奈良教育大学学術リポジトリNEAR
藝術に於ける社会性の限界 ―ゴールズワージーの 劇作について―
著者 伊ケ崎 賢一
雑誌名 奈良学芸大学紀要
巻 3
号 1
ページ 41‑49
発行年 1953‑12‑25
URL http://hdl.handle.net/10105/5121
萎術に於ける社会性の限界
一一一 ゴールズワージーの劇作について −
伊 ケ 崎 賢 一
ゴールズワージーに「小さい男」という作晶がある。彼には珍らしい、徹底的に善人を描いた 作品だ。こういった善人は実在しない。けど、彼はそれを描いている。彼の理想主義の片鱗と見 てよいか。彼の見ろ現笑は常に矛盾と軍票とに充ちている。そうして、彼は、この現実主義を、
どうにかして一一度は超克しなければならない内部の衝動に駆られていた。これが、彼の作品に於 ける小さな反抗となって、この「小さい男」や、「太陽」や、同じく現実を取扱ったとは言え最後 は『情死』に圭で赴く「最初と最後」となり、波の理想主薬を示している。だが、これは、現実 の救い手となるには、余りに弱々しい。彼の本領の、生々しい現実と取組み合う余技といった感
そんたく
じが多分にある。どうして、彼がこうしたV一連仁)作品をかくに至ったのであろうか。動地酎寸度 出来るが、本領を離れた余技の感は否むべくもない。けど、これについて∴もつと考えて見る必 要はないか。恩わぬ錐がここに蔵されているとも云えないこともない。
筋は、この「小さい男」が、赤ン坊を托されることから初まる。彼は、汽革が来たのに預けた 女の人が帰って来ないので、その赤ン坊を抱いてまま汽車に乗る。汽車は発車する。女は遂に帰 って来なかった。ところが、預けた女が帰って来て見ると、預けた男は居ない。汽車は出てしま っておる。訴えを聞いた巡査は件の男を取抑えるように駅に電話する。直ぐ解って、件の「小さ
たし1
い男」は、途中の澱で、誘拐罪として逮捕される。だが、その男はちっとも師、ない。赤ン坊の 持主が解ったのでほっとする。それを見た討係者は、彼の態度に袖の如き他意なさを見る。誘拐 犯人は、彼らの魂に仲の栄光を点じたのだ。
ゴールズワージーは、救いなき人生に「小さい男」を:通して、その救いの道を見出したのであ ろうか。少くとも、見出そうとしたのであろうか。もし、そうだとすれば、この「小さい舅」は、
し・し一
無抵抗主義者である。彼は、荷物を托せらるれば、唯唯として預り、赤ン坊を推しつけら1るれば、ま た、諾々として描いておる。そうして、汽軍が来れば、その人の来ることを思って、丑に荷物を赤ン 坊とを汽車に乗せて侍ってやる。だが、事志と違って、犯人の汚名を着ようとする。彼は、それ
をなんとも思わない。持主がわかって、ほっと初めて安心する。こういった人間は、現実に存在 しない。劇としては、それが、自然に行っていろかどうかだが、それには一応成功している。読 者乃至観衆は、関係者と共に、この名もない一矯人に帽子を取る。そうして、この劇の目的は、
一応達せられたかに見える。けど、ただ、それだけだという感もしないでもなレ、。だが、また、
いつまでも心瑚隅に残る印家を与えろ作品でもある。そうして、不思俵に光っている。これはな
んだろう。これは、クリスト薮白頭与抵抗主黄だ。彼の精神が強く、こういったものに触れた時に
発した曳光だ。そうして、踵が救いなき人生に、あれでもー桜の望として托した神の栄光なの
だ。彼酎串を信じない。そうして、神に代る強レ、力を要求する。(謡)だが、その彼は、人間が弱
いことを知っているからだ。この弱さを埋め、神と共に強い人間になることは、神の如く弱くな
ることだ。この「小さい舅」は無防備だ。散に一一番強い。これは、嬰児の無防備で、嬰児の無防
備に勝ち得る強い大人は居ない。だが、また、別封ま嬰児であり、大人は大人である。大人に嬰
児であることをよめても出来ない。けど、嬰児の心が大人の心の中に少しでもあれば、それだけ
でも世の中は教われる。私は、この作品の書かれたモチーフをここに求めるのは聞達レ、だろうか 彼は現実主義者ではあったが、心の奥底には、絶えす、こうした理想主義者の精神を持掛ナてい
たのではあるまいか。(註)(l)われ夕幕の行ぎずりに碑に浄わばかくは所ちん 我!二碑を酔 ̄至ざるが如き堰き力を輿え拾えと。
「太陽」はまた、ィ、正邪悪というよりも菅井に対して持つ堂の路利を硝いたといえる。「小さ い男」と共に、理想主義の作品と嵐ていい点は、苦雅の超克の点にある。恋人を奪われた帰還兵
