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盛唐詩壇における杜甫の位置(一)
著者 川北 泰彦
雑誌名 奈良教育大学国文 : 研究と教育
巻 1
ページ 55‑62
発行年 1977‑08‑20
URL http://hdl.handle.net/10105/10441
盛 唐 詩 壇 に お け る 杜 甫 の 位 置 ( 一 )
1 ヒゴ
泰 彦
一
杜甫は︑宝応元年(七六二)四川で﹁戯為六絶句﹂を制作してい
る︒内容的には︑当時詩の内容としては珍しい文学論︑つまり杜甫
の詩論・詩制作態度を表明するものである︒乾元ご年(七五九)七
月︑華州司功参軍の官を棄て︑家族を連れての旅に立ってから四年
目のことである︒
現存する杜甫の詩は一四五〇余首にのぼるが︑その八割弱が棄官
(1)後の四十八歳から放年五十九歳までの約十年間のものである︒と同
時に︑杜甫の詩制作数が棄官を境にして急増していることと考え併
せるならば︑この﹁戯為六絶句﹂が詩人としての杜甫を考える上で
かなり重要な意味を持つものといえる︒
ところで︑杜甫が生きた盛唐及び中唐初期(大暦期)の詩壇の状
況を探る上で重要な資料となるものに︑唐人の選になるアンソロジ iがある︒現存するものとして︑盛唐期の詩人を中心とするものに
﹃河⁝嶽英霊集﹄﹃国秀集﹄﹃簾中集﹄の三つがあり︑大暦⁝期の詩入
を申心とするものに﹃中興間気集﹄﹃御覧詩﹄﹃極玄集﹄がある︒
これら六篇のいずれかに︑後世著名な詩人として名を遺す︑李白・
王維・孟浩然・高適・寄参・王昌齢や銭起・司空曙に代表される大(2)暦十才子の作品を見ることができる︒
にもかかわらず︑後世詩聖として詩仙李白と併称される杜甫の作
品がこれら六詩集の中に見られないことは︑実に不思議な現象とい
わねばなるまい︒
本稿では︑上述の﹁戯為六絶句﹂の内容から察して︑杜甫が当時
の詩壇に対して何らかの不満を持っていたことが窺えるのである
が︑このことと同時代におけるアンソロジーの中に杜甫の作品が見
られないこととどのような関連があるのかを知ろうとするものであ
る︒それによって︑標題の﹁盛唐詩壇における杜甫の位置﹂が少し 一55
一
でも明らかにできる手懸りが出てくればと考え︑甚だ皮相的ではあ
るがいくつかの角度から問題点を探ろうとしてみた︒
そういう意味からは︑各問題点はそれぞれ稿を改めて深められな
ければならないものばかりである︒
二
まず︑﹁戯為六絶句﹂を挙げてみる︒
其一
むむ痩信文章老更成
凌雲健筆意縦横
今人喧黙流伝賦
不覚前賢畏後生
其二
むむむむ揚王盧駿当時体
軽薄為文咽未休
爾曹身与名倶滅
不廃江河万古流
其三
むむ縦使盧王操翰墨
劣於漢魏近風騒
龍文虎脊皆君駅 歴塊過都見爾曹
其四
才力応難跨数公
凡今誰是出群雄
或看輩翠蘭菖上
未禦鯨魚碧海中
其五
不薄今人愛古人
清詞麗句必為隣
むむ霧蓼屈宋宜方駕
恐与斉梁作後塵
其六
未及前賢更勿疑
逓相祖述復先誰
別裁偽体親風雅
転益多師是汝師
(傍点川北)
この六絶句に見られる杜甫の詩論は﹁屈(原)宋(玉)及び漢魏
の文学を高く評価する点では同時代の他の詩人たちと同様である
が︑かれらが批判するところの六朝・初唐の詩人であっても︑前輩
の詩人からは必ず学ぶべきものがある﹂といった見方に立つもので 56
あって︑同時代入とはかなり異る詩論をもつことがわかる︒
そもそも︑このように﹁詩を以て文学を論ずる﹂ことが︑この時
代にあっては甚だ珍しいことである上に︑従来の﹁戯﹂と異る使用(3)法をしている︒西本巌氏は﹁杜甫における﹃戯題詩﹄﹂の中で︑
﹁玉台新詠﹂の詩︑また李白の詩に比して︑杜甫の﹁戯題詩﹂
