世界の散文 : ヘーゲルとメルロ=ポンティ
著者 山? 純
雑誌名 文化と哲学
巻 6
ページ 28‑50
発行年 1987‑11‑23
出版者 静岡大学哲学会
URL http://doi.org/10.14945/00024395
ヘiゲルと
ルロHポンティ
受る
メル訂Hポンティの 晩年の遺作げ仏 、『世界の散文
ル が へ!ゲルの 『美学講義』か ら 借用された
同Lmw官。
∞∞〈rMgo口弘め』
という
(1)
りは368仏Rdqo日付で
ある
乙
とは
よ
く知ら
れ
ている。
しか
し 百 の草稿が
ある
。
作品のタイト
なぜ乙のタ イトル が 選ばれた
のか
、 その理 は必ずしも明 ら かではな
い。
クロード eルフォールによっ て刊行 された
稿を 読ん
でみて も も どのような線でへiゲルの
「世界の散文」
につ なが る のか~ すぐには判 らない。 何よりもも され た本文中に『
一 度
も「世界の という一言葉は使われていない。 の手
がかりとなるのは
、 メル
ロuu ポンティ がマルシャル@ゲルi民へ の のなかで 乙の作品の構惣を述べ た 次の
一 節
である 。
「この問題〔知 覚的信念から明示的 真理への移行 の問題〕 を完全な か たち で論ずる乙 とは、目 下準備中 の
の
起源』 に関する著作に待 つこ とにして『 われわれはまず古 文学的一 一一缶詰を扱って半 ば書きあげ
られて
いる本 (『
の 散文」の 乙と )のなかで百 乙の問 題にそのも っとも平担な 側面か ら 近づいてみる乙とにした。 言語というもの が『
まった き明断 さのう
ちでおの
れ自身を所有し ているような の『 単なる衣服ではけっ してないという乙とを
示す の は 百 ζの領域においての方 が いっ そ う容易なの である。
一冊 の本のも つ意味は 百 まず最初は観念とし てよりもむ
しろ言葉や 物語の様
式予 あるいは 現存の文学 形式の系統的 では あっても予想外 の変奏によっ て与え ら
れる
も のなの
だ 。 その表 現が成功して いる場合 には~
のこの
クセント
百 この特殊な抑揚が少しずつ に開
化され
てゆき 、
時にはど う でもよ か ったし初め は 反発さえ 感じ ていた思想に% 読者を近づけてゆく。 におけ るコミュニケiシ ョ
ン とは、 単に作家 が人間精神のア @プリオリの
一部
をなしているようないくつ か の意味に訴 えかける ということ で
は ない。
むしろ
そのコミュニケーションが誘引力ないし
一 の
椀曲な働きかけによって
百 人
間精神 の うちにそうし
た意味を惹き起す の だ。 作家にあっ ては『 思考が一 一一一口語活動を外から支配するのでは ない。 新しい いうも
の は、 みずからおのれを組み立て、
の
の意味に応じ
ておのれ
を多様化 してゆ さまざま な 表現手 段を 案出しE
く ものである が、 作家自身がまさ
にそ
うした特有言語のどと
のな
のである。 詩とよばれて いる
もの
はおそらく、
こうし た自律性がこれ見よがしに 発揮される
の 一部門にすぎないであろう。
だが、 すべての偉大 な散文もまた『
意味する の再創造であり九
のζ
以後新たな統辞法 に従 っ
れ
ことにな
。
平 凡な
lま
み の記号によっ て
百
な てい にふ れ す でにその文化の備品と っ
で 一度も客
観化され
ることのなかった意味をつかみ出し、 向じ だけである。 が百 は百 その時 ま
話
してい
すべ
の
均三
れに近づきうるよ
うにする技法のこ
とな のだ。 作家 が そんなふうに新しい 普遍性の いたり、 危険のた だ な かでコミュニケi
ショ
ンを
敢行したりする乙とができ ポエジー が人間諸関係の っ た と き 、
の
形骸と化すので
他の
について
れ
つま
の
の他のすべて
の
""'"
の
かけを
乙
七三
なっ たと 判明したときには、 もはやそれは こ と を やめた、 と ことができ
ように
れる
。
�
ル は かつて 、
ロ!マ国家は 世界の散文だと
一一一一口っていた。
散文というカテゴワー を繰りあ げることによって、
それ に、
の枠を ょ う 」 。 超えて或る社会学的意味を与 えるはずの l乙
れ
れも吋
の
""'"
の
と
てコ
これ を読んで、 さしあ たっ て了解できること は次のことである。
29
〈1〉知覚の暗黙的 な 信念のレヴェルから概念に よる明示的な る地 ならしと して、 文学的 一一一一口語を例に 言 誌 の自律性という問題 を 探究する。
〈2 の自律性とは次のような ζとを 一一一一口う 。 作家l作品l読者という関係を へとた
どる「
理論」、 という大問題ヘア プローチす
た場合、それ はM作品
以前
に作家の頭
のなかに、 或る定まったはっき りした思い( 原テクスト) が まずあっ て、 それが国語 のコiド に照ら して、 あたかも衣
そ れ を読者は同じく国語のコiド のなかにある「人間精神
のア
@ うにして、 作品に翻訳され、 リオリの 一 を着せ る 部をなして いるよ う な意味」に照らして、 作品を了解する、 とい うような関係 で はない。 先 在する「思
考が
言語活動を
から支配するのではな い」 。 〈語る〉というコミュニケーショ ン行為の ただなかで、 一一一一口語
はみずから
を組織し多様な
み出していく。 諮る行為のリズム、
ア ク セント、 抑揚の変奏のなかで、 作家の志向は或 るはっきり 表現を したかたち をとと の えていく。 読者もまたパロールの のただなかで、 し だ い しだいに作品のスタイルのな かに同化され ていく の だ 。 〈3 〉パ口1ルの ζう した自律性が最 も典型 的なかたちで発揮容れるの は
、
の 詩 というジャン ルであろう。 詩は既成 ラン
グ
乗り越えて の新しい創造的使用によって 、
それ まで しなかった新 し い意味世界を切 り 拓く。
(4)しかし、 月並みな散文はともかく、 「偉大な散文
」も また、
その
ような自律
性を発
の時、まで
一度
も客観化さ
れる
ζとのなかった意味をつかみ出し、 閉じ国語を 話しているすべ ての人がそれに近づき るζ
とがある
。 つま り、
つ 一寸
よう にする」 という点で、
詩と共通す
るも のをもっ。(乙 ζですでに、 メルロHポンティは「
と「散文」
を
のジャンルをさ す通常の意味 を超える次元で用いようとしてい る。)
〈5〉既成の言語 と生き た一一
一一口 諮問行為
の自律的創発性との
関係は河 一一一一口語 以外の 他の諸制度に ついても あてはまる 。 言語行為
の自律性
をモデルに、 社会と一控史のあり
ょうを考える
ことができる のではないかι へ1、ゲルはギリシア的人倫の解体後
のロ!
