日本基督教団の戦争責任告白と 日韓キリスト教交流
倉 持 和 雄
はじめに:問題意識と課題設定
2017 年は宗教改革 500 年の年であり、プロテスタント教会にとって記念すべき年で あった。日本においてプロテスタントの合同教会の教派であり、最大の教派でもある日本 基督教団(以下、場合により教団と略称する)も宗教改革 500 年を記念する諸行事を開催し たが、2017 年、この日本基督教団にとって実はもう一つ特別な節目の年でもあった。
1967 年 3 月、教団は「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(以 下、戦争責任告白あるいは戦責告白と略称)を発表した。つまり 2017 年は戦責告白 50 年 を迎えた年であった。しかし戦責告白 50 年は宗教改革 500 年という大きな歴史的事蹟の 影に隠れてしまった感は拭えない。わたしはそんな感慨を持ちながらこの年、戦責告白の 歴史を振り返ってみた。本稿はそうした学びのなかで、ある一つのことに多大な関心を抱 き、そのことを考究して取りまとめた成果である(1)。ではわたしがどんなことに問題関心 を抱いたのか、まずそれを明らかにすることで本稿の課題が何であるのかを示しておこ う。
第一に、戦責告白発表に至る過程でその動機の一つとして、ちょうど国交正常化したば かりの韓国キリスト教会との交流のことが話題になっていたことを知った。韓国キリスト 教会との交流をはじめるにあたって戦責告白の必要性が意識されていたということであ る。韓国研究を専門とするわたしにとってこの事実は、この問題を突っ込んで考察してみ たいというきっかけとなった。
第二に、第一の問題と対をなすのであるが、戦責告白発表後、実際に日本基督教団と韓 国キリスト教会との交流がはじまる。それは戦責告白が韓国において肯定的に受け止めら れたからだと考えられている。しかし戦責告白のインパクトは韓国側で実際、どんなもの であったのか、きちんと検証してみたいという思いになった。またその時期前後における 日韓キリスト教会の交流と戦責告白がいかなる関係にあったのかも考察してみたいと思っ た。
さて本稿の課題を追究するため、日本基督教団の実情については『教団新報』、『キリス ト新聞』、また韓国キリスト教界の実情については『基督公報』、『クリスチャン新聞』、
『聯合基督新報・教会聯合新報』、『基督教世界』、『基督新報・基督新聞』など韓国のキリス ト教界誌を調査した。このほか韓国キリスト教、日韓関係に関わる研究書、研究論文を使 用した。
1 戦責告白発表動機の一つとしての日韓キリスト教関係
⑴ 戦責告白発表の発端
教団内で戦責告白必要性の議論は、戦責告白を発表した 1967 年の前年、第 14 回教団総 会(1966 年 10 月)に向けて若手教職を対象にして開催された第 17 回夏期教師講習会(1966 年 8 月 29 日〜9 月 3 日)で挙がった意見が発端となった。例えば以下のような意見であっ た(2)。
「教団の現在を摂理として受け取り、社会変革の中で責任を負うということは、教団 がかつて戦争に協力したということに対する責任から出発しなければならないのでは ないか」
「戦後 25 年たってからでは遅きに失するとも思うが、今朝鮮の教会と交わりが開かれ ようとしている時期でもあり、今を逃したらこういう機会はないであろう。」
「〈明日の教団〉を考えるについて遅すぎる感はあるが、教団の合同当時、すなわち、
戦時中の怠慢を悔い改めることから始めるのがよいと思う。日本だけが悪かったとい うことは言えないかもしれないが、教会が世の見張りの役をしてこなかったことはい けなかったと思う。また周囲の国々、国内の同胞に対しても迷惑をかけた。その至ら なかったことをわびることが必要だ。」
以上のような意見を受け、その年の秋に開催が予定されていた教団総会で戦争責任の問 題を何らかの形で建議しようとまとまったのである。その後、戦責告白に至る詳細な経緯 をここでは省略する(3)。ここで戦責告白が 1967 年という時期に発表されたことについて 少しだけコメントしておきたい。
第一は、上記の意見にも吐露されているが戦責告白の時期が「遅きに失した」というこ とについてである。確かに戦後 20 年以上をすでに経過していた時点で戦責問題がやっと 具体的に取り上げられた事実、それが「遅きに失した」という評価は、戦後すぐに罪責告 白をしたドイツ教会と比較すれば明らかである(4)。しかし教団が戦責告白発表までに 20 年以上を要したのにはそれなりの要因があった。最大の要因は戦中の教団指導者たちが戦 後の教団執行部を構成していたからである(5)。そして彼らには戦争責任の意識がおしなべ て希薄であった。戦争協力は強いられたものであり、あの時期にはやむを得なかった、む しろ自らも被害者でさえあるといった意識が少なからずあった(6)。彼らが率先して積極的 に戦責告白することは望めなかった。もちろん教団の教職、構成員がすべて同じであった
