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(1)

翻    訳

    感 情 教 育 論

       ー売春と理想︱

       中 條 屋    進 訳

     ある青年の物語

       一世代の歴史

 ﹁感情教育﹂︵一八六四l一八六九︶と共に︑フローベールは現代世界に立ち返った︒フローベールの小説中で疑

いもなく最も自伝的性格の濃い作品ー作者がこの小説に寄せた愛着の強さは︑その構想について彼が抱いた大

きな不安がよく示している︒︽これはある恋の︑情熱の物語です︒が︑情熱と言ってもそれは今日あり得るよう

な︑つまり不活発な︹行動を伴わない無力な︺情熱です︒︾不安は一様のものではなかった筈だ︒何故なら︑一個人

の私的経歴を物語ろうというこの作品に見合った技巧がここでは要求され︑しかも︑その物語の︽真実︾は劇的

な凝縮や遠近画法的な描き方を受け入れない性質のものだったからである︒一言で言えば︑問題はこの小説が決

― 113 −

(2)

して主人公的にならない人物を主人公とする小説であることにあった︒︽私が考えたこの主題は深く真実を突い

たものだと思うのですが︑しかしまさにそれ故に︑きっと余り面白くないものになるでし仁牡︒︾主人公の不活

発性は︑本来作品にとって疵であると同時に︑それ自体がテーマのひとつとなる︒既に小説の初めから︑それは

主人公とそして小説の世界そのものを麻痺させてしまっている︑どうしても送る決心がつかない︑恋する女性宛

てのあの十二ぺージに及ぶ手紙が示すようにー︽彼はそれを破り棄てた︒そして︑うまくいかなかったらどう

しようという恐れに金縛りにされて︑彼は何もせず︑何ひとつ試みようともしなかった゜︾︵I・︵牡︶ ︽煮え切ら

       ︵4︶ない性格の主人公というのは実に詰まらないものだ︾とフローベールも友人デュプランに洩らしている︒

 この小説に対する批評界の無理解にフローベールが特別な悲しみを味わったのも︑この作品に寄せる彼の強い

愛着ゆえである︒小説出版から何年も経った後のトゥルゲーネフ宛ての手紙で︑なおフローベールはその時の心

の痛手に触れてこう言っている︒︽私は別に並外れたうぬぼれ屋ではないつもりですが︑それでもやはり︑あの

小説に対する世評は不当だったと思います︑特に小説の最後の場面への評価が︒このことで︑私はいまだに公衆

に恨みを抱いていれ牡︒︾特に小説の最後の場面が⁝⁝︒二人の友が︑遠い昔︑一緒に初めて売春宿を訪れた思

い出を語り合うあの有名な最終場面に︑フローベールは殊の外満足していた︒小説の完成間近の頃︑彼はジョル

ジュ・サンドにもこう言っている︒︽あなたにこの最後の部分を読んであげたくてたまりません︒︾小説を締め括

るあの言葉が読者の偽善的羞恥心を刺激したー︽あれが僕らの最良の思い出だなあ!︾ 二人の若者の︑︽ト

ルコ女の家︾への失敗に終った冒険に関わるこの言葉はしかし本当に冷笑的なものなのだろうか︒むしろ︑失わ

れた純潔への郷愁をこそここに読み取ることはできないであろうか︒

−114 −

(3)

