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17世紀ロシア逃亡農民の社会経済史

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

17世紀ロシア逃亡農民の社会経済史

著者 石戸谷 重郎

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 25

号 1

ページ 39‑60

発行年 1976‑12‑25

その他のタイトル Социально‑экономическая  история беглых крестьян  в России XVII века

URL http://hdl.handle.net/10105/2658

(2)

Bull.Nara Univ.Educ, Vol.25,No. 1,(cult.& soc.) 1976

17世紀ロシア逃亡農民の社会経済史

石 戸 谷  重 郎 (歴史学教室) (昭和51年4月20日受理)

ま え が き

17世紀ロシアの農民史について多くの問題が究明されずにのこされているわが国ロシア史学の 現状を思うとき、いきなり逃亡農民について考察しようとするわれわれの意図を読者諸賢は本末 転倒と非難されるかもしれない。実は、わが国でもいちおうは周知になっているかの「ウローチ ヌイエ‑ゴードゥイ」 、とくにその廃止を実現させた1649年の「会議法典」と逃亡農民について われわれは別稿を予定している。ロシア農奴制の一つの特色は、立法によって農民の移転を禁止 したことにある。それ故、ロシアの農奴制を把握するためには、この立法の過程にも(これが全 てではないにせよ)注E]せざるを得ない。その重要な一段階が1649年法典、なかんずくその第11 章「農民についての裁判」なのである。ところが、同章は農民の移転の禁止ではなくて、逃亡農 民をどのような根拠・手続・方法によって旧主に引き渡すか(旧主に連れ戻しを認めるか) 、こ れについての規定である。つまり、 17世紀においてロシア農奴制は逃亡農民対策を中軸に展開さ れつつあったのであり、この点は1649年法典以後の同世紀後半についても同様である(1)このよ うな立場から、われわれは1649年法典と逃亡農民との関係を一つのテーマと見なすのであるが、

その際当然問われてくるのが、逃亡農民をめぐる社会経済史的諸問題である。勿論、その背景と しての当時の農民史全体が重要であるが、以上のような事情で本稿は取りあえず逃亡農民に的を しぼって二・三の考察を試みようとするものである。

本稿は、著しい史料的制約のもとに革されていることを告目せざるを得ない。逃亡ホロープ、

あるいはこれをめぐる「ホロープ裁判」については、われわれはかなりの量の公刊史料をもって いる。しかし、逃亡農民、とくにその社会経済史的考察を試みるための基礎史料のほとんどをわ れわれは、直接に閲読・検討することができない1649‑50年にトロイツ‑セルギエフ修道院に その逃亡農民が連れ戻されたときに作成された「引き渡し帳簿」 1冊だけでは、これをいかに精 密に分析しても、逃亡農民の社会経済史は浮び上ってこない(2)では、どのような基礎史料があ るのか。その主要なものは、逃亡農民について旧主がその引き渡しを逃亡先きの主人に要求して いる訴状(何を持って逃げたかも記されている)、逃亡農民の「捜査官」(17世紀50年代末に制度化 された)が逮捕した逃亡者からとった調書、いわゆる「陳述の記録」 (逮捕の時点における逃亡 農民の経済、それまでの経歴、家族の情況などが記されている) 、およびかれらを旧主に引き渡 した結果を示す「引き渡し帳簿」などである。これら未刊の史料を利用しての研究は、ソビエト 史学ではとくに最近20年間に相当に発達してきており、ごく最近でもアイプラトフは新しい捜査 官史料の発見について報告している(3)このような史料的事情の故に、本稿においてわれわれは 原史料主義を断念した。ソビエト史学で公表された論文を読みつつ念頭を去来するのは、未刊の 故にわれわれが読み得ない史料のことであるが、本稿の意図まで放棄することはないと考える次 第である。

39

(3)

40 石戸 谷重郎

そこで、本稿に直接関係するソビエト史学の論文についてふれておきたい。当面の課題につい ての先達としては、ノヴォセリスキーをあぐべきであろう。かれには早く制度史をもふまえた論 文「17世紀後半モスクワ国家南部における逃亡農民と逃亡ホロープ、およびその捜査」<4> (1926年) があるが、さらに「17世紀前半モスクワ国家南部における逃亡農民の経済状態の問題によせて」(5) (1945年)、 「17世紀ロシア国家の南部諸郡における自由民と流浪民」(6)(1962年)などを発表した.

これらの題名からも想像されるように、ノヴォセリスキーはロシア南部への逃亡農民を狙上にの せ、かつ上述の未刊史料を幅広く利用したのである。本世紀50年代から逃亡農民の研究は、むし ろ特定の南部の地域について進められるようになり、例えば、ブルイギン論文「17世紀60年代に おけるリャザン郡の逃亡農民」<7>(1953年)、バクラノワ論文「17世紀後半沿ヴォルガの国租負担農 村住民の史料としての逃亡農民とホロープに関する事件書類」<8)(1963)、ザニチェワ論文「17世紀 シャツク郡農民の社会経済的地位」0)(1964年)があり、このほかスミルノワ論文「ラージン進発前 夜の農民の逃亡」(10)(1956年)およびザニチェワ論文「17世紀後半における農民の逃l=」<")(1966年)も また、それぞれヴォルガ中流あるいはメシチェルスキー地方での逃亡農民を考察したものであるO これに対して、オブラスツオフ論文「1649年法典とアントニエフ‑シイスキー修道院」<12'(1958年) は、北辺における逃亡農民を考察した異色のものである。

以上からもうかがわれるように、逃亡農民の社会経済史的考察は、ソビエト史学でもその総合 は今後の課題とされている。本稿がわがロシア史学にせめて問題提起でもなし得れば、とあえて 筆をとった次第である。

※付記。われわれの別稿「1649年法典と逃亡農民」は、 「史学雑誌」に掲載されることになってい る(編・号は未定)。本稿とあわせ参照されたいo

l.逃亡の形態

農民逃亡の形態としてまず問われるのは、独身の逃亡者が多かったか、それとも家族ぐるみで 逃亡した場合が多かったか、であろう。ブルイギンは、 17世紀60年代にリャザン郡で逮捕されて 訊問を受けた142人のうち、約30%は独身者で、のこr)はそれぞれの家族の長であった、と報告

している(1)また、 1662年にカザン郡で捜査に当ったザセーキンは、逮捕し取調べた数についてご 料地‑の「到来者」(逃亡者をいう)「252家族、 355人」、同じく私領・修道院領で逮捕された到来者

「259家族、 364人」と記録している(2)。家族とは少なくとも夫婦2人から成る、という考え方からす れば、ザセ‑キンによって取調べられた「哀嵐のなかには、相当数の独身者がいたと見なけれ ばならないであろう。いま、ザセ‑キンの捜査史料は別としても、ブルイギンが逃亡者の30%を 独身者と報告していることは、これを無視できない。他方、 1664‑65年に南部のタンポフ郡で逃 亡農民の捜査に当たったエロープキンの活動について、ノヴォセリスキーは、 2933人の逃亡者の うち独身者は33人、あとは515家族2900人、と報告している(3)人員だけの比率では、独身者は1

%をわずかに越えるのみ、ブルイギン式の数え方をしても 548人中の33人、つまり 5.1%にすぎ

ない。また、 1649‑50年に中央部あるいは北東部ともいうべきコストロマ、ガリーチの2郡で逮

捕されトロイツ‑セルギエフ修道院に引き渡された逃亡農民414人のうち、独身者は19人、のこ

り 395人が85家族を構成していた(4)独身者は、人員の比率では全体の4.6%、ブルイギンのよう

に独身者1人を1家族と対等に見ると18%になるo これは上の30%にかが)近い。独身で逃亡し

た者がその後に結婚することは充分予想されるし、多くはないがその事例を示すこともできるの

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で、逃亡時点と逮捕時点とでは独身者の占める比率が若干変ってくるが、いちおうこれを度外視 して考えれば、次のようにいえるであろう。すなわち、独身者をそれぞれ一つの逃亡単位と見て これを家族ぐるみの逃亡と等しく考えれば、 30%、 18%、 5.1%などの数値を得る。しかし、人 員の合計のなかで独身者の占める比率は、4.6% トロイツ修道院の場合)、 1% (タンポフ郡につ いてのノヴォセリスキー報告)とまことに低い。ブルイギン報告の30%にしても、 1家族をかり に4人と少なく見積って計算し直しても人月の合計のなかで独身者の占める比率は約10%にすぎ

