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英国観光事業の展望

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英国観光事業の展望

その他のタイトル A Survey of The Tourist Industry in England

著者 河村 宜介

雑誌名 關西大學商學論集

1

2

ページ 1‑24

発行年 1956‑06‑01

URL http://hdl.handle.net/10112/00021874

(2)

戦後の英国に於ける国際観光事業に対する国民の関心と熱意は目覚しいものがあった︒今次大戦で戦勝国の列に

入ったとはいっても︑国内産業は殆ど壊滅に瀕し︑英国経済のよって立ってきた基盤である九大な大英帝国植民池

に対する統制力も著しく失われ︑従って起った経済構造の大きな変動によって回復は遅々として進まず︑勢い孤島

の経済を昔日の繁栄に返すには︑持前のジョンプル気質

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を以てしても︑並々ならぬ苦難の道を歩

かつては︑泄界至るところにユニオンジャック

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の旗を見ぬところはないといわれた程︑その植民

政策や︑貿易政策に於て︑将た又海運勢力に於て隆々たる勢を示した英国も︑飢餓輸出によるのでなければ国民の

生活を維持して行くことが出来ず︑伝統的自由主義政策を一榔して︑労働党内閣の下に厳格な統制に服し祖国の復

興に努め︑その先決条件として外貨︑特に弗の獲得にはあらゆる施策を集中しなければならなかったのである︒即

ち︑血を絞るような輸出の振興︑生活切下を踏台とした戦後批界最大を誇る造船業の異常な拡充︑賃銀政策に妙を

得て再起した海運など︑堅実な老舗の底力を発揮して着々復興の実を挙げることが出来た︒然し乍ら一方︑戦後弗

まねばならなかった︒

(3)

生んだ英国観光協会を始めとする関係機関︑更には︑一般国民及び政府の夫々の立場に於ける慄い理解と撓まざる

獲得の花形として︑時代の脚光を浴び︑世界注目の的となった新興観光事業の驚くべき成果を見逃してはならない︒

トーマス・クック・アンド・サソ社の副支配人工ー・ジェー・クーナー氏の言を藉れば︑ある産業が自分自身を

﹁シンデレラ﹂と呼ぶ時には自己に対しての憐みの情を持っているのである︒愛されていないことは明らかであり︑

誰からも望まれていないようであり︑現在は荒涼としており︑未来は希望のないものであると感じているのである︒

しかし︑望まれぬものは往々にして繁栄する︒シンデレラは︑初期の逆境の故にこそ後には順境にあったのかもし れない︒英国における観光事業はかつては実際にシンデレラであったが︑今日では︑代々の大蔵大臣に寵愛さるべ き幸福な姫君として現われた英国の一産業である︒のみならず︑彼女の役割を変え︑英国民の﹁仙女の教罷﹂と称 せられるのは︑直接間接を問わず︑英国にとってこれほどの利益を齋らす産業は他にないからである︒

そもそも︑英国が世界一の富強をほこり︑確固たるポンド経済圏を擁して︑文字通り批界経済を牛耳っていた戦 前に於ては︑地味ではあったが︑堅実な観光客を海外に放出してポンド睛買力を撒布し︑世界観光事業界にとって︑

最大の顧客の︱つであったことは周知の事実である︒それが一転して戦後の苦境に陥ると︑国家的見地からは︑従 来︑さして重要とは考えられていなかった国際観光事業こそは︑

て︑この﹁忘れられていた産業﹂の急速な育成︑発展に非常な努力を払うに至ったのであった︒しかも今日では︑

年々︑観光客の激増を見︑弗貨の獲得に於て︑

活動状況を棚観して行くことにする︒ 英国の危機を救うものと認められ︑官民一致し

全産業中第一という成果を収め得たのであり︑この成果と︑これを

努力とは︑意あって力足らざる我国観光事業に︑幾多の示唆を興えるものと思われるので︑以下︑その足どりと︑

(4)

