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刹那滅と常住説批判 ―『顕揚聖教論』「成無常品」を中心に―

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刹那滅と常住説批判 

―『顕揚聖教論』「成無常品」を中心に―

早  島

 『顕揚聖教論』(以下『顕揚論』*)第四章「成無常品」は無常の義を考察するにあたり次 のように論を説き始める。

[1]復た次に先に説く所の如く,若し正しく遍知等の功徳を修行せんと欲するは,謂  く苦等を遍知するなり。

  出品が苦を遍訳するや。妬く,苦諦に於て無常・苦・無我を二丁するなり。今は次  第に随いて応に易く成立すべし。

  此の中無常を成立すとは,謂く,応に無常の髄性及び無常の差別を顕示すべし。

       (547c−548a)

 このように四聖諦の出島を観察・修習する際の,具体的な実践内容として「無常・苦・

空・無我を遍知する」プロセスのなかで「無常」の修習が語られているのである。ちなみ に「無常」に続く「苦」の考察は「成苦品 第五」で,「空」の考察は「成空品 第六」

で,「無我」の考察は同じく「成二品 第六」(人無我)と「成無性品 第七」(法無我)で なされるという。さてその無常を考察する「成無常品」の内容を鳥轍するために先ずこの

「成無常品 第四」のシノプシスを見てみよう。ω(次頁掲載)

 このシノプシスからも窺えるように,様々な論点から無常を考察する「成無常品」の構 成は以下のように概略されよう。

 ①まず無常の自体と区別(六種無常と八種無常)が説かれる。

 ②これら種々に説かれる無常の理解を根底から支えているのは三性説の理論である。

 ③無常の立証はa)刹那滅論とb)常住法の否定とから成り立っている。

 ④常住という誤った理解の原因と無常の諦得とが最後に説かれる。

 このようにこの章の無常説の展開を把握するとき,「成無常品」が無常を論証する重点は

「3 刹那滅」と「4 外道の邪分別の打破」(数字はシノプシスの番号)に置かれている ことが理解されよう。前者は無常とは刹那滅であることを積極的に立証するものであり,

後者は仏教の無常説に対抗して仏教以外の諸学派が主張する常住な法(我・自在・自性・

極微・畳など)の存在を逐一批判・否定するものである。いわゆる「破邪顕正」からすれ ぽ刹那滅論が顕正に,常住な法の否定が破邪に対応することは云うまでもない。このよう に刹那滅論と常住法の否定とは,「成無常品」ではいわば車の両輪のように両者相侯って無 常を論証するものである。この刹那滅論と常住法の否定との検証を中心に「成無常品」に 説かれる無常説の考察を試みるのがこの小論の意図するところである。後代の仏教論理学

(2)

成無常品 シノプシス

序苦言に於ける無常の旧知(547c−548a)

1 無常の髄性及び無常の差別  (ka.1,548a)

 1−1 無常の髄性  (548a)

 1−2 無常の差別  (ka.2,548a)

 1−2−1 六種無常  (548a)

 1−2−2 八種無常  (548a)

 1−2−1−1 無性無常  (548a)

 1−2−3 変異無常十五種と八三  (kas.3・4,548a−b/548b℃)

 1−2−3−1 十五種変異無常  (kas.3・4,548a−b)

 1−2−3−2  ノ\縁   (548b−c)

 1−2−4 無常の義; 八種無常と三界  1548c)

 1−3 三相所摂; 六種無常と三性説  (ka.5,548c)

2 無常と苦 (ka.6,548c)

3 刹那滅  (ka.7,548c)

 3−1 刹那滅の理由一(1)諸行は心の果である (ka.8,548c−549a)

 3−2 刹那滅の理由一(2)諸行は自然に壊滅する (ka.9,549a)

 3−2−1 諸行は任運に壊滅する (ka.10,549a)

 3−2−2 滅相を油点とする過 (ka.11,549a−b)

 3−3 刹那滅の理由一(3)後の変異  (ka.12,549b)

4 外道の邪分別を打破す  (549b)

 4−1 我の常住性の否定 (ka.13,549b・c)

 4−2 自在の常住性の否定 (ka.14,549c)

 4−3 自性の常住性の否定  (kas.15・16,549c−550a)

 4−4 極微の常住性の否定 (ka.17,550a−b)

 4−5 覧の常住性の否定  (ka.18,550b)

5 無常に対する無智 (kas.19・20,550b−c)

 5−1 四車專倒  (ka.19,550b)

 5−2 無常に対する無智の七因 (ka.20,550b−c)

 5−3 常住に妄執する二丁 (ka.21,550c)

6 刹那と三有為相  (ka.22ab,550c)

7 無常性の証得  (kas.22cd〜24ab,550c−551a)

 7−1 無常性の如実智に入る二因 (ka.22cd,550c)

 7−2 無常性を見る六智と四種の縁起  (ka.23ab,550c−551a)

 7−2−1 六種の智  (550c−551a)

 7−2−2 縁起についての四種道理  (kas.23cd・24ab,551a)

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刹那滅と常住説批判一『顕揚聖教論』「成無常品」を中心に一(早島)

17

派に見られる「刹那滅論証と恒常性批判」どの関連性に解明の糸口を提供することができ

れば幸いである(2)。

 なお『顕揚論』や『大乗荘厳経論』(以下『荘厳経論』),『中辺分別論』など初期の下穿 行唯識学派における無常と刹那滅の理論が三性説を基盤に展開されていることはすでに検 証したことでもあり,ここでの再論は避けたい(3)。ただし以下の論述における喩伽行学派の 刹那滅尽がその根底を三性説によって支えられていることは云うまでもない。

先ず刹那滅論の考察から始めよう。「成無常品」ka.7は次のように説く。

[2]前に刹那無常の一切に遍行ずるを説く。此の無常義は世間の現証するに非ざるが  故に応に成立すべし。頗に曰く。

    彼は心の果なるに由るが故に,生じ已りて自然に滅す〔るが故に〕,

    後の変異は可得な〔るが故に〕,念念に滅するを応に知るべし。   (ka.7)

  論じて曰く,(1)彼の一切行は是れ心の果なるが故に,(2)其の性綾に生じ滅の因縁を  離れて自然に滅壊す〔るが故に〕,(3)又復後時に変異は可得な〔るが故に〕,當に諸行は  皆刹那滅なるを知るべし。      (548c)

