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小学校教科書(歴史分野)に登場する人物の研究

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

小学校教科書(歴史分野)に登場する人物の研究

著者 長田 光男

雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要

17

ページ 127‑138

発行年 1981‑03‑23

その他のタイトル A Study of Personages dealt with in the history sections of elementary school textbooks

URL http://hdl.handle.net/10105/6506

(2)

小学校教科書(歴史分野)に登場する人物の研究.

長  田  光  男

  (付属小学校)

1.歴史激材にとり上げる人物1こついての考え方

 昭和55年度から改訂された小学校社会科教科書では、6年の歴史分野において、どの出版社の 教科書も、人物と代表的な文化遺産を中心に展開されている。これは、言うまでもなく、昭和55 年度より施行された新指導要領でそのように示されているからである。指導要領6年の「内容②」

に次のように書いている。

 r大和朝廷が国土を統一してから近代に至るまでの千数百年の歴史は、政治の中心地によって  飛鳥、奈良、 平安、鎌倉、室町、江戸などに分けられることに気付かせるとともに、歴史上の  主な事象について、人物の働きや代表的な文化遺産を中心に理解させる。」

 歴史で人物が登場することや、歴史学習において人物を教えることなどは至極当然のことであ るが、問題は、どのような人物をとり上げるかにある。とり上げられる人物とその取り扱い方に よって、歴史学習の中身や方向がかなりちがったものになるからである。たとえば、ヤマトタケ ルなどの神話の人物が登場しているが、指導要領に示す、r国の形成1こ関する考え方などを示す 神話・伝承に関心をもつこと。」 (6年r内容12〕ア」)ということ以上に、子どもたちのイメー

ジの中にそれが史実として定着するおそれがある。そうなると、もはや科学的な歴史でなく、示 された人物そのことのみの学習となり、登場する人物のみが歴史をつくったととらえられてしま うおそれもある。

 小学校では、歴史教育で人物を教えることが多いが、人物の問題をどう位置づけるか、また、

人物で何を教えるかということは大変むずかしい。

 歴史をつくり、時代を変えていったのは、確かに人間にちがいないが、特定の人物のみの力で は決してないのである。歴史をつくり、社会を進歩発展させてきた無名・無数の民衆の姿や、歴 史発展の法則をつかんでいくのが科学的な歴史学習であるとするならぱ、私は、人物を教えるこ とは、「歴史を貫いて流れる各時代の動きをとらえる。」という目標の中に位置づけられるべき であると考える。人物によってその時代とその時代の動きを学ぶのではなく、また単に、その人 物そのものを学ぶというのでもない。歴史学習の目標を達成するために、その時代の中に人物を 位置づけて学びとらえなおすことである。つまり、人物を歴史認識の一つの方法として位置づけ

.AStudyofPersonagesdea−twithinthehistorysectionsof

   elementary sdlool textbooks

Mitsuo Osada(Attached Elementary School,Nara University of    Education,Nara)

一127一

(3)

たいのである。

 そのためには、教科書にとり上げられている人物を教えるに当たっては、その人物を「ひとり 歩き」させない配慮が特に大切である。つまり、すべてにおいて、すばらしくりっぱな人物であ

ったととらえたり、道徳的徳目からとらえる人物になったり、社会や歴史の流れから切りはなさ れた人物として扱ったりしないことである。

 そうでないと、史実に反するだけでなく、そのような名ある少数の人々によって歴史がっくら れていくものだとの印象を子どもたちに植えつけ、民衆不在の歴史になってしまう。このことは 子どもに歴史をつくる主体者としての目覚とその力をつける教育にそむくことになる。

2.小学校教科■(6年の歴史分野)に登場する人物

昭和55年度から使用している教科書6年の歴史分野で、どのような人物がどのようにとり上げ られているだろうか。各出版社(東書・教出・日書・学図・大書・中教の6社) について調べた 結果は次のとおりである。

。6社全部に登場する人物

 ヤマトタケルノミコト 聖徳太子 中大兄皇子(天智天皇) 中臣鎌足(中臣鎌子、藤原鎌足)