王や女王は領土を巡幸し︑貴族達は宮中に伺候したが︑

一八世紀末には︑医薬と勉学とは未だ旅行遊覧 一般人は家郷に留っていた︒その当時でさえ︑時々起る戦

﹁ハックルートの航海﹂は︑

大移住が行われたが発見されたものは何もなかった︒

沿 旅行の歴史は︑われわれの記録にある時代の最初の時期にまで渕る︒その起源は︑

準を高めるに必要な物資と交換しようという人間の欲望に基くものであろう︒

フエニキア人航海者を先駆とする︑古代の地中海に於ける貿易活動は︑東方え拡っていった︒そして︑これらの 人々が︑故国に帰った時︑その訪れた国々の景観や︑奇妙な風習などを物語ったことは十分に想像ができる︒実際︑

この時代のフニニキア人は︑逝かにポリネシアまで行ったという説もある︒古代ローマが亡んで後の暗黒時代には︑

ってくるまでは︑旅行は︑冒険好きな人々の大望の的とはならなかった︒

王朝の英国に与えた偉大な貢献を思い起させる︒しかし︑旅行それ自体のための旅行は︑未だ行われていなかった︒

争は人々を遠国に連れ出し︑その征旅の物語は村の人々の間に好箇の話題となったのである︒

人々が︑純粋に旅行の楽しみのために︑旅に出るようになったのは一八批紀以後のことであった︒

スターンが真正の旅行記として最初のもの﹁セソチメンクル・ジャーニー﹂に描かれた旅に出たのはこの気持から であった︒恐らく︑医薬知識の増大と︑鉱水の持つ治療特性の重要性に新たに気附いたことは︑旅の終りに目標を 与え︑この感情豊かな旅行者を励ます一助となったことであろう︒

ー︑前

マルコ・ボーロが︑

おそらく余剰生産物を生活水

かの幻想的な勿必来汗の物語を携えて帰

(5)

種類の休暇旅行ー!従前のヨーロッパ大陸旅行︑ 2︑トーマス・クック社の濫熊トーマス・クックが︑その最初のエクスカーションを計画することができたのは︑英国の鉄道の発達によるもの

である︒彼は︑熱心な禁酒運動家で︑ある集会に︑出席するために一五哩を徒歩で旅行していた時︑ミッドランド

•カウソティーズ鉄瀧が、レスクーからダービーまで開通するということを知った︒

酒運動のために︑初めて一般に広告して︑

募集した︒この簡単な仕事によって︑彼は観光事業の創始者としての国際的名声をかちうる道に第一歩を踏み出し

レスター︑ラフバラ間往復を普通料金の半額︵ニニ哩を一シリング︶で

トーマス・クック及びその子ジョソ•メイスン・クックの創立した会社は、このエクスカーショソからあらゆる

一リゾートでの滞在︑バス・ツーア︑

よる旅行までもを次々と発展させていった︒これらの休暇旅行の発達は実に偉大なものがあった︒今日では︑

バスのみでも約一0万人の英国人が毎年大陸を旅行している︒しかもある大きなオペレークーでは︑この種の旅行

予約は最近四十年間に年々平均三〇劣づ4の増加を示している︒ ーロッパ大陸巡遊旅行﹂は既に行われていたのである︒

一八四一年七月五日︑彼は禁 慰楽のために遠い国々を訪問することは︑永い間少数の人々の特権であった︒しかしながら︑交通機関の発達に伴って旅行への衝動と旅行の可能性は益々拡まった︒スティーヴンソンがロケット号を製作した当時までは︑旅行を特定の領城内に制限する方向に向っていた世界的状況にも拘らず︑青年紳士の教養に不可欠と考えられていた﹁ヨ を楽しむ口実であったことは事実である︒

クルーズからジェット機に

(6)

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五一年には︑英諸島全土からロンドンの博覧会を訪れる一六五︑000の人々のために︑輸送と宿泊を手配したほ

