棄丸の幻影―都久夫須麻神社本殿母屋をめぐって―
著者 アンドリュー・M・ワツキー, 三戸 信惠
雑誌名 美術研究
号 366
ページ 1‑26
発行年 1997‑02‑25
URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006209/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
棄丸の幻影
│
│ 都久夫須麻神社本殿母屋をめぐ て っ
ー ー
琵琶湖最北端に位置する小島︑竹生島には︑現在都久夫須麻神社本殿と呼
(1)
ばれる桃山時代のつつましい建造物がある
( 挿図
l) ︒ 桃山期︑竹生島は弁 才天鎮座の地として特によく知られていた
︒
様々な敵の脅威から日本を守護 する霊験あらたかな女神が弁才天であり︑本殿はその弁才天を把るための社
で あ
っ た ︒ しかし︑本殿︑ 正確に 言 えばその一部は︑
当初からこの目的のた
めに使われていたわけではない ︒
で は
一 体何のための建物であ
っ たのか︑本
稿はこの問題に焦点を当てて分析を試み︑弁才天の御堂ではなか
っ たと考え
られる
この本殿の一部についての理解を深めようとするものである
︒
問題の所在は︑
現存する本殿の建物を調べてゆくことでは
っ きりしてく
る ︒ 平面図をみると分かるように︑ 現在の本殿は︑ 三 間四方の母屋を︑
正 面
五 問
︑ 側面四聞の庇が囲む形とな
っ ている ( 挿図
2)︒
本殿に関する過去の 研究の大半は建築史の研究者によ
っ てなされてきたが︑
その研究によ
っ て ︑
庇と母屋の連結が不規則であること︑庇の屋根の構造が通常と異なること︑
棄丸の幻影
アンドリュ!・
戸 M
• i ワツキ
信
訳
蛮
dじρ
ることなど︑本殿の意外な構造が明らかにな
っ た ︒
庇の東西両側面において︑北寄り一聞の材料と柱聞のす法が他と相違してい
このような証拠から︑庇
と母屋は本来構造的な関連のない建物であ
っ た可能性が極めて高いとされて
(2)
きた ︒ この説の蓋然性は︑本殿の装飾を検討することによ
っ ても支持される ︒ 母
が施されているが︑ 屋と庇ではその装飾に際立
っ た相違が見られるのである
︒
まず︑庇には装飾
そこには 一 貫性がない ︒
庇の柱聞の何箇所かには︑様式 化された牡丹が大胆な唐草の葉の渦の中に埋められている建築彫刻が見受け
られる ( 挿図
315
)
が ︑ その殆どは与えられた空間に対して大き過ぎ︑唐
戸
︑ 可
OJldlv
彫刻には彩色の痕跡があるにもかかわらず 突に端を切り落とされているところもあ
っ て︑柱の聞の壁面には適合してい
庇の構造部には彩色がな されておらず
また庇の内壁には全く装飾がない
︒
本的に︑外側部分に断片的にあてはめられた彫刻から成ると
言 える ︒ つまり︑庇の装飾は︑基
これとは対照的に︑
母屋は全体が様々な装飾の手法を用いて飾られている
( 図版 I
l
︑挿図
X61m
) ︒ 内側は︑壁︑舞良戸︑
天井の全てが金箔地の上
挿図3 都久夫須麻神社本殿庇外側南面 木彫彩色牡丹唐草文外壁(挿図2E)
挿図4 都久夫須麻神社本殿庇外側南面 木彫彩色牡丹唐草文外壁(挿図2F)
挿図5 都久夫須麻神社本殿 南東から見た庇外側東面
美 術 研 究 第
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挿図1 都久夫須麻神社本殿外側南面(正面)
伸図2 都久夫須麻神社本殿平面図
棄丸の幻影
都久夫須麻神社本殿母屋内側東面中央間
都久夫須麻神社本殿母屋内側西面中央間 挿 図6
挿 図7 都久夫須麻神社本殿母屋内側東面
厨 子 内 障 壁 画
都 久 夫 須 麻 神 社 本 殿 母 屋 内 側 西 面 厨 子 内 障 壁 画
挿 図9
挿 図10
都 久 夫 須 麻 神 社 本 殿 母 屋 内 側 南 面 挿 図8
帰図12都久夫須麻神社本殿母屋内側天井画 菊図 挿図11 都久夫須麻神社本殿母屋内側天井画 芙蓉図
挿図14都久夫須麻神社本殿母屋外側南面中央間 挿図13 都久夫須麻神社本殿母屋内側天井岡 葡萄図
挿図16都久夫須麻神社本殿 中央聞の舞良rIを聞け北に 向かつて見た吋屋外側阿而
挿凶15 都久夫須麻神社本殿 仁11央聞の舞良戸を開け南に 向かつて見た母屋外側束面
美 術 研 究 第
/
、
/ ¥
号
四
棄丸の幻影
挿図17都久夫須麻神社本殿 中央閉め舞良戸を 開け南に向かつて見た母屋外側西面
部 分 鶴蒔絵内法長押
部 分 貝蒔絵内法長押 都久夫須麻神社本殿母屋外側東面中央間
都久夫須麻神社本殿母屋外側 挿図19
挿図20
都久夫須麻神社本殿母屋内側東面 中央間北寄り 菊 桐 文 蒔 絵 柱 部 分 挿図18
五
美 神f
ワh
Yし
/、
号
研
第
ノ ¥
に描かれた絵画によって埋め尽くされ︑外側の壁には高浮彫の木彫で飾られ た大型の板が蔽め込まれている
︒ 外側の彫刻は︑様式化された牡丹でなく︑
理想化されてはいるが写実的に表わされた芙蓉と菊が描出されていること︑
またそれらが繊細に表現され与えられた枠の中にうまく収まっていることな ど︑様々な点で庇のものとは著しく異なっている
︒ 母屋の柱と内法長押は︑
内側も外側も被うように蒔絵が施され︑柱と長押が交差する箇所には全て飾 金具が付けられている
︒ 彫刻の部分および蒔絵のない他の木の部分には︑
現 在では退色しているが彩色きれていたことが分かる
︒
こ の
よ う
に ︑
みごとに
調和された母屋の装飾は︑
まきに装飾のアンサンブルと呼ぶにふさわしい
︒
他の手がかりが︑
母屋の歴史にさらなる光をあててくれる
︒ それらは母屋
が本来は都久夫須麻神社本殿の一部ではなかったということを示唆している
のである ︒
ま ず
︑ 母屋にあった墨書銘によって︑もともとは京都の大仏殿の
