報告6 「モンゴル」から「モンゴル」へ(和光大学 モンゴル学術調査団報告)
著者 フフバートル
雑誌名 東西南北
巻 1998
ページ 162‑164
発行年 1998‑03‑20
URL http://id.nii.ac.jp/1073/00003697/
ここで私は﹁モンゴル﹂という概念と各地
のモンゴル人たちがもつモンゴル人意識につ
いて簡単に申し上げたいと思います︒﹁モン
ゴル﹂とはいったい何であるかという︑あま
り考える必要のないことを最近ちょっと考え
てみました︒そのために日本や中国そして
旧モンゴル人民共和国などで使われている最
もポピュラーな辞書を調べてみました︒
日本の﹃広辞苑﹄や中国の﹃新華字典﹄な
どでは︑だいたい﹁モンゴル﹂は地理的位置︑
すなわち︑モンゴル高原と民族︑そして︑モ
ンゴル人民共和国という国家で説明されてい
ます︒これは中国で教育を受けた内モンゴル
出身の私にとってはあまり抵抗のない説明で
す︒一方︑旧モンゴル人民共和国の場合は一
九六○年代の辞書には︑﹁モンゴル﹂は国家
と民族の順序で説明されています.さらに一
九八○年代に出版された﹃青少年百科辞典﹄
を開いて見ると︑﹁モンゴル﹂はただ︑モン
ゴル人民共和国を指すのみに止まっています︒
実際にこれらの辞書が示している通り︑中国
報告6﹁モツヨル﹂九噸b﹁モンゴル﹂へフフバートル
の中のモンゴル人たちは民族としてのモンゴ
ル・アイデンティティをもっていますし︑モ
ンゴル国の人びと︑特に若者たちはモンゴル
国民としてのモンゴル・アイデンティティを
もっていることが普通です︒
旧モンゴル人民共和国ではいつごろから国
境外のモンゴル人を﹁モンゴル﹂から外すよ
うな意識を育ててきたかということを考えて
みなければなりませんが︑一九五○年代の後
半まで旧モンゴル人民共和国では︑それまで
一五年ぐらい使ってきたキリル文字を︑内モ
ンゴルの方言を考慮に入れて改革し︑民族共
通の文字を作り直そうと努力して︑それまで
の数十年にわたる分断の歴史の中で生じた文
化的な溝を埋めようとしていました︒
いずれにしても︑中ソ対立の二○年間は旧
モンゴル人民共和国のソビエト化を加速させ
た時代であると同時に︑中国においては﹁文
化大革命﹂の一○年間がそうであるように︑
モンゴル族の漢化が進んだ時代でもあります︒
両大国の敵対関係の狭間で︑国境の両側のモ ンゴル人たちの間には︑それまでになかった 心理的隔たりが生じたことは事実だと思いま す︒その中で現れたのが︑モンゴル国のモン ゴル・アイデンティティではないかと思うの ですが︑もちろん︑外モンゴルの独立によっ てモンゴル民族がはじめて近代国家をもつよ うになったわけですから︑一九五○年代以降 モンゴル人民共和国の国際的地位が上昇する につれて︑そこの住民の国民としてアイデン ティティが育ってきたと言えると思います︒ すなわち︑近代国家が国民をつくったという
ことです︒話を中国側のモンゴル人にもどしますが︑
中国側のモンゴル人たちは中国国民として︑
中国の五六の少数民族の中の一員として自分
を位置づけていますので︑その﹁モンゴル﹂
はつねに﹁民族﹂のレベルを超えることはあ
りません︒また﹁モンゴル﹂をつねに﹁民族﹂
のレベルでしか意識していないので︑中国の
外にいるモンゴル人たちに対する同胞意識も
強く︑モンゴル国の人たちを﹁モンゴル﹂か 人間関係学部講師
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ら外すという発想が生まれることはまずあり
えないと思います︒
このように︑モンゴル国のモンゴル人たち
がもつモンゴル人意識は﹁国家的﹂であるの
に対して︑内モンゴルの人たちがもつモンゴ
ル人意識は﹁民族的﹂だということができま
す︒その違いが日本に留学しているモンゴル
人留学たちの行動パターンにもそのまま反映
されているように思われます︒
日本には両方のモンゴルから留学生がたく
さんきています︒モンゴル国の学生たちはほ
とんどが国費なので︑国家の管理による正確
な統計があると思いますが︑内モンゴルから
の学生たちの場合はほとんど私費留学生であ
るために︑中国の管理がそこまで届かないと
いうこともありまして︑正確な人数はよくわ
かりません︒
モンゴル国からの留学生たちのほとんどが
理科系やコンピューター︑または︑経済ぺ法
律などの勉強をしています︒まさに若いモン
ゴル国の将来の担い手として日本で先端技術
や近代的学問を学んでいるわけです.一方︑
内モンゴルの留学生たちは︑私も含めて日本
でモンゴル学を学んでいる人がたくさんいま す︒これには来日以前の内モンゴルでのモン ゴル族の教育事情や個人の都合があることは いうまでもありませんが︑内モンゴルからの 留学生たちには学問の領域でも﹁民族﹂にこ だわる傾向があるように思われます︒
そして︑モンゴル国からの留学生たちは
