一、 『二十六夜』という作品 宮澤賢治︵一八九六∼一九三三︶の短編小説の一つに、 ﹃ 二 十 六 夜 ﹄ と い う 佳 品 が あ る。 生 前 未 発 表 の 作 品 で は あるが、大島丈志が端的に整理するように、その世界に は重要なエポックが潜んでいる。 宮澤賢治が、日蓮宗を信仰しており、日蓮宗の中で も大正から昭和期にかけて激しい活動を行った国柱 会の信者であったことは知られている。そんな賢治 の作品の中に、宗派の違う浄土教的要素が入ってい る と 言 わ れ て き た 作 品 が あ る。 そ れ は﹁ 二 十 六 夜 ﹂ という作品である。 ﹁二十六夜﹂は、大正十一年・十二年頃の執筆と推 定される、宮澤賢治の生前未発表作品である。この 作品に主に登場するのは擬人化された梟の宗教集団 である。物語は三日間の夜間を中心とする。この三 日間を出来事のみで追っていくと次のようになる。 旧 暦 の 六 月 二 十 四 日 の 晩、 梟 の 坊 さ ん は、 ﹁ 梟 鵄 守 護 章︵ キ ョ ウ シ ク ゴ シ ョ ウ ︶﹂ と い う お 経 の 講 釈 を している。二十五日、講釈をしっかりと聞いていた 梟の子穂吉が人間の子につかまってしまう。さらに 二十六日、穂吉は足を折られて放され、瀕死の状態 となる。復讐にいきり立つ梟達を坊さんは止め、講
論
文
宮澤賢治﹃二十六夜﹄再読
――
浄土教から法華世界への結節と﹁月天子﹂
――
荒
木
浩
釈を始める。すると二十六夜の月が出て、そこに三 人の立派な人が出現する。その時、穂吉はかすかに わらったまま息がなくなったのであった。⋮ ⋮︵ ﹁ 梟 鵄 守 護 章 ﹂ と い う ︶ こ の お 経 は 実 際 に は 存 在せず、作家宮澤賢治がわざわざ創作したものであ り、そのことからも﹁二十六夜﹂は賢治作品の中で も特に仏教要素のつよい作品と言え、賢治作品全体 の重要な側面である仏教思想を考える上で、一つの 鍵 と な る 作 品 で あ る。 ︵ 大 島 丈 志﹁ 法 華 文 学 と し て の﹁二十六夜﹂ 考 ― 梟の悪業に出口はあるのか ― ﹂﹃文 教大学国文﹄三四、二〇〇五年︶ 二、 『二十六夜』末尾と月の形象 この作品の読解については多くの観点がありうるだろ うが、私には、次のように描かれる月の描写がもっとも 印象的である。 二十六夜の金いろの鎌の形のお月さまが、しづかに お 登 り に な り ま し た。 ︵ 中 略 ︶ お 月 様 は 今 は す う つ と桔梗いろの空におのぼりになりました。それは不 思議な黄金の船のやうに見えました。俄にみんなは 息がつまるやうに思ひました。それはそのお月さま の船の尖つた右のへさきから、まるで花火のやうに 美しい紫いろのけむりのやうなものが、 ば り ば りと 噴 き 出 た か ら で す。 け む り は 見 る 間 に た な び い て、 お月さまの下すつかり山の上に目もさめるやうな紫 の雲をつくりました。その雲の上に、金いろの立派 な人が三人まっすぐに立ってゐます。まん中の人は せいも高く、大きな眼でぢっとこっちを見てゐます。 衣のひだまで一一はっきりわかります。お星さまを ちり ば めたやうな立派な瓔珞をかけてゐました。お 月さまが丁度その方の頭のまはりに輪になりました。 右と左に少し丈の低い立派な人が合掌して立ってゐ ました。その円光はぼんやり黄 金 いろにかすみうし ろにある青い星も見えました。雲がだんだんこっち へ近づくやうです。 ﹁南無疾 翔大力、南無疾翔大力。 ﹂ みんなは高く叫びました。その声は林をとゞろかし ました。雲がいよいよ近くなり、捨身菩薩のおから だは、十丈 ば かりに見えそのかゞやく左手がこつち へ招くやうに伸びたと思ふと、俄に何とも云へない
