貿易の超過利潤と特別剰余価値
著者 柴田 固弘
雑誌名 金沢大学経済論集 = The Economic Review of Kanazawa University
巻 16
ページ 19‑51
発行年 1979‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/2297/37173
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たい︒ ︵勺△︶私は︑これまでに︑貿易の超過利潤が実現するメカ一ズムについては若干考察を進めてきているものの︑貿易の超
過利潤の本質はこれをどのようなものとして捉えたらよいものか︑なかなか明確にすることができないでいたが︑
︵ワ︾︶︵毎⑤︶別稿で木原行雄氏の一連の労作を検討することを通じて︑少しばかり私見を明確にすることができたように思ってい
る︒だが︑未熟なところが多く残っていることはもちろんである︒本稿は︑前稿で不明確なままに残されているとこ
ろを少しでも明確にしようと試みるものである︒その仕方は︑リカードとマルクスのこの問題における差異に焦点を
置いて考察してみたうえで︑木原氏をも含めてこれまでの論者の方々の見解を批判的に検討するということにしてみ
③柴田固弘﹁貿易利潤と一般的利潤率l著侈品部門と生産価格﹂﹃金沢大学法文学部論集経済学篇﹄第二二号︒同﹁貿易利潤と
一般的利潤率11価値額をめぐるリカードとマルクス﹂同上誌第二三号︒同﹁貿易利潤と一般的利潤率l吉村正晴氏の見解に
ついて﹂同上誌第二四号︒同﹁貿易と利潤率について﹂﹃金沢大学経済学会経済論集﹄第一○・二合併号︒同﹁貿易利潤と一般
はじめに
貿易の超過
特
別剰余価値 利潤と
柴田固弘
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リカードによれば︑外国貿易の拡張は一国の価値額を増大させるものではない︒すなわち︑かれは言う︒lI︾P﹁外国貿易の拡張は︑商品の数量したがって享楽品の総量を増大させるにはきわめて有力に貢献するであろうが︑し
︽︵Q八︶・かしけっしてただちに一国の価値額を増大させるものではない︒﹂
かれはこれを説明してつぎのように言っている︒
﹁もしもある商人が︑一○○○ポンドの額のイギリス財貨を購買することによって︑イギリス市場で二一○○ポン
ドで売ることができるある分量の外国財貨を取得しうるものとすれば︑彼は︑彼の資本のこのような使用方法によっ
て二○パーセントの利潤を取得するであろう︒しかし彼の利得も︑輸入商品の価値も︑共に︑取得された外国財貨の
分量の多少によって増減することはないであろう︒たとえば︑彼がブドウ酒二五樽を輸入しようと五○樽を輸入しよ
うと︑ある時には二五樽が︑また他の時には五○樽が等しく一二○○ポンドで売れるかぎり︑それは彼の利益にはす
こしも影響しえないのである︒いずれの場合にも︑彼の利潤は二○○ポンド︑すなわち彼の資本にたいする二○パー
セントに︑限定されるであろう︒そしていずれの場合にも︑同一の価値がイギリスに輸入されるであろう︒もしも五
○樽が一二○○ポンド以上に売れるならば︑この特定の商人の利潤は一般利潤率を超過するであろう︑そして資本は 的利潤率l木下悦二氏の見解について筒上誌第一四号.同寶易j利潤率にかんするノ︲トー名和統一氏の見解について﹂同上誌同上号︒同﹁貿易の超過利潤実現のメカニズムについて﹂同上誌第一五号︒②柴田固弘﹁貿易の超過利潤の本質と源泉と作用について﹂﹃金沢大学法文学論集経済学篇﹄第二五号︒︽③木原行雄﹁輸出による超過利潤の本質﹂﹃東京経済大学創立六五周年記念論文集﹄・同﹁輸出による超過利潤の本質③﹂﹃東京
経済大学会誌﹄第五二号︒同﹁輸出による超過利潤の本質③﹂同上誌第五四号○同﹁輸出による超過利潤の本質③﹂同上誌第七
#六号︒同﹁輸出による超過利潤の本質⑤﹂同上誌第八○号︒同﹁輸出による超過利潤の本質⑥﹂同上誌第九七・九八合併号︒
r一
ノ
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かれは︑その理由をつぎのように説明している︒
﹁というのは︑第一に︑私は︑穀物︑服地︑帽子︑靴等々の需要が減少しないかぎり︑これらの商品の栽培や製造
にあてられる資本が必然的に減少するであろう︑ということを否認するからである︑そしてもしもそうだとすれば
︹資本が減少せずそれらの商品にたいする需要が同じであれば︺︑それらの商品の価格は騰貴しないであろう︒外国
商品の購買にあたっては︑イギリスの土地と労働の生産物の同一の︑より大なる︑あるいはより小なる部分のいずれ
かが使用されるであろう︒もしも同一の部分がそのように使用されるならば︑その時は勺服地︑靴︑穀物︑および帽
子にたいしては以前と同一の需要が存在し︑そして資本の同一部分がそれらの商品の生産に向けられるであろう︒も
しも︑外国商品の価格がより安くなっている結果として︑イギリスの土地と労働の年々の生産物のより小なる部分が
外国商品の購買に使用されるならば︑その他の物の購買のためにより多くの部分が残るであろう︒外国商品の消費者
は︑︹その分だけ︺彼らの収入に余裕ができるのであるから︑ありうることであるが︑もしも帽子詞靴ァ穀物勇等々
にたいする需要が以前よりも大きくなるならば︑以前により大なる価値の外国商品の購買に使用されていた資本にも
余力ができてくる︑そこで︑穀物︑靴︑等々にたいする需要の増加とともに︑増加供給を取得する手段もまた存在す
るわけで︑それゆえに︑価格も利潤も共に永続的には騰貴しえないのである︒もしもイギリスの土地と労働の生産物
のより多くが外国商品の購買に使用されるならば︑その他の物の購買にはより少ししか使用されえない︑それゆえ ︵の色︶自然にこの有利な貿易業に流入し︑ついにはブドウ酒の価格の下落が万事を以前の水準にひき戻すであろう︒﹂︾
リカードは︑このように︑イギリスの一般的利潤率を二○パーセントとしたうえで︑貿易資本がこの二○パーセン
トを越える利潤率をあげることのあることを認めはするが︑ただしそれは一時的にだけ認められるというものであっ
て︑永続的には︑他部門からの資本の流入によって二○パーセントのもとの水準にかえるしかないと主張しているわて︑永続坐
けである︒
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に︑より少ない帽子︑靴︑等々が要求されるにすぎないであろう︒資本が靴︑帽子︑等々の生産から解放されると同
時に︑外国商品の購買に用いられる諸商品の製造には︑より多くの資本が使用されるにちがいない︒その結果として︑
すべての場合に︑外国産と国産の商品を合計したものにたいする需要は︑価値にかんするかぎり︑その国の収入と資
