は,ウミガメに代表される海の漁業資源にたいして,平民 クランではあるが,サタワル島への最初の定住者とみなされているSawsát
クランが,特別の権限を保持することを表しているのである。
また,サタワル島で漁獲される魚類のなかで特定のものは,3 人の首長に贈る慣行も ある。その魚は,スジアラ,大型のマグロ,メガネモチノウオなどで数年に 1 度ぐらい しか捕獲されない。首長の魚といわれる理由は,それらの魚はいずれも,その遊泳する 様や海中の動きが優雅でおっとりとしているので,首長に期待される立ち居振る舞いや 行動と類似しているとみなされるからである。よって,それらの魚は「首長」にたとえ られ,「首長」の象徴であるから,平民クランの人びとは食べてはいけないといわれる
[秋道 1981:108 109]。
以上で首長クランと平民クランの階層差,首長クラン間の序列およびサタワルの草分 けクランである
Sawsát
クランの特権などについて述べてきた。サタワル社会において,クラン間の社会的地位差は,集会での発言権,儀礼場面,そして特定の物の献上などに おいて顕在化する。このような,社会階層は,「歴史的伝承」に基づいて,先住者と新参 者,土地の保有者と非保有者という二者間関係によって成立したとみなすことができる。
しかし,その差は日常的な対人関係においては表敬行動,貢納制度においては「富の蓄 積」へと発展するような性格の贈与ではない。
首長クランの首長であっても,島の 1 人の「男」として,漁労活動,ココヤシ林の手 入れやパンノキの実の採取などの諸活動に従事する。サタワル社会は,3 人の首長によ って社会・政治的には統率されているが,その統制権は島の人びとの生活を保護し,保 障するために行使されるのであり,首長の個人的ないし首長クランの利益を優先させる ために企図されることはない。したがって,サタワルの首長は,食料資源の管理,その 有効な利用と均等な分配を促進することを第一義の役割があるといえる[須藤 1984:287
303]。
Ⅱ.母系クランの人口動態と構成原理
土方は 1931 年の島の状況について次のように書いている。
島の大きさは正確にはかったわけではないが,―(中略)―総面積にして 100 町歩内 外であろう。さてこのような小さな島に,どのくらいの人間が,どんな風に住んでいるかと いうに,私が島に入って間もなく 1931 年 11 月に調べた当時,メサール(島の西海岸:筆者 記)に 44 軒の家(yimイム)があり―ほかに 3 軒の無住の家があった―,男子 134 人,
女子 149 人,総数 283 人,このうち夫婦ものが 57 組であった。ただし,そのうちパラオ,ア ンガウル等に人夫に出ているもの,ヤップ,ポノワット等にわたっていて不在のもの,男子 33 名,女子 5 名の 38 名であったから,現在数は男 101 人,女 144 人,合計 245 人であった が[土方 1984:12 13 ]。
この記述から,男性は南洋庁によるアンガウルのリン鉱石採掘やパラオでの仕事,さ らには他島の女性との結婚などで,若者の 3 割が島外へ出ていることがわかる。島は孤 立した状態ではなく,つねにほかの世界と関係を維持して島の生活を成り立たせている ことがうかがえる。
本章では,サタワルの母系クラン(出自集団)の内的構造と分節の過程を中心に述べ ることにしよう。まず,1909 年〜 80 年の 70 年間における母系クラン成員の人口変化を 比較する。1909 年の資料はドイツのハンブルグ探検隊の報告[
DAMM
undSARFERT
1935:132 137],1931 年のそれは土方資料[土方 1984:37 38],そして 1980 年の資料 は筆者の調査[須藤 1984;1985]をそれぞれ利用する(表 3)10)。1.1908 年からの人口と居住地の変化
1909 年,1931 年そして 1980 年の島の人口と家数および建物などの数はおおよそ次の とおりである。
1909 年には,家数 33 軒,カヌー小屋 7 軒,月経・産小屋 2 軒,人口は男性 104 人,女 性 84 人の計 188 人,夫婦 50 組である。
