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農業政策史概論:タンザニア農産品 生産者価格政策 1969/70から1979/80年

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はじめに

タンザニアの農業政策史は独立前、独立から1967年まで,アルーシャ宣言 から1971年まで、1971年から1975年まで,1975年の「村とウジャマー法」以 後の五期に区分される。前の三期の農業政策は、それぞれインプルーブメン トアプローチ、トランスフォーメーションアプローチ、ウジャマー政策と称 される。1971年以降、ウジャマー政策は前面作戦として強制移住も含めて展 開されるに到る。

本章は、本稿全体の背景を与えるものであると同時に、序章での枠組との 関連から言えば、生産量確保と農業・非農業の区別ではない農村政策として のウジャマー政策への経緯とその変遷、及びその影響としての国内消費向け 作物の市場算出高の低落を主に説明する。

農業政策史概論:タンザニア農産品 生産者価格政策 1969/70から1979/80年

中 島 章 子

福岡大学経済学部

(本稿は筆者の修士論文の第1章である。)

−139−

( 1 )

(2)

第一節 独立以前

(1)土地制度

タンガニーカ(1)において、大部分の土地はいわゆる伝統的所有、即ち共同 体所有であった。プランテーションは1880年代より開始されていたが、タン ザニアにおいてはそれが経済の支配的形態にはならず、また、その周辺地域 はプランテーションへ労働力のみならず、食糧を提供する役割を担っていた がために、完全に土地を手放した農業労働者が形成される事態も起こらな かった。一方、換金作物のアフリカ人による栽培が土地の集積、その私的所 有化、及び農業における労働雇用をもたらしていた。すでに1920年代に、キ リマンジャロ山麓のマチャメにおいては、栽培規模制限という形で土地集積 を防止する手段を講じており、南部ルブマ州ソンゲアのタバコ栽培において は、2%の生産者が70%以上を生産するという事態が生じており、換金作物 生産における労働の賃金雇用もすでに開始されていた(2)。植民地統治下にお ける不均等な経済発展及び、各々の地域が異なる役割を国民経済において 担っていたために、伝統的土地保有形態も部族間で、あるいは時代によって 大きく異っていた。例えばコーヒー栽培の進展していたブコバのハヤ族にお いては、土地の私的所有も、売買も、また賃借に対し地代を徴収することも 行われていた(3)。タンザニアの場合この部族毎、地域毎の人口密度の差、所 得格差、栽培される農作物の相違、換金作物栽培の進展の度合い、通信・交 通機関へのアクセスの差といった農村内、あるいは農業内の経済情況の差異 が大きかったことは、以後の経済政策を評価する上に留意されねばならない。

さて、植民地政府は、ケニアのマウマウの反乱や政府に対する不満への収 拾策として、また、人口圧力に対処し、所得水準を上昇させる手段として、

自給農業から商業的農業へ転換させる政策を推進することとなった。そして、

1955年の王立調査委員会の報告を受け、1958年には、土地の自由保有制を導

−140−

( 2 )

(3)

入する立法を制定する方向の政策発表を行った。背景には、伝統的土地保有 制の下では土地の経済的使用がなされず、土地の肥沃度は落ち、かつ効率的 な生産技術や生産形態の採用がされず、さらには大規模農業への転換を阻害 するという主張があり、それは国内的には進歩的農民の要求を代表していた。

と同時に、それはタンザニアを一次産品の供給源として位置づける植民地政 府の基本姿勢を反映していたとも言いうるであろう。

しかし、この立法は

TANU(Tanganyuka African National Union)の反対に

会い、成立せずに終る。反対の根拠は、土地の自由保有制は土地の集積を加 速化させ、一方で多くの小作人を生み、アフリカ人の間に対立を生ぜしめる という点にあった(4)。独立後の土地政策はこの

TANU

の立場を貫くものと なっている。

(2)農業政策

独立以前の農業政策の基本は、換金作物生産を奨励することであった。

1950年代は一次産品交易条件が改善した期間であり、そのブームに乗って進 歩的農民が輩出した。彼らは土地を集積し、新しい生産技術の導入も図った。

ところが、一方で、導入すべき適当な換金作物がなく、他地方へ労働力を提 供するに終止する地域もできてきた。このような換金作物生産に端を発する 地域格差、アフリカ人農民間の所得格差が拡大した時期の農業政策は改良ア プローチ(Improvement Approach)と呼称されるものであった。

この政策の目的は、所与の社会的・法的な伝統的制度の下でその制度を覆 すことなく、技術面から現行の生産方法の改善を試みる点にあった。そして、

手段としては、農業拡大オフィサーが個々の農民の生産点に派遣され技術指 導を行う方法が採られた(5)。この政策が効果をあげなかった理由としては、

農民が散村形態で居住していたために、農業拡大オフィサーが指導できる農 民数が限られたことが第一に挙げられる。また、改良アプローチから、農民

農業政策史概論(中島) −141−

( 3 )

(4)

が集落を形成している方が単位費用当りの政策効果は上昇するという評価が 下されたことは、次の入植村計画(Village Settlement Scheme)へ農業政策が 転換した根拠を与えるものであろう。同時に、この改良アプローチの評価か ら、伝統的制度の下ではなく、新しい環境の下での方が、新技術の採用が容 易なのではないかという結論も導かれた。

第二節 独立後アルーシャ宣言まで(1961〜1967)

(1)土地政策

上述の

TANU

の立場を貫き、1962年にはすでに自由保有地(フリーホール ド)として付与されていた土地を賃借地(リースホールド)に転換し、かつ 賃借期間を短縮するという土地保有制改革案が発表された。翌63年には自由 保有地を99年の賃借地とし、あらゆる私的保有を廃止する土地法が成立し、

