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藝術に於ける社会性の限界 ―ゴールズワージーの 劇作について―

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

藝術に於ける社会性の限界 ―ゴールズワージーの 劇作について―

著者 伊ケ崎 賢一

雑誌名 奈良学芸大学紀要

巻 3

号 1

ページ 41‑49

発行年 1953‑12‑25

URL http://hdl.handle.net/10105/5121

(2)

萎術に於ける社会性の限界

一一一 ゴールズワージーの劇作について −

伊 ケ 崎 賢 一

ゴールズワージーに「小さい男」という作晶がある。彼には珍らしい、徹底的に善人を描いた 作品だ。こういった善人は実在しない。けど、彼はそれを描いている。彼の理想主義の片鱗と見 てよいか。彼の見ろ現笑は常に矛盾と軍票とに充ちている。そうして、彼は、この現実主義を、

どうにかして一一度は超克しなければならない内部の衝動に駆られていた。これが、彼の作品に於 ける小さな反抗となって、この「小さい男」や、「太陽」や、同じく現実を取扱ったとは言え最後 は『情死』に圭で赴く「最初と最後」となり、波の理想主薬を示している。だが、これは、現実 の救い手となるには、余りに弱々しい。彼の本領の、生々しい現実と取組み合う余技といった感

そんたく

じが多分にある。どうして、彼がこうしたV一連仁)作品をかくに至ったのであろうか。動地酎寸度 出来るが、本領を離れた余技の感は否むべくもない。けど、これについて∴もつと考えて見る必 要はないか。恩わぬ錐がここに蔵されているとも云えないこともない。

筋は、この「小さい男」が、赤ン坊を托されることから初まる。彼は、汽革が来たのに預けた 女の人が帰って来ないので、その赤ン坊を抱いてまま汽車に乗る。汽車は発車する。女は遂に帰 って来なかった。ところが、預けた女が帰って来て見ると、預けた男は居ない。汽車は出てしま っておる。訴えを聞いた巡査は件の男を取抑えるように駅に電話する。直ぐ解って、件の「小さ

たし1

い男」は、途中の澱で、誘拐罪として逮捕される。だが、その男はちっとも師、ない。赤ン坊の 持主が解ったのでほっとする。それを見た討係者は、彼の態度に袖の如き他意なさを見る。誘拐 犯人は、彼らの魂に仲の栄光を点じたのだ。

ゴールズワージーは、救いなき人生に「小さい男」を:通して、その救いの道を見出したのであ ろうか。少くとも、見出そうとしたのであろうか。もし、そうだとすれば、この「小さい舅」は、

し・し一

無抵抗主義者である。彼は、荷物を托せらるれば、唯唯として預り、赤ン坊を推しつけら1るれば、ま た、諾々として描いておる。そうして、汽軍が来れば、その人の来ることを思って、丑に荷物を赤ン 坊とを汽車に乗せて侍ってやる。だが、事志と違って、犯人の汚名を着ようとする。彼は、それ

をなんとも思わない。持主がわかって、ほっと初めて安心する。こういった人間は、現実に存在 しない。劇としては、それが、自然に行っていろかどうかだが、それには一応成功している。読 者乃至観衆は、関係者と共に、この名もない一矯人に帽子を取る。そうして、この劇の目的は、

一応達せられたかに見える。けど、ただ、それだけだという感もしないでもなレ、。だが、また、

いつまでも心瑚隅に残る印家を与えろ作品でもある。そうして、不思俵に光っている。これはな

んだろう。これは、クリスト薮白頭与抵抗主黄だ。彼の精神が強く、こういったものに触れた時に

発した曳光だ。そうして、踵が救いなき人生に、あれでもー桜の望として托した神の栄光なの

だ。彼酎串を信じない。そうして、神に代る強レ、力を要求する。(謡)だが、その彼は、人間が弱

いことを知っているからだ。この弱さを埋め、神と共に強い人間になることは、神の如く弱くな

ることだ。この「小さい舅」は無防備だ。散に一一番強い。これは、嬰児の無防備で、嬰児の無防

備に勝ち得る強い大人は居ない。だが、また、別封ま嬰児であり、大人は大人である。大人に嬰

児であることをよめても出来ない。けど、嬰児の心が大人の心の中に少しでもあれば、それだけ

(3)

でも世の中は教われる。私は、この作品の書かれたモチーフをここに求めるのは聞達レ、だろうか 彼は現実主義者ではあったが、心の奥底には、絶えす、こうした理想主義者の精神を持掛ナてい

たのではあるまいか。(註)(l)われ夕幕の行ぎずりに碑に浄わばかくは所ちん 我!二碑を酔 ̄至ざるが如き堰き力を輿え拾えと。

「太陽」はまた、ィ、正邪悪というよりも菅井に対して持つ堂の路利を硝いたといえる。「小さ い男」と共に、理想主義の作品と嵐ていい点は、苦雅の超克の点にある。恋人を奪われた帰還兵

