『おもろさうし』「地方オモロ」論八五
〈はじめに〉
「地方オモロ」とは、琉球王府の宮廷歌謡集『おもろさうし』
(全二十二巻)をその内容によって分類したひとつである。『おもろさうし』を最初に分類したのは、戦前の琉球歌謡研究において勝れた業績を残した世礼国男である。世礼は「琉球音楽歌謡史論」(琉球新報、一九四○年 (注1))で、「神職おもろ」「あすびおもろ」「こねりおもろ」「地方おもろ」「ゑさおもろ」「ゑとおもろ」という六種類の分類を示している。この分類は戦後のオモロ研究を牽引した仲原善忠によって引き継がれ、仲原が『おもろさうし』の概説と一四○首のオモロの注釈とを記した『おもろ新釈』(琉球文教図書、一九五七年)で、「地方オモロ」(第二
・
五
・ 七
一 ・ 十
ロ」(第十 五~二十一)、「ゑさオモロ」(第十四)、「ゑとオモ ・ 十
三)、「こねりオモロ」(第九)、「あすびオモロ」(第十 ・ 十 二)、「名人オモロ」(第八)、「神女オモロ」(第一
・ 三
・ 四
・ 六)
、「公事オモロ」(第二十二)という八つの分類を示している。これは、世礼の分類によってはっきりしなかった第八と第二十二を「名人オモロ」と「公事オモロ」として補い、「神職おもろ」を「神女オモロ」に換えて提示したと推測される。仲原善忠のオモロ研究は、様々な点にわたり世礼のオモロ研究に影響されている (注2)。
仲原が「地方オモロ」と分類した巻は、第二「中城越来のおもろ」、第五「首里おもろの御双 さう紙 し」、第七「南 は風 ひのおもろの御双 さう紙 し」、第十一「首里ゑとのおもろの御双 さう紙 し」、第十五「浦 うら添 おそい北 きた谷 たん読 よん谷 たむ山 ざおもろの御双 さう
紙 し」、第十六「勝連具志川おもろの御双 さう紙 し」、第十七「恩納より上のおもろの御双 さう紙 し」、第十八「島 しま中のおもろの御双 さう紙 し」、第十九「知 ちゑ念 ねん佐 さ敷 しき
玻 は名 な城 ぐすくおもろの御双 さう紙 し」、第二十「米 こめ須 すおもろの御双 さう紙 し」、第二十一「久 く米 めの二間切おもろの御双 さう紙 し」である。これが仲原善忠
間守善 ・ 外 ―
排列と『琉球国由来記』 「各処祭祀」の記載から
―『おもろさうし』 「地方オモロ」論
島 村 幸 一
立正大学大学院紀要 三十六号八六『校本おもろさうし』(角川書店、一九六五年)に踏襲される。しかし、その後に出た外間守善『おもろさうし』上下(岩波文庫、二○○○年)では新たな分類が示され、大きく「王府オモロ」「地方オモロ」「特殊オモロ」の三つに大別して、先に示した八つのオモロをそこに位置づけている。「王府オモロ」は「神女オモロ」「公事オモロ」と第五、「地方オモロ」は第五を除いた第二
・ 七
一 ・ 十
「名人オモロ」としている。これが、外間守善 ロ」は「ゑさオモロ」「ゑとオモロ」「こねりオモロ」「あすびオモロ」 五~二十一、「特殊オモ ・ 十
もろさうし』(角川書店、二○○二年)に引き継がれている。 照間永吉『定本お ・ 波 岩波文庫本『おもろさうし』が、第五を「地方オモロ」から外したのは正しい理解であろう。第五は国王を謡ったオモロが多く、しかも冒頭に神女が謡われるオモロは少ない。第五は、オモロ歌唱者(男性)が国王や首里城等を賛美するオモロが相当数入る。特に、巻後半は尚真王「おぎやか思 もい」讃歌のオモロを多く集めている。第五の表題の「首里おもろの御双 さう紙 し」の「首里」はオモロの用例がそうであるように、基本は首里グスク(あるいは首里王府)を指す語である。それを物語るのは、オモロの「しより」「首里」の対語は「ぐすく」である。そして、それは古琉球期の辞令書にみる「しよりの御ミ事」の「しより」と同じであると理解される。仲原が『おもろ新釈』で「巻五
・ 七
は、政治の中心となった首里のもので、地方おもろであるが、内容は農村的ではない」としながらも、「地方オモロ」と分類したのは、第五 の表題の「首里おもろ」の「首里」を首里地方(首里三 み平 ひ等 ら)を指す語だと理解したためだと考えられる。 私見による『おもろさうし』の構成は、大きく国王のヲナリ神であり琉球国の最高神女、聞得大君を謡うオモロを集めた第一と第三、聞得大君に次ぐ高級神女、煽りやへ
・ 差笠のオモロを集めた第四、さら
にそれに次ぐ神女、首里大君
・ 精君
・ 君加那志
・ 百年踏み揚がり
・ 君 の頂のオモロを集めた第六と、さらに上級神女、三平等之大 おお阿 あ母 む志 し良 ら
礼 れの筆頭に立つ首里大阿母志良礼がかかわるオモロ、あるいは首里大阿母志良礼が管轄する地域(首里三平等のうちの南風之平等の村と沖縄本島南部の東側の諸間切)にかかわるオモロを集めた第七の神女を中心とする巻群と、前述したオモロ歌唱者(男性)が国王や首里城等を賛美するオモロが相当数入る第五からなる王府の中心部を謡う上巻がまずあり、その王府の周縁にあるといっていい第十五から第二十一までの地方を謡う「地方オモロ」によって構成される下巻と、上巻と下巻の間に位置する第八から第十四までの「色 いろ々 〳〵」(種々)のオモロを集めた中巻からなると考える。さらにこの上中下巻を聖典にした附巻の第二十二からなると理解される。ポイントとなるのは第七の理解で、第七の表題「南 は風 ひのおもろの御双 さう紙 し」の「南 は風 ひ」は、首里三平等のうちの南風之平等を意味し、そこの祭祀を管轄する首里大阿母志良礼がかかわるオモロを集めたのが第七だと理解される。すなわち、第七は王府の中心を謡うオモロとして、「地方オモロ」から外して理解すべき
『おもろさうし』「地方オモロ」論八七 である。また、第十一は内実が第二十一とほとんどが重複する久米島を謡ったオモロであるが、巻の冒頭部のオモロをみると表題が示すように、本来は「首里ゑと」を集めた巻であった可能性がある。それ故に、これも「地方オモロ」から外して理解した方がよかろう。『おもろさうし』には、「船ゑと」「歩 ありきゑと」と「首里ゑと」という三つの「ゑと」があったと考えられる。 すなわち、『おもろさうし』は王権の中枢部を謡う上巻(第一