のではない。若手・中堅の教職には戦時下における教団の罪責を意識する者が少なからず いた。そうした一部は福音同志会を結成して教団指導部を批判したが、若手の彼らがすぐ に教団の中枢を占めることはできなかった。1960 年代半ば、まさにそうした世代の教職 が教団執行部を担うようになってきたのである。1966 年、上述の第 17 回夏期教師講習会 当時、教団議長であった大村勇、そして大村勇に継いで教団議長となり、戦責告白発表の 当事者となった鈴木正久、この両人は福音同志会のメンバーであった(7)。ところで「遅き に失した」という評価はその通りであるが、それでも日本基督教団の罪責告白(内容的に も限界はあったが)は日本政府の一定の反省の表明や他の日本のキリスト教諸教派の罪責 告白に先立って行われたという意味では先駆的であったともいえる(8)。
第二に、上記の二番目の意見で「今朝鮮の教会と交わりが開かれようとしている時期」
という言及があったことについてである。まさにこの言及こそ、わたしが本研究に取り組 むきっかけとなったものである。戦責告白の必要性としては、もちろん教団の主体的な罪 責の意識=内的動機がもっとも重要な要因であったと考える。しかし、それだけでなく、
韓国(原文は「朝鮮」とあるが具体的には韓国であるので以後、韓国とする)のキリスト教 会と交流するための条件あるいは前提として必要性が語られていた、という事実があっ た。そうした意識は、ある種、外的動機から戦責告白の必要性を述べた意見と考えること ができる。
ではこうした意識が生じたこの時期の状況が一体どういうものであったのかを次に探っ ていきたいと思う。
⑵ 日韓国交正常化をめぐる動きと韓国における日韓会談反対運動
教団の夏期教師講習会で上述のような戦責告白の必要性が議論された 1966 年 8 月は、
すでに前年の 1965 年 6 月に日韓条約が調印され、その後、両国での批准も終わり、日韓 国交正常化が実現した直後の時期であった。日韓国交正常化に至る日韓会談=日韓交渉は 実に足かけ 15 年もかかるほど困難なものであった。ここで日韓会談の詳細を述べる紙幅 はないが(9)、妥結まで何故こんなにも長引いたのか、そして何故、この時期に妥結できた のかについてだけ述べておきたい。
第一に、長期化した理由であるが、その根本原因は日韓両国の植民地支配についての認 識の対立にあった。すなわち、韓国側は日本の植民地支配が不法・不当であるとするのに 対し、日本側は合法であったと主張していた(10)。会談の過程で、日本側はそうした認識 に立って植民地支配が朝鮮(韓国)の近代化に資することさえあった、と植民地支配を肯定 するような主張までした。このことは韓国側を憤慨させて会談を決裂させた。そして決裂 後 4 年半もの間、日韓会談を中断させる事態を生んだのである(11)。韓国側の原則的姿勢
は、日本側から植民地支配に対する反省・謝罪の表明がない限り、国交正常化はありえな いというものであった。この姿勢は李承晩政権期(1948 年 8 月〜1960 年 4 月)に貫かれた。
日本側も合法とする姿勢を堅持し、両国の対立の溝は埋まらなかったのである。
第二に、では 1965 年に国交正常化が何故、可能になったかについて述べておこう。端 的に言えば、韓国側が国交正常化に対する原則的姿勢を崩したからである。何故そのよう な変化が起きたのか? それはこれまで一貫した姿勢を貫いた李承晩政権が 1960 年 4 月 の学生革命で倒壊し、その後、短命の張勉政権を経て、軍事クーデターで登場した朴正熙 政権下で韓国側の姿勢が変わったのである。
反共を国是としてクーデターを敢行した朴正熙は、北朝鮮との対抗上、韓国の経済開発 を必至と考えた。経済開発はまたクーデターという非常手段で政権を握った朴正熙にとっ て政権の正当性を担保するためにも絶対に必要であった。しかし、如何せん当時の韓国は 経済開発に必要な資金が不足していた。解放後、ずっと韓国を支援し続けてきた米国も 1950 年代末以降、ドル危機を迎えて韓国を援助し続ける余力はなかった。残る期待は日 本と国交正常化によって得られるだろう資金であった。このため米国も日本との国交正常 化を韓国に働きかけていた。こうした状況で朴正熙はこれまでの対日強硬姿勢の維持より も経済開発を優先して日本側に譲歩し、植民地支配に対する日本からの反省・謝罪がなく ても国交正常化妥結を急いだのであった(12)。
