• 検索結果がありません。

価 値 法 則 と 配 分 準 則 − ノ 近 代 家 族 経 済 の 意 味 検 討 を か ね て ・ 1 − 木

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "価 値 法 則 と 配 分 準 則 − ノ 近 代 家 族 経 済 の 意 味 検 討 を か ね て ・ 1 − 木"

Copied!
42
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

﹁共同社会的生産が前提されたばあい︑時間規定ほ当然のことながら依然として本貿的な意義をもつ︒社会が小麦  

や家畜等々を生産するために要する時間が少なければ少ないはど︑ますます多くの時間を︑その他の生産−−物質的  

または精神的なT−−のために社会ほ獲得する︒個々の個人のばあいと同じく︑社会の発展︑社会の享楽︑社会の活動  

の全面性ほ︑時間の節約にかかっている︒時間の経滞︑すべての経済ほ結局そこに解消する︒社会が︑自己の全欲望  

に即応した生産を達成するために︑その時間を合目的的に分割しなければならないのほ︑個人が︑適当な比例で知識  

を得たり︑あるいほかれの活動にたいするさまざまの要求に満足をあたえたりするために︑かれの時間をただしく分  

割しなけれはならないのと同様である︒だから時間の経済ほ︑生産のさまざまな部門への労働時間の計画的配分と同  

様に︑依然として共同社会的生産の基礎のうえでの常山の経済法則である︒それほさらにほるかに高度な趣旨ですら  

法則となる︒しかし︑この法則は︑労働時間により交換価値︵労働または労働建産物︶を測定することとほ本質的に  

ちがっている︒﹂︵只aユMar抽﹀Grundrisseder只ritikder P01itighenOkOnOヨie.Die〜Aus甲−欝㌘S・∞p高木  

単二郎監訳﹃経済学批判要綱﹄第一分仰︑九三ぺー汐︒訳文山部変吏︒︶  

価値法則と配分法則  

価値法則と配分準則  

− ノ近代家族経済の意味検討をかねて・1−  

木   村  

︵五︶  五   

(2)

ヽヽヽヽ   資本制社会が商品交換および商品生産の開展したものとして︑臆史的にも理論的にも︑刷般にいわゆる価値法則  

︵厳密に表現するなら︑商品価値法則︶︑すなわち︑商品の価値は質的にも量的にもそれを生産するために投下され  

た労働T−⊥質的には抽象的人間労働︑鼠的︑には社会的に必要な労働時間−にょって規定されるという法則に規制  

されるものだということは︑周知のようにマルクス経済学の根本命題である︒もちろん︑商品生産の山般的法則と  

しての価値法則ほ︑いくつかの社会に共通な経済法則であるし︑商品生産ほ資本制社会だけでなく︑原始共同体礼  

金の解体期以隆︑奴隷制社会・封建制祉会をつうじて存在したし︑また社会主義社会にも商品流通が存続するかぎ  

り存在するだろうが︑しかし価値法則は︑労働生産物だけでなく労働力そのものもまた商品化される最高の発展段  

階にある商品経済としての資本主義において︑社会的生産の無政府性と競争の支配のもとで︑はじめてその作用を  

社会的生産の全領域紅浸透させ︑資本主義に閲有な特殊諸法則を媒介として︑生産価格︑ま允さら虹橋場関係下で  

の価格の価値からの碑離をとおして︑つまりいわば変形されながらも︑かえ︹て自2をつらぬキ社会的生産およ  

︵1︶  

び再生産の規制者となるということは︑マルクスの立場にたつかぎり︑大体異論のないところだろう︒このように  

把握されたものとしての商品社会︑′ないしとりわけその完成形態たる資本制社会について︑その旨目的運動の自律  

性を厳密に解明し︑﹁市民社会﹂の経済的土台せ白日下にさらすとともに︑そのブルジョア的理解や無理解に徹底  

的批判をくわえることが︑﹃資本論﹄を中心としたマルクスの経済学的諸著作の中心課題だった︒   

しかしそれにもかかわらず︑このような課題を明確に意識しながら展開されたマルクスの経済学上の論述にも︑  ヽヽヽヽヽ  その隅々において︑商品交換・商品生産の存在しない︵つまり︑それ以前または以後の︶社会の経済的局面につい    第三十三巻 第叫号  ︵六︶  六  

(3)

ての言及が︑みうけられなくはない︒たとえば︑とくに﹃経済学批判要綱﹄の﹁貨幣にかんする茸﹂とか︑﹃資本  

︵2︶  

論﹄第一巻第卑欝四節などが︑そうである︒そのような個所で︑マルクスほ﹁経済﹂にかんしてなにを語ろうと  

していたか︒このばあいにも︑後述でも触れるとおり︑マルクスが︑商品社会における価値法則とは区別された意  

味での︑労働ないし労働時間の社会的対象化規昏二般の厳存を明瞭に確認し︑しばしばこれを﹁価値規定﹂と呼ん  

ヽヽヽ の︑あるいは客体的には︑人間にとって物質的および文化的︑総じて生理的必要を充足するもの・人間との代謝関   でいることが注恵されるが︑しかし︑個人のたんなる﹁時間の経済﹂ほしばらくぺつとして︑社会的な﹁労働の配  分﹂なり﹁労働時間の社会的に計画的な配分﹂は︑.労働生産物〜−−・㍗れほなお社会的労働の対象化物であるにせ  よ︑ここではもはや原則として本来の意味の価値生産物︵商品︶でほなくて︑生活資料そのもの・生産された生産  

ヽヽヽヽヽヽヽ  手段そのもの・および再生産された労働力そのもの︑つまり︑主体的表現を維持するなら︑総じて使用価値そのも  

ヽヽヽヽ  係にあるもの・としての物そのもの︑という意味を優越させるほずである王−や︑それと対応する主体︵ないし生  

理的人間︶とその欲望︵ないし生理 

マルクスほかんがえたか︒エンゲルスはどうか︒またかれら以後では︑どうか︒さらに︑もしなんらかの意味でそ  

の﹁法則﹂が認定ざれるとして︑しかも他方でほ商品世界の内側にも一見たえず使用価値の世界がくっついている  

ようにみえるとするなら︑こめ﹁港則﹂ほ一般的なものか︑特殊的なものか︒価値法則との関係ほどうなのか︒そ  

れは自然法則的なものか・︑それとも歴史的法則なのか︒それは資本制社会の枠のなかで︑また社会主義社会におい  

てどんな存在の余地をもちうるか︒   

本稿の目的は︑およそ以上のような問題を︑その意味を自問しつつ設定し︑この問題をめぐる基本的脈絡の整理  

のための端緒を試論的にさぐるということにあ︑り︑あわせて︑これまでひさしくブルジョア経済学の占有物となっ  

価値法則と配分法則  ︵七︶  七   

(4)

︵八︶  八  第三十三巻 第ご号  

てきた主体的経済藷範疇を︑本来の位置にひきもどそうという意図をもつ︒この問題をとりあげるにあたっては︑  

論点についてもその素材についても︑大熊信行博士および大泉行雄博士のお仕事に多くのものを負うでいること特  

記しなければならない︒なお︑社会主義社会における経済法別の問題をも予想し︑またそれに触れることにもなる  

が︑しかしそれがさしあたってめ中心課題ではなく︑むしろ︑社会主義社会をふくめた非商品社会一般における︑  

直接に社会的な労働の対象化を︑共同化された主体がどんな歴史的法則によって受けとめるかを︑問おうとするも  

のである︒問題の性質上︑多岐にわたるはずの論点の多くに︑紙幅の関係で触れられないことを︑あらかじめおこ  

とわりしたい︒   

むて︑このような問題紅踏みいるさい︑ただちに検討を要するのは︑まずなによりもこの問題についてマルクス  

やエシゲルスがいい残し虎種々欄文脈の合意である︒第叫に︑とくにマルクスがその経済学的著述で終始価値視点  

の不可欠的重要を強調したことは周知のとおりだが︑それはかならずしも商品社会に限定されたものでなかったと  

も受けとれる︒この点が吟味されなくてはならない︒q第二に︑ 

に指摘したが︑その論述はかれの意図どおりに員徹していたかどうか︒第三に︑マルクスやエンゲルスは︑欲望と  

か使用価値といった経済学上の主体的諸範疇紅ついて︑ブルジョア経済学批判鱒開通して︑とくにきしびい態度を  

持したことほ周知だとして︑.他面︑共同社会にかんしてはそのような諸範疇を許容しているようにおもわれるが︑  

これら緒範疇の社会的・歴史的内包と外延にかんする規定につき︑どんな示唆がのこされたのか︒最後に︑かれら  

ほ共同社会の主体的諸範疇紅かんしてどんな法則を展望していたかバまた︑それは﹁法則﹂ というものの意味一  

般からいって︑またとくにそれが自然法則と歴史的法則︑仙般的法則と特殊的法則などに区別される基準からいっ  

て︑どう位置づけられるべきものと︑ノ示唆されたか︒− そ七で︑大体以上の問題点についてのマルクスおよびよ   

(5)

