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東 欧 ユダヤ 人 観 ・ イディッシュ 語 観

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ユ ダ ヤ 系 ド イ ツ 語 作 家 の

東 欧 ユダヤ 人 観 ・ イディッシュ 語 観

上 田 和 夫

アメリカ文学では一時、ベロー、マラマッド、ロスなどのユダヤ系作家が大 活躍したことがありましたが、ドイツ語文学でも過去から現在に至るまでユダ ヤ系作家が活躍し、彼らを抜きにしてはドイツ語文学は語れない程です。彼ら の活躍はもちろん同化、つまり伝統的なユダヤ風の生活から脱して以後のこと です。そこでまずユダヤ人の同化についてお話ししたいと存じます。しかしそ れまでにドイツでのユダヤ人の歴史をごく簡単に振り返ってみます。

フランスやイタリアにいたユダヤ人(彼らはもともとはいわゆるパレスチナ に住んでいたのですが、紀元後まもなくそこを追われ流浪の生活に入っていま した)は9、10 世紀頃にドイツのライン河、モーゼル川の畔に集落を作って住 み着いたわけですが、彼らは初めは周囲、つまりキリスト教徒と同じドイツ語 をしゃべっていたんですね。しかし、仲間内ではそのドイツ語にはユダヤ教に 関する単語や言い回し、例えばトーラー(モーセ5書)とかシナゴーグ(ユダ ヤ教会)とか、シャバト(安息日)といった単語が混ざっていました。そうい うわけで彼らのドイツ語はイディッシュ語と言うよりむしろユダヤなまりのド イツ語と言っていいものでした。またそのドイツ語を筆記する際にはラテン文 字を使わず、ヘブライ文字を使って右から左へと書いていきました。言うまで

福岡大学人文学部教授

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もなくヘブライ文字はユダヤ民族の文字です。

時代が下ると共にユダヤ人居住地区、いわゆるゲットー(13 世紀から)がド イツにも作られ、ユダヤ人はそこに住むことを強制されて、惨めな生活を送り ました。ゲーテはフランクフルトのゲットーについて『詩と真実』という自伝 の中で次のように語っています。

「少年時代だけでなく青年になっても、私の心を重くした無気味なもの の一つは、とくに、もともとユーデンガッセと呼ばれていたユダヤ人街の 様子であった。そこは一本の街路よりはすこし広いぐらいの大きさで、以 前は市壁と塀との間に、まるで囲い池のなかに押し込められたようになっ ていたらしい。狭くて、不潔で、騒がしく、いやらしい言葉のアクセント、

それらが一つになって、市門のそばを通りすがりにのぞいて見るだけで、

なんともいえず不快な印象をあたえられた。長いあいだ私は、一人でそこ へ入ってゆく勇気が起こらなかった。」

この発言の中で「いやらしい言葉のアクセント」と言っているのがユダヤ人 の使うユダヤなまりのドイツ語のことです。ゲーテは実はこう言っているだけ ではありません。彼はこのユダヤ・ドイツ語という言語について実際に勉強を したこともあったのです

ゲットーのユダヤ人の様子はどこも多かれ少なかれ、ゲーテが描写している のと大同小異でした。このような同胞の惨めな状況に異議を唱えたのがモーゼ ス・メンデルスゾーンです。ちなみにこの人は作曲家のフェーリクス・メンデ

ゲーテ全集9『詩と真実』、東京 1979, p.133.

原文では der Akzent einer unerfreulichen Sprache と書かれている。

「私はこの奇怪なユダヤドイツ語をものにし読み書きともに上達しようとつとめたのである が、まもなく私は、そのためにはヘブライ語の知識が必要であることに気がついたからであ る。ヘブライ語を知ることによって初めて、退化しゆがめられた現在のユダヤ・ドイツ語も、

その由来をたどり、いくらか正確に取り扱うことができるのである。『詩と真実』p.111

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ルスゾーンのおじいさんに当たります。メンデルスゾーンは 1729 年、当時の プロイセンはベルリンの近くのデッサウのゲットーに生まれます。家庭ではユ ダヤ・ドイツ語が話されていたそうです。彼は初めは故郷で伝統的なユダヤ教 育を受けていたのですが、まもなく師匠についてベルリンに出てからは哲学、