次いで、1969年には賃借地を占取権(Right of Occupancy)に転換する法律が 63年の法律に代替する。この最後の法制の成立で、タンザニアにおいては私 的所有は法律上存在せず、慣習的土地保有も、譲渡等による土地保有もすべ て占取権による土地保有ということに一元化されることになった(6)

しかしながら、現実には70年代に入っても、ハヤ族においては抵当地の入 手による寄生地主が存在することが報告されている(7)。一方、1971年の農業 センサスによればアルーシャ、シンヤンガ、ムワンザ、イリンガ、ルブマ、

ムベヤ、タボラ等においては、土地の所有規模分布に階層分離があり、大規 模所有者が存在することを示している(8)。同時に政府や共同体以外からの土 地の借入れの事実も報告されている。これらのことは、独立前の農業発展の 帰結として、後述の農業の共同化や土地の共同所有を目指す政府の農業方針 には阻害的な要因が歴史的に形成されて来ていたことを示している。

−142−

( 4 )

(5)

(2)農業政策

独立後、アルーシャ宣言までの農業政策は1961年から63年のトランス フォーメーションアプローチと、それに引き続く63年以降の入植村計画

(ヴィレッジセットルメントスキーム)の二政策である。

トランスフォーメーションアプローチの目的は、より肥沃な土地に入植し た農民に、資本集約的な投資とマンパワー投入を図り、より土地集約的でか つ永続的な土地利用を行わせることであった。農民教育の普及、近代技術の 採用、公的サービスの充実を通じて農業生産性の増大を達成することが計画 された。計画が入植農民を対象としたのは、伝統的慣習的環境から離れた者 の方が新技術採用にはより積極的であろうと想定されたからである。

前者の入植者への重点的政策援助という考えに、散在した農民を村落に集 め、共同作業を通じて農業生産性を向上させていく方向を加味したのが入植 村計画である。各計画は、①約250家族を対象とし、②インフラストラク チャー投資と、第一回目の収穫までの運転資金に充当される15万ポンド相当 の資金を投入すること、③投資資金は各村の歳入の中から政府に返済される べきこと、④投資の適切な遂行及び返済の履行、技技術導入を可能とさせる べき集中的な教育普及等を可能とさせるべき集中的な教育普及等を保障させ るために、30名未満のスタッフを政府が指令し、派遣すること、⑤計画の管 理・施行を農民が漸次代行すること、等を含むものであった(9)

ところがこの計画は途中で挫折する。原因は資金不足と投資の低収益性で あった。その理由として挙げられているのは、初期計画のまずさ、過剰な資 本集約度、不適当な入植者、不適切な管理等である。実施された23計画の内、

村民によって経営管理が代替され、自主管理協同組合に発展したものは一つ だけであった。

この計画は本来的には入植者を特権的中間階級に成長させる傾向を内包す るものであったが、現実の進展効果があまりに小さすぎたために、問題とな

農業政策史概論(中島) −143−

( 5 )

(6)

るほど中間階級は生み出されなかった。よって、この計画の履行の結果、後 から見て重要となるのは、政府主導型ではなく、農民の自発性、自主管理、

及び入植村内での集団農業の重要性が認識されたことである。

1966年には副大統領カワワの演説により、資本集約的ではない技術の導入 を図る計画の転換が発表された。ところが、現実にはタバコ栽培の入植村が 施行され、その規模及び配置は家族労働では不充分、不適当で、労働雇用を 必要とするものであった(10)。この当時の入植村の内、生産性向上、集団農業、

投資資金の回収、自主管理に成功したものにはルブマ開発協会(

Ruvuma Ru- ral Association)がある。しかし、この下からの集団化は1971年以降のウジャ

マー作戦期に解体されてしまうこととなる(11)

第三節 アルーシャ宣言後1971年まで

1967年2月にはアルーシャ宣言、即ち

TANU

の社会主義と自助(自力更 生)に関する政策が採択され、1969年にはニエレレの

Socialism & Rural De-

velopment

が発刊され、社会主義的経済開発路線、及びウジャマー農村社

会主義の路線がうち出される。アルーシャ宣言への経済的政治的過程はすで に邦文でも紹介されているので詳述は避ける。それは要約して次の点の政策 を含むものである。(!)基幹産業の国有化、あるいは政府の統制強化。金融 機関の全国有化、輸出入取引商社と製粉業の国有化、サイザルや石油精製業 その他七産業の政府の過半数以上の資本保有。(")自立更生、あるいは自助 努力の強化。資本調達を含む国内資源のより一層の活用。(#)農村開発を重 視しウジャマー社会主義の採択。($)社会的平等を達成すること(12)

ウジャマー政策の目標は、①自立更生、自主管理の共同を創造すること、

②搾取を除去し、富、所得、権力の過剰な集中をなくすこと、③都市と農村 の生活水準の格差をなくすこと、に集約できる。その方法として集団農業が

−144−

( 6 )

(7)

提唱された経済的根拠には、①集団作業による分業の利益、②機械導入の際、

流通費節約、及び行政サービスの単位当たり効果の増大という規模の経済の 利益を得られる、③教育、信用供与、及び行政サービスへの機会の増大とそ の結果としての新技術の採用、及び生産性の上昇、④従来の生産環境から、

集団農業を営むことで技術革新の受け入れが容易に進むこと、⑤共同化によ る労働意欲の増大、が挙げられていた(13)(14)

さて、このような目的をもったウジャマー政策の具体的戦略は、①段階的 戦略であること;まず、集村化を図り、第二段階で私的生産が主ではあるが、

副次的に農業生産の共同化を図り、そして第三段階で、共同生産が支配的生 産関係となるところまで共同生産の比率を高めることという段階的戦略をと ること。②各村内部の意志決定には、村民の自主性を尊重すること、③選択 的にウジャマー化を図るのではなく、全面的にあらゆる農村地域で同時に推 進する全面的アプローチを採ること、の三点を含むものであった。