 この小説の自伝的意図︑いやむしろ最初にそのような意図があったという事実は否定し得ない︒基本的な話の

筋はひとつの出会いに始まること︑そしてその出会いとそれに続く不倫の恋の物語は︑少年ギュスターヴとシュ

レザンジェ夫人とのトゥルーヴィルに於けるあの有名な邂逅を小説に移し換えたものであることを︑ごく初期段

階のプランのひとつが明示している︒︽モントロー丸での旅︑ひとりの高校生ーシュ・:夫人︑シュ・:氏︑私︒︾

個々の具体的な事実の他にも︑フロlべlルはこの小説で姦通︱特に︑望みのない︑遂に果たされなかった不

倫の恋ーを巡る詩情とそのドラマという︑彼が昔から馴染んできたテーマを再び取り上げたのである︒初期の

習作﹁狂人の手記﹂は︑そのような恋の高揚と共に︑相手の夫との嘆かわしくも危うい関係を描いていた︒︽芸

術家と行商人の間をいくような︾男︵第十二章︶︑これはまさしくあの精力旺盛で人の好い楽符出版業者モーリス

・シュレザンジェの肖像だ︒フレデリック・モローが︑控えめに言っても極めて胡乱な関係を結ぶ︑︽工業美術︾

社主アルヌーのモデルとなった人である︒次の﹁十一月﹂という作品は︑夫との更に堕落した関係についてこの

ように言っているー︽人妻を欲し︑その為に夫の友人になって握手の時はその両手を熱く握り締め︑つまらぬ

駄じゃれに愛想笑いをし︑商売のうまくいかない時にはこちらも浮かない顔をして見せ︑こまめに使い走りをし

てやったりもする⁝⁝︒︾まさに﹁感情教育﹂の主人公が置かれる不面目な状況の原型である︒いや︑フレデリ

ックの無気力と卑屈さはこれより更に深刻なものとなろう︒

 フローベール自身はこのような屈辱的境遇に身を投ずることを潔しとしなかったー若しくはその機会が彼に

は訪れなかった︒しかし︑そうした境遇に陥った者が味わう苦い悲哀は彼は深く識っていたのだ︑まず想像力に

よって︑後には自ら創造した作中人物を通して︒その一方では︑書くという行為が︑フローベールの畢生の恋の

−115−

(4)

対象︑家庭内の不幸が遂に狂気へ追いやることになるあのエリザ・シュレザンジエの理想化に果たした力も大き

かったに違いない︒それはフレデリックをして彼女をパリの町よりもなお大きく思わせる程の理想化である︒

 ︽パリ全体が彼女との関わりに於て存在していた︒この大都市は︑巨大なオーケストラのように︑彼女の回りで

あらゆる音色を奏でざわめいていた︒︾︵I・5︶ 汚たらしいパリの街も︑主人公の肉体的精神的な麻痺状態も︑

何物も彼女のこのイメージの輝きを曇らせることはない︒幻想か︒だが︑若い主人公にとってはそれは見事に充

実した疑いようのない実在として︑彼の心に消すことのできない刻印を押すのである︒︽彼女は︑女としての夏

の終りに差し掛かっていた︒円熟の始まりがまなざしをよりしっとりとした炎で彩り︑心情の強さが長い人生経

験に加わって融和する︑それは女性が思慮深くまた同時に優しくもなれる︑そういう季節であって︑まさに盛り

を過ぎようとするこの時にこそ︑その全き存在の内なるあらゆる富が外に溢れ出て︑その容貌の美しさと妙なる

ハーモニーを奏でるのだ︒︾︵H・6︶

 この自伝的な最初の構想をフローベールは野心的にふくらませた︒彼が企てたのはまさに大規模な歴史的フレ

スコ画だ︒︽私的︾小説︑個人の小説が風俗小説へと発展し︑心理小説から﹁歴史﹂・﹁政治﹂小説が生まれる

ことになる︒ある手紙がこう述べている︒︽ひと月前から︑私はパリを舞台とした現代風俗小説に取り掛かって

います︒私と同世代の人々が辿った精神的な歴史を書きたいのです︒感情の歴史と言った方が良いかも知れませ

ん︒︾フローベールの着想の卓抜な点は︑個人︑同時代人︑そしてその時代の歴史的局面という三つのテーマの

関係を正確に把えた上で︑ひとりの人間の︽感情の︾蹉跌と一世代全体の精神的破産とを︑皮肉にそして悲劇的

に結び付げたことである︒それにより︑フロlべlルは小説に新しい道を拓き︑新たな技巧を創始することにな

−116−

(5)