いゝかほりがそこらいちめんにして、もうその紫の 雲も疾翔大力の姿も見えませんでした 1 。 傍線部に示したように、二十六夜に出る細い三日月の 右 の 先︵ 下 弦 の 月 を 顔 に 見 立 て れ ば 、 あ ご の あ た り?︶ か ら、 け む り の よ う な も の が、 ﹁ ば り ば り ﹂ と 吹 き 出 て 雲を作る。月の存在が視覚的に強烈な印象をもたらしつ つ、 ﹁何とも云へないいゝかほり﹂が﹁そこらいちめん﹂ に漂う。新月に限りなく近づいた下弦の月の夜の世界の 終わりに、点線を付したように、月の吐き出した紫の雲 の 上 に、 三 尊 形 式 と お ぼ し い、 不 思 議 な﹁ 立 派 な 三 人 ﹂ が 出 現 す る ⋮。 物 語 は 穂 吉 の 静 か な 死 を 伝 え、 ﹁ 汽 車 の 音がまた聞えて来ました﹂と閉じられることになるので ある。 三、花王石鹸のロゴと宮澤賢治の月 煙を吐き、雲に囲まれ、香り漂う⋮。こうした月の形 象については、荒木旧稿 ﹁釈教歌と石鹸 ― 宮澤賢治の ︿有 明﹀再読 ― ﹂において論じたように 2 、明治時代に展開し た、花王石鹸のロゴマークとその広告展開が重要なイン パクトをなしていた。以下、問題点の共有のために、旧 稿との重複をいとわず、論点を摘記してみよう。 宮澤賢治が生まれる頃、明治期後半の花王のロゴマー ク の 形 象 と 印 象 は、 現 在 の も の と は 大 き く 違 っ て い る。 月は、右を向いた下弦の三日月として描かれ 3 、濛々とし た 雲 に 囲 ま れ て︵ 雲 を 描 か な い 場 合 も 多 い ︶、 そ の 右 に は、×印を中心に抱く旭日が描かれる。そしてその月は、 眉・眼・鼻・口を備え、口からは﹁花王石鹸﹂という文 字を囲んだフキ ダ シのような煙︵もしくは雲︶を盛んに 吐き出している。この時期の花王のマークイメージを伝 える重要な証言として、以下の発言を確認しておく。 このマークは明治三十二年、花王石鹸発売十周年に 当り、同年一月十五日東京小間物商報に掲載の広告 に用ひられたもので、発売時の新聞広告や当時の現 品包装にも、大体同様の筆法に依るマークが使はれ て ゐ る。 何 と い ふ 力 強 い 生 々 と し た 表 情 で あ ら う。 これは現代の若い人達には余りにも近づき難い表情 で あ る か も 知 れ な い。 蓋 し、 こ れ 程 厳 粛 な そ し て 烈々たる気魄に満ちた人間の顔は、到底今の吾々な どに描き得るわけのものではない。この炯々たる眼 光と、いかにも生きて動いてゐる口のあたり、それ