(3)
近隣に一五八六年以降建造されたものであったことが分かる
︒
しかも︑母屋 が当初はそれ自体独立した建物であったことは︑遺構自体の物的証拠が示し
(4)
ている ︒ さらに︑母屋の棟札に書かれた内容からすると︑
(5)は母屋は竹生島に移築されていなかったことになる
︒
一 六
O 二年以前に
つまり︑今現在︑都久
夫須麻神社本殿の母屋として竹生島に存する建造物は︑最初は一五八六年以 降に京都に建てられ
一 六
O
二年まではそこに独立した建物として存在して
︑昌 司︑
︐甲
︑︑ ミ
しJ人
︐刀
一 六
O
二年に京都から移されて︑竹生島における本殿の母屋とい う︑全く新しい文脈の中に置かれることになったのである
︒
本来独立した建物であった母屋は︑
現存する桃山時代の建造物として︑最 も完壁な形で実現された装飾のアンサンブルと言っても過言ではない︒しか しながら︑竹生島に移築される以前はどのような建物であったのかについ て︑正確な情報を探り出そうとする試みが真剣になされてきたことはこれま
/'¥
でなかった︒そのことに労力を費やしたところで実り多い結果が得られそう
も な
い ︑
というのが率直なところであったのかも知れない
︒
現在本殿の母屋 となっている建物から本来の状況を示唆するものは払拭されており︑
ま た
︑
文献史料もなく︑ 元在った正確な位置も︑
どんな役割を果たしていたかも分
からない ︒
余りに多くの疑問が未解決のままなのである
︒
竹生島に移築され る以前はこの建造物は一体何であったのか
︒
それを注文したパトロンは誰な
の か
︒
何故ここまで完壁に装飾されているのか
︒
本 稿
で は
︑ 母屋は本来︑強大な力を持った世俗の庇護者︑すなわち豊臣秀 吉が︑追悼の意を表すために一六世紀後半に京都に建てた記念碑的建築であ
ったという説を提示したい ︒ 確かに︑時が経ち︑
また移築されたこともあ
っ
て︑現在の本殿の母屋の本来の姿は分かりにくくな
っ て
し ま
い ︑
かつての追
悼を連想させるものの大部分は失われている
︒ しかし こうした問題の答を
導き出す証拠は︑建物に施された移しい装飾の中に求められる
︒ 桃山時代の
文献と他の比較材料を用いながら︑
それぞれの証拠を相互に連関させること
によって︑未だ解明されていないこの建造物の意味に光を当て︑ 母屋の装飾
から明らかになる象徴的な連想のいくつかを復元したい
︒
1 1
母屋全体を包む豊かな装飾は
この建物について様々なことを教えてくれ
る ︒
ま ず
︑
母屋のように数々の手法を用いた賛沢な装飾は︑ 日本で最大の権
力を誇った人物が建てた建築物だけに見られるものであった
︒ こ の こ と は ︑
日本人による記録だけでなく︑例えば一六世紀に来日したヨーロッパの人々
(6)
の記した文書からも確かめられる
︒
従って︑母屋の華美な装飾は︑少なくと
も︑母屋が特別な建造物で︑
しかも重要な人物が庇護者となって建てられた
(7)
ものであることを物語っている
︒
このように大規模な装飾を備えた建造物を
作るだけの財源を費やせた人物は僅かしかいない︒
このような事柄以上の意味が母屋の装飾にあったことを
一六世紀の人々
はよく理解していたはずである
︒
その図様は花を主体に構成されており︑鳥 も添えられている
︒
東側の舞良戸には菊︑萩︑桔梗といった秋の草花が描か れ︑舞良戸上方の内法長押には鳳風と桐の蒔絵が見られる
︒
西壁の舞良戸は 満開の桃花を描いて春の景を表し︑内法長押の蒔絵には尾長鳥と椿とが配さ
れている ︒
現在厨子で隠れている箇所には雪を被った竹を描く冬の景の障壁
( 8)
画がある
︒
また︑内法長押上方の内壁には四面にわたって桜と藤が描かれ︑
格天井を構成する六十枚の絵には様々な四季の花木が散りばめられている
︒
このような装飾には︑当時の人々に対し明らかに語りかけるものがあっ
た ︒
問題はその失われた意味を今日どこまで取り戻せるかにある
︒ 母屋に用
いられるモティ
lフ は
一六世紀後半には︑現在では失われてしまった象徴 的な意味を持っていたのであり
また 一つのモティ
lフが同時に複数の意 味を担うこともしばしばあった︒しかも︑装飾の持つ意味が建物本来の位置
や役割を知る鍵とな
17世 紀 初 (1605年)ることも多い︒母屋
の場合︑京都の元在
った場所から移築さ
高台寺霊屋内部
れたために その装
飾の意味が非常に分 かりにくくなってし
挿図21
ま っ て い る
︒ し か し︑当時の状況や文
棄丸の幻影献と照らし合わせながら装飾を分析してゆくことで︑ 母屋の本来の役割につ
いてだけでなく︑
母屋の装飾がもともと持っていた意味に関しても多くのこ
とが明らかになる ︒
この意味で︑装飾の構成要素の中で最も解釈しやすいのは︑菊紋と桐紋の 組み合わせである
︒ これらの紋章は︑蒔絵の部分から金具︑
そして天井画を 囲む金箔の枠に至るまで
母屋内外の様々な箇所に見られる
(図
版IiX︑
挿 図
6 j
m )
︒
母屋およびその装飾が成立した頃には︑菊桐紋はその使用が
(9)
明瞭な意味を持っていた
︒ 厳しく規制されており︑
この紋章は︑時の天下人
豊臣秀吉に対し宮廷より授けられ︑豊臣政権の象徴となったものであり︑血旦
臣家は禁制を設けて全国的に御触れを出し
みだりに使われることのないよ
う監視した ︒
つまり︑菊と桐の紋は︑母屋が豊臣家の庇護のもとにあ
っ た
こ
とを物語っているのである
︒
移築以前の母屋の役割についてもおおよその推測が成り立つ
︒
母屋のよう に花を主なモティーフとし︑様々な表現手段を用いて内外にわたり豪華に飾
る手法は 一六世紀後半から一七世紀初めにかけて建てられた︑
死 者
を 弔
︑ っ
ための霊廟建築に共通する点である︒また︑特に室内の装飾に目立って金を
使用していることも重要な特徴である︒
(叩 )