数学、ラテン語、フランス語といった世俗的な学問(これは正統的なユダヤ教 徒には本来許されていませんでした)も勉強し、絹工場に勤めたりしたあと、

学問の世界でも活躍するようになります。そしてその過程で、ドイツ人の啓蒙 主義者のゴットホルト・エフライム・レッシングという劇作家と知り合いにな ります。レッシングという人は非常に開けた人で、宗教に対する寛容を唱えた りして、ユダヤ人に対しても大変理解のある人でした。メンデルスゾーンはレッ シングと知り合って大変影響を受けます。

メンデルスゾーンはユダヤ人でしたが、ゲットーには住みませんでした。そ して特権を享受しました。いわゆる「保護ユダヤ人」ですね。このような特権 階級のユダヤ人はベルリンに 300 家族ほどいました。彼らは上流階級の服を身 にまとい、子供は大学へ通い、またフランス語やフランス文学に通じていまし 。このような裕福なユダヤ人がいる一方、大部分の貧しいユダヤ人はゲッ トーに住んでいたのです。

メンデルスゾーンはゲットーに住むユダヤ人を見て思いました。ユダヤ人は いつまでもゲットーに留まっていてはだめだ。ドイツ人と同じ権利を得るため にはゲットーを出、また世俗の教養を身につけ、言葉も汚いユダヤ・ドイツ語 を棄て、「由緒正しい」ドイツ語をしゃべらないといけないと主張しました。

彼はそのための方策として聖書をドイツ語に翻訳しました。その際ヘブライ文 字を使いました。要するにドイツ語をヘブライ文字で綴ったのです。ユダヤ人 にとってはラテン文字よりも馴染みがあって、読みやすいですからね。

Gidal, W.T.: Die Juden in Deutschland. K ln 1997, p.15

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メンデルスゾーンを初め、彼に同調する人たちの主張は功を奏し、ユダヤ人 はゲットーを出て行きます。そして彼らの言語も時と共にドイツ語になります。

彼らがドイツ語を習得するのはそれほど難しくはありませんでした。何しろユ ダヤ・ドイツ語とドイツ語とはよく似ていますので。彼らはこうしてドイツ人 のような服装をし、時にはユダヤ教を棄ててキリスト教に改宗し、キリスト教 社会に出て行って大活躍します。あたかもドイツ人のようになって、いやドイ ツ人以上にドイツ人になって。こういうユダヤ人たちが後にノーべル賞をもら う人たちです。このようなユダヤ人を同化ユダヤ人、あるいは西欧ユダヤ人と いいます。オーストリアのある同化ユダヤ人は自分たちのことについて次のよ うに語っています。

「わたしは、出自でいえば、啓蒙され、同化して、ユダヤ人としての家 系や仕来りはかすかに守っているだけのブルジョア家庭に生まれた、ユダ ヤ系ウイーン人の第二世代ということになる。わたしたち一家は自分たち のことを、なにはさておきウイーンの人間であり、オーストリアの人間で あると考えていた。私の両親や付合いのある人たちの精神的、知的故郷は ユダヤ教ではなくて、ドイツ語を使った偉大な思想家や文学者たちの世界 だった。わたしたちのようなユダヤ人は、オーストリア・ドイツ人の文化 を熱心に受け入れるだけでなく、それに積極的に貢献する主人公でもあっ たのだ。わたしの父はけっしてユダヤ教会堂に礼拝に行くことはなかった が、毎日のようにドイツ文学の祭壇の前にひざまずいていた。職業や頭脳 は銀行家だったが、心情はドイツ文学の古典、わけても詩にささげられて いた。昼間は貸借対照表を読んでいても、日が暮れると、ゲーテやシラー やハイネやアイヒェンドルフやリルケを読んで心の養いとするのだった

ジョージ・クレア:『ベルリン廃虚の日々』, 東京 1994, p.9

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このような同化ユダヤ人はこの人に限らずいくらでもいます。作家ではありま せんが、ボヘミアの作曲家グスタフ・マーラーなどもその一人です。