は︑単にその詩数が多いというだけではなく︑従来の﹁戯題詩﹂
に対する観念ではとうてい律しきれない︑複雑な感情を内蔵し
ていると考えられる︒もちろん︑杜甫の場合においても︑単な
る﹁戯れ﹂に過ぎないものもあるが︑多くは︑﹁友人の厚意を
む深く謝する場合﹂﹁友人の芸術を高く称揚する場合﹂﹁自己の
むむむむむむむむむむ むむむむ文学上の信念を強く吐露する場合﹂﹁時勢を激しく調刺する場
合﹂などの如く︑高い次元のもとに詠われており︑杜甫は︑﹁
戯れ﹂なる標題の詩を︑他の詩人達と異なって極めて高く評価
むむむむむむむむむむむむむし︑彼の心情表現の重要な一体裁としていたと考えられる︒(
傍点川北)
と述べているように︑杜甫が﹁戯﹂と称しながら︑従来のものとは
異る重さを持たせていることを指摘している︒この﹁戯為六絶句﹂
は︑まさに﹁文学上の信念を強く吐露﹂したものの例として見るこ
とができる︒
杜甫は︑このような文学観の上に立って︑また他の詩人たちとは
比較にならない程︑前代の詩人たちを詩に詠い込むと同時に︑時代 的にも﹁屈宋及び漢魏の詩人﹂と﹁それ以後初唐に及ぶ詩人﹂とを
幅広く詠い込んでいることは次に示すとおりである︒
︹漢以前︺
屈原(八)宋玉(一二)
︹漢︺
司馬相如(一四)揚雄(一七)頁誼(一四)郷陽(一)
枚乗(二)東方朔(三)禰衡(四)竈錯(一)張衡(
一)
︹三国︺
曹植(八)劉槙(四)王粂(一一)院籍⁝(一〇)稽康
(八)陳琳(一二)孔融(二)
︹西晋︺
溜岳(八)陸機(二)張翰(二)
︹東晋︺
陶渕明(一〇)許調(二)
︹六朝︺
謝霊運(五)謝恵連(一)飽照(七)顔延之(一)謝
眺(四)沈約(四)何遜(七)陰堅(三)江総(三)
庚信(九)
︹初唐︺
陳子昂(四)沈佳期(一)宋之問(四)王勃(四)揚 一57一
燗(二)盧照鄭(四)騎賓王(二)
()内は使用回数
これらの申で︑杜甫が他の盛唐詩人より多く取り上げているの
は︑庚信・飽照・何遜であり︑用例は少いが盛唐詩人の中にあって
特異な評価を加えている詩人には︑東方朔・禰衡・沈約がある︒就
中初唐詩人に光を当てているのはまさに杜甫の独壇場である︒
こうした杜甫の詩作態度は︑詩人を多く詠い込み︑初唐詩人の評
価が他の盛唐詩人より高いといった点では異るが︑杜甫独自の方法
といえば過言になる︒むしろ︑盛唐期において︑﹁詩は盛唐﹂と評
されるだけの土壌があったからにほかならない︒そこには諸々の要(4)素が考えられるが︑その中の一つとして︑開元・天宝期にかけて詩
壇でかなりの論議が闘わされたと思われる点がある︒上述の﹃河嶽
英霊集﹄﹃国秀集﹄﹃筐中集﹄は︑そうした詩壇を踏まえて編纂さ
れたことが︑序文を見ることによって明らかである︒しかも︑これ
ら三詩集は︑それぞれ立場を異にしており︑盛唐期に少くとも三派
といえる大きな潮流があったことがわかるのである︒いま︑申沢希(5)︒︒︒男氏の言葉で分類するなら︑初唐の延長ともいうべき藻飾派︑その
むむむむむむ反動として起った尚古派︑それらの申間的存在としての折衷派の三
つである︒そして︑藻飾派を代表するものが﹃国秀集﹄であり︑尚
古派を代表するものが﹃簾中集﹄であり︑折衷派を代表するものが
﹃河嶽英霊集﹄である︒以下︑これら三者の主張をそれぞれの序交 によって簡単に触れてみたい︒
﹃国秀集﹄は楼頴の序文で﹁仲尼礼楽を定め︑雅頒を正し︑古詩
三千余什を采り︑三百五篇を得たり︑皆之を舞踊し︑之を絃歌す︒
亦た其の順沢なる者を取るなり︒⁝⁝風雅の後千載の間︑詞人才子
礼楽大いに壊る︒﹂とその出発点を﹃詩経﹄に置きながら︑選択の
基準を﹁管弦に被るべき者︑都めて一集と為せり︒﹂というように︑