秀吉が和られる霊屋が挙げられる︒この高台寺霊屋の場合︑室内は︑金箔地
一例に︑秀吉の菩提を弔う高台寺で
の絵から金蒔絵︑飾金具に至るまで︑ 花をモティ
lフとしたぜいたくな装飾
が施きれ(挿図幻)︑外側は黒漆と彩色による装飾が全面にわたっている ︒
移しい装飾が施された桃山の廟は︑
その後の一七世紀の霊廟︑とりわけ武
(日)
士階級の権力者のための霊廟建築にとって︑重要な前例になった
︒
寛永八年 ( 一 六 一 二 一 ) に没した陸奥の大名︑南部利康のために建立された霊屋は︑内 も外も金で包まれ︑柱と内法長押は黒漆で被われている
挿 図
的 μ ‑
n J ︒
内側
七美
号 研 柿1
ワh .:;tL
第
/
、
/¥
17世 紀 中 頃 南部利康霊屋
挿 図22
の壁と天井は︑松︑菊︑牡丹︑蓮などを描いて四季を表した花木図の障壁画
が主体にな
っ
ており︑建築彩色と木彫とが外側の細部を彩っている
︒ 同種の
(ロ
)廟として特に興味を引くのは︑松代藩初代大名の真田信之を把る霊屋である ( 挿図
M
・ お
) ︒
この廟の内部は金箔地に松︑
牡 丹
︑ 蓮 を 配 し た 花 木 図 な ど の 装飾で充たされ︑外側は花の彫刻と彩色とで飾られている
︒
これらの作例か ら︑武将を追善するための建物を飾る上で︑
(日)
装飾が特に重要視されたことが分かる
︒
花と金をふんだんにあしら
っ た
ま た
︑ 追 善 以 外 の 目 的 で 建 て ら れ た
︑ 廟 と 同 程 度 に 規 模 の 小 さ い 宗 教 建 築
では
これほどの装飾はまず施きれないことも重要である
︒
そのような建物 でも装飾が加えられることはよくあるが
これまで挙げてきた建物のように 室内も外側も全面的に飾られることはない
︒
言い換えれば︑大規模な装飾は 死 者 を 弔 う た め の 建 築 物 と 切 り 離 せ な い の で あ る
︒
こ の 母 屋 の 装 飾 は
︑ 本
八 南部利康霊屋内部
17世 紀 (1660年) 真田信之霊屋
挿 図23
挿 図24 来
これが追善の機能を果たす建物であ
っ
たことをは
っ きり示していると
言
︑ ぇ
?hv︒
これらの廟全体を彩る装飾の中では花を使
っ
た図様が目立つが︑廟に用い られる花井モティ
ー
フが連想させる意味については今まで考察されたことが
plh E
0 4hdLV
このような方向の解釈は︑
四 季 の 花 鳥 草 虫 を 描 い た 室 町 末 の 金 扉 風
文化庁蔵 ) についての議論の中で︑
(M)先鞭を付けている
︒
氏は︑金で彩られた草花の主題が︑浄土教の葬送儀礼の
( 六
曲 一
双 ︑
ベ ッ ティ l ナ
・クライン氏が 中に置かれる扉風絵にふさわしく︑浄土を表象するものであると主張してい
る ︒
氏の議論の大筋は説得性があり︑
適切な文脈の中に置かれた場合には︑
金で彩られた花井主題の表現に西方浄土の連想を喚起させる意図があること を理解できるのである
︒
西方浄土への憧れが日本で広く浸透していたことを考えると︑
この点はク
ライン氏が示唆している以上の範囲に適用可能であろう
︒
禅宗寺院の中にあ
っ た︑高台寺︑南部家︑真田家の霊屋もまた︑
西方浄土を連想きせるもので
あ っ
たと考えることはできないだろうか
︒
これら三つの廟には明らかに共通 する特徴がある
︒
す な
わ ち
︑
花を主たるモティ
lフとし︑金を惜しげもなく
用いて飾ること︑
そして皆死者を弔う目的で建てられていることである
︒
従
っ て︑三例の持つこのような文脈から︑
これらの廟に施きれた花の装飾もま た浄土の連想に結び付くと解される
︒
これと同じ観点に立 っ
て ︑ 母屋が死者を弔うための建物であ
っ た可能性を
考慮するならば︑
母屋内部に施きれた金と花の装飾は︑建物本来の場所で浄 土を暗示していたと
言
えるのではないだろうか
︒
障壁画は皆金箔地に描かれ
て お
り ︑
既に述べたようにかつては全体として四季を表す構成になってい
た
︒夏の景に該当する部分は現在では失われているものの︑
桃花を描く春︑
菊
・萩・桔梗を配する秋︑
そして雪竹を描いた冬が揃
っ ていることで︑ 母屋
真田信之霊屋内部 挿図25
棄丸の幻影 (日)
の障壁画には並存する四季が想定されている
︒
既に触れたように︑鳥のモテ
(日)
ィ
lフは蒔絵の部分に登場する(桐に止まる鳳風︑椿の上の尾長鳥
) ︒
柱と内 法長押には︑吉祥モティ
l
フである花が主題とな っ
て細やかに描かれ︑雲を 配した図様の蒔絵が全面に施されている
︒
それぞれに四季の花が散りばめられた六十枚の板絵からなる母屋の天井 も︑経典に記きれた浄土を思い起こさせる
︒
西方浄土には花の天蓋があると
(口)
﹃
大阿弥陀経﹄には次のように記されている
︒
さ れ
即於空中化成花蓋 ︑
︒
小者周園四十里
︒
或五十里
︒
或六十里
︒
如 此 展 醇
大
︒有至於六百寓里
︒
つまるところ︑格子状にな っ たこの母屋の天井は︑
経典に書かれた西方浄土 の花葦を暗示しているのではないだろうか
︒
それはこの暗示の長い伝統に連 なるものであり︑真田信之の霊屋を含む霊廟建築に見られる多くの例と同様
(日)
のものである ( 挿図お ‑ m ) ︒
以上のように︑先に挙げた霊廟建築の遺構例と
仏教の経典の記述を考え併せてみると︑ 母屋の室内装飾に
妙'G、寺玉法院
浄土を連想させる可能性を認めることができる
︒
このように母屋の室内装飾を読み解く上でもう
一 つ重要
なのは
四面の中央柱聞の戸口を飾るモティ
ー
フである
︒1591年
それぞれの柱聞の長押下端には蒔絵が施きれ︑葡萄が描か
(日)
れている
( 図版以
) ︒
母屋の装飾で葡萄が登場するのはこ
棄丸 (祥雲院)霊屋
の
他にわずか 一
箇 所
で ︑
天井画の中で花蓋の一部として描
かれているに過ぎないが︑柱聞の長押下端では︑ 葡萄はひ
