ブルネレスキと希望
【翻訳】カルロ・デル・ブラーヴォ
訳・註解 甲斐教行
ブルネレスキが一四〇一年のコンクールに出品したあのきわめて名高いパネル︵図1︶を︑私は新たな目で長いこと観察してみた︒イサ クの犠牲の動作が中断された瞬間は︑過去にイサクの懐胎が彼の母に告げられた瞬間の記憶 ︵1︶︵一︶と︵図2︶︑そしてキリストの未来の犠牲を予 兆する羊と︑想像力の中で結びつけられ︑また形態のうえでも並べられている︒私はアウグスティヌスの一節を思いうかべる ︵2︶︒﹁︹過去︑現
在︑未来ではなく︺過去の現在︑現在の現在︑未来の現在という三つの時間があると言えば︑おそらく正しいであろう︒なぜなら︑これら
のものは魂のなかに︑いわば三つのものとして存在し︑私はそれらのものをそれ以外の所では認めないからである︒過去の現在は記憶であ
り︑現在の現在は直観であり︑未来の現在は期待である ︵二︶﹂︒心の中には過去の﹁痕跡﹂︵v ︵三︶estigia ︶が残ると同時に︑未来の予感も感じとれる︒
これに倣って︑パネルの中に無言の魂の動きを読みとることができるだろう︒実際︑魂は﹁期待し注意し記憶する︒その結果︑魂が期待す
るものは︑魂が注意するものを通って︑魂が記憶するものへ移る﹂のである ︵四︶︒
シエナの彫刻家フランチェスコ・ディ・ヴァルダンブリーノもこのコンクールに参加した︒しかしそのパネルは現存していないので︑こ
の時期のものと思われる彼の作品︑モンタルチーノのサンテジーディオ聖堂木彫磔刑像︵図3︑4︶を比較の対象に用いよう︒このキリス
ト像の憔悴した胸部と手足の鋲留めの跡は︑ともに︹キリストが受難
以前に保っていた︺肉体のプロポーションの美しさを破壊しており︑
もはや当初の美の記憶は頭部に断片的に残っているに過ぎない︒霊的で甘美な頭部は︑ちょうどアントニヌス時代︹在位一三八│一六一年︺ の大理石像︵図5︶のように︑柔らかな肌と︑若々しい髭や巻毛との対照に︑その花の極みをみせる︒かつて存在した美に寄せられた観想
の記憶と︑現前する苦痛の表現との葛藤は︑またしてもわれわれをあのアウグスティヌスの︑時間を魂の動きとしてとらえる考え方へと導
いていく︒だがブルネレスキとヴァルダンブリーノの二つの作品には︑両者をなおいっそう接近させるもうひとつの魂の動きが含まれて
いる︒それは観想と語 ディスコルソりの間の動きである︒実際︑ヴァルダンブリーノの︽キリスト磔刑︾の中で︑アントニヌス期の大理石像の様式︵図 5︶││これに同時代のフランス・ゴシック彫刻の影響を ︵五︶くわえてもよいが││をとりいれた調和に満ちた細部は︑われわれを観想へとい
ざなう︒かつて観想の対象をなし︑のちに破壊されてしまったキリストの美しさは︑このような調和によって表現されている︒それに対し︑
変 アッチデンターレ化する事象に関わるものとしての語 ディスコルソりもまた︑︹キリストの肉体を︺苦痛に満ちたものにデフォルメする手法を一四世紀ピサ派磔刑像︵図
6︶からとりいれることによって達成されている︒調和に満ちた細部はブルネレスキの︽犠牲︾にも欠けてはいない︒それは︑古代の︽刺
抜く人︾︵図7︶の像を手本に作られた若者や︑天使の頭部︑イサク︑禿頭の従者に見ることができる︒一方︑変化する事象としての語りも︑
︹天使の︺すばやさ︑︹アブラハムの︺荒々しさ︑︹イサクの︺苦痛︑︹馬の︺渇きの中に︑デフォルメされて表されている︒またブルネレスキは︹観
想と語りの︺いずれの側面においても︑ヴァルダンブリーノの町でもあったシエナの大聖堂の︑ニコラ・ピサーノとその協力者の手になる
説教壇︵図8〜