° °

士は、その一事にかかずり合わないで、口に歌を歌いつつ去って石く。魂が、戦争によってきた われたのだ。不幸の起電は、結局、自己の超克だ。これは、クリスト教的精神によってきたわれ たのであろうか。否、戦場に於てだ。弾丸両飛の中で幾度か死の危険に曝されたことによって持 ち得る精神の強さだ。一方では、クリスト教的無抵抗主義に敦を求め、他方では、苦難による精 神の鍛練によって将来に奄翌を持つ。一見こうした無関係の事実は、無関係の事実のままに終っ ていいのであろうか。この点になると、私にはなんとも言えない。この点については、彼の「田 舎の家」と、「聖者の歴程」とを持って来ることが、養分この迷題の解明に役立ちはせぬかと思う。

その前に考えて見なければならないことは、彼ゴールズワージーは、社会改造について、精神 的と制度的と何れを貢んじているかという点だ。この「小さい男」や「太陽」は、明らかに、精 神的面を示唆しているかに見える。そのためには、クリスト教的精神も取るにやぶさかでない。

世の苦労から得た真珠の如き魂も、鉄もとろかす強い精神もその存在価値を認める。これは、従 って、制度だけで問題の解決を全的に肯定していないことを示すものである。

さて、「田舎の豪」であるが、これは、一見、平凡な、地主の妻と思われる者が、母性愛から、

自分の息子を救うという、.母性愛の強さを取扱った作品であって、それ以外に他意ない小説であ る。母親の持つ階性愛の強さの前には、訴訟を決心したi芝地軍人の頑なな心も、とろかされざる を得ない。愛の勝利なのである。そうしてこれは、クリスト教によって培われた愛であろうか。

否、この愛こそは、クリスト教、否、宗教以前の愛なのである。謂わば、動物的愛なのである。

この素朴なる愛こそは、反って、狂乱怒涛の世の中にふさわしい愛なのである。彼は、こういっ た愛をさえ、人間性情の中に復活を希求している。こうした、東洋的愛が、如何に一位の人を救う かをわれわれはよく知っている。わが歌舞伎には、屡々、こういった例が見付けられる。レ、まだ かかる言説を聞かないけど、いがみの権太に対する拇親の盲目の愛は、彼の妻子の犠牲へと導い た点のなしとしない点が考えられはしないか。この素朴な変こそは、何にも増して強いのであ る。そうして、人間に万遍なく存在するのである。苦難、邪悪は、この素朴な変には打ち勝ち難 い。彼ゴールズワージーが求むるものは、この愛であって、宗教を濾瀕して来た愛には、一応・

疑問をさえ持っているのではないかと患われる点さえある。「聖者の歴程は」は、心配していた ことが悉く起って来る。票数の力は、最早如何ともし嫌いのである。娘はオ義の子を生む0そし て、その柏手が戦死すると牧師の最も礁っていた男と結婚してしまう。そうして、彼は、遠い ェジプトの野戦病院で、力のなかった自分の聖着としての歩みを融ろ。タロが赤々とさしている窓 で、彼は何を考えているか。救いのないクリスト者としての歴程が長く続いているだけだ0悩み はあるが、その憎は、彼と共に統いている。玄如こ彼は、宗数の無力を示している。勿論、完数は 魂の問題であろう。現実の問題をテキパキと片付けて行く力のものではない。けど、現実と衝突

した時に、われわれは現実の問題として解放を迫られろ場面にぶつかる。われわれは・その際・

その現実の問題を解決する要求に迫られるのである。宗畝によって魂が救われているより以上か

以前かの面にぶつつかるのである。そうして、それが解放を与えるものは・魂を救済する以前の

救済の方法を見付け出さねばならないのである。

(4)

「斗争」は乍然、も早や、何をもってして車J解決の方法の絶望を示すものである。JEに、救い のない社会であろ。資本主義社告と共に、永久に続く様相である。血で血を洗う乱世が、東も進 歩した人間社会に変卸したのでもろ。そして、抑兢なる詩人的良心を持てろ彼は、躇曙出来ない のである。「斗争」は、あらゆろ骨頂腔ノ「年で、黄も鮮明に、最も克明に、この白熱化した八閻悲 劇を択出して見せているのである。これを怯えたら、も早や、理論であって、芸術の世界を越境 してしまうギリギリの限度を示している。尊父、再読をいとわせるだけの余りの力強さを感じさ せろ。解決されても、永久に再起する斗争だ。そうして、ここには、「小さい男」のクリスト教的 無抵抗主義も、「太陽_」の鍛われた精細も、如何ともL甘い絶壁にぶつつかる。個人を問題とする 宗教も、鍛はれた個人の力も、も早や、集団の力に向っては、手を扱くより外方卍はないのであ ろ。ゴールズワh∵ジーが絶望右二感すろのは、こ吼ノ無力の個人の完敗と個人の力とであろ。彼は集 団を発見した。勿論、集団は彼が発見すろ前にあったが、それは、近代的集団で、産業革命の嫡