このようなウジャマー社会主義政策が、インプルーブメントアプローチよ り得た集村化への指向と、トランスフォーメーションアプローチ、及びヴィ レッジセットルメント計画で得た政府主導型でない村民レベルの自主性の尊 重や、資本集約とは異なる農業生産性向上としての共同化への模索といった 旧来の農業政策より得た総括の上に提唱されている点は見逃されてはならな い事実であろう。例えば、選択的に推進するのではなく、全面的に推進する という全面的アプローチ(frontal approach)と呼ばれる方針も、入植村計画 が選択的に投資集中を行ったことへの批判として限られた資金を少しずつで も、しかし広範囲に用いるように農業政策が転換され、導出された方針なの である。

段階的な進展を図る戦略によって、各村は各々の進展段階により各段階の ウジャマー村として登録される。この各段階により、各村が得られる資金援 助の機関及び対象が異なる。第一段階では、資金は農村開発基金(Rural De-

農業政策史概論(中島) −145−

( 7 )

(8)

velopment Fund

)とタンザニア農村開発銀行から得られた。前者は非商業ベー スの資金援助であり、資金は一人当たり2シリング、各年総額で2,500万シ リングに相当したが、インフラストラクチャー投資に限られていた。後者か らの資金援助は商業ベースであるが、まだウジャマー村は経済的に将来的も 存続する経済単位とはみなせないので、信用供与は協同組合組織の

Coopera- tive Society

あるいは

Cooperative Union

を通じてでしか得られなかった。しか も、最も危険度の低い短期の季節的投入物への前貸し(収穫時に回収でき る)が、その貸付け内容であった。第二段階に入ると、ウジャマー村は農業 機関(Agricultural Association)として登録し、タンザニア農村開発銀行から 信用供与を得られることになる。この段階に入ると、初期のウジャマー村へ の資金援助を目標とした農村開発基金からの援助は適用されず、代わりに中 央政府からのインフラストラクチャー投資やサービスの提供が与えられるこ とになる。さて、第三段階に入ると、ウジャマー村はあらゆる金融機関から の商業ベースの信用供与の対象となる。例えば、前述の農業開発銀行、マー ケティングボード、国民商業銀行、及びその他の金融機関から借入れが可能 となるのである(15)

さて、このようなウジャマー村政策の成果であるが、表〔101〕(下記12 ページ)に示されるように、全人口に占める比率は6.3%と低く、その進展 度は地域格差が大きく、設立された総数2,668村の内、第三段階まで到った のは17村、第二段階に到ったものは243村と、殆んどが集村化を遂げただけ の第一段階にとどまり、農業生産の共同化は図られなかった。さらに、生産 技術であるが、従来の農法からの改良は見られなかった。

−146−

( 8 )

(9)

第四節 行政改革とオペレーションウィジジ二期(1971〜1975)

(1)行政改革

1971年には、TANUガイドライン ―― 別名ムオンゴゾ(タンザニアとアフ リカの革命を防衛、強化し、進展させるための

TANU

ガイドライン)―― が 発表される。このガイドラインは、隣国ウガンダで社会主義路線を打ち出し たオボテのクーデターによる失脚に危機を抱いて採択されたものであり(16)

TANU

政党の責任と義務、外交政策の基本、政党による軍の指導、防衛・治 安の基本姿勢、及び経済発展における党の責任の大要を述べたものである(17)

これに続き、1972年には「地方分権化(Decentralization)」が宣言、採択 される。ここで打ち出されたのは、①州政府の権限の拡大、②民衆の政府行 政への参加、③県レベルの開発計画立案及び遂行の重視を目標とした行政改 革である。地方分権化以降の行政図は図〔101〕の通りであり、中央政府の 役割は行政からむしろ管理(マネージメント)へ転換し、国家レベルでの開 発資金を各州や各県に最適に配分する作業、及び国家レベルでの総合計画の 履行を主とすることとなった(18)。一方、州や県レベルにおける計画立案及 び遂行に力点が置かれることとなった。

州以下の行政機構は、各州の下に県(

District

)(各州に3〜7県)、県の下 に郡(Division)(約3郡で1県)、郡の下に地区(Ward)(平均4地区が1 郡を構成)があり、そして各地区は平均5つの村(Village)より構成される。

この新行政機構で重要な位置を占めるのは、県である。県は、地方分権機 構の第一段階の計画立案並びに管理機構である。各村レベルでの開発計画案 は県開発ディレクター(

District Development Director

)を中心とし、県企画 オフィサー(District Planning Officer)並びに県の各機能を担うマネージャー

(District Functional Manager)らによって構成される県企画チームにより、資 金調達の可能性に下により具体的なプロジェクト計画へと立案される。こう

農業政策史概論(中島) −147−

( 9 )

(10)

