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慶応・明治初年の浦上崩れと神仏分離政策

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(1)

慶応・明治初年の浦上崩れと神仏分離政策

重 藤 威 夫

H 慶応三年の切支丹迫害事件

出 明治二年浦上切支丹の総流罪

日 神仏分紐政策

長崎居留地貿易史の時代的背景の﹁分野として︑慶応・明治初年の浦上切支丹の迫害事件︵浦上崩れ︶を取り上げ

た次第である︒この間題については︑すでに大正末期から昭和初年にかけて︑柿崎正治博士︑カトリック司祭浦川和

三郎両氏の詳細︑周到な研究書が数種公刊されて居り︑昭和十八年には戸谷敏之氏の﹁切支丹農民の経済生活﹂が公

刊されている︒片岡弥富氏の研究もある︒仏語文献にはレオン・パジエスやフランシスク・マルナスの著書がある︒

︵ 註 ︶

前者は邦語訳が出されて居り︑後者は部分的に浦川氏の著書中で紹介されている︒・

慶応・明治初年の浦上崩れと神仏分離政貸 二七

(2)

日本切支丹宗門史(岩波文庫)

以上の如くで︑後学は殆んど手をつける余地が残されていないようである︒しかし最近︑長崎県立図書舘所蔵の史

料庫中に︑未だ以上の諸研究書で公表されていない左記の新史料を見出したので︑筆をとった次第である︒勿論先学

の諸著書に多くを負うているが︑新史料によって姉崎博士の著書中の二ケ所につき部分的訂正をなし得たことは幸で

ある︒また左記の諸史料をできるだけ利用することによって新しく附加した部分もある︒

宗門改一紙証文(慶応三年卯五月﹀︑高木作右衛門

(慶応三年卯四月より十一月にいたる︒)

)

不法埋葬届書二十三通︒

司 ↓

小島郷牢屋敷警衛役の御賄万入用米御渡の儀申上候書付(卯六月)

小島郷牢屋警衛賄方入用米代銀出方の儀申上候書付(卯十月)

()

(

異宗一件のもの共入牢中警衛役の御賄万入用米並諸品買入代金出方の儀申上候書付(卯九月)

供)

町方掛へ達(卯九月)

異宗一件御預のもの詰者之御手当被下度儀申上候書付(卯八月)

異宗一件の者共え蕃人夫書上帳(長崎村と浦上村山里のニ通)

小島郷牢屋明牢について口上党(卯十二月)

皇太神宮地所寄進につき浦上村への褒賞(明治二年己四月)W

慶応三年の切支丹迫害事件

慶応から明治初年の時代的背景として最も大きな意味があり且つ長崎地方の特色を最もよく示すものは︑浦上キリ

(3)

シタンに係る慶応三年と明治初年の切支丹迫害事件であろう︒

慶長十七年ご六一二)三月のヤソ教布教禁止以後︑長崎の浦上村山里で潜伏キリシタンが表面佑したのは︑

二年後の寛政二年(一七九

O)

が最初である︒これは﹁寛政崩れ﹂といわれる︒その年に庄屋高谷永左衛門は︑山王

神社の上手に当る奥ノ院という小丘に弘法大師の石像を八十八ケ所安置した︒その地点は現在でも俗称穴弘法といわ

れ︑弘法大師の石像が安置してある︒

右の費用が嵩んだため十九人の村民を呼び集め︑銀二十三買の寄進を申し付けた︒ところが十九人の者の拒絶を受

けた永左衛門は︑私憤を晴らすために彼等を切支丹であるとして奉行所へ密訴した︒十九人は召捕られたが︑翌三年

被疑者は証拠薄弱のため無罪となり︑かえて密訴者の永左衛門が詰責の罰を受け︑事件は解決した︒寛政四年︑再ぴ

作げ戸屋一味は同誌を放ち︑村民の若子名を名指して訴えた︒かくて︑教徒は縛につき︑こんどは遂にその信仰を自白し

た︒寛政七年頃︑教徒の改宗で事件は溶岩した︒それから四七年後︑天保十三年(一八四二)数名の村民が切支丹の

疑で捕えられたが︑無罪放免となり事なく済んだ︒

﹁安政崩れ﹂といわれるのは︑安政三年(一八五六)︑浦上村山里の庄屋高谷宮十郎︑散使小一右衛門等が村民の

天主教信仰につき内偵のうえ代官に訴え出て︑数十名の信徒が捕縛された事件をいうのである︒圧屋等は訴え出た後

代官の意を受けその探索に従事し︑﹁彼是格別骨折﹂った︒(岡部駿河守異宗一件)この時は︑牢屋内で多数の死者

を出し︑生残った者は四年後の万延元年(一八六

O)

に初めて釈放されている︒

皮応三年の迫害事件になると事情はかなり変って来ている︒安政五年︑米︑関︑露︑英︑仏の五ヶ国との五国通商

(

)

条約が締結された︒その通商条約の規定によって長年にわたる踏絵の法が廃止されたことや︑元治元年(一八六四)

に大油天主堂が建てられたことなどは︑依然として禁教政策は厳守されていたのにも拘らず︑浦上村山里の潜伏キリ

毘応・明治初年の浦上崩れと神仏分雄政知

(4)