 「一切行」,二二なるものは例外なく刹那滅であることを「成無常品」は三種の証因をもっ て論証する。すなわち有爲なるものはすべて(1)心を原因とし,その結果であるから,(2)生 じるやいなや原因を待たずして自ら消滅するから,(3)時間の経過につれて変化しているこ とが認識されるからであると云う,そして各々の証因について第一のそれにはka.8を,第 二のそれにはkas.9−11を,第三のそれにはka.12をもって詳説するのである。

 各々の証因を検討する前に,我々はこの刹那両論が「刹那無常」として位置づけられて いることに留意しなければならない。「成無常品」は「無常の区別」のうち「八種無常」に ついて次のように説く。

[3]八種の無常とは,一に刹那門,二に相続門,三に病門,四に老門,五に死門,六  に心門,七に器門,八に受用門なり。此の中,刹那・相続の二種の無常は一切庭に遍  す。病等の三無常は内色に在す。心無常は唯名に在す。器・受用の二無常は外物に在  す。       (548a)

 この八種の無常のうち「一切庭に遍す」るのは刹那無常と相続無常とである。前者は文 字どおり刹那ごとに生・滅を繰り返すという意味での無常である。他方ある一定の期間存 続して最後に消滅するという意味のが後者である。このように有生なるものについて二種 の無常を説くのは『顕揚論』のみならず,『清浄道論』,『大智度論』などに散見されること は既に論じた如くである(4)。そこに共通しているのは心・心学などは刹那無常であり,それ 以外のものは一定の期間存続して最終的に消滅するという意味で相続無常であるという考 えである。あるいは現在のわれわれの一般的な理解では,この相続無常の意味をもって無 意識のうちに無常を理解しているとも云えよう。

(4)

 さて『顕揚論』はこの二種の無常を並立的に認めていたわけでは決してない。先に引用 したように([2])「成無常品」は刹那滅論提示の意図を説明して「前に刹那無常の一切を 遍行ずるを説く。此の無常義は世間の現証するに非ざるが故に応に成立すべし。」と云う。

上記引用[3]の如く有為なるものすべてに妥当するとされる二種の無常のうち,相続無常 は世間一般においても承認されている。しかし無常の本来の意味は刹那無常であって,そ れは世間では承認されていない。それを立証するために以下に刹那二二を展開すると云う のである。つまり世間に流布している相続無常という常識的な無常観を批判・否定し,無 常の本来の意味を提示するために刹那滅が説かれるのである。ここで批判・否定の対象に

      

なっているのが「常住」説ではなく相続「無常」説であることに留意しておきたい。

 その刹那滅の第一の理由「諸行は心の果である」を見てみよう。

[4]云何が応に知るべし,諸行は是れ心の果なるを。頒に曰く。

    心の薫習が増上し,定んで転変し,自在により影像生ず[と云う]は道理なり。

    及び三種の聖教あり。       (ka.8)

  論じて曰く,道理及び聖教に由り諸行は回れ心の果性なるを証知す。

  道理とは,謂く,(1)善・不善の方は心に薫習す。心の習気の増上力に由るが故に諸 行は生じるを得。(2)又,定んで障を脱し心は清心なりとは,一切の諸行は心に随て転  変ず。彼の意解の自在力に由るが故に種々に転変す。(3)又,定心の自在力に由るが故  に其の意欲に随て定心の境界に影像の生ず。是を道理と名づく。

  聖教とは,謂く,三種の二言なり。経中に説くが如し,「心は世間を将引す」,「心の 力が防御するところである」,「心の随て生起し已り自在に気随轄す」。又説く,「是の  故に芯蕩よ,応に善く正道理の如く心の観察を専精すべし」,乃至広出す。又説く,「芯 葛よ,當に知るべし,城主とは即ち是一切有にして識薔を取るを言う」。是を聖教と名

 つく。      (548c−549a)

 「成無常品」は「諸行は心の果である」ことを理証(yukti)と三下(agama)との両面 から説明する。先ず理工としては(1)有為の存在はすべて心の習気から生じたものであるか ら,したがって(2)楡伽行者の場合は清浄な心に従って二二なるものが生じるからであり,

(3)三昧に入った人の場合には心のままに世界が生じるからと云う。この主張を支える経回 が続いて引用されている。

 同様な説明はたとえば『荘厳経論』第XVIII章kas.82・83や、4砺4乃α7初αsα〃zπ60のα B肱夢。(以下ASBh)Satyavini§caya章§56などにおいても展開される。それらを見てみ

よう。

 先ず『荘厳経論』であるが,同論書は第XVIII章kas.82−91で「諸行無常」を「諸行刹 那滅」として論じている(5)。その基本理論はkas.82・83において「十五義」(波羅二二多羅 Prabhakaramitra訳,646b)として次のように提示されている

[5](1)[刹那滅ということなくしては諸行が連続して生起することは]不合理である

 から。 (ayogat)

  (2)[諸行が時間を異にして連続して存在するのは,諸行が]原因から生じるから。

(5)

刹那滅と常住説批判一『顕i陽聖教論』「成無常品」を中心に一(早島) 19

(hetutas upapattes)

 (3)[生起は滅蓋とはコ矛盾するから。(virodhat)

 (4)[時間を異にして連続して存在する諸行は]自ら存続しないから。(svayam asth−

ites)

 (5)[消滅の原因は]存在しないから。(abhavat)

 ⑥[『諸行は無常である』と世尊がお説きになったこの諸行についての]定義が決定 的であるから。(lak§agaikantyat)

 (7)[これこそそれである,との認識は存在する。類似のものが]次々と生じるから。

(anuvrttes)

    

 (8)[最後に諸行は]消滅するから。(nirodhatas)

       (以上ka.82)

 (9>[最後.には]変異が認められるから。(pari頒mOpalabdheS)

 (10)[諸行はすべて刹那滅の心のコ原因であり,

 (11)[刹那滅の心の]結果であるから。(taddhetutva−phalatvatas)

 ⑰[心こそが諸行を]掌握し,

 (13)支配的であるから。(upattatvadhipatyat)

 α4)[諸行は喩伽行者の]清浄[な心]に従って生じ,

 (15)[諸行は]衆生[の心]に従って生じるから。(§uddha−satvanu町ttitas)

       (以上ka.83)

この十五義のうち「成無常品」の「諸行は心の果である」に該当するのは(1①・qDtad−

dhetutva−phalatvatasである。『荘厳経論』の(1①「有爲なるものは心の原因である」と(1D「有 為なるものは心の結果である」とを『顕揚論』は一つに要約し,後者を強調しているとみ なすことができよう。その「tad−dhetutva−phalatvatas」は次のように説かれている(6)。

[6] それでは何に基づいて[刹那滅が]成立するのか。それの原因と結果とに基づい  てである。すなわち(10)刹那滅の原因に基づいてと,(11)刹那滅の結果に基づいてとであ  るという意味である。