ADMINISTRATIONAFTERDECENTRALIZATION REGIONAL COMMISSION AREA COMMISSION

NATONAL CULTURE ANDSPORTS POLITICALAUTHORITY

NATURAL

RESOURCES AND

TOURISM CULTURE CULTURE

LANDS MOUSING ANDURBAN DEVELOPMENT NATURAL RESOURCES NATURAL RESOURCES

WATER

DEVELOPMENT AND

POWER LANDSURBAN DEVELOPMENT LANDSURBAN DEVELOPMENT

CENTRALESTABLISHMENT (MINISTRYCONCERNEDWITHPERSONNEL) COMMUNICATIONS ANDWORKS WATER WATER

COMMUNICATIONS &WORKS COMMUNICATIONS &WORKS

PERSONNEL PERSONNEL

THEPRESIDENT PRIMEMINISTERS OFFICE REGIONAL DEVELOPMENT DIRECTOR DISTRICT DEVELOPMENT DIRECTOR

MINISTRYOF FINANCE FINANCE COOPERATIVES &UJAMAA FINANCE COOPERATIVES &UJAMAA

PLANNING PLANNING

MINISTRYOFECONOMICAFFAIRS ANDDEVELOPMENTPLANNING HEALTH HEALTH MEALTH

EDUCATION EDUCATION

REGIONAL PLANNING TEAM

DISTRICT PLANNING

TEAM

NATIONAL EDUCATION

COMMERCE &INDUSTRY

COMMERCE &INDUSTRY

COMMERCEAND INDUSTRY LIVESTOCK LIVESTOCK

AGRICULTURE CROPS CROPS

MINISTRIES REGIONAL FUNCTIONAL OFFICERS DISTRICT FUNCTIONAL OFFICERS

図〔101〕「地方分権化」以降の行政組織 〔出所〕Mascarenhas,A.,(1974)

−148−

( 10 )

(11)

して立案された県開発計画は、最終的には地区開発委員会において承認を受 ければ、各州の開発ディレクターへ提出される。各州では、州開発ディレク ターは州計画オフィサー(Regional Planning Officer)、州ファンクショナル マネージャー(Regional Functional Manager)及び県開発ディレクター等と 協議し、各県計画を総合し、州計画案として立案する。こうして立案された 州開発計画案は州コミッショナーを議長とする州開発委員会へ提出され、承 認されれば、総理府へ提出される。

総理府においては、財政及び企画省(

Ministry of Finance and Planning

)や 他の中央省庁との協議の上、各年度の州計画ガイドラインを作成し、各州が 利用可能な資金及び資源量を公表する。資金は直接的生産部門、経済的ある いは社会的インフラストラクチャー部門の三部門に大別されている。さて、

この各州間の資金配分に対する各州のコメントを考慮した上で、最終的な各 州の計画が総理府において決定される。

このような過程を経て、州間、及び大枠としての直接生産部門、経済的あ るいは社会的インフラストラクチャー部門の資金配分は中央政府が決定し、

その県別配分及び具体的運営に関しては、各州が権限をもつことになる。

なお、総理府は開発計画決定以後、その履行を監督する(19)。一方、各県 は決定された県開発計画履行の責任を負い、村・区・郡との連繋を図ること で、地域のいわば下からの政策立案並びに遂行が可能となるように、行政組 織は改編されたのである。

(2)農業政策

第三節でも述べた通り、1971年末までのウジャマー村の設立は進展度は低 く、かつ進展の地域格差は大きかった。地域格差を説明する要因としては、

まず、ウジャマーが新入植計画であったために、未利用地の潤沢な人口密度 の低い地域により進展したという理由が挙げられよう。さらには、多年作物

農業政策史概論(中島) −149−

( 11 )

(12)

栽培の進んだ地域では、新たな入植には抵抗があったことが推察できる。ま た、大規模土地所有者にとっては、既得土地占有権を維持した方が新たな平 等土地所有、あるいは共同農業生産よりはすくなくとも短期的には有利で あったろうことが予想される。例えばアルーシャ、キリマンジャロ及び湖西 州は、ウジャマー村人口の全州人口に対する比率がそれぞれ1.3%、0.3%、

及び1.5%と低いが、20年の永年作物であるコーヒー栽培の歴史が長く、か 表〔101〕 ウジャマー村の地域的進展状況 1971年3月

Approximate Population

Region

No. of ujamaa villages

Average population per village

Total population in ujamaa villages

Percentage of regional population living in

ujamaa villages

Arusha 44 200 9,000 1.3

Coast 58 940 55,000 6.0

Dodoma 150 310 47,000 5.9

Iringa 350 240 84,000 10.8

Kigoma 108 300 32,000 6.3

Kilimanjaro 11 190 2,000 0.3

Lindi 188 420 79,000 18.3

Mara 250 380 95,000 15.5

Mbeya 194 260 50,000 4.6

Morogoro 22 210 5,000 0.7

Mtwara 672 420 282,000 44.1

Mwanza 41 190 8,000 0.7

Ruvuma 120 100 12,000 2.7

Shinyanga 132 100 13,000 1.3

Singida 57 230 13,000 2.7

Tabora 82 240 20,000 3.2

Tanga 146 160 23,000 2.7

West Lake 43 250 11,000 1.5

Total 2,668 315 840,000 6.3

ドドマの当該数値は1970〜71年当時の大衆的国内移住キャンペーンによる新設 村を含まない。

〔出所〕Ellman (1975), p321

−150−

( 12 )

(13)

つ大規模土地所有がすでに発展していた地域である。同様に、ムベヤ、イリ ンガはこれまた多年作物の茶の栽培地帯であり、また、大規模土地所有者の 存在した地域である。ウジャマー人口比率は、ムベヤが4.6%、イリンガが 10.8%と後者が比較的高い。これは、同州のイスマニ地域のある調査が、耕 地の約40%が100エーカー以上の大規模農場で、人口の4%に相当するアフ リカ人資本家地主が資本主義農業として農業雇用者を雇用していたと報告し たことに対する、当時の州知事による土地再分配を伴う積極的なウジャマー 政策の結果である。ムワンザ、シンヤンガは綿作地域であり、協同組合組織

