「歴史」の中のマレー・イスラーム
多和田裕司Historical Development of Malay Islam
Hiroshi TAWADA
I.はじめに
本稿の目的は、近現代におけるマレー・イスラームの歴史的展開をあとづけること にある。別稿(多和田1991)においてすでに指摘したように、マレー・イスラーム とは、イスラームという普遍的規範とマレー(マレーシア)という特定の地理的、歴 史的状況における現実の社会的経験との相互作用の中にこそその姿を見ることのでき るものである。その中で、人々は絶対的に「正しいもの」としてのイスラームの規範 によって突き動かされ、それと同時に、特殊マレー(マレーシア)的な現実の経験を 解釈するために普遍的規範を操作し、それによってさらに新たな現実を構築していく のである1)。この一連の作業の中で、マレー・ムスリムにとって現実の経験として立 ちあらわれるのが、ひとっは、イスラームの理念とはときに相容れないような、昔か ら行われてきたものとしてのアダット(adat‑慣習)であり、いまひとっは、多民 族社会の中でのマレーという民族意識の覚醒である。
マレー・イスラームにおけるこの規範(イスラーム)と現実(アダットおよびマレー) との相互作用は、その歴史的展開の中でかならずLも常に一様であったというわけで はない。それぞれの時代の政治的、社会的状況の中で、規範と現実とのかかわり方の 違いによって、マレー・イスラームはさまざまな様相を呈してきたのである。
以下では、マレー(マレーシア)の近・現代史を、規範としてのイスラームのあり 方の相違に基づいて三つの段階に区分し、それぞれについて概観的に検討する。いう までもなく、ここでもちいた時代区分は歴史実証的に設定されたものではなく、おお よその目安として便宜的に区切られたものにすぎない。
Ⅱ.イスラーム改革運動の時代(1900‑1930)
1906年、シンガポールにおいて発行された雑誌『アル・イマーム(導師)』は、イ スラームについて「忘れた者に思い出させ、眠れる者を呼び覚まし、迷よえし者を導 き、叡知をもって語る者にその声を与える」 (ROFF 1974 [1967]: 56)ことを目的 としていた。第‑巻においてはっせられたこの宣言は、 14、 5世紀以来この地に根づ いてきたイスラームのあり方にたいする異議申し立てであり、同時に、無条件にそれ にしたがってきた人々にたいする変革の要求なのであった。 『アル・イマーム』 (第一 巻第二号)は述べる。 「過去の栄光からムスリムが衰退した根本的原因は、預言者の 口を通してはっせられた神の命を無視し、それにしたがうことをやめてしまったこと にある。」 (ABU BAKAR Hamzah1981 : 107)
『アル・イマーム』において中心的に活躍したのは、いずれもェジプトやメッカな どへの留学経験を持ち、当時その地で広まっていたイスラーム改革運動から強い影響 を受けて帰国した人々であった。たとえば、創刊者のひとりであるセイド・シェイク・
アル・‑ディは、カイロでイスラーム改革を唱えるシェイク・ム‑ンマド・アブドゥ フの弟子であったし、また初代編集主幹であるシェイク・ム‑ンマド・タヒール・ジャ ラルディンはカイロのアル・アズハル大学に学んでいた。さらにはこのようなっなが りから、『アル・イマーム』自体もアブドゥフがカイロで発行していた『アル・マナー ル(灯台)』誌からの記事を数多く転載していた。
『アル・イマーム』に続くように、この後約三十年にわたって、イスラーム改革派 の影響を受けた雑誌が数多く発行される。代表的なものとして、 『ネラチャ(天秤)』、
『ワルタ・マラヤ(マラヤ新聞)』、『アル・イフワ‑ン(同胞)』、『ソウダラ(同胞)』
などを挙げることができるが、これらはいずれも『アル・イマーム』と共通した目標 を掲げるものであった。さらに、アズハル大学等において『スルアン・アズハル(ア ズ‑ルの呼びかけ)』、 『スマンガット・イスラーム(イスラームの精神)』、『ピリ‑ン・
ティモール(東の選択)』などの雑誌が当地のマレー人留学生の手によって発行され ていたという事実は、これら改革派のよって立つ基盤と、彼らが唱えるイスラームの 普遍性をよく示すものであろう。