・ 三~
七)、地方を謡う下巻(第二
する沖縄本島とその周辺離島の間切 うし』と同様の構成をしている。「地方オモロ」は、王府の周縁に位置 (注4) 祀を叙述した「各処祭祀」を置いているのも、基本的には『おもろさ 三年)の構成も、巻一に「王城公事」を置き、巻十二以下に地方の祭 群をさす。後に王府が編纂した『琉球国由来記』全二十一巻(一七一 つまりは、「地方オモロ」は、『おもろさうし』下巻に位置する巻の歌 に入れてその構成を整理すると、以上のように考えることができる。 ロ」「特殊オモロ」という分類を、『おもろさうし』の巻の排列を視野 る。岩波文庫本『おもろさうし』が提示した「王府オモロ」「地方オモ るはずの第二が上巻の位置にあるのは、この巻の編纂が早いことによ う構成であると捉えられる双紙であるといえる。本来、下巻に位置す (注3) (種々)のオモロを集めた中巻(第八~十四)と、附巻の第二十二とい 五~二十一)と、その間にある「色々」 ・ 十 いろ〳〵
・ 島を謡った巻のオモロである
(注5)。本稿では巻毎に「地方オモロ」を検討し、オモロの排列やオモロが謡っ ている〈地名〉や人名等を考察していく。 先に結論から述べれば、「地方オモロ」が謡う〈地名〉はほとんどがグスクを謡っていると理解される。「地方オモロ」は間切を単位として巻が構成されているが、その中味は多くが間切の中心となるグスク、あるいはそれに関連した祭場、領主(按司
・ テダ)
、神女等を謡うことを主要な内容としているといっていい。しかしながら、この理解は共有化されていない。例えば、仲原善忠
・ 外間守善『おもろさうし
辞典
・ 総索引 第二版』(角川書店、一九七八年)に記される〈地名〉、「―うらおそい」「かつれん」「きたたん」「こゑく」「なかくすく」「みやきせん」の説明は、以下である。
―うらおそい(―浦添)地名。中 なか頭 がみ郡浦 うら添 そえ。→きこゑ―
・ とよむ
―かつれん(勝連)地名。中 なか頭 がみ郡勝 かつ連 れん村。沖縄本島中部から東に突出する半島にある。* 第十六―一一六三を引く。きたたん(北谷)中 なか頭 がみ郡北 きた谷 たん村北 きた谷 たん。北谷をチャタンという。*第十三―九○三を引く。こゑく(越来)地名。中 なか頭 がみ郡越 ごえ来 く村。*第二―七九を引く。なかくすく(中城)中 なか頭 がみ郡中 なか城 ぐすくにあるぐすく。*第二―四五を引く。中 なかくすく(中城)①中 なか頭 がみ郡中 なか城 ぐすくにあるぐすく。*第二―四五を引く。②久米島の中 なか城 ぐすく(今の宇 う江 え城 ぐすく)。康煕六年(一六六七年)仲里城と改めた。*第十一―六一一を引く。
立正大学大学院紀要 三十六号八八みやきせん(今帰仁)地名。国 くに頭 がみ郡今 な帰 き仁 じん村。*第十三―九一六を引く。
取り出した〈地名〉の「辞典」の説明は、これらが行政上の地名(村や字)だと記すだけでグスクであるとは記していない。グスクだとしているのは、「なかくすく」「中 なかくすく」だけである。しかし、これも偶々地名に「―くすく」という語がある故に、グスクだという理解をしていると思われる。「辞典」が、なぜこのような理解であるのか。そのひとつの理由は、大型グスクを示す用例であっても『おもろさうし』の表記は、単に「うらおそい」「かつれん」「きたたん」等と記されるだけで、「~ぐすく」という表記ではないからである (注6)。これが、用例の理解を曖昧にさせていると思われる。このことは、「しより」「首里」と表記される首里グスクでも、同様である。ただし、「しより」「首里」は他の〈地名〉とは異なり、「ぐすく」という対語をとるかたちで、これが首里グスクを示している (注7)。見方を変えれば、『おもろさうし』の「ぐすく」という語は、首里グスクに占有されるような用例になっている。大型グスクを示す用例の「うらおそい」「かつれん」「きたたん」等が、「―ぐすく」と称されないのは、首里グスクを専ら「ぐすく」と称することと表裏の関係にあることなのである。もっとも、『おもろさうし』でも規模の小さなグスクと思われる第十一―五六八「宇 う根 ねぐすく」、第十四―一○一○「津 つ堅 けん伊 ゑ波 はぐすく」等には、「―ぐすく」の用 例があり、グスクの形状(美称も含む)を示す場合も、第十九―一三○二「知 ちゑ念 ねん杜 もりぐすく」(樹木に囲まれたグスク)等、第二十―一三三四「摩 ま文 ぶ仁 に石 いしぐすく」(堅固なグスク)、第十六―一一六○「江 ゑ洲 すの土 つちぐすく」(土塁のグスク)、第二十―一三三二「石 いし原 やらたうぐすく」(平城)等の用例がある。 いうまでもなく、「地方オモロ」に謡われる〈地名〉がなにを示しているのかを理解することは重要である。それは、「地方オモロ」がなにを謡うのかを知ることでもある。本稿は、「地方オモロ」の排列に留意しながら、謡われる〈地名〉を考察していく。その際に、『琉球国由来記』「各処祭祀」の記事を参考にしていく。『琉球国由来記』「各処祭祀」の記載は相当に重要であり、両者には一定の関係性があると思われる (注9)。例えば「地方オモロ」の最初の巻である第二「中城越来おもろ 首里王府の御さうし」を例にとると、『琉球国由来記』巻十四「各処祭祀」の中城間切の記載において、その筆頭に記される「
御イベ」から「 167中森ノ とあるように中城グスクにあるイベ 174御当蔵火神」(添石村)は「以上八ヶ所、城内ニ有」
載も「 轄する拝所になっている。また、中城間切の「年中祭祀」の冒頭の記 の神であり、「ヨキヤ巫」が管 ・ 火
われるのは、この殿の「祭祀」において「稲二祭」(稲穂祭 クにある殿の「祭祀」を記す記載になっている。しかも、重要だと思 213レ中城城内之殿(御殿石楷設席也)」とあり、やはり中城グス
の時に「中城御殿」と「惣地頭」から「花米」「五水」「神酒」「シロマ 祭時) ・ 大