シタンの信仰の火を内面的に燃えたたしめた︒慶応三年と明治初年の迫害事件の特徴は︑第一は信徒の信仰が積極化

したことである︒檀那寺の仏僧にはよる埋葬を拒否し︑信仰を公然と告白するようになった者が多数出ている︒第二

は処罰される信徒の数が非常に増加したことである︒慶応三年には六人名が牢獄に入れられた︒明治元年と二年には

千四百余人が諸藩に流刑になった︒

(註)安政五年六月十九日こ入五八年七月二九日)の日米修好通商条約︑第入条﹁日本に在る亜米利加入自ら其国の宗法を念し

E

(西)西

寛政・天保・安政と三回の崩れがあったが︑幕府の厳重な禁圧政策にもか︑わらず︑浦上村山里の農民は天主教を

棄てなかった︒安政崩れから残った水万が一人いた︒この水方は子供が生れると洗礼を授け︑教名を附した︒洗礼の

形式語も間違っていなかった︒臨終の者があると︑信徒はその周りに集ってオラシヨ(祈時)をした︒死後八日間は

聖︒ヘテロに天国の門を開き給へと祈った︒

一定のオラシヨを家内中で唱へ︑主日や祝日も守った︒かくの如く信仰の火が残されたことはおどろくべきことで

安政六年(一八五九)︑長崎︑箱舘︑神奈川の三港が聞かれ︑欧米諸国から多数の貿易商人が来往した︒

それと共に天主教の宣教師も伝道のために来た︒新教の方でも宣教師が長崎に来た︒安政五年の日米修好条約によ

(5)

ってアメリカ監督教会宣教師

S ‑ w

・ウィリアムスが来朝し︑翌六年パプテスト教会派のマクゴワン︑監督教会のり

ツギンス︑同じくCM・ウィリアムス等が中国から日本布教のために来崎した︒日本での新教の布教はこの年に始

まった︒幕府は文久三年(一八六三)一月に彼等のために外国人居留地域を定め︑町名を附けた︒多数の貿易商人の

来住によって︑外国資本の威力が次第に幕府の役人を始め一般民間人の問に認識されていったであろう︒それと共に

かうる資本を左右する外国人が信仰するキリスト教について改めて考へ直すようになったに相違ない︒又︑多数の外

国人を通じて︑天主教だけでなく新教を含むキリスト教というものが次第に認識され︑切支丹の復活だけでなく︑信

教一般の自由に対する気運が醸成されて行ったであろうことは充分に推察出来る︒

全国的に見ても︑国内は勤王︑佐幕の二派に分れて相抗争し︑幕府の権威が失墜すると共に︑従来の支配階級に対

する信頼感が失われ︑幕府が永い問とってきたキリシタンの禁圧政策に対する抵抗の気運が次第に強くなるのは当然

であろう︒時代は﹁文明開化﹂の方面にまっしぐらに進もうとしていた︒元来︑鎖国と禁教とは密接不可分の関係に

一方の鎖国が破れて開国になった以上︑他万の禁教政策が維持できなくなるのは当然であった︒か﹀る気

運に対して︑大浦天主堂の建設は決定的な意義をもつものであった︒文久二年(一八六二)︑ローマ法皇庁の裁判に

基き︑長崎西坂の丘で処刑された二十六人の殉教者への詰型式がぺトロ大聖堂で執行された︒これを記念し︑又︑二

る︒仏人宣教師︒フチジヤンが設計し︑ ﹁二十六聖殉教者堂﹂即ち︑現在の大浦天主堂であ

工事は日本人大工小山秀之進︒竣工は元治元年十二月二九日︑献堂式は翌慶応 十六型人に献げるため︑外人居留地大浦に記念堂が建てられた︒

元年(一八六五)二月十九日(陽暦)

(

)

鹿

(6)

D

1

大浦天主堂が建立されると︑浦上村の農民でこ冶を訪れて信仰を告白するものが次第に増加して来た︒その発端と

なったのは次の一事件である︒

天主堂の工事中には見物に来る者が多かったが︑献堂式の日には︑日本人は長崎奉行の代理だけが出席したほかは

全く姿を見せなかったが︑一ヶ月ほどして三月十七日(陰暦二月十二日)に十四︑五名の参観者があった︒

彼等は様子が何か違っているので︑︒フチジヤン師は彼等を堂内に招じ入れた︒その中の五十才から六十才位までの

女が三人︑宣教師に対して祭壇の前で信仰を告白した︒

ω

こ乙に旧信徒が発見されたのである︒この出来事を契機

そさめとして︑信者の信仰は燃え上り︑その後信者は浦上からだけではなく︑港外の諸島︑彼杵の外海地方や近接の大村領

五島︑平戸からも人目をさげて集るようになった︒又︑宣教師の方からも︑夜間日本服に変装し︑みの笠つ

けて大浦から小舟にのって浦上村に行ったり︑或は遠く海路︑五島まで伝道にでかけた︒浦上では人家の中に小天主

堂が四ケ所もできた︒か﹀るありさまで信仰復活の勢はとうてい潜伏の状態に止ることができず︑人目にかくしきれ

ないようにった︒

外国商人と接触する乙とによって信仰への奨励を受けた事例としては﹁探索書﹂(慶応三年四月)中に記載されて

父や弟と共に村内に伝道した︒又︑ いる次の事柄が著るしい︒浦上の中野郷の乙名久五郎の伴徳三郎は居留地の英国商人の家に住込んで︑天主堂に通い

その他の者と共に天草の方へも伝道を誌みた︒これらの伝道者が宣教師から習っ

(7)

た経文を︑平野宿の大工兼吉が版木に彫って印刷し︑分配した︒

ω

反応三年の迫害事件の端緒になったのは︑三月に起った埋葬事件である︒それまでの信徒は永年にわたる迫害のた

めに信仰が次第に弱くなり︑踏絵さえも行っていた︒新に宣教師が天主教会の信仰の正しい在り万を教え︑その宗規

アニマ

(

)