とり目立つ場所を独占して際立
っ ている
︒葡萄が伝統的に
挿 図26
持っていた意味の中に
西方浄土を連想させる象徴性があ
ることからすれば このような場所に配されるモティ
lフ
九
美
柿1号
'7'0
7L
研
第
/
、
/、
崇福寺蔵 江月宗玩 17世 紀 初
墨跡之写 挿図27
(初)
に選ばれてしかるべきであろう
︒
葡萄は秋と関連付けられることが多い
︒
一三世紀の中国の僧日観
(71
一
二 九 五 )
(幻)ある
︒
の葡萄画に添えられた自題詩は︑秋に焦点を当てて詠まれたもので 弱蔓引惰藤
乗族法水晶︑
憶曾江路月︑
風露執秋棚︑
画家にとって︑宝石のような葡萄は想い描かれる秋の像を集約した存在とな
っ て い る
︒
この作品と白題詩は現存しておらず︑今日では︑大徳寺
︐
v云﹃J才
J J / 1 L
一五六世の住持江月宗玩
( 一
五七四i一六四三)による墨跡選集﹃墨跡之写﹄
に記きれたものからしか知ることができない
︒
江月宗玩は︑絵画に賛や詩が
ある場合にも丁寧にそれを記しており︑
その作品に関する様々な知識を伝え
。
(幻)ている(挿図幻)
︒
この大著は︑今日では失われてしまった美術に関する知 識を伝えてくれるだけでなく
一七世紀初めの日本で高く評価された画家や 主題についての目録としても貴重である
︒
この文献から
日観の葡萄画と書 が︑桃山時代に賞賛された規範的な作品の一つであったことが分かる
︒
葡萄にまつわる事柄として次に挙げられるのはその由来に関係するもの で︑葡萄画に付される題にもよく採り上げられている
︒
葡萄はもともと日本 原産でも中国原産でもなく︑迄か西方の地から東アジアにもたらされたもの
墨跡之写
であった︒葡萄の起源に関する言及は︑同じく現存してはいないが﹃墨跡之 写﹄には記録されている日観の作品に見出せる
︒
次の詩は︑葡萄が西方を連
挿図28
想させる精神性を持ちうることを示唆している(挿図お)
︒
弓閑掛壁弾未落︑
龍怒騰雲眼裡脱︑
我知此種出西閥︑(お)産梢挑取来談禅︑
一見した限りでは︑
この詩は葡萄の地理的な起源についてだけほのめかして いるように思える
︒
詩で述べられている﹁種﹂つまり作品に描かれた葡萄 は西方から来たものであった
︒
また︑葡萄は詩の最初の二句に詠み込まれ︑
﹁弾﹂や﹁眼﹂といった同じように丸い形をしたモティ
l
フとも結ぴ合わさ れている
︒
そしてもう一つ︑葡萄と繋がる隠鳴が詩の末尾に登場する
︒
それは︑葡萄と同じく西方を起源とする﹁禅﹂のことである
︒
西からもたらされ た﹁種﹂とは︑葡萄であり禅でもある
︒
葡萄は︑単なる異国的な果実という よりも︑仏教そのもののメタファ!なのである
︒
日観はその他にも︑
西方浄土を想起きせるべく︑葡萄と西方および仏教と の繋がりを掘り下げている
︒
この連想を最も明確に示しているのは︑現存のかれている
︒﹁ 葡 萄 図 ﹂ ( 井 上 氏 旧 蔵 ) ( 挿 図 却 )
に詠まれた詩である
︒
それは次のように書
( μ )偶有能諦遍吉経声者
也懐安養故郷者也
香稲雨催熟
丹心老変灰
夕陽帰路近 魂夢日表団
至我弄筆処
使我駿喜市作是画
詩云
(お)
叙文末尾にある﹁安養﹂は西方浄土の別称である
︒
詩に先立ち︑
棄丸の幻影
又書一詩奮所作
この世界に
紙本墨画 日 観 葡 萄 図 ー 幅
1291年 井 上 氏 旧 蔵 挿図29
葡 萄 図 狩 野 派 模 本 5502番 紙 本 墨 画 江 戸 時 代
東京国立博物館蔵 挿 図30
対する憧れがふるさとへの郷愁として表明される
︒
そして詩の中では自らに 迫り来る死を暗示する
︒
自身の﹁路﹂は西方に沈み浄土に向かう﹁夕陽﹂
σ)
﹁路﹂と重なり︑極楽にたえず想いを馳せている︒
この葡萄画のために︑画家がこの特別な詩を選ぴ︑
しかも詩に含まれる浄 土の意味あいを強調するために題も加えていることは重要である
︒
ここにあ
る葡萄は︑迄か西方の果実としてだけでなく︑
それ以上に浄土の象徴として の大切な役割も果たしているのである
︒
この作品は
江戸時代の狩野派の模 日観筆とされる葡萄画の数多くの模本の一例としても知られ︑そ
(お )
れらの模本の例はこの作品との歴史的な繋がりを明らかにしてくれる
(
挿図
本 σ
〕中
σ3狩野派の模本や江月の
は︑日観が葡萄画の早い時期の巨匠と
﹁ 墨
跡 之
写 ﹂
して日本で認識され︑高い評価を得ていたことを示している
︒
桃山時代も日
観の葡萄画を学ぶ伝統は引き継がれていたが︑
そこでも日観の葡萄は単なる 果物以上の意味を持っていた
︒
作品に付された題と詩から︑
そこに託すこと のできる意味が幾重にもわたっていることが分かる
︒
日観の作品における精 神性は︑井上氏旧蔵の画軸に端的に現れているが
この点は江月が別の書を 写した中で強調している︒江月によれば︑
(幻 )
作﹂した画家であったとされる
︒
日観は﹁嘗て墨戯を以て仰事を
こ の
よ ︑
つ に
︑ 日観が生きていた頃から母屋が建てられた時代に至るまで︑
葡萄のモティ
lフは︑視覚芸術においても文学においても︑ ここに述べたい くつかの意味を担い続けてきたのである
︒
母屋の中でも目立つ重要な所に葡 萄を配しているのは
このモティ
lフに対する特定の意味づけが意図されて いるからであると言える
︒
各面の戸口︑言い換えれば母屋の内側と外側の境 界となる四つの地点に葡萄を置くことで︑
そこから想起きれる西方浄土と︑
美
号 柿i
研
ワb71.‑
‑'‑
/、
第
/
、
室内に施きれた黄金と花の装飾が伝える象徴的な意味とを共鳴きせているの
である
︒以上
︑
母屋の重要な特徴が死者追善のために建てられた建築物と共通する
ことを確認してきた
︒内外にわたる総合的な装飾︑
四季の花木モティ
l
フ が
散りばめられていること︑金を用いた室内装飾︑
そして四箇所の入り口に葡 萄が配されていること