ンゲルスの文脈を順次足がかりとしながら︑考察をすすめることにしたい︒   

︵1︶ たとえば︑東洋経済新報社︑現代社会主義講座︑軍二巻云社会主義の経済法則﹄所収の諸論文を参照︒   

︵2︶K・Mar㍗Grundrissed2r賢−ikder20≡isch2n斧OnOm−e■DieNAusg⁚SS・00冨○⁚Das只ap蔓・Bd∴壱OS冨  

Ausg.︸SS.寧00チ以下両蓄の引用ほこれらの版による︒  

二   

マルクスのほあい︑︑まず価値視点にかんするかれの明確な問題意識状況→般についてほいまさら詳言を要しない  

ようだが︑しかし商品社会の価値法則と山般的な﹁価値規定﹂との異同という点︑ないし使用価値・欲望といった  

主体的範嶋との関連の点で︑注意すべき叙述の山︑二を検討する必姿があるとおもわれる︒すなわち︑たとえばマ  

ルクスほ﹃資本論﹄のなかで︑ハインクヒ・シュトルヒが所得形成物としての商品を︑個人的には価値として︑し  

かし国民的には欲望対象たる有用な財貨として︑考察すべきだとしたのにたいし︑﹁第−に︑価値にもとづきさら  

紅は資本制紆に組織されている生産様式をもつ山国民を︑たんに国民的欲望のため監男働する全体とみなすこと  

ほ︑あやまった抽象である︒第土虹︑資本制生産様式の止揚後も︑社会的生産が維持されておれほ︑価値規定  

︵Wertb2S−immung︶ほ︑つぎの意味︑すなわち︑労働時間の規制︑および相異なる諸生産群のあいだでの祉会的  

労傲の配分︵宕rtei−uロg︶︑最後にはこれらにかんする鰭記が︑従来よりも患要となるという意味で︑・依然として  

︵1︶ 重きをなす︒﹂と︑簡単ながら致命的な批判をくわえた︒このさいの力点は︑しかし︑お︑のザから第一の命題の方に  

あり︑つまり資本制社会における﹁主体﹂や﹁欲望﹂や﹁有用性﹂の観点正よるフルジョア的認識が陳腐な願倒さ  

れた帰結しかみちびぎえないことを拒摘するにあったとみていいようである︒この占蒜問題がないとして︑問題ほ  

へ九︶  九   

価値法則と配分法則  

(6)

︵山○︶一〇  

第三十三巻 第劇号  

弟±の命題の方にある︒そこでのマルクスのいわゆる﹁価値規定﹂がなにを意味するかについては︑いわゆる〝社  

会主義社会における価値法則″をめぐるソ連経済学者たちの論議が想起される︒嘗﹂では︑たんなる従来の商品価  

値法則の残存を消費財について主張する立場をべつとすれほ︑社会主義社会︵共産主義の第一段階︶軋も商品生産  

がなんらかの根拠にもとづき必然的に存在するということから︑文字どおりの価値・価値法則の存在をみとめる説  

︵︷こ が有力のようだけれども︑すくなくとも上述のマルクスの文脈での・﹁価値規定﹂というのは︑おそらく商品社会に  

おける価値法則そのものではなく︑いわんやたんに商品生産・商品流通の残存にまつわるものではないと︑解すぺ  

きだろう︒しかしこの点︑マルクス自身のもっと積極的な意見につき︑べつの文章を求めなくてほならない︒   

そこで︑マルクスが価値範疇の認識に関連して︑山八六八年七月十仙日付のクーゲルマン宛の手紙で述べた︑こ  

れまた周知の内容が想起きれる︒﹁種々の欲望塊群に応じた生産物塊群が︑社会的総労働の種々な盈的に規定され  

7エルタイルソク  

セ塊群を必要とするということは︑子供でも知っています︒姦比率での社会的労働の分 割のこのような必  

ヽヽヽヽ︑︑︑︑ 然性か︑けっして社会的生産の所定形式によって止揚されるものではなく︑ただその現象様式を変えるだけにすぎ  

︵3︶   ないということは︑自明です︒脚般に自然法則というものは止紡できるものではありません︒﹂ ここではじめて︑   ヽヽヽヽヽヽヽヽ   商品社会の歴史的法則としての価値法則のさら覧別提とおもわれるところの自然法則としての人間労働の対象北規  

定二般が︑直接裸かで言及されていることが︑わかる︒﹁価値規定﹂とは︑もっとも抽象的な意味では︑まさにこ  

れに他なるまい︒しかし︑ここで一歩をすすめてみるなら︑人間労働の対象への分割ということは︑じつは二つの  

側面をもつのではないかとおもわれる︒   

その一つは︑社会的労働が所与の労働巷産性に応じて諸生産物の各単位に必然的な一定比率で分割され対象化さ  

れるということであり︑いま一つは︑そのことを前提として︑種々の欲望塊群の存在と軋らみああせて︑諸生産物   

(7)

の所慧還それぞれ決定され︑それに応じて社会的労働の投下諸方向とそのそれぞれの分割分が決まる︑そういう   意味でも社会的労働が基比率で分割・対象化されるということである︒みぎの文脈では︑マルクスほおそらくこ   の二つのこと空緒に述べ誓う覧おもわれる︒この両側面は︑前者が労働蓋性をつうじて以外にどんな主体   的干渉をもゆるさないのにたいして︑後者は︑放任から任意の主体的管理葦の種々のありかたをゆるす点で︑区   別される◇そして︑ともにそれ自身は自然法則的なものである覧よ︑社会的条件に応じて︑具体的な歴史的法則と   してあらわれることをさまたげないほずである︒言で︑私的所有と無政府的商品生産を前提すれば︑前の側面ほ   歴史的価値法則として︑後の側面は価格の価借からの荊離に立働した労働力・墓手段・所得等の自然的分配過程  

の自律性︵価値法則の貫徹過程︶として︑あらわれるだろうし︑反対に︑なんらかの共同社会的所有を前提とすれ  

ば︑前の側面はたんに認識・利用さるべき自然法別に復帰し︑芸かわり︑後の側面は全面的に主体的規制に服   し︑特殊な法則を基礎づけるのではないかと推定されてくる︒   

こうみてくると︑マルクスが価値視点をそのもっ1孟簡単な場合について考察しているところでほ︑本来の人間  

労働の客体的な対象化規定とともに︑じつほ欲望範警の関連で主体的な一種の規定をもあわせて構想してい苦  

しいということ覧る︒主体的規定が二番簡単明瞭にあらわれるのは個人が自分の生活に食いするばあいであり︑ ︵4︶  

葺いうケトスについてマルクスが語った例として︑還本論﹄中のロビンソンの経済荒んする間知の個所とか︑  

・還撃批判要綱完の個人の﹁時間の経済﹂について述べた個所︵本稿日通引用文参他︶を指示することができ  

よう︒こういうか宅では︑かりに二応〝社会″が捨象され雷のと寄るかぎり︑主体が時間をはじめとする生 ヽヽヽ   活諸素材を自己の欲望体系に照らし蒜配・配分する覧たっての法則ほ芸旨然法則であるだろうことは︑人   間労働の対象化規定一般が自然法則であるのと同様であろケ︒ゴッセン以→が﹁発見﹂したのはそのような自然法  

価値法則と配分法則   ︵㌦ こ 一劇   

(8)