山上憶良 聖武天皇 藤原道長 紫式部 源頼朝 平清盛 源義経 北条時宗 足利義満 織  田信長豊臣秀吉(木下藤吉郎、羽柴秀吉) 徳川家康天草四郎(益田時貞) 徳川吉宗

杉田玄白 伊能忠敬 ペリー 西郷隆盛 徳川慶喜 明治天皇 板垣退助 伊藤博文 木戸孝 允 大久保利通 (以上28名)

。5社1こ登場する人物

人物 東書 教出 日書 学図 大書 中教

ひみこ(ヒミコ、卑弥呼)

日  蓮 O

後醍醐天皇 O O

足利尊氏 O 足利義政 O

今川義元フランシスコ・ザビェル O O O

明智光秀 O O

徳川家光 O O 松尾芭蕉 O O O O 三井高利 O O O 本居盲長 O O 前野良沢 O

大塩平八郎 O O O

高野長英 O O O 福沢諭吉 O O O O

(4)

人物 東書 教出 日書 学図 大書 中教

大隈重信 岩倉具視 O 原  敬 O 尾崎行雄 O

。4社に登場する人物

人物 東書 教出 日書 学図 大書 中教

クマンタケル O 一○ O

小野妹子 O O O 蘇我入鹿

阿倍仲麻呂

鑑  真 O O 桓武天皇 O 藤原頼通 O 藤原利仁 O ・○ O O 源 義家 O O

友野与右衛門 O O

渡辺華山 O 井伊直弼 O

坂本龍馬

北里柴三郎 ○.

田中正造

。3社に登場する人物

人物 東書 教出 日書 学図 大書 中教

仁徳天皇 蘇我馬子 行  基 O

菅原道真 O 平 将門 O

北条政子 O O

北条時頼 O 親  資 O

北条早雲 O 徳川綱吉 O O

井原西鶴

近松門左衛門 O

松平定信 O O 水野忠邦

一129山

(5)

人物 葉書 教出 日書 学図 大書 中教

シーボルト

安藤昌益与謝野晶子 O

夏目漱石

黒田清輝 O 吉野作造

志賀 潔 O

犬養 毅 O

。2社に登場する人物

人物 東書 教出 日書 学図 大書 中教

モ  一  ス

物部守屋 推古天皇 O

空  淘 清少納言

藤原純友 北条泰時 O

新田義貞

雪  舟 O

上杉謙信

武田信玄

毛利元就

伊東マンシヨ

豊臣秀頼

徳川秀忠

大庭源之丞 O

葛飾北斎

安藤広重1

百姓武左衛門

高杉晋作 山県有朋

井上 暮 O

内村鑑三

幸徳秋水 O

野口英世

滝廉太郎

石川啄木 O O

山田少年(山田孝次郎)

(6)

人物 葉書教出日書学図大書中教

吉田茂

○ ○

。1社にだけ登場する人物

人物 東書 教出日書 学図 大書 中教

オオクニヌシノミコト O

シャカ

孔  子 O

キリストフェノロサ

光武帝アマテラスオオミカミ O

景行天皇

正岡子規

蘇我蝦夷

国中公麻呂

最  澄 O 藤原元命 O

藤原秀郷

平 貞盛坂上田村麻呂 O

平 忠盛 O

河越二郎後白河法皇 O 源 頼政

平 重盛 干葉常胤

源 義朝 O

河原太郎

河原次郎 O

源 頼家 O

源 実朝 O

北条時政

佐野常世後鳥羽上皇

7ビライ O

竹崎季長

法  然 一  遍 道  元 O

一13一一

(7)

人物 東書 教出 日書 学図 大書 中教

運  慶

快  慶

藤原隆信

楠木正成橘屋又三郎 O

島津貴久

長宗我部元親

武田勝頼 O

出雲の阿国(おくに)

狩野永徳お春(ジャガタラ)

新井白石 O 荻生狙来

淀屋辰五郎 O

青木昆陽 O

司馬江漢

田沼意次 O

松木長操

二宮尊徳

平賀源内

賀茂真渕 O

鴻池宗利十辺舎一九 O 緒方洪庵 O

中川淳庵

吉田松陰

林 子平ハ リ ス

勝 海舟

黒田清隆 O

三条実美 O

前島 密

横田英子 横田数馬

植木枝盛

松方正義 O 大山 巌 西郷従道 O 山田顕義 O

(8)

人物 東書 教出 日書 学図 大書 中教

森 有檀 谷 干城│本武揚

○○

横山源之助

若槻礼次郎

桂 太郎

小暮夏左衛門

堺 利彦

高峰譲吉

森 鴎外

高村光雲

二葉亭四迷 O

樋ロー葉

島崎藤村 O

寺内正毅

平塚らいてう

大森房吉芥川竜之助

有島武郎 ○.