一方、同化ユダヤ人の対極に位置するのが東欧ユダヤ人です。そこで今度は この東欧ユダヤ人について説明しておきましょう。

彼らも実は同じアシュケナージーユダヤ人です(アシュケナージーというの はヘブライ語で「ドイツの」という意味です)。すなわち東欧ユダヤ人もかつ てはドイツに住んでいたんです。しかし中世に起こった十字軍(11 世紀末か ら7回続きます。これは聖地エルサレムをイスラム教徒、つまりトルコ人の手 から解放する運動でした)やヨーロッパ中を襲ったペスト(14 世紀半ば)の ためにユダヤ人は迫害されます。十字軍の場合にはエルサレムへ向かう途中で、

キリスト教徒たちは手近な「キリスト殺し人」であるユダヤ人を襲ったのです し、ペストの際にはユダヤ人は井戸に毒をまいたとの濡れ衣を着せました。そ こでユダヤ人の多く(決して全部ではありません)は中欧・東欧へ逃げました。

特にポーランド(後リトアニアと合併)には多くのユダヤ人が住みつきました。

有能な彼らはポーランドの王や貴族に歓迎されました。そして王や貴族に代っ て荘園の管理や農奴の税金の取り立てなどをしながら、あるいはドイツでして いた手工業などにつきながら、ユダヤ教を放棄せず(18 世紀にはハシディス ムという民衆的ユダヤ教を信奉しながら)生活しました。また言葉はその土地 の言葉ではなくユダヤ・ドイツ語を使い続けました。これの方が何かと便利だっ たのです。ドイツ語という文明語にも近いですし、またドイツに残った同胞と の意思疎通も出来ますしね。このユダヤ・ドイツ語はポーランド人との接触に よってポーランド語の影響を受けて、単語の流入だけでなく、語順などもスラ ヴ風になりました。そして 19 世紀になるとドイツ語とは独立した独自の言語 となったのです。こうして東欧ユダヤ人は同じアシュケナージーであっても同 化ユダヤ人とは正反対の存在になったわけです。

同化ユダヤ人(ネクタイユダヤ人とも呼ばれます)はこのような貧しい東欧

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ユダヤ人(カフタンユダヤ人)を軽蔑的な目で見ていました。しかし実は東欧 ユダヤ人も同化ユダヤ人を軽蔑的に見ているんです。つまりユダヤ教を棄てた 同化ユダヤ人などは、正統的な東欧ユダヤ人から見れば、ユダヤ人とは言えな いわけなのですが。それは別として、今日はこの同化ユダヤ人が東欧ユダヤ人 および東欧ユダヤ人の言語であるイディッシュ語をどのように見ているかを紹 介しようと思います。

さて、それでは同化ユダヤ人作家の東欧ユダヤ人観に行きましょう。まず古 い方からだとハインリッヒ・ハイネ(1797-1856)がいます。ハイネはデュッ セルドルフの生まれですね。家庭ではユダヤ・ドイツ語が話されていたそうで す。しかし彼はユダヤ教を棄て、キリスト教(新教)に改宗して同化ユダヤ人 となりました。とは言え、ユダヤ教には関心を持ち続けました。『バッヘラッ ハのラビ』という物語も書いています。但し未完に終わりましたが。

東欧ユダヤ人についてハイネは『ポーランドについて』の中で次のように言っ ています。

「この国(ポーランド)のユダヤ人たちの外見は恐るべきものだ。私は ミェンジェチを後にして初めて、住民のほとんどがユダヤ人だという、あ るポーランドの村を見た。そしてあの時のことを考えると、悪寒が背筋を 走る。ヴァトツェックの週刊誌を煮つめ、お粥にして食べたとしても、ぼ ろをまとったあの汚らしい人間の姿ほどは私にひどい吐き気を催させなかっ ただろう。そしてまた、体操広場と祖国に熱狂したギムナージウム生の高 邁なる演説といえど、ポーランド・ユダヤ人たちのあの隠語ほど私の耳を ひどくつんざき、苦しめることはなかっただろう。(中略)