どであった︒また︑四年後には︑英国から︑パリ博覧会に行く何千人ものために予約を行い︑その後︑間もなく︑

そのツーアはフランスの他地方︑

んだ︒トーマス・クックは単なる団体旅行募集者ではなかった︒彼は組織的旅行の先駆者であり︑旅行を一般人の

手の届くものにしたのである︒彼は︑旅行を柩めて簡単なものにしたので︑団体旅行も個人旅行も一般化され︑彼

の名声は泄界いたるところ普ねく知れわたるに至った︒特に︑彼は観光事業を形成する種々の方面との協力に努め︑

その関係を密にした︒

クックは︑当時︑その鍋光事業の輝しい未来を全然知らなかったスイスに着眼した︒スイス観

光事業百年の歴史のうちで︑ダヴリュウ・ハンツィカー教授は︑英国アル︒^イソ・クラブが︑

されたことと︑

業の基礎となったと述べている︒スイス人は︑その観光資源の有する可能性を速かに認識し︑

スイス︑ベルギー︑

ニスコーテッド・ツーアが一八六三年に︑始めてスイスを訪れたことが︑

クック社と充分な提携を行うに至った︒次の数字は︑

トーマス・クックと同じように︑旅行の発逹のために活動

いたが︑その後︑国際情勢および経済状況に従って変動して 下の増加の趨勢は︑第一次世界大戦の勃発までは安定して

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九九八八八八

‑ 0九九八七

〇五四ニニー

スイス観光事業の当時の発展を示すものである︒

オランダ︑ドイツ︑

は︑創立後十年た4ないうちによく長足の発展を遂げ︑

ォースクリー︑更に︑批界一周にもおよ

0年代に創立

スイス観光事

ホテルおよび運輸当

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(7)

れに傲い︑観光事業の問題として来訪客に関心を示し始めた︒

一九一四年から一八年の第 当時︑英国内でできる旅行は範囲が極めて狭く︑一方では︑海浜の家族向きリゾートが次第に発達しつつあった

一人の厳格な禁酒家フレイムがあった︒しかし︑この時代にあっ

ては︑英国観光事業は︑殆ど外国に向う客ばかりを扱い︑英国に客を惹こうとする努力は︑すこしも払われなかっ

一般的にいって︑英国は孤立した島国であって︑国民としても︑実際的

﹁商業国民﹂であり︑他国人の言葉を習ったり︑或は︑客を﹁家庭﹂に招待するというような労は︑滅多にとらな

かったことは確かである︒国内的にいっても︑今批紀までは旅行は比較的少かった︒休暇は少数の人々のためのも

のであり︑有給休暇を有するのは︑更に︑限られたグループに過ぎなかった︒

が︑涌常は︑イングランドの湖水地方や︑

3︑第二大戦後の親光政策の転換 スコットランドの高地地方に限られていた︒

一次世界大戦は︑その前進を阻んだが︑戦争は︑陸上および航空用内燃機関の発達を齋し︑この発達は︑世界観光

事業界に割期的な役割を与えることになったのである︒戦争が終ると︑国土の復興に忙しかったベルギーおよびフ

ランスの人々は︑その国土え︑更には戦場でさえ︑ツーリストを惹きつける得ることを認識した︒英国も次第にそ

一九三九年ー四五年の第二次大戦の間は︑英国においては︑掘光事業という観念は全く消滅していた︒実際︑

国民逹は﹁この旅行はどうしても必要だろうか﹂ということを再考するよう勧告されていた︒しかし︑

て︑大戦の中頃までは︑政府は︑国民に対して生産維持の一手段として休暇旅行をするよう熱心に奨励した︒

戦後になって︑英国は︑その保有外貨を多額に消費していることを認め︑観光事業の復興を目指して︑その地位 た︒所謂︑英国は掘光客輸出国であった︒ していた人々の中には︑ジェー・ディーソ更に︑

(8)

た会員は︑会費および寄附によって協会を維持している︒

は︑政府資金による補助を受けている︒

住者の間に︑休暇を英国で過す習慣を養い拡めること︒﹂である︒ を検討する機会を捕えた︒次第に厳しく感じられてくるドルの涸渇は︑入手し得るあらゆる外貨を獲得する活動に

拍車をかけた︒戦争終了とともに︑槻光事業の指導者たちは早速活動を開始した︒

一九四七年︑新たに設置された英国旅行休暇局

( B r i t i s h Tr av el   an d  H ol id ay s  R oa rd ) 

0年︑同局は英国旅行休暇協会

( B r i t i s h Tr av el   an d  Holidays

  As s o c i a t i o n )

となり︑同協会は︑英国の観光事

業を形成する目的の種々の池方的関係事業と︑非常に力強く協力している︒

1︑英国旅行休暇協会

英国旅行休暇協会

(T he B r i t i s h   Tr av el   an d  Holidays

s s   A o ci a t io n )  