° ●▼

出子であった。専箕はそうであるのに、世の中はこの事具を認めるのにやぶさかだった。そして、

現在もやぶさかだ。

集団は無慈悲であるといわれる。だが、これは、無慈悲な点か拡大されたのだ。よい点もある が、そ紬′ま当∴橘ここととして着通される。よい点によって影響されるよりも悪い点によって個人 の蒙る実害は大きい。それは、個人の力は、貯木主菜社会に於ては、一壷九割こも耐え得ないほ ど弱められていろからだ。だから、この最後の一線を守るためには、死斗を事とLなければなら ない。何題は、生活問題でなくて生存問題になって怠る。「斗争」に於て、三上ヒロバーツと装本豪 アンソニーとの与りま焼烈ならざるを得ない。そうして、勢の赴くところは、ロノヾ−ツの妻の死に まで高められる。一方、アンソニーは、一歩託ったら会社の破滅となるのである。けど、きりき りのところまで行くと、会議の結果、会社の−一部言薫歩となる。それは、アンソニーの意思にも反 し、ロノ〈−ツの素志の貫徹にもならない。最後の場面で、二人は顕を見合せて、お互に緻笑を交 す。ここは、われわれ日本人には解る微笑だ。そして、さらば戦場に雌雄を決せんという両雄の 心事と相通するものがあって、激しい死斗のあとの人間味を見せている。立に、彼の、作劇術の 秘密をさえ見ろ0これは、チェオフの「6号窒」に相通するものが見られ、痕斯院の最後現己述 に月を出したと回巧異曲である。私は、あれほどの劾即勺な月を見たことがないと同様に、これ ぼど人間的な微笑を見たことがなレ、とでも云えようか。もう一つ効果的な手法と云えば、集会の 夕方、水兵が、釘を拙こかかげろ仕草である。これは、集会に対して、ノくントマイム式の仕草だ が・多少鼻につく煉いなしとしない。そうして、これは、彼の芸術性がそうさせたのであっ て・重体的に且て、そうとがむべきことではない㌧そうして、こうした手法は、彼の社会劇の随 所に見られるところで・それが・適当に、気息詰まる場面をほぐしてくれている。彼の出世作

「銀の箱」は・また・逆に、最後に、ちょっぴり、そして、それが、この作品の目的とする酎命 の味付をやっている。この二つは、彼の社会劇としては、対訳的作品である。これは彼の若さに 満ちた作品であり、それだけ野心的である。「フォーサイト策動語」に見る菟軟性がある。年と共 に彼の社会性が展開されて、「斗争」にまでなる礎程には、幾多の作晶か見られるということが常 道かも知れないが、掛7)熱烈な社会悪に叶する憎悪の念は、同じ若さのl侶熟をも′ノて、「銀の箱」

(1906)に対して、l()09の「斗争」を生ましめたのである。それ以接の作品は、この両極端を辿 けて、適度な交配があるが、それだけ、彼の作品として印易が弱められてレ、る。即ち、彼は、そ れ以後の作品「iE蓑」「鳩」「長男」「逃亡菅」「点徒」「一片の愛」「血戦」「家庭の人」「息笑」「窓」

「森林」「懐しの英国」「見世物」「腑乱そして菓滋に「亡名者」を書いているが、最後の「亡名

(5)

者」は、資本主我社会に於ける新興階級に圧迫された侶支配階級が、如何なる運命を辿るに至づ たかを描いた意味に於て意蓑深い作品である。主人公のロバーツは、鉱山も屋敷も売払ってアフ

リカに行くが、捲土重来伽心算で帰って来て、競勘こ全財産を投じて一八勝負をやろうとする臭 覚に・大切な馬が悔いて、その計画は画釦に帰する。ところで面白いのは、もし、新興成金の養 子になれば、問題はなく、もとの生活に帰れるのだ。ところが、それはしないのである。同気相 求むる写真屋のイースト君と一紬こ、また「獅子住む」アフリカへと旅立つのである。ここに作 者の魂を見、没落した英国上流階顔の行方を見るのである。私は、戦争に於ける日本の没落階級と にらみ合せて、面白い対照を見出すものである0そ¢雌の作品については、極端な現実主義を採 っていて、ケイ眼なる作者は、「小さい舅」などによって、理想主義の片鱗は示しているけれど も・理想主義に勝る現箕主義の価値をよく認識している。そして、そのためには、何よりも、芸術

を招いては、その軌的を達し難いことをよく知っている。彼の芸術家としての好さは、この現箕 と芸術とを如何に噛合はすか、言いかえれば一方を捨てて他方を採ることをしなかった苦心に存 するといえる0これは、もともと、彼が詩人であることに緑由する。詩人としての彼は、如何に