この時期にあらわれた一連のイスラーム改革派の人々は、一般にカウム・ムダ (KaumMuda‑若いグループ)と呼ばれている2)。これはスルタンを中心とした旧 来の秩序の中でマレーにおける伝統的なイスラームに固執するウラマー(イスラーム 法学者などの宗教的指導者層)などの人々にたいする呼称であるカウム・トゥア (KaumTua‑古いグループ)と対比されるもので、両者は、イスラーム教義解釈 についての姿勢から社会のあり方にいたるまで、さまざまな点で対立した考えを持っ
ていた。 『アル・イフワーン』に収められた次のような文章は、イスラームについて の両者の根本的な相違を端的にあらわしている。
「カウム・トゥアは、ウラマ‑の法律書のいっさいを、あるいはその中の一語一 語を、まるでそれらがクルアーンそのものであるごとくに信じることが義務であ
るかのようにふるまっている。・・・・・一方、カウム・ムダは、クルアーンと
‑ディ‑スのみがそれに値する権威を持っているのであり、ウラマ‑といえども 間違いを犯さないということはないのであるから、神は、ウラマ‑が述べること を検討するような理性と叡知を我々に与えてくださったのだと考えているのであ
る。」 (ROFF Ibid∴ 77‑78)
カウム・ムダにとってイスラームを純化することはたんなる目標であるばかりでは なく、社会変革への手段ともなるものなのであり、したがって、カウム・ムダの人々 は次のような大きくふたっの点からカウム・トゥアと対立していた。すなわち、彼ら は「原理主義者ないし純化論者として、伝統的イスラームに付着した慣習的、 『迷信 的』な部分を攻撃したのであり、近代化論者として、イスラーム的実践の合理的再定 式化を求めたのであった。」 (ROFFIbid.: 78)前者については、たとえば、死後の 世界でなにがあるかについて教えるタルキン(talkin‑教導)を死者を埋葬するさ いに唱えることが妥当であるか否か(マレー・イスラームの問では現在でも広く行わ れている慣行であるが、カウム・ムダの主張によればそれは誤ったものとされる)、
あるいは、礼拝や断食を行う前にもっとも重要なこととされるニーヤ(niya意図) を声に出さなければならないか心のうちに意図するだけでかまわないのか(カウム・
トゥアの主張によれば声に出さなければならず、カウム・ムダは心に思うだけでいい とした)といったことが、両者の争点として争われた。一方後者については、銀行や 協同組合の利子をイスラームが禁ずるリバー(riba‑高利)の禁止には当たらない ものとして認めようとしたり、女性にたいして教育や社会参加の機会を与えることな どが、カウム・ムダの人々の側から主張された。さらには、放蕩で自堕落な生活を送 り指導的役割を一向に果たすことのできない、王族や指導者層にたいする非難といっ たことも、社会変革を求めるカウム・ムダの人々からなされたのであった。
すなわち、カウム・ムダの運動とは、より普遍的なイスラームを信奉する人々によ る、アダットに象徴されるような特殊な性質を帯びたイスラームの純化を求める運動 であり、それと同時に、そのような特殊なイスラームを具現していたスルタンやウラ
マ‑からなる当時の宗教的ヒエラルキーへの挑戦であったということができよう。
これら一連のカウム・ムダの動きにたいしては、カウム・トゥアの側からも強い反
撃がなされた。一方でそれは、スルタンの許可なしにはイスラームにかんする書物を 発行してはならないといったり、あるいは公の場で許可なく宗教の教義について教え ることを禁ずるといったような法的な対抗措置であり、他方で、カウム・ムダの主張 にたいする自らの言論を通しての反論であった。たとえば、クランタン州の宗教およ びマレー慣習局によって発行された隔週雑誌『プガソ(教育者)』はカウム・ムダの 主張に反対する立場からの記事を数多く載せると同時に、カウム・ムダの運動にたい
して「非宗教的」であるとの非難をくわえていた。
1920年代から30年代にかけて、両者の対立はマラヤ全土におよび、ある同時代の 観察者によって、 「マレー人がカウム・ムダの教えについて論じたり議論したりしな いような村は、マラヤにおいてはほとんどなかった」 (‑ジ・アブドゥル・マジッド・
ザイヌディン『マラヤ万華鏡』 (1935))とまで形容されるような有様であった (ROFF Ibid. : 87)(
ところで、 『アル・イマーム』の発刊に始まるこれら一連の動きが、直接、間接に その後に引き続くマレー・ナショナリズムの糸口になったことはすでに多くの論者に よって指摘されている(ROFF Ibid, SOENARNO 1960, ZAINAL Abidin 1983),イギ リス植民地制度に組み込まれていく過程において、西洋的法制度や政治制度の中での