に少しの贅肉もない引き締つた顔はまことに頼もし く、そして気品が高い。周囲の煙はあくまで自由奔 放思ふ存分に描きまくり、吐き出す煙は伸びやかに 何処までも続いて壮観極まりない。原図はおそらく 木版であらうと思はれるが一見金属的なかたい線描 は少しも機械的な冷たさを感ぜしめず、溌剌として 清新である。よく人はこの当時のマークを年寄の顔 だといふ。然しそれは大きな間違ひだ。これこそ叡 智と情熱に緊張した、真に若者らしい希望に充ちた 顔なのだ。花王石鹸の題字が有名な漢詩人永坂石埭 先生の筆であることから想像しても、然るべき画家 によつて描かれたものに違ひないと思はれるが、お そらく何度も何十度も描き直して、遂にこれでよか ら う と い ふ こ と に な つ た も の で あ ら う。 ︵ 奥 田 政 徳 の 文 章。 ﹃ ナ ガ セ マ ン ﹄ 所 収 と い う。 引 用 は﹃ 花 王 石鹸五十年史 4 ﹄より︶ 奥田政徳は、明治三十四年︵一九〇一︶生まれの図案 家︵没年未詳︶で、東京美術学校を大正十四年︵一九二 五︶に卒業。昭和七年︵一九三二︶に花王シャンプーの デ ザ イ ン を 手 が け て い る︵ ﹃ 近 代 デ ザ イ ン の 展 望 ﹄ 京 都 国 立 近 代 美 術 館 編 集 一 九 六 九 年 図 録 な ど ︶。 宮 澤 賢 治 よ り五歳下の同時代人である。花王のマークをよく知る奥 田が、月のマークの近づき難い表情、厳粛さ、気品に言 及していることに注意したい 5 。月の神々しさが、広告の ロゴマークからも充分に読み取れることの傍証となるか らである。 花王石鹸のホームページが﹁三日月の内側に人の顔を お い て、 そ の 口 か ら﹁ 花 王 石 鹸 ﹂ の 文 字 を 吐 き 出 さ せ、 その上に×印の店印を朝日の光で包んだ星をあしらった 入念な図案でした。これは富郎の考えによるもので﹂と 伝えるように 6 、花王ロゴマークの原型は、創業者長瀬富 郎により、明治二十三年七月二十四日付で商標登録とし て出願された。ただしその原型には、その後のものとは 一点だけ、根本的な違いがある。それは、月が吹き出す 文字が、 ﹁花王石鹸﹂ではなく、 ﹁香王石鹸﹂とあること だ。花王は当初﹁香王﹂を表象した商品イメージであり、 ﹁香﹂に最大の重点を置くものであった。 此ノ商標ハ丸ノ左側ニ人物ノ顔ノ図ヲ書キ其口中ヨ リ香王石鹸ト吹キ出シタル図ヲ書キ其上ニ旭日ノ正 中ニ二本ノ打違ヒノ印ヲ書キタルモノナリ
一 、此ノ商標ノ要部ハ半月ナリノ人物ノ顔ニ口中ヨ リ香王石鹸ト吹出シ其上ニ旭日ノ正中ニ二本ノ打 違ヒノ印ヲ書キタル図ナリ 一 、此ノ商標ハ商標条例施行細則第十六条第壹類ノ 石鹸ニ使用ス 此ノ商標ハ西洋紙及日本紙ニ印刷シテ石鹸ノ包紙ニ 印刷シテ石鹸ノ包紙又ハ箱ノ上ニ貼用シテ使用ス 長瀬富郎 7 花王石鹸は、当時としては異例の凝りようで高級感を 演出し、桐の箱に入れて能書きまで添えていた。高級な 洗 顔 石 鹸 は 西 洋 か ら の 輸 入 も の と 決 ま っ て い た 時 代 に、 劃期的な国産の高級化粧石鹸として喧伝され売り出され た の で あ る。 そ し て 先 に も 触 れ た よ う に 、﹁ 香 王 石 鹸 ﹂ の名を改めた後にも、その芳香に肝要なる意味があった ことを、能書きもまた強調している。 這 般 弊 舗 ニ 於 テ、 新 タ ニ 製 造 発 売 セ ル 花 王 石 鹸 ハ、 一種佳良ナル芬芳ヲ有シ、皮膚ニ美麗ナル色沢ヲ賦 フル所ノ化粧料ニシテ、貴嬢紳士ノ浴室鏡窓ニ、日 常闕クベカラザル者ナリ。