『おもろさうし』「地方オモロ」論八九 シ」が提供されることである。中城間切の「年中祭祀」において、両総地頭(按司地頭である「中城御殿」、親方地頭である「惣地頭」)から供物の提供があるのは「
切の記載でも同様である。 は、越来間切のオモロの排列と『琉球国由来記』「各処祭祀」の越来間 は、中城グスク関連の記載を筆頭に記すという点で同じである。これ モロの排列と、『琉球国由来記』「各処祭祀」巻十四の中城間切の記載 排列されている。この点で、第二「中城越来おもろ」の中城間切のオ へ」と謡われる中城グスクであり、中城グスク関連のオモロが十五首 るのは、第二―四七「一聞ゑ中城東方に向かて板門建て直ち きこぐすくあがるいむいちやぢやたなお になっており、前半の中城間切のオモロ(二十九首)の冒頭に位置す ると、前半が中城間切のオモロ、後半が越来間切のオモロという排列 であると考えられる。それを踏まえて、第二「中城越来おもろ」をみ そして、ここを管轄する神女が、中城間切の中心となるノロ(親ノロ) 中城グスクの拝所が中城間切の中心となる祭場であると推測される。 213中城城内之殿」だけである。このことは、 しかし、このような記載の相関がすべての「地方オモロ」と『琉球国由来記』「各処祭祀」にわたっているかというとそうではない。例えば『琉球国由来記』「各処祭祀」巻十四の浦添間切の記載では、その冒頭が「
とあり、浦添間切の「年中祭祀」の記載においても「 71 大城嶽両御前」(中間村)以下、「右四ヶ所、浦添城内有」
「 96浦添巫火神」
97浦添城内殿」が冒頭にあって、浦添グスクの拝所を筆頭にした記載 になっている。しかも、「
頭から花米 97浦添城内殿」の「稲二祭」だけに、両惣地
・ 五水
・ 神酒が供物として提供されるとあり、ここが浦添 間切の中心となる拝所であると推測される。しかし、『おもろさうし』第十五「浦 うら添 おそい北 きた谷 ゝん読 よん谷 たむ山 ざおもろ御双 さう紙 し」では、前半に位置している浦添間切のオモロにおいては、必ずしも浦添グスク関連のオモロが冒頭に排列されてはいない。この点では、中城間切や越来間切のオモロのような排列にはなっていない。しかし、浦添間切のオモロは全五十二首中、二十一首が連続して浦添グスク関連のオモロ(第十五―一○七○~一○九○)である。やはり、このオモロ群が浦添間切の多くのオモロを占める。
以下具体的に述べていくが、「地方オモロ」は各間切の有力なグスクに関連したオモロを中心に謡っており、それは『琉球国由来記』「各処祭祀」の各間切の記載においても多くが筆頭に記される拝所である。そして、その拝所はそこだけに両惣地頭、ないしは一方の惣地頭が供物を提供する拝所になっていて、そこが間切の中心となる祭場であると考えられる。「地方オモロ」が謡うのは、ほとんどがそのような『琉球国由来記』「各処祭祀」の各間切に記載されるグスクにある拝所の祭場に関連しているといえる。「地方オモロ」と『琉球国由来記』「各処祭祀」の記載が、一定程度相関しているというのはそのようなことである。
以下、巻の排列にしたがってオモロの冒頭の対句を取り出し、謡わ
立正大学大学院紀要 三十六号九〇れる〈地名〉に注目してグルーピング化し、巻ごとに通し番号を付けて示した )(注
(注。それらを『琉球国由来記』「各処祭祀」の記事を参照しながら、考察していく。ただし、その際、一連するかたちで重複するオモロについては、本来ある巻でそれを扱い、他巻に入る重複オモロは除く。除いたオモロは、以下である。
られるので、これを除く。 し、内容は「島中おもろ」である。本来は第十八に位置すると考え しま 第十七―一二一九~一二四八第十八―一二四九~一二七八と重複 ・ る。本来は第六に位置すると考えられるので、これを除く。 一~二九七他と重複する。内容は「首里大君」「精君」のオモロであ きみせんきみ 第二十―一三七四~一三八○第四―二○五~二一一、第六―二九 ・
られるので、これを除く。 し、内容は玻名城のオモロである。本来は第十九に位置すると考え 第二十―一三八一~一三九三第十九―一三一八~一三三○と重複 ・ また、第二十一は巻に錯簡
・ 混入があり、内容からみても「地方オ モロ」として例外が多い。今回は、その対象から外した )((
(注。
注注1
「琉球音楽歌謡史論」は一九四○年四月二日(第一回)から九月二十 注5 由来記』の世界」。 注4拙著『琉球文学の歴史叙述』(勉誠社、二○一五年)所収、「『琉球国 注3拙論「『おもろさうし』の構成」。注2の拙著に所収。 「仲原善忠のオモロ研究」。 注2拙著『おもろさうし研究』(角川文化振興財団、二○一七年)所収、 八回(四月十日)の記事「(2)おもろの種類」で示されている。 回で終わっているかどうか、確認できない。なお、オモロの分類は、第 九四○年の琉球新報は完全に揃っているわけではなく、正確には八十七 一日(八十七回)まで、琉球新報に連載された論文である。しかし、一
『お
もろさうし』は、基本的に宮古
て、「地方オモロ」に宮古 重山を謡っていない。したがっ ・ 八
(笠間書房、二○一二年)所収、「〔 ク』沖縄県立博物館、一九八五年)、拙著『日本歌人選おもろさうし』 注6池宮正治「地方おもろの政治文化圏とぐすく」(図録『特別展グス があったかどうかは、なお検討の余地がある。 ウタが航海歌である。その点で「地方オモロ」として奄美地域のオモロ 府の港、那覇港から鹿児島に向かう歌群の中に位置付いており、多くの なかったと考えることができるが、奄美地域を謡うオモロは基本的に王 年)以降であるために、「地方オモロ」として独立した巻の編纂ができ 実質的な編纂年である第三回目(一六二三年)が島津侵攻(一六○九 美地域を謡うオモロは第十三にある。この理由は、『おもろさうし』の 重山地域を謡うオモロはない。また、奄 ・ 八