﹁在日モンゴル人留学生連盟﹂という近代的
な組織の活動を通して定期的にモンゴル国大
使館などで交流しているようですが︑内モン
ゴルからの留学生たちは年に二回ほどあるモ
ンゴル祭のゲル︵フェルトの天幕︶の中か︑
モンゴル相撲の﹁土俵﹂の周りに集まるのが
習わしです.ちなみにモンゴル相撲には土俵
はありません︒ここに集まってくる男たちは︑
ウランバートルから来たモンゴル国の若者た
ちとは違って︑そのほとんどが馬に乗るのは
言うまでもなく︑モンゴル相撲をとることも
できます︒モンゴル祭では民族音楽や歌謡を
披露するほか︑モンゴル独特のミルクティー
や羊肉の塩煮なども出ます︒
このように︑仮にモンゴル国の留学生たち
の行動が﹁国家的﹂﹁近代的﹂と言えるなら
ば︑内モンゴルからの留学生たちの行動は
﹁民族的﹂﹁伝統的﹂だと言えます︒実際にモ
ンゴル国の留学生たちは渋谷のモンゴル大使 館の二階から上に上がっていけば自分が﹁モ ンゴル人﹂であることが確認されますが︑内 モンゴルの留学生たちは代々木公園で相撲を 取っているか︑またはモンゴル祭のゲルの中 で羊肉の塩煮を食べていない限り︑自分が ﹁モンゴル人﹂であることを確認する手段は ありません︒﹁モンゴル大使館の二階﹂と申 しましたのは︑﹁国際法上﹂二階から上はモ ンゴル国民しか上がれないからです︒また︑ 代々木公園では毎年一○月にモンゴル相撲大
会が開かれます︒実際に︑モンゴル大使館の二階へ上がって
いくことで感じるモンゴル国の留学生たちの
﹁モンゴル人﹂意識は︑きわめて﹁国家的﹂
﹁近代的﹂なもので︑それに対して︑代々木
公園で相撲を取って感じる内モンゴルの留学
生たちの﹁モンゴル人﹂意識は非常に﹁民族
的﹂﹁伝統的﹂だと言えます︒
しかし︑国際関係が国家レベルで進められ
ていく世の中では︑﹁民族﹂も﹁伝統﹂も通
じません︒内モンゴルの人たちにとっては︑
外国という国際的な場に出てこないとわから
ないことだと思いますが︑結局︑両側のモン
I " ‑ −
司会最初に︑実は言いたかったんだけれど
も言えなかったというようなことがあればお
話願って︑それから参会者からの質問にお答
えするという形で進めたいと思います︒
フフバートルモンゴル人意識と国際化とい
うことについて少し触れたいと思います︒現
在︑国際化が進むにつれて︑モンゴルという
のは国家単位で考えられるようになり︑これ
からモンゴルと言った場合には︑だんだんモ
ンゴル国︑あるいはモンゴル国民を指すよう
な傾向に進んでいくんじゃないかと思います.
そうなると︑国を持たない︑あちこちにいる
モンゴル人たちの存在が忘れられていくとい
う傾向はさけられないと思います︒
三橋中国での民族教育について一言.お祭
りとか言葉︑あるいは文学︑口承文芸という ディスカッション司会・鈴木勁介 ゴル人たちの﹁モンゴル人﹂意識の違いは︑ まさに﹁国家﹂対﹁民族﹂︑﹁近代﹂対﹁伝 統﹂にあるようです︒すなわち︑﹁モンゴル 人﹂という概念を国際法という近代的基準
ところでは︑これを残そうとしたり教育する
のは可能ですけれども︑モンゴルの民族教育
というのは︑高等教育になってきましても︑
最後まで文科系しかないという問題があるわ
けです.そこで新しい近代テクノロジーにつ
いていけるための教育を受けようとすると︑
どうしてもマジョリティの言語の中で学んで
いくしかない︒民族の言語でもってそれを全
部果たしていくと︑恐らくこれは逆に言うと
非常に政治的な意味を持ってくる︒
それから︑テクノロジカルな教育までが完
壁に民族内でそろってきたときに︑今度は古
くから持っていた民族の文化を自ら壊してい
く可能性が出てくる︒その狭間で民族教育と
いうのはどういうふうにあるべきかというこ
とをつくづくと感じたということだけご報告 によって国際的なレベルで考えるか︑それと も伝統にしたがって民族のレベルで考えるか という考え方の次元が違いますので︑異なる モンゴル・アイデンティティをもつ両側のモ
人間関係学部教授
しておきたいと思います︒
ユ自分の報告のときに時間が足りなくて︑
あまり丁寧に触れられなかった話について︑
ちょっとだけコメントしたいと思います.
パンモンゴリズムというのは︑ある種の脅
威をもたらすもの︑危ないものというような
イメージがある.しかし例えばEUに代表さ
れるような広域での民族間統合がその域外に
いる者たちに与えている脅威はパンモンゴル
という言葉で連想されるようなものとは比べ
ようもないほど巨大なものである︒
ですから︑パントルコイズムとか︑パンモ
ンゴリズムというものは︑例えば中国当局の
立場からすれば︑中国の基本的な立場は︑民
族地区の分離というものは許さないというも
のですから︑脅威になるかもしれない︒しか ンゴル人たちが︑こうした意識の違いをお 互いに理解していくことはたいへん難しい
ことだと思います︒− ゴ