観光事業に関心を有する人々から構成され︑協会の規約から引用すれば︑その目的は﹁英国内における観光︑並に

休暇旅行の設備と快適さを増強せしめるために︑あらゆる方法で協力し海外よりの英国訪問者を増大させ︑英国居

会員は︑航空会社︑醸造業者︑ホテルおよびレストラソ業者︑内陸運輸機関︑地方当局︑海運会社︑旅行業者等

広汎に互り︑多数の個人が準会員として加入している︒その委員会は︑数人の政府任命委員と︑更に会員より選出

された委員から成っている︒この協会は︑国際収支上の窮境解決に対する外客消費の貢献が認められたので︑協会

一九五三ー五四会計年度には総額七ニ︱七五0 とは何か︒それは︑簡単に一云えば︑英国

一九二九年に創立された旅行協

(9)

事業最盛期の年に比較して︑四七劣以上の増加を示している︒

7シトニー

ォークランドに海外事務所を有し︑協力して英国への︑また英国内での旅行の宣伝に努めている︒

9  

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一九四七年

一九四八年

トロソト︑パリ︑ケープ・クウン︑

000000ボンドが消費された︒大戦後イングランド︑スコット

アイルランド等えツーリストが殺到したのはこの協会の活動による所が大なるものがあった︒

左表は一九四九年以来の訪問者の趨勢︑並に休暇旅行のため出国する英国人の数を示している︒

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一九五三年のツーリストの入国数は︑耐乏生活の問題や受入れの設備︑

而して︑右に示した事実より更に重要なのは︑戦後における観光事業の発達が英国の国際収支に果した役割であ る︒左に掲げた数字は︑収支の旅行部門において支払超過額が次第に減少して来たことを示している︒

000000ポソド

︱ ︱ ︱ 三

000000ボンド 五三年中には英国訪問者によって︑

英国旅行休暇協会は﹁宜伝機関﹂であって︑

資金の制限が存在しなかった戦前の観光

(10)

︐  人ツーリストよりのドルを稼いだことを示した︒ 一九四九年

0

一九五一年

一九五二年

000000ボンド

000000ボンド

000000ボンド

二 ︑

000000ポンド

以上の数字は英国人が海外で費やした通貨と海外よりの旅行者が英国内で費やした通貨との差額である︒これに

は運賃は含まれておらず︑旅行のみに関する国際収支表の純借方勘定を表している︒

れば︑同年中に従来の借方は二︑000000ボンドの貸方に変っている︒かくて︑かつては︑

った英国観光事業が単一産業として最大のドル収入源であることが始めて分ったのである︒また︑

委員会報告書﹁一九五二年におけるョーロッ︒^掘光事業﹂は︑同年中︑英国は︑他の如何なる国よりも多くの米国

化学製品︑染料︑薬品その他 毛糸および毛織物

綿糸および綿製品

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︹観光収入を製造工業による商品輸出の六主要項目と比較したもの︺

     

 

一九五三年の暫定的数字によ

シンデレラであ

(11)

毛糸および毛織物

綿糸および綿製品

英国にとって︑これらの金高はいかなる意義をもつものであろうか︒

光収入は︑英国の対米輸出品中最大のものであったのである︒この観光収入は︑英国の最も重要な︑見える輸出品

たる織物及びウィスキー類を凌駕し︑これを以てすれば︑英国は米国から約五0

000

1 0

0000トンの新聞印刷用紙︑或は四二0000000ガロソのガソリン︵英国の一ケ年の必要量︶を購入

コソモンウェルスよりの来訪者 なお一九五三年国籍別訪問者数は次表の通りである︒ することができ︑その重要性を殉ることができる︒

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一九五一年に米人ツーリストが持込んだ観

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(12)

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その他

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(13)

ホテル 興味ある概観を得ることができる︒ ーン︑グラスゴー︑

米国よりの来訪者は他のどの国のそれよりも多いことが認められるのであろう︒米国人の英国内での行動および

ドンからォックスフォード︑

2︑宿泊施設 ストラトフォード︑ 滞在期間が問題になるかもしれない︒休暇旅行者の平均滞在日数は一0日間である︒この一0日間に米国人はロン

チェスクー︑ケジック︑カーライル︑グレトナ・グリ

コーンウォール︑デヴォン︑

数の日程が立てられる︒勿論五日以内の滞在者も多いが︑それでもこれら小じんまりした島々をかなり見物できる︒

  I I  │ 

不 そ 中 米 トルコを含む

一九三六ー一九一1一八年平均ほ九0000人である︒

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1 1︱ ︱  

リンカーン︑ケンプリッジ等等を訪れ︑英国の

ウェイル.ズ等を訪れることもできるし︑その他無 五六六 . 