注8注6の「〔 と」である。 一九七五年)でも、「ウグシィク」(御城)は「王の居城。首里城のこ 注7首里方言を記した『沖縄語辞典』(国立国語研究所、大蔵省印刷局、 よわれ」〉」。 18 〕〈「勝連の阿摩和利十百歳ち かつれんあまわりとひやくさ
注9 18 〕〈「勝連の阿摩和利十百歳ちよわれ」〉」で論じた。 かつれんあまわりとひやくさ
『琉球国由来記』の「各処祭祀」は巻十二から最終巻の巻二十一であ
『おもろさうし』「地方オモロ」論九一 る。「地方オモロ」と関連するのは、巻十二から巻十九(久米島)までであるが、「地方オモロ」は宮古島
注 ロ」が謡う対象にしていない。 は王都首里に隣接した畿内の扱いになっていると考えられ、「地方オモ 切、巻十四の筆頭に記される西原間切の三間切は、『おもろさうし』で 十二の筆頭に記される真和志間切、巻十三の筆頭に記される南風原間 で、巻二十(宮古島)と巻二十一(八重山)は除かれる。さらには、巻 重山地域を対象にしていないの ・ 八
注 分的に私意で記してもいる。 表記は、岩波文庫本『おもろさうし』を参考にして漢字を当てたが、部 のに参考になる語句がある場合は、*を付けてそれを示した。オモロの ある。また、オモロ中にそのオモロが謡われている〈地名〉を理解する した。冒頭部が対句になっていないものは冒頭部をそのまま取り出して 10 冒頭部に〈地名〉が示されることが多いので、冒頭部の対句をとりだ
「「地方」で謡われたオモロ、久米島オモロの特殊性」。 11 拙著『『おもろさうし』と琉球文学』(笠間書院、二○一○年)所収、
〈間切ごとにみる「地方オモロ」 〉
〔1〕第二 中城越来おもろ 首里王府の御さうし 「第二 中城越来おもろ」は全部で四十六首(四二~八七)。前半が(A)中城間切のオモロ二十九首(四二~七○)、後半が(B)越来間切のオモロ十七首(七一~八七)によって構成されている。
(A)中城間切のオモロ 第二―四二~七○①四二~四九 聞 きこゑ中 なか城 ぐすく/鳴 と響 よむ中 なか城 ぐすく 五○ はしかりがおもろ/はしかりがせるむ
*「望 もち月 づき」が謡われる 五一~五四 聞 きこゑ中 なか城 ぐすく/鳴 と響 よむ中 なか城 ぐすく
*五一「王 たまの君 きみ」「よきやのろ」、 五四「聞 きこゑいろめき/鳴 と響 よむいろめき」が謡われる 五五 よきやのろ/けはやのろ 五六 あまみやよきやのろ/しねりやよきやのろ②五七~五九 屋 や宜 ぎの金 かな杜 もり/比 ひ嘉 がの金 かな杜 もり
*五八「あけ加 が那 な志 し」が謡われる 六○ 屋 や宜 ぎから上 のぼる直 したたれや垂 鎧 よろい/比 ひ嘉 がから上 のぼる(直 したたれや垂 鎧 よろい) 六一 中城 ぐすく吉 よしの浦 うら/屋 や宜 ぎの浦 うらの吉 よしの浦 うらの③六二 新 あら垣 かきの根 ね高 たか杜 もりぐすく/天 てにつぎの根 ね高 たか杜 もり(ぐすく)
六三 新 あら垣 かきの国 くにの根 ねに/天 てにつぎの島 しまの根 ねに④六四 いちよの子 しぎやおもろ/一 いち郎 ら子 こがせるむ⑤六五 安 あ谷 だに屋 やの若 わか松 まつ/肝 きもあぐみの若 わか松 まつ
六六 安 あ谷 だに屋 やも 知 しらたる/肝 きもあぐみ 知 しらたる *「鬼 おにの君 きみ」が謡われる 六七 聞 きこゑ鬼 おにの君 きみ/鳴 と響 よむ鬼 おにの君 きみ
*「安 あ谷 だに屋 やの杜 もり」が謡われる 六八 安 あ谷 だに屋 やの肝 きもあぐみの杜 もりに 六九 安 あ谷 だに屋 やは 根 ね し遣 やり/肝 きもあぐみ 根 ね し遣 やり
立正大学大学院紀要 三十六号九二 *「鬼 おにの君 きみ/よらせ君 きみ」が謡われる 七○ 安 あ谷 だに屋 やの泉 いぢみさうず清水/肝 きもあぐみの泉 いぢみさうず清水 A―①の最初のオモロ第二―四二は、「一聞 きこゑ中城 ぐすく 東 あがるい方に 向 むかて 板 いちやぢや門 建 たて直 なおちへ 大 だ国 くに 襲 おそう 中城 ぐすく」と謡いだされる。中城グスクの一部の門は東に向かって開いており、霊的な力に満ちている朝日を城内に入れることが謡われている。このオモロは、グスクが祭場としての側面を多分に持っていることが窺われる。このオモロが謡うように、A―①のオモロ十五首は、中城グスク関連のオモロと考えられる。中城グスクは大型グスクのひとつである。『海東諸国紀』(一四七一年)の「琉球国之図」に「中貝(具)足城」とある。〈はじめに〉で述べたように、中城間切のオモロの冒頭に中城グスクを謡うオモロが配置されているのと同様に、『琉球国由来記』巻十四の中城間切の記載も冒頭は「
「 167中森ノ御イベ」(添石村)であり、それから連続して になっている。これらが中城グスク城内にある拝所であることは、「 174御当蔵火神」(添石村)までは、中城グスク城内にある拝所の記載
174 御当蔵火神」の記載に続いて「以上八ヶ所、城内 00ニ有」という記述で分かる。また、中城間切の「年中祭祀」の冒頭も「
に記される冒頭部分の添石 これらの拝所はいずれも「ヨキヤ巫」の「崇所」である。「年中祭祀」 レ殿石段設席也)」とあり、これも中城グスク城内にある拝所である。 213中城城内之殿(御
・ 泊
・ 照屋
・ 新垣
・ 伊舎堂村所在の四ヶ所
の殿(
213から 目されるのは、中城グスク城内にある「 216))は、いずれも「ヨキヤ巫」が祭祀する殿である。注
167中森ノ御イベ」から「
当蔵火神」には「毎年正月 174御
・ 十二月、従 イ中城御殿ア、有イ祈願ア也」という記載があり、「
殿、惣地頭、添石地頭から花米 213中城城内之殿」の記載には、稲二祭には中城御
・ 五水
・ 神酒等、添石村
・ 泊村百姓中
から神酒が供されるという記事があることである。特に、「
之殿」の稲二祭の祭祀に、両惣地頭(中城御殿 213中城城内
・ 惣地頭)から供物が
あることは注目される。中城間切の他の御嶽や殿の祭祀には、両惣地頭の供物の提供の記載はみられない。このことは、中城グスク城内にある御嶽
・ 殿は間切の両惣地頭家と緊密な関係を持つ拝所であり、こ
