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フレーベルの国民教育論の研究(?)

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フレーベルの国民教育論の研究(?)

著者 岩崎 次男

雑誌名 奈良学芸大学紀要. 人文・社会科学

巻 14

ページ 143‑169

発行年 1966‑02‑28

その他のタイトル DIE FORSCHUNG UBER F. FROBELS GEDANKEN ZUR VOLKS― UND NATIONALERZIEHUNG (II)

URL http://hdl.handle.net/10105/3380

(2)

フレーベルの国民教育論の研究(Ⅱ)

:言   ∴   '蝣   !

(教育学研究室)

第1章 フィ ヒテとフレーペルー 国民教育思想をめぐって‑

1.フィ ヒテとフレーベルとの一般的外的な関連

19世紀前半におけるドイツの国民教育思想を検討する場合、 J. G.フィヒテの「ドイツ国 民につぐ」 (Reden an die deutsche Nation, 1808)において明らかにされた国民教育の思想 をぬきにしては論ぜられないであろう。 1 9世紀前半において展開されたドイツの国民教育にか んする諸思想がフィヒテのそれとなんらかの関係をもっていただろうと推察することは、妥当な ことであると考えられる(2)

ところで、フィヒテの「ドイツ国民につぐ」が議潰されたのは1807年12月から翌年の3 月にかけてであったから、それは、前にも述べたように、フレーベルの教育思想形成期において

も初期に属するものであるといっていい。フレ‑ベルが国民的観点から、あるいは祖国という観 点から意識的に教育について考えるにいたるのは、はやくとも1809年のシュバルトブルク・

ル‑ドルシユタット公妃にたいする建白書以来であり、それはかれの1 8 1 3年の解放戦争への 参加をつうじて一段と高められ、さらにカイルハウ教育会での教育実践をつうじて1820年以 来かなり体系的に論ぜられるようになるのだから、もしフレーベルの国民教育思想がフィヒテの それに関係があるものだとすれば、たとえ批判的であれ、フィヒテのそれから出発したものと考 えるべきであろう。

そこで、フィヒテとフレ‑ベルとの関係を検討してみよう。

フィヒテは17 94年イエナ大学の哲学教授として招碑され、 1 799年3月無神論々争の結 果ワイマール政府からイエナ大学の職を奪われ、 7月F ・シュレ‑ゲルらロマン派の文筆家たち の友情とプロイセン国王の寛容とをたまりにしてベルリンへ逃れている。フレーベルは1799 年7月当時イエナ大学の医学部学生であった兄トラウゴットに金を渡すた馴こ出かけ、そのまま イエナ大学の聴講生となり、やがて1 0月正式にイエナ大学酉学部学生として入学し、爾来1 8 01年までこの大学に在学している。したがって、フィヒテとフレーベルがあい会する機会は、

1799年7月という極めて僅かな時日であれ、可能であるわけである。当時、フィヒテは、か れもその編集者の一員であった「哲学雑誌」 (Philosophisches Journal)に掲載されたF ・フ ォルベルクの論文「宗教の概念の発展」 (Entwicklung des Begriffs der Religion, 1798)に 付して「神の世界統治にかんするわれわれの信仰の根拠について」 (Uber den Grund unseres Glaubens an eine gottliche Weltregierung, 1798)をかいたことが原因になって、無神 論々争をひきおこし、この事件はイェナ大学の‑大事件となっていたOこの‑大事件をつうじて、

すでに「学者のための道徳論」などの講義によってまた学生生活の腐敗の母胎であった同郷組合

(Landsmannschaft)の解散を策することなどによって注視されていたフィヒテが、イエナの全

学生から、賛否の態度はともあれ、さらに大きな注目をあびたであろうことは、十分推察される

(3)

ところである。多分、フレ‑ベルもその例外ではなかったであろう。大部なフレ‑ベル伝記をか きあげたF ・ハルフタ‑は、つぎのように述べている。

「フィヒテを無神論の非難から守ろうと決心していた哲学者ブ‑テルヴェク(F. Bouterwek, ユ766‑1828)は、フレ‑ベルの父性的な友人となった.かれをつうじて、哲学がフレーベルの主

要な研究対象になった。かれをつうじて、フレーベルは真剣に着手したカント研究から決定的に 実践哲学へ向かうことになった。フレーベルはイエナの学生として、 1799年フィヒテがベル

リンへ出発する際に、フィヒテと2時間ほど対談した。かれがフィヒテのもとを辞して帰宅した 時、他の議論の後に感じられたものとはちがった感情におそわれた. 『前には私はフィヒテ主義 者たちと論じたが、今日はフィヒテその人と論ずる』 0 (3〕」

このようにして、フレーベルはフィヒテを注目しはじめる。それは、相当の熱のいれ万であっ たであろう。だから、 「1807年8月26日フレーベルは兄クリストフにあてて、私は『フィ

ヒテのほとんど全作品』を所有している、とかくのである(4)」 。しかし、 K・ギ‑ルほ「フレー ベルが実際に何を所有していたのかということを、確証することは困難である(5)」と語ってい る。しかし、 「フレ‑ベルが『人間の使命』 (Bestimmung des Melnschen)や『ドイツ国民に 告ぐ』を読んだことは、たしかである。 『学者の使命』 (Die Bestimmung des Gelehrten)や

『浄福生活‑の手引』 (Anweisung zum seligen Leben)を読んだことも推定される(6)」と、

いろいろな理由を付して語っている。かくて、この当時、フレーベルが相当の情熱をもってフィ ヒテ思想の研究に力をいれていたことが想像される。ギ‑ルは、ハルフタ‑がF若きフレーペル ー1782年から1811年にかけてのフリ‑ド・リッヒ・フレーベルの内面的発展の研究‑』

(Der Junge FrSbel. Beitr云ge zur inneren Entwicklung Friedrich Frobels 1782‑1811)と

題する論文の付録におけるフレーベルの読書の一覧表において、フレーベルがフィヒテの論文を 読んだということ、またフレーベルがフィヒテによって影響をうけた論文や人間をつうじて間接 的にフィヒテの思想に接触したということを明らかにした、と述べている(7)。すなわち、フレー ベルはフィヒテ自身の著作や論文をつうじて直接的に、またフィヒテ派の人間や論文をつうじて 間接的にフィヒテの思想にアプローチしていたわけであり、フィヒテに関するすべてのものをつ

うじてフィヒテの思想の理解にあるいは克服に精力的にとりくんでいたわけである。

このように、フレーベルがフィヒテへの関心と研究意欲とをもっていたという前提の下ではじ めて、荘司氏の語るところの、フレーベルはベルリン大学において「フィヒテの熱心な聴講者で あった(8)」という言葉が、理解されるであろう。この言葉がいかなる史料にもとづいているかと いうことは、荘司氏によって明らかにされていないので、断定的に肯定はできない。しかし、フ ィヒテが18 1 0年のベルリン大学の関学とともにその大学の暫学部長となり、やがて 1 1 年選ばれて初代の大学総長となり‑この総長職は短日月のうちに辞することになるが一、 1 8 1 4年かれの死にいたるまでこの大学で活躍しているのに対し、フレ‑ベルは18 1 2年ゲッチ ンゲン大学からベルリン大学にうつり、一時1 8 1 3年の解放戦争には義勇軍に従軍しているが 1 8 1 6年グリ‑スハイムに教育舎を開設するまでこの大学で研究活動をつづけている。このベ ルリン大学での両者の活動の時間的重複の理由から、両者の義勇軍従軍の志願という志向の一致

という理由から、また前に述べたようにフレーベルが強くフィヒテへの関心を抱いていたという 理由から、フレーベルが「フィヒテの熱心な聴講者であった」ことは、推定としても十分なりた つように思われる。

18 1 3年解放戦争の勃発とともに、フレーベルは義勇軍に参加する。フィヒテもすすんで従

(4)

軍に志願した。しかし、「これは許されなかったので、愛国的演説をもって軍隊、学生等を激励 した(。)」といわれる。このような共通の課題にむかっての献身的な行動は、両者の関係をより密 接にするものであったであろう。たとえフレーベルがフィヒテの愛国的演説を直接に聞かなかっ たとしても、学生たちの人気をつうじてフィヒテの演説に間接的に感激させられたことは十分あ りうることである。したがって、ギ‑ルのごとく、「解放戦争直後フィヒテのフレーベルへの間 接的影響は、一段と強くなったに相違ない(W)」ということができるであろう.