「宗教」という位置に落としめられたイスラームにたいして、それを本来の意味での イスラームに改革していこうとするカウム・ムダの主張は、アラブ世界における改革 運動と同様その根底において反西洋的、反帝国主義的なものであり、結果としてマレー 人の間に民族的覚醒を呼び覚ますことになった。しかしながらその一方で、マレー・
ナショナリズムの高まりに反比例するかのように、より普遍的なイスラームを目指す ものとしてのイスラーム改革の気運そのものは急速に衰えていく。
カウム・ムダ運動の衰退については、相互に絡み合ったさまざまな理由を挙げるこ とができる。たとえば上にも述べたような、カウム・トゥアの側からの徹底的な反撃 を受けたこともそのひとつである。マラヤ各地域におけるカウム・ムダにたいするさ まざまな「禁制」は、運動の制度的拡大にたいして大きな制限を課すものであったに 違いない。
しかしながらそれ以上に大きな理由として、カウム・ムダ運動に内在する「非マレー 的」な性格という点を見逃すわけにはいかない。 『アル・イマーム』の編者に代表さ れるようなカウム・ムダの中心に位置していた人々は、そのほとんどがアラブ世界と のつながりを持ち、アラブにおけるイスラーム改革運動からの強い影響を受けていた。
しかもこれらの人々の多くは非マレー系で(たとえばさきに紹介したセイド・シェイ ク・アル・ハディはマラッカで生まれたが父方がアラブ系、シェイク・ム‑ンマド・
タヒール・ジャラルディンは西スマトラの出身(AbuBAKARHamzahIbid.))、ア
ラビア語による教育を受け、シンガポールやペナンのような都市において活躍すると いう共通点を有していた。したがって、すでに聖俗両面にわたって伝統的なヒエラル キーに組み込まれていた大多数のマレーの人々にとって、しかもそのような「権威」
からの禁制という状況の中で、本来「都市的」、 「非マレー的」な性格を持つ運動にさ ほどの共感を抱かなかったであろうことも容易に想像される。さらに皮肉なことに、
カウム・ムダ運動によって触発されたマレー・ナショナリズムの後の担い手たちは、
(次節で見るように)民族意識の高揚の中でマレー的なるものと非マレー的なるもの とを明確に区別する方向へと進んでいく。すなわち、植民地支配下における中国系、
インド系人口の増大と、それにともなう経済的圧力という現実を前にして、マレーの ムスリムはマレー的なるもののみを強調する傾向を強めていったのである。その結果、
この時期にイスラーム改革派によって担われていた普遍的イスラ‑ムへの指向性は、
マレー・イスラームの中から一気に失われていくことになった。
Ⅲ. 「特殊化」されたイスラームの時代(1930‑1970)
カウム・ムダの運動によって指向されたイスラームの普遍性は、 1920年代の後半 からおおよそ四十年にわたり、相互に重なりあうふたっの方向へと反転していく。そ れは、イスラームを特殊マレー的なものへと還元するような方向であり、同時に、生 活のあらゆる部分を規定するものとしてのイスラームを、狭い意味での宗教的領域に 限定しようとする方向である。前者はマレー・イスラームがおかれた(植民地支配に おける西洋の存在をも含む)多民族社会という背景によるものであり、後者は聖俗の 分離という近代西洋的な思想からくるものであるが、ともにイギリスによる植民地支 配の中で醸成され、独立後̀も文字通り植民地の遺産として継承されたのであった。
1926年、 『アル・イマーム』が発行されたそのシンガポールで、マラヤにおいて
「明確な政治的目的を持ったはじめてのマレー人組織」 (ROFF Ibid. : 190)である、
シンガポールマレー人連盟(Kesatuan Melayu Singapura)が結成された。この時 期にいたるまで約半世紀にわたってシンガポールのムスリム社会をリードしていたの は、アラブ系、インド系の人々であったが、彼らは、その豊かさとイスラームにたい する知識や敬度さゆえに、ムスリム社会を代表するものとして認められていた。前節 で紹介したセイド・シェイク・アル・ハディなども、もちろんそのような者のひとり に数えられる人物である。
しかし第一次世界大戦後、このようなアラブ系主導のムスリム社会にたいして疑問 を呈する人々があらわれはじめた。その主体となったのが英語教育を受けた若い知識 人たちで、彼らは、アラブ系、インド系ムスリムにくらべて貧しい位置に置かれてい