  ⑩何となれば「心は刹那滅である」ということがすでに承認されている。[そして]

 この[心]にとって,[心とは]別な眼・色聴の有為なるものは原因である。それゆえ  これら[三門なるもの]もまた刹那滅であると認められるのである。しかし[逆に]

非刹那滅に基づいて刹那滅であることはありえない。たとえぼ常住に基づいて無常が  [ありえない]如くである。

  α1)さらに有爲なるものはすべて実に心の結果である。このことは如何様に承認され  るのか。q2)執受されることに基づいて,(13)支配的であるから,(14)[有爲なるものは]

清浄[な心]につきしたがうことから,及び⑮衆生[の心]につき従うことからであ  る。       (『荘厳経論』pp.150−151)

このように「有爲なるものはすべて心の結果である」が『荘厳経論』においては以下の

(6)

(12)一q5)にて詳説されると云うのである。この(12)一(15)の理論が上記『顕揚論』「成無常品」ka.

8の三種の理証に対応することは云うまでもない。このq2)一⑮を次に引用する。

[7]q2)眼などの有爲なるものはすべて,心により[その]拠り所が保たれ,[心と]一 心同体となって執受される。この[心に]応じたものが(anugraha)[心に]付き従う  からである。それ故にこれら[有爲なるもの]は心の結果なのである。

  ⑬さらに有爲なるものを心が支配するのである。例えば世尊は次のように説かれて  いる。「この世界は心により導かれ,心により引率される。次次に生じる心の支配のう  ちに[世界は]存続するのである」と。同様に「識を縁として名誉がある」と[説か  れている如くである]。それ故に[これら有平なるものは]心の結果なのである。

 (1のさらに[有爲なるものは]清浮な心にしたがって生じるからである。何となれば,

二三なるものは喩伽行者の清浄な心に従って生じるのである。次のように説かれてい る如くである。「禅定に入り,神足をそなえ,心を制御することに到達した比丘は,た

とえぼ,この木片の集まりが黄金であると堅く信ずれば,その[木片]でさえもまさ にそのようになるであろう」と。それ故にまた有爲なるものは心の結果なのである。

 (15)さらに[有爲なるものは]衆生に従って生じるからである。すなわち悪行を積ん だ衆生にとっては外界の諸存在はつまらぬものである。他方,山行を積んだ衆生にとっ ては[その同じ外界の諸存在は]麗しいものである。それ故にこの[有爲なる」もの は[衆生の]心に従って生じて来るのであるから,二二なるものは心の結果であるこ

とが成立するのである。       (『荘厳経論』p.151)

 このように有爲なるものは心の結果であることが『荘厳経論』において種々に論証され ているが,ASBhにおいても同様な議論を我々は見ることができる。周知のように同論書 はSatyavini§caya章§56において8項目からなる刹那滅論を展開する(7)。そのうち心は原 因で有爲なるものはその結果であることを論じるのは主として第5項目である。

[8]心を支配者として生じることに依拠してである。何となれば内外すべての色は心  を支配者と.して生じる。それゆえ原因(心)が刹那滅であるから結果(色)も刹那滅 であると理解すべきである。「色が生じる際の因や縁,それらもまた無常なるものであ  る。実に無常なる因や縁にもとづいて生じた色がどうして常住でありえようか。」とい  う経典の言葉に従って[理解すべき]である。      (ASBh p.52)

 ASBhが「内外すべての色 sarva卑hy adhyatmika−bahyalp rOpam」と云うとき,そ れは『顕揚論』や『荘厳経論』における「有爲なるものすべて」と同義である。したがっ て少なくともこれら三論書は「有爲なるものは心の果であるから刹那滅である」という刹 那滅論を共有していることが理解されよう。

 これらに共通している理論を要約すれば(1)心・心所は刹那滅である。(2)その刹那滅であ る心・心所を原因として,下階なるものが結果として生じてくる。(3源因が刹那滅であれ

(7)

刹那滅と常住説批判一『顕揚聖教論』「成無常品」を中心に一(早島)

21

ばそれから生じた結果も刹那滅である。(4)野望行唯識学派においては心・心所から生じた 以外の如何なる有爲の存在も認められない。(5)それ故,里下なるものはすべて刹那滅であ る,ということになろう。・

 この第一の刹那三論の特色は有爲なるものすべて,すなわち存在するものはすべて刹那 滅であることを積極的に立証することにある。しかもそれが,後代の三論書に見られるよ

うな「存在性による刹那滅論証式sattvanumana」などの論理的必然性(遍充関係 vyapti)に基づくのではなく,もっぱら心と丁令なるものとの因果関係に依拠して有爲なる

ものすべての刹那滅を論証する点にこの学派の独自性が窺えるのである(8)。

 さて,「成無常門」における刹那滅の第二の理由は「有爲なるものは生じるやいなや原因 を待たずして自ら消滅するから」である。ka.9は次のように説く。

[9] 問う,彼の諸行の自然に滅壊する道理は云何が鷹に知るべし。答う,四種の因縁  に由る。頗に曰く,

    生因に相違するが故に,住・滅の両因無し。自然に住するは常の過なり。當に     知るべし,任運に滅するを。      (ka.9)

  論じて曰く,(1)彼の二二は能く諸行を滅するには非ず。生・滅の両種は互いに相違  するが故に。(2)また,住因は諸行をして住せしむること無し。若し必ず有らば鷹に常 住と成るべし。(3)行既に住さず,何ぞ滅の因を用いんや。(4)又余の滅因の性は不可得  なり。若し行の生じ已りて自然に住さば,高論に常に則ち住して大過と成るべし。是  の如く住・滅の因有ること及び自然に住することは並べて過有るが故なり。 (549a)

 「諸行の自然に滅壊する道理」とは「有爲なるものの消滅には原因を必要としない」とい うことである。それをここka.9では先ず生・住・滅の三有爲相の視点から考察する。アビ ダルマの諸論書に見られるような,ものが消滅するのに実体的に認められる原因を必要と するという考えを退け,生因は滅因ではないこと,住因および滅因は存在しないこと,別 な滅因も認められないこと,したがって滅因を認める必要性はありえず二二なるものは「任 運に滅する」ことになる。

 続くka.10はこの「任運に滅する」ことを有爲なるものの質的な要因である四大種の視点 から論じて水・火・風が滅因ではないことを論証し(9),次のka.11は能滅の相と所滅の法と の関係から滅相を滅の因とする過失を説く。いずれも滅そのものが,あるいは滅の因が実 在しないことを論じるものである。以下両偶頒と注釈を引用する。