彼ノ牡丹ノ国色天香アル ヲ以テ花王ノ称ヲ得タルニ擬ラヘ、此名ヲ附シタリ。 ︵以下楊貴妃の故実などを所引︶⋮︵能書の冒頭︶ 雲に囲まれた月が、口から吐き出す煙︵雲︶とかぐわ しい﹁香王﹂ 。﹃二十六夜﹄の描き出す月の描写と花王石 鹸との共通点は、看過できないものであることが理解さ れるだろう。 四、宮澤賢治と人工的な香りの月 そ れ は、 ﹃ 二 十 六 夜 ﹄ に と ど ま ら ず、 宮 澤 賢 治 作 品 を 通貫する、月の形象であった。 賢治作品は独自の月表現の宝庫である。月が呼気を 放 ち、 時 に は そ れ に 香 り を 結 び つ け る と い う 発 想 ︵歌稿︹ A ・ B ︺ 198 、詩﹁青森挽歌﹂ 、詩﹁ ︹東の雲 ははやくも蜜のいろに燃え︺ ﹂、童話 ﹁双子の星﹂ ︶ や、 月明かりを ﹁掬って呑めさう﹂ とする発想 ︵詩 ﹁牛﹂ 、 詩﹁林学生﹂ ︶もその典型的なものである。 ︵加倉井 厚 夫﹁ 月 が 映 す 人 と 影 宮 沢 賢 治 と 月 ﹂﹃ 国 文 学 ﹄ 五二 ― 三、二〇〇七年三月︶ 用例を参照しつつ、その現象を後追いしておこう。 いざよひの/月はつめたきくだものの/匂をはなち あらはれにけり︵山を出でたり︶ ︵歌稿一九八︶
⋮おもては軟玉と銀のモナド/半月の噴いた瓦斯で いつぱいだ/巻積雲のはらわたまで 月のあかりはしみわたり/それはあやしい蛍光板に なつて/いよいよあやしい苹果の匂を発散し/なめ らかにつめたい窓硝子さへ越えてくる/青森だから といふのではなく/大てい月がこんなやうな暁ちか く/巻積雲にはいるとき⋮︵ ﹃青森挽歌﹄ ︶ ひと ば んわたくしがふりかへりふりかへり来れ ば / 巻 雲 の な か や あ る い は け ぶ る 青 ぞ ら を / し づ か に わたっていらせられ/また四更ともおぼしいころは / や ゝ に み だ れ た 中 ぞ ら の / 二 つ の 雲 の 炭 素 棒 の あひだに/古びた黄金の弧光のやうに/不思議な御 座 を 示 さ れ ま し た / 全 く こ と な っ た か ん が へ を あ たへ/まことにあなたのまどかな御座は/つめたい 火口の数を示し/あなたの御座の運行は/公式にし たがってたがはぬを知って/しかもあなたが一つの かん ば しい意志であり/われらに答へまたはたらき かける/巨きなあやしい生物であること/そのこと は い ま し わ た く し の 胸 を / あ や し く あ ら た に 湧 き たゝせます/あゝあかつき近くの雲が凍れ ば 凍るほ ど/そこらが明るくなれ ば なるほど/あらたにあな たがお吐きになる/エステルの香は雲にみちます/ おゝ天子/あなたはいまにはかにくらくなられます ︵﹃ ︹東の雲ははやくも蜜のいろに燃え︺ ﹄︶ 匂い立つ月の夜、というイメージなら、北原白秋に著 名な詩もある。 朧げのつつましき匂のそらに、なほ妙にしだれつつ 噴水の吐息したたり、新しき月光の沈丁に沁みも冷 ゆ れ ば 、 官 能 の 薄 ら あ か り 銀 笛 の 夜 と ぞ な り ぬ る。 四十二年二月︵ ﹁東京夜曲 公園の薄暮﹂ ﹃東京景物 詩﹄ ︶ しかし、賢治の月は、月が擬人的に吐き出す﹁くだも の の 匂 ﹂ で あ り、 ﹁ エ ス テ ル 香 ﹂ と 言 い 換 え う る 人 工 的 な香りであるところに、重要な着眼点があった。 賢治は⋮﹁青森挽歌 三﹂という詩⋮の中で月とリ ンゴの匂いの心象的な関係を、次のようにはっきり のべています。 つめたい窓の硝子から あけがた近くの苹果︵りんご︶の匂が透明な紐と なって流れて来る