ない(いま1家族4人としたが、トロイツ修道院の逃亡農民では平均4.9人、上のノヴォセリス キー報告から計算すると平均5.6人である)。それ放、逃亡者の大部分は、家族とともに逃亡して いた、と考えることが許されるであろう。

農民の逃亡が多くの場合、独身者‑個人でなく(独身の逃亡者から予想されるのは、妻子を捨 て、あるいは父母兄弟を捨てての家出人の形態である) 、一家をあげてであったことは、逃亡の 性格を考える上にも見落しできないと思う。バクラノワは、農民が逃亡に際して、荷車に家財道 具や穀物を積み込み、幼少年ときには成年の女子もこれに乗せて出発した事例をあげて、このよ うな「 《逃亡≫が《秘密裡に≫行なわれ得た筈はない」と述べている(5)逃亡が公然と行なわれた ことについては、原則としてわれわれも同意したいO バクラノワは、逃亡農民の家族がしばしば その息子や娘もそれぞれ結婚している大きな世帯であったこと、同じ部落や村の他の農民にも呼 びかけて集団での逃亡も稀でなかったことなどをあげて、それはまさに「移住」であった、とし ている(6)ノヴオセリスキーも、逃亡のなかに「植民」の性格を認めようとしている(7)たしかに、

南方辺境の防備は逃亡者にも依存せざるを得なかったし、国家もこの地方への逃亡者については 特別の措置をとったのである。バクラノワによれば、農民は逃亡を決行する前に予めどこに逃亡 するかを調査し、逃亡先きの当事者と耕地の割当てにいたるまで充分に話しをつけておいたとい う。われわれは、固有名詞をあげての具体例報告に接していないので、このような事前調査(逃 亡先きの主人からの勧誘もあったと思う)がどの程度に普及していたかについて、断定をさし控 えるが、後述するように同一郡内または近隣諸郡への逃亡が多かったことからすれば、バクラノ ワの見解を拒否できないように思う。

ジポ‑ート

逃亡の形態を考える上で重要な一つは、農民が家畜その他の「財産」を持って逃亡したことで あるが、これについては次章に逃亡農民の貧富の問題として論じたい。

一家をあげて全財産を持って逃亡した農民は、その出発に際して主家に暴力をもって報復し、

また逃亡後に旧主のやしきまたは所領を襲い、残っている他の農民を煽勤しもしくは連れ去るこ とも稀でなかった。このような農民の行動についてはスミルノワも注目しているが8)、リャザン郡 などについて多くの具体的事例を報告しているのは、ブルイギンである(9)。以下にそのいくつかを 示そう(1‑7はリャザン郡の逃亡農民についてである)。

(1)1650年にリャザン郡クラスノエ村の農民とホロープは、 「相談して」主人エシポフを殺害し 家族とともに全財産をもって南のコズロフ郡に逃亡した。 4年後、殺された主人の弟が勤務の ための不在中をねらって(この年に始まった対ポーランド戦争のための出征であろう)、そのう ち3名が仲間とともに同じクラスノエ村に押しよせ、主人の家を「丸太で埋め」、馬を奪い、「農 民をひとり残らず」連れ去った。

(2)1665年、領主カズナチェエフのポボウイチ部落から6戸の農民が逃亡、その後かれらのある 者は同部落に来襲して、主人のやしきを焼き、他の農民に逃亡を唆かした。

(3)領主スイナン兄弟が1653‑60年に勤務でポーランド、ドイツなどに転戦中、かれらの「農民

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VI

石戸 谷垂郎

が逃散した」が、再び押しよせて、他の農民を煽動して部落を略奪した。

(4)領主マザロフがリガに勤務中の1656年、 11戸の農民家族が集団でリャザン郡から南のタンポ フ郡に逃亡した(暴力報復のことはいわれていないが)0

(5)領主タロポトキンは、その訴状1660年)のなかで、 1654年と1659年とに計11人(11家族のこ とかどうかは不明)の農民が逃亡し、その後に「私の部落に来て、他の自分の兄弟を唆かして いる」と訴えている。

(6)領主べクレミシェフのもとから1655‑60年の間に計12家族の農民が南のコズロフ郡とタンポ

ルフりヤジ

フ郡に逃亡したが、かれらは逃亡に際して「家を略奪し、 ‑・馬とあらゆる道具を奪った」。

スターロスタ

(7)領主リャプノフのポロク部落から1658‑60年の間に、 「長老」なるイワン‑ジグノフと5人 の農民がタンボフ郡に逃亡、その後部落に来て他の農民とホロープを連れ去り、 「あらゆる暴 行を働いた」。

(8)トゥ‑ラ郡の領主フウォシチェンスキーは、 12戸の農民が1653年にかれのやしきを略奪しす

やっこ

べての穀物を焼き払って逃亡したことを訴えているが、その訴状のなかで、 「あなたの奴なる われわれは、その荒廃し略奪されたポメスチエ(封地)とウォチナ(世襲地)とであなた大君 主に奉公しています、 ‑そしてこのような略奪のために大きな負債を負いました」と述べてい る。 (これは、逃亡農民受け入れに対する処罰の強化と特別な捜査官派遣とを要望した1657年 の士族・下級士族の集団嘆願書にいわれていることと似ている(10)。)

(9)ノヴゴロド郡の領主‑寡婦なるフリブノワの所領から、 1659年に33人の農民と27人のホロー プが逃亡、その際すべての「道具」と馬を奪い、やしさと納屋の扉や窓を破壊した。

(10南部ロシアのエレツ郡の領主チュレインのもとから1664年に逃亡した5人兄弟の農民は、逃 亡に当たって主人チュレインを殺害し、その妻に暴行し、 4頭の馬、 20ルーブリの金銭、およ び土地台帳抄本や各種の証文の入った手箱2個を奪い去った。

これらの事例は、農民の逃亡がたんに家族ぐるみで公然と行なわれたのみでなく、ときには集 団で略奪のうえ逃亡し、小規模ながら暴動・蜂起の性格をもっていたことあるを思わせる。さら にまた注目すべきは、いったん逃亡した農民がその後に再び旧主のもとに来襲して略奪しあるい は残っている農民を煽動したり連れ去ったりしていることである1657年の士族らの嘆願書は、

逃亡に際しての農民の暴力を訴えるとともに、この再度の来襲による損害(むしろ恐怖というべ きか)を強調していて、士族らがかれらを追捕しようとすると「弓と銃砲」でこれに抵抗する、

と述べている(ll)。勝手知ったる旧主の所領に、まさに充分な準備と計画のもとに来襲していること が想像されるのである。かれらのなかには群盗化したものもあった。例えば、ノヴオセリスキー の報告によれば、 1665年にリャザン郡から逃亡した6戸の農民はその後一定の地に住みつかず、

逮捕されるまで各地を「移り廻って」放火・略奪をこととしていた(1功oLかし、またなかには逃亡 先きの新主人と結んで旧主の所領に来襲したこともあったであろう。その確証をつかんでいない が、逃亡先きの主人あるいは農民たちが逃亡農民を逮捕からまもるために、捜査官や旧主に激し

く抵抗した事例は伝えられている。例えば、

(ll)17世紀60年代に、捜査官エロープキンは、カシラ郡の領主グビンからの逃亡農民と逃亡ホロ ープ計15人がタンポフ郡にいることをつきとめ、かれらを旧主グビンに引き渡す裁定を下した。

旧主グビンの配下の者がその受け取りのためにタンボフ郡に赴いたところ、逃亡さきの村の長 老や農民たちは、このグビン配下の者を逆に捕えて殺害し、その武器と衣服を奪ってしまった(13)。