︵山二︶  二i  第三十一三巻 第二号  

則だった︒だが︑じつは︑〝社会〟は捨象されえないし︑経済学は自然法則を問題としほしない︒主体的経済ほ社  

会的規定をうけて︑ほじめて意味をもち︑その瞬間に主体的諸範疇をめぐる法則ほ歴史的法則となって働きだす︒  

マルクスが﹃要綱﹄のなかでいった︒﹁共同社会的生産の基礎のうぇでの常山の経済法則﹂というのほ︑だから︑す  

でに歴史的法則でをる︒   

ここで問題点を確認しよう︒商品社会ならざる任意の社会もまた歴史的社会である以上︑そこでほ社会的労働の  

対象化と分割の二重の規定はどのような﹁現象様式﹂であらわれるのか︒商品社会全体について︑疎外された労働  

をめぐって価値規定を現実化させるだけでほなぐ︑みずから〝ネケッレタス〟 の威力をふるうのが価値法則だとす  

れば︑商品社会ならざる社会人一般に︑なんらかの共同社会︶一般に 

﹁価値規定﹂を現実化させるとともに︑それを服従させるのは︑どんな法則だろうか︒上述でわれわれが導きだし  

た点が︑すでにその解答の端儒を準備しているよう払おもわれる︒  

ヽヽヽ   ついでながら︑この点については社会主義社会担おける規制的経済法則とされているものの態様が︑重要な示唆  

となるだろう︒それ軋宙知のように﹁国民経済の計画的均衡的発展法則﹂として命題化されているが︑とくに有力  

な見解︵オストロブィチアノフら︶にしたがえほ︑これが﹁社会主義の基本的経済法則﹂ ︵じっは後述のように﹁法  

ヽヽ  則﹂というより目的なのだが︶の要求と﹁価値法則﹂ ︵じっは社会的労働の対象化規建︶とを考慮しながら労働力や  

生産手段の配分を規制するとのことである︒だが︑じつはこ秒ような計画や配分は︑かならずしも社会主義にかぎ  

ったことではなく︑すべての簡単な共同社会的生産に︑素朴なかたちでつらぬいているものたといってよかろう︒   

エンゲルスがこの問題をどうかんがえていたかを付言しよう︒かれほ初期の刷労作のなかで︑﹁価値とは︑生産  

︵5︶  

費の有用性︵Gebra宍hbarkeit︶ にたいする関係である﹂とし︑有用性が生産費をつぐなうかどうかがその物の生   

(9)

産出をきめること︑また︑二物の生産数がひとしいときほ有用性が比較上の価値をきめること︑を論定したことが  

あったが︑﹃反デューリング論﹄でこの点前二面を確認して︑社会主義社会になれば社会ほ生産物になんらの価値  

も付与しないが︑﹁そのほあいでも社会ほ各使用対象がその生産炉どれだけの労働を馨したかということな知らな  

ければならないだろう︒社会ほ︑とくに労働力をもふくめた生産手段におうして︑生産計画を作成しなければなら  

ないであろう︒稀︑々の使用対象の利用効果がたがいに比較され︑またそれらの生産に要した労働巌と比較されて︑  

この生産計画を最後的に決定するであろう︒人々ほ︑例の有名な〝価値″のおせわなうけないでも︑万事をしごく  

︵6︶ 簡単にかたずけてし亨つのである︒﹂ ﹁経済学の価値概念のうちで共産主義社会になおのこるものがあるとすれば︑  

︵−︶  それは︑生産を決定するさいの︑上述のような利用効果と労働支出との比較だけである⁚⁚⁝﹂と述べているが︑問  

題ほこの﹁比較﹂や﹁決定﹂をどんな法則が支配するかにある︒これはエンゲルスの分析事項にほ属しなかったよ  

うである︒  

︵l︶ DasKapitar﹈汐r⊥Ⅰ−﹀S.箋↓.長谷部訳︑背水文庫版︑第劇三分冊︑三〇〇ページ︒  

︵2︶ この点の論争状況を紆介したものとして︑山田寿太郎〝社会主義における商品生産と価値法則〟 ︵大阪市立大学経済研究  

.  

所扇究と督雨霊4︑昭和三十三年五月骨︑所収︶を参照︒なおこの論争をつうずる風潮についてほ︑マルクスのつぎの  

ことばか二応反省する必要があるだろう︒﹁交換価値・貨幣の基礎のうえで︑団結した諸個人濫よるその生産全体の規制  

を前提とすることはど︑誤ったばかげ吾﹂とはない︒﹂ ︵G⁝ndrisseJS・声邦訳︑第一分冊︑八〇ぺ一望︒   

︵3︶ Mar舛u・賢ge−ひu Briefe▼告er占as只api−al﹀∵b2SOrg・ヂM・E・L﹂・V Die−NAusg・L慧・S﹂∞ごOd2ru Ausge・  

w旨−te守iefe︑Diet♪−誤∽.S.N芦 ちなみにとの一文ほ大熊信行博士の配分原理論の速婁な敷石の山つで︑くりかえし  

主著に引用がある ︵﹃経済本質論=計画経済学の基礎﹄昭三二年版︑六三−四・叫四八・二〇七i八・二三平六ぺ一  

︵劃三︶一三   価値法則と配分法則  

(10)

lニ  

つぎに︑マルクスにおける生産的視点の優位ということもまた︑これを具体的叙述に即して検討することから︑  

若干の論点をひきだすことができほしないかとおもわれる︒マルクスの意図が﹁近代社会の経済的運動法則を暴露﹂  

しょうとすることにあったとほいえ︑かれほたとえば﹃経済学批判序説﹄ において︑ブルジョア経済学批判のため  

ヽヽヽヽヽヽ  に︑商品やその価値規定にかんする特殊的思惟を一応もちいないで︑﹁一般的なもの︑すなわち比較によって選り  

だされた共通なもの﹂ほ︑﹁現実に共通なものを浮せださせ︑固定させ︑したがってわれわれに反覆を節約させる  

︵1︶  かぎりにおいて仙の合理的な抽象﹂だという根拠から︑それがどんな現実的・歴史的段階をも把握できぬ抽象にと  

どまることを注意しながらも︑経済学者たちの好んで並置する四項目としての生産・分配・交換・消費の仙般的関  

係について︑皮肉をふくんだみごとな弁証法的説明をあたえている︒その結論は︑﹁生産は︑生産の対立的規定に    ︵⁝四︶  仙四  第三十三巻 第叫号  

望︒しかし︑文中の︒宕rtei−ungごを博士ほど自身の解釈かち﹁配分﹂とされたが︑ここでほ文脈上配分主体が予想さ  

れていないし︑主体のない配分というものほありえないと筆者ほかんがえるので︑あえて﹁分割﹂としてみた︒  

︵4︶ Das只a㌢tai.Bd●:﹀S.00N●長谷部訳︑漕木版︑第血分冊︑仙七八−九ページ︒もっとも︑この点のマルクスの文脈ほ  

ヽヽ  留意を要する︒かれがロビンソンの経済転﹁価値のいっさいの本質的な諸規定がふくまれている﹂と述べたことにほ︑じ  

つほ自然人たるロビンソンの自己労働の対象化規定や労働配分と同時疫︑十八世紀イギリス商品社会の価値規定をも︑も  

ちこんだ﹁立脈なイギリス人﹂にふさわしい個人経済の看破がふくまれているからである︒  

︵5︶ ﹃国民経済学批判大綱﹄・マル=エソ選集︑大月版︑補巻5︑二〇六−七ページ︒  

︵6︶・︵7︶ マル=エソ選集︑第十四巻︑四仙四−五ページ︒  

(11)

モメンテ  おける生産自体を包摂するとともに他の諸契機︹つまり︑消貰・分配・交換︺をも包摂する︒過程はつねにあらた  

紅生産からほじまる︒交換と消費とが包摂者でありえないことはおのずからあきらかである︒生産物の分配として  

︵2︶  

の分配についても︑おなじことである︒﹂ とされ︑物質的生産としての生産一般の優位が︑主張されたのだった︒  

この論証は︑経済が流転的・唯物的・社会的過程であることをとらえた尾のとしても︑巧妙だといっていい︒   

このさい︑なるほど生産も︑その山般的形態では︑それはそれで他の諸契機︵消費・分配∴父換︶によって規定  ヽヽ  される︒その意味で︑なかんずくたとえば消費ほ︑直接に生産であり︵消費的生産︒たとえば︑栄養によって人間  