ハイネ:『ポーランドについて』『ハイネ散文作品集』第二巻『旅の絵』所収、東京 1990, p.20

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「私はしかし、それにもかかわらずこれらポーランドユダヤ人の方を、

ボリーバル帽をかぶり、頭にジャンパウルを入れた類いのドイツユダヤ人 よりはるかに高く評価するのである。

それはどうしてでしょうか。ハイネは続けます。

「極度な孤立状態のうちに、ポーランドユダヤ人たちの性格は一つのまっ たきものとなった。寛大な空気を呼吸することにより、この性格は自由の 刻印を帯びた。彼らの内なる性格は、異質な感情の雑多な混成物とならず、

フランクフルト・ユダヤ人ゲットーの壁や、結構この上ない市条例や、愛 情あふるる法的制限などの締めつけにより、萎縮することもなかった。汚 い皮帽子をかぶり、シラミの住みついた鬚を垂らし、にんにくの臭をただ よわせ、ユダヤことばを話すポーランド・ユダヤ人の方が、いまなお私に は札びらの神々しい輝きに包まれたユダヤ人より好ましいのである。

要するにハイネは、ユダヤ人性を放棄し、西欧風の服装のユダヤ人より東欧 ユダヤ人の方が純粋なユダヤ性を保っていると言いたいのでしょう。それはきっ とユダヤ教を放棄しながらもドイツ人になり切れないハイネ自身の憧れなので しょう。

ハイネのあとは、時代をもっと下りましょう。皆様よくご存知のチェコのド イツ語作家フランツ・カフカ(1883-1924)です。カフカはプラハの同化ユダ ヤ人の家庭に生まれました。従ってユダヤ教には関心もなく、ユダヤ教会にも 年に数回程度しか行かなかったそうです。そんなカフカでしたが、1910 年か ら 12 年にかけて友人マックス・ブロートに連れられて、ポーランドのレンベ ルクからプラハにやってきた旅巡りのイディッシュ語劇団の芝居を少なくとも

ハイネ:『ポーランドについて』『ハイネ散文作品集』第二巻『旅の絵』所収、東京 1990, p.21

同上、p.21

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12 本を見たのです。これらの台本(大体 19 世紀の終りとか 20 世紀の初めに 書かれたものです)を私はエルサレムにあるヘブライ大学.兼国立図書館で全 部コピーして持ち帰って内容を調べたのですが、それを見ると非常にユダヤ的 な作品が目立つのですね。例えばバル・コクバの反乱とか、スペインの異端審 問とか、儀式殺人とか、ユダヤ人のアメリカでの生活とか、ユダヤ教からの離 脱とか。そういう演劇を次から次へと見たカフカは自分がユダヤ人であること に興奮し、目覚めます。そして劇団の俳優や女優たち、中でも座長のイサック・

レーヴィーとは特に親しく交際し、しまいには次の興業地に旅立つ彼を財政的 に助けるべく、1912 年2月 12 日「イディッシュ語詩朗読の夕べ」を催してや ります。そして彼のために前座としてプラハの同化ユダヤ人の前でイディッシュ 語の説明さえ買って出るのです

イディッシュ語劇団の芝居を見たことはカフカに大きな影響を及ぼしました。

私の見るところでは、彼の作品の中にはイディッシュ語演劇のモチーフがあち こちに生かされています。例えば『失踪者』(普通は『アメリカ』という名前 で知られています)という作品はカルル・ロスマンという若者がボヘミアから 船でニューヨークの港につく話から始まるのですが、これはたった一人での到 着ではありますが、ユダヤ人のアメリカ移住を思い起こさせるものです。また 同じ『失踪者』という作品では第5章でテレーゼという少女の身の上話が語ら れますが、幼いテレーゼが雪の降るニューヨークで母とさまよい、最後に母が 工事現場で転落死する場面は先のイディッシュ語詩朗読の夕べで朗読されたモ リス・ローゼンフェルドの『新参者』という詩の内容とそっくりです。

カフカの名前が出たついでに、と言っては何ですが、カフカの友人でカフカ の遺言を無視して原稿を焼却せず世に出したマックス・ブロート(1984-1968)