[10]當に知るべし,諸行は任運に壊滅するを。頒に曰く,

   水・火・風は滅には非ず,倶に起・滅するを以ての故に。彼の相等して滅し已     るは余の変異の生因なり。    1       (ka.10)

  論じて曰く,若し水・火・風は是れ滅の因ならぼ道理に鷹ぜず,倶に生・滅するに 由るが故に。若し彼の水等は是れ滅の因ならば欄・焼・燥の物の,前の相続が滅し已  りて復た変異相続して生じるには鷹ぜず。何を以ての故に。即ち無艦の因が有髄の因  と為るは理に鷹ぜず。然らば水・火・風が下等の物と相鷹して滅する時は能く彼の物

(8)

の後に変じる生因と為る。此の功能を除き二等は彼において更に余力無し。(549a)

[11] 復次に若し滅相を滅因と為すと執さば,此れ能滅の相と所滅の法とは倶時に有る  と為すや,不倶と為すや。若し爾らば何の過あるや。頗に曰く,

    相違と相続の断あり,二相及び無相と成る。世間の現見に違い,法及び余丁無     し。       (ka.11)

  論じて曰く,彼の能滅の相と所滅の法と若し倶有と言わば,道理に鷹ぜず。相違の 過有るが故に。若し不倶と言わば,亦理に鷹ぜず。彼の相続断ずとの過失有るが故に。

  又此の滅因は能義の法ならば,艦は回れ滅と為すや,髄は非滅と為すや。若し髄は 乱れ滅ならば即ち鷹に一法に二の滅相有るべし。若し艦は二二ならば鷹に滅相無かる  べし。是の如き過有るが故に理に鷹ぜず。

  又世間の二見の相と違うが故に鷹に滅は是れ二二の因と執すべからず。何を以ての 故に。世間は共に余の有髄の法を是れ二二の因なりと見るも,滅法は是れ滅因なりと  は見ず。

  又若し滅法是れ二三なちば,唯滅有りて即ち能く滅法と為すや,更に余事を待つと  為すや。

  此の焔焔の因は倶に過失有り。若し唯滅有りて即ち遠山の法ならぼ,若し時に滅有  らば爾の時法膣畢濡して鷹に無かるべし。若し更に余事を出たば,鷹に即ち余事は滅  壊の因と為るべし。慮に滅壊を計りて油鼠の因と為すべからず。     (549ab)

 このように有蓋なるものが消滅するに消滅の原因を必要とせず,みずから刹那ごとに消 滅し変化するという刹那滅論は,『倶舎論』などの諸論書に展開され,「滅無因説」と称さ れることは周知の如くである。さらにこの「滅無因説」を根幹に例えば距吻αsα解g鵤加 ka.353などが次のような「滅性による刹那滅論証式vina§itva−anumana」を提示している

こともよく知られている(10)。

     主張  有爲なるものはすべて刹那滅である。

     理由  他の原因に依存せずに消滅するから。

 ここ「成無常品」において厳密な推論式が用いられているわけではないが,「滅無因説」

に基づく刹那滅論を展開していることは言を待たない。このことは刹那滅の第一理由「有 爲なるものは心の果であるから」と同様『荘厳経論』(上記「十五義」中第五,上掲[5]参 照)やASBh(第8項目)にも以下のように説かれている(11)。

[12] 〈反論〉

  あるいはまた[対論者は]次のように反論するかもしれない。[存続のための[特別  な]原因は無いとしても,消滅の原因が存在しないのだから[すでに生じた有爲なる  ものは刹那に滅するのでは無くて,時間を異にして]存続する。そして後になって消

滅の原因が得られた時に滅するのである。たとえば火によって[鉄の]黒さ[が消滅  して,鉄が赤くなる]如くである」と。

    主張  二二なるものは生じて[刹那に滅するのでは無く]存続する。

    理由  消滅の原因が存在しないから。

(9)

刹那滅と常住説批判一『顕揚聖教論』「成無常品」を中心に一(早島)

23

   特例  火により鉄が黒色から赤色に変化[し鉄の黒さが消滅]する如し。

 〈答論〉

 しかしこの[反論]は不合理である。その[消滅のための特別の原因]は存在しな いから。何となれば,後になっても如何なる消滅の原因も無いからである。さらに[例 えば,]火は[鉄の]黒さを消滅させ〔鉄の赤さを現わさせ]る,ということは成立し ない(認められない)。しかし,[一刹那前とは]非類似[の鉄の色]が生じた時に,

その[火の]効力は成立する。何となればその[火]と結合するごとにより,[鉄の]

黒さとは類似していない[赤色]が連続することは認められる。しかし如何なる場合 にも[鉄の黒さが再び]決して生起しないというのではない。[鉄の冷めたときにはま た黒さは認められる。]

 さらに,火と結合することにより,水も沸騰して徐々に少なくなって行き,極めて 小量となるから,最後に[沸騰してしまった水が再び]生じないことは認められるの である。しかし,火と結合したからといって直ちにその[沸騰した水]が非存在にな るのではない。       (『荘厳経論』p.150)

[13]生じたものは縁を待たずして自然に消滅することに依拠してである。[なんとなれ  ば]生じたものはすべて縁を待たずしてまったく自然に消滅する。それゆえ,生じる  のみのものは[消滅のための]別の因を待たずに必ず消滅し,後に存在することはな  い。如何なる区別も無いからである。したがってすべて生じるのみで[弱なくして]

滅するから[色は]消滅する。このゆえに[色の]刹那滅が立証されるのである。

       (ASBh p.53)

 これまで見てきた刹那滅の第二の理由は,いずれも滅が実体としては成立しないこと,

したがって有爲なるものは原因を必要とせず自然に消滅することを立証するものであった。

これはニヤーや学派などが主張するいわゆる「滅有因説」を批判・否定する仏教の「滅無 因説」であり,その意味で「滅性による刹那滅論証 vina§itvanumana」に相応することも 先に触れたとおりである。このようにいわゆる「古刹三二論」が,たとえ厳密な推論式を ともなっていないにせよ,『荘厳経論』や無著の著作とされる『顕揚論』など喩伽行学派の テキストに共通して展開されていることは注目に値しよう。

 さて,以上のように今一なるものの消滅する原因が存在しないとなれば,ものは消滅せ ずに永遠不変に存続し続けると云う過失に堕するのではないか,という反論が予想される が,これに対して刹那滅の第三の理由「後時に変異は可得なり」が論じられる。