が肉体を生産する︶︑また消費ほ生産との本質的対立において物を人間たむしめ︑最後に︑生産物の主体の造出  ッヴエツクアンラーゲ  トリープ  ︵生産の対象設定︶︑生産の衝動︵ないし目的︑志向︶の設定という二重の意味で消費は生産を相互媒介的につく  

りだす︒しかしこれとパラレル紅︑生産の側からいえほ︑生産は直接に消費であり︵生産的消彗︑また消費との本  

質的対立において生産者を物たらしめ︑最後に︑生産ほ消費の対象ないし材料をつくりだし︑さらに消費の性格な  

いし被規定性︵つまり︑消費の仕方︑あるいほ総じて消費者︶をつくりだし︑さらに消費対象たる材料紅かんして  

欲望︵つまり︑消費の衝動︶を消費者のなかにつくりだすという︑三嘉の意味で︑生産は消柴を相互媒介的に規定  

する︒以上を︑もしなんらかの仙経済主体ないし個々人どとの活動という見地から観察するなら︵注︑商品社会で  ヽヽ  は︑社会そのものほけっしてこのような意味での主体たりえない︶︑生産も消費も︑行為というものの二契機ない  

へ3︶ し﹁そこでは生産が現実の出発点であり︑それゆえにまた生産が包摂的な契機でもあるところの仰の過程の二契機﹂  

としてあらわれるの軋他ならない︒1− ﹃経済学批判序説﹄ におけるマルクスの以上の山般的規定ほ︑おのずか  

ら︑価値法則の末成立な︑もしくは止揚されたのちの社会についても︑いわば仙の﹁小般的経済法則﹂としてあて  

はまることになるはずであり︵もっとも︑このいわば生産契機優位の法則ともいうべきものは︑これまで﹁生産力  

︵劇五︶ 仙五   価値法則と配分法則  

(12)

第三十三巻 第山号  ︵一六︶ 二ハ  

と生産関係の照応法則﹂や﹁生産手段生産発展優先の法則﹂ のあいだでさまよっていた感がある︶︑したがってこ  

の脈絡ほ︑商品価値法則の作用しない社会における同法別の代位者たるなんらかの規制的経済法別の存否を問うほ  

あいにも︑重要な前捉となるほずであろう︒つまり︑たとえ主体的諸範鴫をめぐる法則が規制的となるほあいで  

も︑消出ではなく︑牲産の視点が貫徹されなくてはならないわけである︒   

ただここで︑とくに牲産と消替の弁証法的関係における生産契機の優位の視点からいって︑若干疑問におもえる  ヽヽヽヽ  点がのこされている︒それほ︑セルクスが︑物質生産を︑人間白身の直接の肉体の生産をもふくめた包摂者として  

理糾することによって唯物論的見地を副賞しょうとしたものとすれば︑かれが﹃フォイエルバッハ論﹄であげた︑  

︵4︶  あの歴史的行為の基本的三契機の山つたる﹁人間が他の人間をつくりノはじめること﹂︑つまり家族関係 − エソゲ  

︵う︶  ルスのいわゆる﹁人間そのものの生産︑︑すなわち種の繁殖﹂ − という︑人と物との物質代謝のうえでの重要な〟  

環についての考察を︑﹃序説﹄の論旨では︵物質的生産という点にこだわりすぎたのか︶欠いている︑もしくは捨  

︵6︶ 象しているとおもわれる点である︒この点が整理されなければならない︒   

これほ仙見たいしたことほない問題のようにみえ︑エンゲルスが﹃家族・私有財産・国家の起源﹄ の初版序文  

︵小八八四年︶ において︑﹁歴史における究極の規定的契機ほ︑直接生命の生産および酉年産である︒しかしこれ  

偲︑それ自体さらに二とおりにわけられる︒山方では︑生活手段の生産︑すなわち衣食住の諸対象とそれに必要な  

道具の生産︑他方では︑人間そのものの生産︑すなわち種の繁殖である︒∵足の歴史的時代および刷走の国土の人  

間がそのもとで生活する社会的諸制度は︑二とおりの生産忙よって制約される︒すれわち︑一方でほ労働の発展段  

︵7︶ 階によって︑他方では家族の発展段階によって︒﹂と述べるとき︑このあとの家族契機ほ︑経済学の問題対象から  ヽヽヽヽヽヽヽヽ  切離きれ︑経済学にとってほ労働の契機︵物的生産の契機︶だけが問題となるように︑みえる︒ところが︑そうと   

(13)

ほかぎらないのではないか︒  

ヽヽヽ   第側に︑どんな個人も︑いずれは老い︑死ぬ以上︑労働の契機が完全に作用するためには︑既存の直接的4命の  

生産・再生産だけでは不十分で︑あたらしい直接的生命の生産・再生産をふくまなくてほなるまいが︑エンゲルス  

が﹃反デューリング論﹄で指摘したように︑﹁子供じみたこと﹂ながら︑これは個人やそのたんなるデβ−リング  

=モデル的集団で1は不可能で︑﹁生産のための社会的結合のもっとも簡単な最初の形態たる家族﹂の形成を侯たな  

︵8︶  

くてはならない︒﹁生命﹂と七っことばを経済学らしく︑社会的に対象化して︑﹁労働力﹂といいなおすなら/ほ︑  

問題の性質の市民社会的山面が山層あきらかになるかもしれない︒ところが第二に︑生産過程における家族の地付  

をみとめるとすれば︑副歩をすすめて歴史の端緒でほおそらくいわゆる﹁社会﹂と∴致しても︑やがて外部の﹁社  

会﹂ から小家族として独立・特殊化され︑資本制社会でほいぉば労働とともに 〝疎外〟され孤立した個人の小集  

団とLてしか地伊をあたえられなくなるところの︑この小共同社会そのもの − その規模こそ小さく簡単だが︑共  

同社会の生きた遺制見本として商品社会の隅々に額数にある小社会圭の内部では︑生命なり労働力の ﹁生産﹂  

ヽヽヽ  ︵ないしその奇形化︶をめぐってどんな歴史的﹁法則﹂がおこなわれるかも︑大なり小なり経済学の本来の研究対象  

にほいりこんでくることになる︒経済学の特殊部門としての﹁家政学﹂なるものがあるとすれば︑それほこういう  

歴史的問題局面に対処しなくてはならないはずであって︑その分析のためになにか特殊な方法とか︑〝最終消費〟  

にかんする特別な哲学とかを︑要するわけではないだろう︒いな︑むしろそういう方法や哲学の幻想こそが︑問題  

を見失わせるものだといわなくてほなるまい℃そこで︑この小共同社会=家の経済をそれ自身としてかんがえるさ  

いには︑仙方でそれが主体的諸範嶋の優位をゆるし︑それをめ′ぐるなんらかの法則にしたがう点で共同社会に共通  

した独自な性質をもつということとともに︑他方では︑それが未開な大家族か︑自給自足の家族労働を統轄する家  

価値法則と配分法則  ︵川七︶ 仙七   

(14)

︵劇八︶ 仙八  第三十三巻第山号  

父長的農民家族か︑それとも生命の生産・内生産以外のあらゆる生産的契機を疎外し︑たんに生活資料の﹁消炎単  

位﹂としてあらわれる近代的小家族言れにほ︑吐命の生産・相生産という最後の生産的契機をすら稀薄化し︑人  

間結合が財床的結合に偶然付随するにすぎなくなったところの擬制家族としてのブルジョア家族と︑すべての財産  

とともに共同消改すべき生活資料からも隔離され︑純粋な結 合と禰の褒殖に復帰しょうとするプロレタリア家族と  

の二頬型がある︒後述参照︶であるかにょって︑それぞれ主体的諸範疇および法則の歴史的ありかセが根本的にか  

わるということ︑以上を注意しておくエとが必要だろう︒ともかく︑そのかぎりで家族経済の歴史的諸形態の検討  

ほ︑共同社会の主体的経済のもっとも簡単なありかたを摸索するのに役立つほずである︒   

こうして家族は︑発心に歴史一般の客体的岬突放というほかりでなく︑第二にそれ白身が社会的生産を完結する 

︵9︶  直接的生命の生産・再生産の場として︑第三には︑∵足の歴史的条件のもとでほそれ自身が主体的経済の簡嘩なあ  

りかたをしめうる小社会として︑重要である︒第三の点については後に吟味するとして︑ここでほマルクスが﹃経  

済学批判要綱﹄のなかでその意味の本筋をしめしたことを想起すれほいいだろう貢稿冒頭引用文参照︶︒だが︑欝  

二の点ほ︑マルクスはべつとして︑エンゲルス以下でほ︑認識があやしい︒生産根占右翼徹させ明確にさせるにほ︑  ヽヽ  ヽヽ  生活資料やその生産手段の生産だけでなく︑かえってその消費︵﹁消費的生産﹂︶も経済学の対象となることが︑打  