このようなすじみちにおいて、はじめて、1816年9月6日のフレーベルの日記帳の覚書が 理解されるだろう。

1816年10月13aにフレ‑ベルはグリ‑スハイムに「一般ドイツ教育舎」(DieAllgemeine DeutscheErziehungsanstalt)を開設したのであるから、1816年9月6日はその直前にあた

るわけであるOこの教育合についてドイツ国民の関心をひきおこし、この教育舎の宣伝をするた 馴こ、フレ‑ベルは1820年以来一連のいわゆるカイルハウ小論文を公けにして、「一般ドイ ツ教育舎」の教育原理および方法を明らかにし、世に訴えたのであるが、そこでは、H・ケ‑ニ ッヒも指摘するごとく(10、フレ‑ベルの国民教育の思想がもっとも情熱的に展開されているので あるOそしてこのフレーベルの国民教育思想には、E・ホフマンの語るところによれば、「フィ ヒテの思想が共鳴していた(12)』のであり、ハルフクーの語るところによれば、「その場合、間違 いなく、かれ(フレーベル)の肩ごLに、国民教育家であり演説家であるフィヒテの顔がのぞい ている(13)」のである。このように考えてみれば、フレーベルが1820年以降一連のカイルハウ 小論文において展開した国民教育の思想は、フ・イヒテのそれと密接に関連していたであろうこと が推察されるのである。

このことを是認するならば、フレーベルが国民教育思想の展開の垣前にフィヒテをどう考えた か、ということは、フレーベルの国民教育思想の検討において極めて重要であるわけである。そ のための史料を提供してくれるものが、フレーベルの1816年9月6日の日記帳の覚書であ

る。

フレ‑ベルはここにおいて「近代的」哲学者たちの分類をおこなっている。フィヒテはこの分 類において「唯心論者」(Idealist)の中にいれられている。この「唯心論者」には、フィヒテの ほかにイエス・キリストと「狂信者および神秘主義者」、とくにJ・ベーメ(1575‑1624)があ げられている。「これらの人々は、内的なもの以外のものは何も存在しない、‑というのは、

この内的なものの存在および現存をのみ私は直接に知っているし、また私は直接に知ることがで きるからである‑・と語ることによって、内的なものだけを存在するものとみなしている(14)」と フレーベルは「唯心論者」の思想の根本特徴を言吾っている。

「唯心論者」は内的なものだけを存在するものとみるから完全な真理を所有していない、とフ レ‑ベルはみる。完全な真理を所有する者は、内的なものと外的なものの統一を認める者であ る。それは「球論者」(Sp云riker)であるoそしてこの「球論者」として、フレーベルはただ一 人の哲学者をもあげず、ルソーやペスタロッテだけ、すなわち教育学者だけをあげている。

このことを考えてみれば、すぐれた教育学的見方をする者こそ完全な真理の所有者である、と いうことになるoしたがって、フレーベルは1qoQ

oL0年3月24日の哲学者K.C.F.クラウゼ

(1781‑1832)にたいする手紙においてつぎのように述べることになる。

「後になって、私がこれまで知りえたかぎりのすべての暫学説が、極めて不満足なものに私に

は思われるようになった。私は、なるほどこれらの哲学説のどれにも部分的真理のあることを認

(5)

釧よしたが、これらの部分的真理の下ではこれらの哲学説を全体として、あるいはこれらの暫学 説の一つを主として自分の研究対象にしようという決心がおこらなかったほどである。というの は、これらの暫学説はすべて、一つ一つをとりだしてみれば、私の本質および現実の観察や理解 からひとしくかけはなれたものであったし、一別の側面からみればひとしくわかりきったもの であったからである。ところで、内的なものにおける、生命における、現実における本質直観は、

私には極めて明らかとなっていた0 日・そこで、私は、現代の暫学説の十分なまた心に迫る描写 を持っことなしに、すべての存在およびすべての現象の生命全体を、すべての本質およびすべて の現実の生命全体をいたるところで明瞭にかつ真実に観察し、その生命全体を自己の生活と努力 の上に、思考と行動の上に具現し表現するよう、もっとも注意深く努力しさえすればよかったほ どである。 (15)」

かくて、哲学は部分的真理をふくむにすぎない、全面的真理は教育学によって把握されるとい うのが、フレーベルの主張のようである。ここに、教育学者フレ‑ベルの真価があるように思わ れるO 「子どもたちとの教育的な交渉」 (der erziehende Umgang mit Kindern)をつうじて のみ、全面的な真理はえられる。 「子どもたちとの教育的な交渉」をつうじて世界観は完全なも のになる。その時こそ、われわれの知識は内容のある生きたものになる、とフレーベルは考え る(16)。したがって、 「球的法則は、すべての真の、十分なる人間の教育の根本法則である(17)」と いうことになる。

このように考えてみると、フレ‑ベルの思想体系は、かれが「子どもとの教育的な交渉」をつ うじて、すなわち教師がはたらきかける子どもの側に立って、子どもの眼をつうじて把握し、つ くりあげたものであるということになるb したがって、フレ‑ベルの思想体系はまたこのような 観点に立つことによって明かにされるということにもなるだろう。

ともあれ、フレ‑ベルの考えにおいては、教育学的な見方こそ最高の地位をしめるものであっ て、哲学的な見方は一般にその下に立つものであったといっていいだろう。したがって、フィヒ テが「唯心論者」としてキリストやベ‑メらと肩をならべているということは、哲学者としては 最高の地位を与えられたものというべきであろう。

この日記では、 「いわゆる自然哲学者‑I 、シェリングすらも」 「フランスおよびイギリスの 全哲学界」が属している唯物論者にされている(18)このことは、フレ‑ベルが思想家の分類にお いてシェリングよりもフィヒテを高く評価していることを意味するものである。

ところで、このようなフレーベルの哲学者の分類の仕方は、フィヒテのそれと同じであるO フ ィヒテは、シェリングとの絶交以後、くりかえしシェリングを「フランスおよびイギリスの暫学 界」に属きしめ、かれを独断論者と呼んでいる。独断論者とは、フィヒテの意味するところでは 唯物論者と同義である。実際に、フィヒテは独断論者を唯物論者とも呼んでいる。このようにみ てみれば、フレーベルの分類の仕方はフィヒテのそれと全く同じであるOフレーベルの思想家の 分類の視点はフィヒテのそれに立脚しているといってもいい。

このようなことから、ギールは「フィヒテの哲学はフレーベル教育学の哲学的前提である、と

われわれは主張するものである(19)」と語り、この立場から「フィヒテとフレーベル‑構成的理

性と神との間隙および教育学におけるその解消」 (Fichte und Frbbel, die Kluft zwischen

konstruierender Vernunft und Gott und ihre Uberbriickung in der P云dagogik)をかきあ

げた。そこで、私は、ギ‑ルと同じようないい万で、フレ‑ベルはフィヒテに対してこのような

関係にあり、しかも、前に述べたように、フィヒテの「ドイツ国民につぐ」をたしかに読んでい

(6)