しかし、こうした朴正熙政権の対日外交姿勢は韓国世論の猛反発に直面することになっ た。日韓会談の最終局面であった 1964〜65 年にかけて激しい日韓条約反対運動が起こっ た。それは李承晩政権を倒壊させた 1960 年 4 月を彷彿とさせるような大規模な街頭デモ を伴うものであった。朴正熙は非常戒厳令を布いて反対運動を抑え、日韓国交正常化を強 行したのである。こうした韓国における激しい日韓条約反対運動の様子は、連日のように 報道されていたから、日本のキリスト者も韓国の強い反日気運、韓国人の反日感情を認識 することになったことは容易に推測できる。さらに日本のキリスト者に衝撃を与えたの は、韓国での日韓条約反対運動に韓国のキリスト者が大挙コミットしているという事実で あった。
ところで韓国のキリスト教界にとって日韓条約反対運動は、韓国樹立後、反政府的政治 運動に関与するはじめての事件であった。李承晩政権時代、その末期にはあからさまな不 正腐敗があったにもかかわらず、韓国のキリスト教界は李承晩政権を支持し続けた。それ は李承晩自身が熱心なキリスト者であり、親キリスト教的姿勢と政策を採ってくれたから である。1960 年 4 月の学生革命による李承晩政権倒壊は韓国のキリスト者たちに衝撃を 与え、その後の社会・政治とのかかわりにおいて韓国キリスト教の転機となった(13)。その 後、韓国の一部、進歩的キリスト者達は 1970 年代、1980 年代に過酷な弾圧の中で粘り強
く民主化運動を主導していくことになる(14)。日韓条約批准反対運動は、1970 年代以降の 民主化運動をはじめとするキリスト者の社会運動への過渡期的な取り組みとしての意義を もったといえる。ただし、ここで特筆すべきは、1970 年代以降の民主化運動を担ったキ リスト者は進歩的キリスト者(だいたいにおいて神学的に自由主義的で、政治的に進歩的) であったが、1960 年代半ばの日韓会談反対運動においては保守的キリスト者(神学的にも 政治的にも保守的)も共に加わった運動であった。もちろんすべてのキリスト者、キリス ト教会が行動を共にしたというのではないが(15)、進歩派、保守派を代表する著名なキリ スト者がこの運動を主導したという意味で汎キリスト者の運動だったのである(16)。
キリスト教界の日韓条約反対運動は学生たちの反対運動に比べて遅れ、日韓条約調印後 の批准反対運動が主であった。ソウルでは 1965 年 7 月 5 日〜6 日の永楽教会の祈祷会に 3000 余名、7 月 11 日の救国祈祷連合礼拝には 6500 余名が雲集するほどであった。さらに キリスト教界の批准反対運動は全国的に拡大していった(17)。
彼らは国交正常化そのものに反対したのではなかった。繰り返しになるが、その根本に は、日本側から植民地支配に対する何らの反省・謝罪もないままに国交正常化することに 対する反発があった。もちろん反対声明には、具体的な懸案事項である平和線(李承晩ラ イン)撤廃、請求権処理の仕方、併合条約無効の解釈、門戸開放による日本資本進出など に対する懸念と不安を指摘しているが(18)、これらすべても根本的には日本側の反省を引 き出せず、日本の高姿勢に屈したという認識がある。それは日韓妥結を「屈辱的」と表現 したことに如実に表れている。
この時期、韓国の大多数のキリスト者にとって植民地時代の神社参拝の記憶はまだ鮮明 であった。神社参拝に屈した罪責は韓国のキリスト者の心を苦しめたに違いない。そして 神社参拝を強いた日本、それに加担した日本基督教団に対する許しがたい思いは日本のキ リスト者も含めて日本人には計り知れないものであった。この韓国キリスト者の複雑な思 いは、日本のキリスト者が韓国を訪問し、韓国のキリスト者と直接接触することではじめ て実感することになる。
⑶ 大村勇日本基督教団議長の訪韓
1965 年の日韓条約調印、批准という時期、日本基督教団議長であった大村勇は、9 月に 開催される韓国基督教長老会総会に来賓として招待され、そこで挨拶するために訪韓し た。日韓条約に対する韓国キリスト者の反対運動をすでに認識していた大村勇は、訪韓前 に、挨拶といっても儀礼的な挨拶ではなく、謝罪するつもりで出かける決意を語ってい た(19)。ところが韓国に着いた直後、予想もしないハプニングに直面することになった。
韓国基督教長老会総会議場で議員から大村勇の挨拶に疑義、反対の声が挙がって収拾がつ
かなくなるという事態が起こったのである。このため大村勇は議場に入ることができず、
ホテルで待機することになった。この時の様子を通訳のために同行した李仁夏が実に生々 しく記録している(20)。