った︒﹁感情教育﹂によって︑小説は虚構と現実の歴史が同一の地平で交わる十字路となるのだ︒しかし︑両者

の均衡を保つ為にはいかなる苦心を要したことか/ ︽一八四八年の政治的諸事件の中に作中人物たちをうまく

はめ込むのに非常に難儀をしています︒背景が前景を呑み込んでしまうようだと困るのです︒︾それと言うのも︑

こうした歴史物の陥り易い危険のひとつとして︑歴史上の人物はー︽特に彼らが適度の情熱を備えている場合

には︾とフローベールはこの小説の最初の構想に立ち返って付け加えているがー作中で余り重きをおかれる

と︑虚構の人物たちよりも読者の興味を惹いてしまいがちであることをフローベールはよく知っていたからであ

る︒だが︑こうした技法上の難問は彼にとってはむしろ望むところだったのだ︒︽我が登場人物たちがその中で

動き回っている環境は余りに多くの事件︑雑多な蠢きに満ちているので︑彼らは一行ごとにその中に埋没してし

まいそうです︒だから私は極めて興味深い色々な事柄を余儀なく後景に追いやっています︒︾

 しかしながら︑こうした技法的な挑戦や芸術家としての不安や矜恃などよりも︑この小説で決定的な重みを持

つものはやはり︑作品への作家の感情的な関わり合いなのである︒歴史的︽環境︾がフローベールの興味を惹く

のは︑政治的諸事件が彼の感情を揺り動かす限りに於てなのだ︒それは勿論︑彼が政治に夢中になっていたとい

う意味ではない︒彼はむしろ︽非政治的︾人間だったと言えるだろうが︑それはまさに政治がー政治的なもの

の一切がー彼を憤慨させたからだ︒民衆も︵幻想的人民も現実の民衆も︶ブルジョワも︑また彼が生きた時代そ

のものも︑すべてが彼を苛立たせた︒一八四八年の事件が一層募らせたこの苛立ちと怒りを吐き出すフローベー

ルの言葉は枚挙にいとまがない程である︒︽残っているのは下卑て愚かな烏合の衆のみ︾ーこれがこの時代に

彼が下した診断だ︒社会主義理論家たちは︑フローベールには教条主義的で容易に専制主義者に変貌し得る俳和

−117 −

(6)

学者としか思えず︑彼がこうした理論家たちに信をおいていなかったのは確かである︒では一般大衆については

どうか︒それは彼には本来的に憎むべきものと思われたー︽いいえ︑断じて/ 私は民衆を崇めることなどで

きませんし︑マスとしての大衆に情愛を覚えることもまずありません︒︾後にサルトルは︑フローベールは労働

      ︵14︶者階級を毛嫌いしていたと非難することになる︒だがはっきりさせておかなければならないのは︑フローベール

が忌み嫌ったのは家畜の群のような存在としての民衆だけだということである︒実際︑彼の軽蔑が向かうところ

は社会的階層による別け隔てを知らない︒︽公理ーブルジョワ憎悪は徳への第一歩である︒私の言うこのブル

 ー ー ー      ︵15︶ジョワは︑フロックコートを着た市民と共に作業服を着た市民をも含んでいます︒︾暗愚は社会主義者とプロレ

タリアの専売特許であるどころではない︒フローベールがする愚昧と醜悪さの告発は︑全き公平を以ってあらゆ

る階級を蹂躙する︒︽ああ︑卑しい労働者に︑愚劣なブルジョワに︑愚鈍な百姓に︑そして穢らわしい坊主ども

      ︵16︶に︑私はどんなにうんざりしていることか/︾トゥルゲlネフ宛ての手紙のひとつで︑彼は︽破廉恥な保守派の

連中︾︹つまり自分たちの属する階級︺をすら槍玉にあげている︒何物もフローベールの糾弾を免れない︒この︽病

的ブルジョワ嫌い︾︵ある手紙への彼自身の署名︶の作家は︑スリッパを覆いた︹自宅でくつろいで悦に入っているブル

ジョワの︺時代の鼻もちならない下劣さの穢行に︑ほとほと嫌気がさしていたのだ︒︽この時代の愚劣に対する憎

      かんとん      ︵18︶悪で僕は息が詰まりそうだ︒嵌頓に糞が詰まるように口に込み上げてくるものがある︒︾

 では︑﹁感情教育﹂はジードが言ったような︽嫌悪感の叙乙四︾と見做すべきであろうか︒叙事詩と言うに

は︑フローベールの憤りは余りにも︽倫理的︾だ︒そのことを最も良く示すのは︑チュイルリlの段丘下の牢獄

に詰め込まれた政治犯たちに対して加えられた残虐行為を資料に則って描く︑第三部一章のあの衝撃的な場面で

−118−

(7)