T:のであるから、フレーベルの国民教育の思想はフィヒテのそれを前提としている、それから出 発している、といいたい。

かくて、フレーベルのそれとの関連において、フィヒテの国民教育の思想を検討してみようO 2.フレーベルとの関連においてみたフィヒテの国民教育の思想

フィヒテの国民教育の思想は、周知のように、かれの「ドイツ国民につぐ」 (Reden an die deutsche Nation)に表明されている。 「ドイツ国民につぐ」は、 18 07年1 2月から翌年の

春にかけプロイセン学士院の講堂で語られたものである。

当時のドイツは、領邦的分裂につけこんだナポレオンの戦略に完全に屈服していた。 1 8 0 5 年のオーストリアのアウステルリッツでの惨敗、翌年のナポレオンの保護下に立つライン同盟の

結成およびフランツ二世の退位によるドイツ帝国の消滅、同年のプロイセンのイエナおよびアウ ェルシユテットでのみじめな敗北、 1807年のプロイセンにとって屈辱的なティルジット条約 の締結などをへて、ドイツ全土はナポレオンのひきいるフランス軍に牒画され、占領されてしま ssm

このように屈辱的な外国軍隊の占冠下にあって、 「ドイツ国民につぐ」は端的に祖国ドイツの 独立の道を明らかにし、それを達成するよう呼びかけたものであった。祖国ドイツの存亡の危機 的場面に直面して語られた「ドイツ国民につぐ」には、フィヒテのなみなみならぬ情熱がこめら れていた。

「諸君今こそ傾聴せよ。今こそ自覚せよ。この度こそ諸君が不動の決意をなすにあらざれば、

そこを動くことなかれ、この講演を聞きつつある人は何人もあたかもただ一人存在し、すべて をただ一人なさねばならぬかのごとくに、自己自身において、自己自身のためにこの決意をせ よ(20) 」

外国軍隊の占領という祖国存亡の危機的情況においてはげしい情熱をもって祖国の独立の万策 を求めてドイツ全国民に訴えんとした「ドイツ国民につぐ」は、ドイツ全国民の団結・決起によ る祖国独立のための方策を提示する。しかし全ドイツ国民の団結・決起などといっても、事実上 外国軍隊の占領下にあっては、軍事的蜂起などはふたたびまたたくまにおしつぶされてしまうで あろう。したがって、それは、 「外国の権力に気づかれないようなやり方、また外国の疑惑を決 してひき起きないやり方、いな外国の支配者の疑惑が新世界を形成することを邪魔しないのが利 益であるということによって晴らされるようなやり方」でなければならない。それは、軍隊を組 織し戦争をつうじて独立をかちとる方策ではなくて、道義の教育を通じて全国民の精神的独立を かちとる万策である。

「武器をもっての戦いは終った。これからは、原理・道義・国民性の新しい戦いがはじまるO それを、われわれは欲しているのである。 (21)」

かくて、フィヒテは国民教育の思想を提起する。

1.フィヒテの国民教育は、まず全国民の子弟を対象とする。それはいわゆる「民衆教育」

(volkserziehung)ではなくて、全国民の道義の形成をめざす「真のドイツ国民教育」(eigentiim‑

liche deutsehe Nationalerziehung)である。

「新教育は、特定の階級の教育ではなくて、端的に国民本来の、国民の何人をも例外としない

国民教育となる(22)」

(7)

「この教育が男女両性にたいして同じようなやり方で与えられなければならないということは、

特に述べるまでもなく自明のことであるO男児および女児にたいするそれぞれ異なった特別の施 設で両性をひきはなすことは、不当であり、完全な人間のための教育のいくつかの重要部分を廃 棄することになるだろう(23)」

国民教育においては、 「教養階級」(gebildeten Stand)と『無教養階級」(ungebildeten Stand) あるいは「民衆」 (Volk)、 「上流階級」 (hbheren Stand)と「低級なる下肢の俗衆」 (niedern und gemeinen Pobel)との区別があってはならないO 「かかる俗衆は、これ以上ドイツの国民 的関心にとってたええないところである(24)」。フィヒテはすべての民衆を国民の一人としてみと め、この承認に立脚してすべての民衆を人間として尊重する。男女についても同様である。 「両 性は、まず、共通の人間性を有していることを相互の中に承認しあい、愛しあうことを学ばなけ ればならない(25)」.このような人間の平等観(26)に立って、フィヒテの国民教育は、階級の差別 をとわず、また性の差別をとわず、階級の差別の解消をめざして全国民の子弟を対象とする平等 な教育として提唱されている。

2.フィヒテの国民教育は、道義のための教育を第一目標とする。

「確固として過つことのない善意志を人間の心に育成せんとする、たしかにして慎重なる技術 が私によって提案されている教育であるべきであり、この善意志の育成がこの教育の第一目標で ある(27)」

それでは、フィヒテの考える道義とは何か、善意志とは何か。

フィヒテの国民教育の思想は、 「ドイツ国民につぐ」の冒薗においてこの講演が1 804年か ら1 8 0 5年にかけておこなわれた「現代の根本的諸特徴」(Die Grundziigedesgegenw云rtigen Zeitalters)と題する講義の続講である、と特にことわっているように、 「現代の根本的諸特徴」

において展開された歴史哲学に立脚している.それによると、現代は「第3期」 (die dritten Epoche) (28)に属し、それは「直接には命令的な外的権威からの、間接的には理性本能およびあ

らゆる形の理性一般の支配権からの、解放の時代、すべての真理に対する絶対的無関心と統一的 な指針なき完全な無拘束の時代」として特徴づけられ、 「罪悪欄熟の状態」であると打される(2?)

この時代には、 「個人の生活、それとつながっているものおよびそれに関係するもの以外の何も のも全く現実的なものとして存在しない」 (30)。かくて、現代は利己心が時代の根本原理であって、

人間のあらゆる活動が利己的衝動によって営まれる利己主義の時代である(3D。 「ドイツ国民につ ぐ」においては、この利己主義が一般民衆の心を占めたばかりではなくて、支配階級の人々の心 をも占め、国政が利己的な観点から左右されるにいたり、かくて利己主義はその極限にまで発達 し、ついには利己主義自体の否定を招かざるをえなかった‑これがドイツの現下の敗戦とそれ にともなう外国軍隊の占領状態という祖国存亡の危機状況である、と主張されている。これはド イツ諸邦、なかでもプロイセンが領邦的なエゴイズム政策のためにナポレオンに巧みに侵略され ることになった事態をさすものである。

したがって、祖国の救済のための国民教育のめざす道義および善意志とは、利己心の克服に関 連するものであり、理想的な共同体の建設をめざして全体のために献身する精神ということにな るだろう。フィヒテの言葉でいえば、 「善意志」 (gute Wille)とは「共同体に対する関心」

(Interesse fiir das gemeine Wesen)であるOそれは、国民の運命に対する関心であり、 「祖 国愛」 (Vaterlandsliebe)にはかならない。つまり政治的識見にささえられた政治的行動に対す

る固い信念が、 「善意志」である。かくて、フィヒテの国民教育は、全国民の子弟に政治的識見

(8)

をもたせ、政治的行動に対する固い信念を養成せんとする政治教育を第一目標とするものであっ.