しかし、結局、議場では 3 時間にもわたる大激論の末、評決の結果、1 票差で挨拶を受 け入れることになった(21)。やっと挨拶を許され、登壇した大村勇は李仁夏のアドバイス で、挨拶の冒頭、「アンニョンハシムニカ」、「私がハングルでなく、皆様をかつて支配し ていた言葉でご挨拶することをお許しください」と韓国語で語りはじめた(22)。挨拶が終 了した時には万雷の拍手、スタンディングオベーションを受けたのであった(23)。挨拶に おいて植民地時代、とくに戦時期の日本国と日本のキリスト教会の過ちを率直に謝罪して いる。挨拶後にスタンディングオベーションを受けたのは、韓国基督教長老会の総会代議 員、傍聴していた教職・信徒がこの謝罪の言葉を受け入れてくれたからだと言えよう。
大村勇教団議長の韓国基督教長老会総会での挨拶内容、訪韓後の所感、挨拶を受けるか どうかで議場がもめたことなど、かなり詳細な報告が『教団新報』誌上に掲載された(24)。 この記事やさらに訪韓前の大村勇の決意表明や日韓条約批准に反対する韓国の教職者救国 委員会の声明文を掲載した『教団新報』誌上の記事などを通じて韓国キリスト者が日韓条 約に強く反対している事実、韓国キリスト者の日本教会に対する非常に複雑な思いを教団 の教職たちは知ることになったと思われる。翌 1966 年 8 月の夏期教師講習会で若手の教 職が、韓国教会との交流を開始するにあたって罪責の問題に言及したのは、そうした背景 があったからだとじゅうぶんに推察できる。少なくとも大村勇はじめ当時の教団執行部は 韓国キリスト教会の対日感情に対する認識を共有していたであろう。とはいえそれが日本 基督教団のすべての教職や信徒の認識となっていたかはやや疑問である(25)。
この節の最後に一つ注目しておきたいことは、大村勇教団議長の訪韓と韓国基督教長老 会総会での謝罪表明についての韓国側の認識である。わたしの調査の限りだと『クリス チャン新聞』と『基督教世界』だけが、このことを報道している(26)。調査した『基督公 報』、『基督新聞』、『基督新報』、『聯合基督新報』など、その他のキリスト教界誌は大村勇 教団議長の訪韓事実さえも触れていない(27)。韓国基督教長老会(基長)の総会出席者は日 本基督教団を代表した大村勇の謝罪表明を認識したであろうが、この事実は韓国キリスト 教界に広く知られることではなかったと推測される。
戦責告白発表に対する韓国キリスト教界の認識(評価)と日韓キリスト教会の交流
⑴ 戦責告白の発表と韓国での報道
戦責告白(正式名称は「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」)は 教団議長鈴木正久名で 1967 年 3 月 26 日復活主日に発表された。実際にはそれより一週間
ほど先立つ 3 月 18 日付の『教団新報』にその全文と「『議長書簡』をおくるにあたって」
という副議長飯清と書記木村知己の両名連記による解説文が掲載された。
この戦責告白が発表されて、日本のキリスト教界内、とくに日本基督教団内で、これに 対する賛成・反対の議論が噴出した。賛成の立場でも内容の不十分さ、告白に基づく具体 的実践の不明瞭さを批判する議論、また反対する立場からは戦時下の困難な実情や教団存 立を否定されたかのような内容へ感情的反発からの批判や手続き上の問題への批判など議 論百出であった(28)。さて本稿では戦責告白の内容に立ち入って検討することが課題では ないのでこのことはこれ以上触れない。
戦責告白は公表後、すぐに英訳・ドイツ語訳がなされて各国諸教会に送られた(29)。そし て各国からの反応について「韓国はじめ、台湾、フィリピン等アジアの諸教会からの積極 的な評価の反応が伝えられている」と戒能信生は記しているが(30)、本稿では韓国におけ る反応についてのみ検証したいと思う。
まずは戦責告白の発表のことが韓国でどう報じられていたのか? 調査した韓国のキリ スト教界一般誌のうち戦責告白について報道していたのは『クリスチャン新聞』のみで あった。『クリスチャン新聞』は 1967 年 3 月 25 日付の一面に「日本基督教団議長名義で
/『戦時下の責任を』告白」と題し、告白文の全文を掲載している。告白文全文掲載に先 立ち発表の経緯の簡単な紹介と最後に「教界内外はもちろん関係当局に及ぼす影響が注目 される。」と記しているが、『クリスチャン新聞』独自の論評はなかった。
一般誌ではないが、『韓国基督教長老会会報』1967 年 4 月 1 日号に「日本基督教団から 本教団総会長宛に送られた公翰―戦時下の責任を告白―」と題し、告白文の全文紹介に先 立ち「手遅れの怨みはあるが、きわめて歓迎すべきこと」「一昨年秋(1965 年 9 月―筆者) 本教団の招請で訪韓した大村勇牧師(当時の日本教団議長〈ママ〉)の役割が決定的だと知 られている」との簡単なコメントを付している。