ある︒まさに鮨詰めの収容所で︑囚人たちが汚物にまみれ仲間たちの死骸のただ中で衰弱してゆく︑この激烈な

シーンひとつをとっても︑フローベールが不感無覚の原則を貫いてなどいないということを立証するに充分であ

ろう︒ここで彼が告発しているのは破廉恥行為に於ける平等︑その普遍性である︒︽平等の原理が⁝⁝誇らし気

に発現していた︒いずこも同じように卑劣な流血沙汰︑野獣同士の平等だった︒つまり︑私欲追求の熱狂が困窮

の果ての逆上と釣り合ったのであって︑貴族も無頼漢の獰猛さを発揮し︑また木綿のナイトキャップ︹ブルジョ

ワ︺も赤い革命帽とおぞましさに変わりはなかった︒︾︵Ⅲ・1︶

 ︽労働者を毛嫌いしている︾という非難同様︑余りにも冷笑的だという批判もこの小説には当たらない︒小説

の結びの言葉は︑あらゆるものの嘲弄を意図した単なる皮肉で奇抜な思い付きの言葉ではない︒売春宿のモチー

フはここではひとつの文学テーマにまで高められているのだ︒勿論︑売春は早くからフローベールを魅了してき

た︒︵もっとも︑これは十九世紀文学全般に亘る重要なテーマであって︑それについて述べるには多くの紙面を要しよう︒︶差

し当って我々は︑作家の個人的テーマと作品の構造そのものとのこの接点が秘める種々の重要な問題を︑ここで

明るみに出しておかなければならない︒

      淫売宿のテーマ

 結末が始まりを内包し小説全体の隠喩的縮図となる︒あのエピローグは単なる過去への︽回帰︾以上のもの︑

この小説を貫くひとつの心理状態を表わしているのである︒フレデリックがする故郷の町への隠遁︑避難所への

欲求は彼の独我論的本質を明示し︑生きることの疲れ︑殆ど近親相姦的な母胎への郷愁を相伴っている︒小説の

−119 −

(8)

最後で彼が夢見るのは体を丸めて縮こまることだー︽彼は⁝⁝田舎の安らぎ︑夢うつつの暮らしが恋しくなっ

た︒︾娼家訪問の思い出で終るこのエピローグは︑三十五年の歳月を潮ることによってひとつの円環のイメージ

を創り出す︒しかし︑この結末部と︽あれが僕らの最良の思い出だなあ/︾という言葉は︑更に明確な理由によ

って小説の導入部を内包していると言うことができるのだ︒ここで語られるエピソードは︑小説中の様々な出来

事と意味が織り成す絵模様の縮図に他ならないからである︒

 二人の友が陶然と語り合うその逸話は︑表面的にはごく月並みなものである︒ある日曜日の午後遅く︑二人の

少年が髪を縮らせ花を摘み︑いやに大きな花束を携えて︽トルコ女の家︾へ忍んで行く︒若き日のフローベール

の最初の体験の思い出だろうか? ︽フレデリックはまるで恋人が許嫁に捧げるように花束を差し出した︒しか

し︑むんむんする暑さ︑未知のものへの不安︑後めたさ︑それに自分の意のままにできる女をこれ程沢山ひと目

で見ることのできる喜びまでもが加わって彼を動転させたあまりに︑彼は真っ青になって︑前に進むことも口を

きくこともできずに突っ立っていた︒そのどぎまぎした様子を面白がって女たちは皆笑った︒馬鹿にされたのだ

と思い込んで彼は逃げ出した︒金を持っているのはフレデリックだったから︑デローリエもその後を追わざるを

得なかった︒︾︵Ⅲ・7︶

 この一節の真義は︑これが作家自身の思い出であるか否かという問題を超えたところにある︒ここにはまず︑

ひとつの性格が余すところなく素描され要約されている︒フレデリックの初心な仕草は彼の内に潜む空しい理想

化癖の現われだ︒暑くて身動きもできない程だというのは彼の常なる無気力状態を想起させ︑また選りどり見ど

りの女たちを前にしての逡巡は︑彼の生に於ける確固たる指針の欠如と呼応する︒手足の麻痺状態と沈黙が示唆

−120 −

(9)