たわけである。

3.この「共同体に対する関心」は、 「自分の生命を神的生命の啓示の鎖における永遠の一見 として、また他のすべての精神的生命を同じようにこのような一員として承認し尊重すること」

の認識を通じて確固たる土台の上にすえられる。このような認識はとりもなおきず宗教的認識に はかならないが、 「この宗教的認識は、在来のごとく死んだ、冷淡なものにとどまらないで、生 徒の現実生活の中に表現される」べきものである。かくて、宗教は、 「現状を顧慮することなし に、国家および国民の関心事から手を引くことを真実の宗教的心情として受けとることをめざ す」べきではなくて(32)、 「通常の生活およびよく整った社会においては」 、 「ひたすら人間自体 を完全に明断たらしめ、解明し、人間が提出しうるかぎりの最高の問題に答え、究極の矛盾を解 決し、自己白身との完全な協調をもたらし、徹底的な明断性を人間性にもたらす」認識であるが、.

「極めて非道義的な頚廃せる社会においては」 、 「実践的動機としてはたらく場をもつ」べきも のである(3㌔このような宗教観に立って、フィヒテは「真実の宗教」にむかって教育することが 新教育の究極の仕事である(34)」と語っている。このような宗教教育は、結局は、高次の意味にお ける道義的意志の育成にはかならない。つまり、フィヒテは、政治教育の側面と宗教教育の側面

とから確固たる純粋な道義的意志の育成を考えたのにはかならない、といっていいだろう。

4.このような道義的意志の育成は、 「人間の全面的変革」 (eine g云nzliche Umsehaf壬ung des Menschen)を意味するのであり、腐敗堕落したドイツ現代社会においては、この社会との 断絶においてのみ可能である。かくて、フィヒテの国民教育の学校は、成人社会および家庭から 完全に隔離された、子どもたちおよび教師たちだけの理想的な共同社会である。フィヒテのあげ

る、この隔離の教育学的理由は、つぎの2点になるだろう。

(イ)、 「生徒の知性がその構図にむかって刺戟されるところの社会制度の最初の図表は、かれ白 身が生活するところの共同体のそれである。 (35)」

生徒の社会認識あるいは政治認識は、生徒自身が生活するところの共同体のそれから出発する ものであるから、それが利己Dの支配する社会であれば、社会とは本来そのようなものであると 認識されるであろうし、それが理想的な社会であれば、この社会こそ本来の社会であると認識さ れる。したがって、学校を理想社会として構築するならば、その学校で学習しまた生活しぬいて

きた者は、将来罪意にみちた社会に直面した時、本来の社会はこのようであるべきではないと信 ずる。また、その社会がいかに腐敗堕落しているかを実感する。また、どの点において誤ってい るかを鋭く見抜く。そして、その改造にむかって献身的な努力を払うことになる、というのであ る。

(口上国民教育の対象は全国民の子弟であり、その大半は「庶民」 (Volk)である。庶民の生活 は伺といっても貧しいし、その貧しさから利己心が支配し、そこからいろいろな不徳や罪粟が生 じている。このような不徳や罪悪の児童への影響をたち切るのでなければ、 「人間の全面的変 革」たる国民的運命に対する関心を育てる道義の教育は可能ではない0

「一般に、その子弟を両親から全面的にひきはなすことなしに、両親の家庭においてこの国民 教育を開始することも継続することも全然できないことを堅く信ずるものである(36)」

5.さて、成人社会および家庭から全面的に隔離された学校は教師と生徒との理憩的な共同社

会であるが、フィヒテはこれを「小経済国家」 (37) (der kleine Wirtschaftsstaat)と名づけて

いる。国民教育の学校は、現代社会から全面的に隔離した理想の小国家である。それは、フイヒ

(9)

テが1 8 0 0年「封鎖商業国家論」において播きだした「理性国家」 (Vernunftstaat)の縮図で ある。それは、 「厳密に定められ条理にもとづき理性によって徹庭的に要求された憲法を有する 現実社会からはなれた独立の共同体」(38)(ein abgesondertes und fiir sich selbst bestehendes Gemeinwesen‑‑ das seine genau bestimmte, in der Natur der Dinge gegriindete und von der Verminft durchaus geforderte Verfassung habe)である。この理性的憲法の下で

「すべての者は労働と享受の点において全く平等である」 (3?)。

「この生徒の共同体では、学習における知的発達のほかに、身体の鍛練や機械的ではあるが理 想的な農耕労働および種々の手工業の労働がおこなわれる。 (40)」

一言にしていえば、フィヒテの国民教育の学校は、理性的憲法をもち、農業労働を中核とする 平等なまた閉鎖的な生産社会であるO

6.したがって、フィヒテの国民教育は、学習と労働の結合を要求する。働きつつ学ぶ、働き つつ労働の目的・対象・手順について学ぶ教育組織を、フィヒテの国民学校は採用せんとする。

この学習と労働の結合は、 (4)道義的教育の見地、回教育技術の見地、再国民教育の対象の見地の 3見地から要求されている。

(イ上道義的教育の見地から。

フィヒテの国民学校は独立閉鎖の社会であるから、他からの援助によって成り立つべきもので はなく、自力によって経営されてゆくべきものである。このことは、学校費の節約というような

「貧弱な狭い視点」から考えられたものではなく(4D、自分たちの生活は自分たち自身の力で築き あげてゆくんだという「より高度の道徳的見地」から要請されたものであり、それはやがて祖国 の経済的自立および政治的独立へつながってゆくものである。このような見地の下に、フィヒテ は国民学校を生産労働、とくに近代的な機械化きれた農耕労働を基盤とする平等な「小経済国家」

として設定するのである。このような構想の下に、学習と労働の結合が要請されているのであ る。

(口上教育技術の見地から。

国民の浮沈を目前にひかえ、祖国の独立の達成という緊急課題をかかえている国民教育は、在 来のごとき>wird<式の(蓋然的な)教育のやり方には我慢できないのであって、端的に>ist<

式の(必然的な)教育のやり方をとらなければならない。こんなふうに教育すれば多分こんな人 間ができるであろう、という、そんなのんきな教育をやっているわけにはゆかぬ。こんな教育を すれば必然的にこんな人間ができる、という「確実にして誤つことのない教育技術」でなけれ ばならないo この「堅実にしてたしかに算定されたる教育技術」 (*2)(eine feste und sicher terechnete Kunst der Erziehung)こそペスタロッテの提唱した直観教授である、とフィヒテ

は考える。

在来の教育は、ある事柄を学習させるT=馴こ,これこれをちゃんとおぼえないとひどいめにあ わせるから、とおどして子どもを学習に強制させてきた。あるいは、おまんじゅうをあげるから 一生懸命勉強しなきいね、これだけおぼえたらお菓子をあげますよ、とかいって子どもに学習さ せてきた。あるいはまた、今うんと苦労して勉強しておくと将来大人になった時いい暮しができま すよ、とか,将来どんな偉い人になりたいと思っていますか、さあそのためにも今一生懸命頑張

っておかなくては、などといって子どもに学習させてきた。つまり、恐怖・現在の快楽・将釆の 快楽によって、すなわち教育外的根拠によって子どもたちを学習に強制してきた。その結果は、

せいぜい固定した知識の断片を生徒に与えたにすぎない。われはこれだけの知識ができたぞと誇

(10)

って、自分の博識をみせぴらかす人間が形成されたにすぎない。さらに悪いことには、このよう な教育技術および学習のさせ方そのものが生徒を「感覚的快楽の下稗」になりさがらせ、 「生徒 に道徳的堕落をうえつけ発展させる」結果になってしまったことである。かくて、フィヒテは