ところでリンゴの匂いの正体は、エステル類といわ れる物質で、農芸化学を学んだ賢治はもちろんその ことをよく知っていました。そして﹁東の雲ははや く も 蜜 の い ろ に 燃 え ﹂ と い う 詩 の 中 で、 月 天 子 が エ ス テ ル を お 吐 き に な る と 書 い て い ま す。 ︵ 板 谷 栄 城﹃ 宮 沢 賢 治 の 見 た 心 象 田 園 の 風 と 光 の 中 か ら ﹄ NHK ブックス 591 、一九九〇年︶ こうして、私に考える花王石鹸のイメージと、宮澤賢 治の如上の月の形象とが、驚くほどの類似性を有するこ とが理解してもらえるだろう。 五、 「法華歌集」と月の香りの歌 し か し 、 そ の よ う に 指 摘 し た 上 で い え ば 、 賢 治 の 月 の 香 り は 、 そ う し た 近 代 的 な 広 告 の イ メ ー ジ か ら の み で 形 成 さ れ て い た の で は な い 、 と い う こ と を む し ろ 強 く 付 言 し な け れ ば な ら な い 。 そ の 根 底 に は 、 彼 が 深 く 信 仰 す る 、 ﹃ 法 華 経 ﹄ の 世 界 を 読 み 込 ん だ 釈 教 歌 群 の 形 象 が 存 在 し た 、 と 私 は 考 え て い る 。 具 体 的 に は 、 彼 が 衝 撃 的 な 出 会 い を し 、 生 涯 愛 読 し つ つ づ け た 、 島 地 大 等 編 ﹃ 漢 和 対 照 妙 法 蓮 華 経 ﹄ 付 載 さ れ た ﹁ 法 華 歌 集 ﹂︵ 明 治 書 院 、 大 正 四 年 ︵ 一 九 一 五 ︶十 月 第 五 版 以 降 ︶の 紡 ぎ 出 す 意 味 世 界 で あ る 8 。﹁ 法 華 歌 集 ﹂ は 、 冒 頭 か ら 、 織 物 の よ う に 和 歌 を 交 差 さ せ て 、 い い 香 り の す る 月 の 夜 の イ メ ー ジ を 提 示 す る 。 法 華 の 霊 鷲 山 い ま ぞ 知 る 鶴 の は や し は 名 の み し て 鷲 の た か ね に 澄 め る 月 影 殷 富 門 院 ︵ 殷 富 ︶ 一 つ ね に 住 む 月 の ひ か り ぞ 隔 て な き 鷲 の み や ま も 鶴 の は や し も 藤 原 隆 信 ︵ 隆 信 ︶ 一 春 に あ ふ は な も 今 こ そ に ほ ひ け れ よ そ ぢ 余 り の わ し の や ま 風 前 大 僧 正 公 什 ︵ 玉 葉 ︶ 一 か く と だ に 聞 か ず ば 知 ら じ 誰 と な く 我 が 身 は か た れ 広 沢 の 月 烏 丸 光 広 ︵ 黄 葉 ︶ 四 九 一 草 も 木 も 四 方 の あ ら し に ほ は せ て 花 の 香 ゆ づ る 梅 の し た 風 同 ︵ 同 ︶ 四 九 一 ︵ 以 上 、﹁ 法 華 歌 集 ﹂ 冒 頭 ︶ そ の 中 で、 も っ と も 象 徴 的 意 味 合 い を 持 つ 歌 が、 ﹁ 法 華歌集﹂薬王品に引用された次の和歌である。 さ ま 〴 〵 に か を り し 袖 に 燃 ゆ る 火 の ひ か り や つ ひ に 有 明 の 月 藤 原 家 隆 ︵ 玉 吟 ︶ 五 一 九 本 稿 で 引 用 す る ﹃ 漢 和 対 照 妙 法 蓮 華 経 ﹄ は 国 書 刊 行 会