も非常にユダヤ性を意識した作品を書いています。プラハに生まれたのですが、

「イディッシュ語について」(Rede ber die jiddische Sprache)

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後にシオニストとなり、パレスチナに移住します。東欧ユダヤ人についてはど うかと言いますと、ブロートは先のどさ回りのイディッシュ演劇にカフカを誘っ た張本人ですから東欧ユダヤ人には大変関心はあったと思います。ただ特に東 欧ユダヤ人やイディッシュ語についての発言はないようです。

アルフレート・デブリーン(デーブリーンとも言います。1878-1957)は今 はポーランド領のシュテッティンに生まれました。早くにカトリックに改宗し ました。1924 年にポーランドを旅行したのですが、その動機はベルリンで起 こったポグロムまがいの事件にありました。この時シオニストにパレスチナ行 きを勧められたのですが、デブリーンはパレスチナではなくポーランドに行き たくなったのです。と言うのもユダヤ人について何も知らなかったからです。

彼は東欧ユダヤ人と接してみて、彼らの生き方に非常に心打たれました。

「ユダヤ人とは何と驚嘆すべき民族だろう。文庫を後にしながら、私は そう思わずにはいられなかった。私はよく知らないままに、ドイツで目にし ていたもの、せかせかと働く人たちや、家庭のことにかまけて次第に肥満 してゆく商人たち、目先の早いインテリ、繊細な感性をもった、落ち着き のない、数え切れないほど多くの不幸な人たちの事をユダヤ人だと思って いたのだ。彼らはこの地で変わることなく生き続けている民族の中核から 遠く離れて、隔絶し退化してしまった種族だということを、私は今知った。

それにしても、こんこんと尽きることなく湧き出る豊かなバール・シェム や、陰鬱な炎を宿したヴィルノのガオンのような人々を生み出すこの中核 とは何と驚くべきことか。一見、開けていないように思われるこの東部地 方で、並外れたことが起きたのだ。すべては精神をめぐってのことだ。精 神的なもの、宗教的なものがことのほか重視されている10。」

10 アルフレート・デーブリーン:『ポーランド旅行』,東京 2007, p.148

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アルノルト・ツヴァイク(1887-1968)は自らのユダヤ性を非常に意識した作 家です。1933 年には『ドイツ・ユダヤ人の総決算』という本を著したことで よく知られています。これはドイツ人に「なった」ユダヤ人がいかに華々しく ドイツに貢献したかについて論じた著作です。ツヴァイクはマルティン・ブー バーに影響を受けてシオニズムに傾倒し、パレスチナに移住しましたが、ヘブ ライ語至上主義に失望し、建国後数カ月でパレスチナを去ってしまいました11

彼の東欧ユダヤ人に対する関心は、第一次大戦の折に、東部戦線で彼らを知っ た時に始まります。以来関心を持ち続け、1920 年には『東方ユダヤ人の顔』

という本を出しました。これにはヘルマン・シュトルックという東欧出身の画 家の挿し絵が多数含まれています。この本の中でアルノルト・ツヴァイクは東 方ユダヤ人のことを「兄弟姉妹」と読んでいます。要するに同胞なのですね。

イディッシュ語については別の所-『創造的な言語の没落を憂れう』という 記事の中-で次のように述べています。

「左翼にとってはイディッシュ語とイディッシュ文化の存在は大きなプ ラスでした。全世界でユダヤ人は中世ドイツ語に発し、借用語や外来語に あふれるこの魅力あふれる方言でしゃべり、考えました。進歩の担い手、

そして創造的な詩言語としてこの方言はユダヤ人のグループが根を張って いる物語や戯曲の中で花開きました。反動的な権力者に嫌われたことを彼 らは名誉に思いました。そして同化ユダヤ人がこの言語を嘲笑すると、彼 らはそれを自らの肉としました。恐らくはそれと知らずして12。」