(Cooperative Society及び

Cooperative Union)が発達していた地域である。先

の農業センサスでは、この両地域とも土地所有は不平等であり、全州人口に 対するウジャマー人口比率はそれぞれ0.7%、1.3%と低い。前述の農業セン サスに基づき、他に大規模土地所有の存在する地域にはルブマ、タボラがあ り、ウジャマー人口比率は2.7%、3.2%と平均を下回る。イリンガの例でも 伺えるが、当時の各州、あるいは県の行政官の政策運営の姿勢にも、ウジャ マーの進展度は大きく依存していた(20)

さて、このような村の進展度の低さから、1971年にはウジャマー村建設の 政府方針が、農民の自主性あるいは説得に依るという従来の方針から強制に 依るものへと変化した。政府は、公務員、

TANU

指導者や青年団、民兵組織 を総動員し、農民を集村化させるウジャマー村作戦(Operation Vijijini)を 開始したのである(21)。当初このウジャマー村作戦は特定の州にのみ適用さ れたが1973年9月の

TANU

全国大会では、当作戦がすべての州に適用され ることが決定され、さらに同年11月には、1976年末までに全農村人口の集村 化が完了されるべき通達が出されるに及んだ。

このウジャマー村作戦の進展状況は表〔102〕で伺い知れよう。1971年か ら1975年の4年間にウジャマー人口は154万人から914万人に増大した。1975 年の推計総人口が1,531万人であり、農村人口はその約9割の1,380万人であ

農業政策史概論(中島) −151−

( 13 )

(14)

るから、ウジャマー村人口比率は7割弱まで増加したことになる。この表か ら、この期のウジャマーの進展が断続的であること、また、75年に至っても 進展には地域格差のあることが分かる。即ち、1974年まででウジャマー人口 の増加率の高いのはドドマ(1970〜1971年)、キゴマ(1971〜1972年)、リン ディ(1970〜1971年)、シンギダ(1970〜1971年、及び1973〜1974年)、及び マラ(1973〜1974年)と、所得水準の低い諸州に集中している。そして、

1974〜1975年の1ヶ年の間に全体で256万人から914万人へとウジャマー人口 は増加しているのである。一方、地域格差であるが、このオペレーションヴィ ジジニを経た後でも、ウジャマー人口比率が低い州には、キリマンジャロ

(0.5%)、湖西州(3%)、コースト州(8%)、タンガ州(10%)、モロゴロ 表〔102〕 ウジャマー村人口の地域別、年度別成長状況

Region 1970 1971 1972 1973 1974 1975

Arusha 5200 14,018 19,818 20,112 25,356 275,765

Coast (Pwani) 48,300 93,503 111,636 115,382 167,073 157,641

Dar es Salaam 4713 40,000

Dodoma 26,400 239,366 400,330 378,915 504,952 630,858 Iringa 11,600 216,200 270,502 243,527 244,709 804,391 Kigoma 6700 27,200 114,391 114,391 111,477 452,285

Kilimanjaro 2700 2616 5009 4934 3176 14,508

Lindi 70,673 203,128 175,082 169,073 218,888 386,664 Mara 84,700 127,371 127,370 108,868 233,632 626,687 Mbeya 32,900 64,390 98,571 103,677 86,051 934,800 Morogoro 6000 10,513 23,951 19,732 25,509 123,256 Mtwara 173,027 371,560 441,241 466,098 534,126 667,413 Mwanza 4600 13,641 32,099 49,846 40,864 1,437,095

Ruvuma 24,988 346,800

Ruvuma 9000 29,433 29,430 42,385 62,736 378,511

Shinyanga 12,600 12,265 15,292 12,052 18,425 940,335 Singida 6800 51,230 59,420 59,420 141,542 247,834 Tabora 16,700 18,408 25,115 29,295 28,730 553,770

Tanga 7700 38,907 77,859 77,957 67,557 105,184

West Lake 5600 9491 16,747 13,280 15,968 26,432

Tanzania 531,200 1,545,240 1,980,862 2,028,164 2,560,472 9,140,229

〔出所〕Mascarenhas. A., (1979), p152第一表より

−152−

( 14 )

(15)

州(15%)がある。これには前者二州はコーヒーという多年作物栽培地帯で あり、タンガは人口密度が高いため新入植地が入手不可能であったという背 景がある(22)。しかし、コーヒー栽培地域にはアルーシャやムベヤもあり、

人口密度の高い州の一例にはムワンザがあることから、この期に進展しな かった理由には、政策適用の州毎の差異、及び設立されている場合にも、ウ ジャマー村の具体的内容のより詳細な検討を必要とする(23)

(3)市場産出高の激減とその影響

1973/74年から1975/76年間(24)の市場への農産物の供給高は減少する。市 場産出高の趨勢と生産者価格との関連については次章に譲ることにして、こ こでは市場産出高の短期的変動についてのみ検討したい。

まず留意されねばならないのは、市場産出高と総生産高の差異である。こ の間の総生産高の推移と市場産出高の推移を、まず国内消費向け作物の内、

主食のメイズにおいて比較してみる。生産高においては、1972年の863,000 トンに対し、1974年には566,000トンへと約30万トン減少しており、この間 の農産物生産の減少はメイズ危機と称される由来である。一方、市場産出 高で見ると、1972/73年度の106,400トンが1974/75年度には23,900トンへと 82,500トン減少する。そして、生産高の減少分約30万トンのメイズがこの期

間には緊急輸入される。

以上で分かることは、メイズの場合は生産高の内自家消費に向けられるか、

国家的独占流通機関である

NMC

National Milling Corporation

)に販売され ない比率が比較的高いということである。1969年の家計調査で見ると、価額 にして農村消費の42%は実物消費(農村平均)(25)であり、食物に占める自家 消費比率は42%を上回ることから、生産高と市場産出高の間の乖離は説明で きる。その結果、生産量の減少分は前貸し支払い分等々を除いては、まず市 場産出高の減少につながり、後者の減少比率は前者のそれを上回ることと