︵毎︾︶本によって制限される︒もし一方が増加すれば︑他方は減少しなければならない︒﹂
ここで︑リカードは貿易によって内需品の価格の騰貴することのないことを証明しようとしている︒かれがこうす
るのは︑かりに貿易によって一般的利潤率が引き上げられるものであるならば︑ともかく内需品の価格騰貴が起らな
ければならないと見ているからであろう︒かれはこの証明を︑三つのケースに別けて行っている︒すなわち︑輸出部
門の一定のケース︑縮小するケース︑拡大するケースである︒それぞれについて見て︑内需品の需要と供給は相対的
に変化することなく︑したがって価格は騰貴しないと結論しているわけである︒かれがこのように結論できるのは︑
この場合かれが貿易の均衡のもとで事態を観察していることによるものである︒しかし︑のちにマルクスの示唆する
ところに従って見るように︑貿易の均衡の状況だけを切り離して︑このもとでだけ事態を観察するのでは貿易︵の超
過利潤︶の作用を正しく捉えることはできない︒それはともかく︑リカードは︑輸入品をブドウ酒すなわち享楽品と
したうえで︑貿易の均衡のもとで事態を観察して︑内需品の価格騰貴が起らないことを理由に︑貿易が一国の価値額
を増加させることを通じて一般的利潤率を引き上げることはないと一般的に主張するわけである︒そうしておいて︑
かれは特殊の場合に貿易が一般的利潤率を引き上げることのあることを付言する︒
﹁利潤率は賃銀の低下による以外にはけっして増大しえない︑そして賃銀の永続的低下は︑賃銀が支出される必需
品の下落の結果として以外には起こりえない〃ということを本書をつうじて証明するのが︑私の努めてきた点であっ
た︒それゆえに︑もしも外国貿易の拡張によりあるいは機械の改良によって︑労働者の食物と必需品が低減された価
格で市場にもたらされうるならば︑利潤は上昇するであろう︒もしも︑われわれが︑自国の穀物を栽培したり︑ある
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いは労働者の衣服およびその他の必需品を製造したりするのではなくて︑より安い価格でこれらの商品をわれわれに
供給することができる新しい市場を発見するならば︑賃銀は低下し利潤は上昇するであろう︒しかし︑もしも︑外国
貿易の拡張によりあるいは機械の改良によって︑より安い値段で取得される諸商品が︑もっぱら金持によって消費さ
れる諸商品であるならば︑利潤率にはなんらの変更も起こらないであろう︒たとえブドウ酒︑ビロード︑絹織物︑お
よびその他の高価な商品が五○パーセント下落するとしても︑賃銀率は影響を受けないであろう︑またその結果とし
て利潤はひきつづき不変のままであろう︒
そうしてみると︑外国貿易は︑収入が支出される諸物の分量と種類を増加し︑また諸商品の豊富と低廉とによって︑
貯蓄と資本の蓄積とに刺激を与えるから︑一国にとって高度に有利であるとはいえ︑輸入される諸商品が労働の賃銀
︵△令︶が支出されるその種類のものでないかぎり︑資本の利潤をひき上げる傾向をすこしももたないであろう︒﹂
このように︑リヵードは︑貿易が一般的利潤率を引き上げる場合のあることを認めている︒すなわち︑貿易によっ
て︑労働者の生活必需品が低廉化される場合には︑一般的利潤率は引き上げられることを認めている︒ただし︑かれ
によれば︑これは︑貿易によって価値額が増加することによるのではない︒それとは関係のないことなのである︒そ
れは︑輸入品が必需品であっても︑貿易の均衡のもとで観察するかぎり︑内需品の価格の騰貴することはないという
かれの結論にかわりはないからであろう︒しかし︑のちに見るように︑リカードの観察の仕方には問題があるのであ
って︑正しい観察の仕方によるときには︑輸入品が必需品の場合におけるこの一般的利潤率の上昇は一国の価値額の
増加によって一般的利潤率が引き上げられる運動の一環として捉えなければならない︒それはともかく︑リヵードに
よれば︑外国貿易は一国の価値額を増加させるものではなくて︑﹁外国貿易は︑収入が支出される諸物の分量と種類
を増加し︑また諸商品の豊富と低廉とによって︑貯蓄と資本とに刺激を与える﹂ものである︒かれは設例によって︑を増加し︑また諸商品の壷
その仕方を説明している︒
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﹁イギリスは︑服地を生産するのに一年間一○○人の労働を要し︑またもしもブドウ酒を醸造しようと試みるなら
同一時間に一二○人の労働を要するかもしれない︑そういった事情のもとにあるとしよう︒それゆえに︑イギリスは︑
ブドウ酒を輸入し︑それを服地の輸出によって購買するのがその利益であることを知るであろう︒
ポルトガルでブドウ酒を醸造するには︑一年間八○人の労働を要するにすぎず︑また同国で服地を生産するにはぐ
同一時間に九○人の労働を要するかもしれない︒それゆえに︑その国にとっては服地とひきかえにブドウ酒を輸出す
るのが有利であろう︒この交換は︑ポルトガルによって輸入される商品が︑そこではイギリスにおけるよりも少ない
労働を用いて生産されうるにもかかわらず︑なおおこなわれうるであろう︒ポルトガルは服地を九○人の労働を用い
て製造することができるにもかかわらず︑それを生産するのに一○○人の労働を要する国からそれを輸入するであろ
う︒なぜならば︑その国にとっては︑その資本の一部分をブドウの樹の栽培から服地の製造へ転換することによって
生産しうるよりも︑イギリスからひきかえにより多量の服地を取得するであろうブドウ酒の生産にその資本を使用す
︵P︒︶るほうが︑むしろ有利だからである︒﹂
ここで︑リヵードは︑ポルトガルがブドウ酒を︑イギリスがラシャを︑それぞれ生産するという国際分業がすでに
存在しているということ︑また︑ポルトガルのブドウ酒一単位とイギリスのラシャ一単位とが交換されているという
︵6︶こと︑こうしたことを前提したうえで︑両国がさもない場合︑つまりポルトガルがブドウ酒だけでなくラシャも自国
で生産する︑また︑イギリスがラシャだけでなくブドウ酒も自国で生産する︑こういうことを想像してみると︑貿易
によって生産物量の増加I労働の節約がなされていることがわかる︑というふうに説明しているわけである︒
このように︑リカードは︑貿易によって価値額は増加するのではなくて︑生産物量の増加Ⅱ労働の節約がなされる
だけであると見ているわけであるが︑しかし︑かれが貿易によって価値額が増加することは絶対にないというのかと
いうとそれはそうではなくて︑さきにも見たように︑すなわち︑輸入品が一二○○ポンド以上に売れる場合には︑価