の救にあずかれぬと教えた﹀めに︑従来の妥協的な態度を捨てるようになった︒その

ために右の事件は起った︒

踏絵は安政五年の条約で廃止になったから問題はなかったが︑男女関係については厳粛な考へをもつようになり︑

花売のような小事にまで信仰の態度の変化が生じた︒従来は長崎へ花売に出かけていたものが︑異教礼拝の助をして

はならぬとの考へから︑花売をやめるようになった︒慶応二年の秋には圧屋から︑仏寺の寄附を求めたものを信徒は

断乎として拒んだ︒表面は一時平穏であっても︑何時かは何らかの形で事件が爆発せざるをえないような状勢にあっ

た︒その頃卯五月附で代官高木作右衛門は次のような証文を長崎奉行所宛に出して自己の家族と輩下の者共の異宗信

仰の取締を厳にすべきことを誓っている︒

宗門改一紙証文

一︑切支丹宗門従前々無慨怠今以相改申候

先年被仰出候御法度香之趣︑遂食議︑私家族並手代家来其他支配之者並召仕等︑切支丹紛鋪者無御座候︑依之

銘々寺証文取置申候事

一︑支配所末々之者︑常々行跡疑鋪者無御座候︑勿論手形取置候事︒

一︑此以後右之輩︑若切支丹怪鋪者於有之者︑早速可申上候為の如件

慶応三丁卯年五月

毘応・明治初年の浦上崩れと神仏分離政策

(8)

⑮  殿 殿

事件は三月に百姓三人という者の母が十一日に死んでそれを且那寺たる聖徳寺(浄土宗)に告げないで自分達だけ

で埋葬したζとから起った︒庄屋高谷官十郎が事件を取調べる筈であったが足痛のため︑散使古川宅助をして調べさ

せた︒三八とその兄藤十郎の二人は︑古川に対して︑旦那寺に頼まなかった理由として﹁先達中︑聖徳寺より役僧両

三人相廻り墓所改めいたし侯問︑向後は且那寺へ相頼不申﹂という︒聖徳寺で墓所改めした理由は次のようである︒

これより先︑百姓久五郎伴久蔵が二日に病死したが︑庄屋宅に届けず︑聖徳寺へも無断で内密に葬ったことを伝聞し

たので︑久五郎を庄屋宅に呼出して札した︒久五郎は︑自分は貧窮のため︑表立った葬・式を営み且那寺の引導を受け

ると︑本施物其外諸入費がか﹀るので︑内密で葬ったと答へた︒この事件はこのま︾で終ったが︑聖徳寺では向後取

締るつもりであった︒この春以来︑死亡人が至って少く︑内密で葬るものが多くなっては大変なので新に葬った墓所

の有無を見廻ったのである︒

庄屋が更に三八と藤十郎とを庄屋宅に呼出して調べた︒圧屋が何宗を信仰しているかと問うたところ﹁何宗も熱心

いたさず︑且那寺引導請候とも︑後世の助にならず不用の事につき︑向後死亡人有候時は自分共勝手に葬したし云々

﹂と答えた︒また﹁余事は何事も村役人申付を相背不申候得とも︑宗門の儀に付ては更に不問請﹂と大胆に信仰を告

白し︑今後とも仏僧の引導を受けないと主張した︒三八は去る己年の異宗一件で吟味中村預け処分を受けている者で

ある︒庄屋から代官に報告し︑代官は信徒を呼出して訓戒したが︑何の効もないので事件は奉行所の処分に移ること

(9)

代官高木の奉行所宛の三月十四日附(陽暦四月十八日)報告書によると︑三八が取調べられた後︑

ども多人数陀屋宅内え詰掛け参り﹂︑三八同様の願の趣をもって集まった︒結局︑その趣は願書で出すことになり︑

﹁浦上村本原郷の者共同村圧屋へ申立候次第﹂となっている︒

﹁私共儀︑先祖より申伝の儀有之︑天主教の外何宗にでも決して後世の助に不相成候得共︑御大法の儀に付︑目疋

までは無余儀︑且那寺聖徳寺引導請来候へ共︑是は役目までにて︑誠にウハノ空にて引導請来候へ共︑方今外国人

居留地之礼拝堂建立相成︑フランス寺教化の様子承り候処︑先祖伝来の儀と符号仕候に付︑別して信仰仕︑尤もい

まだ当分の事に付︑極意の儀は相弁不申候へ共︑人間にはアリマ(自由自

ω )

と申魂有之︑死後は極楽とも可申難有

所え生れ替り候もの﹀由︑和尚申諭候に付︑頻に信仰仕り︑且那寺浄土宗に不拘︑何宗にでもアリマの助り候教に

無御座候問︑御大法相背候段は︑如何にも恐入候へ共︑宗門一条に付ては︑如何様厳科に処せられ候共︑是非に不

旦那寺引導に不及︑自分共取置いたし候様仰付られ皮旨申出候﹂及候問︑向後天主教を持︑

﹁此節三八母たか埋葬いたし候儀は︑且那寺引導を請けまるまでにて︑外に相替り候儀無之︑尤も天主教におい

ても極意に至り候へば右様の事も無之由に候へ共此もの共においては未だ伝習不仕︑一体宗門に至候ては︑生前の

内其身々々の行を改め︑善行の功徳を以て善所に生れ替り候教に付︑葬式の節に臨み︑別段執法等無之︑猶香花は

アリマの助候儀に無之候へ共︑此節は先ず用申候︒又︑年季吊等いたし候へ共︑是は其もの分限次第

に取賄︑強ら伯を請し︑経文読一副︑並に酒食等供養の儀を専らと致さざる教に有之侯﹂

右の三八母の埋葬事件後︑三月から六月にかけて同様の事件が八件起った︒庄屋や代官は利害を説き聞かせ︑国林一所

であるとおどかしたが︑仏国宣教師の教えを信じて︑強く信仰を告白し︑一向に改めなかった︒埋葬事件について代

官の奉行所宛の報告書の一例を次に示す︒多くは同様の秘文であるが︑

民応・明治初年の泊上国れと材仏分雌政策 これは後に述べるように泊上村から多数の者

(10)