マ世界
を「
世 界の
散文」
と呼 んだ が、
れわれ
おお
よそ 以上のよう な趣旨を読みとる乙とがで きるが、
iζ
こ れ を手がかりとし
て
「 世界の
た狙いをよ り詳し く考察してみ よ う。 そのために、
まず
へiゲルにおける「
し かるのち に、 メ ルロHポンティが どのような
側面 からこれに かか
‘、
「詩」
へ
お
へiゲルは「詩」とその 対概念である「散文」 を に用いてい
(1)文学のジャンル
のな かの詩
。
詩、
劇詩。
具体的には
、
これを へiゲルは「狭義
の詩
」と呼
ぶ。
口出港一二部
と
っ て い
。 お
よ一
..(2)「語る
塞術 と
しての
詩 〈凶ぬ門出、広巾 )
」 。
す な わ ち
�
(むほ可omm山円。
門日付
(口付町広告一口
∞け)
一般 。
(3) 襲術 の 本義である「理想 昧で の 、
広
zmwmL」
とい
う
ンルを間わず、 「謹術において
に詩
的なものはわれわれが
けたも
の に ほか
なら 乙れ に 次のよう な「散文」概念が 対 応す
Q
(Y) 狭義の散文義街。 す なわち
詩の形
式をとら ない
れ
の
(Y ) に対する、 非翠術としての の 欝術としての (文義) (日《吊
の一「
し- 0
実リ
。
'-ノ
三 てみたい つ に いた)
〆'崎、
一一一
と九
で
44」
3 0
J/phy
にこ られ
明らか にし(ニ)、
、、
O
ょう
。
画 Jコ
術 し
ヤ
。
31
(y)非勢術その
もの
。 日常性 、 凡俗性。
ま、ず、 (l)と(2 〉の 対概念から見てみ よう。 へiゲル は 「散文的表象」
と
「詩的表象」
を比較して次 の ように述べて い る。
「平常
の悟 性的意識で は、私はコト バを聴いたり読んだ り す るときに、 語とともにただちに意味(閉包gg出
向 ) を
乙の意味を表 象に現前させその形象(切広島〉
を想い
浮かべ
る乙 とは ない
。
たとえば、
われ
理解するの であって、
われが「太陽」 とか 「朝に」
とかい
えば 、
それが 何を意味するかはも われわ れに
は明
白であ
るが、
早朝
や太
陽 その
も のが われわれ の心 象として 直観化さ れは し ない 。 乙れ
に対しても
詩人の作品に
「明るみく
るエiオス〔曙の女神)
がパラ色の指をし てさし昇ったとき」と あ れば
、 事
態としては同 じこ とが 言いあらわさ れているのではあるが、 詩 的表現はわれわれ にそれ以上 の ものを与 える。 それ は理解さ れた客体の直 観をも理解に つけ加え、 ある いはむ し ろ
(6)
単なる抽象的理解をし りぞけて実在 的な規定相を
それに 代わら せるから で ある」 。
通俗的な散文や 臼常一一 一一口語において
は、
聴き手や読み手は、 語音を聴き文字を てはいるが、 語のひびきそのものには
無関心で、
ただちに、
それが運ん
でく
る意味を 了解する。 抽象的@悟性的意味 と しての「太陽」とか「朝」が了 解され
るが、
閣をふき払うようにし
てさし っ
てく
る曙光の
まぶし
さとか、 早朝の爽快な空気の香
り、
といった具体 的イ メ1
ジは浮ん
でこ
ない。「 太陽ヘ「朝 」
は
、 ちょ う ど貨幣のよう
に、
抽象的で未規 定で色あせた 生彩の
ない 意味しか
運んで
乙ない
。
散 文 に とって肝
要な
ζとは、 伝達し
たい
内容としての意味を「正確
にはっ
きりとわ かりや すく」 伝えるこ とで (7) あっ
て、
記号
表現はそのよう な実践的目的に 奉仕 すべきものであ る
。
ζ れに対し
て、
詩的言語 は「実在的現象の充実」
をおのれの
うちに吸収して、 読み手に具体的イ
メi
ジを喚起する 。 記号表現そのものが無関心にや りすごさ
れ
、
〈表現
されるもの〉が抽象的な意味と して読み手に表象 される、 という のではない。 詩は徹底的
に
〈 表現〉そ の
もの
にこだ わ
り、 表現のま っただなかで具象 的表象の現前をとらえよ うとする。
「詩
的表象 の関心は百 事象 をその現実態におい て 表 現するか り一Cの外な
の
にいっ
で
ど ま
り、 それをそれ自身だ けで観照 に価する
ものと
して注視し、
それに
くということであ る
0
・ : れによって、
」。
べさ られ われわれはいや応なしに、
の事 象の 具体的に現象するあ りさま
ここにおいて、 記号 表現は 意味内容 を伝達するための
相山い
一一寸
〔手段という)
解り 放3 の
さ
り一 民す 。