の 複 製 本 ︵ 一 九 八 七 年 ︶ に よ る が 、 賢 治 が 最 初 に 手 に し た と お ぼ し い 、﹁ 赤 い 経 巻 ﹂ の ﹃ 漢 和 対 照 妙 法 蓮 華 経 ﹄︵ 明 治書院、大正三年八月二八日発行の初版本︶には﹁法華 歌 集 ﹂ が 付 属 し な い 9 。 し か し、 初 版 に も あ る オ リ ジ ナ ル 部 分 に は ﹁ 法 華 大 意 ﹂ と い う ﹃ 法 華 経 ﹄ の 各 品 を 概 観 し た 章 が あ り 、 そ の 中 の ﹁ 薬 王 品 意 ﹂ に 一 首 だ け 引 か れ て い る 和 歌 が 、 こ の 家 隆 の 釈 教 歌 で あ っ た 。﹁ 薬 王 品 意 ﹂ は こ の 歌 を ﹁ 薬 王 焼 身 の こ ゝ ろ を 家 隆 卿 の 詠 歌 に 曰 く ﹂ と し て 引 用 し 、﹁ 宿 王 華 菩 薩 の 問 に 対 し 、 如 来 薬 王 菩 薩 の 本 事 を 談 り 、 其 焼 身 供 養 を 説 く 、 所 謂 修 道 者 の 法 を 重 し と し 身 を 軽 し と す べ き を 教 ふ る な り ﹂ と 要 約 す る 。 薬 王 菩 薩 の 焼 身 供 養 は 、 菩 薩 の 捨 身 供 養 の 代 表 例 で あ る 。 賢 治 の 崇 敬 す る 日 蓮 も ま た ﹁ い た づ ら に 曠 野 に す て ん 身 を 、 同 ク は 一 乗 法 華 の か た に な げ て 、 雪 山 童 子 ・ 薬 王 菩 薩 の 跡 を お ひ ⋮ ﹂︵ ﹃ 七 三 金 吾 殿 御 返 事 ﹄︶ と そ の 行 を 仰 い だ 。 そ の 一 節 に 、 次 の よ う な 部 分 が あ る 。 我神力を以つて、佛を供養すと雖も、身を以つて供 養せんには如かじ。 ︵ 焼 身 ︶ 即 ち 諸 の 香 栴 檀、 薫 陸、 兜 樓 婆、 畢 力 迦、 沈水、膠香を服し、又瞻蔔、諸の華香油を飲むこと、 千二百歲満じ已り、香油を身に塗り、日月浄明徳佛 の前に於いて、天の寶衣を以つて自ら身に纏ひ已り て、諸の香油を灌ぎ、神通力の願を以つて、自ら身 を 然 し て、 光 明 遍 く 八 十 億 恒 河 沙 世 界 を 照 す。 ︵ 薬 王菩薩本事品第二十三﹃ 漢 和 対 照 妙 法 蓮 華 経 ﹄︶ 数々の芳香の素を飲み込み、また香油を体に塗り、そ して注いで、 ﹁日月浄明徳佛﹂という仏の前で身を燃やし、 世界中をあまねく照らし出す。この光を﹁有明の月﹂に なぞらえ詠ったのが先の家隆の釈教歌であった。 如 上 を 踏 ま え て み れ ば 、﹃ 二 十 六 夜 ﹄ と の 類 似 は 明 ら か で あ ろ う。 ﹃ 二 十 六 夜 ﹄ で 月 か ら 現 れ た﹁ 疾 翔 大 力 ﹂ と は、 ﹁ 施 身 ﹂ も し く は﹁ 捨 身 菩 薩 ﹂ の こ と で あ る。 