たマレ‑系の人々を代弁する必要を感じていた。シンガポールマレー人連盟結成のた めの準備集会の中での次のような発言は、この当時のマレー人の意識をよく伝えてい る。 「問題なのは、我々マレー人が、我々の権利や我々の富を非マレー系のムスリム たちに譲り渡さないようにするために、政治や行政の中でなんらかの主導権を得るた めの組織を創るべきかということなのである。」 (ROFFIbid.: 191)さらに、アラブ 系、インド系にたいする反感の中で生まれたマレー人の「民族意識」は、中国系の存 在によってなお一層強められることになる。伸張しつつあった中国系住民の経済力や マレー系との対等な権利を求める主張が、マレー系の問に不安とさらには反発をもも たらしたのである(SOENARNO Ibid∴ ll‑12)。
このような時代の雰囲気の中で、マレーを強調するマレー系の意識は次のようなふ たっの動きにわかれていくことになった。
ひとつはシンガポールマレー人連盟を受け継ぐような流れである。 30年代にかけて、
パ‑ン、スランゴール、ヌグリ・スンビランといったマラヤの各地に、同様の傾向を 持ったマレー人連盟が結成されていった。その中心をなしたのは英語教育を受けた、
植民地官僚、医師、弁護士、教師等のマレー人知識人層であり、彼らはカウム・ムダ の人々とは正反対に、スルタンをはじめとする伝統的権威に自らのよりどころを兄い だしていた。 1939年、各地のマレー人連盟を結びっけるべく第一回の汎マラヤ会議 がクアラルンプールで開催されたが、この後第二次大戦をへてマラヤ独立へと向かう 動きの中で活躍したのは、この会議で中心的な役割を果たした人々であった。
いまひとつの流れは、 1938年のマラヤ青年連盟(Kesatuan Melayu Muda)結成 を介して、さらにはインドネシアとのマラヤ・インドネシア連合論へといたる動きで ある。この動きの中心となったのは、マレー語教育を受けた左翼的知識人たちで、
「すべてのマレー人が寄り集り、ひとつの国家とひとっの言語を持ったひとっの民族 として自らをみなすことができるようなインドネシア・ラヤ(大インドネシア)を理 想として掲げていた」 (CHEAHBoonKheng1988: 6)のである。しかしこの運動
は、結局はマレー人民衆の支持を得られず、日本の敗戦とともにその終止符をうつこ とになる。
このようにまったく対照的な結末を向かえることになったふたっの動きであるが、
しかしながら、彼らの抱いていた理念という点から見るならば、両者はかならずLも 相容れない性質のものではない。このふたっの流れはともに、マレー人のためのマラ ヤを目指していたという点では共通するものであり、いずれもこの地で勢力を増しつ つあった非マレー系の人々(西洋、アラブ、インド、中国)にたいしてマレーという 独自性を強調するような運動なのであった。これらの動きがイスラームにたいして具 体的にどのような見解を持っていたか、あるいはもっと一般的な問いとして、意味世
界としてのマレー・イスラームがこのときどのような相を呈していたかという点につ いては、残念ながら直接的に知ることはできない。しかしいずれの動きにおいても、
各地に点在する王国に帰属し、しかも微妙に異なるアダットにしたがって暮らすマレー 系の人々を結びっけるために中心的な役割を果たしたのはイスラームという共通性で
あり、この時期に確立されたマレー世界におけるマレーとイスラームの「同一化」は、
その後の歴史を通してさらに強まっていくことになる。
1946年、マラヤ独立を前に各民族の平等のもとでの独立を前提にしたイギリスに よる「マラヤ連合」案に反対するために、英語教育を受けたマレー系指導者層によっ て結成されたUMNO (統一マレー人国民組織)は、 「ヒドゥップ・ムラユ(Hidup Melayu‑マレー人よ永遠なれ)」というそのスローガンにも象徴されるように、そ
の当初から民族主義的な傾向を強く持っていた。彼らにとってまず第‑に考えられる べきは、土着の民としてのマレー系であり、 「そのマレー系の宗教としての」イスラー
ムであった。
一方このような民族主義的傾向は、 UMNOの世俗的姿勢を批判し、イスラーム国 家樹立を目指して結成されたPAS (汎マレーシア・イスラーム覚、当初はPMIP)