「在釆の教育は何といっても人間づくりの技術ではなかった(43)」ときびしく批判するのである。

フィヒテは、かれの提唱する国民教育が「人間形成の技術」 (die Kunst der Bildung zum Menschen)でなければならないとする。そのためには、国民教育は生徒の「生活活動および運 動の根源にまでたちいり」 、教育の成果を「生徒の人格素たらしめなければならない」 。したが

って、それは人間の本来の根本活動に立脚する教育でなければならない。

フィヒテは、 「愛は人間の根本要素である(44)」と考える。フィヒテによれば、この愛には、 「認 識された対象に対する愛」 、つまり認識的愛と「人間を人間に結びつけ、すべての個人を結びつ

けて同じ精神の統一的な理性的共同体をつくりあげる愛」 、つまり社会的愛という、 2種の愛が ある(45)前者の認識的愛に点火し、それを眠りからよびきますならば、認識は確実にまた自立的 に発展する。この認識的愛に点火する教育技術こそペスタロッテの直観教授法である、というわ けである。

「この愛の刺戟と発展は、感覚と直観を糸口とする順序正しい教育過程と自ら結びつくもので あって、なにもわれわれの特別の企てや力添えを必要としない。児童は明瞭を求め、秩序を愛す る自然的衝動を有している。この衝動は、あの順序正しい教育過程においてつねに満足させられ 歓喜で児童の心をみたす。しかし、この満足の真只中にあって児童はふたたび今現れてきたとこ ろの新しい漠然たるものによって刺戟され、さらに満足させられる。そして、生命は学習の愛と 喜びにひたる。各個人を思想界に結びつけるものこそ、この愛であるO この愛は、感覚界および 精神界一般の粋である。この愛によって、この国民教育において確実かつ計画的に認識能力の発 達が容易となり、学問的諸分野の幸多き改善進歩が成立する。 (46)」

ペスタロッテの直観教授法は、 「直接的直観」 (die unmittelbare Anschauung)を通じて 子どもに知ることの喜び(認識的愛)を覚醒する教育技術である。ところで、既知の対象は未知 の対象に接続している。そこで、純粋に知ることの喜びから、この未知の対象を知ろうという純 粋な学習意欲がおこってくる。こうして、「感覚および直観を糸口とする頓序正しい教育過程」に おいて認識は発展する。直観‑学習の喜び(認識的愛) ‑純粋な学習意欲‑精神的自己活動とい うような学習過程の下に、自主的な学習が連続的に発展する。

このようにフィヒテが理解するペスタロッテ式の直観教授法によって、教養階級の子弟のみな らず大衆の子弟も思想の世界に雄飛することができる。全国民の子弟を対象とする国民教育にお けるたしかな基礎は、直観教授以外にありえない。直観教授を基礎にしてこそ、はじめて国民教 育の第一日棟たる国民大衆に政治的認識をつちかい、政治的識見をもたせ、それにもとづく政治 的行動に対する信念を抱かせ、かくて国民道義を確立することができる。学習と労働の結合もま たこの直観教授をよりたしかなものにするものとして、フィヒテによって提唱されたのである。

再、国民教育の対象の見地から.

国民教育の学校は全国民の子弟を収容するものであるから、その学校の生徒の大半は労働階級

出身者であり、また将来労働者となるべき者である。したがって、有能な労働者の育成の土台を

この国民学校において提供すること、すなわち労働に関する基礎的な知識および技術を学習させ

ることは、国民学校の基礎的一般的教養として要求されるのである。国民学校のめざす理想的人

間像は、 「思索的なまた思慮ある農業者」 (der denkende und verstandige Landwirt)であ

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る。このような見地からも、フィヒテは学習と労働の結合を要求したのである。

これは、まさに、閉ざされた理想的な生産的労働社会における生活教育である、といっていい だろう。フィヒテの国民教育の思想は、学校を理想的な小生産的労働国家にしろ、そしてこの小 国家で生徒を生産労働に参加させつつ生産労働をめぐる事柄について学習させ、さらに理想国家 の図表を生徒に自主的に描かせるがいい、かくてすぐれた政治的見識をもち、生産労働において も有能な、没利己的な、考える農業者を養成しよう、という要求をおりこんだものということが できるであろう0 ‑言でいえば、それは、考える有能な労働国民の育成のための全国民の子弟を 平等に対象とする国民教育である。

7.フィヒテは、この国民教育の担い手を、まず、国家に期待する。この国家として、フィヒ テは諸領邦国家ではなくて、 「ドイツ人が統治されている全土をふくむドイツ国家」 、つまりド イツ統一国家を想定するのである。

「国家は、人間的関心事の最高の管理者として、また神およびその良Dにのみ答えるべき責任 をおった未成熟者の後見人として、未成熟者をかれらの幸福にむかっても強制する完全な権限を 有する ‑ (47)」

かくて、フィヒテの構想する国民教育は国家による教育であり、国民教育の権限が国家権力に 帰せられる。それは、第1に、全ドイツ国民の子弟を対象とする国民教育は統一的なドイツ国家 の権限によるのでなければ実施において困難である、という認識にもとづいている。第2に、国 民教育は子どもたちを親の家から全面的に隔離すろのであるから、当然そこでは親たちの烈しい 怒抗にあうのであり、それに対しては国家権力でもって強制する以外にない、という考えにもと づいている。第3に、 「道義的状態に対してまた健康と生命に対してしばしば有害な結果を招来 する」 「兵役への強制」 (der Zwang zum Kriegsdienste)に徴すれば、 「教育完成の暁には 個人的自由はすべて返還され、もっとも祝福すべき結果だけしか招来しない」国民教育の国家権 力による強制はもっともである、という見解にもとづいている。

国家権力による国民教育の強制は、この国民教育をうけた者が社会に出るようになった時、兵 役義務の制度も軍隊も裁判所も警察署も刑務所も感化院も貧民救済所も必要としなくなる。それ

らに費す莫大な費用は不用となる。こんなに大きな利点があるから、国家は一大決意をし、国費 をきいて国政の一部として国民教育の強制をやるがいいと、フィヒテは強調しているO

ノこれは、在来の教会権力による教育専管を排撃し、国民教育を世俗国家による公教育として提 唱するという、この当時においては進歩的な国民教育の思想の提唱である、とみていいだろうo

ところで、この国家権力による国民教育の強制の思想は、フィヒテが1796年「知識学の原則に よる自然法の基礎」(Grundlage des Nalurrechts nach Principien der Wissenschaftslehre) において展開した教育における自由主義の原則の確認をくぐりぬけてきた上でのものであること に注目しなければならない。かれは、ここで、 「子どもの教育は親の良心上の事柄である。 ・ 国家は良心上の事柄にいかなる干渉も加えることはできない。かくて、国家自身は教育にも介入 することはできない(*8)」と述べて、国家権力の教育への介入および公教育の強制をきびしく排除

したが、 「ドイツ国民につぐ」においては、前にも述べたように、国家を「人間的関心事の最高

の管理者」としてとらえなおし、子どもに公教育を強制する「完全な権限」 (das vollkommene

Recht)を有するものとしている。ここにフィヒテの思想の1 800年以前の自由主義から後期

の民族主義への転換あるいは発展をみるのであるが、ともあれ、このような自由主義思想をくぐ

りぬけてきたことは、国民教育の担当者たる国家のあり方として「君主制」 (die monarchische

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Verfassung)よりも「共和制」 (die republikanisehe Verfassung)をとらしめ、さらに国民 教育の強制権を無条件に国家権力に帰するのではなくて、国民教育の政策の立案にたづさわる政 治家の資格についてつぎのように限定させることになった、といっていいだろう。

川、 「何よりも、哲学および科学一般の深い根本的な研究を通じて自ら教育に献身している政 治家」。

(ロ)、 「自分の仕事に関して非常に熱心である政治家」 。

困、 「人間および人間の使命について確固たる概念を有している政治家」.