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(14)

13 

を有するシカゴの大ホテルーつは︑ 一級ホテルの中には︑小旅館を除き免許を受けているホテルの全部が含まれる︒二級ホテルの中には個人経営の

ホテルで優良なものが含まれているから︑この二つは︑﹁国際鍋光ホテル

( ho t e ls de   to ur is me )  J ; 1 相当し︑その総

ベット数は三0万足らずである︒この名称は︑

ロンドンのホテルには︑約五0000のペッドがあり︑その少くとも半数は︑かなり水準が高く海外よりの旅

ロソドソには︑バス附ルームは五ー六︑000にすぎない︒従ってロンドンにおける

ホテル不足は決定的であり︑このためにいわゆる観光シーズンや︑外客の多数集る行事のある際などには︑個人の

住宅を開放して外客の用に供したり︑親光客の地方分散の措置を講じている︒かつて一米国人は︑室数三︑000

ロンドンの全ホテルを合せたよりも米国人に向くよい設備を持っていると語っ

今後この国を訪れる外客の数は益々増加するものと予想される︒首都ロソドソにおける宿泊施設の不足は我国同

行者に適している︒しかし︑ する総てのホテル施設に対して用いられている︒ ョーロッパの公式観光機関において︑種々の国際旅行者の使用に適

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と︑現在のところ英国のホテルの状況は大体次の如くである︒ 英国におけるホテル事業の規模に関する正確な統計は作られていないが︑英国旅行休暇協会の行った推計による

(15)

﹁キャンパー﹂の受入能力は︑

築するに充分な成功を収めているかということである︒

10

*は終始満員を続け︑更 一方ホテル︑殊にリゾート・ホテルにおける一大客層であった中流階紋が相対的な収入額および税金の

変化によって大きな影響を受けてきたことを考えれば︑必ずしも驚くに値しない︒ホテルのサーヴィスに対する需

要は︑最近一五年間に完全に変ってきており︑ホテル事業の或る部分は疑いもなく縮小を余儀なくされるであろう︒

しかしホテル界の最も明るい希望は︑その大多数が良い設備を望んでいる海外よりの訪問者の急激な増加にか4

ている︒これによって︑国内市場の喪失を幾分か補うことができるであろう︒当面すべき︱つの問題は︑若干の中

I

ロンドンはその最も顕著な一例であるがーでホテル事業は︑その設備を拡張する即ちバス附ルームを増

ホリディキャンプ

英国における﹁有給休暇﹂巡動は︑現存設備の需要を増加し︑訪問客の要望をより正しく認識することを必要に

一九三九年以前に起った最も重要な発展の一っはホリディ・キャンプの出現であった︒こ4で休暇を

過したことのある人はその寛いだ雰囲気を知っている︒軍務に服していた頃のことを憶えていて︑

ンプはもう廃れるであろうと第二次大戦直後に言った人々があった︒しかし︑今日では英国内に凡そ一00

ディ・キャン︒フがあり︑小はニー三

00

人用のものから大は五︑000人以上を収容するものまである︒そして︑

000人である︒キャンプは通常五月から九月末まで開かれており︑平

常の年には︑その七五形がシーズンの始めと終りの二週間づつを除いて満員であり︑

に一五%は七月後半および八月前半に洞員であることが推計されている︒

様英国観光事業においても︱つの饂路をなしている︒

ホリディ・キャ

(16)

15 

英国の気候

最高温度最低湿度平均温度

降雨日数

最高混度最低温度平均湿度

降雨日数

︵ 註

1 れているようである︒

二 三 三 四

0九 五 ニ 一 三 三 四 七 九 五 三 ー 四 三 四 八 一 六 五 ー 四 三 五 五 五 九 一 ー 五 四 五 0三 七 ー 五 四 六 五 六 八 三 ー 五 五 六 八 八 ー 五 ー 五 五 六 八七ー::::