10
そもそも、
へiゲルによる
一-,
ための
一「
として の定義は
、
(日)
は自立性 をもたない精神
的外化の
手段」 にすぎない、 というもので
つま り 、
。だ、 という考えである 。
乙れ
は、 メル ロunポンティが「知覚の
矢司
し て iii そこに 考える 主体はあっても
、 語る
主体は不在だという
け
iζ
/レ
"^'-
の手紙にも あったように、『世界の でも、
iつ
方として、 まずもってしりぞけられなけ れば らないもの で っ た。
イ
とって
一-,
明噺さでお のれ自 身を所有してし ま うような思考の、 メル口Hポ ン
衣服 では決してない 」
からで
。
ところがへiゲルは詩的 言語を論じるときには、 このよう
iζ
はり
べて いたことに
なる。 へ!ゲルの一
一一一口 語論
が 、 は思惟(
3hJAb、
記号表現が 意味と不可分である という面を、 詩論とい いて認めてい たことは
i乙
一寸
論」
と述べたけれど
も 、
それ
は、
一般を明示的に論
じ
てい
いうことで
って
、
ょう
によっては、 後者の考えこそがヘiゲルの
と
も
fこ
、、
=屯
で
外化(
表現) 行為によってさまざまな
〈意
味 〉が生起し、 世界とが相 にからみ合い れ ていく 。
の外化の弁証法を見る限り、 外化〈表現〉
の現象のまっ
ただなかに し
か、
意識の形成も世界としての「精神
」の
形成
もありえない
という のが、
へiゲルの最も基本的な思想ではな
いのか
。 あとで見るように、 メルロHポンティ は まさに
ζうした相面の へiゲルに結び ついたのだ。 それは「意識の経験」 の現場で「精神の現象」 を把えようとする現象学者
へiゲルの姿であった 。 メル口Hポンティが 共鳴して も不思議でな いような 一一一一口説を もう 一 へiゲルの詩論 から引いて
みよう 。
「詩はE散文 のよう に (思惟された〕内容との 直接的 な適合性を本 質 的な法則と
するの
で
はない。
反対に・・
の 現
その
も の とは 別の
地盤へ転入し
て、
内
的
(仏片岡誌の伊偽札諮問hzm仏訟の内山町内乱許認与額仲)へ
と /同\
って行か な ければならな
い。
なぜな
ら、
乙の現象という 実在性乙そ、
れ自身
独立し て たち現われるべきも
のであり、
で内容を表わ しはするが
も 他
方ではまた、
い、 われわれの詮意は現象す る 現存 在 Eg tS 25ロ借り82とへと
門間仲間巾 02SF〉が観照 的な関心にとって 本質的 な目
的と な るのであるに傍点へ!ゲ ル )。
の現象のさ なかに% 生 き生きとしたイ メ!ジとき り離しがたく結び ついて、 意味の現象がある。 乙れ を単なる内容から 解放すべきものだ からで、
そのさ かれ
、 生
生きとし
た形態〈色。
っした
象そのものへ注意 を向け
させる
ζとに乙
そ詩の
本領があるというわけだ。
行為の現象学」 にきわめ て近い発想だと 一 一一一口えない であ ζれは メルロHポンティの の 現象学h
か
もう
一 つ
も メルロHポ ン ィの詩論に
も通じるものとして可
の異化作用と いうへlゲ ルの考えに注目しておきた い 。
詩が 諮 る ζとのさなかで具体 的なイ メージを生き いきと喚起す る ものだ
とすれ
ば、 詩は散文的な臼常生活 のなかでお
い隠された
〈意味〉 を開示し、 読み手に新鮮な驚き をひき お乙す ζとになる。
「詩人 の 語りは 一般に 内なるも のの表 白として
、 そ
れ自 身、 讃嘆の念を喚起する新しいものである。 乙こでは ζれ
まで 開示されな
かったもの
(門官∞げは叩凶作吋口出向丘町正日常〉
る。
ζの
新たな創造は、
の天賦の才能がまだ慣習化さ
て'自由に関展させて人を驚嘆させる唱
(表現)の力が肝要なのだ」。
のよ うな奇蹟と
し て
一諮ること
均三 によって
大」
からであ
ず、
深く胸謹に閉ざ
九 一帯」
lvJf
のをはじめ ζ 嘗耳 、
化
。
てコ
く
ム〕いvつ
の (∞胃2Zロ)のなかでコトパを作りSg宮内呂町作ロハ山号∞習の町内)
S2室内お宮
(山ぬ吋
〉出302出
向)」
こそ
、
詩のいのち
である。 しかし か か び噴習化し、 しだいに ありふれたもの と なって散文性へ堕し
す
一寸
新
も 、 「く り ζ
とによっ
て
なはた
ら (時) いく
」。
こ のよ う に
へi
し
日常性 の レし ア」 、
rtP2 iJJ・gtM警 レ寸品 、
散文
を情
性化した日常性に等寵した。