以上から判断するとき、大村勇の挨拶を受け入れた韓国基督教長老会は、教団レベルで これを「きわめて歓迎すべきこと」と肯定的に評価しているが、韓国キリスト教界誌から 戦責告白に関連した論評を見出すことは出来ない。戦責告白発表について韓国キリスト教 界の反応はほとんど見られなかったということである。その後、唯一、『クリスチャン新 聞』誌が 1967 年 5 月に 1 件、1967 年 6 月に 件、戦責告白関連の記事を掲載している が、それはいずれも日本基督教団内で戦責告白に対して批判が起こっている事実を報ずる 記事であった(31)。そのことは後述するが韓国キリスト教界内にむしろ教団の戦責告白が どれほど日本基督教団の教会の一致した思いなのかについて疑念を引き起こすものであっ た。しかし、そもそも韓国キリスト教界内で教団の戦責告白発表の事実そのものがどの程 度認知されていたかはきわめて疑問である(32)。
⑵ 韓国三教会との宣教協約と鈴木正久教団議長の訪韓
1965 年 9 月の大村勇の訪韓後、教団の招請により 1966 年 6 月 1 日〜6 日の期間、韓国 教会の主流ともいえる三教会(教団はそのように呼んでいるのでこれに従うが、実体は三 教団)である大韓イエス教長老会(統合)(33)、大韓基督教監理会、韓国基督教長老会のそれ ぞれ代表である金世鎮総会長、李桓武監督、金在俊総会長の三名が来日して教団と交流・
協議をもった。そして戦責告白発表後の 1967 年 7 月 26 日〜8 月 1 日にかけて上記の韓国 卨
三教会から大韓イエス教長老会の兪虎濬総会書記、基督教大韓監理会の李炳卨総務局総 務、韓国基督教長老会の李英敏総会総務が来日して教団と宣教協力について協議し、宣教 協約草案の作成にまで至った(34)。宣教協約では、教団と韓国三教会との人事交流、情報・
資料の交換、エキュメニカルな協力を謳っている(35)。この宣教協約は戦責告白の結実と して教団と韓国三教会との間に公式な交流の門戸を開くものであった。そのうえで 1967 年 9 月 20 日〜24 日、鈴木正久議長と木村知己書記が韓国三教会を公式訪問することに なった。
鈴木正久議長と木村知己書記の訪問期間中の様子について、日本では『教団新報』と
『キリスト新聞』が報じている。『キリスト新聞』1967 年 10 月 7 日はこの事実を一面で大 きく報じている。その見出しを列挙すると「交わり深める日韓両国教会/歓迎された日基 教団訪韓使節団/誤ちを率直にわびる 鈴木議長・木村書記/二教会は協約を批准/『戦争 責任告白』に好感/韓国教会 政治的姿勢を聞く」というように、二人が歓迎され、韓国 教会が好意的であった、と報じた(36)。しかし『教団新報』の記事の中身を見ると歓迎一 色ではなかった様子が垣間見られる。
木村知己書記の談話として紹介されている部分をみるとつぎのように記している。「は じめ、鈴木議長があいさつに立ったとき、議場の空気は冷たく、拍手もおこらなかった。
鈴木議長は、彼らの非難のすべてを負って丁重に謝罪した。そのときはじめて拍手がおき た。(37)」
これは今回、教団がはじめて訪問した大韓イエス教長老会総会での様子の描写であ る(38)。当時、韓国延世大学に留学中で鈴木・木村両氏の三教会訪問に同行した澤正彦も大 韓イエス教長老会総会での様子を「だいたいにおいて、よい印象を与えたと言えよう。」
と述べてはいるが、続いて「ただ、いわゆる日帝時代に、キリスト教徒として、警察の迫 害や拷問を受けた牧師、長老の一部は、心を閉ざしていたことも、事実であったようだ。」
と記している(39)。またこの総会後の記者会見で、教団内で戦責告白に反対があることに 関連して、「日本が韓国に犯したあの不当な行為をほんとうに悪いと思っていない人々が いるのではないか、との質問を受けた。(40)」とも記している。これは上述したように韓国 内に戦責告白関連の報道は限られていたが、報道されていたのはもっぱら教団内で反対論
が起こっているとの記事であったことの影響かと思える。教団の戦責告白自体について好 意的に受け止めたとしても教団内の異論の存在故に素直に受け止めきれない思いがあった からだと思われる。そのことを反映してであろうか、意外なことであるが、鈴木正久議長 と木村知己書記の訪韓について韓国キリスト教界誌は報じていないのである(41)。
⑶ 戦責告白と日韓キリスト教会の交流
教団と韓国三教会は宣教協約を締結し、公式の交流を開始した(42)。上述のように宣教 協約が戦責告白の結実であったとするならば、教団と韓国キリスト教界との交流は戦責告 白によって開かれたといっても過言ではない。本稿の最初の部分で韓国教会との交流開始 にあたって戦責告白の必要性が意識されていたと指摘したが、その限りでいえば、戦責告 白は所期の目的を達成したともいえよう。この点をもう少し検証してみたい。