12同じ60年代に捜査官ザポロッキーは、リャサンの領主コロビインのもとから逃亡した農民オ

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プリースタ7

フロシムを捕えるため執行官を派遣した。そして執行官はようやく3度めに本人を逮捕・連行 することに成功した。しかし、かれオフロシムの妻と妹が渡されなかったので、捜査官ザポロ ッキーは、 4度めに10人の銃兵を添えて執行官をつかわしたO このとき逃亡先きの主人とその

キスチエ・‑亡ニ̲

農民たちは、オフロシムの家族を渡すまいと抵抗し、執行官は「鉄錘」で打たれて頬に怪我を し、銃兵のひとりは頭をはねられて死亡したO この件についてポメスチェ庁に報告した捜査官 は、 「強力な反抗者」のもとにいる逃亡農民の逮捕が容易でないことに言及しているM (1317世紀前半でも同様なことがあった。 20年代にトロイツ‑セルギエフ修道院は、自領からの

逃亡農民の引き渡しを要求して、逃亡先きの領主フェド‑トエロバーチンのもとに院の責任者 と院の農民たちを派遣した。院は、逃亡農民5家族がそこにいると主張していたのである。こ の交渉は決裂して両者の武力衝突になり、領主フェド‑トはトロイツの農民に弓で怪我をさせ

トロイツの馬2頭を死なせている。このあと修道院の主張する農民の1人を返し、馬2頭の弁 償などをしているが、領主フェド‑トはその他の逃亡農民は自分のもとにいない、と主張して

いる。最後の結末は伝えられていない(19。

逃亡農民の引き渡しについて、一般的には逃亡先きの主人は捜査官に協力的であったと思う。

武装兵力を伴っての捜査とはいえ、捜査官が多数の逃亡農民を捕えてかれらを旧主に引き渡して いることが、これを示している。しかし、なかには上掲のようなケースもあったのである。

要するに、農民逃亡の形態としては、多くの場合家族ぐるみで公然と逃亡し、しだしぼ集団で 逃亡し、また略奪をした上で逃亡することも稀でなかった。公然たる家族ぐるみでの「逃亡」は むしろ「引越し」であり「移住」でもあった。農民は当然すべての財産を持って逃亡したのであ る。旧主のもとでのかれらの役割・地位、持って行った財産の内容は、農民の逃亡が貧しさと生 活苦のみに由来したのではないことを思わせる。章を改めて検討しよう。

2.逃亡農民の貧富と逃亡原因としての貧しさ

農民が逃亡時点でどのような経済状態にあったかという問題と、逃亡先きで逮捕時点までに農 民経済をどのように確立し得ていたかという問題とは、逃亡のとき財産とくに家畜を連れて行く ので相互に関係はあるが、貧農も逃亡先きで主人の援助の下に安定した農民生活をきづく可能性

もあるため、この二つの問題はいちおう切り離して考えてみる必要がある。逃亡時点での経済状 態については、旧主が訴状のなかで逃亡者が何を持って逃げたかを列挙しているところから知ら れ、他方、逮捕時点での財産については、逃亡後に増加した財産も含めてすべてを旧主に引き渡 す必要のために、捜査官が個々の逃亡農民に現有財産を問いただした記録によってこれを知るこ とができるのである。本章で考察するのは、二つの問題のうち、前者つまり逃亡時点での農民財 産と富の程度である。

1649年法典第11章は、逃亡農民を旧主に引き渡すときについてその妻子のみならず「すべての

ジウオ‑ト

農民財産とともに」と定めている(第      7・31の諸条)。国租負担者としての農民と、

その納税に責任をもった地主のことを考えれば、これは当然の処置であるが、いうところの「農

スノ‑ス

民財産」のなかには、逃亡時点におけるいわゆる「持逃げ」も含まれていた。 「持逃げ」につい

ては法典第20章「ホロープについての裁判」に多くの規定があるのに、第11章ではその第14条に

女農民の持逃げを裁判できめる、とあるにすぎない。しかし、逃亡農民の持逃げがつねに問題に

されたこと、すべての財産のなかにこれも含まれていたことは、その第26条からも明らかである。

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SE 石戸 谷重郎

すなわち、同条は、被告(逃亡先きの主人)がその農民について「財産なしで来た」と述べ、原 普(旧主)が被告のもとに「財産をもって来た」と主張し、しかも原告が自分の逃亡農民のもと にどれだけのいかなる財産があったかを、またその価格を、訴状に記していないときについて、

被告が5ルーブリ支払うべきことを定めている.これで考えると、旧主が逃亡農民連れ戻しのた めの訴状を出すとき、その持逃げ財産をも列記して逃亡先きの主人に請求するのが普通であった のである。持逃げは逃亡ホロープにもあり、これはヤコブレフによって研究されているが、その 際ヤコブレフは、なかに逃亡農民の持逃げの事例を一つ加えている。それは、次のような内容の

ものである。

スターロスタ

(1)1628年にコロムナ郡の領主ココシキンのもとより逃亡した農民イワシカは、村の「長老」で

ポメストナヤ‑グラ‑モタ

あったo 逃亡のとき、かれイワシ刺ま、主人の封地受領文書のほか、農民から集めた23ルーブ リと、領主の名で農民に貸与すべき援助金8ルーブリとを持ち去ったO 後にかれは、カシラで 捕えられ、妻子とともに「知事の執行官」によって旧主ココシキンに引き渡されている。

史料は、農民イワシカがカシラ市民なるラリヤに唆かされた、と伝えている(1)

この場合、逃亡農民イワシカが一介の農民でなくて、村の長老であったことに注目したい。長 老とは、年令に関係なく、経済的に農民の上層部に属していた者が、いわば村の世話役をしてい たときの呼称である。上には、かれが家畜などを持逃げしたことがいわれていないが、それは最 初から都市をめざして逃亡したからで、村における農民としてのイワシカには家畜もあり、当時 としては安定した農かな生活を送っていたであろう。農民‑長老の逃亡は、富裕な農民もまた逃 亡した、という事実を示している。この種の事例をとくに17世紀前半についてもっと多く集めて 逃亡農民のなかに「最も貧しい者を兄いだきない」と、いわば富農逃亡論を主張したのがノヴォ セ1)スキーであるo やや極端に過ぎるように思われたが、逃亡農民がどのような社会的地位にあ ったかをも知り得るので、ノヴォセリスキーによって検出された具体例のなかから若干をあげて みよう(2)。

2)1631年にベレフ郡の領主ムロムツェフのもとから家族とともに逃亡した農民エフェトラート

こ、K‑'l一・i

‑ワシリエフは、部落の長老であった。かれは、 「集めた」金、多数の穀物、および家畜を持 逃げした。旧主ムロムツェフは、家畜についてその種類と頭数、代価を訴状のなかで列挙して

いる:馬4 (それぞれ、 5, 3, 2, 1.5ルーブリ)、雌牛2(2.5ルーブリ)、綿羊10、豚150 (3)1629年にアレクシナ郡から娘とともに逃亡した農民ゴルデイは、長老であったが、自分の財 産としての馬3、雌牛などのほかに、農民が納めた「オブローク20ルーブり」を持ち去った.