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値額が増加することを認めているわけである︒ただし︑これは一時的なことにすぎないというわけであった︒このこ
とはいまの設例との対応ではどのようになるかというとこうである︒
﹁金と銀が流通の一般的媒介物として選ばれてきているので︑それらのものは︑商業上の競争によって︑もしもこ
のような金属が存在せず︑諸国間の貿易が純粋に物々貿易であるならば起こるであろうところの︑自然の通商に適応
するような割合で︑世界の異なった国々のあいだに分配されるのである︒
それだから︑服地は︑そこから輸入される国︹輸出国︺でかかる費用よりも多くの金にたいして売れないかぎり︑
ポルトガルへは輸入されえない︑またブドウ酒は︑ポルトガルでかかる費用よりも多くの金にたいして売れないかぎ
︵句︶・り︑イギリスへは輸入されえない︒﹂
このように︑リカードは︑貨幣は一定の割合で諸国民のあいだに分配されていると想定する︒かれの設例に対応す
る一定の割合というのはつぎのようなことになっている︒
﹁そこで︑イギリスにおけるブドウ酒醸造上の改良前に︑ブドウ酒の価格はここでは一樽につき五○ポンドであり︑
一定量の服地の価格は四五ポンドであったが︑それにたいしてポルトガルでは︑同一量のブドウ酒の価格は四五ポン
ドであり︑同一量の服地の価格は五○ポンドであったと仮定しよう︒ブドウ酒は五ポンドの利潤を伴ってポルトガル
︵8︶から輸出され︑服地は同額の利潤を伴ってイギリスから輸出されたであろう︒﹂
このように︑リカードによれば︑かれの設例の場合には︑イギリスではブドウ酒が五○ポンド︑服地は四五ポンド︑
ポルトガルではブドウ酒は四五ポンド︑服地は五○ポンドとなるように︑つまりブドウ酒について五ポンド︑服地に
ついて五ポンド︑それぞれ超過利潤が手に入るように︑貨幣はポルトガルとイギリスのあいだに分配されているとし
ているわけである︒こういうふうにリカードに従って見るときには︑貿易の超過利潤はあたかも国際分業が生み出し
たものであるかのように見えてくる︒しかし︑これは︑のちにマルクスの示唆に従って見るように︑因果の関係がざ
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このように︑リカードは︑﹁輸入国で販売される価格を究極的に左右するものは︑輸出国でのその自然価格である﹂
と言うのであるから︑さきの場合には︑ブドウ酒はイギリスで五○ポンドで一時売れることがあっても︑究極的には ﹁穀物は︑あらゆる他の商品と同様に︑あらゆる国においてその自然価格︑すなわち︑その生産に必要であってそ
れなしにはそれが耕作されえない価格︑をもっている︑その市場価値を支配し︑そしてそれを外国に輸出することの
得失を決定するものは︑この価格である︒もしも穀物の輸入がイギリスで禁止されるならば︑その自然価格はイギリ
スで一クォータにつき六ポンドに騰貴するかもしれないが︑それにたいしてフランスではその半値にすぎないという
ことになる︒︹ところで︺もしもこの時に輸入の禁止が解除されるならば︑穀物は︑イギリス市場において︑六ポン
ドと三ポンドとの中間の価格にではなくて︑究極的かつ永続的には︑フランスの自然価格︑すなわち︑穀物をイギリ
ス市場に供給し︑そしてフランスでの資本の普通かつ通常の利潤を与える価格に︑下落するであろう︒そしてそれは︑
イギリスが一○万クォータを消費しようと︑あるいは一○○万クォータを消費しようと︑この価格のままで続くであ
ろう︒もしもイギリスの需要が後者の分量にたいするものであるならば︑この分量の供給を調達するために︑フラン
スはより劣等な土地を用いる必要に迫られるから︑おそらく自然価格はフランスで騰貴するであろう︑そしてこのこ
とは︑むろん︑イギリスでの穀物の価格にも影響をおよぼすであろう︒私が主張するすべてのことは︑諸商品が独占
の対象でないかぎり︑それらが輸入国で販売される価格を究極的に左右するものは︑輸出国でのその自然価格であの対象でないかぎり︑それら
︵9︶る︑ということに帰着する︒﹂ がうことができる︒ か立ちしていると思う︒それはともかく︑五ポンドずつの超過利潤はこのように手に入りはするが︑しかし︑これは一時的なものであって永続的なものではない︑したがって︑貿易が一国の価値額を増加させるわけではない︑とかれはここでも考えているのであろう︒このことは︑別の個所︵第二十九章︶でつぎのように言っているととからもうか
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マルクスは︑リカードとは異なり︑貿易によって一国の価値額I剰余価値額は増加する︑と言う︑また︑貿易によ
って一国の剰余価値額が増加するときにはその国の一般的利潤率は引き上げられる︑と言う︒かれは︑﹃剰余価値学
説史﹄のなかで︑まず貿易による以外の仕方で一般的利潤率の引き上げられるふたつの場合について述べ︑つぎに貿
易による場合を挙げている︒
かれが最初に挙げるのは︑特殊な産業部門で絶対的剰余価値率が引き上げられる場合である︒
﹁しかし︑一般的利潤率が確立されており︑したがってまた費用価格が確立されている場合でさえも︑特殊な諸産 四五ポンドにしか売れなくなり︑また︑服地はポルトガルで五○ポンドで一時売れることがあっても︑究極的には四五ポンドでしか売れなくなる︑というふうに見ており︑したがって五ポンドずつの超過利潤も一時的なものであり︑究極的には消滅してしまうものであると見ているのであろう︒しかし︑のちに見るように︑リカードのこの見方は誤っており︑輸出超過利潤の平準化の過程で︑すべての商品の生産価格が変化すると見なければならない︒
①リカード﹃経済学および課税の原理﹄リカードゥ全集一五○ページ︒
(9)(8)⑦(6)(5)(4)(3)③(1)
同右一五一五二ページ︒
同右一五四五五ページ︒
同右一五七五八ページ・
行沢健三﹁リカードゥ﹁比較生産費説﹂の原型理解と変型理解﹂﹃商学論纂﹄第十五巻第六号四一四ページ参照︒
リカード前掲書一五九ページ︒
同右一六一ページ︒同右四三○l三宝 リカード﹃経済些同右同ページ︒
■■■■
■ ■ ■ ■ ■
ページ︒
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業部門で労働時間がより長くて絶対的剰余価値の率が上がるために︑その部門の利潤率が上がるということはありう
●●●●●る︒労働者の競争がこれを均等化することはできないということは︑国家の干渉がこれを証明している︒この部門で
は市場価格が自然価格よりも高く上がるということなしに︑この特殊な産業部門の利潤率が上がるであろう︒もちろ