二 十四日の晩には、次のような説法がある。 爾の時に疾翔大力、爾 迦 夷 に告げて曰くと、まづ疾 翔大力とは、いかなるお方ぢ ゃ か、それを話さなけ れ ば ならんぢ ゃ 。 疾 翔 大 力 と 申 し あ げ る は、 施 身 大 菩 薩 の こ と ぢ ゃ 。 もと鳥の中から菩提心を発して、発願した大力の菩 薩ぢ ゃ 。疾翔とは早く飛ぶといふことぢ ゃ 。捨身菩 薩がもとの鳥の形に身をなして、空をお飛びになる
ときは、一揚というて、一はゞたきに、六千由旬を 行 き な さ る。 そ の い は れ よ り 疾 翔 と 申 さ る ゝ、 大 力 と い ふ は、 お 徳 に よ っ て、 た と へ 火 の 中 水 の 中、 たゞこの菩薩を念ずるものは、捨身大菩薩、必らず 飛び込んで、お救ひになり、その浄明の天上にお連 れ な さ る、 そ の 時 火 に 入 っ て 身 の 毛 一 つ も 傷 か ず、 水に潜って、羽、塵ほどもぬれぬといふ、そのお徳 を ば 、大力とかう申しあげるのぢ ゃ 。され ば 疾翔大 力とは、捨身大菩薩を、鳥より申しあげる別号ぢ ゃ 、 まあさう申しては失礼なれど、鳥より仰ぎ奉る一つ のあだ名ぢ ゃ と、斯う考へてよろしからう。 この﹁捨身大菩薩﹂は、身を焦がす薬王菩薩とは逆に、 ﹁ 火 に 入 っ て 身 の 毛 一 つ も 傷 か ず ﹂ と い う。 そ う し た 転 換を含めて、連想は歴然としている。しかもそれは、 ﹁そ の浄明の天上にお連れなさる、その時に﹂ 実現する。 ﹁花 火のやうに美しい紫いろのけむりのやうなものが、 ば り ば りと噴き出﹂て、 ﹁捨身菩薩のおからだは﹂ ﹁俄に何と も 云 へ な い い ゝ か ほ り が そ こ ら い ち め ん に ﹂ す る。 ﹁ 日 月 浄 明 徳 佛 の 前 に 於 い て ﹂﹁ 自 ら 身 を 然 し て ﹂ 光 り 輝 く 薬王との一致は、むしろ自明であった。そしてそれはそ の ま ま、 ﹁ さ ま 〴 〵 に か を り し 袖 に 燃 ゆ る 火 の ひ か り や つひに有明の月﹂という釈教歌の世界に重なり合い、収 斂するかのようだ。そうして月の香りは、ま ば ゆい ば か りの香王の高級感を誘いつつ、 ﹁法華歌集﹂に添った形で、 作 品 へ と 昇 華 す る ⋮。 ﹃ 二 十 六 夜 ﹄ と は、 そ う 説 明 さ れ なけれ ば ならない作品であったはずなのだ。 六、 『二十六夜』と浄土信仰 しかし﹃二十六夜﹄は通常、そのようには読まれてこ なかった。その背景にある﹁二十六夜待ち﹂の民間信仰 から、従来は、浄土来迎のイメージを読み取る理解が一 般的であった 10 。 穂吉の最期は二十六夜の月を背光にして現れた︿捨 身菩薩三尊﹀によって浄土に迎えられるのであった。 ︵前引の本文を引用。略す︶ ここで穂吉が︿浄土﹀に迎えられたとするのは、 ﹁二 十六夜待ち﹂が浄土教的色彩の強い民間習俗である こ と、 ﹁ 捨 身 菩 薩 = 疾 翔 大 力 ﹂ 三 尊 が 阿 弥 陀 三 尊 に 擬せられること、さらに来迎の様子が栗原敦が指摘 するように⋮︿山越来迎図﹀の図柄をふまえてのも
