村上春樹作品における『羊をめぐる冒険』の位置(宇佐美)一九五 はじめに
村上春樹のデビュー作は、『群像』新人賞を受賞した『風の歌を聴け』(『群像』一九七九・六。講談社、一九七九・七)であるものの、この作品と次作『1973年のピンボール』(『群像』一九八〇・三。講談社、一九八〇・六)が作者自身によって評価されていなかったことはよく知られている。村上春樹自身がこの二作をたびたび「習作」と呼び、実際に海外における二作品の正式な翻訳が近年までおこなわれていなかった。その一方で、三作目の長編小説である『羊をめぐる冒険』(『群像』一九八二・八。講談社、一九八二・一〇)については、この作品で「これから先小説家としてやっていけるだろうという自信が持てた」という意味のことを村上春樹自身が何度も書き記していることから、なおさら『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』と『羊をめぐる冒険』との間の落差が鮮明に印象づけられることになった。 宇 佐 美 毅
村 上 春 樹 作 品 に お け る ﹃ 羊 を め ぐ る 冒 険 ﹄ の 位 置
││﹃風の歌を聴け﹄﹃
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年のピンボール﹄との関係から││一九六
もあったのだ。 せいで長さもずっと長くなっている。そういう意味ではこの小説そのものが僕にとっていわば新しい「冒険」で これまでとはかなり変わっている。前二作に比べてストーリー・テリングの要素がぐっと強まっているし、その 『羊をめぐる冒険』は僕にとってはいろんな意味で記念すべき作品であった。まず小説そのもののスタイルが
と思う。この『羊をめぐる冒険』にはその手応えがあった
(
え摑んでいれば何事もそんなに怖くはない。これはおそらく物を作りだす人間にしかわからない感触ではないか れば作家はずっと脅えつづけることになるだろうし、たとえみんなに口汚く罵倒されたとしても、この手応えさ とのできるフィジカルな手応えである。たとえありとあらゆる新聞雑誌で褒めそやされても、この手応えがなけ だろうという自信が持てたことだった。これは頭の中でこねまわす理屈ではなくて、両手ではっきりと感じるこ 『羊をめぐる冒険』を書き終えて僕がいちばん嬉しかったのは、自分がこれから先小説家としてやっていける1
。)
そのせいもあってか、上記三作品を「鼠三部作」、あるいは『ダンス・ダンス・ダンス』(講談社、一九八八・一〇)を含めて四部作と称されるにもかかわらず、三部作論または四部作論として総合的に論じた先行研究は、実はそれほど多くない。個別の作品を論じる研究は多いものの、これらの作品の関連性と村上春樹の軌跡の中での位置づけに関してはまだ十分に研究されているとはいい難い。
そこで本論文は、特に「鼠」三部作と呼ばれる作品群を対象とし、中でも『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』と『羊をめぐる冒険』との間にある断絶に注目することで、村上春樹の作家としての軌跡の中で、初期作品群が意味するものを捉え直したい。さらにいえば、『羊をめぐる冒険』の冒頭の三章が前二作との関係において特に重要な意味を持ち、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』を吸収しながら、同時に訣別をする役割を担っていることを明らかにする。さらにそこから論を発展させることで、『羊をめぐる冒険』が村上春樹作品の主要な要素をほ
村上春樹作品における『羊をめぐる冒険』の位置(宇佐美)一九七 ぼ網羅しながら出発していたことを論証したい。
一 「冒険」が始まるまで
三作目の長編小説である『羊をめぐる冒険』を村上春樹の本当の出発点とし、そこから前二作を振り返る形で見るならば、前二作には、たしかに「習作」としての性格が露骨にあらわれているように見える。『風の歌を聴け』は、断片が羅列されているような構成がとられて読者にはひどく不親切であるし、描かれたその断片がどのように最終的に回収されるのかが不明のまま、作品が閉じられている。そのような性格は多かれ少なかれ村上春樹作品全般にあらわれているとしても、その極端な形が前二作に露骨に示されている。だからこそ、作品が発表されてから何年も経ってから解釈の新説が生まれ、それが論争の種になったり、定説化したりすることになる。たとえば、『風の歌を聴け』においては、描かれた多くの要素がそのまま放置されているような印象を残すし、「僕」の話と「鼠」の話は併行していてどこかかみ合わないまま作品が終えられている。しかし、「鼠」が「僕」に相談しようとし、紹介しようとしていた女性が、「僕」の知り合った「小指のない女の子」であるという説が平野芳信や齋藤美奈子によって提示され