11「左翼の労働者とともに反戦デモに参加したとき、A. ツヴァイクの演説が公用ヘブライ 語に通訳されたのに腹を立てたようである。じっさいヨーロッパでユダヤ人の大半が話す のはイディシュで、それはドイツ語の要素が大きい言葉だから、ユダヤ人にはドイツ語で も十分理解できるはずなのである。『まるで参加者二千五百人が家でイディシュを話して もいないかのよう』と A. ツヴァイクは憤慨している.」長橋芙美子:『アルノルト・ツヴァ イク』―戦争と作家―。東京 1995, p.191

12 A. Zweig: : Klage ber den Untergang einer sch pferischen Sprache: In:

Mitteilungen aus dem Arbeitskreis f r Jiddistik. Folge 9, 1959

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以上はドイツのユダヤ系作家ですが、今度はドイツ・オーストリア以外の地 から出た作家も挙げておきましょう。そのような作家としてはヨーゼフ・ロー ト(1894-1939)がいます。ロートはガリツィアの出身です。ガリツィアはも とはポーランドの領地だったのですが、18 世紀の末にロシア、プロシア、オー ストリアによるポーランド分割の際オーストリア(当時オーストリアはチェコ やハンガリーまでも支配していたハプスブルク帝国の盟主でした)の領地になっ たところです(1918 年まで)。だからドイツ語が幅広く使われていました。

ロートはそのガリツィアのブローディというところで生まれました。ブロー ディは 19 世紀初めはガリチアで最も大きなユダヤ人社会で、正統派ユダヤ人 の中心として重きを成していました13。その後ロートはレンベルクで学びまし たが、ギムナージウム時代からウイーンに出て、ウイーン大学を卒業したのち、

ジャーナリストとなりました。酒が大変好きで、ホテルを転々としながら、数 多くの作品を書きました。彼はイディッシュ語の環境に生まれたにもかわらず 自分の言語としてドイツ語を選んだ同化ユダヤ人ですが、東欧ユダヤ人やイディッ シュ語にも理解がありました。『放浪のユダヤ人』というエッセイがよく知ら れています。

そこでは彼は西方ユダヤ人と常に比較しながら東欧ユダヤ人の歴史や生態を 描いたり、またベルリンやウイーン、パリの東欧ユダヤ人地区のルポ、それに アメリカ、ソ連のユダヤ人論を展開したりしています。それを読む者は至る所 でロートが東方ユダヤ人に対して、並々ならぬ愛情を抱いていることに気づく でしょう。

ロートは自分のいくつかの作品、例えば『タラバス』や『ヨブ』でも東欧ユ ダヤ人を扱っています。こういう次第ですから、ロートは同化ユダヤ人とは言 え、東欧ユダヤ人としての自覚は強かったんですね。

13 Scheer, E.,Schmidt, G.:Die Ukraine entdecken. Berlin 2000, p.149

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生後間もなくブコヴィナのチェルノヴィッツへ引っ越しましたが、ガリツィ アを舞台にした物語を書いたのがエーミール・フランツォース(1848-1904)

です。フランツォースというのは「フランス人」という意味だということです。

それからすると彼は珍しくセファルディの出身ということになります(御存知 のようにユダヤ人は大きくアシュケナージーとセファルデイーに分かれます。

アシュケナージーとはドイツ系、セファルディーとはスペイン系ユダヤ人のこ とです。ユダヤ人は7世紀頃からアラブ人についてスペインに住んでいました が、1492 年カトリックに戻ったスペインから追放され、トルコやギリシャを 初めとする地中海世界に定住します。この人たちの末裔がスペイン系ユダヤ人 というわけです。世界のユダヤ人を見てみると圧倒的にアシュケナージーが多 く、その比率は9対1くらいです)

さて、フランツォースは小さい時からいつも医者の父親に

「おまえは国籍からすればポーランド人でもなくルテニア人(ウクライ ナ人のことをハプスブルク帝国ではこう呼んでいました―上田)でもなく ユダヤ人でもない。おまえはドイツ人なのだ」14

と言われていたそうです。しかしその一方では、「信仰からして、おまえはユ ダヤ人だ」とも言われていたのです。だから東欧ユダヤ人の言葉であるイディッ シュ語もフランツォースにかかれば「ジャルゴン」です。「ジャルゴン」とは 仲間内でしかわからない隠語という意味ですから、一人前の言語と認めていな いことがよくわかります15