乙 の
の ジャンルを乙えて 一般化すれば、〈3〉 !?〉 の 機念と な (3) と ?) の 用法
は一 般のそれともっ っ て
おり、
�
的 に示せば、 「塾術H 美uu理想 H詩」 とい
され の原語、
ポイエiシス が「制作さ たもの、 人簡によ って作り出された 質界の外的e感覚的なもの を内面的@精神的な も のに
と る
」 と き、
そζにh 現存する散文的実在にはあ り
(山口)
れをま
ず形式的な 意味で「詩的か つ
の」
と、
ない「
)(/ の
。 こ れを端
思想の
で
。
こvつ
)(/
は
(ポエジi〉
の
つζと
物 と
、
れた もの (問)
羽
。
こ
いwつ
均三
想性の
して
の
想的な
ヘiゲルは 呼んでい
一局次の理想性」 とは、
対象を その
iζ いて把握す る ために、
まの個 別的な ものを、 表象における普 遍的なものに
わ と
な す
い る 諸 個 た 体 と
で え
あ ば る 五 、
。 ギ、
精 ワ
神 シ
の ア
所
の産 神
であ る と つ 味で の
iζ
れてい
よ
加わった
「
より 想化のことを
一一一日う。
の詩 (却)
」 が成り
つ
のま
にこに「
想は、
がらも
を し た
「形式の
iζ
具えた具体的
個体性
とい う内容
を
35
あわせ
も つも
の が、
の
想であり、
(位)
それが〈詩〉だ百
とい
け だ。 乙の意味での〈詩〉は、 それゆえ の領域に限定 されず% 人間精神の「作品」
をもつ ことになるむ この観点から へ!ゲルは、 安) 対象とする概念
とな り『「
ヤの 「英雄時代
」 を
〈詩〉 の時代、〈£uiマ
以降を〈散文〉の時代と規定する。
すな わち、
(d〉ギリシアの人倫 世界では、 個体 (英雄や神々 ) は
、j ζ
BaE‘、 、,,uuw
iζ
関係をとり結んで
い た 。
と
神々と人間とは、 強制的 命令による支配|服
従と
いう悟性的@抽象的関係 に堕するこ とな
く、
「相 (斜) いう詩的関係を保っ ていた」 。
の 独
立と
〈βむこれに
対して、 (お) ギリシア の人倫 が消滅し た それ以
降の世界で
は、 個人は自立性を失
い、
全体性を奪 われた 「断片」
になりさがる。 すべての者が に依存し、 他者によって制約 されも のために手段化される。 諸偶人は偶然的な iζ
れる。 法や国家や
r-ー\
が、
私的 な
もの(
と対立する かた
ちで
~ 苛酷な必然性と し
て厳存す る。 個別とが 支配l服従 と
いう
外 在的な関係 、
すな の広汎
な相
「近現代の
た〔
錯綜した) ち抽象的な悟性関係をなすのみである。 近代産業 却
のなか
で 、
、 ζ
れら
錯 雑な
「依存性のシス
個人はもはや、 古代人のような 独立した人たりえない。 近代人は組織の一 で しかありえないのであ
る。
人は社 の現存の秩序に従属し て おり :::ただ 社会の一面 的 に局限 された成員で あるにすぎない 。 それだ
から
彼は社会 の枠には
め ζまれ たも のとして 行動するにすぎない」 。 このよう な ロlマ以
降の私
生活化し卑俗化し た
世界状況
を
へiゲルは
「 世界の散文」 と名づけたのである。
一一一九 一一一一回諸問 た 裁ち富一しと制麗化
メ ル口日ポンティ がへ!ゲルの詩と 散文論から直接なにを学びとっ たかは、吋
""'"
の
的言 及がほ とんど
ないため、定 かではない。 しかし、 両者を内 容的に比較してみると、 ほど共通するものがある。
メルロ日
ポン ティ も、
散文を 日常 性、 詩を 日常性の異化と等置して
、 両
者の相互的ダイナミズム を把えようとした。 そして、 へ!ゲルの
「世界の散文」 という語法に触発さ
れて、
詩と散文のダイナミズ ムを モデルに社会と歴史を把え直
し、
「散 文という
カ テゴリ ik社会学 的意味を
え」ょうとした。
メル口Hポンティは、 「詩は通常の 燃やしてしまい」 「散文的な世界 の 日誌・も4H叶
(mm)
える」
という
のこと を述べている
。 つ
まり、
八散文的なもの〉と
は、すでに
所で
の人々によって語られ
知られたもの、
使い古され
た表現、 住み慣れた秩序をさ し、
これ
に対して、
〈詩的なもの〉とは百
の乙
の
の断 絶 、
のこ
親しんだ構造 (初) 一小する。 日 の組み換えを意味する。 詩は 日常性を異化しのりこえ、 日常性の にかくれた「
の
常の散文的言語は 国語の最大公約数的な一般理 解に依りな が コ
ミュニケ!