こうした諸特徴は
母屋がある人物を弔うために作 られた蓋然性を示唆していると考えられる
︒ こ の こ と は ︑
母屋の外側の装飾 を見てゆく中でさらには
っ きりしてくる
︒
YEEi YESA
y‑
‑A
建物外側の装飾も内側同様に多くの意味を含んでいるが︑
西方浄土に関係 しているわけではない
︒
その代わりに︑外側の装飾の多くは特定の故人その
人に関わ っ ている
︒外側で扱われる主題は限られており︑木彫で表された菊 と芙蓉の二つのモティ
l
フがその殆どを占める
図 版
H
m ︑
wujm︑挿図
pbJo
‑ ‑
よ
これらは四方の壁の各側面の格間一杯に大きく配きれている
︒
も と も
とあ っ
た八つの彫刻部のうちの六つが残
っ て
お り
︑ 四つが芙蓉︑二つが菊で
ある
︒外側の構造は紛れもなくこれらの部分に注意を集中させるようにでき
ている
︒区画を縁取る枠はその中に配きれた菊と芙蓉に我々の視線を向けさ
せ︑重要なモティ l
フであることを示す
︒
これら二つのモティ l フが︑本来
の母屋の持 っ
ていた記念碑的性質に適していたことを︑当時の文献から知る
ことができる
︒菊は日本美術全般にわたり最もよく用いられてきたモティーフの一つであ
る
︒母屋が建てられた当時
このモティ l
フは複数の象徴的な意味を持
っ て
お り
そのことは文献から窺える
︒
しかし
この複数の意味のうちのどれが
活かされていたかはモティ
l
フの置かれた文脈によ
っ て異なる
︒母屋に使われだ菊の持つ二つの意味については既に触れた
︒
まず一つは︑
桐と組み合わされた紋として表されている場合で
この菊は豊臣家を象徴す
る紋章とな っ ていた ︒ この菊紋の意味は︑桐紋の存在と︑
母屋成立当時に出 された禁制によ
っ て ︑
理解することができる
︒
もう一つの意味は︑ 四季を構
成する花の一要素とな
っ ていることで︑室内の障壁画に具体的に現れてい
るここに用いられた菊は︑桔梗や萩と共に組み合わされ︑秋を示してい
司 令
︒
このように菊を季節の徴として用いるのは
日本美術におけるごく一般
的なモティ l
フの使い方である
︒
室内装飾では花井モティ
l フが各季節毎に
振り分けられており︑菊もあるべき秋の景に正しく配されていることからし て︑描かれた菊が季節を表していることは明白である
︒
母屋の外側にある菊の彫刻は
これら二種類の菊とは根本的に異なる
︒
第
一に︑菊の彫刻は︑ 明らかに紋章ではないという点で︑
まず決定的に菊紋と
は違う
︒高度に抽象化されたデザインを用いる日本の紋章の慣習には準じて
いないのである
︒第 二
に︑与えられた枠に対して菊が非常に大きく表されて
い づh v
こ ﹀ ﹂ ル ﹂ ︑
その枠の中に秋の主要な他のモティ
l
フが配されていない点 で︑彫刻の菊は障壁画の菊とも異な
っ ている
︒もし菊の彫刻が季節的な意味 あいを持
っ ているならば︑室内の障壁画に描かれた菊のように周囲の状況か らそのことがは
っ きり分かるはずであるが︑
彫刻には共に配きれて秋を表す 他のモティーフが含まれていない
︒
従 っ
て ︑ 彫刻の菊に関しては第
三 の意味
を考えねばならないということになる
︒
ぐさ
一六世紀後半︑菊は﹁かたみ草﹂とも呼ばれており︑特に故人を追悼する
(お)
場合にふさわしい意味も持
っ ていた
︒﹁かたみ﹂とは通常︑遠く離れたとこ ろにいる人物︑あるいは︑ 亡くな っ
て二度と会うことができなくな
っ た人物
の代わりとなるもの例えば着物など)を指して用いられた語である︒
﹁ か
た
み草﹂とは︑花井モティ l
フに形見の意味が託されたものであり︑詩の分野
ではこの意味を込めた形象として用いられていた︒
このような﹁かたみ草﹂
の象徴的意味は美術においても求められている
︒
最も顕著な例は死者を弔う文脈の中に見出され
︑
そこでは特に菊の存在が目
立 つ
︒
一六世紀後半に死後の追慕像として描かれた肖像画には︑
図様の一部
に菊を描いた作品があるが
このような作品には皆﹁かたみ草﹂としての象 徴的連想が働いていると考えられるであろう
︒
兵庫県の慶雲寺に所蔵される肖像画は︑像︑王は明らかではないが
一 人 の
挿図31宗夢童子像 南化玄興賛 一 幅 絹 本 着 色 16世 紀 後 半 17世 紀 初
慶雲寺蔵 挿図32 篠原一孝婦人像 ー幅 紙本着色
1598年 妙 法 寺 蔵 棄丸の幻影
少年が描かれている
( 挿 図 引
)
︒上畳以外は何もない簡素な背景のもとに配
される像︑王は武家の装束を身に纏い︑
またその左手に持つ一輪の菊は黒い帯 を背景にその姿を浮かび上がらせている
︒
画面上方の賛は︑豊臣家と親しい 間柄であった禅僧︑南化玄興によって書かれたものである
︒
絵画作品によく
見られるように
ここに書かれた賛も描かれた像に趣を添えるものとして機
能しており︑
少年と菊とを似通ったものとして結び付けている
︒
賛は次のよ
つに読める︒
早離父母家 惜不保年華 穐菊一枝露
明為薄命花
本図は少年と菊とを繋ぐ象徴的連想を率直に表現している
︒
南化の賛は図様 と呼応し︑少年と形見草である菊との共に短くはかない命を同一化させてい
(却)るのである︒
同じようなことは︑加賀藩の武士篠原一孝の夫人を描いた肖像画にもあて
はまる︒
この図では︑書物や仏具など
この夫人の持ち物を像︑王挿図幻)︒
の周囲に配し︑像の中央に位置する右手に菊の絵が描かれた扇を持たせてい
る︒賛中には像︑王が一五九八年の秋に没したと簡潔に記されており︑扇絵の
画題に選ばれた菊はちょうど没した時の季節に合う
︒
と同
時に
︑
ここでも
﹁ か た み 草 ﹂
の連想が菊を画題に選択した契機となっているのである︒
同時期の肖像画として三つ目に挙げる次の作品には︑
より深く菊の象徴的 連想が働いている
︒像︑王の前田菊姫(一五七八一五八四)