1931 年では,家数 47 軒,カヌー小屋 7 軒,月経・産小屋 2 軒,人口は男性 132 人,女 性 139 人の計 271 人,夫婦 57 組(土方の前述の人口の方が多いのは,サタワルの母系ク ランに属さない他島からの滞在者がいるからである)。
1980 年は,家数 86 軒,カヌー小屋 8 軒,月経・産小屋 0 軒,人口は男性 262 人,女 性 230 人の計 492 人,夫婦 111 組である。
この 70 年間,人口が 2.6 倍に,夫婦数が 2.2 倍にそれぞれ増加している。とくに,女 性人口が男性人口に比して少ないこと,1953 年のキリスト教(カトリック)への集団改 宗により月経・産小屋が廃止されたことが目につく。
表 3 に基づいて母系クランの成員数をくらべると,1980 年において,最多成員数のク ランは
Noosomwar
で 111 人,最少成員数のそれはPiik
の 13 人である。しかし,島人 口の半数を占めているようなクランは存在しないことがわかる。一方,3 首長クランは,成員数において平民クランを圧倒していることがうかがえる。また,1909 年から 1980 年 の各クランの成員の変化をみると
Yáánatiw
クランをのぞけば,他の 2 首長クランは,安定した成員人口をようしている。
Yáánatiw
の場合,ドイツの資料では女性人口が不 明であるが,筆者の調査資料では 1909 年当時 5 〜 6 人居住していたことが判明した。そ して,1909 年の時点で,ファンニウィル(Fanniwirh
)クランの男性 1 人,ウイスス(
Wuisusu
)クランの女性 1 人がいたが,1931 年の段階ではそれらのクランの存在が確 認されない。これは,それらのクランが滅亡したことを示すものである(クランが絶え た状況については[須藤 1984:280 282]を参照されたい)。いずれにせよ,70 年間に島 人口は,大幅に増加しているが,首長クランもそれに比例して成員数が増えている。つぎに,クランの構造について検討してみよう。サタワルの母系クランの系譜をたど り,最古の祖先までの深度は,古いクランで 8 〜 9 世代,新しいクランでは 4 〜 5 世代 である。前述した
Sawsát
クランの場合,サタワル島への最初の移住者と信じられてい る 4 人の男性と 7 人の女性の祖先まで,系譜をたどることはできず,最古の祖先は,1980 年当時の最上世代者からみて5世代前である。一方,Neyáár
クランの男性祖先のAkurup
は,サタワル島が台風の襲撃で,島に海水があがり,飢饉になったときに,サタワルの 人びとを連れてサイパン(Saipan
)島に移住したという伝説がある11)。これは,歴史的 事実と考えられており,1810 年代のことと推定される[McCoy
1973:356]。 このAkurup
(図 3 の 1)は,Neyáár
クランの系譜のうえで,クラン最古の女性祖先 とキョウダイであると述べられている(図 3 参照)。これを事実とするなら,サタワルに 現存する母系クランの系譜は,すくなくとも 1800 年までさかのぼれることになる。そこ で,Neyáár
クランの女性を中心にした系譜(図 3)と居住区(図 4,5,6)とを参考に しながら,サタワル社会の母系クランの構成と居住の概略を明らかにしよう。
Neyáár
クランは,1909 年当時,男性 29 人と女性 22 人が 7 つの家に分住して居住集 団を構成していた様子がうかがえる。それらの家は,地図から判断すると 150m
のあい だに建っている(図 4 参照)。そして,共同炊事小屋(Kochhaus
)が 2 個所に分散して いるので,Neyáár
クランは 2 つの下位集団に分れていたことが推測される(図 4 の 29〜 30, 32 〜 37)。
Sarfert
が表記した家に住む人名をNeyáár
クランの系図(図 3)にあ てはめてみると,図 4 の 29 〜 30 は図 3 のA
系統に,32 〜 36 は図 3 のB
系統にそれぞ れ対応する。そして,1931 年の土方の居住区図(図 5)では,
Neyáár
クランの男性 36 人と女性 37 人は,2 軒の炊事小屋をもち,1 個所の居住地ラピーラキジ(Řapïrakiř)に建てられた 7 軒の家に分住している。しかし,土方の地図には,ドイツ資料にあったもう 1 つの下 位集団の居住地(図 4 の 29 〜 30)にあった 1 軒の炊事小屋と 2 軒の家が描かれていな い[土方 1984:56 58](図 5 参照)。土方が記述しているŘapïrakiřの 7 軒の家の住人の名前を図 3 の系図に照合すると,