一 ム ハ

が入牢処分中の出来事であって︑信者の不動の決意︑態度が文面にあらわされている︒

浦上村山里本原口

E

卯五十六才

右のもの儀︑家内七人暮にて︑農聞に日一屈稼罷在り処︑女房いね儀当卯五十才にて昨廿二日病死いたし︑勝手に

埋度旨村役人え申出侯に付︑利害申間候へ共間入不申︑同日勝手に埋候段届出候問︑私役所に於て心得違申問︑御

法相守候様精々利害申諭候へ共︑間入不甲︑且那寺引導詰候ては︑来世に至り魂助り不申候問︑勝手に相埋候段申

立︑此上如何様仰付られ候共︑且那寺引導請不申旨申立候︑依之差出の儀申上候以上

卯七月廿三日

右の例は埋葬前に村役人に相談しているが︑多くは無断で埋葬している︒

奉行所では容易ならぬ事として︑色々の探索を誌みた︒調査の結果︑代官所管内だけでも七一二人に上ることがわ

かった︒そ乙で六月十三日夜中に男女合てせ七・八十人を召捕った︒その中で入牢になったのは六八人(内二人は宗

徒でなかった)であった︒彼等は小島郷の牢屋に入れられた︒

その後も埋葬事件は引っ

Y L

によると︑代官高木は︑七月に五件︿内起っている︒長崎奉行所御用留(慶応三年)

d

)八月に五件(内二件は入牢)︑九月なし︑十月に三件︑十一月に二件︑計十五件を報告して

八月の分は︑右の六八人の入牢中の出来事であるから︑彼等は入牢を覚悟の上で信仰を守ったのであろう︒

そのことは︑右の代官報告書の文言中にあらわれている︒事実︑七︑八月中の十件のうち三件は入牢処分を受けてい

(11)

る︒九月中に入牢者は全部出牢し︑村預けとなった︒彼等が宅呑引揚を命ぜられ完全に解放されたのは︑十一月七日

である︒十一月の分は報告書の日附が十八日であるから︑完全解放後の分である︒()

牢屋の状態はひどく悪く︑一坪に十人余が押込められていた︒

ω

乙れは後で外交々渉が起ってから仏国領事から

入牢者に対する残虐として抗議された︒

長さ二間恒三間六坪に六十五人坪十八人余

一間四万二ケ所ニ坪に女九人坪四人半

一坪に男四人

奉行所側では小島牢屋の警備のために次のような費用を負担している︒これは牢番六二人分の賄用の米に関するも

一八石六斗を計上している︒

ところが市中では米屋は唐国米だけを売っているので買集め難い︒奉行所の御蔵米を払下げてもらうようにとの次の のである︒彼等に朝︑昼︑夕︑夜中の四回弁当を給するため︑

ような願書を代官高木が出している︒

小島郷牢屋敷警衛役の御賄入用米御渡の儀申上俣市一日付

一︑米拾八石六斗

是はおよそ人数六拾式人︑朝︑昼︑夕︑夜中小夜食とも一日四度賄︒壱賄に付米式合五勺宛の積︑六斗二升

此一ヶ月三十日分︒

右者浦上村具宗のもの共︑入牢仰付られ︑小島郷牢屋敷警衛役の御賄の儀は︑村方にて引請取計︑月々入用可詰

陸応・明治初年の浦上崩れと神仏分離政策

(12)

7¥ 

取旨︑御達の通申付候処︑近頃米屋共唐国米小売専らにいたし︑至って手少なに相成︑買集方行届難く︑誠に高価

の折柄︑銀高にもおよび甚心配いたし候に付︑御蔵米御渡下され皮旨願出相札候処︑申立の通相違無御座侯問︑格

別の御評議を以て︑渡方仰付られ候様仕度奉存候依之申上候以上

拾八石六斗

此白米拾四石

此白米拾四石八斗八升但弐割減

L

此代銭千三百九貫七百四拾八文但︑白米一升に付銭八百七拾七文替

此金一同五拾弐両壱分永四拾六文余但壱両に付銭八貫六百匁替

長崎村小島郷牢屋警衛賄方入用米代銀出方の儀申上侯書付

i " 4  

4

一︑豊後白米拾四石八斗九升但︑弁当数七千四百四十五壱ツニ付弐合宛

外米壱石六斗五升四合五勺

此玄米拾六石五斗四升四合五勺

此代銀拾弐貫弐百四拾弐匁弐分六匡八毛 壱割精減

但秋相場壱石に付︑銀七百三拾九匁九分六厘

一︑同米弐石五升五合五勺余米村方え引請代銀可納分

(13)

此代銀壱貫五百弐拾日九分八匡八毛但右同値段

合米拾八石六斗賄米買請高

此代銀拾三貫七百六拾三匁弐分五匡六毛

右は浦上村山里異宗一件のもの共︑長崎村小島郷入牢中警衛役の賄の儀村方にて引請可取計旨︑仰渡され候処︑

其節市中売米払底にて賄万差支︑御蔵米為御買の儀申上候処︑書面の米拾八石六斗買請仰付られ候に付︑当卯七月

五日より九月十三日まで賄万仕り此節︑勘定仕候処︑書面の通御座候︒然らば右銀拾弐貫弐百四拾弐匁弐分六厘八

毛出方の儀︑其筋え仰渡され下さるべく候︑尤残米の分は村方へ引請させ代銀取立の一同︑御米代銀の口え相納候

様可仕候︑依之申上候以上

右の米十八石六斗︑この代銀十三貫七六三匁二分五厘七毛は︑七月五日から︑全員が出牢村預けになる日の九月十

三日までの牢容に対する賄代である︒但し︑最も頑強であった最後の一人が出牢したのは翌十四日である︒尚︑

ほかに九月一日から十三日までの分として次のような費用を計上している︒

異宗一件のもの共入牢中警衛役の御賄万入用米並諸品質入代金出方の儀申上候書付

i " 4  

且 」

一銭八拾六貫文

比金九両弐朱︑銭弐百弐拾四文但︑壱両ニ付銭九貫四百文替

毘応・明治初年の浦上崩れと神仏分離政策

(14)