[14]復次に云何が鷹に知るべし,後の変異の可得なるが故に諸法は刹那滅なるを。頒  に曰く,

    身・乳・林等は 先に変異有ること無きに非ず。

    亦始めに壊せずして 最後の時に方に滅するに非ず。       (ka.12)

  論じて曰く,一切世間の身・乳・林等の内外の諸法は最後の時に変異するを得べし。

是の故に先の時に髄に変異無きこと道理に鷹ぜず。

(10)

三訂の時に滅壊有ること無くして最後に方に滅するに非ず,因の異なること無きが

故に。

 是の如く先に変異せずは後に変わらざるが故に,・先に滅壊無くんば後に滅せざるが 故に,當に知るべし,諸行は念念に変じ滅するを。是の故に彼の法の刹那の義成ず。

       (549b)

 このように滅それ自体があるいは滅の因は実体としては存在しないからこそ,その最初 から変化し続けているのであり,最初に消滅がなければ後々までも変化消滅はありえない ごとになってしまうであろう。そうなれば反論者たちも認めている「相続無常」ですら成 立しなくなり,世間の常識にさえも反することになってしまうのである。したがって最終 的に変化が確認されるからこそ,有爲なるものは刹那刹那に変化し消滅することを繰り返 していることが承認されるのである。『顕揚論』のこの「二時に変異は可得なり」は刹那滅 の第一,第二の理由同様,『荘厳経論』(上記「十五義」中第九,上掲[5]参照)やASBh

(第7項目)にも以下のように説かれている(12)。

[15] さらに,[刹那滅の場合に,次々と生じる(随起する)類似したもの(A) に基づい て,そのもの(A)が認識される.のは]最終的に変異が認められるからである。実に変異  とは別な状態に変化することである。仮にまったく最初からこの[変異することが]

起こらなけれぼ,直なるものであれ外なるものであれ[有爲なるものが]最終的に変 異することが認められるはずは無いのである。[ところが実際には何であれ最終的にも  のが変異することは認められる。]それ故に,別な状態に変化することはかならず最初 から起こっているのであり,それが次第次第に増大して最終的に明瞭になるのである。

例えば,同じミルクが[次第に変異し,最終的に]ダヒの状態が[明瞭になる]如く である。しかしこの別な状態に変化する[し方]は極めて微妙であるから判別されず,

 [判別されない]限りは類似したものが次々と生じて来るから「これこそあれである  [,まったく変っていない]」と認識されることが成りたつのである。したがって刹那  ごとに別な状態に変化するから,刹那滅が成立するのである。 (『荘厳経論』や.150)

[16] さらに,最後に変化が認識されることに依拠してである。なんとなれば刹那ごと  に自体が変化することなくして,最後に色が突如として変化することは理に合わない。

 [しかも現に]この[変化]は認められるからである。それゆえ自己相続するものは 刹那ごとに変化し増大する因を有するから,最終的な色の変化からしで「色は刹那滅  である」ことが立証されるのである。       (ASBh p.53)

 刹那滅の第三の理由もまた『顕揚論』のみならず『荘厳経論』やASBhに共通の理解で あったことが承認されるであろう。

 以上のように「(1)彼の一切行は上れ心の果なるが故に」,「(2)其の性綾に生じ滅の因縁を 離れて自然に滅壊す」るから,「(3)又復三時に変異は可得」であるから,『顕揚論』「成無常 品」は「當に諸行は皆刹那滅なるを知るべし」と説くのであるく上出[2]参照)。刹那滅の 理由はこの三種で充分であると「成無常品」は考える。それゆえ三品はこの三種を論述し

(11)

刹那滅と常住説批判一『顕揚聖教論』「成無常品」を中心に一(早島)

25

た後で,「是の如く無常性を成立し已る」(549b)として刹那三論を締めくくるのである。

さ:らに『顕揚論』と『荘厳経論』やASBhとでは刹那滅を論じる際の,主題建立の仕方に 区別があるのは事実である(『顕揚論』は上記三種,『荘厳経論』は「十五義」,ASBhは八 項目)。にもかかわらず,『顕揚論』に展開される刹那滅の三種のテーマとその論証が他の 二論書に共通していること,したがってこれら初期の喩伽行学派のテキストが刹那滅に関

して共通の理解を有していることもまた確認されたのである。

 次に『顕揚論』「成無常品」に展開される常住法の批判の考察に移ろう。「成無常品」は 常住法に対する批判を次のような一文から始める。

[17]一切の外道に邪分別され計せられし我・自在・自性・極微・覚等の常住の法は皆  成立せず。      (549b)

 仏教以外の諸学派はたとえば自我,(atman)は,あるいは自在(1§vara),自性

(svabh蚕va),極微(param帥u),覚(buddhi)などの諸法は常住であると主張する。こ れら常住の法の批判・否定をとおして仏教の説く無常を論証するのがここでの主題である。

      

このように批判・否定の直接の対象はあくまで外道の主張する「常住法」である。このこ とは前章の「刹那滅論」が相続「無常」説を批判の対象としていたことと比較するときそ の差異が明らかとなろう。

 これら常住法の各々について,その主張内容,主張する学派の比定・確認,論駁内容な どなど研究課題は多くまた紙面に制約もあり,詳細は別稿に譲らねばならない。今は最初 の「自我(atman)」について多少なりとも考察を加えることにする。なお「極微(par−

amagu)」について筆者は既に論じたことがあり,必要に応じて参照されたい(13)。

 さて「成無常品」は「自我(atman)」について次のように論じている。

[18] 云何が我の常は成立するを得ざるや。頒に曰く,

   位・思・煩悩・分あり 常に非ず,変異の故に。

    此れ若し変異無くんば受・作・脱は理に非ず。       (kaユ3)

  論じて曰く,計せられし我には苦楽等の位,善悪等の思,貧瞑等の煩悩,時分の差 別有るに由りて,是の故に無常なり。所以は何ぞ。此の計せられし我は品等に由るが 故に。少しの変異有らぼ是れは常に鷹ぜず。若し都く変ぜずは鷹に受者・作者及び解 脱者と為すを計すべからず。彼の法に無我との別無きこと有るが故に。  (549b−c)

 〈常住説〉 他学派の対論者は次のように自我の常住性を主張する。自我(atman)は間 違いなく実在する1それが実在するからこそ何か行為を為したその同一人が苦楽などを経 験し,善悪などを思惟し,また煩悩などに束縛されたりそれから解脱したりすることが可 能となるのである。もし常住な自我(atman)が存在しなけれぼ,原因を為した者と結果を 見る者とのあいだに主体の同一性がありえない,から,享受者(bhokt;),行為者