ョ ン
。 で
いられ
コト
パも臼常使い慣れたコトパであることが
し10
つ
詩が何か 伝え なければ、 ということは不可能だ。 しかし、
はさ まざ
まな技法を駆使して、 ありふれ コトパに思いもかけない新鮮な 取り戻してみせ
。 れ
よって 者が志向する内容 を 読み手に伝達 する、というの で
明rLh1
0 J'h》しU喝
の の
み手 なかに 復原し ょうとするのだ。 そ乙に のもつ
一寸
の裁 ち臨
し(誌のg宮58Z
と
みがあるとメルロtポ
ンテ ィは
Eコ
つ。
37
ζのように既成の 解体しつつ再構成する みは、
なにも狭い
での詩に限定されない
。「詩と
よ ばれて
いる
(詑)
の一
部門にすぎない」
のであ
って、
「偉 ものはお ら く 、
こう
した〔
の〕自律性が
ζれ よがしに発揮 される 散文」 も また或る で〈詩 〉であると
メル
口日ポンティは る。
彼は
「 パ 口iルの問題」 を テ! マにした (「 世界の 散文』 の執筆と時期を同じくする一 九
一一一li四年の
)の なかで 、 ブルーストを 例にこ
う述 べて
い る。
「作家の パ ロiルが行 なっているのは、 世界の統計 的に共通な 様相〔 最大公約数的な共通理 解)だけでなく、
ζ
という決心 の も とに、 その経験 のう
ちに
入り ζんでくる
再開(
門ゅのOB582吋 始め 践
し、
やり直し 〉させ
ようという乙と
でしか
"
の原体験
〕ま
も 我
が物
にし流 布させよう
世界が一
個人にふ れ 、
の本源的な
み
ない。 それゆえ、
の
みは「
ζのパ
口iルは、 すでに獲得され流通して いる意味に満足してい
るわ
け にはいかない。 :::作家
の作
業というよりはむしろ
の
その内 的調整によって或る経験の み である。 肝要なのは、
復原して く
れるような を解体し再構築して(忠同02 となの
で あ 白 。 の組織をつくり出す乙とで あり、 必要な
のは
ζの の起伏や力線が、 世界
や日 ほ問。ユ〉く れる或る深層構文法 、
或る組み立て
物語り方を導き入れるこ 作家がありふれたコトパを使いなが らも、 さま 、ざまな技法を駆使して、 作家自身が 体験した風景を新鮮なイメー ジ で 呼び戻すように努める乙と、 ζの営みにたずさ わる点
、 詩
人も散文家も変わらない。 彼らはいずれも、 世界と 意識 を 分節化するという
「言
語の本 源的な営為」
を そ
のつど「 やり直している」 のである。 このように
文学の一言
語に典型的に 見られるような脱コー ド化として の再 コード化
、 作
りか える ζととしての作る乙と
、 ζ
れ デフ古ルマシオン フォル7シオン (鈍) にならって「 首尾一貫した変 形」 として
の形成 と呼んだ。 つまり 、 創造の営みは 純粋意識による無からの創造ではけっ (お) いつもすで にあるものの解体構築と いう
「再 創造
〈522to巴」 な のである
。「 再i創造」
それ
が 創 メル ロHポンティはマ
ルロ
i
し てな
く 市
は
造である
点で 創発 性の契機を も ちつつ、
、、
れがす
まえ二しこ
JC44 ふ/
超える歴
史的地平を前提とする。 つ世界の散文 』の問題関心はつ
てコ
の創発性
と歴史的
地
間
いに収数される。 して
みれ ば、 詩的 一一一一口語に 典型的にみられた 再 一般にも、 さ らには、
資三
iζ
まるだけでなく、
はま 乙ム」に
。 メ
ル口封
ン イ
一"1
造」を表現行為に本質 的につき
まとうパ
ラドクスと
。
「 表現の意志 そ れ 自
身は
両義的な ものであ って百 の国語はたえず、
表現
性と一 様
性とい
う、 双子のしかも相対立した
ょうと
ノず ン
でい
のだ
れ
に従ってい
ので
。
話し方が
されるため には、 それが当然の も のとなり、 ひながた し方が、 同じ雛形に もとο ついて作 られた他の
一般に
られなければ
り
ことは い回
し 切っ ア」 、.
の
つ し\
。
が同時に、 そ の話し方は、
それ
と かれ な
り
し
てコ
ものでなければならないのであっ て 、
の
他
いこム」
に由来し ているのである。 してみれ ば、
おのれ
。
確定した、
挿まれる
ことのない同族の
前提と
し五
に浮き出て、 注意を引くに足るほどの新しさを
の働 きは、
流 布さ
。
己破壊に向 う 働きである 。 けだし、
れ
新鮮なイメージを
独創的な
の
く
を訴え、
そして それが
に受けとめ
られ ならば、
-戸、
欄,〆
いた凡俗な 表現に し て行 く 。
このよ うに
、 八詩的なもの〉がた
ず〈散文的なも
〉に墜し
乙と
39
れば も いかに
独創的で奇抜な表現といえども、
そ の 奇抜さゆえ に了解されえないで あろう。 してみれば、 〈詩〉と〈散
文〉と
は、
けっして裁然と区別され るこつの領域 で はない。 すでに流 布し習慣 化した〈 散文〉的世界を 基盤として%
一語の裁 ち 直しによって新しい意味世界を 開示するという〈詩〉的局面 が成
り立 ちう
るのだ。
〈詩〉と〈散文 〉とを表現行為の逆説的な両義 性 il
すな
わち、 表現性という 〈詩〉的局面と一 様性といヴ〈散文〉 的局面iーと して 把えか えしてみれ ば
E あ
らゆる言語行為がかかる逆説的な
語りかけるという乙とは、 共通語という信 用 紙幣のもつ共通の価値(
の ζ
の 思い を もかけがえのな い もの としてE かけがえのな い表現 へともたら そうとする逆説的な努力を強 い るもの、だから みだといえよう。 なぜなら、 誰かに何か
この私 解〉を頼りにしつつも、
一般
の意味
、だ。 それゆえメルロ Hポンティも ζう述べていた 。
「一一一日諮問行為の
文学 的 用法にみ られる言語 行為のもつ 〔創造的 な〕超越の運動は
、 実
は 沈黙の仕方にほかならない既
そして私が本 当 に誰かに話し かけるや いなや、 すでに通常の のなかに 成の
に満足できなく なるやいな
や、
、 (訂)
も存
在してい る
」。
自分の思いを本 気で誰かに語ろうと する意志は、 国語辞典に 収録されているよう な死せる抽象的 意味をつなぎあわせ
ることにけっして満足できるものでない。 それこ そ身体のもっすべての表現力を総動員しつつ、
乙のかけがえの ない思いを語ろうとするであろう。 そもそ も言語行 為というも のが、 有限数の在庫目録〈沈黙せ る陳列 (関) ケiス〉のな かからコト パを選び出して結びつけ、 無線数の生きた意味を産み出してい くという奇践的な営み である以 コ トパを裁 ち直して、
あ らゆる言語行為が の再創造という〈詩〉的局面をも
ち、
表現の逆説的な雨義性につきまと われている。
ζの乙とは 一一一一口語表現や勢術表現を
乙えて
、 行為 一般にも当然妥当する。
詩に
典型的にみられ
るパ 口!