右は異宗一件のもの共︑長崎村小島郷入牢中︑警衛役の御賄入用米並諸品買入代金︑書面の通御座候︒右金早々

出方仰付られ侯様仕度奉存候︒依之買入帳並向々賄請取書共三冊相添此段申上候以上︒

入牢となった信徒は︑食料として各人に十両の大金を要求された︒にもか﹀わらず︑食物その他日用品すべて自宅

から差入れねばならなかった︒何を差入れても牢番の私腹を肥すにすぎないことはわかっていた︒

ω

召捕の当時︑卯六月に代官高木は次のような届書を御勘定所宛に出している︒要旨は次の通りである︒

異国人が居留地に礼拝堂を建立して以来︑浦上村山里の者どもが次第に多数参詣するようになり︑日曜日には打連

れて行く状態である︒更に︑死者が出ても旦那寺の引導をうけないで︑勝手に埋葬し︑村役人が差止めても聞入れな

い︒公然と信仰を告白するようになったので放任できす︑六月十三日夜中に六八人を召捕った︒

肥前国浦上村山里郷のもの異宗信仰いたし候御届書

私儀御代官所肥前国彼杵郡浦上村山里掛り︑馬入郷の外︑里郷︑平野宿︑本原郷︑中野郷︑家野郷のもの共は往

古異宗信仰いたし侯儀の処︑先年御制禁以来は悉く改宗の上︑同村浄土宗聖徳寺旦那にて死亡人取置を始め︑年季

目︑仏参等の儀もすべて相替儀も無御座候ヘ共︑内心異宗を密に信じ︑悪弊免角不相止︑近年御開港に相成︑異国

船数般来舶︑万一相弘り候様にては不容易事に立至候訳を以て︑安政三辰年九月中︑其節の在勤荒尾石見守︑川村

対馬守隠密に取調べ︑主立候もの召捕相成︑其余のもの共多人数吟味相成侯処︑全く先祖の申伝に泥み︑異宗とも

居候処︑異国人ども居留場之礼拝堂取建御免許︑右作事成就︑ 不在︑密に信じ侯段心得違の段申立候に付︑夫々入牢︑村預け等に相成未落着無御座候︑夫以来改心いたし︑相慎

一昨五年頃より参詣致し侯ものも有之趣に付︑精々

(15)

心付候へ共︑不目立様取結ひ︑可笹原も不相見候得共︑追々信心のものも相増し侯模様の処︑当卯正月に至候ては

物毎不押隠︑具宗信仰の儀を表通り打出し︑日曜日に打連礼拝堂拝詣いたし候杯︑すべて是までと事替り候様子に

相見︑甚心痛いたし︑得と取調侯央︑三月二日本原郷三八母たか病死いたし侯処︑旦那寺聖徳寺引導を不請︑一切

且那寺に不拘︑自分共仲間にて埋葬いたし候様子に付︑村役人共より差止め候ても不問入︑勝手に取埋候に付︑当

人三八︑弟藤十︑庄屋宅に呼出︑心得違の段精々申諭候得共不問入︑あまつさえ右一名は勿論残四名のもの共罷越

し︑右は三八等両三名の事には無之︑一統の者共も仏関西礼拝堂に罷在候僧侶の異国人教化に預り生前改心機悔い

たし居候に付︑病死いたし候とも別段弔等請候法式に不及︑唯遺骸を隠候までの事に有之︑且那寺引導請候ては却

って来世の妨に相成︑腕助不申︑夫故右の通取計候段挙て申立︑とても理解可行届形勢に無御座候︒私役所へ差出

候儀申立候処︑右は先年奉行所吟味掛にて村預け中の者に付︑差出候儀申立候処︑不容易一件に付︑幾応も利害申

問旨申詰候末︑調役安藤銀之助︑同役谷津勘四郎︑両人私役所へ罷越候に付︑私一同及利害候処︑

致候得共︑其後病死之者共有之候節は︑前同様取計候に付︑私役所へ親族のもの呼出し相札候処︑ 一旦承知之返答

一旦利解の趣承

知とは申立候へ共︑後では後悔いたし候儀の旨申立候に付︑其時に奉行所へ申立置候処︑当六月十三日夜中︑右銀

之助︑勘四郎︑同並小路手利五郎三人後に多人数召述︑男女人数六十八人召捕︑村内に取建有之候礼拝堂体の処四

ケ所へ安置の仏像取上げ︑村預け申付︑組付の上︑もの共連帰候処︑本原郷︑中野郷︑家野郷︑里郷のもの共︑多

人数圧屋宅に罷越し︑取上になり侯仏像は異国人より借受居候問︑取一民罷越侯旨申立︑平郷にて取上げに相成候仏

像類持帰り候へ共︑猶多人数のもの共︑庄屋宅を不立去候段訴出候に付︑即刻私儀調役一同同所ヘ出張利害申間取

鋲置申候︒此上吟味の次第に寄候ては︑又々取騒ぎ候哉も難計気合に相問候問︑諸事長崎奉行所へ申詰︑夫々取鎮

方手当申付致候︒依之御届申上候︒以上

慶応・明治初年の浦上尉れと神仏分離政策

(16)