戦責告白前後の時期における日韓キリスト教会あるいは日韓キリスト者の交流の実際を 韓国のキリスト教界誌のうち日本との関係をもっとも多く記事にしている『クリスチャン 新聞』から 1960 年代における日韓キリスト教関係者の交流に関する事項を整理したもの が次表である(43)。
表 韓国の『クリスチャン新聞』に見る 1960 年代日韓キリスト教関係者・団体交流
事 項 掲載日
韓日教会親善書翰/延世大学総長などが発送 61.05.29 教団総務丹羽巌の韓日親善待望メッセージを東神大フィリップス教授を
通じてクリスチャン新聞に伝達 61.09.25
訪日中の桂昌鳳牧師が教団と接触し、韓日親善を渇望している旨連絡 61.10.30 日本教会使節団(武藤健、白井英一、小崎道雄)訪韓(1962 年 5 月 3 日〜8
日) 62.05.14
田村大三牧師、訪韓して指笛演奏(1962 年 9 月 15 日〜26 日) 62.10.01 全弼淳牧師(イエス長老会)、徐廷泰牧師(基督教長老会)が訪日(1962 年
10 月 15 日〜30 日)、この人選について韓国 NCC で疑義出る 62.10.15 韓日ハイ Y 交換で日本ハイ Y 指導者 1 人と会員 5 人来韓(1963 年 8 月 3
日〜12 日) 63.07.22
日本平信徒使節団、クリスチャン新聞社招請で来韓(1963 年 9 月 23 日
〜28 日) 63.10.07
田永福(織田楢治)京都在日韓国教会牧師来韓(1963 年 10 月 24 日から 12 月中まで)
63.11.04、11.18、
01.18 日本 YMCA 同盟総務池田鮮来韓(1964 年 1 月 8 日)、若い社会人交流要
望 64.01.18
日本 NCC 招請で金東銖牧師ほか 4 人訪日(1964 年 1 月 27 日〜2 月 8 日) 64.02.22
韓国基督教平信徒訪日親善団(金大寶クリスチャン新聞社長団長)一行 12
人訪日(1964 年 11 月 7 日〜12 月 5 日) 64.11.14、11.28 日本 NCC 招請で韓国平信徒一行訪日(1964 年 11 月 15 日から) 64.11.14 長谷川保(日本基督教団常議員、社会党国会議員)が訪韓(1965 年 1 月 16
日〜18 日) 65.01.23
国際ギデオン協会東京支部副会長竹内羊蔵氏来韓(1965 年 3 月 22 日) 65.03.27
東京聖書神学院長星野栄一牧師来韓(1965 年 4 月 6 日〜19 日) 65.03.27、 04.17、
05.01 日本 NCC 主催ワークキャンプに韓国代表 5 人が参加のため訪日(1965 年
7 月 11 日〜8 月 28 日) 65.09.10 日本福音連盟韓日親善福音信徒会に参加した韓国キリスト教平信徒連合
会会長が日本福音連盟の謝罪書を携帯して帰国(1965 年 9 月 17 日) 65.09.25 大村勇議長、訪韓(1965 年 9 月 25 日〜30 日)、基督教長老会総会で謝罪
表明挨拶 65.10.02
クリスチャン新聞社招請で日本学生親善団(尾山令仁牧師団長)10 人訪韓
(1965 年 10 月 16 日〜23 日) 65.10.16、10.23 韓国看護士 19 人、日本聖隷病院で約一年の奉仕のため訪日(1965 年 11
月 23 日) 65.12.11
韓国 NCC 招請で日本平信徒(日本 YMCA 関係者)一行 4 人が平信徒会議
(3 月 23 日〜28 日)のため来韓(1965 年 3 月 21 日〜28 日) 66.03.26 日本 NCC 招請で韓国 NCC 総務吉チンギョン牧師渡日(1966 年 5 月 3 日
より一週間) 66.05.07
松浦周太郎一行 4 人建国大で農業関係視察講演のため来韓(1966 年 5 月 4
日〜11 日) 66.05.07、05.14
韓日 Y 親善交歓で李処権牧師一行 19 人訪日(1966 年 8 月 8 日〜29 日) 66.09.10 日本尾竹橋総合病院招請で韓国キリスト教医療奉仕団渡日 66.12.17 尾山令仁牧師の堤岩里教会堂献納運動胎動 67.02.18 隅谷三喜男教授、山岡喜久男教授が韓国 YMCA で日韓経済、東南アジ
ア経済について講演(1966 年 11 月 16 日) 67.10.21 韓国に答礼旅行/清水ヶ丘教会倉持牧師夫妻/昔の韓国人信徒たち集ま
りアガペー会組織(1967 年 10 月 14 日〜30 日) 67.11.25 大韓基督教書会総務趙善出牧師、日本キリスト教の出版事情視察のため
渡日予定(1968 年 3 月 27 日〜4 月 1 日) 68.03.16 韓国崇徳学舎の日本での後援会会長に松浦周太郎氏就任(1968 年 5 月) 68.07.27 韓日労働協議会(1968 年 7 月 20 日〜8 月 18 日)に韓国から代表 6 人参加