西条八十マッカーサー ○一

湯川秀樹 O

高木敏子 O

教科書に登場する人物と言っても、そのとり上げ方はさまざまである。

① 本文に登場する人物。中には数へ一ジにわたって登場する人物もある。……<例〉聖徳太  子(中教)

② あるぺ一ジの一隅に挿話のように囲いしてのせられている人物。……<例〉山上憶良(中  教・教出など)、百姓武左衛門(教出)、田中正造(学図)

③ 欄外に、その時代の人物として氏名のみのせられている人物。・一・<例〉井上暮・松方正  義・森有榎など(日書)、大塩平八郎(中教)

④ 折込みの年表にだけ登場する人物。・・・…<例>最澄・夏目漱石(日書)

⑤ その時代やその史実・史跡に関する作品の作者・発見者としてのせられている人物。……

 <例〉モース(中教)、横山源之助・高木敏子(中教)

今度の新しい教科書になって初めて登場した人物もあれば、姿を消した人物もある。従来どお り登場しているが、そのとり上げ方が弱められた人物や、逆に強調されている人物もある。

① 新しく登場した人物。……<例〉三井高利・淀屋辰五郎・二宮尊徳(葉書)、田中正造(学  図・大書など)

化133一

(9)

 ②ほとんどの教科書から姿を消した人物。一..<例〉最澄、北条泰時、新田義貞  ③とり上げ方が弱くなった人物。……<例>仁徳天皇・葛飾北斎・安藤広重・雪舟  ④かなり強調してとり上げられている人物。…. .<例>聖徳太子(中教では7ぺ一ジを当て   ている。)、三井高利(日書で2ぺ一ジ半を当てている。)

 そのほか、特徴的なこととしては、百姓武左衛門(教出・中教)、松本長操(学図)らの百姓 一撲が大きくとり上げられてきたこと、江戸時代の大商人の台頭(三井・鴻池など)を新しくと

り上げている(中教・東書など)ことである。田中正造のような公害問題に取り組んだ人物も時 世の動きに乗って登場している。(大書・学図・日書など)