b
1 系統が 1 軒,b
2 とb
3 の系統が 1 軒,b
4 とb
5 の系統がそれぞれ 1 軒の家に居住 していることが判明する。そして,a
1 とa
2 の系統も 1 軒の家に住んでいる。つまり,1909 年当時に 2 個所の居住区に分住していた人びとが 1931 年には同じ居住区に住むよ うになったことを示している。それは,1920 年ころに
Neyáár
クランの成員が相次いで 病死したので,それまでの居住地をすててラピーラキル(Ráápiirakirh
)地区(図 5 の 最下部,図 6 の 35)に集住したからだという。その後,クランの成員数が 86 人に増加 したので,1980 年には 3 個所の居住地(図 6 の 35,52,56)に分かれている。アピニイ マニカット(Yápiniyimwenikát
(52))の居住区にはa l
,a
2 の系統が,Ráápiirakirh
(35)のそれには
b
1,b
2,b
3,b
5 の系統,そしてNeyáár
(56)のそれにはb
4 の系統の成員が分住しているのである。
1909 年当時の
Neyáár
クラン成員の財の保有関係については明らかでないが,土方が 調べた 1931 年では,女たちがタロイモやパンノキを持ち寄って共同炊事し,調理したも のを家単位で分配する形態をとっていた[土方 1984:71]。これは,クランが財産共有 体を形成していたことを示している。つまり,クランの共有財を成員が分割して使用す る形態である。しかし,1980 年になるとNeyáár
クランには,クラン共有財はなく,前 述した 3 居住(分節)集団が財産所有の単位になっている。そのために,一つの居住区 に住む各分節集団(母系拡大家族)単位で,家族成員各人にタロイモ田やココヤシ林,パンノキの使用を割りあてている。そして,料理もそれぞれの炊事小屋でつくり,各成 員に分配して家単位で食事をとっている。それら 3 つの分節集団が生産活動や消費活動 を日常的に共同で行うことはない。ただし,食料の枯渇期に備えてパンノキの実を土中 に貯蔵し,マールとよばれる「発酵パンノキの実」をつくる作業には,分節集団の女性 成員が共同であたる。3 分節集団の男性たちは大型カヌーを建造するときに共働するし,
女性たちもその労働者の食事を共同でつくる。
このように,1980 年当時は 3 分節集団が共同して食料生産にあたる機会はほとんどみ られない。しかし,分節集団がそこから婚出した男性成員の子どもたちに,贈与すべき 土地やココヤシ林がない場合には,食料資源に余裕のある分節集団がいくらかの財を融 通する。つまり,クランは財産共有体としては機能していないが,クランの男性が彼の 子どもに生産財を贈与,相続させる慣行のもとで,分節集団間での財の利用を調整する はたらきをする(財の贈与方式については[須藤 1984]で詳述してある)。また,サタ ワ ル 社 会 で ク ラ ン 統 合 の 象 徴 と な る の は カ ヌー 小 屋 で あ る。
Neyáár
ク ラ ン は,Ráápiirakirh
の居住地の海岸よりにSikafi na
という 1 軒のカヌー小屋(図 4 の 31,図 6 の 58)を所有している。この管理と利用は,クランの男性成員の権利であり,責任とな っている。そして,このカヌー小屋の修復や屋根替えなどを指示するのはNeyáár
クラ ンの首長である。首長は上で述べたクランの大きな事業のほかに,土地の処分,他のク ランとの土地係争,クラン成員の規則違反や婚姻などに責任をもつ。首長は自らの母系 クランに問題が生じたときには,クランの集会を招集し,自分の判断で適確な指示をだ す。2.首長権の継承とクランの存続戦略
首長の地位と首長権は,母系クランの最上位の系統,最上世代,最年長の男性によっ て掌握され,母系的に継承されるのが原則である。図 3 を参考に,
Neyáár
クランの首 長権の継承についてみることにしよう。系図上では,首長は 1.Yisareito
(5),2.Rapo
( 19 ),3.