(kartτ),解脱者(moktτ)などは存在しないことになり,これは不合理である。

(12)

 〈無常説〉 「成無常品」で仏教者は以下のように論駁する。もし自我(atman)が実在 するならば,それは常住なるがゆえに変化することはない。しかし現実に同一の人が苦悩 にロ申吟しまた安楽に憩う。時に善を思い時に悪事を企む。煩悩に苛まれた者が後に解脱す る。このようなことは我々が日常経験するところである。このようにほんの少しでも変化 があるならぼそれは常住ではないし,もしまったく変化がないならば,経験する者とか行 為者とか解脱する者になることはありえない。経験する者,行為者,解脱する者という自 我が存在しないならば我々の主張する無我と何等の区別もなくなるであろう。

 このような,原因としての実践修行と結果である解脱との関係などで要請される主体の 同一性という意味での自我(atman)の議論は,『顕揚論』に先行する『僧伽論』一周知 のように,『顕揚論』は『喩伽論』の「地中要」とされる  にも散見される。『喩伽論』

は「本地分中有門内伺等三斜」にて喘柁南を掲げて「十六種の異論」を陳述する(vol.6,

303b 以下参照)。その第四「呼野論」には種々の自我説とその批判否定が述べられている が,うち一つに次のような議論が展開される。

[19]今や次のことを議論すべきである。

   享受者(bhokt;),あるいは行為者(kartζ),あるいは解脱者(mokt誓)は,①対象   界から生じた苦楽により変化を受け,思惟により変化を受け,煩悩随煩悩により変化   を受けると汝は考えるのか。あるいは②変化を受けないと考えるのか。

   ①もし[享受者や行為者や解脱者は]変化を受けるといえば,それならば享受者や   行為者や解脱者は有爲なるもの他ならず,したがって自我は[有爲であるから]無常   となってしまい,不合理である。

   ②あるいは,もし[享受者や行為者や解脱者は]変化を受けないといえば,それな   らば享受者や行為者や解脱者である自我は無変化のものであり,[変化しないものが享   二者や行為者や解脱者へど変化することは]不合理である。

       (y∂g1房64名α1う」彪痴〃zゴpp.134−135)(14)

 先の『顕揚論』の議論[18]がこの『楡伽論』[19]をふまえていることは明かであろう。

これら楡伽行学派の論書に展開される自我説は,行為の主体と結果を享受する主体との,

因果関係における主体の同一性の議論である。ある学派は自我(atman)は享受者(bhoktζ)

ではあるが行為者(kartζ)ではないと主張する。別な学派は自我は享受者にして行為者で あると説く。これらの学派の比定は別の機会に譲る。いずれにせよこの自我(atman)を容 認しなければ主体の同一性は説明されない,と他学派の人々は論じるのである(15)。これに 対し,二二行学派の人々は自我(atman)を認めた場合の矛盾を明示し,無常であり変化が

あるからこそ享受者,行為者,解脱者がありうることを立証するのである。

 この主体の同一性をめぐる自我(atman)の議論は,後代仏教論理学派の恒常性批判に展 開される「論理的要請 arthapatti」を思い起こさせよう。上記御牧論は次のように云う。

「この議論(論理的要請arthapatti),では「恒常なる我」(sthiratman)が主張されてい る。つまり,ミーマーンサー学派は,たとえばこの世の中で因果関係の認識というものが 成り立つためには,原因を見る主体と結果を見る主体の同一性を考える以外にはありえな い,という形の論理的要請によって恒常なる我の存在を立証しようとしている。一方,仏

(13)

刹那滅と常住説批判一『顕揚聖教論』「成無常品」を中心に一(早島)

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三民は恒常なる我を考えなくとも「質量因とその結果の関係にある心の相続」を考えるだ けで因果関係の認識は説明しうると主張してミーマーンサー学派の立場を批判している。」

(同pp.226−227)

 ミーマーンサー学派が主張したとされる「論理的要請arthapatti」とここ喩伽行学派に展 開される因果関係における主体の同一性の議論とは,ほぼ同一内容を展開していると受け 止めることができよう。ただこの「論理的要請」に対する批判が,仏教論理学派にあって は「質量因とその結果の関係にある心の相続」からなされているのにたいし,喩伽行学派 のそれが「享受者(bhoktζ),行為者(kartζ),解脱者(mokt;)」が可能か否かの視点か らなされている点に差異が認められる。この両者の関連性をここで詳論する暇は遺憾なが ら筆者は持ち得ない。今後の課題として提示するにとどめる。

 自我(atman)以外の自在(i§vara),自性(svabhava),覚(buddhi)などの考察は別 稿に期せざるをえない。「成無常品」はこれら常住法批判に続いて,常住な法という根本的

に誤った理解が生起する原因の解明に移る。この小論も「成無常品」に適従しよう。

 「成無常品」が力説するように,有爲なるものは本来無常にして刹那滅であるにもかか わちず,ものは一定期間は存続して最終的に消滅するという「相続無常」の考えや,もの は常住であるとする執着は何故に生じてくるのであろうか。あるいはこのような理解が世 間一般に認知されているのは何故にであろうか。『顕揚論』は次のように説いている。

[20]何の因縁の故に世間の有情は無常性有るに,而も常住性に済して[常住性は]無  しと取らずに,種々面するや。頗に曰く,

    無常に於ける無智は 分轄倒を根本とす

    當に知るべし,世の上進は 愚擬の力を韓じ増す        (ka.19)

   論じて曰く,無常に於ける無智起るを以ての故に,実に無常有るに而も執して実  の無常性を取らずに,種々に執生ず。唯常に倒して無智を因と為すに非ず。然りて四 韓倒は皆無智を以て其の根本と為す。何を以ての故に。無常を如実に知らざるを以て  の故に無常法に常の蒋倒を起し,苦に楽の轄倒を起し,不浄に浄の轄倒を起し,無我  に我の二二を起す。是の如く次第の義有るに由るが故に,薄鼠梵の説く,「若し法の無 常ならば彼必ず是れ苦なり。若し法は是れ苦ならば彼必ず無我なり」と。當に知るべ  し,世間道に由りて上進するを得る時,無智を断たずして上地に漸進す。無常性に於  て二丁の二二じて更に増上す。何を以ての故に。欲界中の破壊・二品及び別離等の諸 無常の相現じて了知すべきが如くに,上地に有ること無し。        (550b)

 「成無常品」は云う,単に常住の考えに誤っているからだけではなく,根底に四轄倒が横 たわり迷乱しているから人々は無常や刹那滅を如理に理解できないのであると。さらに「成 無常品」はこの四蒋倒ゆえに無常にたいする無知を引き起こすものとして (1)放逸,(2)解 怠,(3)倒見,(4)愚昧,(5)菩提資糧の乏しさ,(6)悪友,(7)聴聞非正法の七因を掲げ(ka.