は有力大名前田 利家(一五三八│一五九九)の息女で︑生後まもなく秀吉の養女となり︑七
(却)歳で没した(挿図お)︒
少女は玩具に固まれ︑右手には一輪の菊を握ってい
美
ιョ
で7 柿j
研
ヴh
:tt... 第
/、、
/、
絹本着色 挿図33 前 田 菊 姫 像 一 幅
1584年 西 教 寺 蔵
る ︒ こ の 肖 像 画 に 描 か れ た 菊 は
﹁ 菊 姫
﹂ を 文 字 通 り に 視 覚 化 し た も の と も 言
(出)
え る が
︑ 菊 を 描 く に 当 た り 他 の 象 徴 的 連 想 も 働 い た の で は な い だ ろ う か
︒ 菊
姫 は 一 五 八 四 年 の 八 月 に 没 し て お り
︑ 菊 は
︑ 菊 姫 の 亡 く な っ た 季 節 で あ る 秋 を 表 し た も の と 解 釈 す る こ と が で き る
︒ こ の こ と は 図 中 の 賛 に あ る
﹁ 秋 風 吹 山ア﹂の句からも窺える ︒
ま た
︑ 慶 雲 寺 本 と 同 様 に
︑ 他 の ふ さ わ し い 花 井 モ テ
ィ l
フ で は な く 菊 が 選 ば れ て い る こ と は
︑ 故 人 を 追 慕 す る 文 脈 に お け る
﹁ か
た み
十 早
﹂ の 菊 の 重 要 性 を 物 語 っ て い る
︒
こ こ で 菊 は な く な っ た 愛 し い 者 を 視 覚 的 に 象 徴 し て い る の で あ る
︒
菊というモティーフは︑特定の文脈に置かれた場合︑
亡 く な っ た 人 物 の 形 見 を 象 徴 す る 花
﹁ か た み 草
﹂ と し て 解 釈 す る こ と が で き る
︒
前 述 の 遺 像 の 作 例を見れば︑美術の中で菊がこのように扱われてきたこと︑
そしてとりわけ 重要な点として
一六世紀後半において︑
亡 く な っ た 人 物 を 偲 ぶ 場 合 に 用 い ら れ た 菊 が
︑ 特 に こ の 意 味 で 使 わ れ だ モ テ ィ
l
フであったことが分かる
︒ 母
屋 の 外 側 を 飾 る 菊 の 彫 刻 は
︑ 追 悼 の 役 割 を 持 つ 建 物 の 中 で
︑ 枠 内 に 堂 々 と 大 き く 表 さ れ
︑ 多 大 な 存 在 感 を 持 っ て お り
︑ ま さ に こ の よ う な 死 者 追 悼 の 意 を 伝 え よ う と し た も の と 考 え ら れ る
︒
四
このような菊の彫刻に対する解釈に妥当性を与えてくれるのは︑
母 屋 の 外 側 に 彫 ら れ た も う 一 つ の 主 要 モ テ ィ
l
フ ︑ 芙 蓉 で あ る
︒
母 屋 全 体 に 配 さ れ て い る 芙 蓉 の 特 徴 は
︑ 大 振 り な 花 と ぎ ざ ぎ ざ な 形 を し た 幅 広 の 葉 に あ る
︒ こ の
母 屋 の よ う に 芙 蓉 を 目 立 た せ る 例 は 他 の 日 本 の 建 造 物 に 見 出 さ れ ず
︑ ま た
︑ 芙 蓉 を 菊 と 同 等 の 立 場 で 扱 っ て い る 建 築 例 も な い
︒
芙蓉は中国原産の植物であるが︑
少 な く と も 絵 画
日本に入ってきたのは︑
表現を見る限りでは一四世紀以前のことで︑
そ の 後 次 第 に 日 本 絵 画 の モ テ ィ
(詑)
ー フ に 取 り 込 ま れ る よ う に な っ た と 考 え ら れ る
︒
王 町
( 一
五六五
l二 ハ
一
O
活躍
による百科全書﹃三才園舎﹄
一 六
一
O
年 頃 の 初 版 で あ る が
︑ 内 容
lま大 は
き 過 な 去 花 の び 書 ら 物
グ 〉 に
植 基 物 づ を い 描 て
し 、 し1
た る 図
カ
fこ
掲 こ 載 に さ は れ て 今
い(日る
33の
。 芙
こ 蓉 の に 図 当
グ)
こ : 1 上 る
あ 幅 る 広 見 の 出 葉
し とには二字の熟語が書かれており︑
この植物は中国で 芙 蓉 と 読 め る
︒ つまり
芙蓉と名付けられ︑
日 本 で こ の 特 定 の 花 と 芙 蓉 日 本 に 入 っ て き た の で あ る
︒
の語が結び付いていたことは
一四八五年の年記を持つ作例(正木美術館蔵) に よ っ て 確 か め ら れ る
︒
こ こ に 描 か れ て い る の は 明 ら か に 問 題 の 植 物 で あ り
︑ 賛 で も こ れ を 芙 蓉 の 名 で 呼 ん で い る
( 挿図弘) ︒
一六世紀後半において︑
上 層 階 級 の 事 情 に 通 じ た 人 物 が 芙 蓉 を 見 れ ば
︑ 特 に 豊 臣 家 の 一 員
︑ 棄 丸 と 関 わ り の 深 い モ テ ィ
l
フ で あ る と 認 識 で き た こ と
が一五九 0
年 代 に 書 か れ た 宗 教 関 係 の 文 献 か ら 分 か る
︒ 棄 丸 は 豊 臣 秀 吉 の 子息で︑後継者に目された人物であったが︑
(M)
ず か 二 歳 半 で 病 の た め 他 界 し た
︒
棄 丸 の 死 は 豊 臣 家 に と っ て 大 き な 悲 劇 で あ
一五九一年︑秀吉に先立ち
わ った︒当時︑棄丸は秀吉を父とする唯一の後継者であり︑
また秀吉自身も︑っ
こ の 幼 子 が 没 し た と き の 悲 嘆 に く れ て い た 秀 吉 の
(お)
様子が当時の日記類に‑記されている
︒
若 く は な か っ た の で あ る
︒
芙蓉は︑棄丸を偲んで作られた弔辞に一貫して使われだ独特なモティ
l フ
で 中
め る
︒
これらの弔辞は︑先に挙げた慶雲寺本肖像画の賛者︑南化玄興によ って書かれた︒南化は︑秀吉が棄丸追慕のために建てた祥雲寺の開基であ り︑祥雲寺で棄丸の霊を慰め︑初七日︑三回忌および七回忌のそれぞれに棄