するのは彼の臆病さ︑人から評価され傷つけられることへの恐れだ︒しかし︑こうした主人公の性格のみなら

ず︑ここには拒絶︑逃走︑挫折︑そして遂げられなかった恋の思い出にまつわる詩的幻想といった︑この小説の

本質的諸テーマが凝縮されているのである︒実現しなかった大饗宴であったればこそその思い出は殊更に懐し

い︒少なくともこの日︑フレデリックは清らかなまま︽トルコ女の家︾を出た︒小説を締め括るあの評言は︑す

べてを貶めるシニカルな言葉とは程遠く︑それは純潔への消えやらぬノスタルジーを表白しているのである︒

 売春は︑︽名だたる高等娼婦を集めた絢爛たる酒池肉林の宴︾を張る︵I・2︶というような︑性的夢想のモチ

ーフであるばかりではない︒それは︑理想と理想化のテーマの幕間狂言的な要素として︑この小説に必要不可欠

のものなのだ︒女元師と渾名されるドゥミ・モンドの女ロザネットは︑その︽扇情的な女奴隷のような物腰︾

︵Ⅱ・6︶でフレデリックの神経を掻き立てる︒だが︑このイメージは清純なものへの夢と︑互いの類似あるいは

対照によって常に密接に関連し合っている︒今では広く知られた︽感情転移︾の原理に従って︑ロザネットとア

ルヌー夫人がフレデリックの心の中に同居するようになる︒︽この二人の女性との交際は︑彼の生活の中で二種

類の音楽を奏でていた︒一方は浮かれた激しいディヴェルティメント︑もう一方は厳かで殆ど宗教音楽のようだ

った︒︾︵Ⅱ・2︶ こうした分極化とその両極間の弁証法的関係はこの小説の構想に初めから含まれていたもので

あることを︑フローベールの草案の記述が明示しているー︽彼は﹁売春﹂を愛そうと努めると共に理想に心を       ︵20︶燃やそうともする︒︾

 この作家特有の︑風変りな細部と風刺の好みは︑ここでも当然考慮に入れなければならない︒フレデリックが

初めて連れて行かれた仮面舞踏会では︑様々な魅力的女体が次々と彼の前に現われ︑それは必然的に︑客のいか

−121−

(10)

なる酔狂にも応え得るあらゆるタイプを揃えたくその手の家︾を連想させる︒ところで︑こうした誘惑に満ちた

悪所として描かれるのは浮かれ如ロザネットを巡る世界だけではない︒売春宿のイメージは︑また別の色合いを

与えられて上流社交界の場にも現われるのだ︒ダンブルーズ夫人の閨房では︑婦人客が殆ど露に乳房を人目に晒

し︑身を震わせでもした拍子にドレスが脱げ落ちそうに思える︒女たちの︽衣装の色っぽさ︾と︽殆ど動物の顔

のような表情の乏しさ︾がフレデリックを驚かせるー︽半裸に近い女たちがこうして集まったところは︑何か

ハーレムの内部を思わせた︒青年の頭には更に不謹慎な連想さえ浮かんだ︒︾︵Ⅱ・2︶

 カフェ︑料理屋︑ダンスホールのような公の場所さえもが売春の場に早変わりする︒このような文脈にあって

は︑淫売宿とはあらゆる売春仲介的なりわいの︑すべて夢を売る行為の︑金で買われるあらゆる快楽の隠喩とな

る︒︽女など選りどり見どりだ︾とデローリエがフレデリックを引っ張って行ったダンスホール﹁アルハンブラ﹂

は︑違った環境に身を置きたいという欲望の︑安直な捌け口の好例である︒主要な登場人物の大部分が︑彼ら自

身︑売物のような存在だとさえ言うことができる︒最初に挙げるべきは勿論ロザネットだ︒その囲われ女として

の天職は彼女の肖像画に具体的に明記されているのであって︑アルヌー氏によって発注され後にフレデリックに

買われることになるその絵は︑差し当って次のような添え書きと共に︑ある画商の店先に陳列されているl

 ︽ローズ=アネット・ブロン嬢︑ノジャン出身フレデリック・モロー氏所蔵︒︾︵Ⅱ・4︶ だが︑社交界の売笑婦

とも言うべき上流夫人ダンブルーズを初めとして︑本質的には皆彼女と変わらない人物ばかりである︒妾周族人

のヴァトナ嬢︑ささやかな才能を色々な政治党派に売り渡す俳優のデルマール︒アルヌーの経営する店はその名

も︽工業美術︾社︑まさに芸術冒涜の最たるものだ︒画家のペルランは遂に写真家になり果て︑銀行家ダンブル

― 122 −

(11)