農業政策史概論(中島) −153−

( 15 )

(16)

表〔103〕 主要農産物の市場産出高 [単位:千トン]

Crop

Average 1966/67

to 1968/69

70/71 71/72 72/73 73/74 74/75 75/76 76/77 77/78 78/79

Local

Maize 114.4 186.4 43.0 106.4 73.8 23.9 91.1 127.4 214.2 222.7 Wheat 29.6 43.0 56.7 46.8 27.9 14.4 24.5 23.0 35.1 27.5 Paddy 37.2 93.6 68.6 73.1 59.6 22.7 18.4 22.4 53.3 52.0 Sorghum/Millet − − − 0.9 4.1 4.4 5.1 21.0 69.4 98.7 Cassave 35.0 − 9.2 14.3 19.0 17.3 16.5 20.2 36.4 63.2 Groundnuts 5.2 − 3.3 3.5 1.4 0.5 0.5 0.4 1.4 2.6 Sunflower 4.8 − 6.2 9.5 6.3 7.0 6.9 5.9 7.2 12.0

Sesame 6.8 − 8.2 7.3 6.6 5.8 5.9 5.9 6.6 6.6

Sub-Total 233 − 195.2 261.8 198.7 96.0 168.9 226.2 423.6 485.3 Export

Coffee 47.8 46.8 52.4 47.5 42.4 52.1 55.4 48.7 50.0 52.0 Cotton 54.7 76.0 65.7 76.7 65.0 71.2 42.4 67.1 50.4 56.1

Sisal Fibre 206.0 202 181 155 143 128 119 113 105 92

Tobacco 8.9 12 13.1 12.7 18.3 14.2 19.1 18.2 21.6 17.1 Tea 7.9 9.2 11.6 13.3 12.3 13.9 13.0 15.2 18.5 19.5 Cashewnuts 90.5 112.8 126.4 125.6 143.3 117.5 82.4 96.7 68.4 58.0 Pyrethrum 5.4 2.7 4.3 4.0 3.3 4.7 3.9 3.3 2.5 1.6 Sub-Total 421.2 461.4 454.5 434.8 427.6 401.6 335.2 362.2 316.4 296.3 Grand Total 654.2 − 649.7 696.6 626.3 497.6 504.1 588.4 740.0 781.6

〔出所〕M. D. B., Price Policy Recommendations for the 1980/81 Agricultual Review Vol.ⅠSummary and Proposals. p.11. Table 2.4. (1979)

表〔104〕 国内消費用主要食糧農産物生産量

[単位:千トン]

農産物 年 1971 72 73 74 75 76

とうもろこし 715 863 603 566 825 897 米(もみ) 193 171 204 154 150 172 ソルガム 149 191 248 128 280 260

ミレット 130 128 171 63 160 150

小麦 84 98 78 39 46 58

さとうきび 1,134 1,150 1,295 1,311 1,276 1,213 キャツサバ 3,150 3,250 3,350 3,500 3,800 3,900

〔出所〕FAO,Production Yearbook, 1973, 1975, 1977.

〔出所〕吉田昌夫(1979).p.140

−154−

( 16 )

(17)

なる。

小麦の生産量及び市場産出量の減少に関しては、小麦生産の90%がアルー シャ、キリマンジャロ、ムブル地方の大規模資本集約的農場に依存しており、

その所有者が意図的に国有化(あるいはウジャマー化)への反対を示して産 表〔105〕 メイズの地域別市場産出高

[単位:メートリックトン]

YEAR

REGION 1972/73 1973/74 1974/75 1975/76 1976/77 1977/78

Arusha 17,127 6,954 2,919 10,100 11,794 60,257

Coast/Dar es Salaan − − − 1,510 2,374 2,033

Dodoma 54,075 34,495 5 6,034 11,939 19,312

Iringa 8,214 11,157 4,212 10,517 14,705 20,880

Kigoma − − 34 186 688 921

Kilimanjaro 11,800 5,960 4,759 4,837 5,781 23,174

Mara 3,644 6,246 1,979 1,123 5,535 5,479

Mbeya 58 1,364 718 2,174 6,622 9,771

Morogoro 9,612 5,346 990 10,509 9,224 14,485

Mwanza 162 352 − 2,899 87 2,443

Mtwara − − 98 3,862 3,891 1,757

Lindi − − − − 2,728 2,933

Rukwa − − 1,042 2,993 11,989 9,882

Ruvuma 504 130 4,290 12,702 10,217 16,106

Shinyanga 30 − − 699 23 2,469

Singida 715 1,590 19 167 1,051 963

Tabora 535 − 20 119 3,419 10,945

West Lake − − 113 218 7,096 1,283

Tanga − − 3,710 20,153 20,840 8,035

TOTAL 106,476 73,620 24,908 91,102 124,003 213,128

〔出所〕Ministry of Agriculture, Bulletin of Crop and Livestock Statistics, 1978, p.4048

表〔106〕 タンザニアのメイズの対外交易 ’ooo metric ton 1968‐9 1969‐70 1970‐1 1971‐2 1972‐3 1973‐4 1974‐5 1975‐6 Imports nil 46.9 nil 92.3 78.9 183.6 317.2 42.3

Exports 51.8 nil 53.4 nil nil nil nil nil

〔出所〕Lofchie (1979). p.4541

農業政策史概論(中島) −155−

( 17 )

(18)

出量を減らしたとされる(26)。このことはアルーシャのみの市場産出高が減 少することで伺い知れる。

輸出作物の場合には、生産数量と市場産出高の間に大きな乖離は存在しな い。そして、生産高においても、また市場産出高においても、その変動が比 較的大きいのは1974〜75年の間の綿花産出量、及びカシューナッツのみであ る。綿花の生産地はムワンザとシンヤンガであり、両所において同期間中、