(
作品の至るところに散りばめられている。 「村上春樹」名義で「あとがきにかえて」を添えて架空の作家への謝辞を述べるなど、読者を幻惑するような装置が 示している。また、作中にたびたび登場する架空の作家「デレク・ハートフィールド」に関する仕掛けや、わざわざ いう作品がそれだけ、さまざまな要素が最後まで回収されないまま、決着がつけられないまま終えられていることを ってから新たな解釈が示され、それまで考えられなかった読み方が定着していくということは、『風の歌を聴け』と
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、その後はこの説がきわめて有力な作品解釈として浸透していった。このように、作品が発表されて何年も経)
ようにかかわるのかは明らかにされず、「僕」と「鼠」の関係が明示されないことも『風の歌を聴け』と同様である。 『1973年のピンボール』は『風の歌を聴け』ほどの凝り方ではないものの、やはり描かれた個々の要素がどの
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さらにいえば、作中人物たちが数字やモノに強いこだわりを持ち、通常の人間関係からは自らを閉ざそうとしているように見えることも二作品に共通する重要な特徴となっている。しばしば引用される箇所だが、『風の歌を聴け』の「僕」は次のように、あらゆるものを数字に置き換えようとしている。
僕は以前、人間の存 レーゾン・デートゥル在理由をテーマにした短い小説を書こうとしたことがある。結局小説は完成しなかったのだけれど、その間じゅう僕は人間のレーゾン・デートゥルについて考え続け、おかげで奇妙な性癖にとりつかれることになった。全ての物事を数値に置き換えずにはいられないという癖である。約
測った。当時の記録によれば、1969年の に追いまわされた。僕は電車に乗るとまず最初に乗客の数をかぞえ、階段の数を全てかぞえ、暇さえあれば脈を
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ヵ月間、僕はその衝動8
月15
日から翌年の4
月席し、
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日までの間に、僕は358回の講義に出(『風の歌を聴け』
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回のセックスを行い、6921本の煙草を吸ったことになる。23
章)これは、「二十一歳の僕は数を数えることで他者との関係を成立させ、そこにかりそめのアイデンティティを得ていた」
(
の後の村上春樹作品では薄れていくものである。 こうした初期二作品の特徴は、「デタッチメントからコミットメントへ」の変化などとしばしばいわれるように、そ うに、あるいは「僕」にとっては通常人間同士でもしないような親密さで、まるで恋人同士のような会話を交わす。 年のピンボール』では、ピンボールというアナログなゲーム機械への偏愛が描かれ、このゲーム機械と人間同士のよ
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などと早くから指摘されているように、「僕」の人間関係、人間観を象徴的に示している。また、『1973)
こうした初期二作品の特徴を考えるなら、この二作品を「習作」として、その後の作品から切り離そうとする村上春樹自身の位置づけは妥当なものといえるかもしれない。すなわち、『羊をめぐる冒険』は村上春樹の三作目の長編小説であるものの、前二作とは性質を異にし、この『羊をめぐる冒険』を作家としての出発作と考えることには十分