しても、生硬な理論にだけ終始することが出来なかった。言って見れば、詩人として、芸術家と しての彼が、法律を専攻したことが、彼の一生の運命を決定したと云える。詩人としての魂が、

法律を通じて現実の奥腐く浸透して行くことが出棄た。現実は余りに詩人の魂を揺り動かした。

それだけで、彼の作品が生れるのは自然であった。事実、彼の作品は、「銀の箱」や「息子」や、

「正義」などを初めとして、法律に関係しているものが甚だ多い。そしてその中に「−正義」の如 きものは、裁判を描いた他の如何なる作品にも企及し得ない場面を持っている。彼こそは、裁判 を、全人類のために活かした作家といえよう。ここでも彼は、飽迄、現実主義者である。獄房生 活の悲惨さをつぶさに描いた場面は、時の為政者チャーチルを動かし、監獄法の改正に変で漕ぎ つけたのである。従って、監獄法改正の行われた以後の版には、この獄房生活の場面を削除して

レ、る。

彼の作品を、小説と戯曲について、大胆な分け方をすれば、小説は主として、個人としての生 活の展開を示し、劇作に於ては、もつと広く、社去事易を取扱っているとすることが出来る。一 方は彼の芸術性を満足させ、他方は、社会正義の立場を開明ならし.める手段を採っていると云え

よう。そうして、彼の芸術観を覗うには、「芸術に関する漠然たる考察」なる−小文がある。

「……若しも私が大理石の浴槽につかっているとする。レ、くらするだろう、とか、どこから運 んだのだろうと、その価格や獲得について考える限りは芸術ではない。乍然その色や形につい

こう

で怪惚たる瞳間は、いかにそれが短かかろうと、その限りに於ては、その対象が私から私を奪 って、私の代りにそこに位置を占めるのである。かくして、私の中の個人を没却して宇宙に合 せしむるのである。」

この為めには、「感情や感受性の具体化の技法に依」ることは勿論必要であって、かくして出

来上った人間的精力の想像的表現こそ芸術なりというのである。だから、何も、取立てて特異な

点を彼の芸術観に求めることは出来ない。問題となるのは、彼の芸術的表現をそそる素材であ

る。それが、在来の芸術の持っていた素材たる人間像でなくって、群像たる社会なのである。う

まく彼がそれを飲みをおせたか。そこに彼の芸術の、社会芸術の、限界がある。あるがままに飲ん

で、それを「想像的表現」し得ることには、理論上可能であろうが、実際的に見て、人の消化力

には限度がある。結局不消化のまま吐出す点に達すれば、そこが、芸術的限度だといえる。その

最高の表現を見せたのが、「人間的精力の想像的表現」の最高潮に達している時期の作品、「斗

争」に外ならない。彼はそこを限度として、も早や−一歩も進むことが出来ない。言い換えれは、

(6)

劇芸術の領域から逸脱することになる。それは新しい個人の創竃から出発してかからねばならな いのである。それは、現巽主義を棄てて実存主義によるか、将叉、斗争に参加してそこから学びと

らなければならないっ ところが、実存主義は、個人観に立つ埋論だし、社会は個人の如き肉体と 精神とを有しない。斗争に参加する場合は、「より貢」は描くが、それだけに終ってしまうのが 今までの例であった。勿論、斗争への参加が、現実主義にプラスする場合は群論上考えられない わけではない。それは、今後に待つより外ないだろう。即ち、彼は、それによって、大衆への作 家となり、その代弁者となり、社会を描くのではなくって、社会と共に呼吸するのである。彼は 社会を静的に示さない。活きたものとして、進化するものとして示す。そこに、民衆の喜びと希 望とがある。(註 ブレヒト順劇論」)

だが、演劇がそこまで行くのには、天才ブレヒトの演劇論の出現と、民衆の自覚とを必要とす る。露骨な社会劇よりも、浪花節やトンコ節を喜ぶ民衆には、そして、立身出世を念願とする一 般大衆には、「物′′)道理」は解らないのである。かかる開成を超克して、それ白身、民衆の生活と 同限度の拡さを持つ演劇の生れることは、当然、なくてはならない。この生活の限度と同じ限度 を持つ演劇こそ、古来、演劇の隆盛期に見られたのである。「エジボス王」の悲劇は、そのままギ

リシャ人の信仰であった。エリザベス王朝の劇は、!幅,鞠こ、その時代の思想、従って生活を反 映していた。この点よりすれば、ゴールズワージーの劇は、19世紀から20世糸己に亘る、最も変化 に富んだ時代を、最も忠実に我々に示している。これが、彼のすぐれた点であるが、単に対象を 自己と入替えて、宇宙との繁りを感ぜしめて自己を忘れる没人格的情橘の芸術では、現代の複雑 なる社会相は描かれるに適しないのである。然らば、彼の芸術は、も早や取るに足らないだろう か。こ.こに彼の生命の存否が考えられ、現代的意義が論ぜられる。