 同和教育の面から見れば、山田少年(山田孝次郎)を初めてとり上げている(学図・大書)が、

その運動をおし進めた人物としてのえがき方としては、まだ弱い。

3.指導に当たっての配慮

 教科書を使って指導する時の注意や配慮すべき点について、主として付属小学校で使用してい る教科書(学図)にとり上げられている聖徳太子を例にして述べてみ乱

ω 教科書(学図)の記述は次のとおりである。

   121聖徳太子

婁鵠r篇側鎖がなるなり法隆寺」という句は、箭与島の鮎です。法隆寺 こ行1

   な らぼんち

くと、奈良盆地の秋の夕ぐれが美しく、 1000年以上もの歴史の流れがなかったように思わ≡

れます。そして、見物に来た多くの人々が、法隆寺をはじめ、たくさんの仏像などを残した1 当時の人々のことをしのびます。

      してんのうじ

 法隆寺は、四天王寺などとともに、聖徳太子が仏教を広めるために、七世紀の初めごろに1

1

建てたといわれています。法隆寺は、現在残っているものの中では、世界で最も古い木造の≡

       仁んどう  ごじゅうのとう ゆめとめ       噌が

建築で、美しい金堂や五重塔・夢殿、たくさんの仏像・工芸品・壁画などは、そのころのミ すぐれた文化のおもかげを、今1こ伝えています。

       ごうぞく

 ム教が日本に伝わった六世紀の中ごろは、大王(天皇)の一族や豪族たちの間で、勢力

2       そが       切似

いがはけしく いていました。仏教を受け入れようとすと蘇我氏は、それに反対する物部氏 と争ってこれをほろぼし、勢力をのばしました。

       しようとくたい し      てんのう

 このころ 治をとるようになった聖徳太子は、豪族たちの争いをしずめて、天皇を中、こ・≡

③      けんぽう

とした国のまとまりを強めようとしました。太子は、十七条の憲法をつくり、豪族や役人た…

ちに、たがいに争うことをやめること、仏教を厚く信じること、天皇の命令はぜったいに守≡

       く引、ることなどを命じました。また、役人の位を定めて上下をはっきりさせ、家がらだけでなく1 才能によって役につける道を開きました。

      ずい       けんずいし

 太子はまた、このころ、中国に生まれていた隔という大きな国に使いを送り(遣晴使)、

晴の進んだ政治のしくみや文化をとり入れることにも力を入れました。 (注 下線は長田)1 一川一

(10)

 教科書の2ぺ一ジを当てて以上のように記述し、ほかに、r法隆寺の五重塔と金堂」の写真と、

r聖徳太子の像」を掲げている。さらに、上欄に2つの問題を提示し、それを軸に聖徳太子を理 解させようとしている。次のような問題である。

 。 法隆寺は、どんな寺だろうか。

 。 聖徳太子は、どんな考えで、どんな政治をしたのだろうか。

12〕およそ、聖徳太子ほど神秘化され、偉人化されている人物は他にないと言ってよいだろう。

 戦前のr尋常小学国史」(文部省)と比べても、その記述にほとんど変わりがない。現行の教 科書では、どの出版社のものでも、この人物を正しく扱っていないと言って過言ではない。それ

ほど伝説に包まれ、実像のはっきりしない人物なのである。

       おとな

 r太子は、生まれてすぐ口をきいたり、大人になって、一度に十人のうったえを聞き分けたり したそうです。人なみすぐれて、りっぱな人だったというので、のちに聖徳太子とよばれるよう になったのです。」(中教)

 「太子は、十人の人が一度に、いろいろとちがったうったえをするのを聞き分けて、すぐさま、

ひとりひとりに正しく答えたという話などがあります、」(東書)

         うまや

 「聖徳太子には、厩のそばで生まれて、すぐものをいったとか、一度に十人のうったえを聞き 分けたなど、かしこい人だったといういい伝えがあります。」 (日書)

 こういう記述で始まる聖徳太子の人物像や仕事については、よほど配慮して扱わなくては、太 子をますます虚像化し、史実を正しく教えることにならないだろう。

13〕教科書にある問題どおりに進めてみるとして、そこで見つかるいくつかの問題点をあげ、扱 い方を考えてみよう。

・ 法隆寺は、どんな寺だろうか。

 この法隆寺は、太子創建のものではない。しかし、ここの記述(下線①)を見るかぎり、現存 の法隆寺は太子創建のものとなる。

 太子の時代に建てられた法隆寺は、670年に焼失し、現在のものはその後再建されたとするの が有力であ乱金堂は、その上にまた焼失し、昭和の建築にな乱夢殿は八角円堂、つまり死者 の菩提を供養するために、蜜に建てるお堂である。死者とは、ここではもちろん聖徳太子。した がって太子の死後1こ建てられた夢殿である。

 それらをひっくるめて、聖徳太子の建築のように言己述しているところが問題で、これについて は、指導に当たって十分配慮しなくてはならない。「そのころのすぐれた文化のおもかげを・…・・」

とあることに特に目をつけ、現存の法隆寺は、決して太子創建のものでないことを教えたい。

 このように教えることは、当時の仏教文化や現存の法隆寺の価値を低くするものではないし、

太子の仏教信仰を否定することには決してならない。

。 聖徳太子は、どんな考えで、どんな政治をしたのだろうか。

 結論を先に述べるならば、 r聖徳太子は、蘇我氏の権力のもとで、蘇我氏といっしょに政治を とったにすぎない。天皇中心の政治にしようにも、蘇我氏のもとではどうにもならなかっれ」

そのような太子の政治ぶりであったと考える。

一135一

(11)