村上春樹作品における『羊をめぐる冒険』の位置(宇佐美)一九九 な合理性がある。ただし、そこで気になる点は、『羊をめぐる冒険』のまさにその「冒険」にあたる「僕」の北海道行きの始まる前の部分が、かなり周到に、かつ綿密に描かれていることである。 『
羊をめぐる冒険』は、村上春樹の前二作に比べれば三倍以上にもなるような分量の長編小説であり、内容としても全八章に分けて明確な構成を持っている。しかし、その全八章の作品のうち、タイトルにもなっている『羊をめぐる冒険』が掲げられているのは第四章からであり、その前の第一章から第三章までは、そこに至るまでの、過去の設定の概略説明とも受け取られるような部分であり、見方によっては物語の本題に入っていない前段階とも思える部分になっている。だとすれば、いささか長すぎる前段階となった、この第一章から第三章までが置かれていることの意味をどのように捉えるべきなのか。
この点については、『羊をめぐる冒険』が発表された後の早い段階で、今井清人の指摘がある
(
男の「物語の本筋とは何の関係もない」
( 4
。今井は、関井光)
いるだけで、統一的な世界はめざさない」( 5
や川本三郎の「日常の断片はあくまでもかけらとして無造作にころがって)
が求められている」作品としている
(
ていた。また、石原千秋は、『羊をめぐる冒険』を「名前探しの物語」として規定した上で、「新しい物語を探すこと 少期のイノセントな幻想との完全な訣別」が描かれていて、そこに「母殺し」がコノートされていることを意味づけ6
という指摘を退けながら、『羊をめぐる冒険』の冒頭からの部分を「幼)
いったんデビュー作を殺さなければいけなかった」と指摘している。 る」として、次の『羊をめぐる冒険』が「新しい物語を探す小説」であり、「村上春樹が自己神話化するためには、
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。石原は、「『1973年のピンボール』は『風の歌を聴け』殺しの小説であ)
今井や石原の指摘をふまえた上で、そのような前二作との訣別を含意する『羊をめぐる冒険』の第三章までが、村上春樹作品の軌跡の上で何を意味するのかをもう少し考えてみたい。
『羊をめぐる冒険』の第一章には「1970/
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/ものである。また、第二章は「1978/ 一九七〇年にかけての「彼女」との思い出であり、その思い出は「彼女」の死の知らせを受けたことから喚起された
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」とのタイトルがあり、そこで描かれるのは一九六九年から7
月」とのタイトルがあり、「僕」と結婚した「彼女」が「僕」の友人と二〇〇
の関係を繰り返した後に、「僕」から去っていくことを描いている。この第一章と第二章に共通するのは、「僕」と僕に関係する「彼女」との関係がはたして「個」と「個」としての関係だったのかという問いを描いていることである。
村上春樹作品の主人公の発する言葉の多くが不自然であり、心の中で用意した言葉をまるで読み上げるように語っていることを以前に指摘したことがある
(
に応える姿勢を見せなかったことを意味するだろう。なぜなら、この後に次のような会話も描かれている。 だ」と答える。この会話は、お互いに「個」として向き合うことを求めた「彼女」に対して、「僕」は最後までそれ たと一緒に寝ていると、時々とても悲しくなっちゃうの」と言い、「僕」は「べつに心を閉じているつもりはないん いような、その場にしか生じない関係のことである。たとえば、第一章に描かれた「彼女」は「僕」に対して「あな 読み上げるような関係ではなく、目の前の他者に向き合うことで、その瞬間に必要な言葉を紡ぎ出さなければならな
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。「個」と「個」としての関係とは、心の中であらかじめ用意した言葉を)
「ねえ、私を殺したいと思ったことある?」と彼女が訊ねた。「君を?」「うん」「どうしてそんなことを訊くんだ?」
彼女は煙草を口にくわえたまま指の先で瞼をこすった。