14 伊狩裕:「啓蒙と『半アジア』」ーカール・エーミール・フランツォース試論(1), 同志 社大学言語文化学会.2000, p.147

15 但し伊狩氏によれば、休暇で帰って来た時などフランツォースはゲットー地区のユダヤ人た ちと熱心につき合い、たくさんの人々と知り合いになり、イディッシュ語を学んだが、彼がイ ディッシュ語をしゃべったことは一度もなかったという。「啓蒙と『反アジア』、p.172

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しかしそのため彼は二重の苦しみを味わうことになります。つまりドイツ人 でもなく、本当の意味でのユダヤ人でもないという苦しみを。

「学校の同級生たち、遊び仲間たちはキリスト教徒であった。ユダヤ人 の家庭に行くことはほとんどなかったし、シナゴーグには一度も足を踏み 入れたことはなかった。ユダヤの慣習も食事の規定も私の両親の家では守 られてはいなかった。私は孤島で暮らしているようであった。16

とはいうものの、フランツォースは伝統的ユダヤ世界を嫌っていたというの でもないのです。何となれば、彼は6歳の時、父の墓参で故郷を訪れた際、初 めてゲットーの中の生活を目にし、その伝統的ユダヤ世界を評価しているから です17

「多くの習慣が詩的な面をもっていることに私は引きつけられた。彼ら の生き方の優れた側面も完全に理解できた。そのうえ私は彼らの歴史と一 般的な歴史も十分に心得ていたので、彼らが持つ憂慮すべき点もたしかに 彼らひとりの責任ではないことも知っていた18。」

しかし彼の東欧ユダヤ人に対する見方の特徴は「啓蒙の対象」ということで す。つまり哀れな東欧ユダヤ人を啓蒙してやらなければならないという考えで す。その点でフランツォースはロートの目線とはずいぶん違います。ロートは 東欧ユダヤ人に同じ目線で対していたのですが、フランツォースはむしろ東欧 ユダヤ人を見下していたのです。

16 伊狩裕:「啓蒙と『半アジア』、p.150

17 伊狩裕:「啓蒙と『半アジア』、p.151

18 伊狩裕:「啓蒙と『半アジア』、p.151

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ガリ チア に近 いブ コヴ ィー ナ地 方で 生ま れた のが パウ ル・ ツェ ラー ン

(1920-1970)と、ローゼ・アウスレンダーです。

まずブコヴィーナについて説明しておかなければなりません。ブコヴィーナ 地方もかつてはハプスブルク帝国の一部でした。首都はチェルノヴィッツでし た。数年前の3月、私がウイーンに滞在していた頃、ウイーンから列車でルー マニアのブカレストへ行き、チェルノヴィッツに最も近いシチェアーヴァとい う駅で降りて一泊し、そのあとチェルノヴィッツ駅に行こうとしたのですが、

そこは現在ウクライナ共和国に属しているので辿り着くことができなかった残 念な思い出があります。

チェルノヴィッツについてはどのような所だったでしょうか。この都市につ いては色々な記述がありますが、ある本は次のように記しています。

「チェルノヴィッツには非ドイツ人の少数派が住んでいた。ユダヤ人、

ルーマニア人、ウクライナ人(ルテーニア人)、ポーランド人が比較的仲 良く共存していた。民族的軋轢はめったになかった。全ての民族のうちユ ダヤ人がドイツ文化に一番近かった。チェルノヴィッツをドイツ文化の町 にしていたのは基本的には教養層のユダヤ人だった。1914 年にはドイツ 語人口の4分の3がユダヤ人であると申告していた。しかしイディッシュ 語を母語とし、ドイツ語を第二言語として育ったものもいた。そのドイツ 語は特別のブコヴィーナなまりのオーストリア・ドイツ語となった19。」