においても同様であった。たとえば50年代から60年代にかけて、 PASは、マレ一 系優先という方針を保持しつつも現実の政治運営の中で非マレー系との連携政策をと るUMNOにたいして、マレー系にたいする「裏切り行為」であると非難し続けたの であり、また、 1959年の選挙にさいしては、閣僚や各州の首席大臣といった政府の 主要ポストから非マレー系を排除するという公約すら掲げていた。
ところで、これまでに見てきたようなマレーとイスラームとの直接的な「同一化」
の進行とあいたずさえるように、本来は「生活方法」として人間活動のすべての領域 をおおうものであるはずのイスラームは、とくにイギリス植民地政策とのかかわりの 中で、徐々に「宗教」という語にあらわされるような狭い範囲に限定されるものにか わっていくことになった。たとえば、国家機構という点について見れば、伝統的マレー 王権において地上におけるアッラーの影と見なされていたスルタンの地位は、世俗的 権力をほとんど持たない、西洋的意味での宗教としてのイスラームという部分につい てのみ責任を負う存在へと限定され、あるいは教育制度を例にとれば、世俗的な学校 制度がポンドク(文字どおりには小屋を意味するが、より広い意味では宗教指導者を
中心にした伝統的宗教教育の場として知られる)による教育にとってかわったのであっ た。
法制度や教育制度に代表されるような、さまざまな分野での西洋的制度の確立によ る宗教的領域と世俗的領域との分離は、マラヤ独立を経てもほとんどかわることはな かった。独立後、 UMNO主導の政府においてイスラームには国教の地位が与えられ
たが(憲法第三条第一項)、しかしそれは、イスラーム国家という意味における国教 としての地位ではなく、マレー系優遇政策におけるマレー系の宗教の特権化をあらわ しているにすぎなかった。たとえば、初代の最高裁長官は憲法規定下におけるイスラー ムの役割について、国王の就任式や独立記念日などの正式の公的機会に、イスラーム に則った形での祈りが可能であるといったような、まず第‑に儀礼的な目的のもので あるとの解釈を示している(HUSSIN Mutalib1990 : 23)。これは人々の生活一般に ついても同様で、イスラームの教義が法としての有効性を持っ範囲は、ムスリムの、
しかも婚姻や相続の手続きといった領域にのみ限定されることになったのである。
マレー・イスラームにおけるマレ‑とイスラームの同一化、およびイスラームの限 定という二重の意味でのイスラームの「特殊化」は、 1969年の大規模な民族衝突(
5.13事件)を期ににその頂点を迎えることになる。事件直後の1970年、国家統合へ の指針として、神への信仰、国王と国家にたいする忠誠、憲法の擁護、法による支配、
良識的な行動と道徳という五項目からなるルク・ネガラ(国家原則)が発表され、そ れと同時に、憲法に規定されたスルタンの地位と特権、マレー人の特権、国教として のイスラーム、国語としてのマレー語等の事柄にかんする公の場での討論が禁じられ た。これはいうまでもなく多民族国家におけるマレー系の地位を強化することを目的 とするものであったが、マレー系はムスリムであり非マレー系はその大部分がムスリ ムではないという社会的状況下での、マレ一系優遇政策としてのイスラームの「保護」
は、マレーとイスラームとを直接に結びっける意識を、マレー系、非マレー系の双方 に刻みつけることになった。一方、イスラームという観点から見れば、信仰と国王や 法を、あるいは国教と国語とを同列に並べることは、とりもなおさず、すべての事柄 にたいする行動指針としてのイスラームというイスラーム本来のあり方とは矛盾する ものであり、この時点におけるイスラームはきわめて限定された意味でのイスラーム なのであった。
このイスラームの「特殊化」という傾向は、政府の文化政策の柱ともなるべき「国 民文化(national culture)」についての原則の中にも引き続き確認することができ
る。ルク・ネガラが発表された翌1971年、多民族社会における国家統合の基礎を築 くべく、文化・ユース・スポーツ省(当時)主催のもとに催された「国民文化」にか んする会議は、マレーシアの国民文化について次のような原則を採択した。すなわち、
(i)マレーシアの国民文化は地域に固有の人々の文化に基づくものであらねばなら ず、 (ii)他の文化の要素はそれがふさわしいものである場合にかぎって国民文化の 中に統合されることができ、さらに(u)イスラームが国民文化の中で重要な要素と なる、というものである。これを受けて文化・ユ‑ス・スポーツ省の中で文化局が拡 充され、ワヤン・クリット(影絵芝居)やマッ・ヨン(舞台劇)などの伝統的なマレー