ルの創発性をそ
デルに、 入閣の諸行為が織 り あげている社会と歴史を把え直 すζとh こ乙に
「世界
の散文への序説』の当初からの
いがあっ た。 「散文 というカ テゴ リー に社会学的 意味を
は-と
よう な一 (9 』 」で
把
い ? っ 。
lま
「パロl ルを 積極的で
優越的な機能と
ソシュiルの
拡張
し
とっ
る。
メルロHポンティ それを「制度化 ( 目zgMRご
とい う概念の
なかに繰りあげ
いった
。
〈制度化〉とは、 自己i他 者i世界とが相互に
し合
関のなかで
てい
化の動き のことをい う。 たとえば、 作品を 読むとい
な
一寸
いて
「語り手と 聴き手、 作者と
あ る」(オ
ニiルゴ読むこと
がと
iζ
スタイルの
くこと
にか
らず 、
的世
十小 、
〈す でに創設され て
いる 過去 の伝統〉と〈新た に 創投し よ う と
〆\
し 合うこ
とである、 そ れは、 一一一一口語や文 化のな かに沈
たし
制 度と化
し れノ 、
そして その営み自体が再び「制度化された と し て 、
と
が間い ii 答えるとい う「相互にこだまし合 う」 で 、
の
iつ
て いく
。
えメルロHポンティは
。
ノf n Jv
「歴
史と
は・:・: その前に
ひざま づくべき力 で は
り
ゅ
ら ゆ
り
ぞれの 場所と特殊な状
、 況にあ
(位) 絶え間なき 対話 なの で ある」0 制度として
の 言
語はけっして
ままで
ザ/」口口 ー
『hvyfLふi
し
し 合いも
し1 jζ
「 牢獄のよ
うに」
てい
で
な認 識のレヴェ
ルに る以
前に
すでに
し し
り
の
同化されたりす
るという
条件のもとで
しか」
それゆえ
、
ど
ち
「他
41
コミュニケートしようとする総体的意士 山ヘ「理解され
ょし とっ する
留
一...
/"句、
足品、45
し一四 .___.,
iζ
よー〉
身を
って いるのだ 。 ζれ
にも 他の諸制度も、 疎外 して鉄のオりのように にあるわけで は い。 われわれの行為が いつも 、
体制か せざる え
ないに
し ても、
れ らは行為の
びごとに され、
れと気づかぬ微妙 なズ レ
なが らデフォルメ さ れてい く。 われわれは ざるとにか かわ 日常的 な秩序に よ りかかって きょうとするが、 の散文的秩序はけっして は なく、
かすかな
レ と意識的また は (絹〉
り」
% り のなか
で、「
ん
意 味論的すベ
にさ らされて
為する
体の
ので
。 文
化的世界は脱中心化と た変
貌」
のさなか に あると っ
ていい
。
ゆ
日
の秩序に随順
し うとする〈散文〉的 行為と、
意識的に異
化し のりこ ょうと る〈詩〉的態度 、
このような二 種類の行為を類型的に
してみるだけでは
はない。 われわれの行為の連関による問主観的な
形成
の
のが、 する〈制度化〉の 脱コード化しつつ コード化
みと
して、 〈詩〉的な相と〈散文〉的な相を 同 時に あわせもつのである。 日常「世界の それがまったく の 形骸と化してしま (訂) への訴えかけという人間諸関係 の詩情」によって 的秩序も、 ないか
ぎり、
人の自
から他の
の
れている のである。
へiゲルは詩的 一一一一口語 のな かに、 彼の主知主義的
一一一一口 語観K反して 、 表現と意味 との一体性に注目 していた。 意味という ものが言語表現とは別のと乙ろに
、 す
なわち 自律的な思憶のなかにあるので は なく 、 が 現象するただなかに意味が
生き生き と現出するものであるという ことを詩はへiゲルに教えてくれたの
だ。
詩のコトパ は通常の慣習化した 言語使
用を裁 ち直 して、
清新な意味を開示する。
のよう
に日
異化
し、
作り 直すとい
がみ の
で
へiゲ
。ルはこのよう に「作 り直すこと」
ζそ
、 ポ
イエiシ
スとし
の の
として、 w一 弔問 。
7Lf
の概念の拡張 にともなって散 文概念もひ ろがり 、
口!?