奉行所では入牢の上︑吟味し改心させようという考であったが︑さっそく十五日には仏国領事から︑十六日には荷

国の領事から勧告的な抗議がなされた︒領事は︑人道上の問題であり︑列国は日本を未開野蛮の国とみなし︑将来の

国交上重大な影響が及んで来るであろうD今すぐ放免されるととが賢明である旨を勧告した︒その頃長崎に来ていた

米国公使ヴアン・ヴアルケンブルも抗議した︒これに対して奉行は︑切支丹は国法を破った重罪人である︒江戸から

の指令がない以上︑独断で放免することはできない︒しかし彼等を拷問にかけないことだけは約束する︒と答えた︒

かくして双万物別れになった︒文︑プチジヤン師も直に仏国公使ロツシユに訴えた︒公使も事態を重大視し︑外交問題

として取扱った︒七月五日(陽暦八月四日)附の公使の訓令を受けて︑長崎の仏領事レツクもこの問題に対して大い

に働いた︒両者共この問題に対しては少しも信仰上の立場から論ぜず︑修好条約を結びながら︑条約国の宗教を邪宗

とするのは不穏当で︑将来外交上に重大な影響を及ぼすという見地から話を円満にまとめようとした︒八月五日(陽

には︑兵庫港の仏国軍艦で︑老中の一人板倉伊賀守と仏国公使との談判が行われた︒八月十七日には

立山役所で︑外国奉行平山図書守と仏国領事との間で談判が行われた︒その内容は次に述べる板倉と仏公使との談判 暦九月十四日)

と大体に於て変らないが︑領事の方から入牢者に対する残虐を和らげることを要求している︒平山はこれに対して﹁

牢内頗る寛澗にて囚人共相応に猶予有之候趣き﹂だと欺いている︒その後両者は二回談判している︒

板倉と仏国公使との談判に︑当時の幕府の主張と外国側の主張とがよく代表されている︒それらの主張を要約する

と次のようになる︒幕府は従来我国では国禁としてそれを犯すものは厳重に処罰して来たのであるから︑一度︑無罪

放免としたら︑園内議論沸騰し如何なる事態を生ずるか計り難い︒又︑国禁のものを政府から破ったのでは︑他の犯

罪を処罰することができないようになり︑国家の秩序を維持できないと主張した︒それに対し︑仏公使は︑仏国では

信仰は自由である︒貴国の人民と政府の聞に干渉する考はないが︑ヤソ教を信じた﹀めに数十人を召捕るということ

(17)

は︑旧来の阻習に拘泥する結果になる︒次第に文明開犯に向っている気運も水泡に帰し︑各国への信義を失うであろ

結局︑両者は物分れになったが︑板倉は同僚と相談の上︑八月八日までに兵庫の軍艦へ返事を届ける旨を約して大

阪に帰った︒その後︑老中達で会議の結果︑﹁時勢止むを得︑す﹂ということで︑一同を出牢︑村預けにするというこ

とになった︒公使側の言分が通ったわけである︒板倉から八月十日附の長崎奉行への訓令では︑召捕のものは残らず

村預けにするが︑決して他郷に行くことは相成らぬ︒人民がヤソ教のことで外国人居留地へ立入ること並に宣教師が

我国民に伝道する乙とは相成らぬ︒右に違反すれば︑人民は厳しく罰し︑宣教師は在留領事に交渉して︑領事から厳

しく申付けるようにせよと戒めている︒この訓令は九月四日に長崎に着いた︒この訓令に基いて︑次のような達が奉

行所から出されている︒

J ¥  

浦上村之内異宗門信仰いたし候もの共吟味中御処置之品も有之候得共︑右は室︑き御国禁之儀に付︑長崎市内之人

民弥以御国法相聞異宗信仰いたす問敷候︑万一外国人居留地教堂え罷越侯儀等相聞るに於ては︑召捕厳重之可及沙

汰候︑心得違之者及見聞侯はば早々可訴出候︑尤外国之教僧えは︑以後御国民え対し︑教法相勤候儀決而不相成段

其筋え相達置候問︑其旨相心得向後急度心得違いたす間敷候

右之通市内えも不洩様可相触候

卯九月十二日

九月十日以後︑入牢の者は表面上は改心したとの理由で全部出牢し︑村預けになった︒公使の要求通の結果になっ

鹿応・明治初年の浦上国れと神仏分離政策

(18)