(お)
丸への弔辞を作った
︒ この三つの弔辞の全てに芙蓉の語が一度ずつ使われ︑
どの場合も︑芙蓉は棄丸と直接結び付いている︒芙蓉は三篇の弔辞全てに共
通して現れる唯一の花井モティ l フなのである︒
これらの弔辞を十分に分析するためには︑芙蓉の語義について考察する必
要がある
︒芙蓉
の語は歴史的に二つの異なった植物を指していた︒
一 つ
は 母屋の外側の彫刻や前述の正木本に見られる花である
︒
し か
し ︑
この花に当
てられるよりもっと以前には︑現在﹁蓮﹂と呼ばれている花の意味を芙蓉は 持っていた
︒
中国の漢代や唐代の出典に加えられる注釈には︑芙蓉(司己
l
(幻)
は蓮として叙述されている ︒
芙蓉の語に対するこのような定義は日本
古口
問)
でも知られていた ︒
自然界について記した一六世紀中国の百科全書﹃本草綱
(犯)
には芙蓉が蓮の別称であると書かれており︑ 目﹄(李時珍撰
)一 六
O 七年に
(拘)
が長崎でこの書物を入手している︒ は林羅山(一五八三│一六五七)
一 六 世 紀までに芙蓉の語は幅広の葉と大きな花弁の植物を指すようになってはいた が︑蓮と関わる本来の意味を完全に失ったわけではなかった
︒
棄丸の幻影
とは言え︑桃山時代において︑
芙蓉の語からまず連想されるのは正木本や 母屋の彫刻に登場する花の方であった
︒
﹃ 日
葡 辞
書 ﹂
で は
一 六
O 三年版の
(刊)
芙蓉は﹁この名で呼ばれる花﹂と定義づけられている
︒言
い 換
え れ
ば ︑
凶 川
‑shp/ 上v
トガル語には芙蓉に当たる植物を指す言葉がなかったのである
︒ イエズス会
士達がこのような定義をもって説明しようとしていたのは︑ 現在日
恐 ら
く ︑
本で芙蓉と呼ばれている︑幅広の葉と大きな花びらの植物で︑中国から日本
にもたらされてはいたが︑
まだヨーロッパでは馴染みのなかった花のことで
ある ︒
彼らが蓮を想起してはいなかったことは︑芙蓉に対するその暖昧な定
同じ辞典の中で蓮は﹁
m︐
g c
﹂と表記され︑﹁の
O]
(日)
¥ .m
凶()﹂という︑蓮に相当する訳語で定義きれている ︒
イエズス会士達は蓮を 義を見ても分かる
︒
一 方 ︑
よく知っており
日本語と同じ意味を伝える言葉で蓮をポルトガル語に置き 換えることができた
︒
もしこの時点で芙蓉の第一の意味が蓮なのであった ら︑イエズス会士達は適切なポルトガル語でもっと正確に芙蓉を定義づける
ことができたはずである ︒
桃山時代の日本では芙蓉の語は二つの異なった植
物を指していた ︒ まず︑第一の 一般に広く通用していた意味 つまりイエ
ズス会士達が日本で知った意味は︑今日芙蓉と呼ばれている植物であ
っ た ︒
そして第二に︑
分かりにくくなってはいたがまだ完全に忘れられてはいなか
った古典的な意味の蓮があった︒芙蓉の語は一六世紀までに正木本に描かれ
蔵ている花を指すようになっていたが︑蓮と士口び寸く本来の意味を完全に失っ
賛 色 館 系 イ 三 着
桁
景阿美たわけではなかったのである︒
川 豊 木
横山一正芙蓉の語義は︑南化玄興の棄丸に対する弔辞の内容を解釈する上で重要な
図 年
蓉幅お知識になる︒現存する南化の弔辞は三篇に限られるが︑いずれも南化の語録
芙 一 日
4
﹃ {
疋 慧
国 明
園 師
虚 白
録 ﹄
( ﹃
虚 白
録 ﹄
) に
一 記
録 さ
れ て
い る
︒ 既に述べたように︑
図挿
芙蓉の語は三篇の弔辞全てに一度ずつ登場し︑棄丸に直接結び付いている
︒
五
美
/'¥
̲Lー /'¥
Eコ
τゴ
神I
'7'n
Yし
耳 ハ
了m H
第
しか
も︑
それは三篇全てに登場する唯一の花井モティ
l
フなのである︒
最初の弔辞の中で南化は棄丸と芙蓉の類似関係を謡っている
︒
それは次のような内容である
︒
祝望祝望夫以台霊(棄丸の意)麗如摘錦美似弄環
(必)
繰ゆ天質奈何檀華凋夕陽
︒
漏酒風標乳血ハ芙蓉開初日
ここでは︑棄丸は貴重な美しい品々に喰えられている
︒
その中の芙蓉と檀華
の二つはどちらも美しい花であるが︑
同時にそのはかなさにおいても特徴を
同じくする
︒
芙蓉も檀華も朝に花が聞き︑そしてその日の終わりには萎んで
しまうのである
︒
棄丸が生きた年月も
この二つの花のように光り輝いてい
たが短いものであ
っ
た︒
このような悲劇的な意味が両者の比較のうちに隠さ
れている
︒
芙蓉は命のはかなさを象徴しており︑余りにも早くこの世を去っ た棄丸にふさわしい花なのである
︒
一五九三年︑棄丸の三回忌のために書かれた弔辞では︑棄丸と芙蓉の関係
がより具体的に表されている︒
南化は次のように書いている
︒
(日)
吹免震雨椋天下
︒
松月三年感身後
芙蓉初日記生前 最初の弔辞の中で謡われていたのは︑棄丸が芙蓉のようにほんの僅かの命を
臼守ご
J干
j p
︑
ノ イ I J /
才
/ J L づt︑
花開いたかと思うとすぐに死を迎えてしまったことであった
︒
それに加えてここではきらに︑
芙蓉と棄丸の一対一の相応関係がはっきりと
示きれている
︒
棄丸が亡くなってから三年が経ち︑南化は芙蓉を見て在りし 日の棄丸の姿を思い出すのである
︒
一五九七年に書かれた七回忌の弔辞は︑三篇の中で最も短いが︑芙蓉への
(叫)
言及は先行する弔辞と呼応している︒それは棄丸を偲んで香が捧げられたこ
とから始まり
この導入部のすぐ後に﹁別別芙蓉露作蓄破雨﹂の詩的な句が
続く
︒
香を手向けられた棄丸は芙蓉と並列され︑結び付けられている
︒
芙蓉 一六の露が蕃一微の雨に変わるという表現は︑芙蓉を生前の棄丸に︑雨を亡くなっ
た棄丸に準えた三回忌の弔辞を思い起こさせる
︒
ここでもまた︑棄丸は芙蓉 の花が息づく世界の中で捉えられているのである
︒
これら三篇の弔辞全てにわたり︑棄丸は芙蓉と結び付けられており︑芙蓉 はある意味で棄丸を象徴する﹁かたみ草﹂的存在であると言える