「ただなんとなくよ」「ないよ」と僕は言った。「本当に?」「本当に」「何故僕が君を殺さなくちゃいけないんだ?」「そうね」と彼女は面倒臭そうに肯いた。
村上春樹作品における『羊をめぐる冒険』の位置(宇佐美)二〇一 (『羊をめぐる冒険』第一章)
「殺したいと思ったこと」を「僕」に問うたのは、
「僕」が「彼女」を自分だけのものにしたいという欲望にかられたことがあるのかを尋ねたかったのであろう。つまり、他の誰でもない自分という女性を、他の誰でもないあなたという男性のものにしたい。そういう欲望をあなたは持っているのかと問うている。いい換えれば、「僕」が、他の誰でもない「彼女」と「個」として向き合うことを望んでいたのか、という問いでもあった。しかし、『風の歌を聴け』以来の村上春樹作品の主人公たちがそうであるように、「僕」にはその姿勢も欲望もない。だからこそ、「彼女」の死を知っても、「僕は彼女の名前を忘れてしまった」と書く。そして、「僕」にとっての「彼女」は最後まで「誰とでも寝る女の子」という名前のない存在に過ぎないのであり、「それが彼女の名前だ」というのが「僕」の認識なのである。
第二章では「僕」が結婚した相手との関係が描かれているので、第一章の「僕」と「誰とでも寝る女の子」との関係とは異なっている。しかし、それでも「僕」と「彼女」との関係は「個」と「個」としての関係とはいい難い。なぜなら、「彼女」は「僕」に対して「あなたには何か、そういったところがあるのよ。砂時計と同じね。砂がなくなってしまうと必ず誰かがやってきてひっくり返していくの」と言う。「彼女」のこの言葉は「僕」が「彼女」に主体的に向き合おうとしない姿勢を端的に示しているし、その後に「彼女」が「僕」に対して投げかける「でも、あなたと一緒にいてももうどこにも行けないのよ」という言葉も同様の意味を持つだろう。この「あなたと一緒にいてももうどこにも行けない」という言葉は、次の会話の後に「彼女」から発せられている。
「結局のところ、それは君自身の問題なんだよ」と僕は言った。
それは彼女が離婚したいと言い出した六月の日曜日の午後で、僕は缶ビールのプルリングを指にはめて遊んでいた。
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「どちらでもいいということ?」と彼女は訊ねた。とてもゆっくりとしたしゃべり方だった。「どちらでもいいわけじゃない」と僕は言った。「君自身の問題だって言ってるだけさ」(『羊をめぐる冒険』第二章)
い」
(
い」と感じ、そう答えるしかないのである。太田鈴子が「やさしいようでありながら、相手に関心をもとうとしな いるに等しいのであり、それがない「僕」の姿勢に対して「彼女」は、「あなたと一緒にいてももうどこにも行けな は重要ではない。「僕」がどうしたいという主体的な意思が感じられない以上、それは「どちらでもいい」と言って 「僕」にとって、「君自身の問題」は「どちらでもいい」という意味ではない。しかし、「彼女」にとってその違いとして向き合おうとする姿勢がそこには感じられない。
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と指摘しているように、「僕」は自分の従来からの姿勢をここでも述べているだけで、目の前の相手に「個」)
第一章と第二章と描かれているのは「僕」のこのような人間関係であり、人間観である。そこにあるのは、自分と他ならぬその人物との間だからこそ存在する「関係」というものを信じない姿勢である。そのように考えてみるなら、『羊をめぐる冒険』という作品の冒頭、少くとも第一章と第二章は、数字でしか他者との関係を言語化できない『風の歌を聴け』の「僕」や、ゲーム機械にしか心を開けない『1973年のピンボール』の「僕」から、それほど大きく遠ざかっているとはいえない。もちろん、第一章と第二章を比較するなら、たとえ離婚という結果を招いたとしても、結婚という形を採っただけ「誰とでも寝る女の子」との関係よりは「個」と「個」の関係に一歩近づいているということはできる。しかし、それでも「あなたと一緒にいてももうどこにも行けない」という言葉を引き寄せてしまったことは、前二作の主人公像を引き継ぐものであり、それがこの『羊をめぐる冒険』の冒頭に描かれていることの意味は大きい。