こが中城間切の中心的な拝所、祭場であることを推測させる。また、この祭祀者である「ヨキヤ巫」は、中城間切の筆頭に位置するノロ(親ノロ)であることも推測させる。五五
が中城グスクの祭祀を掌るノロであるからである。五五 が、「聞ゑ中城」と謡いだされる五四に連続してでるのは、この神女 きこなかぐすく 六に謡われる「よきやのろ」 ・ 五
・ 五六も、A
―①のグループに入る。
なお、オモロ歌唱者のオモロと考えられる五○も、排列から中城グスクにかかわるオモロと理解される。ただし、中城間切の最後のオモロ、七○の後には「点 てん数 かず廿七」という記載がある。しかし、中城間切関連のオモロは二十九首であり、「点 てん数 かず廿七」の記載と二首のずれがある。「点 てん数 かず」の記載に誤りがないとするならば、二首の違いは五○と六
『おもろさうし』「地方オモロ」論九三 四がカウントされていないことが想像される。二首はオモロ歌唱者が謡うオモロであり、これには地名が謡い込まれていない。そうだとすると、二首のオモロは「点 てん数 かず廿七」というまとまりとは別のかたちで存在していて、後から入れ込まれたとも考えられる。 A―②「屋 や宜 ぎの金 かな杜 もり」について、「佐久川ノ嶽の南側を渓流が流れていて、この流れを隔てた南方丘陵を部落(筆者注。屋宜集落)では「屋宜ノガンムイ」と称して」いる(『中城村史 第三巻 資料編2』「第六章 中城の信仰」 (注1))。オモロが謡う「屋 や宜 ぎの金 かな杜 もり」はここか。A―③の二首は、新垣グスクを謡っていると考えられる(『日本歴史地名大系 沖縄県の地名』「新垣グスク」の項。以下、『日本歴史地名大系 沖縄県の地名』を『沖縄県の地名』とする)。『琉球国由来記』巻十四には「
置し、その集落跡の中を首里グスク、新垣グスク、中城グスク、勝連 垣)グスク南東側の麓には新垣遺跡(集落、十三世紀から近代)が位 地元で「上ノ御嶽」と呼ばれている拝所と推察される」という。「(新 「新垣ノ嶽」は「二の曲輪内にあり、一の曲輪に向かって祀られている 称しており、昔から神聖な場所として集落の信仰対象」となっていて、 の「崇所」。「現在、新垣グスクの位置する山を地元では「ウタキ」と アマタカ」の「タカ」と対応しているか。「新垣ノ嶽」は「ヨキヤ巫」 00 応している。また、六二の「ねたかもりぐすく」の「たか」は、「天次 00 「新垣/天つぎ」の対語は「新垣ノ嶽」の「神名天次アマタカ」と対 00あらかきてに 177 新垣ノ嶽神名天次アマタカノ御イベ」(新垣村)の記事がある。 『琉球国由来記』には「 A―⑤の五首は、安谷屋グスク関連のオモロであると理解される。 重な指摘である。 新垣グスク』)。これは、各グスクが街道で繋がっていることを示す貴 (注2) 時代の集落遺跡が集中して」いる(以上、『中城村の文化財第九集 グスクを結ぶハンタ道が通って」おり、「中城ではこの道沿いにグスク
イベ」等の三箇所の御嶽と火神、「 205 安谷屋城嶽神名コンキヤネイシラゴノ御
ン山には中城若松の屋敷跡や火の神と墓など、御嶽、拝所、古い墓所 スクの殿、七殿、上の御嶽、ウトゥーシ(お通し:遙拝所)、ユナファ からこの場所にみだりに立ち入ることをいましめてきた。一帯にはグ 一帯にはウガンヤマ(御願山)と呼ばれ、古老たちは聖地であること される。この四ヶ所は安谷屋グスク城内の拝所と考えられる。「グスク 231安谷屋城之殿」(安谷屋村)が記
・ 井泉が集中している。北東方麓に、下の御嶽があり、南と北西方の崖下にも古い井泉がある」という。「安谷屋城嶽」を上の御嶽(イーヌウタキ)、「下ノ嶽」をグスク「北東方麓」の下の御嶽(シムヌウタキ)と同定している(以上、『北中城村史 民俗編』「第七章 信仰」「十一 安谷屋」 (注3))。七○「安 あ谷 だに屋 やの泉 いぢみさうず清水」も村史に記される「井泉」「古い井泉」のどれか、あるいはいくつかの泉を謡ったものと推測される。上の御嶽の近くには「クガニジガー(くがにじ御井戸)」「クサイヌカー(くさて御井戸)」、下の御嶽周辺には「ウフヒージャーガー(大樋川)」、「クルマウカー(くるま御井戸)、「ミートゥガー(夫婦井戸」、「クシバ
立正大学大学院紀要 三十六号九四ルヒージャーガー(後原樋川小)」、「チブガー(壷井戸)」など多くの井戸、泉が確認される(『北中城村史 民俗編』「第七章 信仰」「安谷屋の祭祀地図」)。四ヶ所の拝所は、安谷屋巫の管轄。「鬼 おにの君 きみ」は安谷屋ノロと繋がる神女か。あるいは、安谷屋ノロの美称語か。
(B)越来間切のオモロ 第二―七一~八七⑥七一 越 ごゑ来 く杜 もりぐすく/揚 あがる杜 もりぐすく *「遣 やり笠 かさの親 おやのろ」が謡われる 七二 越 ごゑ来 く綾 あや庭 みやに/越 ごゑ来 く奇 くせ庭 みやに 七三 越 ごゑ来 く杜 もりぐすく/揚 あがる杜 もりぐすく 七四 越 ごゑ来 くこてるわに/見 み物 ものこてるわに *「命 ゑのちとも襲 おそい」が謡われる 七五 越 ごゑ来 く綾 あや庭 みやに/越 ごゑ来 く奇 くせ庭 みやに *「君 きみの按 あ司 じ」が謡われる
七六
・ 七七 越 ごゑ来 くこてるわに *七六「命 ゑのちとも襲 おそい
り笠の親のろ」「命神殿」、 ・ 遣 やかさおやゑのちかみどの
七七「遣 やり笠 かさの親 おやのろ」が謡われる 七八~八二 越 ごゑ来 く世の主 ぬしの/揚 あがる世の主 ぬしの *七八「真 またち思 よもい」、八一「照 てる日 ひおのかな」が謡われる 八三 吾 あんのつのけたち/吾 あんのおやけたち
*「越 ごゑ来 くのてだ」が謡われる 八四 越 ごゑ来 く杜 もり 見 みや揚 あげれば/揚 あがる杜 もり 見 みや揚 あげれば
*「吾 あがなさ」が謡われる⑦八五 知 ち花 ばな金 かな城 ぐすく/知 ち花 ばな石 いし城 ぐすく