た︒慶応三年のは外交関係のために︑禁制が事実上できなくなったことを示している︒奉行の方ではその面白から︑入

牢者全部の改心の上の出牢の形式にしたかった︒そのために打榔や答刑︑綱貴によって改心させようとすら試みた︒

中には十か二十の答刑で改心したものもあったが︑多くは信仰堅固で改心しなかった︒一方︑八月から九月にかけて

仏国領事からの出牢の督促が急なので︑奉行所も因って改心も形式上だけで﹁改心します﹂と言いさえすればよかっ

た︒それも困難な場合は単に﹁お上の法度を犯したことは恐れ入ります﹂と一一守つだけでよいことにした︒その﹁恐入

ります﹂も言うのを承知しなかった頑強な者が一人(辻の仙右衛門)が居たが︑それも﹁改心不致出牢﹂ということ

で︑九月十四日(陽暦十月十一日)には最後に出牢させた︒

ω

村預中に張者をつけた︒預け先は山里村の﹁正宗﹂のもの(切支丹でないもの)及び長崎村の百姓中から人選の上

一軒につき昼二人夜二人の宅呑(見張)をつけた︒浦上村から四十人︑長崎村から百人の蕃人を集めようと

異宗一件御預のもの詰春之御手当被下皮儀申上侯書付

浦上村山里異宗一件のもの共︑今度多人数改めて村預け仰付られ侯に付同村︑正宗のもの並長崎村百姓共の内人

選の上︑右御預けのもの方へ両人宛宅番可申付旨御達に付︑早速手当申付︑一昼夜にて山里より四拾人︑長崎村よ

り百人づっ差出し︑都合百四拾人宛代る代る詰者為致候︒然る処百姓万にては︑此節政納最中にて一居人等の相稼侯

程の場合に付︑右体多人数詰著いたし候にては必ずや難渋いたし侯段早々申立て︑事実相違無御座候に付︑右詰審

のもの共え御手当下され方勘弁仕侯処︑壱軒に付昼弐人︑夜弐人都合四人︑壱人に付︑壱貰弐百匁宛下され置侠は

Y難渋も薄らぎ可然候と奉在侯依之此段奉伺候以上

(19)

御附紙

書面のものとも之為手当一日米五合︑銭五百文為取候問︑取調申閲らるべく候

卯十月五日下ル

代官の願書では︑当時収穫期で百姓が多忙である乙とを理由に︑一人につき一貫二百匁の手当を給されるように願

っているが︑結局︑若人一人一日に給米五合と銭五百文を給することになった︒

長崎村からは周辺の大部分の各地区︑本河内︑伊良林︑中川︑夫婦川︑片淵︑西山︑馬場︑木場︑岩原︑高野平︑

小島︑十善寺の各郷から人夫四六人を集めている︒

浦上村からは馬込と中野郷から人夫二十人を集めた︒最初︑

で︑六六人が三三軒に昼夜張平合していたが︑二四日からは︑ 九月十七日夜から︑二三日夜までは︑一軒に二人づっ

一軒に一人詰となり︑二八人が十月十七日夜まで詰めて

いる︒二八人になったのは預所が五軒減少したからである︒番人の費用は︑一人一日給米五合と銭五百文を給した︒

九月十七日から十月十七日まで︑三十日分︑延人数二︑一O四人に対し︑米十石五斗二万と銭一︑O五二貫文を要し

(

)

右の農民による張番の他に︑遊撃隊の兵士が五O

名 ︑

は預所の門前で監視した︒長崎村の番人夫書上帳の九月十九日のところに︑ 一日に二回交代で︑遠くから預所の家を監視した︒

ω

﹁遊撃隊よりの沙汰にて人減仕候﹂と書 張番

いであるが︑農民が農繁期であったので︑人減しをして遊撃隊がその肩代りをしたものであろう︒

(註)幕末当時︑長崎にも勤王派と佐幕派とがあって相対立していた口勤王の志士で組織された土佐の海援隊と︑毘応三年入月長

毘応・明治初年の浦上国れと神仏分離政策

(20)

百六

崎警備の目的で︑長崎奉行が地役人の子弟及び長崎在尚の剣客等で組織した遊撃隊とが相対峠していた︒鹿応四年正月︑烏

羽︑伏見で公武両軍が戦った頃︑その情報が長崎に伝わり︑長崎でも不穏の空気がみなぎり︑両隊の間に一触即発の危機が

Dしかし海援隊の将である佐々木三四郎(後の侯爵佐々木高行)と当時長崎に来て︑専ら西洋の学術︑特に数学を研

究しつつあった薩摩藩の松方助左衛門(後の公爵松方E義︑彼の表面の役は薩誌の長崎駐在御船奉行副設であった)とが両

隊の聞に立って軽挙妄動をいましめ︑慎重且つ賢明に鎮撫の役を果したので︑流血の惨事を見るに至らなかった口四月十七

日に遊撃隊は振遠隊と改私された︒それ以後は英国式で訓練された︒振遠隊員三百六十余名は当時東北地方で戦つつあった

官軍に応援せんが為に四月十九月海路遠征した︒同月廿六日秋田に青いた︒入月入日以後は秋田領朝舞口で戦い後盛岡に入

城した︒十月十九日凱旋の途につき︑東海道を経て神戸から乗船し︑十二月二十日長崎に帰清した︒間

それから︑十一月七日(陽暦十二月二日)に新奉行河津伊豆守によって宅者引揚げを命ぜられ︑完全に解放される までに︑二十日位の日数を要したのであるがその問の正確な人数と費用は解らない︒右とは別個の給米諸取書による と一日約十名位の宅番が居ったと考えられる︒その頃になると監視もかなりゆるくなり形式だけになったようであ

﹁宅審も最初の聞こそ監視を厳重にして信徒の一挙一動に注意し︑自宅に居れば門前に張者し︑畑に行けば後を る ︒ つけ︑改心取消の者等が互に往復するのを断じて許さなかったものだ︒しかし暫くすると︑次第に警戒を緩め︑終に

夜間は全く棄ておいて顧み︑ざるに至った︒﹂聞という状態になったことによって︑大体を推測しうる︒

小島牢(九坪の広さ)が建てられてから︑それが道路を塞いでいるので︑百姓達が通行できず不便である︒明牢と

それを取壊し︑通行の便を計って頂きたいとの願書が︑十二月十七日附で出されている︒

なったので︑

浦上村山里異宗一件のもの共︑小島郷入牢仰付られ侯節︑右牢屋脇作道御建切︑通行不相成︑百姓共甚難渋仕候

(21)