ちだされなければならないはずたが︑£ンゲルスは﹃反デュー∴ソソグ論﹄ ︵仙八七七1七八年︶では︑周知のよう  

︵10︶  に経済学を﹁人間社会における物質的生活資料の生産と交換とを支配する諸法別にかんする科学﹂ないし﹁いろい  

ろの人間祉会が︑そのもとで生産し︑交換をおこない︑またそれにしたがってつねに生産物の分配をしてきたと  

︐ヽ  ︵11︶  ころの︑もろもろの条件と形態とにかんする科学﹂だと規定し 

﹃起源﹄執筆後の ﹃反デューリング論﹄の第二・第三版の序文にもこの点への関心をしめさず︑こうして結局家族   

(15)

論での問題提起を︑かれのいわゆる﹁もっとも広義の経済学﹂から切離したままにおわらせたようである︒つま   ヽヽ   り︑歴史的家族範疇ないし生活資料の消費契機は︑唯物視点・生産視点貫徹のために︑広義の経済学の重要な捕捉  

対象となるほザぉのに︑エンゲルスは家族を︑たとえ資本制社会における商品価値実現の揚および商品=労働力の  

生産の場と仙応みたにしても︑山般にほ史的唯物論の範囲で取扱うにとどまり︑それ自身として経済学にまで下向  

させて考察したことがはとんどなかったようにおもわれる︒  

・浴そらくデューり/ソグ批判において︑教本主義経済学におけるすべてのローマン的理解を徹底的に叩き︑生産視占冊  

を押しだすためには︑交換︵商品範醸の出発点として不可欠︶とならべて消蟄という契機をいいたてることほ︑無用  

の誤解をまねくとの配慮がエンゲルスにあっただろうし︑経済学批判という目標にかぎれほ︑これで十分な規定  

だったといえるかもしれないが︑建設さるべき社会主義社会の経済のヴィジョンもかれほしめそうとしていた以  

上︑問題の布石はやはりもうすこしおこなわれるべきだったとの感をまぬかれない︒この点ソ同盟﹃経済学数科書﹄  

が︑エンゲルスのいう広義の経済学の課題を胃頭に活かして︑﹁財貨が人間社会のいろいろちがった発展段階で社  

︵12︶ 会的に生産され︑分配される法則﹂を研究するものとし︑かつこの﹁法則﹂に文字とおりあらゆる山般的・特殊的  

経済法則をふくめさせるつむりとなったとき︑それがわざわざ〝オイコノ︑\\ア″という語の家政的語源を付注して  

︵18︶  

いるだけに︑しかもいわゆる﹁社会主義社会の基本的経済法則﹂として︑スターリンにならって﹁たえず増大し  

てゆく物質的欲望と文化的欲望を最大限にみたすように保障する﹂という主体的目標を公然とかかげているだけ ︵14︶  

に︑生産視点ないし史的唯物論の経済学への適用の徹底度や︑経済法則なるものの範囲や︑客体的規定と主体的規  

定の境界認識といった点の疑問までが︑看過しがたくなってくる︒   

以上︑われわれほマルクスの価値視点および生産視点を︑そのクリティカルな占州において︑つまり商品社会から  

価値法則と配分法則  

︵叫九︶ 山九   

(16)

︵二〇︶ 二〇  節三十三巻\第二考  

一歩踏みだした領域において︑それぞれ検証し︑みご﹂におのずから︑この両視点がとも成︑社会的歴史的規定をう  

けたものとしての主体的経済諸雑惜と交渉することを︑みいだした︒つまり︑商品社会ならざる社会における﹁価値  ヽヽ  規定﹂︵社会的労働の対象化と分割︶がかならず使用対象→1欲望という黄体的レr−マに満とづく配分の問題と閑  

適するという意味でも︑また生産視点補完のための重要な契磯としての消炎契概について︑その具体的な場として  

の共同社会の経済のありかたをたずねるという意味でも︑歴史的条件におうじて︑樺々の形態においてであれ︑経  ヽヽヽヽ  済生活の主体が社会そのものに一致するようなはあいの﹁経済﹂の主体的訊範喘をめぐる法則−いわば配分法則  

と呼びうるもの1−が︑そこに経済学の問題対象として︑鮮明に浮かびあがってくるほずである︒もちろんこの法  

則は︑第二節で触れたように︑歴史的共同社会において歴史的法則として成立するかぎりでほじめて経済学の問題  

となる︒だが同時に︑ちょうど価値法則が商品の流通するいくつかの社会体制に共通して成立するように︑この配  

分法則もまた共同社会のいくつかの歴史的形態に共通して存在するものとして︑山般的であることをさまたげるも  

のであるまい︒この配分法則の問題性ほ︑マルクスによって決定的紅指示され︑エンゲルスによって不明確鱒示唆  

され︑さらに現代社会主義経済学者によっセ︑その社会主義的形態を﹁国民経済の計画的均衡的発展法則﹂として︑  

かなりムード的に提示されながらも︑その共同社会仙般的基底がこれまでかつて問われたことがなかったといって  

いいし︑反面︑ブルジョア経済学にょってその技術的内容を観念的な限界効果均等原理としてしめされながらも︑  

その社会的歴史的規定が無視きれ︑事実は歴史的擬制主体たる資本なり企業なり経営なりのための利潤極大化原理  

という逆だちした表象においてしか認識されなか一ったといっていいだろう︒   

しかしここで︑いったい主体的な経済諸縄醸というものな社会的歴史的・客観的に取扱うことは︑ほたして史的  

唯物論のたてまえからいって︑可能だろうか︑また︑経済学的にそれをどう処理したらいいのか︑ということが︑   

(17)

問題となってくる︒以下︑その点の吟味にすすみたい︒   

︵1︶戸MarM︸2ur穿−ikd2rPO−ilisc言辞OnOm12童n宣ung−冨OSkauAusgト這岸SS・N竿00・字高沢︑三二三卜四  

ぺ一首︒G言ndrisse﹀S.↓.邦訳欝劇分冊︑七ぺージ︒   

︵2︶ Nur賢−iku S・望・宇高訳︑三四五ぺー汐︒GrundrisseW S・芦邦訳讐分冊︑二仙ぺー∴㌔   

︵3︶2ur穿−1k㍍・琵・宇高訳︑三三七ぺージ︒Grundrisseふ・−㌢邦訳第劇分冊︑一六ぺージ︒   

︵4︶ マル=エソ選集︑大月版︑男山巻︑二五−三六ぺー汐︒   

︵5︶ 同︑第十三巻︑二五六ぺージ︒   

︵6︶奇妙にひびくかもしれないが︑近代においてこの論点そのものをほじめて経済学としてとりあげたのほ︑どの唯物論者でも  

なく︑またどの職業的経済学者でもなくて︑ジョソ・ラスキンなのだが︑わがくにでほ︑ラスキン経済学の祖述者大熊信  

行博士が﹁生理学的な物質代謝と経済学的物質代謝﹂との同義元での把握の必要を指摘した妓初の人であるのも︑ふし  

ぎでない︒参昭︑lOhnRus打in︸MuneraPu−責−SL讐N・木村正身訳ヤムネヲ・プルクエリヌ1長治経済要義論!﹄  

開巻院︑昭三三◇また︑大熊信行﹃経済本質論=計画経済学の華礎﹄兎洋経済新報杜︑昭三二︑の随所︑とくに三〇五Ⅰ  

九ぺージをみょ︒   

︵7︶ マル=エソ遜集︑第十三巻︑二五六ページ︒   

︵8︶ マル=立ン選集︑第十四巻︑二〇七ぺージ︒﹁そもそも生活の生産︑すなわち︑⁝力働においての自己の独活と牡殖におい  

ての他人の生活との生産ほ︑それ自体劇個の二重の関係となってー 劇カで鱒自然的な関係として︑他方では拙会的な関   

係として・−あらわれる︒ここ紅社会的というのほ︑どんな条件のもと︑どんな様式において︑とんな目的のためにであ  

るにしても︑幾人かの個人の協働ということである﹂︵マルクス﹃フ宣イエルバッ人論晶︑マル=エソ選集︑第劇巻︑二六   

ページ︶︒  

価値法則と配分法則  二二︶ 二劇   

(18)