×・      ×

それは、彼の作品が、一にかかつて、全的生活をしているか否かにある。その点は、個々の作品 については異るが、概して言えば、他の作家が、己人の生活を見るように社会を見ている。そし てまた問題は、古典的態度にある。だが、彼は、作品の中で生活している。社会を描いているは すの作品にあって、作品が生活していないのが現快であって見れば、彼に学ぶべき多くのものが すのありはしないか。

「脱獄」に於ける脱獄囚は、単に、脱獄のスリルを取扱っているのではない。帰還軍人である 彼。間の女。夜の公園。巡査、それを誤って殺す。脱獄の動機。霧のロンドン。破獄、遁走。か ばう姉妹、但し、クリスト教徒の姉は好まない。追う民衆。元検事の情味。最後の牧師の部屋、

そこで、教師に嘘をつかせないように、自ら姿を現わすに至るまで、義理人情という古風な道具 建てから、無理解な社会、法律の不備、そしてこれらが、少しの不自然もなく読者乃至観客に訴

えるのである。こういった社会劇もあることを思わせる。更に「長男」は、「銀の箱」と回巧異 曲だが、法律が、富者には厚く、貧者には不利に出来ていることを極めて露骨に見せている。そ れと共に、富者の持つ心情のいつわりないところがまざまざと見せてある。これは下手にやれ ば、新派悲劇物になるところを、鋭いまでに澄んだ観照の目を通して、それを救っている。「忠 義」は、貧乏を特級ううちにも、限られたの旅館内の宿泊人同志の友情を描いて、そのうるわし い友情の内に死を選ぶ英国の軍人気質を示している。末だ友情滅びずの感が潔い。けど、社会悪 の原因が貧乏であることを痛抑こ恩わする。だから、貧乏をなく しなければならないではない かという精神が強く読者の陶を打つ。

死を選ぶ作品には、「始と終」「なつかしの英国」「正義」などがある。前二者は、小説を脚本

化したのであるが、「始と柊」は、西洋には珍らしい心中物である。西洋天の綱島とでもいうベ

(7)

きか.循〇女の亭主を殺し、その女と服薬自殺するまでの心鞘が叙されている中に、読者は、こ うした社会悪はどこから来ろか考えさせられざるを得ない。「正義」は何故この青年を罰しなけ ればならないか。そして、何故、社会の秩序のために、かかる刑罰を行わなければならないか。

社会の仕打と、法秩序とに対する根本的な嚢間を持つ。「なつかしの英国」は、愛する息子の妻 と遺児とに対して、死をもってかばう員本家のヒユーてニズムを示している。

これらは、何れも、その背後に、社会−小さい家庭という社会まで含めて−−を持ってい る。或は、社会の中に個人をとらえている。これが、現代の生活瑚由である。これが、彼が成功 した所以であり、永久性がある証拠である。よし、その手法は、今から見れば、旧来の芸術観を 一歩出ていないにしても、その詩人的窺性と、人間愛的良心とは、よくその複廿な時代を表現し 得て、社会劇に対.する一時期を確立したのである。

×        ×

ゴールズワージーほど、徹底的に社会を取扱った作家はない。如何なる短信を取って見てもそ れが覗われる。「蔵人二元質」は、江戸の職人竃質を思わせ、それが、時勢の波に抗すべくもなく 滅びて行く。けど、この独乙系の靴工は、無頂の腕と共に、金銭に対する執着が人並外れてい る。食うや会わすに働いた後、送に、所謂「日に金をくわえたまま」の死方をする。推しよせて 来る進化の波は彼を飲んだのだ。ゴールズワージーは、彼の作品の中で、随所に進化をのろって いる口吻を作中人物に洩らさしている。その題名からして「進化」は、廃れ行く辻馬車引の生活 を描いたものだが、全篇、進化に対する抗議である。おそらく、作青の、或る夜の軽駅を物した ものであろう。そして、面白いことは、ちょっぴりとではあるが、最良に英国魂が覗レ、ている。

乗って来た作菅が、別れる時尋ねるそれは、何故、党了高二片与えたら、生命を救って下さった といった間に対し、日本人だったら、めそめそとまたグチを聞いて貰うのだろうが、この老人 は、人間はというものは、気が弱くなることがあり彙さあ、と答えて、晴馬にまた散打って去っ て行くのである。黄猿払亜品であろ「亡名石」には、廿⊂来ろ罵り名前が「進化号」で、新興成 金ジョンの持鴇であるが、これが乱馬になることは、進化の持つ ̄力む象徴と見られるが、これ は、進化の力の如何ともし短いことを示す、作者の−一つの容認と見ろことが出来る。「靴」は、