(二上「現代を理解でき、現今の人類にとって何がもともとどうしても必要であるかを把握する ことのできる政治家」 (*ォ。

すなわち、人間の尊厳および人間の使命について深く自覚し、歴史的見通しの下に現代を理解 し、現代の向うべき方向を正しく把握した、仕事熱心な教育経験者こそ、国政の一部としての国 民教育の推進に参画すべきである、というのがフィヒテの考えである。この考えは、国民教育の 専門職管理の思想ではないだろうか。教育権を国家権力に帰しつつも、その管理方式を専門職の それにしようとするもので、そこには具体的な提案はないが、それはやはり進歩的な構想とみる べきであろう。

ドイツ統一国家の建設が実現きれず、なおドイツが現状のままに領邦国家に分裂しつづける場 合、フィヒテはこの国民教育の実施を領邦国家に期待する。しかし、この韻邦政府が国民教育に 着手しない場合、さらに、フィヒテは「好意ある私人」 (wohlgesinnte Privatpersonen)がそ の先鞭をつけることを希望する。そして、この私人の中でも、フィヒテは地方においては「大地 主」 (grosse Gutsbesitzer) 、都市においては「好意ある市民の自発的団体」 (freiwillige

verbindungen gutgesinnter Burger)に期待をよせる。

しかし、フィヒテは、 「国家が自ら国民教育にあたらないならば、私的教育事業は、有産階級 のすべての親たちがかれらの子弟をこの教育にまかせないであろうことを恐れねばならない。し からば、われわれは、神の名においてまた十分なる確信をもって、憐れな孤児たち、路上にさま よえる悲惨な子どもたち、大人どもが放逐し見限ったすべての子どもたちに眼を向けよう(50)」と 述べ、 「国民教育の問題がかくのごとき過程をとるものとすれば、われわれの意図する人類改造 はもちろん、徐々にのみまた国民全体について堅実確固たる見通しも打算もできなくて、進行す ることになるだろう。しかし、そのことのために、われわれはこれに着手することをやめてはなら ない」(川と語っている。このようにして着手され先鞭をつけられた国民教育のための「私人の自 主的な努力」 (selbst畠ndige Bemiihungen der Privatpersonen)は、 「やがて」 (etwa spater) 国家の国政の一部としてうけつがれることになろう、というのが、フィヒテの‑積の希望であっ fa?

かくて、フィヒテの国民教育の思想は、祖国ドイツの独立を目標とする全国民子弟の平等な教 育を、人間的自覚と豊かな学識をそなえた教育経験者の占める国家機関を通じて強制しようとす

るものであった。また、それは、内容的にみれば、成人社会から全面的に隔離された理想的な国 家的共同生活を子どもたちにいとなましめることを通じて思索的にして有能な国民を育成せんと する生活教育の思想であったo学習と労働を結合し、直観教授法を教授の土台とするペス?ロッ テ流の生活教育の方式を、確実な教育技術として提唱したものであった。

ところで、フィヒテによれば、祖国ドイツの独立は、前にも述べたように、かれの歴史哲学に

もとづいて、ドイツ国民が人類の先頚に立って、世界史の第3期たる利己心支配の時代から脱皮

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し、世界史の第4期たる理性的全体の建設のために献身する時代にふさわしい国民として再生す ることによってのみ可能であった。それは、ドイツ国民がまず全面的な人類改造の先鞭をつける ことであった.したがって、フィヒテの国民教育の思想は、ドイツ国民における人類改造として の教育の思想であった。

もちろん、この思想にはドイツ民族を「原民族」 (Urvolk)としてとらえる民族主義の立場が 基礎となっているが、この民族主義はフィヒテの構想する国民教育の実施を強くドイツ民衆に迫 まるための思想的発条のごとき役割りをはたしているのであって、決して偏狭な民族主義ではな い。フィヒテは、 「精神的自然は、人類の本質を、個人とか大規模な個体たる民族とかにおいて、

極めて多様なる色合いによってのみ表現することができた。各民族はその民族性にしたがって自 らに没頭し、各民族においては各個人がかれらにとって共通な民族性とかれらの個性にしたがっ て自らを発展させ形成する時にのみ、神性はその本来の鏡にその本然の姿を映しだす(52)」という 認識の下に、 「諸民族は、自らかれらの民族性を保持し、これが尊重されたいと思うゆえに、他 民族に対してもかれらの民族性を承認し、それをかれらに許容する(53)」と述べ、すべての民族の 個性を尊重する立場を明らかにし、さらにすすんで、このような立場が維持されるために「世界 貿易」に名をかりた植民地政策に反対し、世界平和に寄与するものとしてふたたび1 8 0 O革の 封鎖商業国家論を評価している。したがって、フィヒテの「ドイツ国民教育」は決して偏狭な民 族主義的教育ではなくて、人間の教育、 「人類改造のための教育」でつらぬかれたものである、

といいうる。

ところで、フレーベルの国民教育の思想がフィヒテのそれから出発するものとすれば、一体フ ィヒテの構想のどの点から出発することになったであろうか。

第2章 フレーベルの国民教育組織論一国民による国民教育をめざして‑

1.初期の国民教育組織論‑とくにシユパルトプルク・ルードシュ タット公妃への建白書にみられる‑

フィヒテの国民教育論は、プロイセンが全面的敗北後ナポレオン軍によって占箭されるという 情況のなかで展開されたものである。この占領状態の下で、プロイセンにおいては都市に自治権 を与える都市条例、蔑奴の世襲隷属性を廃止し農奴に人格的自由を与えようとするいわゆる十月 勅令、ギルドの独占権の廃止、商業の自由の確立など一連の自由主義的な、ブルジョワ‑ ・デモ

クラシ‑的な諸改革が、国家権力によって手がけられていた。またこのような国家の自由主義的 な政策とあいならんで、民主的な自由主義思想をとく進歩的な思想家たちが一世を風摩してい た。こうした自由主義的な風潮を背景にして、フレーベルの言葉でいえば、 「当時教育および教 授の合言葉はペスタロッテであっ│‑(54)」。なかでも、ペスタロッテの「l)‑ンバルトとゲルトル

‑ド」 (Lienhard und Gertrud, vier Teile, 1781‑87)はドイツにおいて絶賛を博し、その・

書において示された教育の方式を通じて民衆の向上を期待する声が叫ばれるようになった。

このような世論にこたえるためにもまた別の思惑からも、国家権力はぺスタロッテ教授法を国 内に導入し、国民の、なかでも「庶民」 (Volk)とよばれる下層国民の教育に熱をいれはじめて いた。フレ‑ベルのシユバルトブルク・ル‑ドルシュタット公妃に対する建白書においてだけで

も、このような事情が明瞭に読みとられうる。

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1 80 9年4月2 1日の手紙では、プロイセン政府の第一級の政治家たちが極めて積極的にぺ スタロッチの教授法を導入することを審議し、プロイセン国王が先頭に立って、ナポレオンに賠 償金を支払いまた戦火に国土を荒らされてなけなしになった財布の底をはたいて、ペスタロッテ 教授法の国内導入に熱をいれていることが、報ぜられているO現在すでに1 5人の有能な青年が ペスタロッテ教授法の全貌を学びとるために国費でもってイヴェルドンに派遣され、これにつづ