lズは生前︑︽⁝⁝出現したあらゆる政体を歓呼して迎え︑﹁権力﹂に寄せるその愛たるや並み大抵のものではな

かったから︑権力には金を払ってでも身を売りかねない人だった︒︾︵Ⅲ・4︶

 そしてフレデリックその人を忘れる訳にはいかない︒アメリ・ボスケ宛てのフローベールの手紙がこの人物に

ついて実に多くの事を語っている︑それも深い告白の口調で⁝⁝︽女性の売春については飽きる程色々の事が言

われてきました︒が︑男のそれについては誰もまだ一言も言ったことがありません︒私は売春婦の味わう拷問に

似た苦しみを身を以って知りました︒長い間ひとを愛し︑そしてもう愛したくないと思ったことのある男なら皆

そんな苦しみを味わった筈乙四︒︾ フレデリックとは︑良心とのあらゆる妥協に身を任す︑まさに︽弱さの権化

のような男︾である︒姦夫としての彼の偽善たるや︑妻のみならず情婦についてもアルヌーのライヴァルである

というややこしさだ︒その好事家的な優柔不断︑度重なる背信行為︑常に他人に寄り掛かっていずにおれない性

格ーまさしく囲われ女の特徴である︒フローベールの作品には︑強い女とこうした受身で女性的な男がしばし

ば登場する︒フレデリックという男は友人デローリエに︽殆ど女のような魅力︾︵Ⅱ・5︶を及ぼしており︑そこ

にはもうひとつ別の姦通︑男同士の友情に於げる不義密通の物語が見え隠れしている︒︽デローリエを見て︑フ

レデリックは夫に不義の現場を押さえられた妻のようにぶるぶる震えだした︒︾︵I・4︶更に︑財産と社会的地

位のみを目的とした︑ダンブルーズ夫人との結婚の目論見については︑最早何をか言わんやである︒

 売春は個人がするものとは限らない︒集団的売春というものも実在する︒社会とは︑いつの世も常に勝者に身

を任せる売笑婦だ︒個人の堕落と人間の集団の堕落とを関連づけようという意図を︑ロザネットに事寄せられた

次の文が明示しているー︽彼女は共和制に賛成だと言ったー既にパリ大司教猊下が宣言したように︑そして

−123−

(12)

また裁判所が︑参事院が︑フランス学士院が︑元師たちが︑シャンガルニエが︑ド・ファルー氏が︑ボナパルト

派と正統王朝派の人間すべてが︑そして相当数のオルレアン王朝派の人々が︑驚くべき機敏なる熱意を以てまさ

に宜言しようとしていたように︒︾ここでは︑自由の神話すら痛烈な嘲弄の的となることを免れない︒チュイル

リー王宮略奪のシーンは実に象徴的な光景で幕を閉じるー︽控えの間では︑衣類の山の上に娼婦がひとり︑自

由の女神像の恰好で突っ立っていたーぴくりとも動かず︑かっと両眼を見開き︑凄じい形相だった︒︾︵Ⅲ・1︶

 こうしたイメージが強調するのは︑政治との関わり合いのすべてに付きまとう野卑さ空虚さである︒しかし政

治はフローベールにとって︑理想への背信という大きなテーマのー最も多くの人間に関わるものであるという

意味では最も不快なー一側面を担う要素に過ぎないのだ︒﹁感情教育﹂はあらゆるものの破産と風化の詩︑巨

大な荒廃を描いた小説である︒友情︑希望︑イデオロギー︑すべてが移ろい堕落してゆく︒これは虚偽と︽紛い

物︾が埋める世界であって︑あらゆる行為がそこではパロディ化され︑決闘も芸術も恋も︑すべてはもじりに過

ぎない︒こうしたまやかしの充満について︑第二帝政崩壊後間もなく︑フローベールはジョルジュ・サンドに宛

ててこう書いている︒︽すべてが偽物でした︒偽りのレアリスム︑偽りの軍隊︑偽りの信用状︑娼婦さえもがま

やかしでした︒︾ それは︑理想を踏み躙り︑すべてを偽造して始まった時代が辿った当然の未路だった︒

 真正︑純粋なものでさえ凋落の運命を免れない︒アルヌー夫人の身の回りの品々の競売は︑二月革命と第二共

和制の破産整理と同時に行われたもうひとつの清算を象徴している︑と言うだけでは足りないのだ︒そこでなさ

れているのは聖なるものの冒涜︑貪婪な手から手へ渡されてゆくのは聖遺物に他ならない︒財産差押えの懸念に

対し︑更には単に何か物を売らなければならないと考えただけでも︑フローベールは常に恐怖に似た感情に襲わ

― 124 ―

(13)

