フレーベルの国民教育論の研究(?)
著者 岩崎 次男
雑誌名 奈良学芸大学紀要. 人文・社会科学
巻 14
ページ 143‑169
発行年 1966‑02‑28
その他のタイトル DIE FORSCHUNG UBER F. FROBELS GEDANKEN ZUR VOLKS― UND NATIONALERZIEHUNG (II)
URL http://hdl.handle.net/10105/3380
フレーベルの国民教育論の研究(Ⅱ)
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(教育学研究室)
第1章 フィ ヒテとフレーペルー 国民教育思想をめぐって‑
1.フィ ヒテとフレーベルとの一般的外的な関連
19世紀前半におけるドイツの国民教育思想を検討する場合、 J. G.フィヒテの「ドイツ国 民につぐ」 (Reden an die deutsche Nation, 1808)において明らかにされた国民教育の思想 をぬきにしては論ぜられないであろう。 1 9世紀前半において展開されたドイツの国民教育にか んする諸思想がフィヒテのそれとなんらかの関係をもっていただろうと推察することは、妥当な ことであると考えられる(2)
ところで、フィヒテの「ドイツ国民につぐ」が議潰されたのは1807年12月から翌年の3 月にかけてであったから、それは、前にも述べたように、フレーベルの教育思想形成期において
も初期に属するものであるといっていい。フレ‑ベルが国民的観点から、あるいは祖国という観 点から意識的に教育について考えるにいたるのは、はやくとも1809年のシュバルトブルク・
ル‑ドルシユタット公妃にたいする建白書以来であり、それはかれの1 8 1 3年の解放戦争への 参加をつうじて一段と高められ、さらにカイルハウ教育会での教育実践をつうじて1820年以 来かなり体系的に論ぜられるようになるのだから、もしフレーベルの国民教育思想がフィヒテの それに関係があるものだとすれば、たとえ批判的であれ、フィヒテのそれから出発したものと考 えるべきであろう。
そこで、フィヒテとフレ‑ベルとの関係を検討してみよう。
フィヒテは17 94年イエナ大学の哲学教授として招碑され、 1 799年3月無神論々争の結 果ワイマール政府からイエナ大学の職を奪われ、 7月F ・シュレ‑ゲルらロマン派の文筆家たち の友情とプロイセン国王の寛容とをたまりにしてベルリンへ逃れている。フレーベルは1799 年7月当時イエナ大学の医学部学生であった兄トラウゴットに金を渡すた馴こ出かけ、そのまま イエナ大学の聴講生となり、やがて1 0月正式にイエナ大学酉学部学生として入学し、爾来1 8 01年までこの大学に在学している。したがって、フィヒテとフレーベルがあい会する機会は、
1799年7月という極めて僅かな時日であれ、可能であるわけである。当時、フィヒテは、か れもその編集者の一員であった「哲学雑誌」 (Philosophisches Journal)に掲載されたF ・フ ォルベルクの論文「宗教の概念の発展」 (Entwicklung des Begriffs der Religion, 1798)に 付して「神の世界統治にかんするわれわれの信仰の根拠について」 (Uber den Grund unseres Glaubens an eine gottliche Weltregierung, 1798)をかいたことが原因になって、無神 論々争をひきおこし、この事件はイェナ大学の‑大事件となっていたOこの‑大事件をつうじて、
すでに「学者のための道徳論」などの講義によってまた学生生活の腐敗の母胎であった同郷組合
(Landsmannschaft)の解散を策することなどによって注視されていたフィヒテが、イエナの全
学生から、賛否の態度はともあれ、さらに大きな注目をあびたであろうことは、十分推察される
ところである。多分、フレ‑ベルもその例外ではなかったであろう。大部なフレ‑ベル伝記をか きあげたF ・ハルフタ‑は、つぎのように述べている。
「フィヒテを無神論の非難から守ろうと決心していた哲学者ブ‑テルヴェク(F. Bouterwek, ユ766‑1828)は、フレ‑ベルの父性的な友人となった.かれをつうじて、哲学がフレーベルの主
要な研究対象になった。かれをつうじて、フレーベルは真剣に着手したカント研究から決定的に 実践哲学へ向かうことになった。フレーベルはイエナの学生として、 1799年フィヒテがベル
リンへ出発する際に、フィヒテと2時間ほど対談した。かれがフィヒテのもとを辞して帰宅した 時、他の議論の後に感じられたものとはちがった感情におそわれた. 『前には私はフィヒテ主義 者たちと論じたが、今日はフィヒテその人と論ずる』 0 (3〕」
このようにして、フレーベルはフィヒテを注目しはじめる。それは、相当の熱のいれ万であっ たであろう。だから、 「1807年8月26日フレーベルは兄クリストフにあてて、私は『フィ
ヒテのほとんど全作品』を所有している、とかくのである(4)」 。しかし、 K・ギ‑ルほ「フレー ベルが実際に何を所有していたのかということを、確証することは困難である(5)」と語ってい る。しかし、 「フレ‑ベルが『人間の使命』 (Bestimmung des Melnschen)や『ドイツ国民に 告ぐ』を読んだことは、たしかである。 『学者の使命』 (Die Bestimmung des Gelehrten)や
『浄福生活‑の手引』 (Anweisung zum seligen Leben)を読んだことも推定される(6)」と、
いろいろな理由を付して語っている。かくて、この当時、フレーベルが相当の情熱をもってフィ ヒテ思想の研究に力をいれていたことが想像される。ギ‑ルは、ハルフタ‑がF若きフレーペル ー1782年から1811年にかけてのフリ‑ド・リッヒ・フレーベルの内面的発展の研究‑』
(Der Junge FrSbel. Beitr云ge zur inneren Entwicklung Friedrich Frobels 1782‑1811)と