20),さらにこの常住に執着する原因として次の二種を説く。

(14)

[21]復た何の因有りて無常を了せずして常に妄執して轄ずるや。頒に曰く,

     不如理作意と 前門等に相似する相続の韓ずるを憶念し

     無常を常と計す       (ka.21)

   論じて日く,二種の因に由りて常への執を起す。一は不三三作意に由る。二は前 際等の事を憶念するに由る。前際等の事に相似する相続の韓ずるに由りて,余の世間  に干ても亦常住を了す。      (550c)

 このように,(1)根源的に誤っている思惟(不如理作意)と(2)類似した直前の刹那刹那の ものを同じものである と再認識することとの二つが原因で常住に妄執すると「成無常品」

は述べている。四二倒を根底にし,再認識が原因で常住に妄執するとの同様の考えを我々 は『荘厳経論』に見い出すことができる。同論書は先にも触れたように(上掲[5]参照),

第XVIII章kas.82・91で「諸行無常」を「諸行刹那滅」として論じるが, ka.91cの釈の中 でMSABh(世親釈)は次のように述べている。

[22] もし[非刹那滅論者が]「有急なるものが[すべて]刹那滅であるならば,あたか  も灯火に基づいて[刹那滅が]承認されるように,[世の人々には,二二なるものの]

刹那滅が何故に承認されないのか」とかく問うならば,[我々は]彼[の非刹那滅論者]

 に次のように説くべきである。「[何となれば,それは]轄倒の事実によってである  (viparyasavastutvat)。実に類似したものの流れが次々と生じて来るから

 (sadζ§asalptatiprabandhav;ttya),これら[言忌なるもの]の刹那滅であることが理解  されないのである。それ故に,[実際は刹那ごとに]別々であるにもかかわらず,『こ

れこそ同じであれである』と云う前倒が生じて来るのである。」と。

       (『荘厳経論』p.154)(17)

 この[一由不如理作意」と「二由憶念三際二二」とが原因で,実際には異なっているに もかかわらず,刹那刹那に類似したものが連続して生じてくるから,我々は「この壷は昨 日(あるいは一瞬前に)見たものと同じである」という再認識が生じてくると,『顕揚論』

も『荘厳経論』も説くのである。『荘厳経論』はこの再認識を明白に『これこそ同じあれで ある』と云う韓倒(tad evedam iti viparyaso jayate/)」として否定している。再認識 に関する同様な詳論を我々は伺じ『荘厳経論』における刹那滅の「十五義」中の第七

「anuvτttes」に見い出すことができる。 Sthiramatiの平骨(SAVBh)ともども引用しよう。

[23] 〈反論〉

  あるいはまた[対論者は]次のように反論するかもしれない。「[刹那滅とすれぼ]

刹那ごとに直前[の刹那のものは次の刹那]には生じていないのだから,[次の刹那に]

 『これこそあれである』という再認識pratyabhij顛naはあり得ないであろう」と。

   〈答論〉

  [以上の反論にたいして次のような推論式をもって答えよう。]

    主張  この[再認識]はまさしく存在する。(tad bhavaty eva)

    理由  類似のものが次々と生起するから。 (sad;§yasyanuv;ttes)

(15)

刹那滅と常住説批判一『顕揚聖教論』「成無常品」を中心に一(早島)

29

  喩例  魔術師[が用いる魔術用]の木片の如し。 (mayakaraphalakavat/)

[したがって汝の反論は正しくない。]      (『荘厳経論』p.150)

[24] SAVBh

  〈反論〉

  「あるいはまた[対論者は]次のように反論するかもしれない。『[刹那滅とすれば]

刹那ごとに直前[の刹那のものは次の刹那]には生じていないのだから,[次の刹那に]

〈これこそあれである〉という再認識pratyabhij飴naはあり得ないであろう』と」と 云ううち,他の人々は次のように考え[て反論す]るかもしれない。刹那ごとにもの が滅するめであるから,前の[刹那]と後の[刹那]とに類似したものが異なる刹那 に生じると[楡伽行者が]主張するならば,かくの如くであるならば,前[の刹那]

に見たものを,後[の刹那]に見るときは,これらを私が[同じものと]見るという 知識や理解が生じるのは不合理である。[ところが実際には]そうではない。前[の刹 那]に見たものを,後[の刹那]に見るときは,その同じものを私が見ているという 知識が生じるのである。したがって,ものは刹那ごとに消滅することはなく,一定期 間存続してその後に消滅すると[反論者は]主張するのである。

 〈答論〉

 かくの如き[反論]もまた理に合わないことを示さんとして,「〈主張〉:この[再認 識]はまさしく存在する。〈理由〉:類似のものが次々と生起するから」と説くのであ る。ものを見て,後に[再び]見るときに,〈私は同じものを見た〉と云う再認識が生 じるのはまた,前の刹那のときにものの二形が,最初だけ類似して生じる。後の刹那 の時にもまたその[前の]刹那と類似した色形が,最初だけ[類似して]生じて来る のである。[したがって]後に再び類似レたものが生じるときに,その同じものを見て いるという知識が生じる。[このことに]誤りはないのである。

 [この]比喩を示さんがため[坊門行学派の]論者は,「〈喩例〉:魔術師[が用いる 魔術用]の木片の如し」と説くのである。たとえぼ魔術師が百の(多くの)薬草のみ

を空中に放散・散布し[て,ある一つのものを現出する]のを眼前に知覚して,沢山 のものが生じた[のを見たという知識が生じる]のではなく,一つのもの1[が生じた の]を見たという知識が生じるのである。それと同様にものが生じるときもまた,刹 那には鳥であるとの知覚が生じる場合に,前[の刹那も,]後[の刹那も,]すべて類 似して生じるから,同じものを見たという知識が生じるのである。たとえば下等が流 下する場合にも,刹那ごとに滅しては生じているのにもかかわらず,後続[の流れ]

もまた先行する[流れ]にすべて類似して生じるから,この[同じ]流れを見たとい う知識が生じる如くである。

 以上の言葉でもって「(7)anuv;ttes/ 次々と生起するから」と云う意味を説いたの である。       (P.166b8−167b1, D.141a5−b5)

 昨日見た壷を今日再び見たとき,「私は同じものを見た」という再認識pratyabhij舩na が生じてくる。我々が日常的に経験するところである。この再認識はいったい何に基づい て生じてくるのであろうか。他学派のあるものは主張する,壷の同一性に基づいてである