文化にたいするさまざまな見直しがなされる一方で、政府主催のもとイスラームを主 題にしアッラーをはめたたえる詩の詠唱(nasyid)競技会が催されるなど、多彩な 文化事業が展開されることになった(TAN Sooi Beng1992 : 283‑285)。
しかしながら、ここで国民文化の基礎として強調されている「地域に固有の文化」
としてのマレー系の文化とイスラームとは、完全に重なるものではないばかりか、た とえばあきらかにヒンドゥー的な色彩を帯びたワヤン・クリットなどのように、とき には矛盾さえも示すような関係にある。したがって、それにもかかわらず国民文化の 基盤を構成するものとして両者がひとことの注釈もなく並べられ、そしてそれが受け 入れられたという事実は、すくなくともこの時期におけるマレ‑シアという文脈の中 ではマレーとイスラームとがなんら矛盾するものではないものとして認識されていた ということを物語るものであろう。しかも、ここでのイスラームに与えられた属性は、
本来の生活方法としてのイスラームなどではもちろんなく、国民文化を構成する「一 要素」としてのものにすぎなかったのである。
イスラームの普遍性を追求する運動が地域的な限定があったとはいえ花開いた先行 する時代にたいして、この時期におけるマレー・イスラームの特徴を要約すれば、そ れは、普遍的イスラームにたいするマレーという枠組からの囲い込みであり、それと 同時に、 「生活方法」であるべきイスラームの棲小化なのであった。
Ⅳ.イスラーム復興の時代(1970‑現代)
1970年代の後半から、マレー・イスラームの世界はふたたびイスラームを強調す る方向へと動き始める。服装や食事についての人々の意識といったものから国家政策 にまでいたる社会のさまざまな側面において、マレー(マレーシア)という状況の中 で「特殊化」したイスラームからいまいちど普遍的なイスラームに立ち戻ろうとする 動きがあらわれたのである。
普遍的イスラームへの回帰という動きは、この時代、まずダッワ(dakwah)運動 という形をとった3)。ダッワとは文字どおりには「招き入れること」を意味する言葉 であるが、マレーシアの文脈においてはムスリムをよりよいムスリムに変えていこう とするような運動や意識一般を指してもちいられる。たとえば、女性が顔と手以外を 完全に隠してしまうような服装を身につけたり、食物がハラール(イスラームによっ て認められているもの)であるか否かについてより慎重になったり、非イスラーム的、
反イスラーム的要素をともなうような慣習や行為(伝統的な婚姻儀礼、呪術、芸能、
あるいは西洋的なロックコンサートなど)を徹底的に拒絶したりというような、生活 のあらゆる局面においてイスラームにしたがおうとする運動であり、意識なのである。
ABIM, Al‑Arqam, Tabligh等、数々のダッワ組織が結成されたが、マレーシアに おけるダッワはそれら特定の組織による運動という範囲を越えて、マレー・ムスリム 全体を巻き込むような社会現象という様相を呈している。
個々のダッワ組織あるいはマレーシアのダッワ現象全般について当てはまることと して、ダッワ運動は都市部においてより盛んであり、しかも比較的高い教育を受けた 青年層を中心に支持されているという点を挙げることができる。ダッワ組織の中心を 担うのはいずれも国内外の大学で教育を受けた者であるし、イスラームについて相対 的に先鋭な姿勢を示しているのも都市部に住むホワイト・カラーを中心とした層なの である。
この時期にダッワ運動が高まった原因としては、大きく国外、国内のふたっの理由 を挙げることができる。まず前者については、 70年代から世界的規模で広まった西 洋近代思想にたいする「神の復讐」という言葉に象徴されるような諸現象からの影響 である。その中でもイスラームにかぎっていえば、イラン・イスラーム革命、メッカ の大モスク攻撃、サダト大統領暗殺、旧ソ連のアフガニスタン侵攻にたいする抵抗運 動などの世界史的出来事が、マレーシアを含めたイスラーム世界における復興運動に、
直接間接に大きな影響を及ぼすことになった。一方、後者の国内的理由として挙げら れるのは、 69年の民族衝突とそれを受けての新経済政策(NEP)の施行である4)。多 民族国家におけるマレー系の経済的地位の向上を目指して導入されたNEPは、産業 構造の転換や教育機会の提供などを通して、マレー系の人々を、地理的、社会的に、