以 の私性 化された 世界状況が 「
の
けられた。
メルロHポンティは乙
の語 法 に示唆 を受け「 というカ
リ ーに
えよ
した。
それは詩と
散 文のカテ ゴリーを練りあげて 、 社会と
で
た。 っ 彼
が荷より 学的
言語 に着目したの は百「表現は ところで創造的であり、 れたものはい つも表現と不 (持) である 」 ム) い vつ
『知覚の現象学』以来の根本
証しするも
のが
こに
伊帽、J 〉r'門以
十ハカ百七ふれ
ので はなく、 そ
の も
のが語
るという「 の言
語と
しての
」がいか (ω)
な
れ 姿が
すぐれた文学には 認められるか らだ。 彼は
@
護術論の えて、
しと 更新があり、 その
イ ナミ
つ ム
50
0
る領域として
ので
。 それ
つパ一フドタス
。
一-,
一-,
関係の
?て
し。
へiゲルとメルロHポン
イ
、も
�
�
つ
いv
つ
iマ
で った。
メ
ルロ川口ポンティ 「へi ゲル
の
り
を判断する〉 のとまっ
し
場面〉、
〈われわれが
iζ
れ
iζ
うに
な
の
tJ,
しミ
の
43
彼0)
に据えていたという乙と」 に特別な 払っている。
彼が
へiゲルの勢術哲学のカ
リーを
の大作の の
一部のタイトルにまでしたのは、 (臼)
お そ
らく も へiゲルの〈 外 化をとおしての内 化という弁証法 〉を、 〈意
。c)味
基礎 づ ける
の
〉へと改作する可能性を ていた からではなか っ ただろうか。
それ を 一小唆するきわめて興味深い一節を、 乙れまでの論述をま と
るで引いてお ζう。
「 へiゲル
の って い た 大略の趣旨 か 3りす れ ば、
弁証
法は、 〈みず からおの れの進路を創 り出し、 そしておのれ
帰する歩み〉であり、
したがって〈 の自発性以外 の導
き手をもたないが、
にもかかわ らず自分自 身 の外に逸脱 することはなく、 サイクル毎 におのれの裁ち直しをし、 あるいはおのれを確証してい く運動〉で あった。 だからそれは、 われわれがこれ まで固執してきた表現の 現象、 ま
で
理性の によってであるかのように、
次から次へとおのれ 取り戻してはまた投げやるといっ 表現の の別名にほか ならなかったのである。 もし 歴 史の概 念を、 れわれがい てい るよう に
、 議
術や モデルにして作り上げる習慣を身 につけるならば 、
の意味での一歴史概念 に くようになるだ ろうことは疑いない。 というのも、 あらゆる表現
どう
し の 親密な結び っき、 の によって 創始されたただ一 偶人的なものと普遍的なも のとの接合 を実現してい る わけだし、 つの存在秩序への
それ らの共通の帰属は、 の乙とだけですで に そし て表現、 たとえば言語は、
他人に向うと同時
に最も 個人的なものなのであって、 は、 われわれのもっている最も個人的なものを普遍的なものとして妥当さ
せてくれるからである。 そのやり方は実にさ ま、ざま であるにせよ、 へ!ゲルの弁 証法がたえ
ず立ち
返る中心点は、
われわれが対 自と対他、 〈われわれ自身に即 した思考〉と八本 来は疎外 態である他人に即した思考〉と
のど ちらか
を選ばなければならぬわけではなく、 表現の瞬間においては、 〈私が向っている他人〉と、 (日) る私〉とが、
ど ち
ら の譲歩もなしに結びついて いる、 という点な ので
ある
」。
〈おのれを表現してい
ヘiゲルの弁証法の自己内還帰的運動は、 外化(表現)のたびごとに自己を 取り あ げ直し、 ていく更新
のプ
口
セスで ある。 それはメル ロHポン ティが一一一一口語、 文 学 、 絵画など を例 に考察してきた 「表現という現象」 にほ かな らない 。
この表現の現象に定位 した 外化の弁証法にζ そ 、
対自と対地のディレンマに陥っ
た(サル トル的な)
の の 路
を突破する道があるの だ。 メル
ロH ポン ティ は、
絶対理念 の 自己展開 として体系を構成するへi ルを
「へiゲ
ル主義」 としてしりぞけながら、 (臼) いた」 『精神の現象学』者として のへiゲルに 「人間的経験に内在する論
理を
そのあ らゆる領域にわたって開示すること
をめ ざして
(日) ぽうと
した
の である
。
門註凶
(1)
の@ d〈
円出認め?ωω52のZd〈ゆ吋}内ぬ∞(ゲ一門知
てO之内∞NhZA町内司、山内~vmwwa門口町b忠伊良芯げ同Jwm.@〈O出。。GHem「知的出CF「のルゲ立科
HCω一ア∞-N回、吋竹内敏雄訳コ一一議ご岩波書盾一九五六
i
八一
年、
四
(一の中)。以下一フッソン版からの引用はト円判的的02
と略記。
(2)
己ロ3E拡号富山戸52塁。ユg己IM〉O己予
NNSCmw九ぬ〉山内向円QMUV可tQNドmwmw件門出向hhowaQNF
おおlzop
明〉・M)@
九時001品。、吋
滝浦
静雄e木田元訳「一一一一口垣間と自然」みすず官官房
四
!