八六 知 ち花 ばな後 こし嶽 だけに/知 ち花 ばなにし嶽 だけに⑧八七 池 いけ原 ばるの按 あ司 ぢの/国 くにの根 ねの按 あ司 ぢの *「平 ひら田 た」「ほつむ杜 もり」が謡われる B―⑥の十四首は、越来グスク関連のオモロと考えられる。越来グスクは、『海東諸国紀』の「琉球国之図」に「五欲城」とある。越来グスクからは「唐時代の中国で製作されたと想定される双鸞八稜鏡の破片および平安時代に日本で製作された瑞花双鳳八稜鏡の破片が出土して」おり、「日本の奈良時代~平安時代における高級工芸品を受容できる背景があったことを物語っている」(『沖縄の名城を歩く』)。『琉球国由来記』巻十四の越来間切の冒頭は、「
は、「 ノ御イベ」(越来村)等、四ヶ所の御嶽が記され、「年中祭祀」の冒頭 257 南風之嶽神名コバヅカサ 270越来巫火神」「
は越来グスク内にあった拝所や祭場であると推測される。「 (注4) らが越来グスク内の拝所であるとは記されていないが、これらの多く は、いずれも「越来巫」の「崇所」である。『琉球国由来記』にはこれ 271越来城殿」(越来村)が記されている。これら
神」の記事には、麦 270越来巫火
・ 稲穂祭の時、按司(按司地頭)から花米
・ 五水
が、越来村
・ 照屋村
・ 安慶田村
・ 上地村百姓中から穂
・ 花米
・ 五水等
『おもろさうし』「地方オモロ」論九五 が供せられると記されている。続く「
祭 271越来城殿」の記事でも、麦大
二祭では按司 ・ 稲
地頭から花米 ・ 惣
水 ・ 五
酒等が、照屋地頭 ・ 神
・
照屋掟
慶田地頭 ・ 安
慶田掟 ・ 安
袋大屋子から神酒等が、越来村 ・ 島
・
照屋村
・ 安慶田村百姓中から穂
・ 神酒が供せられると記されている。
越来間切の祭祀において、両惣地頭から供物が供せられるのは、「
来巫火神」「 270越 される御嶽( 271越来城殿」だけである。ここが越来グスクにあると推測 257~ 筆頭に立つノロであると理解される。第十四―一○○三には、「越来杜 ごゑくもり あると考えられる。また、ここを管轄する「越来巫」は、越来間切の 260)であるとともに、越来間切の中心となる拝所で 親 おやのろ」が謡われている。越来ノロのことか。『琉球国由来記』の越来間切の御嶽、殿
まっている。 之神の記載は、「越来巫」が管轄する拝所から始 ・ 火
越来間切の冒頭のオモロ十四首は越来グスク関連のオモロであるが、『琉球国由来記』巻十四の「各処祭祀」の越来間切の冒頭も越来グスクにかかわる御嶽、殿
・ 火之神の記載であると思われる。オモロが謡う
「越 ごゑ来 く綾 あや庭 みや」「越 ごゑ来 くこてるわ」「命 ゑのち神 かみ殿 どの」は越来グスク内にあった祭場であり、「命 ゑのちとも襲 おそい」「遣 やり笠 かさの親 おやのろ」「君 きみの按 あ司 じ」「照 てる日 ひおのかな」は越来グスクの神女、「越 ごゑ来 く世の主 ぬし」「越 ごゑ来 くのてだ」「真 またち思 よもい」「吾 あがなさ」は越来グスクの城主に関連する人物と考えられる。『球陽』巻二「尚泰久王五年」(一四五八)の記事には、勝連グスクの阿摩和利を討った鬼大城(夏居数)はその功績により越来間切の総地頭になっ たと記されている。また、『中山世鑑』巻四には尚円の「御舎弟」である尚宣威は越来王子と称し、越来グスクに居住したと記されている。「越 ごゑ来 く世の主 ぬし」「越 ごゑ来 くのてだ」等は、それらに連なる人物かもしれない。十四首の越来グスク関連のオモロは、大きくグスクの祭場や祭場での祭祀、神女、城主(領主)という順で謡われる。中城グスク関連のオモロでも、まずグスクや祭場が謡われ次ぎに神女が謡われるという排列になっている。なお、八三の「吾 あんのつのけたち/吾 あんのおやけたち」はオモロ歌唱者であると思われる。これが「越 ごゑ来 くのてだ」を称えていると理解される。「たう〳〵は 走 はちへ 坂 ひら〳〵は 這 はうて」という詞章はユーモラスであり、オモロ歌唱者らしい表現である。 B―⑦の二首は、知花グスクを謡ったオモロであると考えられる。『琉球国由来記』巻十四「各処祭祀」の美里間切知花村の記載に「
「知花巫」の「タカベ所」とある。また、「年中祭祀」には「 ナ森神名イシイ御イベ」等、三ヶ所の御嶽が記されて、これらは 290カ 火神」「 315知花巫 316知花殿」「
が祭祀するとある。池宮正治は「 317石城之殿」(知花村)の記載があって、「知花巫」
という対語は、『琉球国由来記』に「 とする」と記している。少なくとも、八五の「知花金城/知花石城」 ちばなかなぐすくちばないしぐすく 知花石城である可能性もあるものの、さしあたり現在の知花城(後原) る。古く「ちばな」が広い地域を指したとすれば、石城原のあたりが 北二、七キロのところに「石城原」(字池原)という小字が残ってい 317石城之殿」について、「知花城の真 317石城之殿」と関係すると思われ
立正大学大学院紀要 三十六号九六る。また、池宮正治は上江洲均の「知花の祭祀とその組織」(『琉球政府立博物館々報』一九六九年)によるとして「知花のヌンドゥンチの後方の森の御嶽を「ニシムイ」または「ノロウタキ」といい、これを「こしだけ」「にしだけ」に比定している」と記している(以上、「『おもろさうし』にみる越来
六六六)に越来間切から十五ヶ村を割いて分離 来記』においては美里間切に記されているが、美里間切は康煕五年(一 里」)。なお、知花村の記載は『琉球国由 ・ 美 (注5)
・ 独立した間切である
(『沖縄県の地名』)。それ以前は、越来間切にあった。
B―⑧と関連する『琉球国由来記』の記載は、美里間切の「池原村」にある御嶽
・ 殿として、
「
293 イヽ森神名イシノ御イベ」「
性がある。 は、いずれも「知花巫」がかかわるオモロとして排列されている可能 殿」の記載がある。ここの管轄は「知花巫」である。⑦⑧の都合三首 319池原之 「第