︒
しか
し︑
ここで使われている芙蓉の語は︑
可能性として考えられる二つの意味のうち のどちらを指しているのだろうか
︒
禅宗の弔辞には聖なる蓮の花の方がふさ
わしいと思われるかもしれないが︑南化自身による﹃虚白録﹄の記述内容を
通覧してみると︑必ずしもそうとは限らないことが分かる
︒ ﹃
虚白録﹄に記 録された南化の弔辞は︑棄丸を含む二十一人の人物を対象とし︑全部で二十
七篇を数える
︒
南化はそのうちの九人への弔辞の中でこの聖なる花を指すた
めに
﹁蓮
﹂
の字を用いており︑また︑蓮華経などの﹁蓮﹂の字を含んだ固有
名詞を記す場合にも使われている
︒
南化が聖なる蓮花の意味を伝えようとす
(日)
の字が使用されていたのである
︒
る際には﹁蓮﹂南 化 は
﹁ 芙 蓉
﹂ に
︑ 蓮 で は な い 花 の 意 味 を 託 そ う と し て い た
︒
松︑
梅︑
桃︑竹や牡丹など︑特に宗教と関わりのない花木モティ
l
フが南化の弔辞によく登場する
︒
これらのモティl
フが置かれる文脈は︑全くと言って良いほ
(必)
ど仏教的な意味あいとは関わりがない
︒
その代わりに︑例えば︑﹁春欄秋菊﹂のように︑季節と関連きせてモティ
i
フが選択されていることもある
︒
同様に︑弔辞に登場する花木モティ
l
フが︑故人の亡くなった季節に結び付けら
(灯)れることもある
︒
棄丸の弔辞に芙蓉が用いられた理由の一つがここにあるか
も知れない
︒
当時の文献を見ると︑芙蓉は八月から九月の花とされている
︒
棄丸が没したのは八月
つまり芙蓉が咲く時期である
︒
棄丸のために書かれ
たものを除く他の弔辞の中で︑芙蓉に触れた箇所が三度だけ出てくるが︑
で炉
、 ーー
の中に︑南化が棄丸への弔辞を記した一五九一年から一五九七年までの同じ
(時)
時期に書かれたものはない
︒
棄丸のための
三
篇の弔辞の中で︑南化が芙蓉の語を用いてこの少年と具体 的に結び付けていたのは︑蓮でない花の方である
︒
まず第一には︑芙蓉が八 月の花であることから︑棄丸の亡くな
っ た八月という時期を暗示しようとし たものと考えられる
︒
ま た
︑ この花の特徴であるはかなさが幼くして亡くな
っ た子供にあてはまることから︑
芙蓉が選択されたとも見なせよう
︒ いずれ
の理由にせよ
少なくとも棄丸の死後七年間
つまり一五九 0
年代の大半に わたり︑棄丸と芙蓉との結び付きが一貫して存在していたことを南化の弔辞
(的)
は物語 っ ている ︒
この時期︑それにふさわしい文脈に置かれたとき︑芙蓉は
(叩)
棄丸を象徴する意味を持
っ たのである ︒
それでは︑南化が弔辞の中で芙蓉の語を用いたことと︑
母屋の装飾に芙蓉 が登場することとは︑何か関わりがあるのだろうか
︒
母屋内側の天井画に出
てくる
芙蓉
は ︑ まず関係がないと考えて良い
︒( 図版
V︑挿図日 )
ここでの芙 蓉は特に際立
っ た存在ではなく︑西方浄土の花蓋を飾る数多くの花の一つに
過ぎない ︒ これとは対照的に︑
母屋外側の芙蓉の彫刻の存在感は極めて大き く︑しかも︑大規模な芙蓉の木彫としては日本で知られる最古の作例でもあ
る ︒
芙蓉をこれほどまでに際立つように用いることが︑偶然に選択された結 果であるとは考えにくい
︒
芙蓉を母屋外側の装飾に特別な形で登場させたの
はこのような文脈に置かれた時︑このモティ
lフが特別な意味を持つから であると思われる
︒
母屋と弔辞に関する事実を照らし合わせてみると︑芙蓉の彫刻と︑南化が 用いた棄丸の象徴としての芙蓉との聞の特別な結び付きが浮かび上が
っ てく
る ︒
まず︑棄丸のための弔辞が書かれた時期は母屋が建設された時期に当た
棄丸の幻影
るという点が挙げられる
︒
母屋の彫刻が制作された時期には
芙蓉 つまり
と棄丸とを繋ぐ連想関係も存在していたのである
︒
また︑棄丸への弔辞を依 頼した豊臣家は
この母屋を建てきせた注文主でもあ
っ た ︒
同時期に同じ庇 護者によ
っ て作られた詩と建物の双方に同一のモティ
l
フが用いられている
場 合
︑ その意味は共通している可能性が高いと考えるべきであろう
︒ そして
こ の
こ と
は ︑
母屋の装飾および棄丸への弔辞の両者の中で芙蓉が重要な位置 を占めていたことと︑当時の建築彫刻や弔辞で芙蓉が使われるのは非常に希
であ っ たことを考慮すると︑
まず間違いがないと思われる
︒
一 五
九 0
年代には︑追悼のために作られた文書や作品に花井モティーフが 使用される習慣があ
っ た ︒
このことは前述の慶雲寺本肖像画に見ることがで き︑実際︑棄丸への弔辞を記した南化は慶雲寺本にこの習慣通りの賛を残し
ている ︒
芙蓉と棄丸の関係もこのような花と故人を結び付ける一例に他なら
ず︑それが南化の弔辞に文として記きれ︑
母屋外側の装飾に視覚化されたと
言 える ︒
一 五
九
0
年代に存した豊臣政権周辺の人物︑あるいは事情に通じた 知識階級であれば
この芙蓉の彫刻の意味を理解できたであろう
︒ しかしそ
の 意
味 は
︑
母屋が本来の場所から移築されたこと︑
そして時間が経過したこ
とによ っ
て︑暖昧にな
っ てしま っ たのである ︒
最後にもう一つ︑棄丸と母屋を結び付けるモティ
l
フとして挙げられるの
は鶴と松である
︒ まず初めに︑
母屋外側に施された装飾において諸モティー フが規則正しく配列されていることに注意を喚起しておきたい
︒
例 え
ば ︑
四
隅 の 柱 に は 全 て 菊 桐 紋 の 付 い た 牡 丹 唐 草 の 装 飾 が 施 さ れ て い る
( 図版凹
) ︒
つ ま
り ︑
母屋外側の四面それぞれの同じ箇所に同一モティーフが配されてい ることになる
︒
但 し
︑
た だ 一 箇 所 ︑
西面中央一聞の柱と長押の外側にのみ例 外が見出される
︒ 他の 三 面の中央一間では︑柱に菊を︑内法長押に目ハ殻をあ
七