他の二派よりも︑より音楽的・修飾的美しさに置いている︒
﹃簾申集﹄は元結の序文で﹁風雅興らざること幾んど千歳に及ば
んとす︒﹂と先ず述べているように︑﹃詩経﹄にその出発点を置く
ことは同様であるが︑序文の半ばは﹁近世の作者⁝⁝声病に拘限
し︑形似を喜尚す︒且つ流易を以て辞を為り︑雅正に喪ふを知ら
ず︒⁝⁝彼は則ち時物を指詠し︑紡竹に会譜せしめ︑歌児舞女と汚
惑の声を私室に生ずるは可なり︒若し方直の士大雅の君子をして︑
聴きて之を調せしむれば︑則ち未だその可なるを見ぎるなり︒﹂と
厳しく藻飾派の在り方を批判している︒しかも︑僅か二十四首より
なる小詩集ではあるが︑全て古詩を収録するという特異さを示して
いる︒
﹃河嶽英霊集﹄は殿瑠の序文で﹁薫氏自り以還︑尤も矯飾を増し︑
武徳の初め微波尚ほ在り︑貞観の末標格漸く高まり︑景雲の中︑頗
る遠調に通ず︒開元十五年の後︑声律風骨始めて備はる︒実に主上
の華を悪み︑朴を好み︑偽を去り︑真に従ひ︑海内の詞場をして翁 58
然として古を尊ばしむるに由ればなり︒﹂と述べ︑選択の基準を﹁
声律﹂﹁風骨﹂の両者を併せもつものに置いていることがわかる︒
以上︑三つの盛唐期の流派と杜甫の詩風とを考え併せるなら︑﹃
国秀集﹄が最も遠く︑﹃河嶽英霊集﹄に最も近いものであると言え
るのであるが︑詩人の交流関係から考えるなら﹃筐中集﹄の方がよ
り近いものともいえるものである︒このことに関しては︑拙稿の申(6)で既に触れてきたものであるので詳述は避ける︒
ところで︑最も近いと見られる﹃河嶽英霊集﹄に杜甫の詩が収録
されていないことについて︑明の胡応麟は﹃詩藪﹄外編︑巻三で︑
﹁英霊集天宝に於けるも︑杜詩或は未だ盛行ならざるか﹂という指
摘をしている︒これについては︑同じく序文の中でも﹁甲寅に起り
癸巳に終る︒﹂つまり︑開元・天宝の間のものを収録したとあるこ
とから︑杜甫の作品が大成されてゆく大暦期よりはかなり先行して
いると考えることも可能である︒
しかし︑﹃河嶽英霊集﹄の編纂年代については︑上述の中沢希男
氏のすぐれた研究があり︑それによれば杜甫の残後の編纂であった(7)ろうとされている︒しかも︑杜甫の詩友であった︑李白・王維・
寄参⊥局適といった詩人たちは皆この集に名を連ねているのであ
る︒
確かに︑王維・李白は杜甫よりも十一歳年上であり︑天宝期には(8)既に有名を馳せていたことは事実であるが︑上述のような﹁戯為六 絶句﹂に見られる杜甫独自の文学観︑それに基づく初唐詩人をも
高く評価する杜甫の詩作態度や作品にも問題が含まれているように
思われる︒
三(9)いま杜甫の詩の大成が大暦期であったことに重点を置いて考える
とするなら︑当然﹃中興間気集﹄﹃御覧詩﹄﹃極玄集﹄といった︑大
暦十才子(大暦期に活躍した詩人たち)を中心に収録されている詩
集の申に︑杜甫の作品が取り上げられていても不思議はないといえ
よう︒にもかかわらず前三集同様︑杜甫の作品は見られない︒
このように︑杜甫が活躍した時期︑というより杜詩が完成に近づ
いた時期とする方がより正しいといえるが︑その時期においてさえ
杜甫への評価は与えられていない︒
杜甫は大暦二年(七六七)春︑﹁遣悶戯呈路十九曹長﹂と題する
詩の申で﹁晩節漸く詩律に於いて細やかなり﹂と詠っている︒
これを裏付けするように大暦期に入ってからの代表作﹁秋興八首﹂
﹁詠懐古跡五首﹂﹁登高﹂﹁登岳陽楼﹂といった作品は全て律詩で
ある︒しかも︑洞庭湖を詠って有名な﹁登岳陽楼﹂を除いては七言
律詩である︒
一方︑﹃中興間気集﹄以下の三集はどうであるかといえば︑
﹃申興間気集﹄=二二首の申︑五言律詩八七首︑五言排律一八首︑ 一59一