れた︒彼の小説では︑細ごまとした私物も家屋敷と同様︑持てる階級の奢侈のシンボルとしてではなく︑過去へ

の忠誠︑自己の内奥との固い絆の証として描かれるのだ︒︽こうして次々と人手に渡ってゆくあのひとの持物と

一緒に︑フレデリックの心臓が少しずつ引きちぎられていくかのようだった︒︾︵Ⅲ・5︶

 売春のテーマから最終的に浮かび上ってくるのは不毛性の観念である︒実際︑この小説に描かれる出来事の多

くは︑初めから不妊と流産の空気に包まれているように見える︒フローベールにとって娼婦とは反自然成長の原

理の化身である︒生まれて間もなく死んでしまうフレデリックの子をロザネットが産んだ︽療養所兼産院︾︑こ

れを描くくだりの言葉遣いは︑控ために言っても極めて曖昧だー︽喜劇に出てくる小間使いのような︾女中︑

 ︽マダム︾と呼ばれる女院長︑産院そのものについてはくこの慎ましやかな家︾とあり︑︽⁝⁝しかも建物の正

面の窓は常に鎧戸を閉めきって︾あって︑その上︑診療所としては驚くべきことに︽絶えずピアノの音が︾聞こ

えているという︒︵Ⅲ・4︶ フローベールの腹案では︑生まれてきた子供の始末のつけ方を︽マダム︾がフレデ

      ︵23︶リックに教唆することにすらなっていたらしい︒

 裏切り︑涜聖︑不毛性⁝⁝︒しかしながら︑それらの汚濁の遠く及ばぬ高みで︑かのトゥルーヴィルの幻︑ア

ルヌー夫人の面影は清らかにも厳然と輝き続ける︒それ故︑詰まるところ︑フローベールの作品世界に於ては醜

は美に仕え︑頽廃は理想の清らかさをいやが上にも際立たせる為だけのものなのではないかとさえ思われる程で

ある︒エリザ・シュレザンジェとの邂逅のいまだ生々しい思い出を綴った﹁狂人の手記﹂の若き話者は︑他の行

きずりの女によって純潔を失ってしまった後味の悪さを既に知っていたー︽僕はそれをひどく悔んだ︑あたか

もマリアヘの夢は僕の宗教で︑それを自ら穢してしまったかのように︒︾︵第十六章︶ フレデリックを苛むものも

― 125 −

(14)

これと同じ︑失われた純潔への哀惜に他ならない︒結局は清らかなままで終った登楼の遠い思い出に︑彼はただ

徒にこだわっているのではない︒パラドックスの働きはここで最高潮に達し︑︽トルコ女の家︾の逸話には︑遂げ

られなかった恋の詩情が深く刻まれている︒小説の大詰め︑特にアルヌー夫人との最後の対面の直後に語られる

ものであるだけに︑この思い出は殊更に意味深く思われる︒それは︑シュレザンジェ夫人が現実にしたクロワッ

  ︵24︶セ訪問を︑アルヌー夫人とのこの最後の出会いの場面が反映しているらしい︑という理由からだけではない︒既

に過去のものとなった二人の愛を歌うこの感動的なデュエットが︑これも現実のあらゆる偶発事を乗り越え保た

れ続けた︑フレデリックのくどうにも抑えることのできない夢︾に遂に応える︑その到達点であるからである︒

フローベールは︑マリーというこの意味深い名前を﹁狂人の手記﹂﹁十一月﹂に続いて三たび使った︒つまり︑

アルヌー夫人とは人間以上のもの︑ひとつのイメージなのだ︒いや︑むしろ幻影と言うべきか︒初期の草案のひ

      ︵25︶とつがそのことを端的に示している︒︽初めて見た時ーまぶしさ︾︒ニ人の最初の出会いを描く小説の言葉は更

に明瞭に言う︒︽とその時︑あたかも幻が現われたかのようだった︒︾︵I・1︶我々はこうして︑ここで小説の

冒頭へ立ち返ることになるのだ︒

      ︵次号に続く︶

 訳 注

−126一

(15)

― 127 ―

(16)

― 128 −

参照

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Q7 

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