予定 68.05.11
日本で開催された第 4 回キリスト教美術展(1968 年 11 月 1 日〜)に韓国
からも出品 68.09.14
堤岩里教会のための日本での謝罪金募金 800 万円集まる 68.11.16
堤岩里教会堂起工、謝罪金募金 800 万円 69.02.15 尾山令仁牧師の堤岩里教会堂献納募金 1000 万円を持参して訪韓(1969 年
4 月 9 日) 69.04.12
日本のキリスト者医師・看護師計 10 余名訪韓し、医療関係者と交流、無
医村診療活動(1969 年 月 日〜17 日) 69.07.26 ソウルで韓日連合伝道大会、日本アジア福音宣教会会長小豆正夫牧師な
ど訪韓(1970 年 6 月 8 日〜26 日)して説教 70.06.20 韓日聖公会合同でワークキャンプ、日本学生 25 人が訪韓(1970 年 8 月 12
日〜20 日) 70.08.15
水野誠青山学院大学教授、基督教大韓監理会教育局創設 40 周年記念式に
参席のため訪韓(1970 年 8 月 13 日) 70.08.22
上記表の詳細を分析すれば、それはそれで日韓キリスト教交流について色々なことが見 えてくるだろう。しかし本稿はそれが本来の課題ではないし、紙数がほぼ尽きてしまって いる。あくまでも本稿の問題関心の視点からいくつかの点だけコメントしておくことにし よう。
第一に、日韓国交正常化以前、李承晩政権倒壊以後からすでに日韓キリスト教間の交流 が始まっていた。つまり教団の戦責告白以前に日韓キリスト教間の交流があったというこ とである。それらの交流の中には教団と韓国三教会の交流に間接的に寄与するような交流 がなかったわけではない。とくに NCC レベルの教職、信徒、青年指導者などの交流はそ うした効果があったかもしれないが、直接的な関係があったとはいえない。そしてまた教 団とは無関係の交流も始まっていた(44)。
第二に、戦責告白以後の時期についても教団の戦責告白発表とは関係なしに多様な交流 が展開していたことがわかる。それら交流に関わったのが教団関係の教会、キリスト者で あるかないかにかかわらず、である。上記の表で示した 60 年代の交流についていえば、
戦責告白‑宣教協約に基づく教団の教会やキリスト者と韓国三教会の交流はまだ本格的で なかった。教団関係者においても戦責告白‑宣教協約とは直接的な関係なしにかつての個 人的な韓国教会、韓国キリスト者との関係を基礎に交流が行われていた様子が垣間見られ る。それは非教団のキリスト教関係者の場合にも同様である。
ところで、この表から明示的とはいえないが、それらの交流が日本の植民地支配に対す る反省・謝罪が基礎になっていなかったわけではない。とくに個人的というより組織的な 交流ではそれが窺える。例えば、日本福音連盟は日韓国交正常化直後、謝罪文を準備して いたことが分かる(『キリスト新聞』1965 年 9 月 18 日、『クリスチャン新聞』1965 年 9 月 25 日)。
この時期、日韓キリスト教交流で特筆すべきことは、尾山令仁が主導した堤岩里事件に 対する謝罪と堤岩教会献堂のための募金活動である(45)。尾山令仁は非教団の牧師である が、この謝罪募金活動には教団関係者も協力していた。その意味でこれは超教派的な日本 のキリスト者の謝罪活動であったが、教団の戦責告白とは直接的な関係のない独自の活動 であった。
この表が示した時期以降のことになるが、教団の戦責告白を強く意識した交流として は、澤正彦の宣教師派遣(1973〜79 年)がある。澤正彦は教団から韓国への初の宣教師と して派遣され、松岩教会での牧会協力と韓国神学大学(韓国基督教長老会)での教員として 韓国キリスト者と深い交流をした。その様子については彼の支援者宛に送った「通信」で 知ることができるが、その随所に日本人キリスト者として戦責告白を意識した贖罪者的姿 を垣間見ることができる(46)。彼の滞在期間の韓国は朴正熙の維新体制時代であり、これ に抗して民主化運動に立ち上がった進歩的キリスト者にとって受難の時代であった。澤正 彦は苦難の中にあった韓国キリスト者の側に寄り添い続けた。当時、日本でも教団を中心 に日本の NCC は韓国キリスト者の民主化運動を背後から支援し続けた。支援した日本の キリスト者にとって、それは戦責告白に基づいた具体的実践であったともいえる(47)。