° °
士は、その一事にかかずり合わないで、口に歌を歌いつつ去って石く。魂が、戦争によってきた われたのだ。不幸の起電は、結局、自己の超克だ。これは、クリスト教的精神によってきたわれ たのであろうか。否、戦場に於てだ。弾丸両飛の中で幾度か死の危険に曝されたことによって持 ち得る精神の強さだ。一方では、クリスト教的無抵抗主義に敦を求め、他方では、苦難による精 神の鍛練によって将来に奄翌を持つ。一見こうした無関係の事実は、無関係の事実のままに終っ ていいのであろうか。この点になると、私にはなんとも言えない。この点については、彼の「田 舎の家」と、「聖者の歴程」とを持って来ることが、養分この迷題の解明に役立ちはせぬかと思う。
その前に考えて見なければならないことは、彼ゴールズワージーは、社会改造について、精神 的と制度的と何れを貢んじているかという点だ。この「小さい男」や「太陽」は、明らかに、精 神的面を示唆しているかに見える。そのためには、クリスト教的精神も取るにやぶさかでない。
世の苦労から得た真珠の如き魂も、鉄もとろかす強い精神もその存在価値を認める。これは、従 って、制度だけで問題の解決を全的に肯定していないことを示すものである。
さて、「田舎の豪」であるが、これは、一見、平凡な、地主の妻と思われる者が、母性愛から、
自分の息子を救うという、.母性愛の強さを取扱った作品であって、それ以外に他意ない小説であ る。母親の持つ階性愛の強さの前には、訴訟を決心したi芝地軍人の頑なな心も、とろかされざる を得ない。愛の勝利なのである。そうしてこれは、クリスト教によって培われた愛であろうか。
否、この愛こそは、クリスト教、否、宗教以前の愛なのである。謂わば、動物的愛なのである。
この素朴なる愛こそは、反って、狂乱怒涛の世の中にふさわしい愛なのである。彼は、こういっ た愛をさえ、人間性情の中に復活を希求している。こうした、東洋的愛が、如何に一位の人を救う かをわれわれはよく知っている。わが歌舞伎には、屡々、こういった例が見付けられる。レ、まだ かかる言説を聞かないけど、いがみの権太に対する拇親の盲目の愛は、彼の妻子の犠牲へと導い た点のなしとしない点が考えられはしないか。この素朴な変こそは、何にも増して強いのであ る。そうして、人間に万遍なく存在するのである。苦難、邪悪は、この素朴な変には打ち勝ち難 い。彼ゴールズワージーが求むるものは、この愛であって、宗教を濾瀕して来た愛には、一応・
疑問をさえ持っているのではないかと患われる点さえある。「聖者の歴程は」は、心配していた ことが悉く起って来る。票数の力は、最早如何ともし嫌いのである。娘はオ義の子を生む0そし て、その柏手が戦死すると牧師の最も礁っていた男と結婚してしまう。そうして、彼は、遠い ェジプトの野戦病院で、力のなかった自分の聖着としての歩みを融ろ。タロが赤々とさしている窓 で、彼は何を考えているか。救いのないクリスト者としての歴程が長く続いているだけだ0悩み はあるが、その憎は、彼と共に統いている。玄如こ彼は、宗数の無力を示している。勿論、完数は 魂の問題であろう。現実の問題をテキパキと片付けて行く力のものではない。けど、現実と衝突
した時に、われわれは現実の問題として解放を迫られろ場面にぶつかる。われわれは・その際・
その現実の問題を解決する要求に迫られるのである。宗畝によって魂が救われているより以上か
以前かの面にぶつつかるのである。そうして、それが解放を与えるものは・魂を救済する以前の
救済の方法を見付け出さねばならないのである。
「斗争」は乍然、も早や、何をもってして車J解決の方法の絶望を示すものである。JEに、救い のない社会であろ。資本主義社告と共に、永久に続く様相である。血で血を洗う乱世が、東も進 歩した人間社会に変卸したのでもろ。そして、抑兢なる詩人的良心を持てろ彼は、躇曙出来ない のである。「斗争」は、あらゆろ骨頂腔ノ「年で、黄も鮮明に、最も克明に、この白熱化した八閻悲 劇を択出して見せているのである。これを怯えたら、も早や、理論であって、芸術の世界を越境 してしまうギリギリの限度を示している。尊父、再読をいとわせるだけの余りの力強さを感じさ せろ。解決されても、永久に再起する斗争だ。そうして、ここには、「小さい男」のクリスト教的 無抵抗主義も、「太陽_」の鍛われた精細も、如何ともL甘い絶壁にぶつつかる。個人を問題とする 宗教も、鍛はれた個人の力も、も早や、集団の力に向っては、手を扱くより外方卍はないのであ ろ。ゴールズワh∵ジーが絶望右二感すろのは、こ吼ノ無力の個人の完敗と個人の力とであろ。彼は集 団を発見した。勿論、集団は彼が発見すろ前にあったが、それは、近代的集団で、産業革命の嫡