モチーフをはじめとして︑幅広くとりいれている︒ ︵3︶ 13︶の多種多様な様式から︑前述した︽刺抜く人︾の
当時のプラトニズムは︑似 イマジネ像をまったく必要としない神秘主義とは立場を異にし︑観想へのひとつの段階として似像の美を受けいれてい
た︒ブルネレスキ然り︑ヴァルダンブリーノ然り︒とはいえこの両者とも︑ギベルティに比べると︑魂の劇的葛藤を含む割合が大きいとい
える︒ギベルティは︑プリニウスの伝えるリュシッポスの作品を手本として ︵六︶︑思うに︑優美な肉体と小さな頭部を制作していたが︵図
14︶︑
それは自作においてもリュシッポスがおこなったように﹁肢体の美しさがいっそうよく見てとれるようにするため ︵4︶﹂︑すなわち︑肉体とい
うヴェールの中で︑美の観想の中にできるだけ長い間とどまっているために他ならない︒
私たちはすでにプラトニズムの︑それもまさにプラトンの﹃国家﹄の用語を用いて議論を進めている︒この著作はマヌエル・クリュソロ
ラス︵図
滞在中に︑ラテン語に翻訳して伝えたものである︒クリュソロラスの ︵八︶ 15︶が︑一三九七年から一四〇〇年にかけてのフィレンツェ ︵七︶
フィレンツェ滞在はのちに︑他ならぬヴェスパシアーノ・ダ・ビスティッチによっても︑その大きな意義が認められている ︵九︶︒さて︑調和 は美しさの源ではないだろうか││﹃国家﹄第三部はこう述べる││︒﹁そして最も美しいものは︑最も恋ごころをそそるものだ ︵5︶︵十︶ね﹂︒
この偉大なコンスタンティノポリス人は︑フィレンツェでギリシャ語を教え︑この地にプラトンへの関心や︑ひとつの論題を多角的に考
察する議論への関心をもたらした︒彼の話しぶりは冗長だったが︑対立意見をも包みこむ複雑な性格をもっていたため︑内部に緊張を秘め
ていた︒彼はペトラルカの老年期の作品にも似たかみくだかれた豊かな知識で︑友情や︑自分自身と他人の無知について語ることができた︒ 他ならぬ﹃国家﹄によれば︑このかみくだかれた豊かな知識は︑美が魂の慰安として役立つような豊かな芸術環境がもたらした貴重な成果
である︒なぜなら芸術上の特質と︑倫理や言語上の特質との間の類比と兄弟関係を確立したのは︑当の﹃国家﹄だからであ ︵6︶︵十一︶る︒
またクリュソロラスは︑さまざまな時代の明らかな徴候を比較してそこに類比を見いだすのに長けていた︒彼はギリシャ語の文献を訳す
にあたって︑原文の文体的特徴が︑近代の訳語︹この場合はラテン語︺の類比的特徴によって伝達されるようにと教えた︒そして一四一一
年には古きローマと新しきローマ︑つまりローマと彼の都コンスタンティノポリスとの有名な比較文を起草した ︵十二︶︒そこでわれわれは空想す
る︒クリュソロラスはそのかみくだかれた豊かな知識によって︑コンスタンティノポリス美術の美しさを推奨したにとどまらず︑西欧の文
学や美術とこのギリシャの大都市の美術との類比を論題としてとりあげなかっただろうか︑と︒一四一一年にクリュソロラスが記したよう
に︑もはやローマから姿を消した古代の美術作品が︑コンスタンティノポリスでは過去にもまたその当時も存在していたのだ︒実際この大
都市はローマのような破壊を被らなかったため︑さながらさまざまな時代のギリシャ美術の傑作の森のような様相を呈していた︒コンスタ
ンティヌス帝以前にも︑アテネを始めアジアや島嶼のギリシャ植民市からもちさられた彫刻がこの地に運ばれていた︒
一三九七年から一四〇〇年にかけてのフィレンツェで︑クリュソロラスのギリシャ文化が基本的な参照点のひとつをなしていたとすれ
ば︑その視覚領域における等価物は︑さまざまな時代にギリシャ美術を真似て作られた多種多様な作品であった︒そうした芸術文化との積