(4)1633年にデディロ郡から家族とともに逃亡した農民ユデインは、村の「宣誓者」であった。

かれは、自分の財産のほかに同じく農民の「オブローク30ルーブリ」を持って逃亡したO (5)30年代にコズロフ郡の領主カズナチェエフのもとから逃亡した農民イサエフは、長老にして 宣誓者であった。かれは、自分の財産のみならず、スモレンスクの戦場に出陣中の領主に送る べき穀物売却代金や農民が納付したオブロークなど計100ルーブリを持逃げした。

(61643年にリャザン郡から逃亡した農民‑長老なるプロエクトは、自分の家族を連れて、また もう1人の農民とその家族をも誘って逃亡したO 2人は、 20ルーブリに相当する財産のほか、

「耕地と牧場で徴集した20ルーブリ」をも持ち去った。

(7)1651年にテニシェフ僕のシャツク郡内所領から、長老なるイワノフを先頭とする農民5家族

が逃亡した。かれらは、僕の息子を「半殺し」にした上、自分たちの財産のほか僕の財産を奪

って逃亡したo僕は、かれらが持逃げした財産をその訴状のなかで、計350ルーブリと見積っ

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17世紀ロシア逃亡農民の社会経済史

arcs

これらの事例で注目されるのは、社会的にも経済的にも安定していた筈の長老や宣誓者が、領 主の信頼を裏切って、ときには自らイニシアティヴをとって逃亡していることである。ノヴォセ リスキーが「最も貧しい者」は逃亡しなかった、というとき、かれは長老‑農民のみに注目して いるのではなく、 25の事例について農民に分与されている耕地面積をも検討して、何れも豊かな あるいは普通の農民であったことを確かめているのである(3)しかし、貧農は逃亡しなかった、と いい切れるであろうか0 25の事例だけで一般化の根拠になるであろうか.ノヴォセリスキーの見 解はその後のソビエト史学に波紋を投げかけたのである。

まず、リャザン郡の逃亡農民を考察したブルイギンは、豊かな逃亡農民の事例として次のよう なケースをあげている(4)

(8)書記官職にあった領主ブレディヒンのもとから逃亡したある農民は、自分の財産であった馬 5、雌牛6、綿羊15、豚10を持逃げした。

(9)同じ領主から1661年に逃亡したもう1人の農民も全財産を持って逃げたが、かれには馬3、

雌牛4、綿羊10、豚5があったO

たしかにプルイギンはノヴォセリスキーの名をあげてその所説を支持している。しかし、よく 読んでみると、貧農に逃亡者なしという結論についてではなくて、富農にとっても農奴制は重荷 であったという部分についてのみである(5)。むしろブルイギンは、後述するように、貧困を逃亡の 原因の一つと見なし、その上で「貧農のみが逃亡したのではない。貧農とは考えられない長老が 逃亡した場合も知られているo」と述べており(6)、ノヴォセリスキーとは逆の立場をとっているの である。ザニチェワは、ノヴォセリスキーの結論について、家族ぐるみでの逃亡農民に限定して の考察から結果したものであると批判している(7)。女史も要するにノヴォセリスキーには反対なの であるが、一家をあげての逃亡者は貧農でなかった、ということを前提としての批判であり、必 らずLもその論拠が妥当であるとはいえないであろう。ノボォセリスキーの結論に貴も明白に異 論を唱えているのは、スミルノワであって、女史は17世紀50‑60年代の捜査官プレシチェエフの 訊問記録から次のような集計を出している。すなわち、逃亡以前に自分の経済を持っていなかっ た者24%、 1 ‑ 2頭の馬と雌牛を持っていた中流農家が62%、そして富裕な農家は約13%に過ぎ ない、というのである(8)捜査官プレシチェェフに訊問された849人の逃亡者がどの程度に逃亡時 点での(逮捕時点てなくて)自分の経済について正確に答え、またそれが記録されたか、また1 頭の馬を持つ農家を中流としてよいかなど、問題はのこるが、逃亡者の24%は自分の経済を持た ず、富農は13%のみという数字を示してのノヴォセリスキー反対という意味で、スミルノワの批 判は注目に価するであろう。最近刊行されたノヴォセリスキー記念論文集の冒頭にその一連の業 績を紹介し高く評価しているパヴレンコでさえも、逃亡農民のなかに「最も貧しい者」がいない というノヴォセリスキーの結論については、 「もっと広範な資料によって再検討の要あり」と、

批判的立場をとっている(9)

ノヴォセリスキーの結論は、これをそのまま受け入れることはできないと思う。かれの学問的

寄与は、むしろ富農(近代的意味でのそれでなく)もまた逃亡したことを明るみに出したことに

ある。そもそも農民逃亡の原因は何なのか。貧しさあるいは生活苦は、逃亡の原因としてどのよ

うな役割を果たしたのか。これについては、 17世紀後半の史料を検討してきたソビエト史学から

も総括的な議論をきくことができない。しかし、かれらの多くは何らかの形でこれに言及してい

るので、その主なものを整理して今後に備えたいと思う。

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46 石戸 谷重郎

オブラスツオフは、北方のアントニエフ‑シイスキー修道院領からの逃亡農民について、 1678 年の登録台帳から、逃亡の原因の一つを兄いだそうとしている(io)。例えば、院領の一つドルガヤ‑

ttaxi‑ ¥SEm

シチェリ村の「空き家」について、台帳の作成者は次のように記している: 「それらの9戸の空 き家から居住者は去る184年と185年に(1675‑77年、引用者) 、穀物不足のためヴォルガ上流の都 市に立ち去ったo」まさに凶作が逃亡の原因とされているのであるo Lかし、オプラスツオフはこ れ以上に逃亡の原因を追究しようとしていない。逃亡の原因が捜査官の訊問に対する逃亡農民の 陳述のなかに語られているかもしれない、という立場から捜査官史料を読み直したブルイギンと バクラノワは、ともにその原因はほとんど語られていない、と結論を留保しながらも、稀に兄い だされる事例をあげている。ブルイギンは、漠然と「農民身分からのがれたかった」という理由 で逃亡した場合、具体的に領主の名をあげて「かれの農民であることがいやになった」という場 合、さらにはまさに「貧しさのために逃亡した」と語っている場合などを、捜査官史料から検出 している(ll)しかし、プレイギンは、対ポーランド戦争による重税と領主の出征・不在、 1649年法 典による自由の完全な剥奪(ウローチヌイユニゴードゥイの廃止)への反抗なども逃亡の原因に 数え上げている(1功。バクラノワも捜査官史料から「不作のために」逃亡したという事例を指摘して いるが、女史の立場はどちらかといえば、農民は計画的に逃亡した、公然たる逃亡は移住であっ た、という点を強調していて(既述)、貧しさのための逃亡を過大評価していないのである(13)。ひ としく捜査官史料といっても60年代でなくて90年代のそれを検討し、かついちおうの集計を示し ているのがザニチェワである 480人の逃亡農民について逃亡の原因を女史は次のように区分し ている:結婚のため97人、狐児42人、父または夫が逃亡したため23人、領主の死後に33人、煽動 されて36人、凶作27人、不明178人。これによると、凶作、孤児、父・夫の逃亡など生活苦に結 びつけられるものが少なくない。この数字からしても、ザニチェワがノヴォセリスキー一に批判的 であることが理解されるが、女史は貧農の逃亡あるいは生活苦からの逃亡をとくに強調している のではない。逃亡が「農民移転の慣習」によること、 「農民生活の通常の現象」であったことを 述べるとともに、凶作、戦争、社会的闘争および女史が考察の対象としたタンポフ・コズロ72 郡での勤務人募集をも逃亡の原因に数えている(IS

農民逃亡の原因は今後の究明に待たなければならないであろう。 「最も貧しい者」は逃亡しな かった、というノヴォセ1)スキーの結論は極端にすぎると思う。しかしまた、富める農民も逃亡 したことは疑を容れぬ事実である。逃亡が「慣習」であり、 「通常の現象」であった、というザ ニチェワの発言のなかに、案外真実が秘められているのかも知れない。富農もまた逃亡したとい う事実のなかに、逃亡を罪としない考え方が見られるようにさえ思われるのである。法は、農民 が「逃亡した」という。しかし、農民は自らを「立ち去った」というのが普通であったことにも 注目すべきであろう(lゅo

3.逃亡農民の農民としての定着とその経済

逃亡農民のすべてがその後に逃亡先きで農民として定着したわけではない。勤務人になったり 雇傭労働で流浪の生活をつづける者もあった。しかし、かなりの数の者は何らかの形で再び農民

としての生活に入っていった。このことは1649年法典第11章の規定にも反映していて、同章は逃 亡先きの主人から逃亡農民を旧主に引き渡すに当って「すべての農民財産とともに」といってお

り、これが「持逃げ」の財産を含むことは前章に見た通りであるが、同時にまたもっと具体的に

(10)