二 中城越来おもろ」の前半、中城間切のオモロの冒頭A―①十五首は、中城間切の中心となる祭場、中城グスクに関連するオモロである。これが、中城間切のオモロの半数以上を占めている。また、A―②の二首は新垣グスクを謡ったオモロであるが、これも『琉球国由来記』の記載によれば、中城グスクの祭祀者の中心と考えられる「よきやのろ」が管轄する。さらに、A―③六一は中城グスクの港として「吉 よしの浦 うら」を称えたオモロとして理解できる。六○の「屋 や宜 ぎから上 のぼる」 という表現は、それを裏付けるのではないか。五七~五九の「屋 や宜 ぎの金 かな杜 もり」は、中城グスクの港「吉 よしの浦 うら」に出入りする船の航海を守護する祭場として謡われている可能性がある。そのような観点で中城間切のオモロをみると、はじめのA―①の十五首が中城グスクを謡ったオモロ、次のA―②の五首が中城グスクの港とそこに出入りする船の航海安全を守る祭場であると推測され、次のA―③は新垣グスクを謡ったオモロで、これも「よきやのろ」が管轄する祭場であると理解される。つまり、A―①から③までの二十二首は広く中城グスク関連のオモロである。数としては、中城間切のオモロの七十五パーセント以上にもなる。中城間切のオモロにおいて、中城グスク関連のオモロが中心であるといえる。これに、A―⑤の安谷屋グスク関連のオモロが続くと理解される。 すなわち、中城間切のオモロは、中城グスクと安谷屋グスクを謡うオモロを中心にして構成されていると考えられる。それを、首里グスクを起点にして南から北へという順序で配置されている。このことは、中城グスクより南に位置している新垣グスクを謡うA―③が中城グスクを謡うA―①より後ろに配置されていることでも窺える。なお、中城グスク関連と安谷屋グスク関連のオモロの間にあるオモロ歌唱者が謡うA―④の六四は、どちらかのグスクに関連したオモロであろうが、不明である。
第二「中城越来のおもろ」の後半、越来間切のオモロ(七一~八七)
『おもろさうし』「地方オモロ」論九七 の冒頭のB―⑥十四首は、越来間切の中心となる祭場、越来グスクに関連するオモロであると理解される。これが、越来間切関連のオモロの八割以上を占める。それに続く、B―⑦は知花グスクにかかわるオモロである。越来間切のオモロは、越来グスクと知花グスクに関連するオモロ群であると理解される。前述したように、最後のB―⑧で謡われる「池 いけ原 ばる」は、『琉球国由来記』では「知花巫」が管轄する村である。その観点から最後の⑦⑧の三首は、ひとつのグループとできるかもしれない。越来間切のオモロに謡われる二つのグスク、越来グスクと知花グスクも、首里グスクを起点にして南から北へという順序で配置されている。注注1 中城村史編集委員会『中城村史 第三巻 資料編2』(中城村役場、一九九三年)。注2 中城村教育委員会『中城村の文化財 第九集 新垣グスク』(中城村教育委員会、二○○七年)。注3 北中城村編纂委員会『北中城村史 民俗編』(北中城村役場、一九九六年)。注4 『沖縄市文化財調査報告書
第十一集 越来城』(沖縄市教育委員会、一九八八年)所収「第Ⅴ章 祭祀と伝承 第一節、越来の拝所と年中行事」によると、『琉球国由来記』に記される越来グスクにあったと思われる御嶽等は、現在の越来中学敷地内にあったがこの地に越来中学校建設が予定されたので、ニシムイ(西森公園)に移動したという。注5 池宮正治「『おもろさうし』にみる越来
里」(『沖縄市史資料編 ・ 美 1』沖縄市教育委員会、一九八四年)。
〔2〕第十五 浦 うら添 おそい北 きた谷 ゝん読 よん谷 たむ山 ざおもろ御双 さう紙 し
「第十五 浦 うら添 おそい北 きた谷 ゝん読 よん谷 たむ山 ざおもろ御双 さう紙 し」は、全部で七十四首(一○五二~一一二六)。前半が(C)浦添間切のオモロ五十二首(一○五二~一一○三)、次ぎに(D)北谷間切のオモロ十二首(一一○四~一一一五)、最終部が(E)読谷山間切のオモロ十一首(一一一六~一一二六)という構成になっている。
(C)浦添間切のオモロ 第十五―一○五二~一一○三①一○五二 安 あ里 さと掟 おきて 親 おやみかま *「天 あま久 く口 ぐち/那 な覇 は泊 どまり」が謡われる 一○五三 天 あめ久 く寄 より襲 おそいのろの/天 あめ久 く寄 より満 みちへのろの 一○五四 天 あめ久 く仁 に屋 やが おもろ/天 あめ久 く子 しぎや せるむ 一○五五
・ 一○五六 天 あめ久 くまひやり思 よもい/いぢへきまひやり思 よもい②一○五七~一○五九 沢 たく岻 し太 た郎 らなつけ/良 よかる太 た郎 らなつけ③一○六○ つるこにくけ/良 よかるにくけ *「中西 にしの選 ゑらび真 ま人」、「伊 い那 な武 ん ちいたか」が謡われる④一○六一 親 おゑ屋 や富 ふ祖 その大親 や/又 また吉 よしの大親 や
⑤一○六二 城 ぐすく間 まの大親 や/又 また吉 よしの大親 や
一○六三 城 ぐすく間 まの真 ま庭 みやに/又 また吉 よしの真 ま庭 みやに
立正大学大学院紀要 三十六号九八 一○六四 城 ぐすく間 まの真 まやまとう/又 また吉 よしの腰 こし当 やて子 こ
一○六五 城 ぐすく間 まの蒲 こ葵 ば杜 もり/又 また吉 よしの蒲 こ葵 ば杜 もりも⑥一○六六
・ 一○六七 伊 ゑ祖 そ伊 ゑ祖 その石 いしぐすく/伊 ゑ祖 そ伊 ゑ祖 その金 かなぐすく 一○六八 伊 ゑ祖 その石 いしぐすく/伊 ゑ祖 その金 かなぐすく 一○六九 伊 ゑ祖 その戦 いくさ思 もい/いぢへき戦 いくさ思 もい⑦一○七○ 浦 うら添 おそいに ちよわる 聞 きこゑおわもりや/世 よの頂 つぢに ちよわる
(聞ゑおわもりや) きこ
一○七一
・ 一○七二 聞 きこゑ浦 うら添 おそいや/鳴 と響 よむ浦 うら添 おそいや 一○七三 浦 うら添 おそいに ちよわちへ/世 よの頂 つぢに ちよわちへ 一○七四