教科書の記述にそって検討してみよう。

・ 下線②の部分が、もう一つはっきりした記述になっていない。とくに、この争いと聖徳太子 との関係がぼやかされてしまっている。実は、ここが重要な点なのだが、この教科書では不明 確なのである。太子は、この豪族たちの争いとは全く無関係に見える。

  これに関しては、他社の教科書でかなり正しく記述しているのがある。

      ちょうてい

 r六世紀の中ごろからは、蘇我氏と物部氏とが政治を動かすようにもなり、やがて、朝廷での 勢力争い1こ、一族の運命をかけて戦うほどになりました。

 かわち       こうしつ  おうじ

 河内(大阪府)にある物部氏のやしきにおし寄せた蘇我氏の軍勢には、皇室の皇子たちや他

 ごうぞく          Dのぺ       しようとくたいし  そが

の豪族も加わっていて、物部氏はほろぼされました。このとき、十四さいの聖徳太子も蘇我軍 に加わって戦いました。太子は、蘇我氏と親せきの関係にあったからです。」 (日書)

 馬子は、聖徳太子が、さきの月明天皇の皇子であるところから、太子を自軍に引きこむこと で、士気を高めるのに利用したのだろう。

 rその後、天皇のあとつぎのことで争いがおこり、馬子は、ついに守屋をせめほろぼしました。

天皇は、馬子をたおそうと考えましたが、ぎゃくに、馬子のために殺されてしまいました。」

 (教出)

  これまでの教科書には一度も見られなかった記述である。馬子は太子の義父である。馬子が  587年に物部氏をほろぼした時は、太子は14才、592年の崇峻天皇暗殺の時は太子は19才で

あった。その直後、馬子は推古天皇を立てて、太子を摂政にしている。この一連の動きの中で、

太子だけが中心であったり、また逆に太子がこの動きに無関心でいたりしたはずがない。むし ろ、太子は、常に馬子と同一行動をとっていたと言える。

 政治の実権を握っていたのは馬子であって、太子は実力者ではなかったのである。このこと をはっきりさせておかないことには、次の段(下線③)の太子の政治について正しくとらえら れなくなる。

・ 下線③について考えてみる。この部分についても、他社の記述に的確なのがある。

       そ が

 r太子の父方の祖母も、母方の祖母も、蘇我氏の人でした。おきさきにも蘇我氏の人をむかえ ています。太子と蘇我氏とのつながりは、ずいぶん深かったようです。 (中略)太子が仏教ば       そが

かりでなく、大陸の文化に心がひかれるようになったのは、蘇我氏のえいきょうもあったと思

      てんのう       せつレ主う       うま こ

われます。太子は、五九三年、天皇にかわって政治をとる摂政という役につき、蘇我馬子と協 力して政治を見ることになります。」(中教)

         そが

 r太子は、豪族の蘇我氏と力をあわせて、ほかの豪族をおさえ、天皇を中心に、まとまりのあ る国をつくろうとしました。」 (大書)

 「六世紀のすえ、太子は、摂政となって推古天皇から政治をまかされ、馬子とともに政治の改 革をはじめました。」(教出)

 「蘇我馬子と協力して」とか、 「蘇我氏と力をあわせて」などの記述は、これまでの教科書に はほとんど見られなかったことで、一つの前進と評価できる。

 つまり、太子は単独で摂政の役につけたのでもなく、まして自分の思うままの政治がやれた

(12)

わけでもない。いつも馬子と共に行動しているのである。太子と蘇我馬子とが常に密接関係に あったこと、協力して政治をとっていたことは、次の史料によって明らかである。

<日本書紀、推古天皇条>

 。 二年春二月丙寅朔、皇太子及び大臣に詔して、三宝を興隆せ.しむ。

 ・ 十一年春二月丙子、来日皇子、筑紫に莞ず。(中略)髪に天皇聞きて大いに驚き、即ち   皇太子と蘇我大臣を召し、請いて日く(以下略)。

 。 十三年夏四月辛酉朔、天皇、皇太子・大臣及び諸王・諸臣に詔して、共に同じく誓願を   発し、以て始めて銅・備の丈六仏像、各一躯を造る。

 ・ 十五年春二月甲午、皇太子及び大臣、百寮を率い、以て神祇を崇拝す。

 。 二十八年、是歳、皇太子・嶋大臣、共に譲りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十   部井せて公民等の本記を録す。