「地上の穀物および脱穀された穀物とともに」といっていることもある(第3 ‑ 7 ‑31条)。これは、

逃亡先きで農民として定着していることを前提としての規定にはかならない。逃亡先きの主人が かれらを受け入れたのも、まさに農民としての定着・更生を期待したからである。捜査官が逃亡 農民に対してその財産を詳しく訊問Lかつそれを記録にとどめているのは、法典にいう「すべて の農民財産とともに」旧主に引き渡すためであった。ただし、どこまでが持逃げ財産であったか は明らかにされない。無一物で逃亡先きに到着し、無一物から新主人の援助のもとに農民財産を 持つにいたった場合でも、 「すべての農民財産」が逃亡農民とその家族とともに旧主に引き渡さ されたために、捜査官は逮捕時点における財産に関心を集中したのであろう。逃亡先きでの農民 としての定着・更生に持逃げ財産(とくに家畜)が大きな役割を果たしたことが考えられるので あるが、逮捕時点での経済にそれが果たしてきた役割も明らかにできない。このような条件を付 してではあるが、まず具体的事例を示そう。

(1)農民オンフイム‑クラソチンの場合。アント二エフ‑シイスキー修道院領からプリルツカヤ

ネチエーI)

郷(黒土共同体)に逃亡していたが、捕えられたときのかれの財産:馬1、雌牛2、若い雌牛

プイチヨ‑ク      コサ‑  セルプ       スコベ‑り

2、若い雄牛2、斧1、大鎌1、鎌3、革紐つきの古い撃1、荒削り用の鈍2、脱穀された予

ヤチノニ

備の穀物'・裸麦1チェトベルチ(1チェトベルチは約210iトソトル)、大麦4.5チェトベルチ、播 種されている穀物:裸麦1オシミナ(1オシミナは約105リットル)、大麦1チェトベルチと1オ

オシミナ(1)

(2)農民パ‑ヴェル‑マイコフの場合。上と同じ修道院領から同じプリルツカヤ郷に逃亡、逮捕

オフツア  i/エルノワ

時のかれの財産:馬1、雌牛2、若い雄牛2、綿羊1、挽臼1、斧1、大鎌1、鎌2、革紐つ の古い翠1、脱穀された予備の穀物なし、播種されている穀物:裸麦3チェトベルナ、大麦1 チエトベルチと半オシミナ(2)

これら2人の農民は、馬1頭のみであり、穀物も少ない。北方辺境における農業事情の反映で あろうか。これに対して、中・南部では勿論貧農もいたが、中農・富農もいたo 上の1X2と異な って、捜査官史料は農民の経歴も付記しているので、その事例をあげよう。

(3)農民コンスタンチン‑ドルゴイの場合。かれの父は、以前「ムルザ」(タタール人小貴族)なる領 主ムストロフィンのもとに住んでいたが、 「立ち去って」‑シェゴロド郡バトラス村(貴族H.M.

オドエフスキーの所領)に来た。そのあとを継いだコンスタンチンが逃亡農民として捕えられ たとき、かれには妻と3人の子があり、その財産は次の通りであった:馬2、雌牛3、綿羊10、

ヤグネノク チエリヤタ     ポロシヤタ       オビヨス

子羊10、子牛4、豚12、子豚10、および穀物:裸麦5チェトベルチ、燕麦5チェトベルチ、播

7Bシエニツア

種されている穀物:裸麦5チェトベルチと1オシミナ、小麦2チェトベルチ、燕麦3チェトベ

リナ        ゴロ‑フ

ルチと1オシミナ、大麦1チェトベルチ、麻1オシミナ、えんどう豆1オシミナ‑。なお、コ ンスタンチンの兄弟1人も同じバトラス村で、馬2頭をもつ農民として定着している(3)。

(4)農民フォマ‑デニソフ(通称ザプラチン)の場合。この農民は、ス‑ズダリ郡の領主ヤコブ レフの所領から同じ領主のモスクワ近くの部落に移され、領主の死後逃亡して、逮捕より10年 前にニジェゴロド郡の領主コスルコフのもとに住みついた。10年の間に娘も結婚させている。捕 えられたときのかれの財産は:馬6、雌牛11、綿羊14、豚10、脱穀された各種の穀物計30チ ェトベルチ、播種されている裸麦‑、その他に:鶏30、屠殺して内臓を除いた豚5、大麻の種

1オシミナ、えんどう豆1チェトベルチ、燕麦の種‑・(4)

この(3X4)の事例は、ニジェゴロド郡に定着した逃亡農民がどのような経済を確立するにいたっ

たかを示している(3)では馬2頭、(4)では馬6頭で、それぞれ当時の中農と富農の経済を示してい

(11)

48 石戸 谷重郎

ると思われるが、ニジェゴロド郡の逃亡農民を全体として考察したバクラノワは、要論として次 のように述べている(5)すなわち、(め)馬は最もしばしば「労役の馬」と呼ばれ、最も重要な家畜で その所有数に他の種類の家畜の数がほぼ比例している、 (い)馬6頭を越える場合はない、 (う)馬のほ かに雌牛、子馬、子牛を持っているのが普通である、 (え)小家畜としては綿羊が最も多く、ついで 豚が多く、山羊は稀である、 (お)当然あげらるべき翠、大鎌、鎌、斧などの農具が財産として記録 されていか、こともある一上の(3X4)がこれである‑、 (か)稀にではあるが、食器、木製の家具、長 靴、衣類が財産としてあげられることもある(3)(4)および(め)〜(加の品目を見ると、金銭は別 として、ノヴォセリスキーが逃亡農民の持逃げ財産として列挙している品目にほぼ共通している ことが知られる(6)かれらは、農民としての生活に不可欠なものであったのである。農民一般の生 活における家畜所有数やその他の財産は、特別のことがなければ記録にのこされない。逃亡農民 が農民として定着しているときは、さきに述べたような事情で、詳細かつ具体的に捜査官史料に とどめられた。その意味では、逃亡先きにおけるこれらの農民の経済が逆に農民一般の経済のあ

り方を示している、ということもできるであろう。

ところで既述のように、逃亡先きでの経済に持逃げ財産が個々の場合にどのように影響したか は、これを明らかにすることができない。しかし、無一物で到来した逃亡農民に対しても、かれ らを受け入れた新主人がかれらの経済確立に協力したのは当然であって、ときに「空き家」を提

スス‑ドナヤ‑グラーモタ

供し、ときにはまたいわゆる「援助契約書」を交わした。この文書の内容の1例を示そうo (51642年にスモレンスク郡からリャザン郡の領主コビヤコフのもとに逃亡してきた農民ポノマ

レフは、この領主との間に契約を結んだ。これによれば、(ア)領主コビヤコ7は農民ポノマレフに

ススーダ       ニ・‑ワ

「援助」の物資として、馬1、雌牛1、綿羊2、豚2、裸麦2チェトベルチ、裸麦2畑、燕麦 1畑、計10ルーブリ相当のものを与える、 (イ)これに対してポノマレフは、移転の勅令あるまで 他に移らない(当時の農民はいつか移転の禁止が解かれると期待していた、あるいは思いこまされて

ザクラードニク

いた)、有力な領主に託身者として身をゆだねることをしない、貢粗を支払う、違約のときは倍 額(つまり20ルーブリ)を支払うことを約束している(7)

この種の契約によって、領主は自分のもとに農民を緊縛することができた1649年法典以前の 士族らの嘆願書は、士族らから逃亡した農民が「有力な人々」のもとで「援助契約書」を結び、

ために自分の逃亡農民を探し出しても連れ戻しができない、と皇帝に訴えている(8)法典第11章は 他人の逃亡農民と援助契約を結ぶことを禁止した(第23条。 17‑牡紀後半についてもわれわれは多数 の援助契約書を読むことができる(9)馬、牛、穀物、あるいはこれらの購入資金を領主から受領し て、領主のもとに「農民身分」において住みつくことを約している者たちは、多くの場合自らの 経歴についてはたとえ記してあってもきわめて簡単であり、ときには自ら「自由人」と称するの みであるo かれらのなかにかなりの逃亡農民がいたのではなかろうかO 何れにせよ、無一物で到 来した逃亡農民を受け入れた領主が、かれらに農民として定着する途を歩ませようとしたことは 当時の労働力不足の情勢から考えて、まず疑を容れないであろう。