(16)

と。昨日見た壷も今日見ている壷も同一の壷である。その同一の壷を見ているから「私は 同じものを見た」という再認識が生じてくるのである。この壷の同一性が再認識を成立さ せているのであり,したがって壷は刹那滅ではなく,その同一性は常住である,と。

 これに対して『顕揚論』も『荘厳経論』も壷の同一性という常住な法の存在を否定する。

刹那ごとに類似のものが次々と生起するから再認識が生じてくるのであって,壷が刹那滅 であることと再認識とに何等の矛盾もありえない。むしろ刹那滅であるからこそ再認識が 成立するのである,と両論書は論駁するのである。

 この再認識pratyabhij舩naをめぐる論争は直ちに,後代の仏教論理学派の恒常性批判 に展開されるミーマーンサー学派のpratyabhij鯨naを想起させよう(18}。ただし『顕揚論』

や『荘厳経論』が再認識pratyabhij漁naを否定排除するのは,それが根源的に貸倒(vipar−

yasa)なるがゆえにであり,また「類似のものが次々と生起するから(sad;§yasya anuvζttes)」である。他方後代の仏教論理学派の恒常性批判にあっては,認識手段

(pram町a)からすれぽ,再認識は記憶と直接知覚との混合であって正しい認識手段ではな いから排斥されると云われる。再認識をめぐるこの両者の関連性についての詳論は上記「論 理的要請arthapatti」同様,別稿に譲らざるをえない。

 以上考察してきたように『顕揚論』も『荘厳経論』も(そしてASBhも)刹那滅に関して ほぼ共通した理論を有していることが理解されよう。ただ後者が刹那滅に関する様々な理 論を要約して「刹那滅の十五義」(上揚[5]参照)として提示しているのに対し,前者が 1)

刹那晶晶,2)常住説批判;3)常住説に妄執する原因に区分し,より体系的に論じてい ることに留意すべきであろう。無常,刹那滅論の内容に隔たりがあるわけではないが,両 論書の思想展開の推移の一端を示唆していると考えられるからである。

『顕揚論』「成無常品」を中心としたこれまでの議論は次のように要約される。

(1)釈尊が説かれた「無常」の思想に対立するものとして,『顕揚論』「成無常品」など 初期の鍮伽行学派の三論書が批判・否定の対象とした理論に二種類が想定される。

 1)一つは無常それ自体に対立する考え方で,主に仏教以外の諸学派が主張する自 我,自在,自性,極微,覚などの常住の法が実在するとするものである。

 2)他の一つは無常は承認するものの,刹那無常とは別に,一定期間存続し続けた後に 消滅するという相続無常の考えである。この理論は仏教内部の学派も主張したようである。

 そのうち後者に対する批判・否定が積極的に刹那滅を論証する刹那四型として展開され,

他方前者に対する批判・否定は刹那序論をふまえながら常住法批判として説かれている。

(2)理論展開に差異はあるものの,『顕揚論』も『荘厳経論』もこの刹那滅論と常住法否 定との両者をもって,表裏一体をなすが如くに,無常の思想内容として捉えていること は共通している。他の諸論書の検証を必要とすることは当然であるが,初期の鍮伽行学 派の無常説はこの刹那滅罪と常住法の否定との両者をその内容とすると理解して大過な いであろう。

(17)

刹那滅と常住説批判一『顕揚聖教論』「成無常品」を中心に一(早島)

31

(3)そのうち刹那滅論は①有爲なるものは心の果であるという因果論に依拠して胴鳴な るものすべての刹那滅を主張する理論と,②滅無因説に基づく刹那滅論証などをその内 容としている。

(4)常住法批判は①原因である行為の主体と結果を見る主体との同一性(自我atman)

の否定や,②再認識(pratyabhij触na)を誤謬とする理論などが含まれる。このうちた とえば前者は後代の仏教論理学派の恒常性批判に展開されるミーマーンサー学派の論理 的要請(arthapatti)を,後者は同じく再認識(pratyabhij漁na)をめぐる議論を想起さ せる点で興味深いものがある(19)。

(5)ダルマキールティ以降の後代の仏教論理学者たちの謬論書に展開される刹那滅論が,

上記『顕揚論』などの無常説が刹那滅論と常住法批判とからなっているように, 1.刹 那滅論証と 2.恒常性批判とからなること,あるいはその刹那滅論証が「存在性による 刹那滅論証式sattvanumana」を中心とすること,また恒常性批判にa)滅無因説に依拠 する「滅性に拠る刹那滅論証式vina§itvanumana」,b)論理的要請(arthapatti)や。)再認 識(pratyabhij甑na)をめぐる議論などが含まれることはよく知られている。

(6)『顕揚論』などに展開される無常説とこの後期仏教論理学派の諸法書に展開される刹 那二五との類似性は注目に値するが,その関連性は今後の研究課題である。ただし仏教 論理学派における刹那二二の研究が,『荘厳経論』や『顕揚論』など初期の喩伽行学派の 諸論書に展開される刹那二巴との比較研究を必要とすることの指摘は,少なくとも認め

られるであろう(20)。

*主な略号は拙稿「無常と刹那」(『南都仏教』No 59)のそれに従う。

1)「成無常品」の偶頒の番号は記述の順に4句1偶として筆者が付したものである。なお上掲拙稿「無常

 と刹那」註(68)参照。(補註)

2)ダルマキールティやラトナキールティ以降の後代仏教論理学派の諸論書に展開される刹那滅論につ いて詳論する暇も力量も筆者が持ち合わせていないことを遺憾とする。仏教論理学派の刹那滅論の論述  を目的としない本稿では,例えば御牧克巳「刹那滅論証」(講座大乗仏教9『認識論と論理学』所収,以

下「御牧論文」として引用)やそこに列挙されている諸文献などに代表される,先達の優れた諸論孜に 依拠して後代の刹那三論の紹介に努めることにする。

3)拙稿「無常と刹那」第二章第二節参照。

4)同上第一章・第二章参照。

5)『荘厳経論』第XVIII章kas.82−91に展開される刹那滅論に関しては拙稿「無常と刹那」の続編「無 常と刹那(承前)」として『南都仏教』に掲載準備中である。なお同kas.82−91中のkas.89・91 Bahyartha−k§agikatvaについては,拙稿「外なるもの」(長崎大学教育学部『社会科学論叢』Nα37,

1988,3),、「外なるもの(承前)」(同No 38,1989,3)「外なるもの(完)」(同No 39,1989,6)を参照さ

参照

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