ん諸資本の競争は︑この超過利潤の全部がこの特殊な産業部門の資本家に帰属しないように作用することができる
し︑また結局のところはそのように作用するであろう︒これらの資本家は彼らの商品をその﹁自然価格﹂よりも低く
下げざるをえないであろう︒そうでなければ︑他の産業部門がその価格を多少とも引き上げるであろう︵いずれにせ
よ︑実際には引き上げないとしても︑というのは︑引き上げたところでそれはこれらの商品の価値低下によって無
効にされうるからであるが︑その場合でも︑その産業部門自身における労働の生産力の発展が要求する程度まで︑価
︵○几︶格が下がるということはないであろう︶︒利潤率の一般的水準は上がり︑費用価格は変動するであろう︒﹂
ここで︑マルクスは︑特殊な産業部門で絶対的剰余価値率が引き上げられれば︑諸資本の競争により︑生産価格は
変動して︑利潤率が平準化するが︑その結果︑一般的利潤率の水準は引き上げられる︑と言うのである︒かれは︑こ
の部門の超過利潤はこの国の価値額I剰余価値額の増加分であると見ているわけである︒かれはつぎにもうひとつの
場合を挙げる︒
﹁さらに︑蓄積された労働に比べて︑不釣合いに大量の生きている労働が充用され︑したがって資本の構成が平均利
潤率を規定する平均構成よりもはるかに低いところの新しい産業部門が出現するとすれば︑需要供給の関係が︑この
新しい産業部門で︑その生産物を︑その費用価格よりも高く︑ほぼその現実の価値どおりに︑売ることを可能にする
ことはありうる︒競争がこれを均等化するとすれば︑この場合︑それが可能なのはただ利潤率の一般的水準を引き上
げることによってのみである︒なぜなら︑その資本は総じてより多くの量の不払剰余労働を実現し︑動かすのだから
である︒はじめのほうの場合に︑需要供給の関係は︑リカードが考えているように商品がその価値よりも高く売られ
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このような場合にはリヵードはいつも次のようなきまり文句で切り抜ける︒すなわち︑しかし従来の産業部門で
は︑それにもかかわらず充用労働量は同じままであり︑同様に労賃もそうなのである︑と︒ところが一般的利潤率を
規定しているものは︑あれやこれやの産業部門ではなく資本が自由に移動しうるすべての産業部門での︑支払労働お
よび前貸資本にたいする不払労働の割合なのである︒この割合は9両においては同じままであるかもしれないが︑
しかし︑それが1面において変動するとすれば︑如一畑における一般的利潤率も変動せざるをえないのである︒与え うが︑しかし︑おりである︒︶ るように作用するというのではなくへほぼその価値どおりに︑その費用価格よりも高く︑売られるように作用するだけである︒だから︑均等化がひき起こしうるのは︑利潤が従来の水準にもどされるということではなく︑新しい水準
︵の全︶が確立されるということである︒﹂
ここでは︑マルクスは︑資本構成が平均を下回る新産業部門の出現した場合を挙げて︑競争による利潤率の平準化
の結果は︑一般的利潤率の水準そのものが引き上げられることになる︑と言うのである︒かれはこの場合にも︑この
部門の超過利潤はこの国の価値額I剰余価値額の増加分であると見ているわけである︒
このように︑マルクスは︑特殊の部門で絶対的剰余価値率が引き上げられた場合︑平均構成を下回る新産業部門の
出現した場合︑いずれの場合にもこの国の価値額Ⅱ剰余価値額が増加し一般的利潤率は引き上げられる︑と見ている
わけであるが詞かれは貿易部門が高い利潤をあげる場合もこれらふたつの場合と異なるところはないと言う︒
﹁たとえば植民地貿易も同様である︒植民地では︑奴隷制や自然の豊かさのために︑労働の価値は古い国々よりも
低い︵あるいはまた実際上または法律上土地所有制度が発達していないためにも︑そうである︶︒母国の資本が任意
にこの新しい産業部門に移動しうるとすれば︑その資本は確かにこの産業部門の独自な超過利潤を引き下げるであろ
うが︑しかし︑それは利潤の一般的水準を引き上げるであろう︵これはA・スミスがまったく正しく指摘していると
− 3 0 −
られた大きさの資本によって動かされる不払労働の量が増大するたびに︑競争がもたらしうる結果は︑等量の資本
が︑この増大した剰余労働のなかから等しい配当を︑すなわち等しい取り分を得るということだけであって︑前貸総
資本に比べて剰余労働が増大したにもかかわらず︑各個別資本の得る取り分は元のままで︑剰余労働のなかの従来の
︵q︾︶取り分まで引き下げられるというようなことではないのである︒﹂
マルクスは︑貿易部門が超過利潤をあげることは︑すなわち一国の価値額Ⅱ剰余価値額の増加することである︑こ
の増加した剰余価値は競争によってその国の資本全体に配分されることになるわけだから︑一般的利潤率が引き上げ
られることにならないわけがない︑と言うのである︒貿易部門のあげる高い利潤は︑一国の剰余価値量が投下資本に
比べて増加するという意味で︑特殊の部門で絶対的剰余価値率が引き上げられる場合や︑平均構成を下回る新産業部
門の出現する場合と同様に一般的利潤率を引き上げる︑と考えるわけである︒
マルクスは︑﹃資本論﹄のなかでも︑貿易のあげる高い利潤率は一般的利潤率の平均化に参加してそれだけ一般的マルクスは︑﹃資本論﹄の
利潤率を高くする︑と言う︒
﹁もう一つの問題lそ坐
投ぜられた︑ことに植民地壷
あろうか?という問題で坐
貿易に投ぜられた資本が比較的高い利潤率をあげることができるのは︑ここではまず第一に︑生産条件の劣ってい
る他の諸国が生産する商品との競争が行なわれ︑したがって先進国のほうは自国の商品を競争相手の諸国より安く売
ってもなおその価値より高く売るのだからである︒この場合には先進国の労働が比重の大きい労働として実現される
かぎりでは︑利潤率は高くなる︒というのは︑質的により高級な労働として支払われない労働がそのような労働とし
て売られるからである︒同じ関係は︑商品がそこに送られまたそこから商品が買われる国にたいしても生ずることが っの問題lそれはその特殊性のためにもともとわれわれの研究の限界の外にあるのだがlは︑貿易に︒ことに植民地貿易に投ぜられた資本があげる比較的高い利潤率によって︑一般的利潤率は高くされるで
という問題である︒
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ありうる︒すなわち︑この国は︑自分が受け取るよりも多くの対象化された労働を現物で与えるが︑それでもなおそ
の商品を自国で生産できるよりも安く手に入れるという関係である︒それは︑ちょうど︑新しい発明が普及する前に
それを利用する工場主が︑競争相手よりも安く売っていながらそれでも自分の商品の個別的価値よりも高く売ってい