さて、逃亡農民が農民として定着した場合の経済について馬の所有数を中心に考えておきたしも ブルイギンは、 60年代にリャザン郡で捕えられた逃亡農民のうち、逮捕時点での経済が知られる 112の家族について、次のような集計を報告している(10)。

馬を持たない・‑‑12.5%

馬1頭・‑‑‑・‑‑ 22.5 ( 1家族の平均人員‑ 4.82人)

(12)

49

馬2‑3頭‑‑‑‑48.8% ( 同  上  ‑5‑6人) 馬4頭以上‑‑‑17 % ( 同  上  ‑7 人)

合計して100%を越えるなどやや粗雑な集計ではあるが、プルイギンが「より豊かな経済はよ り多くの家族構成員を持っていた」ことをいおうとしていることは納得できる。これをもっと精 密な集計によって示したのがザニチェワである。ザニチェワは、 1664‑65年に捜査官プレシナェ

フによってシャツク郡で捕えられ訊問された81人の農民とその家族について、馬の所有数と家族 の人員数との関係を、次のように集計している(IB

家 族 の 人 月 (女 l 子 どもを含む ) 馬 な し 馬 1 頭 馬 2 頭 馬 3 頭 馬 4 頭 馬 5 頭 馬 6 頭 汁 %

1 I 4 人 の 家 族 2 2 1 2 4 1 5 0 .6

5 ー 7 人 の 家 族 10 1 0 2 8 3 4 .6

8 ‑ 1 0 人 の 家 族 2 1 6 1 < ウ) 1 0 1 2 .3

1 1 人 以 上 の 家 族 1 (ア) ̲ 1 <イ) ‑ 2 2 .5

計 2 9 (あ> 24 <う' 2 1 < う' 3 2 1 1 8 1 1 0 0

% 3 5 .8 2 9 .7 2 5 .9 3 .7 2 .5 1 .2 1 .2 1 0 0

この集計によれば、馬なしと馬1頭の農民家族53のうち、 34家族つまり64%は1‑4人の小人数 家族である。また、馬2‑3頭の家族24のなかでは1‑4人の小人数家族は5家族つまり21%を 占めるにすぎない。この1‑4人の小人数家族に焦点をあててみると、その計41家族のうち34家族 つまり83%は、馬を持たないかまたは1頭のみである。他方、 8人以上の大家族計12のうちにも 馬なしあるいは1頭のみの家族が4戸あるが、 53戸のなかでは7.6%を占めるにすぎなしヽ かく してこの集計もまた、ザニチェワのことばをかりていえば「農民戸の富が働き手の数に依存する という定説」を確認させるのである0カo

上の表のうち(ア)(イ)(ウ)については、ザニチェワはもっと詳しい報告をしている(13)。

(ア)大家族でありながらわずか馬1頭というのは、まさに例外である。この家族は18人から成り 家畜は馬1、雌牛1、綿羊3、豚3にすぎず、家族人月を考えれば文字通り貧農である。捜査

コルミールシヤ

官の訊問にこの家族の長が答えたところによれば、シャック郡内で長い間「労働で食べていたJ というから、財産なしで流浪をつづけ、定着して間もないことが、この例外的現象となったの であろう。

(イ)まず標準に近い富農である。 11人の家で、家畜は馬5、子馬2、雌牛1、綿羊20、豚6であ る。雌牛の数が標準より少ない。

(ウ)逃亡農民の典型的富農といえるであろうo これは、農民ドミトリー‑カルポフとその家族で 9人から成り、次のような財産が捜査官史料に記録されている:馬6、雌牛3、綿羊10、豚10

グレチー‑         コフナー

そば荷車20台分、小麦30山、えんどう豆1オシミナ、麻の種12チェ‑チ、火酒の容器、筒のつ いた大釜、挽臼.ザニチェワもいう通り、カルポフは火酒醸造を営んでいたのであるO(なお、

ニジェゴロド郡のオドエフスキー俣所領に定着していた逃亡農民の1人は、クワス醸造を営み 毎年160ルーブ))を伐に納めていたM )

われわれは、さきにバクラノワがニジェゴロド郡の逃亡農民について馬の所有数が他の家畜の

所有数をほぼ決定すると見ていることにふれたが、いまシャツク郡の逃亡農民の経済についても

(13)

50 石戸 谷重郎

ザニチェワは同じ結論を導き出している。さきの表の(あMう)についていえば、次のごとくである000 (あ)馬を持たない29戸のうち、雌牛なしが26戸、綿羊なしが27戸、豚なしが28戸O

(h)馬1頭の24戸のうち、雌牛なしが11戸、雌牛1頭が10戸、綿羊・豚なしが10戸、綿羊・豚1

‑3匹が9戸。

(う)馬2頭の21戸のうち、雌牛なしはわずか3戸、雌牛1頭が4戸、雌牛2頭が9戸。

馬の所有数と他の家畜の数とがはぼ比例する、という現象は、 17世紀90年代のシャツク郡の逃 亡農民の経済についても見られる。ザニチェワはこれについて捜査官イスポフによる訊問の記録 を利用している。いま、このことを割愛して、同じシャツク郡で逮捕された逃亡農民の経済が、

60年代と90年代とで変っているかどうかについてのみ、ザニチェワ報告から考えておきたい00.

まず、馬の所有数については、次の通りである。

馬なしの農家 馬1頭の農家 馬2‑3頭の農家 馬4頭以上の農家   計 1660年代 29戸(35.8%) 24戸(29.7%) 24戸(29.7%)  戸 4.9%  81戸(100%

1690年代 20戸(32.3% 18戸(29 %) 18戸(29      戸 9.7%  62戸(100%) これで見ると、貧農・中農・富農の比率はほとんど変っていない、といえる。次に、二つの年 代の81戸と62戸のうち、主要を4種の家畜のそれぞれについてこれを全く持っていない農家の数

を見れば、次のようになる。

馬なしの農家 雌牛なしの農家 綿羊なしの農家 豚なしの農家 1660年代 29戸(35.8%  41戸(50.6%) 38戸(46.9%) 44戸(54.3%) 1690年代 20戸(32.3%) 22戸(35.5%) 24戸(38.7%) 29戸(46.8%)

つまり、全体としてこれら4種の家畜のそれぞれを全く持っていない農家の数がわずかながら 減少していることが知られる。逃亡農民の経済の最低のレベルが少し上った、ということになる。

とくに、馬に次いで重要な(農耕を度外視すれば馬より重要ともいえる)雌牛を全く持たない農 家の数が、上の集計では減少がめだっている。これに応ずるがごとく、上には示さなかったが、

雌牛1頭の農家の戸数は、 1660年代の16戸(19.8%)から1690年代の28戸(45.2%)と、その比 率において増加が著しいのである。かといって、シャツク郡における逃亡農民の経済を高く評価 はできないと思うO 同t60年代のリャザン郡における馬の所有状況(既述)とシャツク郡とを比 較されたい。馬なしの農家がリャザン郡の12.5%に対し、シャツク郡では35.8%、馬4頭以上の 農家がリャザン郡で17%であるのにシャツク郡ではわずか4.9% (90年代でもようやく 9.7%) にすぎないのである。馬を持たない農家は、厳密な意味では農家といえないであろう。バクラノ ワもこのような農民は一定の場所に落ちつかなか.ったと見ている(Iの.それはまさに流浪民と紙一重で であり、シャツク郡の逃亡農民に経済の不安定な者が多いのは、流民化している者が多いことを 示すものではなかろうか。それはシャツク郡のみならず、南部辺境を特色づけるものかもしれな

い。この間題を次章の課題としたい。

4.逃亡農民の溝泊・流浪

逃亡農民が一つの場所に定着しない理由の一つに、つねに旧主や官憲の追及からのがれようと

していたことが考えられる。捜査官がきたという知らせだけでタンポフ郡の逃亡農民が浮足だっ

たことが伝えられているし(1)、ニジェ‑ノヴゴロド近郊で自分の家の納屋などに逃亡農民を住まわ

せていた住民たちは、逃亡者に追手が迫ってきたとき他の場所に移してやったという話もある(2)‑

(14)