得共︑御取締の儀にて差控罷在候処︑此節明牢に相成候へ共︑其佳にて難潮罷在侯儀に付︑何卒速に御引取成下さ

れ候様願出候︑依之此段以書付奉願候以上

卯十二月十七日

⑮ 

外国奉行平山図書守は︑入牢者に改心を求めた時の拷問事件(打鵬︑答刑︑綱貴等をさす)について︑仏公使から

約束に違反するとして責任を追求され︑自らも監督不行届だとして進退伺を出した︒仏国側には単に出牢村預けの処

分として通告したのであるが︑幕府側では面白上︑改心したので出牢村預けとしたかったからである︒幕府が平山に

対して如何なる処分をしたか不明であるが︑仏公使に対しては弁明陳謝し︑更に長崎の両奉行を当面の責任者として

十月下旬にその職を罷免した︒新奉行として河津伊豆守が十一月上旬に長崎に着任した︒しかし幕府の崩壊によって

新奉行も在職二ヶ月で長崎を去らねばならなかった︒伊豆守は翌年一月十四日米国汽船に乗船l長崎を退去した︒彼

は乗船する時︑奉行所金庫にあった金を全部持って行ったが︑先に述べた佐々木︑松万の二人(遊撃隊の註参照︺に

よって︑金庫が空になっていることを発見され︑金は取戻された︒

ω

要するに︑信徒の万では︑宣教師の来崎や天主堂の建立によってその信仰を大いに鼓舞され︑長年の潜伏状態から

脱却して︑復活の日も近︑きにありと望んで喜び勇んにことであろう︒圧屋や代官の訓戒や処罰にも屈せず︑大胆に信

仰を告白するようになった︒仏国の宣教師や領事の後援があるということも彼等を力づけたであろう︒禁教と必然的

に結付いている鎖国政策が破れて開国となった以上︑世界の大法である信仰の自由という日がやがて来るべきことを

宣教師を通じて教えられていたに相違ない︒

宣教師の方では旧教徒の発見によって︑伝道への勇気は百倍したであろう︒さきに出牢村預けとなす処分を幕府か

鹿応・明治初年の浦上崩れと神仏分雌政策

(22)

J¥

ら長崎奉行に通告する際︑宣教師が我国民に伝道するのを禁ずる旨の条項があった︒仏公使もそれを承認して︑宣教

師に対して浦上信徒への伝道を止めるように伝えたが︑宣教師の方では断然拒絶した︒そして長崎地方だけでなく︑

それ以外の大村や︑平一戸島︑五島の各地で潜伏の信徒を発見し︑伝道の熱に燃え︑ひそかに船で各地に渡って熱心に

伝道していた︒

幕府の方では開国と禁教との矛盾に悩みつ﹀あった︒

元来禁教と鎖国とは不可分の関係にあったが︑開国した以上は禁教政策が維持できなくなるのは当然である︒

幕府は接夷党の威嚇と各国外交団側との聞にはさまって進退に窮していた︒一践夷党や浪士の問では︑切支丹を郊宗

とする考へと宣教師の悪感化を警戒する心︑或は開国に反対する精神とが一つになって︑奉行の宗徒解放に対して暴

力によって反対しようとする気配を示した︒幕府は各国使臣を通じて︑世界の進歩の大勢を知り︑文明開化と共に信

仰の自由の日がやがて来るべきことを知っていたに相違ない︒又︑切支丹の信仰内容が邪宗とすべきでないことも知

っていた︒しかも国禁という伝統的な政策にこだわっていたのである︒結果において︑幕府も世界の大勢には抗し得

ず︑外国側にこの点でも屈服する乙とになった︒

)

( 註

ω

浦川和三郎︑切支丹の復活(前)

( 4 )   ( 3 )   ( 2 )  

姉崎正治︑切支丹の終末(大正十五年五月)・

二入頁

:

::

浦川和三郎︑向上書

/

( 6 )  

(5) 

~I奇

E治︑ゲ

::

:

浦川和三郎︑グ

(23)

(9)  (8)  (7) 

長崎市役所篇︑長崎と海外文化(犬正十五年四月)

浦川和三郎︑同上書・:;:

:

::

::

::

五六四頁

ド) 明治二年浦上切支丹の総流罪

明治二年の浦上キリシタンの流罪に就いて書くべき順序となったが︑次にその概略を記す︒

皮応四年正月︑鳥羽︑伏見の戦で官軍が勝った後は幕府の瓦解と王政復古はいよじよ決定的になった︒その前年の

十月に徳川俊吾は大政奉還を奏請し︑十二月九日には王政復古の詔勅が出された︑新政府樹立後は︑政令は京都の太

政官から出る事になった︑最後の長崎奉行であった河津伊一旦守は︑慶応二年十一月十二日から長崎奉行になったが︑

翌年一月十四日には長崎を去った︒

その後は︑長崎在留の諸藩士中の佐々木三四郎(佐々木高行)︑松方助左衛門(松方正義)︑大隈入太郎(大隈重

信)︑野田民部等が︑長崎会議所を置き︑合議で長崎の政務を処理した︒二月中旬には九州鎮撫総督沢宣嘉が長崎に

来て新政を布いた︒又彼は裁判所総督も兼任し︑長崎裁判所を新設した︒沢の輩下にあって総督府の実権を握ってい

たのは︑沢に従って︑下向した井上聞多(井上馨)の他︑右の松万︑佐々木︑大隈︑町田等であった︒

更に新政府は神道を復興して︑神道国教主義を取り︑世を祭政一致の古に復する事をその施政の大方針の一つとし

ていた︒沢総督は徹底した接夷論者で︑かつて︑三条公等と京都を脱出して長州諸に走った七卿の一人である︒依然

として掠夷思想の持主であった︒又極端な国家主義者で神道国教主義を奉じていた︒従って︑切支丹に対して︑断圧

主義を取る事は明らかであった︒又その当時までは︑まに長崎市民一般はキリスト教をおそれ且つ嫌忌している風が

長応・明治初年の浦上崩れと神仏分離政策

参照

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