るようなものである︒すなわち︑この工場主は自分が充用する労働の特別に高い生産力を剰余労働として実現し︑こ
うして超過利潤を実現するのである︒他方︑植民地などに投下された資本について言えば︑それがより高い利潤率を
あげることができるのは︑植民地などでは一般に発展度が低いために利潤率が高く︑また奴隷や苦力などを使用するの
で労働の搾取度も高いからである︒ところで︑このように︑ある種の部門に投ぜられた資本が生みだして本国に送り
返す高い利潤率は︑なぜ本国で︑独占に妨げられないかぎり︑一般的利潤率の平均化に参加してそれだけ一般的利潤
率を高くすることにならないのか︑そのわけはわかっていない︒ことに︑そのような資本充用部門が自由競争の諸法
則のもとにある場合にどうしてそうならないのかは︑わかっていない︒これにたいしてリカードが考えつくのは︑な
かでも次のようなことである︒外国で比較的高い価格が実現され︑その代金で外国で商品が買われて帰り荷として本
国に送られる︒そこでこれらの商品が国内で売られるのだから︑このようなことは︑せいぜい︑この恵まれた生産部
門が他の部面以上にあげる一時的な特別利益になりうるだけだ︑というのである︒このような外観は︑貨幣形態から
離れて見れば︑すぐに消えてしまう︒この恵まれた国は︑より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返すの
である︒といっても︑この差額︑この剰余は︑労働と資本とのあいだの交換では一般にそうであるように︑ある階級
のふところに取りこまれてしまうのであるが︒だから︑利潤率がより高いのは一般に植民地では利潤率がより高いか
らだというかぎりでは︑それは植民地の恵まれた自然条件のもとでは低い商品価格と両立できるであろう︒平均化は
︵4︶行なわれるが︑しかし︑リカードの考えるように旧水準への平均化ではないのである︒﹂
このように︑マルクスは︑ここでも︑貿易のあげる高い利潤率は一般的利潤率の平均化に参加してそれだけ一般的
一
− 3 2 −
利潤率を高くする︑と言っていることがわかる︒
また︑﹃資本論﹄のこの個所では︑マルクスは︑そのほかにも重要なことを述べていることがわかる︒すなわち︑
﹁貿易に投ぜられた資本﹂の高い利潤率を﹁新しい発明が普及する前にそれを利用する工場主﹂の超過利潤にたとえ
ていることである︒このことから︑かれは貿易の超過利潤の本質を特別剰余価値と見ていると解してよいであろう︒
ところで︑この個所の内容は︑一読したかぎりでこれを充分に理解することは容易でない︒
マルクスは︑貿易資本のあげる超過利潤の可能になる理由として︑﹁ここではまず第一に︑生産条件の劣っている
他の諸国が生産する商品との競争が行われ︑したがって先進国のほうは自国の商品を競争相手の諸国より安く売って
もなおその価値より高く売るのだからである︒﹂と言っているが︑これは︑先進国の工業部門が不均等な発展をとげ︑ゞ
その結果先進国の輸出工業部門に超過利潤の発生することになる事態を指しているという意味ではよくわかる︒しか
し︑かれは﹁貿易に投ぜられた資本﹂についてこれを言っているのである︑つまり︑輸出超過利潤だけでなしに︽輸
入超過利潤をも含めて︑その発生の理由をこのように言っていると解せられる︒というのは︑この個所では︑マルク
スはリカードの議論を念頭に置いているが︑リカードは︑イギリスの貿易資本が四五ポンドのイギリスのラシャをポ
ルトガルで五○ポンドで売り︑またこの同じ資本が四五ポンドのポルトガルのブドウ酒を五○ポンドでイギリスで売
り︑それぞれ五ポンドずつの超過利潤をあげると想定している︑つまり︑貿易資本は輸出超過利潤だけでなしに輸入
超過利潤もあげていると想定しているからである︒しかし︑そうであればヘマルクスの挙げている理由によって︑輸
入超過利潤をも含む貿易の超過利潤の発生してくる事態を想像することは︑容易なことではない︒
また︑マルクスは︑この個所で︑リカードに反論して︑﹁このような外観は︑貨幣形態から離れて見れば︑すぐに
消えてしまう︒この恵まれた国は︑より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返すのである︒﹂と言っている
が︑これもどのような事態を指しているのか理解するのは容易でない︒
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すでに見たように︑リヵードは︑国際分業の存在を前提しており︑また︑ポルトガルのブドウ酒一単位とイギリス
のラシャー単位の交換という外国貿易の存在を前提している︑そのうえで︑貨幣が両国のあいだで︑:ブドウ酒とラシ
ャについてそれぞれ五ポンドずつの超過利潤が生ずるような割合で分配されているということを前提している︒
これに対して︑マルクスの想定の仕方は︑リカードとは異なり︑そもそも国際分業がどのようにして生みだされる
のか︑これを資本主義との関係で見るというところから出発している︒かれは資本主義がそれにふさわしい国際分業
をつくり出す過程を次のように述べている︒
﹁ある産業部門で機械経営が伝来の手工業やマ一三ファクチュアを犠牲として拡張されるあいだは︑その成功が確 リヵードはイギリスの四五ポンドのラシャがポルトガルで五○ポンドに売れて五ポンドの超過利潤を挙げる︑また
ポルトガルの四五ポンドのブドウ酒がイギリスで五○ポンドで売れて五ポンドの超過利潤をあげる︑こういうことは
一時的なことであって︑結局は︑ラシャもブドウ酒も四五ポンドにしか売れなくなり︑超過利潤は消滅してしまい︑
一般的利潤率は引き上げられることはない︑と見ているのであるが︑これに対してマルクスは貨幣形態から離れて労
働の形態で見ようと提案しているわけである︒しかし︑かれの提案に従ってわかることは︑ラシャとブドウ酒がそれ
ぞれ五○ポンドで売れているときも︑あるいはそれぞれ四五ポンドでしか売れなくなっているときもポルトガルの八
○人の労働とイギリスの一○○人の労働が交換されているということにすぎないのであって︑﹁この恵まれた国は︑
より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返す﹂という関係を読みとることはできない︒かれはどういうふ
うなことを想定しているのであろうか︒
このように︑﹃資本論﹄のこの個所の内容を充分に理解することはなかなか容易ではない︒私はここを充分に理解
するためには︑リヵードの想定とマルクスの想定には差異があるということをしっかり把握しておくことが大切であ
ると思う︒
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実なことは︑いわば弓矢軍に向かう針発銃装備軍の勝利が確実であるようなものである︒機械が最初にその勢力圏を