<上宮聖徳法王帝説〉

 。 少給田宮御宇天皇(推古)の世、上宮厩戸豊聡耳命、嶋大臣、共に天下の政を輔けて三   宝を興隆し、元興四天皇等の寺を起して、爵十二級を制す。

 。 少給田天皇の御世乙丑年五月、聖徳王、鴫大臣と共に謀りて仏法を建立し、更に三宝を   興し、即ち五行に准じて爵位を定むなり。

 では、どうして、下線③のように記述しているのか。やはり、蘇我氏との協力によって政治 をしていた聖徳太子であったことを、ここに補う必要があろう。

 ただし、601年、太子が斑鳩に居を移し、そこから飛鳥まで通いながら政治をとったことと つないで考えると、太子は、なんとか独自の政治的地位をつくろうと努力したのではないか。

特に成人してからの太子には、その心がはたらいていたと考えられる。しかし、強大な蘇我氏 を他の豪族と同様にみなす天皇中心の思想を通せたかどうかは、はなはだ疑わしい。

 一十七条の憲法は、そんな中でつくり出されることになる。この憲法がはたして太子の作にな るものか疑問視されるのだが、君主を絶対化する思想が強く出ているところが特徴で、太子の 作とするならば、天皇の前には蘇我氏も物部氏もないことになる。強大な蘇我氏の傘下にいた 太子が「天皇の命令には必ずしたがえ。」などと説くことができただろうか。偽作の可能性が 高いとされるところである。

 冠位十二階については、馬子がこれをつくり、太子が協力した程度だろう。そのことに関し ては、他社の教科書にこのことにやや触れているところがあるのを見受ける。

r太子は、十二色のかんむりの制度を定めて、家がらにとらわれずに、才能のある人に位をあ たえ、役人に用いるようにしました。しかし、すでに朝廷の高い地位にあった蘇我氏の一部の 人は、このとき、新しいかんむりをもらわなかったようです。」(教出)

 冠位を受けていないのは、天皇・太子・蘇我馬子らである。これで見ても、馬子の実権の高 さがわかるし、太子自らが制定したものとは言いがたいことがわかるだろう。

まとめると、聖徳太子とは、次のような人物としてとらえられるのではないかと考える。

一13τ一

(13)

。 政治の理想像(天皇中心のまとまりのある国づくり)を持って、その実現に努力をした。

。 すべて蘇我氏と共にでなければ事が運びえなかった。 (太子が蘇我氏と親戚であり、強力な 蘇我氏によって政治の舞台におし上げられたことからして。)

。 太子は、仏教を信じ、それに帰依することで、独自の理想の達成のままならぬところをまぎ  らわせていたのではないか。それだけに、仏教への心の向け方は一途なものがあった。

 r聖徳太子と法隆寺」の項で、他社のある教科書は、その記述の最後の3行で次のように結ん でいるのに注目したい。

 r太子の政治は、蘇我氏などの勢いにはばまれて、思うように実現できませんでした。太子は、

 rこの世はかりの世で、すべてむなしい。仏だけがまことです。』といって、なくなりました。」

 (教出)

参  考  文  献

「学習指導要領」 (文部省)

「日本の歴史」第2巻 r飛鳥と奈良」 (読売新聞社)

r小学校の歴史教育」 本間界  (地歴社)

r教科書と教材研究」 歴史地理教育1980年4月号 (歴史教育者協議会)

r聖徳太子像の問題点」 直木孝次郎 歴史地躍教育1980年5月号  (歴史教育者協議会)

r聖徳太子」 坂本太郎 (吉川弘文館)

r小学校教科書の研究」 1979年 日本教職員組合  (一ツ橋書房)

r新小学校教科書を告発する」 1970年 日本教職員組合  (一ツ橋書房)

「尋常小学国史 上巻」 (文部省)

r新しい社会 6土・下」 (東京書籍)

r小学社会 6土」 (教育出版)

r小学社会 6土・下」 (日本書籍)

r小学校社会 6土・下」 (学校図書)

r小学社会 6土・下」 (大阪書籍)

r小学生の社会科 人間のあゆみ 6土」 (中教出版)

一138一

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