ウジャマー村人口が急増していること、さらに、75年以降生産が回復するこ とから、二年連続の旱魃のみならず、ウジャマー化が生産高の短期的減少を 招いた一因であったと考えられよう。一方、カシューナッツの生産下落は75 年以降も継続しており、当該作物が多年性作物であること、及びその生産地 がムトワラ、リンディと比較的ウジャマー化の進展した地域であることか ら、これまた生産量の低下とウジャマー化は無縁ではなかったろうと推測さ

表〔107〕 小麦の地域別市場産出高

[単位:メートリックトン]

YEAR

REGION 1972/73 1973/74 1974/75 1975/76 1976/77 1977/78 Arusha 36,275 20,603 5,575 19,657 17,287 23,200

Iringa 2,430 2,441 2,048 3,431 1,677 5,075

Kilimanjaro 6,303 3,744 5,406 1,353 6,473 5,878

Mara 66 201 28 6 1 −

Mbeya 531 275 249 484 251 117

Morogoro 42 9 − 19 45 6

Ruvuma − − 314 332 380 116

Tabora 293 739 − − − −

Singida 7 − − − − −

Rukwa − − 1,083 306 537 217

Mwanza − − 206 − − −

West Lake − − 281 214 487 397

Tanga − − − − 4 4

Dodoma − − − − − 1

TOTAL 46,947 28,012 15,190 25,804 27,142 35,011

〔出所〕Ministry of Agriculture,Bulletin of Crop and Livestock Statistics, 1978, p.4048

−156−

( 18 )

(19)

れる(27)

さて、以上から、綿とカシューナッツへの影響はあるものの、輸出作物に おいては生産量及び市場産出高の短期的下落は比較的小さいこと、そして生 産量及び市場産出高の下落は国内消費向け作物に集中していたことが知られ よう。そして、これが食糧輸入を招き、当時のオイルショックに伴う一般輸 入価格上昇と相俟って、国際収支の悪化と通貨切り下げを招くのである(28)。 農産物の生産高は1975年には殆んど回復する。しかし、国内の行政改革、

ウジャマー化という経済体制の転換と73年以降の石油ショックは経済にマク ロ的な影響を及ぼす。まず、タンザニアの実質成長率は1966年から1976年ま での10年間平均で4.5%であるが、1973、74年は3.1%、2.5%と低下する(29)。 これは主に農業生産の落ち込みと解釈できる。一方、GDPに占める投資比 率は71年をピークの26.4%とし、以後は21〜22%台へと多少下落する。しか も、産業別にみると、この期は製造業・建設業・公務の固定資本形成が低迷 し、それを運輸・通信業の新投資増が補完していたことが分かる。タザラ鉄 道及びザンビア回廊の輸送設備完備のために、集中的に投資が振り向けられ たのはこの期間である(30)。このようにその産業構成は変化しながらも、資 本形成は比較的高い水準を保っているのであるが、その資本調達内訳には変

表〔108〕 輸出向け主要農産物生産量 [単位:1000トン]

農産物 年 1971 72 73 74 75 76

サイザル麻 181.1 156.8 155.4 143.4 120.4 104.8***

コーヒー(クリーン) 45.8 51.4 54.9 44.7 62.4 53.4 綿花(リント) 65.4 76.9 65.1 71.5 45.4 81.4 カシューナッツ 126.4 125.6 145.1 121.7 80.0 84.0 茶 10.5 12.7 12.7 13.0 13.7 14.1 タバコ 11.9 14.2 13.0 18.2 18.1 19.1 除虫菊 3.7 4.3 3.5 3.3 4.6 5.7 クローブ** 9.0 11.8 10.8 3.7 7.5 5.1

(注)表示の年に始まるCrop year **輸出量 ***1977年

〔出所〕吉田昌夫(1979).p.138第4表

農業政策史概論(中島) −157−

( 19 )

(20)

化が生じる。即ち、食糧輸入及び石油ショックは食物価格騰貴を招き、74年、

75年の食物消費額の高騰は民間国内貯蓄を引き下げてしまうのである。これ は総資本調達における国内貯蓄比率の下落、即ち資本調達の外資依存型を招 くこととなる。

第五節 「村とウジャマー法」以降

上述のように、72〜75年の農業生産の低下は経済全体に影響を及ぼした。

故に、1976年に開始される第三次五ヶ年計画においては、食糧の自給自足が 大きな目標として掲げられることになる。

1975年を農業政策史上画するのは、75年に発表された「村とウジャマー法

(Village and Ujamaa Act)」の制定である。この法により、ウジャマー内の行 政制度が確立すると同時にウジャマーの設立及び登記が、従来協同組合とし

表〔109〕 食物消費額の増大と国内総貯蓄の下落 1972 1973 1974 1975 1976

食 物 消 費 額

〔百万タンザニアシリング〕4.290 4.706 6.478 8.201 食 物 消 費 額 中 の

輸 入 比 率〔%〕 7.1 5.1 15.9 11.1 パ ン ・ 穀 物 消 費 額 中 の

輸 入 比 率〔%〕 7.7 3.1 30.9 21.9 食 物 価 格 指 数

〔1970年を100とする指数〕115.3 128.7 173.7 226.9 GDPに 占 め る 国 内 総

貯 蓄 の 比 率〔%〕 10.4 8.9 5.0 6.9 14.6 総 資 本 調 達 に 占 め る

国 内 総 貯 蓄 の 比 率〔%〕 41.4 32.6 27.4 34.1 65.1

〔出所〕Bureau of Statistics,National Accounts of Tanzania, 19661976.

Bank of Tanzania,Economic and Operations Report, 1979,巻末の付表.