もう少し具体的には次のような事例もある(3)‑

(1)1633年にコゼリスク郡の領主ソヴインのもとから全財産をもって逃亡した農民2家族は、エ レツ郡の下級士族のもとにいたが、旧主ソヴインに逃亡先きをつきとめられたため、急速そこ

ペレホジャー

を立ち去り、その後はさまざまな部落を「移り廻って」いた。

(2)1637年にエレツ郡の領主テインコフのもとから家族とともに逃亡した農民サフカは、翌年旧 主に探し出されたので、さらに逃亡してレベジャンスク郡の勤務人ストゥポフのもとにいた。

ここでも旧主追及の危機を感じたので、 1639年に家族を連れてエレツ郡の下級士族テレギンの もとに逃亡した。旧主ティンコフは、ここでもサフカをついに見つけ出し、グラーモタを得た がその結末は伝えられていない。

これら二つのケース、なかんずく(2)は旧主がいかに執物に逃亡農民を追求していたかを示して いる。 17世紀後半には、この執念に加えて捜査官制度が整備されたのである。既述のように、逃 亡先きの主人や農民たちは、逃亡農民をかくまってときには武力をもってでもかれらを捜査官に 手渡すまいとした。しかし、逃亡農民にしてみれば、つねに逮捕・連れ戻しの不安につきまとわ れていたことであろう。前章に見た馬数顕を持つ豊かな農民でさえも、結局は旧主のもとに連れ 戻されたことを見落すべきではなかろう。逃亡農民が何故転々とその居所を変えたかについては 旧主の追及のみにその原因を帰することはできないであろう。それは、そもそもの逃亡原因とも 深くかかわりあっていたと思われる。ついには逮捕された逃亡農民が、その陳述のなかでしばし ば用いている術語に上例(1)にもある「移り廻って」というのがある。

(3)1632年にトゥ‑ラ郡の領主カルポフのもとから逃亡した農民3家族は、 1636年に逮捕される まで「さまざまなポメシチタの間を移り廻って」いた(4)

41643年にリャザン郡の領主トゥルブニコフのもとから逃亡した農民1家族は、 1652年にドプ リンスク郡で逮捕されるまでの足かけ10年間、ウォロネジ、ウスマ二、レべジャンスクの諸郡 を、「移り廻って」いた(5)

「さまざまなポメシチタの間を」という表現をわれわれは、かのトロイツ‑セルギエフ修道院 の逃亡農民「引き渡し帳簿」にも兄いだす。農民として定着しようとする意志がどこまであった のか、何がかれらをそうさせたのか、もっと詳しく個々の事情が知られない限り、容易に把握で きない。ただ、ポメシチク自身農民労働力を求めていたことを想起すれば6)、かなりの場合自らの 意志で定着しなかったのではあるまいかo上の(3X4)は何れも家族づれで移り動いている。それが 独身者である場合には、いっそう身軽に行動したであろう。結婚によってようやく定着するにい たった、というケースも知られている(7)例えば、

51646年にドンコ7郡の領主フルシチョフのペレフウァリ村から逃亡した農民プルジニコフは コズロフ郡に来てさまざまな村を「移り廻りながら」生活していた。最後に同郡の下級士族モ ナヒンの娘と結婚して落ちつき、子らをもつにいたったが、 1664年に捜査官エロープキンに捕

えられ、法によって妻子とともに旧主フルシチョフに引き渡された0

(6)1655年にエレツ郡ポリリブレフスキー村から逃亡した農民は、 「労働で食べながら」次々と

「移り廻っていた」が、コズロフ郡のドゥホフ村で下級士族の寡婦と結婚して、ようやく定着 の生活に入った。しかし、かれもやがて捜査官エロープキンに捕えられたo

独身者にせよ家族づれにせよ、農民が逃亡後に漂泊・流浪をつづけているとき、かれらは何に

よって糊口をしのいでいたのであろうか。上の(5)はこれについて何も語らず、 (6)は「労働で」と

いう漠然たる語を用いているo その具体的内容を示している場合として次のような事例がある(8)

(15)

52 石戸 谷重郎

(7)1657年にゴロホヴェツ郡から逃亡した農民ロジオノフは、商人グリエフの河船労働者として 働いていた1664年にアストラ‑ンを立ち去るとき、かれはこの商人から14ループリを与えら れている。

(8)1653年にヤロスラフ郡からニジニ‑ノヴゴロドに逃亡してきた農民ウラジェフは、はじめ漁

ゴ‑スチ

船で労働し、後に大商人ショリンの船に乗組んでヴォルガ河を上下していた。

(9)ユリエフ郡から逃亡した農民テレンチエフは、沿ヴォルガ地方で労働していたが、さらにバラ フナに来てウチャニコフのもとでかれの精塩所で10週間働いた。かれの妻はバラフナから遠く ないニジニ‑ノヴゴロドでコズロフスキーなる者のやしきで奉公していた。

これら三つの事例は何れも沿ヴォルガ地方での労働である。もっと南の諸郡の逃亡農民の労働 については実に多種多様を労働が知られていて、漂泊の間に手工業を身につけて、かじ屋(これ が比較的に多い) 、大工、仕立屋などをしながら各地を廻ったり、刈入れ・脱穀・家畜見張りな どで農家の手伝いをしたり、製パンの手伝い、雑役一般などをしている。なかには「キリストの 名」にすがって乞食をしていた者もある0).

さて、逃亡農民のその後の運命のなかで、農民として定着した者はどれだけあったのか、各地 を「移り廻りながら」漂泊・流浪をつづけていた者は例外的であったのか、という問題は、簡単 には緒論を下せない。このほかに、とくに南部辺境の諸郡では、国策とも結びついて勤務人(コ サック、銃兵、砲手など)に登録される者もあった。この間題について、まずブルイギン所説に

注E]したいO

プルイギンは、リャザン郡で60年代に捕えられ、かつ逮捕時の情況・地立が知られる142人(家 族を含まない)について、次のような報告をしている(io)。

(あ)私領主のもとに明白に「農民として」定着している者は13人であるが、地位が明らかでな くても私領主のもとにいる48人は、家畜・穀物などを持っているので、まさに農民である。ま た同じく48人が結婚によって農民の戸に住んでいるが、これも農民になっていると見るべきで ある。つまりブルイギンによれば、 142人中109人までが再び農民として定着している。他方、

農奴制が比較的緩かなご料地に農民として住みついていた者はわずか4人である。勤務人にな った者も計9人にすぎない。漂泊・流浪を連想させる雇傍も2人にすぎない。リャザン郡にお ける逃亡農民の大部分は、農民としての生活に再び入っていた、ということになる。

(h)プルイギンは、しかしこれを一般化していない. 17世紀60年代にはすでに1)ヤザン郡は国 境警備の勤務人を必要としなくなっており、ご料地も少なく、この点で、もっと南のタンポ7、

コズロ72郡と情況が異なっていた、と見ている。

この2郡を含めて南部諸郡の逃亡農民について、たとえ部分的にせよ、数字を示して考察した のがザニチェワであるO 女史は独自の方法で、 60年代にシャツク郡(リヤザン郡より南)からさ らに南のタンボ7、コズロ7、下ロモ7、上ロモフの4郡に逃亡していた648人の農民について かれらが逃亡先でどのような生活・仕事をしていたかを分類し集計している(18。各部の間に若干の 相違があるがこれを略して、これら逃亡農民の4郡での合計のみを示せば、その逃亡先きは次の

ごとくである:勤務人になった者241人(37.2%)、領主のもとに79人(12.2%上「移り廻って労働

で食べていた」117人18.1%)、ご料地村に64人 9.9%)、他人の戸に「ソセ‑ド」として寄生し

ていた者70人10.8%)、修道院領に6人 0.9%)、修道僧1人 0.1%)、駁者7人( 1.1%)、不

明63人 9.7%。これを、もっと大きく分けて、やや詳しく見ると、

(16)