ちなみに、イディッシュ語を話していたのは下層の庶民であったということ です。

さて「死のフーガ」というアウシュヴィッツを歌った詩で最近世界的に知ら

19 Jasper, Willi : Deutsch-j discher Parnass. M nchen 2004, p.172

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れるようになったパウル・ツェラーン(1920-1970)はこのチェルノヴィッツ の同化ユダヤ人の家庭に生まれました。フランス語、ロシア語、ルーマニア語 ができましたが、イディッシュ語は家庭で軽蔑されていたため出来なかったそ うです20。パウルには町で最上の階級に入り、ドイツ語をできるだけ純粋に保 ち、知的な職業について名誉と安楽の暮らしをするというのが両親の願望だっ 21そうですから、ツェラーン家でイディッシュ語が軽蔑されていたのもうな ずけます。

イディッシュ語はできなかったそうですが、ツェラーンは東欧ユダヤ人を軽 蔑していたわけではなさそうです。と言いますのは 1958 年ブレーメン賞受賞 記念講演で自らの出身地について次のように語っているからです。

「私が出て参りました地域はほとんどの皆様には馴染みのない地域です。

つまりそこはマルティン・ブーバーが私たち皆にドイツ語で語り直してく れたハシディスムの物語のかなりの部分が生まれた地域です。22

ハシディスムというのは 18 世紀にウクライナでバアル・シェーム・トーヴ という人物によって始められた神秘主義的な民衆宗教ですが、このハシディス ムの物語を評価するということは東欧ユダヤ人を評価するということでもあり ます。

ハシディスムの話が出ましたからにはマルティン・ブーバー(1878-1965)

について触れなければなりません。ブーバーはウイーンに生まれましたが 14 歳までレムベルクの祖父を訪れて、そこでヘブライ語とユダヤ文学に親しみま した。ウイーン大学でハシディスムを知り、その魅力に取りつかれ、西側の人

20 Scheer, E. Schmidt, G. :Die Ukraine entdecken. p.232

21 森 治:『ツェラーン』東京 1996, p.29

22 Jasper, Willi::Deutsch-j discher Parnass. Berlin 2004, p.372

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たちにこの魅力ある宗教の紹介に努めます。1938 年にはパレスチナへ移住、

ヘブライ大学教授を勤め、エルサレムで死去。イディッシュ語については次の ように言っております。

「イディッシュ語は、まさに庶民のものとなった言葉として、たえず私 を楽しませてくれた。あの、東欧のユダヤ人大衆の独特の話し言葉だ23。」

女流詩人でホロコーストを歌ったローゼ・アウスレンダー(1910-1988)も ツェラーンと同じくチェルノヴィッツで生まれました。お父さんは正統派のユ ダヤ教育を受けて育ったそうです。彼女は後に恋人とアメリカへ移住しました が、その後離婚し、チェルノヴィッツに帰り、最後にはドイツで亡くなりまし た。彼女はほとんどの作品をドイツ語、英語で発表しましたが、イディッシュ 語でも2編、詩を書いていることに注目したいと思います。このことからも、

彼女にはイディッシュ語を軽蔑していたというようなことはなかったと推測さ れます。先程述べた父親が正統派のユダヤ人であった影響もあるでしょう。

以上、ユダヤ人の東欧ユダヤ人観・イディッシュ語観を見て来ました。もっ と取り上げたい作家はいますが、取りあえずはこれぐらいにしておきます。し かし、こうして見てみますと、ユダヤ人と言っても実にさまざまなユダヤ人が いることがわかります。自分のユダヤ性に全く関心がない人、自分のユダヤ性 を自覚していてもユダヤ性に関しては関知したくない人、同じルーツゆえに東 欧ユダヤ人に対しても同胞意識を持っている人など。ユダヤ人のユダヤ性に対 する態度には実に微妙なものがあります。

この論文は、平成 18 年 10 月4日(土)、日本ユダヤ系アメリカ文学研究会

23 モーリス・フリードマン:『マルティン・ブーバー』、東京 2000, p.31

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(会長:広瀬佳司)例会、岡山ノートルダム清心女子大学、で発表したものに 加筆訂正を施したものである。なおこのテーマについては次の論文からヒント を得たものであることを付記する。

Althaus, H. P.: Ansichten vom Jiddischen. In: Akten des VII. Inter- nationalen Germanisten Kongresses. G ttingen 1985

参照

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