−158−

( 20 )

(21)

て登録されており、協同組合として経済的、法的権限が与えられていたのに 対し、同法の下でウジャマー村自身が他の機構と契約締結する法的権限を与 えられたことになる(31)。そして、これによりようやくウジャマー村自身が金 融機関から現実的に信用供与を得られることとなるのである。このことは、

タンザニア農業開発銀行の貸付け状況で裏付けられる(32)

75年以降は、後の論文で明らかにされる通り、国内消費向け食糧の生産が 回復し、従来自給作物であったキャッサバ、ソーガム、ミレット等の買付け が、強い価格インセンティブの下に増大する。

第六節 結

タンザニア農業政策の展開は、以下のように要約、再評価できるであろう。

(1)農業集団化は、それ以前のインプルーブメントアプローチとトランス フォーメーションアプローチの両方の政策の帰結より提案された政策で ある。

(2)その政策の経済合理性であるが、それは政府サービス提供、流通コス ト、技術革新の追加的コストに規模の経済効果が上がること、即ち集村 化のもつ経済的効率性が挙げられる。

(3)集団農業が個人農業よりも生産性が上がるのか、あるいはタンザニア の風土に集団農業の方が個人農業より適切であるか、の技術的検討は今 後の研究課題であろう。

(4)農業の発展と農作物生産の分布には地域格差が大きかった。そして、

ウジャマー村は比較的換金作物生産の進展していない地域に発達した。

(5)先の論文で展開されたフローチャートから検討すると、農業政策は以 下に位置づけられる。

① 余剰の収奪という目的から、集団化の方が管理がたやすい。

農業政策史概論(中島) −159−

( 21 )

(22)

② 計画生産という目的からも然り。

③ 農業余剰の非農業への移転であるが、それは農業自体が生産性が低く、

所得も低い段階では、まず移転できる農業余剰の上限が低い。農業就業 者が全経済活動人口の約90%を占め、農村−都市所得格差が大きい条件 の下で、農業余剰の非農業への移転は社会的に支持され難い。この困難 の下では、農業開発でなくウジャマー 農村 開発は、農業余剰が近隣 の非農業へ投資されることで、その促進より生ずる経済効果、便益は比 較的短期的に、また短絡的に農業へ還流する。かつ、農業と非農業の均 衡成長を達成することで、非農業生産物に対する需要も創出される。

〔註〕

(1)タンザニアは1964年に本土部分のタンガニーカとザンジバル島との連合共和 国となった。本稿では以下、タンザニアという場合、タンガニーカのみを指 す。

(2)Iliff, J. (1971) p.26.

(3)吉田昌夫(1973)pp.92‐93.

(4)池野旬(1979).

吉田昌夫(1973).

(5)Ellman, A. (1971) pp.312‐313.

(6)吉田昌夫(1973)pp.95‐96.

(7)池野旬(1979).

(8)Tanzania, United Republic of (1980) pp.30‐39.

(9)Ellman, A. (1971) pp.313‐314.

(10)Ibid., pp.314‐315.

(11)吉田昌夫(1973a)を参照のこと。

(12)犬飼一郎(1973)

(13)Ellman, A. (1971).

Freyhold, M. (1979).

(14)第五番目の根拠に関しては、農民の意識のあり方にウジャマーの成功・失敗 の原因を求める意見があり、その際に、リーダーシップと農民間の意識や利 益の対立が重要となる。小倉充夫(1979)参照。

−160−

( 22 )

(23)

(15)Ellman, A. (1971) pp.322‐323.

(16)Shivji, I. (1975) p.125.

(17)Coulson, A. (ed.) (1979) pp.36‐42.

(18)Mascarenhas, A. (1974).

(19)I. B. R. D.(不明)partⅠ

(20)吉田昌夫(1979a)

Freyhold, M. (1979).

(21)吉田昌夫(1979a)p.144.

(22)Mascarenhas, A. (1979), pp.155‐156, Pratt. et al (ed), (1979)所収。

(23)例えば、新入植は行わず、従来の散村形式のまま農家戸数をのみ集めて登録 した例もある。

(24)タンザニアの会計年度は7月1日から6月31日までである。

(25)農村地域の一家計現金所得は年間982シリング、その年間消費は1,700シリン グ相当。よって、現金収入は消費の57.8%を占める。Tanzania, The United Re- public of (1972), 1969 Household Budget Survey, p.26.

(26)Lofchie, M. F. (1978), p.454.

(27)農産物生産量の下落は種々の原因の複合的帰結であり、種々の説明が可能で あろう。旱魃に見舞われたという見解がある一方、両二年の雨量は例年の6〜

8割であり、その被害だけであれだけの生産量の減少には繋がらないとする 説もある。〔Lofchie, M. F. (1978), p.463.〕また、市場供給高の減少が登録人 口の増加期よりも多少早いことから、市場販売高を維持する手段として、即 ち農民の生産活動を社会的に管理する目的で集村化を急いだのではないかと いう意見もある。しかし、ウジャマー人口の登録と現実的な移動の間には時 間のずれが存在しうることを考慮し、市場供給数量が、ゆるかやに価格に反 応して減少するのではなく、この期間急激に下落することを考えると、ウジャ マー化の急速な進展が市場供給高の減少の一因であると思われる。

(28)国際収支の悪化、及び通貨切り下げはこの前の稿で確められたい。なお、こ の期間の輸入構成の変化は表〔008〕において、食物輸入価額の急増で伺え るだろう。

(29)この前の稿の参照のこと。

(30)Clark, W. E. (1978).

(31)Hyden, G. (1980), p.136.

(32)Tanzania Rural Development Bank (1980)を見よ。

農業政策史概論(中島) −161−

( 23 )

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参照

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