ー 五 四 五 七 四 八 九 ー 四 四 五 九 七 ニ ニ ー 四 三 四 八 二 八 六

四 ︱ ︱

︱ ︱ ︱

一 三 三 四 五 九 五 三 ー 四 三 四 0五 五 ー 四 三 四 四 三 六 九

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︱ ︱ ︱ ︱  

ー 五 四 六 ニ 四 五 二 一 六 五 六 二 〇 一 八 一 六 五 七 三 三 四 一 一 六 五 七 三 二 四 〇 ー 五 四 六 二 七 九 五 ー 五 四 五 0四 六

一月

二月

三月

四月

五月

六月

七月

八月

九月

十月 ー 四 三 四 六 四 九 九 十 一 月 ー 四 三 四 六 一 六 五 十 二 月

このホリディ・キャソプの発逹が︑有給休暇から起った宿泊設備問題に貢献してきたことは周知のとおりである︒

ずらせて混雑の緩和を計ろうと労働者その他が相当努力したにも抱らず︑

ことは成功しなかった︒今では︑

一般の人々が休暇をとろうと思う時期は年数ヶ月にすぎない︒休暇の時期を

人々に慣例的な休暇時期を見棄てさせる

かつてなかった稲多数の人々が休暇をとるが︑宿泊設備はそれに比例して殖えは

しなかった︒かくして︑需要が供給を上廻るため︑シーズン中には高料金が課され︑これから旅行に出るかもしれ

ない人々をも差控えさせてしまう︒このことは︑最も重要な海外よりの旅行者にも必然的に適用される︒

現在の設備が︑改善されつ4あることは事実である︒またその改善が︑すべての関係者に対し︑現存設備拡充の

重要性を強調しつゞけている英国旅行協会の協力はあるにもせよ︑概して観光事業界の個々の機関の努力に帰せら

たゞ英国の気候は変り易い︒︵註︶1

(17)

ツーリストが海外旅行計画を立てるに当って欠くべからざる予備知識の一っほ︑その国の気候である︒右の表は米商務省発行の米国統計年鑑

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1951)

なお降雨日とは00一吋以上の降水量があった日をいう︒

ホテル従業員の雇傭条件を規定するために制定せられたホテル従業員賃銀法は︑経営費を著しく増加させ

るものであると︑多くのホテル業者は不満の意を表している︒即ち︑多くのホテルでは︑規定の賃銀条件に従うた

めには︑従業員数を最少限に止めることが必要であるとの結論に達し︑その結果︑

しかし︑同法施行以来の経験よりして︑ サーヴィスに影響をおよぽした︒

ホテル業者が︑同法の規定を客にできるだけ最上のサーヴィスを提供する

一九五四年七月三日をもって完全に終った︒ホテル並にレストラン経営者たちが︑ 必要性に一致させることを︑少くとも相当産度にまで可能とした︒また非常に長い間大問題となって来た食糧配給

一九三九年以来待ちに

待った日が終にやってきたわけであるが︑配給条令はこの二年の間に︱つまた一っと撤廃され︑今では廃止すべき

条令は殆どない状態となって了った︒︵註

2)

︵ 註 2)

配給制に最終的終止符をうったのは︑このほど公布された二つの示達で︑料飲食業者は食糧大臣の認可を得ることを要する食糧令︵事業所の認可︶.を廃止した特示一九五四年第八一八号と︑食糧配給令︵一般規程︶および同改正令︑食肉︵配給︶令︑ベーコソ︵配給︶令を廃止した一九五四年第七九七号とが即ちこれである︒

これらの示達廃止により︑食糧配給計画は終憶し︑料飲食業者は何の拘束を受けることもなく︑思うがままに食

糧を購入し︑思うがままに提供するの自由を再び完全に取戻したわけである︒今日では︑英国ホテル事業は海外の

競争者と比較してかなり優位に立ち得るという結果となった︒

にも拘らず︑ホテル業は一九三九年以来かなり縮少した︒規模の大小を問わず優良ホテルの少くとも一っを失わ

なかった都市リゾートは殆どない︒海浜や︑内陸のリゾートで幾つかの大きな明らかにヴィクトリア玉朝式の建物

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更に︑殆ど各線において外国航空の挑戦があり︑仮りに︑英国機の連航を減らしても客は︑陸︑海上運輸機関を