征服するこの第一期は︑機械に助けられて生産される異常な利潤のために決定的に重要である︒この利潤はそれ自体
として加速的蓄積の一つの源泉になるだけではなくや絶えず新たに形成されて新たな投下を求める社会的追加資本の
大きな部分をこの恵まれた生産部面虻引き入れる︒最初の疾風怒涛時代の特別の利益はや機械が新たに採用される生
産部門で絶えず繰り返し現われる︒しかしまた︑工場制度がある範囲まで普及して一定の成熟度に達すれぱやことに
工場制度自身の技術的基礎である機械がそれ自身また機械によって生産されるようになれば︑また石炭と鉄の生産や
金属の加工や運輸が革命されて一般に大工業に適合した一般的生産条件が確立されれば︑そのときこの経営様式は一
つの弾力性︑一つの突発的飛躍的な拡大能力を獲得するのであって︑この拡大能力はただ原料と販売市場とにしかその
制限を見いださないのである︒機械は一方では原料の直接的増加をひき起こす︒たとえば繰綿機が綿花生産を増加さ
せたように︒他方では︑機械生産物の安価と変革された運輸交通機関とは︑外国市場を征服するための武器である︒
外国市場の手工業生産物を破滅させることによって︑機械経営は外国市場を強制的に自分の原料の生産場面に変えて
しまう︒こうして︑東インドは︑大ブリテンのために綿花や羊毛や大麻や黄麻やインジゴなどを生産することを強制
された︒大工業の諸国での労働者の不断の﹁過剰化﹂は︑促成的な国外移住と諸外国の植民地化とを促進し︑このよ
うな外国は︑たとえばオーストラリアが羊毛の生産地になったように︑母国のための原料生産地に転化する︒機械経
営の主要所在地に対応する新たな国際分業がつくりだされて︑それは地球の一部分を︑工業を主とする生産場面とし
︵FD︶その他の部分のために︑農業を主とする生産場面に変えてしまう︒﹂
このように︑マルクスは国際分業が資本主義によって作り出されるものであることを述べている︒すなわち︑原料
と販売市場の問題が新たに機械を採用して不均等に発展する産業部門のより一層の発展を制限するものとなるが︑こ
の問題を解決するものとして︑それは作り出されること︑したがって︑不均等に発展する機械経営を推進力として︑
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﹁たとえ事実上絶対的には農業が進歩しつつあっても︑社会の進歩の途上では工業生産物に比べて農業生産物の相
対的増大が起こりうる︑ということをジョーンズは正しく理解している︒﹃諸国民の進歩の途上では︑製造工業の力
や技能の増大は︑通例は︑増大しつつある一国民の農業においてそれが期待されうるよりも︑大きい︒これは一つの
疑えない真実である︑それゆえ︑原料生産物の相対的価値の上昇は︑諸国民の前進の途上では︑農業の効果における
なんらの積極的な減退なしに︑期待されうるだろう︒﹄しかし︑これは原料生産物の貨幣価格の積極的な上昇を説明
するものではない︒といっても︑製造工業において生産される商品のより大きな低落によって相殺ざれ凌駕されるが
農業ではそれほど相殺されないような金価値の低落が生じないかぎりでのことである︒これは︑金︵貨幣︶価値の一
般的低下が生じなくても︑たとえば特定の一国民が一日の労働によって競争相手の諸国民よりも多くの貨幣を得る場
︵の︒︶合には︑起こりうるのであろうこ
このように︑マルクスは先進国の農産物価格の積極的な騰貴が﹁特定の一国民が一日の労働によって競争相手より
も多くの貨幣を得る場合﹂にも起ることを指摘しているが︑これは︑輸出品と交換に外国から金を入手できるが︑こ
の輸出品の生産において生産方法の改善が行なわれ︑その結果輸出品の価値は低下しているにもかかわらず︑これが
輸出先では従来どおりの価格ないしそれに近い価格で売れるという場合のことを念頭に置いているものと思われる︒ りでは︑輸或参考になる︒ 地球全体が︑機械経営の所在地は工業を主とする生産場面に︑その他の部分は農業を主とする生産場面に作り変えられてしまうというものである︒
この場合︑﹁機械生産物の安価﹂によって︑機械経営の輸出部門には﹁機械に助けられて生産される異常な利潤﹂
が生ずることが含意されていることがわかる︒ところで︑輸入品についてはどうであろうか︒この個所の叙述のかぎ
りでは︑輸入品の低廉な入手︑つまり輸入超過利潤については述べられてはいない︒この点についてはつぎの叙述が
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このように見てくると︑マルクスは︑リカードとは異なり︑あらかじめ国際分業の存在を前提にしているのではな
くて︑資本主義I先進国の不均等に発展する輸出工業部門の超過利潤Ⅱ特別剰余価値が推進力となって国際分業が作
り出され︑また︑その過程で先進国の農産物価格が貨幣価値の低下によって騰貴することにより外国農産物が相対的
に低廉化する状況が作り出されるものとしていることがわかる︒だから︑マルクスにしてみれば︑このようにして可
能となる輸入超過利潤は︑輸出部門に生じた特別剰余価値のとるひとつの形態にほかならないと見ているわけである
このことは︑貿易の超過利潤がどのようにして一般的利潤率を引き上げることになるのか︑そのメカニズムはどう
なっているのか︑ということを考えてみると一層はっきりとしてくる︒このメカニズムについては︑別稿でくりかえ
し説明してきたので︑要点だけにとどめておくが︑つぎのようなものとして考えられよう︒
すべての部門が平均利潤をあげているところで︑輸出部門が生産性を引き上げた結果︑ここに超過利潤が発生する
としよう︒そうすると︑輸出部門へ向って内需部門から資本が流出する︒資本の流出した内需部門では供給が減少す
るために価格が騰貴するであろう︒さしあたり起ることはこんなことである︒この段階では一般的利潤率は引き上げ
られるとはいえないであろう︒なぜなら︑すべての商品の販売価格が騰貴するのであるから︑それとちょうど同じ率
ですべての商品の費用価格も増加していると見なければならないからである︒ところで︑内需品のこの価格騰貴がし
ばらくつづけば︑それとともに外国品が相対的に低廉化してくる︑つまり輸入品について輸入超過利潤が可能となり︑
したがって輸入の開始ないし拡大が起るであろう︒この段階では一般的利潤率が引き上げられるであろう︒なぜな
らやすべての商品の費用価格が内需品と相対的に低廉化した輸入品との組合せから成り立つかぎり︑費用価格の増加
の率は販売価格の騰貴の率をかならず下回るからである︒つぎに輸入拡大の結果として輸入と輸出とが均衡するとこ
ろにまで達することになると︑内需品の価格騰貴は止むであろう︒この状況のもとでもまだ輸出超過利潤と輸入超過 ︾︵ノ︒