時勢おくれの芸人が、且郡につれられて昼飯食いに行くが、ふと、靴に開いている穴を見付けら れ、.口実を何んとかつけて去られる話。「森井」は、半ばは、戦時回京の御用に立てるという意 味で、祖・先伝来の森朴を売払う斜陽族の一人を取扱うが、彼は、長径の見廻 に出かけて、その まま、道に迷ってしまう。それは、そのまま、ジャック・ロンドンの短篇で、弓一の瞭野に凍死す る場面とよく似ている。被は、その曇明、早く仕事に出かけた農民によって、大樹の根元に坐っ たまま凍死している姿が発見される。森細ま切り払われたが、彼の走りかかつて死んだ木はご一 木ぽつんと残される。放つ、森の中を迷う描写はすぐれていて、読者も共に、彼と、店を哩むる 茂みの中を彷迫する思いがする。トルストイむ昆梯する大穴文学は、正に、こんなものを言うか

と恩われる。

彼の作品の国子をなすものは、社会悪、乃至、社主酌矛店、即ち、貧乏、犯罪、刃争、そし て、これらの原因として、社会的階級、貧富の菱等を享け得るが、何れの場畠こ於ても、彼の現 実主義は、−一方の榔⊂偏しない徹底さを示してレ、る。だから、読者は遣う。迷うCとは、それに ついて考えることになる。何が止しいか。買働石か貢本宏か、これは−一見、迂愚の事に息われ

る。けど、問題を考えさせろ事二つ方が、一方的に教えるよりも、遥かに、読者乃至看客に訴える

力は大きい。絆はこれをなした。そして、彼より外にこれを試ろ圭はない。波l乙)みこれをなし得

る「想像的表現力」を持っていろりだ。そして、これこそは、彼の「大皿的エネルギー」によっ

(8)

て、感情と、感受性の具体化が宥われた結果なのである0

これと共に考えなければならないことは、登場人物についてである0「フォーサイト豪物語」

のポシニーの如き芸胤如勺天才は、彼の作に早くか 埋没してしまっているが・物慾の象徴たる リームズの如き人物は、彼の作中、至る所、形を変えて出没している0「銀の箱」「長男」「正義」

そして最後に「亡名音」の中に出て来る父親は、何れも、物慾・権威慾の権化であり、面白いのは 最後の「亡名著」の催男爵ジョンは、最も新い新興成金として戯画化されている0ところが・

これらは何れも平常軋かける、ありふれた英国人の内のある塑であって、ソームズを始祖とする これら一連の父親達は、その上柏を捕えることに於て、黄もよく英国人を代表する型なのであ る。そして、そ和こは、一種の愛着をさえ感するのである0これが、実在の人物の在り方だ0彼 の作品を通じて、われわれは、英国人「ジョン・ブル」を:知ると共に・1一種・限りない愛着をさ ぇ感ずるのである。彼が、ノーベル賞を得たのは、「フォーサイト家物語」の中の描写に対して であるが、その主軸となっている着は、、ノームズなのは勿論で卦る。これに配する女性は・彼の 求めて遂にその心を得なかったアイリーネである。天才芸甫家たる建築技師ボシニーを喪って後 は、リームズと離別し、投身自殺をさえ図るが、脚力された接、ソームズの従弟ジヨリオンと結 婚する。これは、「銀の福」の街の女や下姑こその分身を見せ、「長男」では、長男の息子の相 手プレグになって現れる。「始と終」の中山ワンタは、身を縛に落したアイリーネである。そし て、最後の「亡名著」の中のモダン娘であろジヨウンは、相手のチャールズに対して、近代娘の 意見を敬するが、彼が、彼女達を知らないというと、

−それは、あなたが知ろうとなさらないからだわ

と、一本寒つ込むほどになっているが、その中にも、冷澄な美を持った彼女の心魂に至って は、矢張り、アイリーネに系譜を引くものである。

ソームズの父親の老ジヨリオンも「なつかしの英国」の蔦本家へイソープとなっているが、わ れわれの興味を引くのは、最近のイギリス映画「フォーサイト家の女」(註)といわれる、この

アイリーネである。彼女はまだ、「斗争」の労働者代表ロバーツの妻に見られるが、そしてそれ は、巌の如き無慈悲極まる物慾の塊の如き人物に配するに、石南花(しゃくなげ)の如き女性を もってすることは、取合せの妙を感ぜさせずには描かないものがある。ゴールズワージーの作品 に現われる女性の如何に千変万化しても、その底流をなすも糾ま、冷澄な彼女の資性であって、