Saufa
( 26 ),4.Sawpuna
( 36 ),5.Yakkaw
( 43 ),6.Rumay
( 58 )がその 任についている。そして次期首長はEwiyong
( 63 )が予定されている。1980 年当時,Neyáár
クランの首長Rumay
( 55 歳)は,Ewiyong
( 76 歳),Ukka
( 65 歳,図 3 の 66)より年少者であるにもかかわらず,首長の地位についている。首長権の継承は,基 本的には母系クランの中の最優位(代々長女)の系統の男性成員のあいだで母系的に行 われる。つまり,直系の系統の兄から弟へ,ないし母方オジ(tukufáyiy)から姉妹の息 子・甥(fatúw)へである。この首長位は原則として養取に影響されない。図 3 の
Sawpuna
とEwiyong
の場合 は,彼らの母ないし祖母(Nayurusatt
)がSawsát
クランに養取され,彼らもそのクラ ンの本拠地アポウ(Yápééw
)で生まれている。しかし,Sawpuna
は先々代の首長を つとめたし,Ewiyong
はNeyáár
クランの次期首長の地位にあり,島の首長会議のメン バーでもある。このことは,サタワル社会の養取慣行が,養取によってクラン所属を変 更しても,自分の実のクラン成員権(族籍)を放棄しない性格であることを示している。そして,養取先の成員権も獲得し,双方の母系クラン「成員」としての権利を行使でき るのである。
土方もサタワルの養子は,「氏族籍は移り得ないのであって,サモーンの相続順位も除 外されずにいる」[土方 1984:34]と述べている。さらに,「このように養子等の理由に よって他氏族の間に暮し,他氏族の者と親子兄弟関係を結んでも,女の腹から生まれた 事実は曲げられず,したがって族籍の所属を移すこともままならず,当然権威位置の相 続順位にも何ら影響をおよぼすことがないのである」[土方前掲書:34]と,首長の継 承順位について説明している。
Neyáár
クランの系図(図 3)を概観して,母系クランの構成上の特質としてつぎのこ とが指摘される。1 つはクランが分裂し,分節集団(リニージ)を形成するのは,系譜 関係においてかなりの世代を経た段階で生じている点である。図 3 において,A
分節集 団とB
分節集団は,系譜上,A
集団のRumay
(58)からみて 6 世代前の祖先,Nefarmay
(2)を共祖とする関係である。彼女は系譜上の最古の祖先であり,その 2 人の娘の子孫 が 2 つの母系出自集団に分節化したのである。その時期は明らかでないが,ドイツ資料 の 2 つの炊事小屋を別個に所有する単位が,ちょうど
A
集団とB
集団に相当する。そ のとき(1909 年に)生存していた成員は,A
集団では 5 世代目のNesor
(29)とNefaf
( 30 )である。しかし,1931 年には
A
集団とB
集団は,融合していた形跡がみられる ことから[土方 1984:56 57],この下位集団の離接と融合は,集団の人口の増減などの 要因で反復性を特徴としていることを指摘できる。第 2 の点は,母系クランの女系の系統(ライン)ないしは分節集団(リニージ)にお いて,2 〜 3 世代間に女性後継者がいないときに,ほかの同じクラン内の系統から養女 をとってその系統を存続させようとする企図がみられないことである。そのことは,図 3 の第三世代の
Naikinam
( 12 ),Yinusukupwe
( 15 ),第四世代のNowanikar
( 22 ) などの女系子孫が絶えている様子をみれば明らかである。これは,サタワル社会における母系クラン(出自集団)の編成理念および集団存立の経済的基盤となる財の保有方法 と関連していると考えられる。この社会では,姉妹および彼女らの子どもは,「一体」と みなしている。また,母方の平行第一イトコは,「同じ母から生まれた子ども」であり,
「お互いの子どもを育てあう」関係にある。したがって,母系出自集団の存続は,自分
(女性)に娘がなくても,実の姉妹,母の姉妹の娘ないしは母の母の姉妹の娘の娘(類別 的女性キョウダイ)に娘がいれば可能になるという考えに基づくのである。
他方,クラン内で女系の系統が 4 世代以上経ち,その系統に女性継承者がいない場合,
同じクランの他系統から養女をとる傾向がみられる。現在,
Ráápiirakirh
の居住区に住 む図 3 のb
1 の系統のNasukuno
(32)がその例である。彼女はb
4 系統のNewawen
(47)を養子にして自分の系統を継承させた。この例は,財を分割し,炊事小屋を別に する段階,いいかえれば分節集団として離接した状況では,他系統から後継者を養取す ることによって,2 つの系統が融合することを示している。つまり,クラン内で母系出 自を直系的に共有する祖先から 4 世代以上経過すると,独自の系統として集団を形成す る傾向が顕著である。この自立した女系の系統である,分節集団(リニージ)の維持が 不可能になったときには,ほかの系統から後継者を迎えることによって他系統に合体す る方法を優先させるのである。