lIP1llllrlⅡbFIⅡ
−−37 一
利潤とが存在てしいる場合を想定することはできる︒︵リカードの想定している状況はこの局面だけを切り離して見
ているものだと言うことができよう︒︶この段階でも一般的利潤率の上昇はつづくが︑そのかたちは︑販売価格は一
定で費用価格が輸入品の低廉化により減少するということになる︒さらに事態が進むと︑結局︑競争によって輸出超
過利潤も輸入超過利潤も消滅するであろう︒この段階では︑一般的利潤率の上昇は停止するが︑以後は︑以前より引
き上げられた高い水準の一般的利潤率が貿易の継続によって維持されることになる︒
こうして見ると︑このような事態の進展はすべて輸出部門の生産性の上昇に原因するものであるのだから︑この事
態の進展のなかではじめて可能となる輸入超過利潤は︑輸出部門に生じた特別剰余価値のとるひとつの形態であると
見なければならないことがわかるであろう︒
また︑こうして見ると︑マルクスが﹁この恵まれた国は︑より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返す
のである︒﹂と言うことの意味もわかるであろう︒たとえば︑マルクスはつぎのように見ているのであろう︒すなわ
ち︑ブドウ酒はポルトガルで一○八人で生産され︑イギリスで三一○人で生産され︑両国のブドウ酒は同じ国際価格
で売れ︑両国のブドウ酒生産資本はいずれも平均利潤をあげている︽また︑ラシャはポルトガルで九○人で生産さ
れ︑イギリスで一○○人で生産され︑両国のラシャが同じ国際価格で売れへ両国のラシャ生産資本はともに平均利潤
をあげている︒そこで︑ポルトガルのブドウ酒生産資本が新方法を採用した結果八○人で生産できるようになったと
すると︑この資本は超過利潤をあげることになる︒この超過利潤の作用の結果として︑ラシャについても両国で価格
差を生じ︑そのためラシヤについても超過利潤をあげることができる状況が生ずる︒この状況がリカードの出発点と
なっている状況である︒すなわちへブドウ酒はポルトガルで四五ポンド︑イギリスで五○ポンド︑ラシャはポルトガ
ルで五○ポンド︑イギリスで四五ポンドという状況である︒リカードにしてみればへポルトガルのブドウ酒はイギリ
スで結局は四五ポンドにしか売れなくなり︑︲またイギリスのラシャもポルトガルでは結局は四五ポンドにしか売れな
− 3 8 −
くなるのであるから︑価値額の増加はない︑と言うのであろう︒マルクスにしてみれば︑ブドウ酒について生ずる超
過利潤も︑ラシャについて生ずる超過利潤も︑いずれもブドウ酒について生じた特別剰余価値のとる形態であって︑
これらの超過利潤は競争によって消滅するけれども︑特別剰余価値そのものはブドウ酒についての両国の生産性の格
差に原因するものであるかぎり消滅することはなくて︑それのとる形態をかえるだけであり︑超過利潤が消滅したと
きにはその分だけ一般的利潤率が引き上げられることになるのだ︑それが何よりの証拠には︑貨幣形態をはなれて労
働で見てみればよくわかる︑ブドウ酒が五○ポンドで売れているときも四五ポンドでしか売れなくなっているとき
も︑またラシャが五○ポンドで売れているときも四五ポンドでしか売れなくなっているときも︑ポルトガルの八○人
の労働とイギリスの一○○人の労働が交換されているではないか︑とれは︑以前にポルトガル九○人の労働とイギリ
ス一○○人の労働が等しかったときとくらべれば︑﹁この恵まれた国は︑より少ない労働と引き換えにより多くの労
働を取り返すのである︒﹂︑これがマルクスの言分なのであろう︒
以上によって︑マルクスは貿易の超過利潤を先進国の輸出部門の特別剰余価値として見ていると解してよいであろ
う︒それではかれはこの特別剰余価値の源泉はどこにあると見ていることになるだろうか︒それは後進国の労働のな
かにあると見ていることになる︑と私は思う︒その理由をつぎに簡単に述べておこう︒
︵7︶マルクスが﹃資本論﹄第一巻で特別剰余価値の説明をしている個所で︑かれはいわゆる実現説といわゆる創造説と
︵8︶ふたつの説明の仕方をしているが︑私は︑前者の方がマルクスの真意であろうと思う︒別稿で述べておいたように︑
私はこの個所の理解の仕方については︑富塚良三氏のそれに従いたいと思う︒富塚氏は︑一方における正の特別剰余
価値には他方における負の特別剰余価値が伴っている︑としておられる︒つまり︑氏は︑市場価値の考え方を新たな
生産方法の普及する過程に適用して︑特別剰余価値と社会的価値の関係を見ておられるわけである︒私は︑この個所全
体の趣旨として︑価値法則が﹁競争の強制法則として︑彼の競争者たちを新たな生産方法の採用に追いやるのである︒﹂
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ということが納得できなければならないと思うが︑それは︑この個所にも市場価値の考え方を適用するときに可能と
︵⑥︾︶なるのであって︑木原氏のように︑新生産方法による個別的価値は市場価値の形成に参加しないとするときには︑社
会的価値の漸次的低下を説明できないと思う︒
①マルクス﹃剰余価値学説史﹄I全集恥︵1︶五八七ページ︒②同右五八七八八ページ︒
⑧同右五八八八九ページ︒
③マルクス﹃資本論﹄Ⅲ⑧全集弱⑧二九七九九ページ︒
⑤同書I③全集朗伺五八九ページ︒
㈹マルクス﹃剰余価値学説史﹄Ⅲ全集妬︵Ⅲ︶五三○ページ︒
③マルクス﹃資本論﹄I⑧全集路③四一六一九ページ︒
⑥柴田固弘﹁貿易の超過利潤の本質と源泉と作用について﹂﹃金沢大学法文学部論集経済学篇﹄第二五号二九三一ページ︒
富塚良三﹃恐慌論研究﹄未来社四三九四○ページ︒
⑥木原行雄﹁輸出による超過利潤の本質﹂前掲誌二二一二二ページ︒
リカードとマルクスでは︑貿易の超過利潤の捉え方に差異のあることを見た︒すなわち︑リカードの捉え方では︑
国際分業の存在と貨幣価値の一定の格差の存在とをはじめから前提してかかるために︑輸出超過利潤と輸入超過利潤
とがはじめからそれ自体として存在しているものとして現われる︑これに対して︑マルクスの捉え方では︑先進国の
輸出部門の特別剰余価値が推進動機となって国際分業が作り出され︑またその結果として貨幣価値の格差の程度が決
まってくる︑したがって︑輸出超過利潤だけでなく︑輸入超過利潤も先進国の輸出部門の特別剰余価値の一形態にほ
かならないものとして捉えられる︒
三
− 4 0 −
私の見るかぎりでは︑従来の論者はすべて貿易の超過利潤の捉え方としては︑マルクスではなくてリカードの方に
従っているように思われる︒︾::j
w木原行雄氏の見解については︑別稿でくわしぐ検討したが︑ここで本稿の観点から簡単に整理しておこう︒︲.:↑!