小説「林陰の木」のジプシー女も、遂に、「亡名著」のジヨウンと共に、フラッパー娘には成り 得ない。乍然、また、最後に、モダン娘にまで変絶するアイリーネの歴程は、時代のそれと歩調 を合わせていると見るのは、余りに悪意に過ぎるであろうか。同じことは、ソームズ乃至、:老ジ ョリオンに対しても言える。斗士ロバーツなどは、特殊な現れ方だが、その純粋さに於ては、ボ シニーの変貌と言い得べけんか。彼に対して、仕本家を代表するアンソニーは、多分に、老ジヨ リンオンの壮年時代の気骨を代表するものと仮慮するCが出来よう。相は、これら諸人物は、系 譜として、それぞれの所属を求め得られるが、そl?_)各人物としての独立性を害するものではな い。各人物は、夫々その特自性を持し、あいまい模糊たる点が竃もない。ただ、「銀の箱」の蒸し 返しの如き「長男」に於ては、両者の人物が叔然としない点があって、この意味に於て「長男」は、彼 の作とには失敗の作たるを免れまい。(註阿部孝ブ←ルズワ←ジr)

ゴールズワージーの作中の人物は、だから、われわれの軸に、永久に生活している。そうして

社会悪から来る波等の斗争は、永久の争となって、われわれの心を捕える。それは、百万遍の説

教にまさる強い力をもって、われわれにその解瀬を迫る。そうして、それらは、悉く社会の憎み

なのである。正確に言えば、19世紀から20担紀にかけてのそれであった。ギリシャの諸作品とい

(9)

い、シエクスピアのそれらといい、それらの取扱った題間は、その時代に於ける最大の幅を持っ た、言い換えれば、生活全体を覆うほどのものであった。そ・れは、トルスイトの芸術観 (註)

芸術とはどんなものかと相頂するものがあり、偉大なる芸術の具有すべき条件とも考えられ、ま た、偉大性の基根とも言えよう。 (註トルスイトr芸術とはどんなのかD

この意味に於て、19世紀から20世紀初頭を彼自身の仕方に於て最高度に表現し得たゴールズワ ージーの作品は、そこり限りに於て偉大と言わなければなるまい。彼以後に於て、理論上は、芸術 の限寵を社会とt一致さすことも主張されているけれども(認)まだ、まのあたりその実践を見て

いない。しかしながら、それかといって、その実践の可能性を見出すことは、われわれ硯ので 代人の任務であり、かくしてこそ、芸術に於ける。社会性叫限界の拡大乃至は、撤去となり得る ある。芸術はそれだけ、演劇の分野に於て領域の限度を撤去することになるのである。芸術の他 の分野に於けるそれはどうか。稿を改めて検討したい。(註 ブレヒト順劇創)

住年所謂プロレタリア芸術は、その暴露戦術の立場から、そこに現れた社会は、一方的な社会 であった。社会というよりも、斗事を一方的に描いたものであって、それは、ゴールズワージー の「斗争」の中に社会を表現したのものとは、およそ異質のものであった。この現象は、日本だ けのものではなかったらしい。それは、世界的に見て、所謂プロレタリア芸術として秀れたもの がなかったことで証拠立てられる。だが、これは、決して無駄ではなかった。これを機縁として 社会性の限界を推拡げて行くことが出来るといわなけ頼ばならない。唯物史観によるこの申し児

は、株首を誤らない限り、成長の可能性が変だあるのである。

現代の芸術は、事実、現代を表現するには余りに相姦なのである。それを補う一一例として現れ たのが、自動車や飛行機に見ろ謹計美である(註)。奇妙なことは、元来、これらは、実用を基 礎とする力学的現れである。この新しい影響を受けたのが建築学である。ニューヨークのイース トリバーに沿うて立つ国連の総ガラスの建築は、その規模に於て代表的なるものだろう。敢近テ アトロ誌上に見らるろ職場作品や、演劇理論には、傾聴すべきもCりがあるといあるるが、われ われはまた、新しい領域は、新しい場から生れることを当然と思い、そこに期待をかけるのが本 当なのではないだろうか。それにしても、演劇は、作者と俳優と看容とから成り立ち、これらの 融合統一が望ましい。時代の雪嶺進化を退かに察知出来る作者俳優であってこそ、観客を動かし 得るし、従って、時代の演劇たり得る。これ、は時代に迎合することとは違うし、それこそ、一 歩でも、演劇芸術の幅を推拡げて行くのに役立つ。この為めには如何なる努ブコが必要であろう か。  (註 Col−bll汽ier r近代建築の方剛)

そのためには、在来の作家の書吾人から、!或る程度、職場人への移行が必要になって来る。ゴ ールズワージーの時代でない現代は、かくして、彼の芸術を雁拡めて彼を現代に生かすことによ って、彼の系譜を正しく継ぐことが出来るのであろう。また、これがためには、彼は、単に、ゴ