° ●▼
出子であった。専箕はそうであるのに、世の中はこの事具を認めるのにやぶさかだった。そして、
現在もやぶさかだ。
集団は無慈悲であるといわれる。だが、これは、無慈悲な点か拡大されたのだ。よい点もある が、そ紬′ま当∴橘ここととして着通される。よい点によって影響されるよりも悪い点によって個人 の蒙る実害は大きい。それは、個人の力は、貯木主菜社会に於ては、一壷九割こも耐え得ないほ ど弱められていろからだ。だから、この最後の一線を守るためには、死斗を事とLなければなら ない。何題は、生活問題でなくて生存問題になって怠る。「斗争」に於て、三上ヒロバーツと装本豪 アンソニーとの与りま焼烈ならざるを得ない。そうして、勢の赴くところは、ロノヾ−ツの妻の死に まで高められる。一方、アンソニーは、一歩託ったら会社の破滅となるのである。けど、きりき りのところまで行くと、会議の結果、会社の−一部言薫歩となる。それは、アンソニーの意思にも反 し、ロノ〈−ツの素志の貫徹にもならない。最後の場面で、二人は顕を見合せて、お互に緻笑を交 す。ここは、われわれ日本人には解る微笑だ。そして、さらば戦場に雌雄を決せんという両雄の 心事と相通するものがあって、激しい死斗のあとの人間味を見せている。立に、彼の、作劇術の 秘密をさえ見ろ0これは、チェオフの「6号窒」に相通するものが見られ、痕斯院の最後現己述 に月を出したと回巧異曲である。私は、あれほどの劾即勺な月を見たことがないと同様に、これ ぼど人間的な微笑を見たことがなレ、とでも云えようか。もう一つ効果的な手法と云えば、集会の 夕方、水兵が、釘を拙こかかげろ仕草である。これは、集会に対して、ノくントマイム式の仕草だ が・多少鼻につく煉いなしとしない。そうして、これは、彼の芸術性がそうさせたのであっ て・重体的に且て、そうとがむべきことではない㌧そうして、こうした手法は、彼の社会劇の随 所に見られるところで・それが・適当に、気息詰まる場面をほぐしてくれている。彼の出世作
「銀の箱」は・また・逆に、最後に、ちょっぴり、そして、それが、この作品の目的とする酎命 の味付をやっている。この二つは、彼の社会劇としては、対訳的作品である。これは彼の若さに 満ちた作品であり、それだけ野心的である。「フォーサイト策動語」に見る菟軟性がある。年と共 に彼の社会性が展開されて、「斗争」にまでなる礎程には、幾多の作晶か見られるということが常 道かも知れないが、掛7)熱烈な社会悪に叶する憎悪の念は、同じ若さのl侶熟をも′ノて、「銀の箱」
(1906)に対して、l()09の「斗争」を生ましめたのである。それ以接の作品は、この両極端を辿 けて、適度な交配があるが、それだけ、彼の作品として印易が弱められてレ、る。即ち、彼は、そ れ以後の作品「iE蓑」「鳩」「長男」「逃亡菅」「点徒」「一片の愛」「血戦」「家庭の人」「息笑」「窓」
「森林」「懐しの英国」「見世物」「腑乱そして菓滋に「亡名者」を書いているが、最後の「亡名
者」は、資本主我社会に於ける新興階級に圧迫された侶支配階級が、如何なる運命を辿るに至づ たかを描いた意味に於て意蓑深い作品である。主人公のロバーツは、鉱山も屋敷も売払ってアフ
リカに行くが、捲土重来伽心算で帰って来て、競勘こ全財産を投じて一八勝負をやろうとする臭 覚に・大切な馬が悔いて、その計画は画釦に帰する。ところで面白いのは、もし、新興成金の養 子になれば、問題はなく、もとの生活に帰れるのだ。ところが、それはしないのである。同気相 求むる写真屋のイースト君と一紬こ、また「獅子住む」アフリカへと旅立つのである。ここに作 者の魂を見、没落した英国上流階顔の行方を見るのである。私は、戦争に於ける日本の没落階級と にらみ合せて、面白い対照を見出すものである0そ¢雌の作品については、極端な現実主義を採 っていて、ケイ眼なる作者は、「小さい舅」などによって、理想主義の片鱗は示しているけれど も・理想主義に勝る現箕主義の価値をよく認識している。そして、そのためには、何よりも、芸術
よ