(ア)農民として定着した者は、計149人(24%)。これは、ブルイギンがリャザン郡での逃亡農民 について142人中109人(77%)と算出したのと大きくちがっている。

(イ)代りに勤務人になった者が37.2%で、リャザン郡の6%を圧倒的にひき離している。南部辺 境諸郡の特色がよく示されている。

(ウ)逃亡後も「移り廻って」いた者18.1%で、 I)ヤザン郡の1.4%をはるかに上廻っている。ブ ルイギンの利用した史料が何らかの事情で漂泊・流浪の者を浮び上らせなかったと考えても、

他方でウスチュゴフは、 17世紀70年代の北辺での漂泊者の比率を5.8%と算出している0功。南部 諸郡に漂泊者が多い、と考えてもよいであろう。

(ェ)この117人(18.1%)のうち、大部分はこれら4郡に逃亡してきてから2年以上を経ても依然 として、「歩き廻っていた」漂泊・流浪者である。 5年以上で区切っても過半数の68名がこれに 当たるo すなわち、 10年以上18人、 5‑9年50人、 2‑4年27人、 1年以上2年未満27人、そ

して1年未満はわずか13人である。

(オ)字義的には「隣人」を意味した「ソセ‑ド」なる者が眼につく。独立した戸に住んでいなか ったことが知られていても、その実態は今後の究明に待たねばならない。コレナェンコワは、

17世紀40‑60年代の中央部ヤロスラヴリ郡のソセ‑ドについて、各種手工業や雑役に従事した 都市の最下層貧民と見ている(13)。農民が逃亡して都市に流れた場合も当然予想されるので、南部 諸郡では、このサセ‑ドとして住みついた者が多かったのではあるまいか。かれらは貧民の坐 活から足を洗うことができなかったようである。すなわち、 70人のソセ‑ドのうち、そこに落 ちこんでから1年末満というのは、わずか7人10%にすぎないのに、 5‑10年あるいはそれ 以上が35人(50%)もいるのであるuOo

このようにして、タンポ7、コズロ7、上・下ロモフの諸郡では、そこに逃亡した農民が農民 として安定した生活に入っている者が多くないことが知られる。しかし、やや北ではあるが、同 じ南部に属するシャツク郡には逃亡農民でありながら、富かな農民経済をきづいている者もある。

リャザン、ニジェ‑ゴロドについても同様である。

5.農民逃亡の方向

逃亡農民を社会経済史的に考察するとき、ぜひ論及しなければならない一つは、逃亡の方角で ある。これは二つに分けて考えられる。一つは、農民がいかなる領主から逃亡していかなる領主 のもとに身を寄せたか(勤務人になった場合、漂泊・流浪をつづけている場合を別として)とい う問題であり、もう一つは、地理的にどのような方角に向って流れたか、である。

1649年法典以前にウローチヌイユニゴードゥイの廃止などを要望して提出した度々の嘆願書の

なかで、士族と下級士族は、自分たちの農民が「有力な人々」、貴族、修道院領などに逃亡してい

る、と訴えてきる(1)グレコフも、これを強調して、貴族モロゾフのもとに多数の逃亡農民がか

くまわれていることを指摘している(2)このような立場からすれば、農民逃亡の方向は全体として

中小領主から大領主‑向っていたことになるo しかし、 1649‑50年にトロイツ‑セルギエフ修道

院にその逃亡農民が返されたときの「引き渡し帳簿」は、大領主である同修道院からも多数の農

民が逃亡していた事実を示すのみならず、同修道院から逃亡した農民の落着き先きとしては伐や

他の修道院よりは、中小領主である一般のポメシチクが圧倒的に多い事実をも示しているのであ

る(3)。つまり、ここではまさに大領主から中小領主へと農民は逃亡していて、マニコフはこの修道

(17)

54 石戸 谷重郎

院から中小領主への逃亡が17世紀はじめの20年間にも確認されることを報告している(4)この二つ の流れについてもう少し考えてみよう。

スミルノワは、 17世紀60年代にニジェゴロド郡など沿ヴォルガ中流で逃亡農民の捜査に当たっ た捜査官プレシナェエフの活動結果について、次のように報告しているョ.(あ)中小領主のポメス チエから大領主のウォナナに逃亡した農民は全体の50%、大きなポメスチエからの逃亡は約14%、

修道院領からの逃亡は約6%、ご料地と総主教領からの逃亡は約0.3%、 (い)逃亡者は巨大なウ ォチナとポメスチエにたくわえられた、例えば、 BM.モロゾフのもとに53人、 VIA.ヴォロトゥイ ンスキーのもとに34人の逃亡農民が見つけられている。同じ年代の同じ沿ヴォルガの逃亡農民を 考察したバクラノワも数字こそあげていないが、同じ見解をもっている。女史は、モロゾフ、オ

ドエフスキー、チェルカスキー、スレショ7、ヴォロテインス‑など当代一流の有力者の名を示 して、逃亡農民が、大領主のもとでは搾取が中小領主のもとでほどはさびしくないだろう、事が 起ったときは庇護してくれるだろうという期待のもとに、大領主のもとに逃亡していった、と見 ている(6)リャザン郡の逃亡農民に関心を集中したブルイギンは、やや異なった立場をとっていて (あ)基本的には農民は中小領主から逃亡した、しかし逃亡農民についての訴状はモロゾフ家や修 道院からも出されていて仝告訴者の30%を占める、 (い)この事実は、大領主のもとでの方が農民 には住みやすかったという従来の見解に矛盾する、 (う)モロゾフ家やリャザン稔主教などは、中 小領主と同様に、逃亡農民をめぐる争いにおいて、同時に原告ともなり被告ともなっている、と 述づている(7)この問題について従来の説に最も批判的なのは、マニコフであって、かれは上述の ようにトロイツ‑セルギエフ修道院からの逃亡農民が多く、かつかれらが大領主よりは中小領主 のもとにより多く逃亡している事実を重視するのみならず、貴族ヒトロヴォのもとから17世紀50‑

70年代に131人の農民(男性のみの数)が逃亡していること、中小領主が労働力ひき寄せに懸命 であったことなどを指摘している(8)。この問題は、各地方または各郡における大所領と中小所領の 比率も考慮されねばならず、われわれとしては、大領主のもとから中小領主のもと‑のみが農民 逃亡の方向ではなかった、この点でグレコフ所説に反省を要する、というにとどめておきたい。

さて、農民逃亡の地理的な範囲もしくは方向についてであるが、バクラノワはニジェゴロド郡

で捕えられた逃亡農民について、数字をあげてではないが、次のような傾向を指摘している(9)

同じ郡内の逃亡もかなりあるが、最も多いのは近隣の諸郡からで、ついで中央ロシア、北東ロシ

アからであり(北辺のカルゴポーリ、ホルモゴールイからもある)、西ロシアのスモレンスクと西

北ロシアのノヴゴロドからは稀、最も少ないのは南東ロシアのシンビルスクなどからである。つ

まり、近隣諸郡を別として、南から北への流れは殆んど認められないことになる。ニジェゴロド

郡をも含めてやや広い地域の沿ヴォルガ中流の逃亡農民について調査したスミルノワは、全体と

して中央ロシアと北東ロシアからの逃亡が多く、またオカ河とヴォルガ河との間の地域を動き遡

っている者が多いことを指摘した上で、一部について数字を示している(io)。すなわち、 849人の逃

亡農民のうち、259人はニジェゴロド郡から(これは同じ地域内ということになる)、コストロマ郡

から106人、ス‑ズダリ郡から37人、キネシェム郡から32人(この3郡は北東ロシアと見てよい)

などで、トゥ‑ラから南、アラトゥイ1)より東、モスクワより西から逃亡して来た農民は849人

中合わせても10人にすぎない。ここでも、北東ロシアから?流れおよび同一地域内での移動が認

められる。ザニチェワは、シャツク郡で捕えられた436人の逃亡農民について、同郡内の逃亡225

人、すぐ西北のリャザンから81人、同じくすぐ北のカシモフ郡33人などをあげた上で、やや離れ

ていてもテムニコフはシャツク郡よりは北であり、ムーロム、ウラジーミル、コロムナなどかな

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