これと同様の脈絡での日韓キリスト教会間の交流を挙げるとすれば、戦責告白当事者の 鈴木正久が牧会していた教団西片町教会と韓国のソウル第一教会の姉妹関係締結とその後 の持続的な交流関係である。1975 年 5 月 25 日、西片町教会(山本将信牧師)は 1970 年代 以降の韓国の民主化運動を先導した朴炯圭の牧会するソウル第一教会と姉妹締結し、その 後、教会間で合同の修養会などの交流を続けた。このとき鈴木正久はすでに亡くなってい たが、両教会の交流史は、交流開始の背景として戦責告白があったことを明らかにしてい る。1980 年代、全斗煥時代、ソウル第一教会は礼拝妨害という未曾有の弾圧を受けたが、
その時期にも一貫して交流を続けた(48)。
おわりに:結論的考察と今後の課題
日本基督教団の戦責告白発表の動機の一つに日韓キリスト教の交流が意識されていたと いう事実を出発点として、本稿は戦責告白と日韓キリスト教交流との因果関係をできるだ け実証的に明らかにしようと考察してきた。教団のキリスト者において(とくに戦責告白 を積極的・肯定的に受け止めるキリスト者において)、「戦責告白が韓国で肯定的に評価さ れ、そのことによって日韓キリスト教交流が開始された。」とする暗黙裡の理解があると 思われる。このことを最後に検討して本稿の結論としたい。
第一に検討すべきは、前半の「戦責告白が韓国で肯定的に評価」という部分である。こ れについて結論的に言えば、一面正しく、一面正しくない。
正しいとは、教団の戦責告白の内容、教団が戦責告白を発表した行為を韓国で否定した り、非難したりする論評は確認できなかったからである(49)。その限りで肯定的に受け止 められたということは間違いではない。
正しくないということにはいくつかの含意がある。ひとつは、戦責告白の認識がそもそ も相当に限られていた事実である。戦責告白を肯定的に評価した部分が教団と接触したご く一部の韓国のキリスト教会(宣教協約を結んだいわゆる韓国三教会)に限られていたし、
しかもそれはそのごく幹部に限られていた可能性があるということである。もう一つは、
たとえ戦責告白を認識し、それを肯定的にとらえていたとしても日本基督教団内に戦責告 白をめぐって対立があったことから教団への不信がぬぐえなかった事実である(50)。
戦責告白の認識がきわめて限られていたということについて一言、コメントしておこ う。何故、そうなったか、その最大の理由は戦責告白が発表された時期の韓国の社会状況 にある。すなわちこの時期は、日韓条約反対運動の余韻がまだあり、キリスト教界も含め て韓国社会全体が反日情緒で満ちていた。こうした社会状況で戦責告白を韓国内で評価し たり、それを広報したりすることは難しかったからだと考えられる。ましてや日本基督教 団内に戦責告白をめぐって騒動が燻っていたからなおさらであった。
第二に、後半の「戦責告白によって日韓キリスト教交流が開始された。」ということも 一面正しく、一面正しくない。
正しいとは、戦責告白によって、確かに教団と韓国三教会との間で宣教協約が締結され て交流が開始された事実があるからである。
正しくないとは、日韓キリスト教交流が、非教団の日本キリスト者だけでなく、教団関 係者の場合においても戦責告白以前からすでにあったし、戦責告白以後も戦責告白と直接 的関係なしに多様な交流が行われたという事実があるからである。
しかし、以上の結論をもってわたしは戦責告白の意義を貶めようという意図はない。あ くまでも日韓キリスト教交流という観点から事実に基づいて評しただけである。
本稿を閉じるにあたって本稿を調査しながら関心を持った今後の課題を述べたい。
第一に、教団の宣教協約に基づく韓国三教会との交流の実際を考察することである。戦 責告白の結実として始まった教団と韓国三教会との交流が今日に至るまで実際にどんなも のであったか、ということである。それは韓国三教会との宣教協約の内実を検証すること だといえよう。
第二に、在日韓国人教会の仲介の役割の評価と教団と在日韓国教会との交流関係を考察 することである。教団と韓国教会との関係回復は在日韓国人教会の仲介なくして実現でき なかった。そして日韓キリスト教交流という場合、もっとも身近な韓国教会は在日韓国人 教会であり、この交流問題を欠かすことはできないと考える(51)。
第三に、教団、非教団のキリスト教会がともに 1970 年代、1980 年代からこんにちまで 多様な交流をしてきているが、その実態を類型化して整理し、特徴を把握することであ る。
いずれも一筋縄ではできない課題であるが、いつか取り組むことができたらという願望 を述べておきたい。
【謝辞】
本研究を進めるにあたって落合建仁氏(金城学院大学)、徐正敏氏(明治学院大学)、孫昇鎬氏 (韓国基督教会協議会)、洛雲海(ナグネ)氏(長老神学大学・セムナン教会)、李致萬氏(長老神学大 学)、李清一氏(在日韓国基督教会館)から資料提供などのご協力や研究方向にご教示いただき、
また意見交換を通じて貴重な示唆をいただいた。ここにお名前を記して謝意を表したい。
注