そのことの意味は、さらに『羊をめぐる冒険』第三章へと引き継がれる。ここで描かれているのは「僕」と「耳のモデル」の女性との関係である。この「耳のモデル」の女性は、村上春樹作品にしばしば登場する巫女的な役割をす
村上春樹作品における『羊をめぐる冒険』の位置(宇佐美)二〇三 る存在でもある。この作品においても、羊に関する電話が「僕」にかかってくることを予言したり、札幌で宿泊するホテルを選ぶことで「僕」を羊博士にひき会わせたりする役割を担うのがこの女性である。ただし、この作品における「耳のモデル」女性の存在の意味は、単にそれだけではない。 まず「耳の開閉」という不思議な現象に意味がある。この女性は、通常は自分の耳を髪で隠した上で「閉鎖された」「死んだ耳」という状態にしている。その場合、他人からは何も特別ではない耳なのだが、彼女が耳を「解放した」状態にすると、それは「僕」に「すごいよ」と言わせる、尋常ではない耳になる。耳の「開閉」というこの不思議な現象が、「開く」「閉じる」という、人と人との関係で心を開くかどうかを暗示していることは明らかだろう。しかも、「僕」は広告写真に写った彼女の「耳」を見て、「その耳があらゆる面で僕を魅了した」という感覚を持つのであって、「僕」が「耳のモデル」の女性に引きつけられていくことには強い必然性があるように描かれている。さらにいえば、「耳のモデル」の女性は、通常は出版社の地味な校正係であり、一方でコールガールでもあった。そのコールガールでもある彼女はなぜか「無料で僕と寝てくれた」とある。コールガールが職業の一つであるにもかかわらず、「無料で僕と寝てくれた」ことからも、彼女にとって「僕」が特別な存在だったことは間違いない。
そして、「僕」にとっても「耳のモデル」は特別の存在である。彼女の「その美しさは僕がそれまでに目にしたこともなく、想像したこともない美しさ」だとあるし、彼女との関係はそれまでになかった特別な関係でもあることがわかる。そして、「僕」は彼女から「自分自身の半分でしか生きてない」と言われ、「僕」はそれまでの人生にはあり得なかった「冒険」に踏み出していく。その意味では、「耳のモデル」の女性はその存在によって、「僕」を変えたのであり、「僕」の生き方を外に向かって開かせた存在でもある。
ただし、それでも彼女の名前は書かれていない。『羊をめぐる冒険』から六年後に発表される『ダンス・ダンス・ダンス』では「キキ」という名が与えられていることに比較すれば、『羊をめぐる冒険』ではこれでもまだ、「僕」と「耳のモデル」女性との関係は、「個」と「個」としての存在に成りきってはいない。すなわち、この三章は『羊をめぐる冒険』の前段階としての『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』に描かれた作中人物たちの自閉性、「個」
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としての他者とのかかわりを反復する意味を持つのと同時に、一方で、その他者とのかかわり方が少しずつ変化し、次第に「個」としてのかかわり方に近づいていく過程を集約的に表現してもいる。そして、それによって描き出されているのは、「個」を持たない物語から「個」を持った物語への変化の方向性である。名前のない存在は、いわば他の誰かによって取って変わられる存在でもある。そこから、その個人でなければならないという関係への変化が、村上春樹初期小説の辿っていった道筋となっている。
だとすれば、『羊をめぐる冒険』の第一章から第三章までは、『羊をめぐる冒険』の本題である「冒険」への助走であるのと同時に、前二作の反復と要約の役割をも果たしている。このことから、村上春樹自身が『羊をめぐる冒険』を作家としての実質的な出発作としていることには二重の意味があることになる。それは、前二作を要約的に取り込むことによって、この『羊をめぐる冒険』によって村上春樹のデビューからの軌跡をこの作品に吸収してしまうことと、同時に、前二作とは異なる小説の描き方をするという方法上の変化をも意味している。すなわち、前二作と吸収することと断絶することという相反する意味が、この『羊をめぐる冒険』の第三章までに集約され、そして宣言されているのである。
二 「冒険」の意味
これまで論じてきたように、『羊をめぐる冒険』全八章のうち、主人公が「羊をめぐる冒険」