四六頁。以下
、
ζのらの引用はqhと略記。
(3〉トS∞O判、rEω場邦訳一七八貰(一の上〉
(4)0・者・円出。向。Hedくの昇。弓
Nd〈問一口N伎一∞白出乱。口
出品
同
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的ロロι内向ロ九九~vmwy門出芯
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∞出町吋wmwSM)
HC斗()
[J)
ト蜘4 σ3
邦訳一七九八頁(三の中)。以下ズiルカムプ版からの引用は巻数をロiマで、頁数をアラビア数字で略記する。
(5 )トQ ∞句。♂∞ ω∞ ‘
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二五六頁〈
三の下)45
(
7
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(日)
NN∞u二一O二( 三
の下)
(ロ)qhuA日op一四五頁
ζのアンピヴァレントな 態度は欝術に対する複眼的な 評価にかかわってい る。
洋)↓古典的彫刻( 古代ギリ シア )↓ロ マ ン的絵画@ ャン
ルを
、 象徴的建築( へ!ゲ ルは謹術の
( 近
代キワスト教〉とい
るとい
乙とをやっ
。 彼 は のかたちで、 適時的 に展開す
で 、 吉代ギリシ ア の彫刻 を精神的意
味(内
面〉 と身体的形態
( 外
面)
との 一 体性の具現とみて、 た
。 他
方で
、 りわけ近代の を 、 精神が鈍
シの頂点 」
語と
いう感
性的
材料 を
の
銅、 絵画の画布や絵具な ど〉 よる制約から解放されて、
に服従させる
とい
う意味で 、 観念的普遍
の
もいい無価値な として
〈ト円相的的。口問
化
のけた 。
乙 乙
に 二つの る( 竹内敏雄氏の訳 二八O、
一四
三二
'-ノ。 し
リシアの彫刻は客観的な 形態美とい
N少一一O四
この中)
とされ
る。
近代の 視点か ら の頂点」(
勢は感性的な もの を超脱していく絶対精神の歩み という襲術外在的な 〈哲
学的 )視座か ら 、 2饗術の最高段階」〈
つまり「古典的整術は護術 として最高を極めたが、 :::ロマン的義術は理念に関して最高を極めた」
一の上〉 。 ζの複般的な 視点が並存
しているために為へiゲルの「
欝 術の哲学」
は救い 九戸、NP二」
一一一七O頁、一一一の下〉とされ というわけだ〈わS的。?
ニゆiNO峨一六
ょうのな い混乱に陥っ ている。
一一一一口語が 思惟のたんなる怒意的な 道具にすぎないという彼の 性の哲学のそれで あって、 らは 、 謹術という この
一八一 -allt-八
上の
の
が諮られる 乙とに
ることは一一 一一?つまでもない 。
に対
し
こ
外的なもので のひびきとい とし て
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ともあれ、
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(お)
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1969,
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(�) , 407パ 臣1 (}眠
(�). Maurice Merleau-Ponty 7 Ré
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1952-1962,Paris 968,
p. p.39時40 鞍馬,
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八三年、 みすず書房
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hhQ宮、札口ぬ〉ANmw江町内制定\lHUGE、qpNGぬoy~53zp∞戸口。江口(円。勺∞》刊のFO日cm川貯のuωωow
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日〉・N小、アN∞∞
(必)
~u~戸、戸ωNu
四O頁
(幻) 田和彦編 旬間同,rω 一二 八頁
。 以
下
門戸ムOF 一 四六頁。 「各人の自由 から 他 の人々の自由への 訴
多用した言葉から
きて いるものと思われる。 クロード e 筆へのきっ かけ を与えたのが 、 サルトル のこの工セiで
「文学とは何か』 ルフォールによ 宮武昭@
九
新曜社
官
ド品
田元訳 る形而
「人間のうち らの引用はめミと略記
。
かけ」と いう
十A山 、
おそらくサルトルが
Ji品
,.--.、
実E
った。 一
九 四
八
メル口 Hポン
な い
し四九
ずし 、
の評釈 をし たため、 それに八世界の散文〉とい いるとのことで
「 深い感銘」を受けな がら も、 「サルトルの
ある。 乙の覚書 を確認 できな いいま 、 うか
つ な
こ と る。
lζ
ような
批判的
コメント」も
のらく メ ル口2 ルト ルのア ン
ン
イ 斗斗出 、
の文学に或る重 大な 示唆を 受けな がらも、
由」 への訴えかけ といった考え方に反感 をお ぼえ とせずに、「世界の をタイトルに f-UU4}、ノ斗AU、
ノ内十ふ//υIV
的な 栢と〈散文〉的な 相との相互的な ダイナミズム サルトルへの
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〈 地平で把えか
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49
つ(錦)
郎@木田一冗@宮本忠雄訳竹内
NupyosmrHONoh忠弘mwNGMMm守口町勺及。F
同〉mw吋一段円v・九円九日
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認。吋目。由民i旬。ロダ回一w九日mw
吋知覚の現象学2』みすず書房一九七四年、二七六頁
(州知)
旬。同一向日
竹内芳郎監訳吋シ!ニlb
みすず
一九
六九
年、富。門戸081旬。呉ア九町内定的ゆ
可mw門一百一点獄。
寅。以下『シlニユ』からの引用はめと略記。 (印)
り3NU108門出向旬、e円相『町内科ゆ
間町MHSけ口出向N同門仏mw己∞のけmwロ〉ロ∞内向σ
。…
宮URE
ロdqmwH門日の出町。目的w富。門円。開口l旬。口付MHW
c/)
ヴ
ヂンフェルスのこの独語版への序文は、短文ながらきわめて示唆に富むもので、
「世界の散文」というタイ
トルの意味を考える上で参考になった。
(日)HHP一一O九貫
一七頁。
め∞O
(問)
ルi氏への書簡Kよれば、吋世界の散文への序説宍吋真理の起源宍「超越論的
人間」という三部作が構想されていた。
(日)
同∞。
一八l一九頁
(山内)
九四頁
l-曜掲弘
(日)
このような意味での、へ!ゲルとメル口Hポンティの結びつきについては、
別稿であつかった。
拙稿「ヘ!ゲルと現代フラン
ス
思想113ギトと〈他者〉h
吋へiゲル哲学の現在」世界思想社(近刊)所収。
(引用にさいしては、邦訳を使わせて-頂いたが、行論との関係で一部変更せざるをえなかった。訳者の方々の御寛懇を
う次第で る。
なお、
引用文中の〔〕は筆者の追補であり、傍点による強調もとくに断りのないかぎり筆者によるものである。〉
(やまざき静岡大学助教授)