四  

マルクスの全労作において﹁社会的﹂・﹁歴史的﹂とい㌢﹂との意味が厳密に規定された状況︑また︑仙見非礼会  

的・遊歴史的にみえる部類の経済的諸範疇も︑じつほことごとく社会的・歴史的規定をうけなくてほならないもの  

とされた状況の二恨については︑さしあたり触れる泌要をみないだろうが︑とくに﹁人間﹂・﹁主体﹂・﹁欲望﹂・﹁使  

用価値﹂・﹁消費﹂といった主体的諸範鴨についても︑終始きわめて厳密に相対化した淑扱いがなされている︒たが︑  

政扱いを相対化するということは︑無視することでほない︒この占州ほたとえば既述の還済学批判序説﹄での生産  

と消費の関係の説明にもあきらかだし︑﹃フヵイエルバッハ論﹄でもマルクスは︑欲望そのものからでほないにせよ  

欲望充足のための物質的生活そのものの生産︑欲望充足・その行動・その要具獲得からみちびかれる欲望そのもの  

の産出︑および子孫の産出︑ということに歴史のあらゆる基礎があたえられていることを強調している︒   

第三十三巻 第ご号  ︵二二︶ 二二  

へ9︶ このような条件ほ︑近代市民社会のなかにある小家族においてほはとんどみたされないことほ︑後述堅ハ節で述べる︒こ  

の条件が比較的完全にみたされるのほ︑マルクス.があげた﹁自家用のために穀物・家畜・総・克麻布・衣顛・等々を塗座  

する脳民家族﹂の家父長的形態においてであろう︒参照︑Das只apita−.匿.HuSS.∞㌣芦邦訳︑青木版︑血八〇ペー  

ジ︒  

︵10︶ マル=エソ選集︑第十四巻︑二七九ぺー汐︒  

︵11︶ 同︑二八二ページ︒  

︵12︶・︵13︶ ソ同盟科学院経済学研究所﹃経済学教科沓﹄ 邦訳第劇分㈹︑三ページ︵初版たよる︶︒  

︵14︶ 同︑第一一皿分冊︑六九六ぺージ︒  

(19)

だがしかし︑さらにこまかくみれほ︑つぎの点がたどられる︒ややこしくきこえるかもしれないが︑マルクスほ  ヽヽ  上述の﹃フォイエルバッハ論﹄の個所でほ︑欲望を︑﹁物質的生活の生産﹂という歴史的契機が対象化されるため  

ヽヽヽヽ のいわば媒剤という意味でのみ︑また欲望充足も︑これを﹁あらたな欲望の産出﹂という歴史的契機の対象化妹剤  

︑1.−  といった意味でのみ︑とりあげているようである︒つまり︑欲望充足手段︵有用物︶ の産出や欲望そのものの産出  

ほ︑明瞭に直接の社会的歴史的関連をただちに派生するのにたいして︑欲望そのもの・充足そのものは︑ともにも  ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  っばら欲望主体の内面的心理関連・私的行動関連にすぎず︑主体が社会そのものと一致しないかぎりは︑人間と物  

との客体的︑・社会的な代謝過程という意味での﹁経済﹂の歴史から直接にほ独立し︑間接にのみ︑かつもっぱら被  

規定的にのみ︑社会的関連をもつにすぎない︑ということになる︒   

それでほ︑欲望やその充足がたんに主体の私的・内面的関連︵歴史の契機のたんなる媒剤︶ であることから脱し  

て仰走の客体的関連・∵定の社会的契機そのものに転じうることは︑ついに不可能かといえば︑かならずしもそう  

でほないだろう︒もし社会そのものが主体と仙致すれば︑市民社会でのようなほらほらの個人ごとの異質的な欲望  

ヽヽ のたんなる烏合状態のかわりに︑刷元化r同質化した社会的な欲望体系1・一・・・むしろ︑もはや客体的な入用ないし必  

ヽ︵2︶  襲の体系とも呼ぶべきものきが成立しうるはザだし︑直接的生活資料の利用効果もそれに応じて客体的なものと  

なり︑また︑それによって労働力や生産手段き商品杜会でも一応ほ客体的だとはいえ︑ノじっは資本への奉仕以外  

に意味をもたないととろのリヴァイアサンとし.ての物的生産諸力1の利用効果も︑ここでほ一義的体系性と客観  

的目標とを控得しうるほずであるパもっとも︑共同社会の定在条件に応じて︑この状況ほ小さく簡単なものから大  

きく複雑なものへの序列をしめすだろう︒こうなれば︑客体化された欲望体系の変化ということが︑生産力の水準  

および社会的労働の対象化規定におうじて﹁ まさに直撰軋社会的・歴史的関連を指導し.うることになる︒  

価値法則と配分法則  ︵二三︶ 二三   

(20)

︵二四︶ 二四   第三十三巻 第仙骨  

したがってまた︑さらにつぎのような諸推論が付加されえよう︒山 人間の意識の発展史でほ︑一般に感性的な  

もの・主体的なもの・個人的なものほ︑理性的なもの・客体的なもの・市民社会的なもの紅先だつ︑とかんがえられ  

るとすれば︑社会的代謝過程が認識されない以前の﹁経済﹂概念が︑たとえ初期商業が相当発達したほあいでも︑  

なお︑もっぱら欲望やその充足︑有用物︵使用価値︶やその管理といった諸範疇をめぐっていたとしても︑ふしぎ  

でほないということ︵〝オイコス=−ノモス〟︒プラトーン︑クセノポトン︑ホラーテイクス︑キケロ等々の経済観︒  

かれらほ総じて貨幣の登場に当惑し︑貨幣蓄華の哲学を理解しえなかったわけである︒ただし︑そのなかで.ひとり  

アリストテレースの天才たけが︑.初期商業の成立をめぐる交換や貨幣について社会的思惟に到達し︑しかし事態  

︵$︶  の謎を解きえずにひきかえしたことほ︑マルクスの指摘のとおうである︒古代作家たちによってほじめられた使用  ポー・又ム  価値︵intrinsic遥どe︶論は︑中世の︑たとえば聖トマスの財貨論をつらぬき︑近世初頭までつ︑ついて︑ここて変  

形されながら使用価値数愚説の花を咲かせ︑ジイン・ロッ 

として認謂されるため切条件が市民社会においてほじめてあたえられるやいなや︑すでに主体は無政府的な﹁社  

会﹂のなかの万人中のこ貝になりさがっており︑社会的経済的諸条件ほも?ぱら強制的な自然法測とLて︑主体に  

むか?て外部からたちあらわれ︵価値法則︑等︶それに浸透され?くしたものとしての個々の主体が︑外部にたい  

︵4︶  し々ほ︑スミスやベンタムのいわゆる〝功利の原痙〟紅よって順応しっつ︑他巧主体内的活助関連と七て︑欲望  

︵貨殖欲望をふくむ︶/充足の計算とその行動を︑またそれにかんするなんらかの準則− いわゆる一〝経済原則″︵な  

︵5︶  

いし︑大熊信行博士のいわゆる ﹁人間行為の世界におけるエネルギ∴−節約の法則﹂︶ − を成立させるということ  

︵歴史的ブルジョア家内経済および企業経済の確立︶︒ところが︑ここでほまさに主体とその準則が︑外界たる社会  

およびその自然法別と対立するだけでなく︑それ隼規制されるわけである︒この脈絡のもとで︑〝経済原則″の歴   

(21)