あるいは精神的な面をも含めて、 「非マレー的(同時に都市的、西洋的なものでもあ る)な環境」へと導くことになったが、このような状況の中で、新たな環境にたいす る不安や不満、あるいは非マレー的なものとの接触機会の増大などが、結果として、
自らの拠り所としてのイスラームに回帰するという現象をもたらしたのである。
このようなマレ一系全般の間でのダッワ運動の高まりは、当然のことながらマレー シアの国政レベルにまで大きな影響を及ぼすことになった。与党野党を問わず、ダッ ワ運動の思想的影響を受けた青年層が、それぞれの政党における変革の担い手となっ ていったのである。まず野党のPASについて見れば5)、さきにも述べたように、 PAS はその当初からイスラーム国家建設を目標に掲げていたが、それ以上にマレー系の代 弁者であることを強力に唱える政党であった。たとえば、 50年代の終わりから60年 代のはじめにかけて党首を務めたブル‑ヌディン・アル・ヘルミの次のような言葉は、
この時期のPASの立場をよくあらわしている。 「PASも私も、その内容においても 性格においても指向性においても、イスラーム的こころざLを抱いたマレー・ナショ ナリストである。」 (CHANDRA Muzaffar1987: 9)しかしながら70年代の後半か らPASのこのような方向性は劇的にその姿を変えることになる。
1982年のPAS党大会において、かつてABIMのメンバーでもあったハディ・ア ワン、ファディル・ノール、ナカイエ・ア‑マッドらのPASの若手グループは、と きの党首モ‑マッド・アスリを辞任に追込み、よりイスラーム的な価値観を党に導入 しようと試みた。ウラマ一による協議会を発足させ党の政策決定にさいしての重要な 位置を与えるとともに、イスラーム国家の実現に向けてのチェラマ‑ (ceramah‑
宗教討論集会)を全国規模で展開したのであった。そこではUMNOの世俗的姿勢が カーフィル(kafir‑無信仰者)として非難され、一方、非ムスリムにたいしては、
イスラーム国家のもとでの民族間の平等といった理念が説明された。
ところで、かつてのPASとダッワ以降現在にいたるPASとの決定的な違いは、
後者が普遍的なイスラームを指向する中で、前者において中心的な課題であったマレー・
ナショナリズムを完全に否定したことにある。すなわち、なんらかの集団に固執する 運動としてのナショナリズムは、イスラーム的観点から見ればムスリム共同体(ウン
マ)という理念を否定するものであり、さらに民族や国家への忠誠は、本来アッラー のみに向けられるべき忠誠とは根本的に相容れないというのである。ダッワ運動以降 のPASが目指すものは、クルアーンとハディースのみに基づく真のイスラーム国家 であり、法、政治、経済、教育等のすべての活動がイスラームによって律せられる (逆にイスラーム以外のなにものによっても影響されない)ような社会なのである。
PASのこのような政策転換にたいして、与党UMNOの側も徐々にイスラーム的 な色彩を強めていく。 1982年9月、前年に首相の座に就いたマハティールはUMNO 党大会において次のような演説を行った。 「・ ・ ・今日我々は最大の戦いに直面して
いる。それは、マレー人の姿勢を、いまという時代においてイスラームが求めるもの に沿うような方向に変えていこうとする戦いである。 ・ ・ ・いまやUMNOの使命は、
イスラームの実践を高めていくことであり、マレー人社会が真にイスラームの教えを 信奉するような社会であることを確かなものにすることなのである。」 (MAUZY and Milne 1983/84 : 644)
この演説とあい前後するように、 UMNO主導のもとでさまざまなイスラーム政策 が実行される6)。例を挙げるならば、シャリーア法廷の地位の拡大、 ‑ラールではな い肉の輸入禁止、国際イスラーム大学の設立、テレビを通してのアザーンazan‑
一日五回の礼拝を報せる呼びかけ)や金曜礼拝の中継など、現実の制度的改革にかか わるものから象徴的な意味合いのものまで多岐にわたっているが、これらはいずれも イスラームを政策の中に具体化することを目指すものであった。これら一連のイスラー ム政策の中でももっとも注目すべきものは、いうまでもなくイスラーム銀行の設立で ある。これは現在の世俗的金融システムに対抗するような、イスラームに則った金融 システムの確立を目的とするものであり、社会システムそのものをイスラ‑ム化する