しかし,母系クラン内に離接的な分節集団が成立すると,その集団の存続は,同じク ラン成員によって女系を貫徹しようという観念が薄らぐ傾向もある。これは,図 3 の
a
1 の系統の例をみれば明らかである。この分節集団は,第 7 世代目と第 8 世代目の 2 世 代にわたって,その集団の男性成員の娘(図 3 の 57,71)を養子にすることによって,集団を存続させている。これは,出自集団の男性成員の子どものうち,少なくとも 1 人 は,父の姉妹ないし父の母の養子になるというサタワル社会の養取慣行と関連している。
Yápinyimwenikát
の居住区(図 6 の 52)に住むa
1 集団においては,養子が女性であ ったために,その女性が父の集団の後継者の地位についた例である。このように,分節集団のレベルで,後継者をえるためにクラン成員と非クラン成員と の双方を後継者として獲得するという対照的な方法がとられている。このことは,母系 クラン存続の方法としては,女系貫徹のイデオロギーが潜在的に強調されるものの,現 実には,母系クランの男性成員の娘を選択することも許容されることを示唆している。
つまり,後継者獲得の方法としては,養取が優先されるが,養子には女系子孫だけでな く集団の男性成員の子孫も考慮される。その点で,アイナンは母系出自集団とはいえ,
非母系単系性を包摂する柔軟性を特徴としている。
第 3 点は,この母系クランの構造的柔軟性と関連するが,クラン成員として血縁関係 のない他島出身者をもくみいれていることである。図 3 の
Yinowkar
(20)は,サタワ ル西方 500km
のオレアイ島に滞在し,そこの男性と結婚した。子どもがなかったため に彼女の夫のクランの女性,Nekawetiw
(34)を養女にして育てた。
Nekawetiw
もオレアイの男と結婚し,サタワルに住んだり,オレアイに帰ったりの 生活をしていた。そして,彼女の娘,Nakupumai
( 48 )はオレアイで生まれ,ファイ ス(Fais
)島の男と結婚した。1942 年ころ,日本の海軍がオレアイ島に飛行場をつくる ため,島民を他島へ強制移住させた。そのとき,Nakupumai
はサタワル島へ来て,1979 年に彼女が死亡するまで,Neyáár
クランの女性,Nimeisa
(69)を養女にして生活を していた12 )。この事例は,Neyáár
クランの女性が,オレアイ島の異なるクランから 1 人の女性を養女として育て,その子孫が養母の出身クランの成員としてくみこまれたこ とを示している。つまり,非血縁者を養子(女)にすれば,その子孫は養母のクランに たいする成員権を獲得できるのである。この養取による母系クランへの帰属方式は,島外出身者だけでなく島の人びとのあい だでも,クランの存続を目的として行われる。その例として
Neyáár
クランのNayurusatt
(21)の場合をあげることができる。
Nayurusatt
は,Sawsát
クランの養母,Yinowkowa
(9)とは血縁関係がないのに,養母の要請で養女になった。その背景には,養母が息子 だけで娘がいないこと,そして彼女の姉妹や母方女性イトコも多くの娘を生まなかった という状況がある。そのために,養母は
Sawsát
クランと「親しい関係」にあるNeyáár
クランの女性を,彼女の系統の後継者として養取したのである。その結果,Nayurusatt
の子孫は養母が保有していた食料資源である土地や樹木をそのままうけついで,Yápééw
居住区(図 6 の 43 )に住み続けている。そして,Nayurusatt
の息子(Sawpuna
),彼 女の娘の息子(Ewiyong
)がNeyáár
クランの首長と次期首長の地位にあることは前述 したとおりである。つぎに,
Neyáár
クランが,養取によらずクランの男性成員と結婚した他島出身の女 性およびその子孫をNeyáár
クランの成員としてくみいれた例を考察しよう(図 7 参照)。Neyáár
クランの男性Sawek
(図 3 の 51,図 7 の 3 )は,エラート島出身の女性の娘Nepanikar
(図 3 の 52,図 7 の 3)と結婚したが,彼女の母系クランはサタワル島には 存在しない。彼女の母親をサタワル島へ連れて来た男性がNeyáár
クランの成員であっ たので,彼女の母親はNeyáár
クランの居住地に寄留していた。そして,Nepanikar
がSawek
との結婚後,Neyáár
クランでは彼女夫婦にココヤシ林,パンノキ,タロイモ田 を分与し,居住地も新たにあたえた。この配慮によって,
Nepanikar
を始祖とする自律的集団が誕生した13)。しかし,この 集団は,出身島の母系クランのヌクヌファヌ(Nukunúfanú
)としてではなく,Neyáár
クランの 1 分節集団としての地位におかれた。その集団が分節集団を形成できたのは,1920年代に
Neyáár
クランの成員人口が少なかったこと,Nepanikar
とその母親がNeyáár
クランに寄留しているあいだにNeyáár
クランのために良く働き,またそのクランの移 住伝説や土地の移譲の歴史など重要な歴史伝承を修得したことなどがあげられる。つまり,エラート島から来住した