史的意味と限界があきらかにされなくてほなるまい︒つまり︑それほけっして超歴史的な法則なのでほない︒   しかし他方︑主体が社会と表するばあいが︑三つかんがえられる︒その仙つは︑商品社会以前の共同社会︒そ  

の二は︑商品社会覧いて︑個々の生活主体1−個人が︑その内部にかくされているもう三の社会︑つ苦﹁家﹂  

という︵大熊博士の表現に従うなら︑1﹁微視的﹂な︶共同社会にたいして︑価値法則の作用の浸透をうけながらもそ  

れを学芸ところで︑対処するばあい忘っとも︑この典型は自給生塵霊こなう家父長的農民家族にかぎられる︒   市民社会のなかの迫制的共同社会としての近代小家族についてみれば︑生活素材がととのうはど共同社会的基底が  

うすれて価値法則だけの世界驚かづき︵プルミア的家内経済︶︑他方︑労働をつうしての純粋な人間結合が維  

持されるところではそもそも共同の生活素材がなくなってゆく︵プロレタリア家族︶という重大な矛盾がある︒そ  

の三は︑市民社会そのものが止揚され︑主体が外部たる社会にまで拡大・直接姦し︑個々人ほ共同体の盲とな   ヽヽヽヽヽ1111111111111111︑︑︑︑︑︑  

ったばあい︒−このように︑なんらかの意味で社会そのものが主体として成立しうるような条件のもとでほ︑既  

述のように成員の欲撃やその充足という︑主体の内面的活働関連の契機が︑同時に直接に社会的な契機︑またも  

し︑外部から強制的妨冨条件︵とくに︑生産力水準の低位︶がなければ社会そのものの発展の契機として︑主導的  

となりうるはずだが一七のことは二つゐ意味をもつとかんがえられる︒   

第蒜︑これによって社会的物質代謝の客体的過程になんらかの意味で義的な・かつおそちく成員の直接的生   ヽヽ 命の拡大再生産につよく関連した︒目的が付与されるだろうということである︒とのような状況下でのみ望欲︑  

︵必要︶やその充足という主体的範疇が︑積極的二義的性格をもつものとして︑登場するとおもわれる︒ただし︑  

目的は目的であって︑﹁法則﹂とほいえないたろう︒社会の主体化がみちびく第∴のきわめて重要な占嘩マルク   スのいわゆる﹁価値規定﹂が︑ここではまさ軋社会と姦した主体というものをあたえられた形態において︑その  

へ二五︶ 二五   

価値法則と配分法則  

(22)

第三十三巻 第一号  へ三ハ︶ 二六  ヽヽ  主体による生きた・および対象化された社会的労働の総体的配分の法則の前提︵社会主義のぼあいでは︑なお﹁重  

きをなす﹂がしかしいわば従順な前提︶となるにちがいないということである︒つまり︑T定の社会的歴史的およ  

び技術的条件が付与され︑㈲社会自体に仙致した主体︑脚その目的に応じた叫元的な欲望︵必要︶体系︑㈲それに呼  

応する諸使用対象の種類︑㈲生計た・および対象化された社会的必要労働時間の総鼻とその既存の分割比率︑㈲諸  

使用対象の各一単位どとの社会的労働の対象化規定︑㈲諸種の有用労働の社会的労働への還元規定︑等があたえら  

れるなら︑そこにおのずから︑各使用対象の限界必要の均等ということを条件として︑各使用対象の生産量︑およ  

びそれを生産するための社会的必要労働時間の配分比率が︑山義的に決定されうることになる︒これにもとづく計  

画とその実施目的達成ほ︑ひきつづく計画の条件となるたろう︒簡単な共同社会で沌︑ただそれが素朴な︑なか  

ば無意識なかたちでおこなわれるにすぎない︒社会主義社会における﹁国民経済の封画的均衡的発展の法則﹂なる  

ものも︑結局ほこのことを︑社会主義的条件を付与して︑特殊化したものに他ならないだろう︒しかし注意すべき  

■は︑これはいわゆる限界効果均等法則=自然法則そのものとほべつの︑はつきりした歴史的法則だということであ  

.る︒配分法則というのほ︑およそそのようなものである︒   

さて︑以上のような脈絡に関連して想起されるのは︑﹁近代経済学﹂がゴッセン以来︑ことに 〝限界革命〟 以  

東︑まさに経済主体とその欲望の充足をめぐる普遍的﹁法則﹂を確立したと自負し︑これを資本の利潤追求の主体  

︵6︶  的法則として援用するとともに︑交換をはじめとする客体的な諸凝済現象の説明原理ともしてきたことである︒ま  

た︑山九三〇−四〇年代にファシズム支配下のドイツやわがくにで︑﹁生の充足﹂の経済が︑国家を社会と同視し  

て主体化する見地から︑提唱されたことも︑まだわれわれの記憶にあたらしい︒これらのすべての発想法における  

ただしい社会的・歴史的規定の欠如または頗倒の状況については︑後述でその状況自体の成立条件に触れるはか︑   

(23)

︵7︶  とこでほ説明の余裕がないし︑はとんどその必要もないたろう︒ただこの点︑つとに⊥九二九年︑マルクスのロビ  

ンソン物語における﹁配分原理﹂の発見を出発点として︑て\スに︑マーシャルに︑かくて労働価値学説と主観価  

値学説の双方に︑この原理の貫徹を見いだされただけでなく︑﹁生活経済学﹂にもその拡充を看取され︑さらに第二  

次戦後の最近でほ社会主義経済学におけるこの原理把握の貧困と微視的分野=家族の経済理論の必要とをするどい  

調子で指摘されるにいたっている大熊信行博士の多年の終始三月した独創的主張と業綾の意味については︑ぜひと  

も独立した詳細な換討が必要とおもわれるが︑これまた本稿でほ紙幅がなく︑別の機会を期したい︒ただ︑博士の  

主張される﹁配分原理﹂そのものは主体規定を欠いた非歴史的な山自然法則であって︑筆者のかんがゝ‰る配分法則  

︵8︶  

とは意味がちがうようにおもわれることだけを︑把摘するにとどめたい︒  

︵1︶ マル汀エン選集︑第劇巻︑とくに二四−二七ページ参照︒   

︵2︶ たんなるブルジョア的︑慈恵的欲望と生命のための実質的な必要︵有用︶との区別を筆者ほラスキンに負い︑大熊博士  

の主張に接してたしかめられた︒ラスキンは︑この概念を前提として︑とくにそこから使用対象の客観的な﹁本有価値﹂  

intrinsicくaどe概念を導出し︑古代作家たちの世界に復帰している︒ラスキンでも大熊博士でも︑社会体制と無関係に︑  

つまり共同社会だろうが市民社会だろうが醸差別に︑必要︵有用︶概念の客観性が主張されるという点に︑問題がある︒  

参照︑ラスキン︑前掲拙訳︑とくに三三⊥一天ぺー汐︒大熊︑前掲讃︑二重一丁由・二七九・二八八・二九七ぺー汐︒   

︵3︶ Z≒宍ritik︸SS.u.N00.︺可㌫∽﹂声−岸−芦字高訳︑ノ仙九・二九・六七・両七二−三・二〇四ページ︒Das只api邑−  

監−H︸SS.空耳∵篭−芦−婆二詠.青木版︑二皿∵︼キ・鵬九三・二九二−三二三二−ジ︒ついでながら︑古代作  

家からの引照ぶりはラスキンとマルクスで酷似するところがあり︑たとえばホラーティウスの彗諷刺詩﹄から奇しくも同  

文を引用しているはどだが︵MarがNur守itik−S・−N可n︹宇高訳︑一九八ぺー汐∴Ruskin■Munera Pui諾r耳App・  

︵二ヒ︶ 二七   価値法則と配分法則  

(24)