最初の実験として位置づけられるのである。
UMNOの、あるいはマハティールのイスラーム化政策は、その政治的な側面にの み注目すれば、直接的にはイスラームをたてにUMNOを批判するPASへの対抗策 としてのものであろうし、あるいは、より間接的な理由としては、従来各州のスルタ ンの管轄下にあったイスラームを中央政府に集中して「管理」することによって、ス ルタンに代表される旧勢力の封じこめをはかるものであるとも考えることができよ う7)。しかし、イスラームという観点に着目すれば、ダッワ運動の代表的指導者であっ たABIMのアヌワー・イプラヒム(現副総理・蔵相)のUMNOへの入党とマハティー ル政権への入閣(1982年)、それに引き続いての(ダッワ運動の影響を受けた者の多 い) UMNO青年部の発言力の強化、その上に立ったマハティールの政策という「構 造」の中に見てとれるように、 UMNOのイスラーム化政策は、まさにダッワ運動か
らの直接的な影響を受けたものだったのである。
上に紹介した個々のダッワ組織、あるいはPASやUMNOが抱くイスラームのあ り方についての見解はかならずLも一致するものではない。たとえば、 1990年の総 選挙以来クランタン州の政権を担うPASによって計画されている同州へのフドゥ‑
ド法(hudud:クルアーンの中で定められた刑法で、姦通、飲酒、窃盗などの罪にた いして、鞭打ちや手足の切断等の処罰規定がある)導入をめぐってのPASと中央政 府との対立や、 1994年8月、ダッワ組織のひとつであるALArqamが非合法化され たことなどにあらわれているように、それぞれの立場からのイスラームにたいする主 導権をめぐる争いが存在する。しかしながら、これらの相違を越えたところで、彼ら やそれを取り巻く多数のマレー・ムスリムが共通に主張しているのは、西洋的、世俗 的な生き方にたいする異議申し立てであり、それにかわるものとしての普遍的なイス ラーム精神の具体化なのである。 70年代以降のマレーシアを特徴づけるものは、ま さにここで述べてきたようなあらゆる領域における「イスラーミック・ターン」には かならず、そしてそれは現在においても依然として続いているのである。
V.おわりに
以上検討してきたように、マレー・イスラームは時代によってその姿を大きくかえ てきた。それは、教義的には普遍的存在であるはずのイスラームが、自らが置かれた 歴史の中に貝現した個別の姿であるということができる。
イスラームを対象とする人類学にとってまず第‑の課題となるのは、イスラームの 教義的普遍が、現実の世界の中でいかなる個別的様相を呈しているのかをあさらかに することであり、さらには、そのような様相が形づくられるさいに働くプロセスを個々
の社会における実践の中に解明することである。本稿において試みられたのは、この ような課題のマレー・イスラームをめぐる歴史へのささやかな応用であり、その作業 を通して「同時代的」寛象としての民族誌的事例を検討するための背景を得ることで あった。イスラームの「振子」は、通時的に振れるだけではなく、共時性の平面の上 をも揺れ続けているのである。
註
1)筆者は、マレー村落社会において観察された、イスラーム復興の動きに含まれるような民 族誌的事例について、イスラームという普遍的規範とマレー(マレーシア)の政治状況と
いう経験的現実との相互作用という観点からの分析を試みたことがある(多和田1993)。
2)カウム・ムダ、およびカウム・ムダ、カウム・トゥア論争の詳細については、 Roff1974 [1967]を参照。
3)イスラーム復興運動についての代表的研究としては、 Nagata 1984, Chandra Muzaffar 1987, Zainah Anwar 1987などがある。
4)新経済政策(NEP)はマレー系の経済的地位向上を目指して1971年から導入されたもので、
マレーシアにおける貧困の解消と民族別産業構成の再編を目棟とする。
5) PASの歴史、政策等については、 Alias Mohamed 1994を参照。
6) UMNOおよびマ‑ティールの政策については次のものを参照。 Mauzy and Milne 1983 /84, Hussin Mutalib 1990, Means 1991。
7)マ‑ティールとスルタン勢力との近年の政治的対立の背景については、多和田1992を参 照。
参考文献