・ 一○七五 聞 きこゑ浦 うら添 おそいに/鳴 と響 よむ浦 うら添 おそいに 一○七六 聞 きこゑ按 あ司 ぢ襲 おそいや/鳴 と響 よむ按 あ司 ぢ襲 おそいや *「浦 うら添 おそい」が謡われる 一○七七 聞 きこゑ浦 うら添 おそいに/鳴 と響 よむ浦 うら添 おそいに 一○七八 君 きみし志按 あ司 ぢ襲 おそいや 一○七九
・ 一○八○
浦 うら添 おそいの根 ね国 くに/渡 と嘉 か敷 しきの真 ま国 くに
一○八一
・ 一○八二 聞 きこゑ浦 うら添 おそいに/鳴 と響 よむ浦 うら添 おそいに 一○八三 浦 うら添 おそいの門 ぢやう口 ぐち/渡 と嘉 か敷 しきの門 ぢやう口 ぐち
一○八四 浦 うら添 おそいの親 おやのろ/まぢらずの親 おやのろ 一○八五
・ 一○八六 雪 よきげらへ/君 きみげらへ 一○八七 浦 うら添 おそいや浦 うら添 おそい/渡 と嘉 か敷 しきや渡 と嘉 か敷 しき
一○八八 かにむかに 三 さぶ郎 ろ子 こが/かにむかに 真 まころ子 こが *「浦 うら添 おそい/世 よの頂 つぢ」が謡われる
一○八九 聞 きこゑおわもりや/鳴 と響 よむおわもりや 一○九○ 浦 うら添 おそいの思 おもい子 ぐわ/世 よの頂 つぢの思 おもい子 ぐわ
⑧一○九一
・ 一○九二 聞 きこゑ棚 たな原 ばるに/鳴 と響 よむ棚 たな原 ばるに 一○九三 棚 たな原 ばるのてだの/下 しむの世の主 ぬしの⑨一○九四 嘉 か数 ゝず杜 もりぐすく/根 ね立 たて杜 もりぐすく
一○九五
・ 一○九六 嘉 か数 ゝず鈴 すづ鳴 なりや/見 み物鈴 すづ鳴 なりや 一○九七 若 わかい子 きよが/若 わかい子 きよが *「嘉 か数 ゝずたう原 ばる」が謡われる⑩一○九八 いぢへき謝 ぢや名 なの掟 おきてよ/上 ぢや国謝 ぢや名 なの掟 おきてよ
一○九九 謝 ぢや名 なの子 しは 根 ねい し遣 やり/おな殿 どのは 根 ねい し遣 やり 一一○○ 謝 ぢや名 なのひやり思 よもい/いぢへきひやり思 よもい 一一○一 謝 ぢや名 なのよゝ清 きよら/せめうち金 かね丸 まる
⑪一一○二 宜 ぎ野 の湾 わんののろの/根 ねの島 しまののろの 一一○三 宜 ぎ野 の湾 わんのてだの/根 ねの島 しまのてだの *「世 よ欲 ぼし嶺 みね」が謡われる C―①の四首は、天久村にかかわるオモロとしてまとめた。ただし、『琉球国由来記』巻十二には、天久村は安里村に続いて真和志間切の村としてある。天久村は古くは西原間切にあった時代があったようで、嘉靖十五年(一五三六)五月十三日付けの辞令書(田名文書)には、
『おもろさうし』「地方オモロ」論九九 「にしはらまきりのあめくのさとぬしところ」(西原間切の天久の里主所)という記載が見える(『沖縄県の地名』)。「天 あめ久 く」を謡うオモロが浦添間切を謡うオモロにあるのは、辞令書よりもさらに古い時代の認識が反映されていると思われる(池宮正治「Ⅱ 浦添関係おもろ」 (注1))。
(真和志間切 なるとともに「天久口」がある天久村の位置付けも、王都首里の畿内 あまくぐち れる。浦添から首里に王都が移って以降、「那覇泊」の役割が大きく なはどまり れが浦添間切を謡うオモロとして、C―①があるのではないかと思わ るいは後述する浦添グスクの港のひとつだったことが想像される。そ 泊港に隣接した「天久口」の歴史も古く、首里王府の外港として、あ あまくぐち(注2) れは、泊村の歴史が古いことを示していると理解される。すなわち、 「泊村由来記」)は、巻八「那覇由来記」に先だって記されている。こ 『琉球国由来記』でも天久村と隣接する泊村についての記事(巻七
風原間切 ・ 南
る天久村には「 はないか。『琉球国由来記』巻十二「各処祭祀」の真和志間切に記され 原間切)に位置付け直されていったので ・ 西
う土地の有力者(男性)、一○五五 ○五二が「天久口」を謡い、一○五三は神女、一○五四はオモロを謡 あまくぐち 御嶽が記されおり、管轄する神女は「多和田巫」である。C―①は一 26 天久之嶽神名オシアゲ森之御イベ」他三ヶ所の
は神女か土地の有力者か判断が難しい。 (注3) ○五六の「天久まひやり思い」 ・ 一 あめくよも
C―②の「沢 たく岻 し」は、『琉球国由来記』巻十四「各処祭祀」浦添間切には「
79 金城ヨリノハナ森神名テルヅカサノ御イベ」(沢岻村) 等、四ヶ所の御嶽と「年中祭祀」に「
のか。『琉球国由来記』の中西村には「 り)が、「天久口」「那覇泊」に向けて漕航している様子を謡っている あまくぐちなはどまり 干瀬である(『沖縄県の地名』)。「中西の選び真人」(中西の勝れた船乗 にしゑらま る「伊那武」「ちいたか」は、埋め立てられる前の那覇新港埠頭一帯の いなん ことで、中西村関係のオモロと想定した。また、このオモロに謡われ 里家)」)では確認できない。C―③は「中西の選び真人」が謡われる (注4)にしゑらま めにそのように呼ばれたのだろうとしているが、家譜(「毛姓家譜(上 になる。「辞典」は「なつけ」について、尚清王の名付け親になったた ロに謡われる人物で国王以外に具体的にその名が特定できる稀な事例 は接尾敬称辞)。「沢岻太郎なつけ」が沢岻親方盛里だとすれば、オモ たくしたら あるが、タルーでもあり盛里の「童名、樽金」の可能性がある(「金」 卒)だと想定している。「たらなつけ」の「たら」は太郎(たらう)で たる毛文英、三司官を勤めた沢岻親方盛里(童名、樽金。一五二六年 から謡いだされる。「辞典」は、「沢岻太郎なつけ」を護佐丸の孫にあ たくしたら ずれも、「沢岻巫」が管轄している。②は三首とも「沢岻太郎なつけ」 たくしたら 106呉屋殿」が記されている。い 87ゲライ森」、「
「 110中西巫火神」、 る。 111サフシキンノ殿」等、五ヶ所の「殿」がある。「中西巫」が管轄す C―④と⑤は、対語の「又 また吉 よし」を介してひとつのグループとしてまとめられるかもしれない。「親 おゑ屋 や富 ふ祖 そ/又 また吉 よし」は、親富祖村、又吉村とかかわるウタであろう。「又 また吉 よし」はC―⑤では、四首とも「城 ぐすく間 ま」と