利用せず︑外国航空に移るのみであろう︒連賃は︑国際航空輸送協会

( IA TA

を遥じて統制されているから︑同)

協会に加盟していない独立会社が︑しきりに運賃競争を始めてはいるものの︑連賃を変更する機会は余り多くない︒

最近は︑航空機の座席数を増加し︑所謂ツーリスト便を現在より稲々簡素な設備とする傾向になってきた︒この

簡素さは︑常て航空旅行は﹁上流階紋的な魅力﹂があると思っていた人々を陸︑海上運輸機関に帰らせることにな

ったが︑航空会社ではツーリスト便と同じ航空路に一等便を就航させ︑或は︑両クラスの設備を持った航空機を就

航させることによって︑これに対応している︒両クラス具備の航空機は今までのところ余り満足な結果を齋しては

よび海上運賃は上昇する傾向にある︒

がホステルや学校︑事務所などになったような所はひどく影響を受けた︒最近数年間の復興活動によって︑また現

在ホテルの増築︑稀にではあるが新築によってホテルの室数が少数ながら増加したことを考えに入れても︑ざっと

見積って︑国内の一級︑或は中級ホテルの少くとも一〇劣が一九三九年以来姿を消した︒

次に英国観光事業における航空機の果す役割を看過することはできない︒

航空ツーリスト運賃がョーロッパに広く採用された一九五三年には︑英国から大陸諸都市に向う便の半分以上は︑

海路の二等運賃より低料金の客であったといわれている︒事実︑航空連賃は次第に切下げられてきており︑陸上お 3航空事業

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︒^リ間のシルヴァー・ウィング・エァ・サーヴィスの一等便は海

路によるゴールデン・アロウ線より二0

ツーリスト︒クラスではロンドソ

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パリ間航空運賃は船の二等よ

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かくて航空旅行は︑海上旅行に変化をおよぼさずにはいなかった︒

IA

TA

の専務理

ニソジン或は機械︑資本

ラスゴーで演説し︑航空および海上旅行に関し︑若干の鋭い意見を述べた︒即ち政府関係者間では航空輸送は︑自 然にその適当な地位に落着いてゆくと考えられているようである︒この現象は︑古い運輸形態の間の均衡が経営費 によって︑調整されるような場合には︑以前にも起ったことである︒乗客の支払う料金は常に利益と原価の合計を 忠実に反映して来た︒海上旅行では依然としてその通りである︒しかし︑航空輸送は異る基礎の上に立っている︒

その理由は︑航空連賃はその原価の真の反映ではないからである︒大部分の航空連賃は︑

或は経営の全コストを負担てしはいない︒しかも︑航空界はコストを引下げることなしに連賃を値下げする︒航空 輸送の発達が︑その設備経営費によって規定され制限されるのでなければ︑その海上輸送への侵触を何が阻止する

B

.O

.A

.C

. の大西洋横断運賃を決定するのは誰であろう︒海陸双方の利益に留意する

政府であろうか︒或は

I . A .

T . A .

I . A .

T . A .

の方針は運賃引下げによってできるだけ客を呼び︑

数の増加によって低運賃が引合うようになるまで損失を補償するよう政府に要請する点にある︒

事が十月のモントリオール会議で呼びかけたのはこのことであった︒

以上が海運界の指等者と広く認められた人の見解である︒いうまでもなくそれ以後︑汽船会社間に多くの航空会 社を支配しようとする気運があらはれてきた︒この動向が観光事業全般に及す影響は未だ見通せないが︑近いうち

に︑クルーズ用船舶の数が増加すると考えてよいであろう︒ いないが︑第一の方策は失地を回復しつ

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一九五三年十一月に英国海運会議所総裁はグ

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出典: ランドブレイン株式会社HP「漁村の元気は日本元気」, http://www.landbrains.co.jp/gyoson/approach/toshigyoson_h21_mie.html,

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