いて続々プロイセンから有能な青年が国費で派遣されるはずだと語り、これらの青年が故国に帰 ってペスタロッテ教授法を普及させる予定であると述べ、さらに「その結果、ペスタロッテ教授 法はプロイセン全土に根をはることになるでしょう。全孤児院が、ペスタロッテ教授法による青 年教師の養成のための師範学校(Normalinstitute)に改造されつつあります。これらの青年た ちが完全にかつ実際に教師にまで養成されますと、かれらはこの国において任用されます。これ らすべてのことは国王によって決心されたということだけではなくて、現実にすでに指令されて おります(55)」、と述べている。プロイセン国王がいかに情熱的にペスタロッチ教授法の国内導入 に力をいれ、国民の、とくに下層大衆の教育に尽力していたかを示すものである。

また1809年7月25日の建白書では、シュツットガルトとヴユルテンベルクの例が語られ ている。シュツットガルトの町では、視学兼孤児院長リーケ(Rieke)の努力によってずっと以前 から孤児院においてペスタロッテ教授法が採用されていたが、半年ほど前からペスタロッチ教授 法の検討のために、孤児院がそれぞれ50人の子どもからなるロヒョウ学級とペスタロツチ学級 とに分けられることになった。ロヒョウ学級というのは、伝統的な暗記主義の教授法にしたがっ て教授される学級であり、ペスタロッテ学級とは、ペスタロッチのやり方にもとづいて自発的な 学習をよぴおこす教授法にしたがって教育される学級である。この両学級の比較検討が、一ケ月 前宗務局から派遣された司教兼宗務局評定官グリージンガー(Griesinger)司会の下でおこなわ れた。これには、内務大臣フォン・ノルマン‑エーレンフェルス(von Normann‑Ehrenfels)伯 爵、文部大臣フォン・マンデルスローエ(von Mandelslohe) 、国務大臣フォン・ヤスムント (von Jasmund)らが出席したO その結果は、ペスタロッチ教授法が驚嘆すべきはどすぐれたも のである、ということであった。かくて、この教授法はその町の全孤児院に導入されることにな り、また現在イヴェルドンにいる‑ドイツ人が指導のためにその町に赴任することになった、と フレーベルは語っている(56)

ヴユルテンベルクについては、つぎのように述べられている。 「さらに、ヴユルテンベルク国 王の勅令によって、この領土の全学校にペスタロッテ教授法を導入することが決定された」 。そ れによると、 1人の高等学校視学ツエラー(Zeller)から5 0人の牧師がペスタロッテ教授法を 学び、これらの牧師たちは帰って自分たちの教区の有能な学校教師たちにこの教授法を教え、そ れをひろめることになっていた。このことは、勅令によって義務として課されたものであった。(57) これらのフレーベルのあげる実例は、プロイセンをはじめとしてドイツの政治権力者たちがい かにペスタロッテ教授法になみなみならぬ執心を示していたか、この教授法を通じて民衆の教養 の向上、いな国民の力のもりあがりを期待していたか、を示すものである。

政治権力の自由主義的な諸改革とならぶこのような民衆教育への熱のいれ万は、ナポレオンの

軍隊によって国内の政治権力が抑圧されていた当時の極めて変則的な情勢の下ではじめて理解さ

れることであろう。すなわち、外国の権力支配をはねかえし、国内の政治権力がその自立性を奪

回することが、何よりもプロイセンをはじめとするドイツ諸領邦の国家権力が意図するところで

あった。このような政治権力の志向は何よりも国民の有能性を要求した。そして、このことはま

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た民衆の志向とも合致するものであった。ここに、絶対主義体制下ではまことに稀な国家権力と 民衆の意志の一致がうまれた、とみることができる。そのゆえにこそ、 1813年プロイセン政 府がはじめた対ナポレオン戦争に、ドイツ全土から民衆が自発的に義勇軍を組織し参加するとい

う、ドイツ人によって名づけられた祖国解放戦争が戦われたのである。

このような民衆との一致においておこなわれた国家権力の政策、すなわち祖国の独立をめざし ての、国内の自由主義的諸改革および民衆教育に対する絶対主義的政府としては異常な熱のいれ 方を背景にして、フィヒテの「ドイツ国民につぐ」は語られ、かれの国民教育の思想が展開され た。であればこそ、フィヒテは国民教育の権限を国家権力に委ねんとしたであろう。かれは、全 国民の子弟を対象とする平等な人間教育を、国家権力が実施することを期待したのである。たし かに、その可能性は、上に述べた当時の情勢からみれば存在するように思われた。そのゆえにこ そ、フィヒテは国家を「人間的関心事の最高の管理者」とする国家観の下に、国家に公教育強制 権を与えたのであるo

このフィヒテの「ドイツ国民につぐ」と同じ情勢の下で提出されたフレーベルの建白書には、

やはりフィヒテと同様に、政治権力による就学強制および教育内容・方法に対する政治権力の原 則的な統制を認める思想があらわれている。前にあげた政治権力によるペスタロッテ教授法の導 入の政策に関する実例そのものが、かかる思想の一端を示している。

この建白書は、 「祖国の民衆の幸福を教育および教授の改善を通じて樹立し確立しようという 希望」をもっておられる「恵み深く、気高かい君主夫人」に対して「もっとも忠実な臣下」たる フレ←ベルが、祖国の親たちの間に、また祖国の学校にペスタロッテ教授法を導入し、民衆の、

人間にふさわしい教育を通じて、 「庶民」とさげすまれることのない、自主的にして有能な国民 をつくりあげようと決意して建白いたします、といった調子でかかれている。それは、慈悲深い 君主夫人の権力を通じて庶民を人間としての価値をもった人間にまで教育するという国民教育 を、ペスタロッテ教授法の導入によってたしかなものにしよう、とするものであった。したがっ て、それは、フィヒテと同様に、国家権力による国民のための国民教育の思想であった、という ことができる。

しかしフレ‑ベルは、フィヒテよりも、国家権力による国民教育政策のあり方に一層の制約を 設けようとした。まず、フレーベルは、 「全国の学校改革がその手中に握られている最高の学校 官庁は、いわば全国の、堕落していない、そこなわれていない全住民の雄弁な代表機関でなけれ ばならない(58)」と主張する。最高の学校官庁の教育政策は、 「そこなわれていない全国民、健全

な悟性を授かっている全国民」の意見が反映された、 「全住民のためにおこなわれるもの、また おこなわれなければならないもの」であるとするO それは、国民教育の実施を国家権力に期待し ながらも、国家権力の教育政策に国民の意志をできるかぎり反映させ、国民による国民のための 国民教育を展開しようとするものであった,といっていい。

さらに、 「健全な全国民の雄弁な代表機関」たる「最高の学校官庁」の定める「学校規程は最 少限にとどめられるべきである」 、 「詳細にかつ具体的に学校規程が定められれば定められるほ ど、それだけ成果をもたらしえない」と、フレーベルは主張するO地方には地方の実情があって、

地方の教育要求の内容は千差万別である。またそれぞれの学校にもその学校の特殊の事情があっ

て、学校の教育実践も千差万別の態様をとらざるをえないo さらに、人間には個性があって、一

律に規定されるべきではない。 「人間性は、千人の個人にあっては、千の異なった形であらわれ

る̲i o したがって、最高の学校官庁が定める学校規程が詳細にかつ具体的に規定した学校規程で

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あればあるほど、すなわち「完望な学校規程」であればあるほど、 「何んらの成果ももたらさな い」 、とフレーベルは主張する.