山i二木村訳︑二七享へ一望︶︑しかし二人の力点ほまさ軋反対である︒  

︵4︶ もちろんス︑︑︑スの﹁功利の原理﹂とベンタムのそれとほ︑厳密にいえほ︑意味がらがう︒スミスでほ︑現実的な利害のれ  

算という経験的恵味なのだが︵参照︑AdamSmi声Lectures昌Justice・etC・JCannanEditi芦︑−00溺pp・≡−こ㌣  

芦声高島・水田訳︑九八−劇○㌻二∩斎・二五・仙八六−七ぺ一望︑ベンタムのほ︑むしろ大陸的系譜につな  

がり︑普遍的・概念的な法則にまで昇華されている︵cf・E−ie謬誉y■La﹃︒rmati︒nd亡RadicalismePgOSOp已q︒e・  

Eng.tr.㍉beGrOW︷hOfPhi−OSOpFicRadica−ism﹂琵∞⁝ed﹂誤N.esp・pp﹂∽⊥00小金?巴蔓しかし︑二人がいいあ  

てようとした当時の帝民的生活感度の客観的状況そのものほ︑おなじだとみていい︒  

︵5︶ 大熊︑前掲彗五〇・二七一一丁四ぺージっ 〝経済原則〃の表現として﹁配分虚血﹂を付琴つけられる博上は︑この画法  

則を非歴史的なかたちで把握されるとともに︑その適用の学問として﹁経営学﹂広意義を強調される︒しかし︑現代の  

﹁経営﹂の実質が価値封静と大衆社会状況を抜きぬしてほ成立しえないように︑非歴史的・非社会的な抽象的経営原理を  

それ自体として課題とすることほ︑じつほその立場そのものをかえって相対化してし孝︶︒史実に博学でありながら経済  

およびその理論の歴史的性質を解しえずに死んだワルター・オイケンが︑経営学の優位を説いていたことが︑おもいあわ  

される︒参照︑WaierEucken﹀Na−i呂al詩On音1e−去OZu:−eAf−・こ箋J SS・軍芦主著中の言及としては︑大泉  

択﹃国民経済学の基礎﹄動草讃軍帽三三︑享;︹−三〇ぺージ︒  

︵6︶ 朝川理論が選択琴鱒竺眼界効用が限界代替率に︑おきかえられたとしても︑発想法ほ基本的にほかぁるところがないだ  

ろちノ︒′′.  

︵7︶ この点についてほべーレンスが︑ワルター・オイケンが抽象的ロビンソソ分析を公然と背走したことに関連して︑﹁それ  

ほ︑ゴッセンおよびゴッセンにつづく主観的理論が︑社会的総労働によって充たされる所与の社会的欲望を︑つまり︑社  

会に現在する人間︑礼金化された人間の欲望から出発しないことをば意味している﹂と指摘したことが︑狸起される︒参    第三十三巻 第一号  ︵二八︶ 二八  

(25)

︵8︶   昭︑F︒べーレンス︑石津訳屋代経済学の毎誕=石渡讃店︑昭三〇︑九二⊥一てへージ︒  

琵学監ける人間甚の主張をふくめて︑大筒士の﹁配分政疲﹂および﹁生命再生産﹂荒んする構想の問題捉起五   霞は︑マルクスをのぞいたマルクス経済学をふくめ︑まさ賢べての経済学派の盲点を簡いたものといえるとおもう︒   そのオリジナルな業績の跡ほ︑わがくににはとんど独自な経洛学の体系といえきものが育ってこなかっただけに︑ひと  

きわHだつようにおもわれる︒︵博士の経済学1の義を知るにほ︑周知の﹃経誓空調芸版のはか︑とく鱒最近の力点  

をしめすものとして︑〝人間の自己疎外と自己回復11人間娃命の再生産論のため隼1←裾痕︑二九〇号︑昭三二・︸   

弄︒還済学監ける人間−なぜソ同盟の科学研究活動ほ立ち遅れセいるか誓いての嘉察−〃世界︑個三四・  

七月片︒〝現代福祉国家の経済理論1一っの学説史的考察!〟還代福祉国家論忘三田︑所収︒誓び〝社会科学  

の諸力法∴神奈川大学創立三十周年記念論文集﹃社会科学の方法と諸問題﹄昭三四・5月所収っなどをみょJしか  

しそれだけ同時に︑疑問も湧く◇﹁配分原理﹂だけ荒ぎって要点だけの短刀直入な批判なゆるされるなら︑讐に︑博   

志.マルクスのいわゆる自然法則としての無色な﹁価値規定﹂そのものを配分原警等置され︑それを﹁非歴史的法則﹂   

︵上抱肇二三八−九ぺーヤ︶だと公認され︑tかもそれを価値法則と混同されている︒経済法則というものの性質につ   

いての根本的誤認がありほしないか︒歴史と論鱒の同㌻というマルクスの全著作の最大力点を︑ほたして理解しておられる    か︒算二に︑博志いわれる﹁配分原理﹂ほ︑たてまえとしては主体概念を不要とされるか覧えるが︑主体なき配分と    いうものほ形容矛盾であり︑この無理な挙孝員かれること紅よって事実は価値法則の世界であるところのものをも同山    原理で席持されようとした野心的意図はわかるが︑それは歴史の無視にょってのみ可能であるし︑また︑博志初期の男    作がほからずも﹁孤京の巨人﹂をおのずから仮想しなければならなかったというケースが︑じつほ全体の帰結をしめして   

いるのではないか︵同詔︑筆画蛮︶◇讐正︑﹁これまでの経済学がすべて資力配分の体系であっ空︵肇者宛の書信︑讐一   

四・6・二四付︶といわれるとき︑配分ほますます無内容となるだけでなく︑なまなましい現実としての経済学の歴史  

︵二九︶ 二九   

価値法則と配分法則  

(26)

五   

ヽヽ  ヽヽヽヽヽヽ    なお︑主体的補職が共同社会においては客体的物質代謝過程の目的となりうるにしても︑法則そのものとなりう  

るかという疑点がいわゆる﹁社会主義社会の基本的経済法則﹂に関連して︑おこる︒これほ周知のようにスターリ  

ンが﹁高度の技術にもとづく社会主義生産のたえまない増大と改善とによって︑社会全体のたえず増大していく物  

質的欲望と文化的欲望と凌最大限にみたすように保障すること﹂だと規定して以来︑﹃経済学教科書﹄で教條化さ  

れ︑〝雪どけ″以後もなお大抵のマルクス経済学着たちによってこの言文どおりのものとして問題なく受けとら  

︵1︶ れ︑同時に隠とんどかならずレーニンの﹁社会の全成員の完全な幸福と自由な全面的発展とを保障するため﹂とい  

ぅことばを引きあいにだすべきものとされてきたようである︒このような目的論的法則観が︑はたして﹁欲望﹂匿  

かんするマルクスの規定と合致するかどうかということが︑問題となる︒しかしそのまえに︑いったい﹁法則﹂と  

はぞっいうものかという基本的なことについて︑若干の検討が必要とおもわれる︒   

マルクスのばあいにも︑もちろん商品交換や商品生産の存在する社会と存在しない社会とをつうずる一般的な法  

則についての問題意識がなかったわけでほないが︑しかしかれの力点ほ周知のように﹁発展を発展たらしめるもの  

︵2こ ほ︑まさ竺般的なものおよび共通なものからの区別である﹂という側面にあった︒今日﹁表的経済法則﹂として    讐一宇三巻 郡TY  ︵三〇︶ 三〇   

性︒階級性がまったく煽祝されてしまう︒もちろん学派の相互掘取は緊要だが︑これでほマルクスの側からいって根本論   

点がすこしも輔取されないことになってしまうのでほないか﹂なお︑博士が配分と分配︑欲望と必要の区別を鋭意力説さ   

れるのにくらべて︑生産力・労働・労働力といった基本的用語の使用に慎重さを欠いておられるふしがみられることも︑   

付記しなくてほならない︒  

参照

関連したドキュメント

森 狙仙は猿を描かせれば右に出るものが ないといわれ、当時大人気のアーティス トでした。母猿は滝の姿を見ながら、顔に

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

( 同様に、行為者には、一つの生命侵害の認識しか認められないため、一つの故意犯しか認められないことになると思われる。

雇用契約としての扱い等の検討が行われている︒しかしながらこれらの尽力によっても︑婚姻制度上の難点や人格的

基準の電力は,原則として次のいずれかを基準として決定するも

モノづくり,特に機械を設計して製作するためには時

基準の電力は,原則として次のいずれかを基準として各時間帯別

Mercatoriaが国家法のなかに吸収され, そし として国家法から