木原氏は︑﹁輸出による超過利潤は︑その国で生産された価値では芯いが︑同時に他国で生産された価値の無償移
転ともいえない︒それは主として︑国際商品流通の中から国際分業の利益として生まれる独特の価値で称す︒﹂ゞと主
張しておられる︒木原氏は一般的立場としては労働価値説に立っておられるのであるが︑しかし輸出超過利潤に関し
ては︑このように︑はっきりと労働価値説を拠棄しておられるわけである︒
木原氏が︑輸出超過利潤は﹁国際分業の利益として生まれる﹂﹁価値﹂である︑と言われる積極的根拠は何なのか︑
これを氏の叙述のなかから探り出すのは容易でないが︑それらしいものとして私はつぎの個所に注目した︒
﹁以上を総合しての私の解釈は︑前掲の第一表を利用して再び要約すれば次のとおりである︒A国の国民的労働は①︒■一句①同量のB国の国民的労働に比し︑四対一の割で平均強度のより大きい労働であり︑国民的平均において四対一の割で
より大きい価値を生産する︒このことは︑両国間に貿易されうるあらゆる同種商品生産部門における両国民的労働の
強度および生産力の較差が総合的に平均されたもの︵すなわち国民的労働の強度差︶が四対一であることを意味し︑
したがってまた︑A国労働はB国労働に対し︑四対一の割で複雑度ないし熟練度がより高い労働であるのと同様の関
係に立つ︒しかしAB両国間すなわち一般に異なる国々の間には︑労働の相互移転と転換の関係がなく︑したがって
等質の世界的労働に還元される現実的機構がないから︑両国労働の価値実体としての質を直接に比較することは絶対
に不可能であり︑四対一の割で複雑のより高い労働とみなしうるというのは︑あくまで一つの擬制である︒いわゆる
﹁擬制的複雑労働﹂はこのことを明確に表現している︒ところでへ両国国民的労働の生産力差︵本来の意味での強度
の差を含む︒国際的比較においては平均的な強度差と生産力差とは一体不可分である︶は︑表に例示した工業品につ
− 4 1 一
られる︒ いては六対一︑農業品については二対一である︒六対一の生産力差が両国労働の平均的強度差四対一を越える部分は︑A国工業品労働が︑B国のみならずA国の一般労働に比し強度のより大きい国民的労働として計算されうる︒すなわちそのようなものとして国際的に通用しうる部分である︒それは工業品の両国における国際価値である金二○夢と金三○gとの間の一定の価値もしくは価格部分によって表わされ︑A国輸出関係資本の超過利潤を形成する︒この場合におけるA国輸出産業労働が前記の﹁より高い比重をもつ労働﹂であり︑﹁擬制的な強められた労働﹂とも称
︵ワ︶すべきものなのである︒それは﹁擬制的複雑労働﹂とは明確に区別されねばならない︒﹂
木原氏の説明は︑結局のところ︑﹁A国の国民的労働は同量のB国の国民的労働に比し︑四対一の割で平均強度の
より大きい労働であり︑国民的平均において四対一の割でより大きい価値を生産する︒﹂ということと︑﹁両国国民的
労働の生産力差﹂は︑﹁工業品については六対一︑農業品については二対一である︒﹂ということを想定するならば︑
貿易の超過利潤の存在を指摘することができるということである︵ここでは輸出超過利潤だけが指摘されているがか
もちろん輸入超過利潤の存在も指摘できるわけである︶︒これは︑二国二商品につい比較生産費差の存在を前提す
る︑また︑その中間に両国の貨幣価値の格差が位置していると前提する︑そうすると輸出超過利潤と輸入超過利潤が
はじめから存在しているように見える︑というものであって︑つまりリカードの捉え方と変わりはない︒
つぎに木下悦二氏の見解を見てみよう︒木下氏は︑輸出超過利潤は一国の剰余価値額を増加させ︑これは一般的利
潤率を引き上げるが︑この超過利潤の本質をどのように捉えるべきか︑と問題を提出されてつぎのように解答してお
﹁これは一見瓊末なことのようにみえるが︑実は重大な理論問題を投げかけるのである︒元来︑一国の平均利潤率
は#搬聯胴同と表現できよう︒そこで平均利潤率が上昇するとすれば︑分母が一定とすれば総剰余価値が大きくなる
ことであり︑分子が一定とすれば総資本が小さくなることがある︒のちに述べる輸入貿易によっては総資本に変化な
− 4 2 −
しといえるのだから︑輸出貿易を通じての一国の平均利潤率上昇は一国の総剰余価値の増加によって起こったもので
あろう○そうだとすると︑貿易という流通過程において価値の増加が生じたこととなり︑価値は生産過程で創出され
るものであって︑流通過程で生まれるものではない︑という価値論の基本命題と矛盾しないだろうか︒いいかえれ
ば︑貿易により得られる追加価値額の本質をいかに捉えるべきか︒この問題には二とおりの解答が考えられるが︑そ
れは資本主義的世界市場に対する基本認識とかかわっている︒
一つの考え方は︑貿易による追加的利潤の本質は他国で創出された価値の無償移転Ⅱ価値収奪である︑とみるのであ
る︒国際的不等価交換とみるこの立場は︑先進国による後進国の収奪こそ資本主義貿易の基本特徴であると定式化され
ている︒この見解は歴史的事実の説明としては説得的で︑これに帝国主義による植民地収奪を重ね︑マルクス派の人々
の定説的世界市場観ができ上がっていた︒次章でも述べるように︑外国貿易による不等価交換の横行は覆うことので
きない事実である︒しかし︑上述の見解をもって資本主義の下で外国貿易の原理的姿態とするのはかえって外国貿易
の本質を見失うであろう︒後進国は貿易により一方的に窮乏化するというのでは︑外国貿易を行なわぬのがもっとも望
ましいということになろう︒また先進国間の輸出貿易からは追加的利潤は得られないという結論にもなりかねない︒
いま一つの見解は︑不等価交換という価値法則の侵害ではなく︑国際間の価値法則の作用にもとづいて形式的に平
等な国際交換が行なわれていても︑なお貿易を通じて追加的利潤は成立するという本書の立場である︒このような見
地では︑この追加的価値の本質を何に見出すのかを説明するのが重要な課題になるであろう︒
国際間の分業は︑社会的分業が一般的にそうであるように社会的労働節約の効果がある︒いま︑第314表によっ
て説明を試みようOA国の綿布をB国に輸出し︑B国での交換価値にしたがって小麦を手に入れたとする︒輸入商品
小麦の一単位はA国で生産すると社会的労働の五労働日を必要とした︒ところが一単位の綿布で3単位の小麦を手に
入れたのだから︑小麦一単位当たり型3労働日しか支出していない︒剛労働日だけ節約されたのである︒