ールズワージーの如く法律学著だけであってはいけない。

特に日本について言えば、頁の資本主義過程を通らなレ、国だけに、何も不徹底を免れず、新し い主義思慮は不消化の安ま、また次の新しい主尭思慮をとり入れなければならない状態にあるた め、新しい日本文化は、独創性のない模倣文化だと云われている。かかる文化状態の下では秀れ た演劇史化の発生を期待することは無理であろ。ccリ意味に於て、抽こ作家はどう身を処さねば ならないか。もっとも、これは、演劇にのみ謀せられた問題ではない。

ゴールズワージーが拓いてくれた虜刊の分野を更に碓拡めることは、現在並びに今後に謀せら

れたる問題である。だが、頗ると、日本は、立派な歌舞伎の伝統を持つ国である。これをこのま

(10)

まにして放っておいていいだろうか。これは演劇の一一天宝庫である。これを全然招いて、西洋的 技法を取入れることは考えられないことだろう。その他、文楽、能なぞと共に、こういった芸術 を持つ日本は、明日の演劇への橋掛りとすることが出来る筈であろう。勿論、これは主として技 法についてであるが、技法が、言レ、換えれば、特殊の技法を持った演劇人が演劇を動かして、そ の人のために脚本を書かした昔を思えば、今また、ある人を当て込んだ劇が書かれることが行わ れていい筈だ。

時代感覚を嚢失した演劇は過去の演劇だ。常に演劇は時代の演劇でなければならない。社会性 の限界の広い程、その中に包含される内容は変転が甚しい。従って、適えす敏感にこの変転を察 知しなければならないわけである。このためには、それらを察知するだけの学識を必要とする。

ゴ「ルズワージーは、よく時代の波を見分けた。そうして、それが、次々と新しレ、時代の作品 となって現れ、殆んど波の全生涯を賛して書いた「フォーサイト家物語」は、時代と共に新しい 変転を見せている。これが、波が偉大なる所以であって、作品の跡付けによって、時代仙波む正 確に知ることさえ出来ろ。特に、好一一次牡丹太載の披虻与えた影響は大きい。如何なる欧洲作家 もそうであろうが、按の作品の内容は、これによって一線を劃されている観がある。そうして、

その影響を作品に現わし初めたのは、終戦後二三年経ってかなである。即ち、最礼現われたのは

「里有の歴程」に於てである。それからは、戯曲にも、短掛こも、随所に現われ、最後の「亡名 著」には、乞食の婆となって現われる。さすが、事実が圧倒的なだけに、直ぐには現われなかっ た。彼の偉大をもってしても、如何ともし難かったかと思われる。人物がはっきりしていること は、事件をはっきりさせ、劇を成功に導く所以である。これが、「斗争」の如き争議を取扱って 成功に導レ、た主要の原因ではないか。そうすると、これを無限に進めて行けば、芸術に於ける社 会性の限界は、無限に推し進めて行けるわけだが、それは、I出こ、彼の如き作家に於て初めてな

し得ることかも知れぬ。さすれば、さし当って、なし得ろ最大の方法は、女張り、現在を生きろ

(1‡)だけでなく、:現重三を知ることなのである。今.目は、魂の救済を求むる時でなく、社会の救 済を叫ぶ時である。そのためには、無数軋澗題に対する解決を与えるのではなく、その問題を わが問題として考えさす方法によるのである。なんとなれば、解決は無数にあり、これを悉く解 決することは不可能であり、叉、わが聞題として問題とすることによってむ興味を起さすことが 頁の正しい方法と考えられる。これは、ゴールスワージーの払えるところであり、彼の作品の 現代に与える意義は大きレ㌧.そして更に、このためには、作判は、単なる書百人であってはなら ない。かくて、社会の光矧て置去りにされようとしている演劇は、社会と共に歩み、社会の芸術 即ち、現代の芸術たり得て、その限児は、社会と共に、社会によって、無限に拡げられるわけで ある。この場合に於けるゴールスワージーの功既は、彼の生存現と同様に、われわれに対して 大きいといわなければならぬ。(蔑トルストイ「ゎれらいかに生くべきか」)

そして、また、演劇が、その他に俳優を要素としていることは、俳優が同時に社会を知ること を必要としていることに変りはない。従って、過去の俳優の修行と、現在のとでは、特に円本な ぞでは・雲泥の差が考えられる。ジユヴェは演劇論を書いている。だが、単に演劇論が書けるだ けでは、これからの俳風ま充分ではないだろう。今磯の俳優からは、社会批評家が出ていい筈 だ。作家についても同じことが言えるのは勿論である。これは。尋常一一機な菜ではない。けど、

これを克服し得る者こそ、俳優たちり資格は付与されよう。

かくて虜ぜられる劇は、トルストイの耶酎[会隆一大衆性(註)のある刺となって、大衆の中に 浸還し、大衆に愛せられる大衆の演劇となるだろう。一部の者のみに愛せられる在来の刺は、偏

在的な存在となってしまい、新風の迦噺こ満ち充ちた演劇の時代が現して待たれ得よう。

(詰 r芸術とはどんなのもかJ)

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