しかし、国民が人間であるかぎり全国民に共通するものがある。それは人間性の原理であるo

「人間性は一つである」 O この共通な一つの人間性に立脚して、 「教授の理念」がある。それは

「人間の自然性の発達過程にしたがって、自主的に、自己活動的に内から外にむかって形成され るべきである」ということである。 「この教授の理念だけを、最高の学校官庁は、一定の形式で 一つの一般的な学校規程で、できるだけ単純にかつ決定的に明らかにするがいいO また、人間の 自然性の絶対的な形成手段および発達手段をあげるがいい」とフレ‑ベルは主張する。

かくて、フレ‑ベルは、国家の教育政策を決定する最高の学校官庁が全国民の代表機関となり、

全国民の意志を教育政策に反映させることを要求するとともに、そのような学校官庁の定める学 校規程すらも地域の教育要求や子どもたちの個性をふみにじることのないようにするために、詳 細かつ具体的なものでなく、単純なものでなければならない、と主張する。最高の学校官庁の定 める学校規程は、全国民の子弟の教育を簡明にかつ決定的に人間性の原理でおさえること、生徒 の一人一人の自然性の発達が尊重され、生徒の自主性、自発性が尊重され、外から強制的に、生 徒の自然性の発達を無視してつめこむ方法をとらないことを簡単明瞭に規定すべきである、とす る。つまり、学校教育に関する根本的な規程によって、生徒が学校において人間にふさわしく過 されるように定め、それだけは国民教育にたづさわる者、すなわち視学や教師たちが是非とも守 らなければならないものとして定められるべきである、とかれは考え、国家の教育政策はそのよ うな根本的なものにとどめられるべきである、と主張したのである。

「っぎに,地方視学がこの学校規程をかれの地方の必要や要求にしたがってさらに補足するが いい。

最後に、それぞれの学校教師がかれの地方の特殊性を顧慮し、学校規程の主要な要求を眼前に 描きながら、かれが任用されている特定の学校のための学校規則を自主的に作製する。

つぎに、教師はこの学校規則を地方視学の検討にゆだねる。

地方祝学は、非常にくわしく書かれたかれの地方の諸種の学校規則を、それらの学校規則がも とづいている、自分の補足した学校規程と一緒に、全国の全学校が一つの精神において教授をお こなっているかどうかを知る立場におかれている最高の学校官庁に提出する。その場合、かれは 学校規則について(学校規程に定められている)主要な理念に照して検討し作製した所見を付す べきである。 」 (傍点および括弧内‑‑筆者)

これは、最高の学校官庁の定めた根本的な学校規程にも、地方視学が当該地方の特殊な教育要 求をおりこんで補足する余地を認めたものであり、教師たちが狭い地方の要求や学校の特殊事情

を考慮して自主的に作製する各学校の学校規則が、つねに広い視野と根本的な学校規程の精神た る教育におけるヒュ‑マニズムの視点から念入りに再検討される余地をのこしたものである。

かくて、フレーベルの、シユバルトブルク・ル‑ドルシュタット公妃への建白書にみられる、

国民教育組織論は、子どもの自主性を尊重すること、すべての国民の子どもが学校において基本

的には人間という共通の土台で取り扱われること、子どもの自然的な発達を無視した非人間的な

つめこみ教育をおこなわないことといっ7こ教育的ヒューマニズムの視点の下に、政策と地方住民

の教育要求と教師の自主性の調和をはかろうとするものであった。それは、絶体主義的な国家体

制の下でできるかぎり国民の意志を政策に反映させつつ、 「一人一人の学校教師がすべて自ら創

造したもの、自ら考えぬいたものを実践にうつす」余地をのこそうとする国民教育組織論でもあ

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った。このようなフレーベルの国民教育組織論はこの点でさきに述べたフィヒテのそれとはやや 趣きのちがったものであり、一層民主的なものであったということができよう.

しかし、このような国民教育の組織を絶対主義的な政治権力に期待することは、無理であっ た。このような国民教育の構想のおりこまれT:フレーベルの建白書は拒絶され、やがてこのよう な期待を不可能にする事態が明白となってくる。それは、 18 1 3年の解放戦争によってプロイ センなどドイツ諸邦の国家権力がナポレオン軍の制圧から脱した後の事態である。ドイツ諸邦の 国家権力は、プロイセンにおいて典型的にみられるように、ナポレオン軍の制圧から脱しその自 立性を確保すると、絶対主義的な政治権力の反国民的性格を露骨にあらわし、これまで容認しか つ育ててきた諸種の民衆の運動を公然と弾圧するにいたる。

2.後期の国民教育組織論‑「教育組合」 (vereinen fur Erziehung) の構想をめぐって‑

解放戦争終結後、神聖同盟が結成され、それとならんで四国同盟が結ばれ、やがてそれは五回 同盟に発展し、一切の自由主義運動および革命運動を弾圧するメッテルニッヒ反動体制が全ヨ‑

ロッパをおおうにいたった。このような国際的な反動体制の下で、ドイツにわいては、大学の自 由と祖国の統一を旗印にし、解放戦争時代における民衆の民主的要求をもっとも熱烈に追求した 学生組合(Burschenschaft)に対する弾圧策が1 8 1 9年カールスバード会議において議せられー 大学法・出版法・煽動者取締規程の反動三法が制定せられたOこれら反動三法によって、学生組 合は禁圧され、大学教授に対する思想統制がおこなわれ、新聞・雑誌・書籍等はきびしい検閲下 におかれ,自由主義運動はほとんどその息の根をたたれるにいたった。

このような反動化の嵐の中で、 「ドイツ国民性」 (Deutsches Volkstum)を書き、 「国民教 育」 (Volkserziehung)の核心を「真の人間、すなわち理性的に考え、人間的に感じ、自主的

に行動する人間をめざす教育」と解し、まがりなりにも統一的な国民教育制度を構想したヤ‑

ン(5?)は、 1 8 1 9年愛児の瀕死の病床から拘引され、革命陰謀の名目で起訴され、かれの創設し た体操場は警察によって閉鎖され、かれの設立した体操団体は解散を命ぜられ、ここにヤ‑ンに ょって「国民教育」の一環として唱道されたドイツ体操は徹底的な弾圧をうけるにいたった(60)。

「ゲルマニアとヨーロッパ」 (Germanien und Europa, 1803)を書き、農奴解放など幾多 の自由主義的な改革をおこない、自由と独立の祖国のために奔走したシュタイン男爵の片腕であ ったアルントは、ギン大学から追われ、煽動家の理由でもって秘密裁判に召喚されたOまた解放 戦争がはじまるとともに「真理と独立を回復するた釧こ反攻ははじまったのだ(60」と青年義勇兵

に呼びかけ、あるいは国家権力は超階級的な「共同の学校」を設けるためにその権力を行使すべ きであって、この「共同の学校」の教育内容に統制や干渉を加えてはならぬと主張した(62)シ‑

ライエルマッヘルは、教育局から斥けられ、またかれのベルリン大学での講義はきびしい監視 をうけた。そしてついに、 1824年フィヒテの「ドイツ国民につぐ」は、プロイセン内務省の 警察局長フォン・カンプツによって「人心を迷わしめ、空虚な幻影を養うの書」としてベルリン での出版を禁止されるにいたった(63)

これら.の事態は一体何を物語っているだろうか。それは、フィヒテが全国民の子どもたちの平等

な教育として構想した国民教育の実施を国家権力に期待したこと、フレ‑ベルが前に述べた建白

書において民衆の教育の改善のために国家権力が国民の意志を代表する教育行政官庁を設置し、

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