のであることによる。 ︵杉浦静 ﹁﹁二十六夜﹂ 考﹂ ﹃国 文学解釈と鑑賞﹄五一 ― 一二、一九八六年十二月︶ ここには、宮澤賢治をめぐる宗教環境についての、次 のような問題意識が潜在している。 ⋮宮澤家はもともと花巻の真宗大谷派の安浄寺の檀 家であり、父政次郎は信心深く、花巻仏教会の中心 となって活動し、大沢温泉に講師を招いて夏季講習 会を開いたりした。その講習会は賢治の少年時代に 盛んに行われ、近角常観・暁烏敏・村上専精・島地 大等らが招かれている。近角と暁烏は﹃歎異抄﹄を 盛 ん に 説 き、 近 代 の 親 鸞 ブ ー ム の 先 駆 け と な っ た。 とりわけ暁烏は清沢満之の高弟で、自らの罪業観か ら信仰を深め、情熱的な説法で信奉者が多く、戦後 に は 大 谷 派 の 宗 務 総 長 と な っ て い る。 ﹃ 兄 の ト ラ ン ク ﹄ に よ る と、 講 習 会 の と き、 ﹁ 賢 治 は 幼 い 割 合 に 熱心に聞き、殊に講師のうちの暁烏敏師のそ ばにい て離れなかった﹂という。 ﹁復活の前﹂には、 ﹁暁烏 さんが云ひました﹂という引用がある。村上と島地 は東京帝国大学講師であった。島地は島地黙雷の養 子で、初めて本格的な日本仏教の思想史的研究を行 い⋮⋮ このように、賢治は法華信仰に入る前には浄土教の 雰囲気の中で育ち、深く傾倒していた。後に国柱会 に 入 り な が ら、 そ の 国 家 主 義 的 な 運 動 に 同 調 せ ず、 ﹃ 法 華 経 ﹄ を 独 自 の 宇 宙 的 な 感 覚 で 読 み 込 む こ と に なったが、その底には、この世界の外に清浄な仏の 世界である浄土を説く浄土教の広大な神話世界の影 響があったのではないかと考えられる。また、賢治 の罪業観にも浄土教の影響が考えられる。 もっとも賢治の作品には、浄土教の影響が直接見ら れ る も の は 少 な い。 そ の 中 で、 ﹁ 二 十 六 夜 ﹂ は 浄 土 教 の 影 響 が 強 く う か が わ れ、 注 目 さ れ る。 こ れ は、 梟の世界を舞台にして、坊さんの講義をもっとも熱 心に聞いていた信心深い子どもの梟の穂吉が、人間 の子供に捕えられ、ようやく解放されたものの、苦 しみ死んでいくという話である。坊さんが講義する 経典﹁梟鵄守護章﹂には、施身大菩薩が疾翔大力と いう鳥の世界の仏になり、その本願によって鳥たち を救うと説かれており、阿弥陀仏の本願との近似性 をうかがわせる。穂吉の臨終時には二十六夜の細い
月 が 上 り、 ﹁ そ の 雲 の 上 に、 金 い ろ の 立 派 な 人 が 三 人まっすぐに立ってゐます﹂とあって、阿弥陀三尊 の来迎を思わせる。生き物が相互に相食む罪業の世 界 か ら の 救 済 は 可 能 か と い う 賢 治 の 根 本 の 問 題 を、 梟 の 世 界 を 借 り な が ら 説 い て い る。 ︵ 天 沢 退 二 郎・ 金子務・鈴木貞美 ﹃宮澤賢治イーハトヴ学事典﹄ ﹁浄 土教﹂ の項 ︹末木文美士執筆︺ 弘文堂、二〇一〇年︶ 七、 『二 十 六 夜 』 に、 真 宗 か ら 法 華 へ、 と い う 思 想 転 換 の回路を見る視点 こうした﹃二十六夜﹄の分析は、単なる一作品の寓意 の比定に留まらない。そこには、宮澤賢治の信仰が、浄 土真宗から﹃法華経﹄へと劇的に転換した時期と思考回 路の追跡という、重要な問題が存しているのである。 従来﹁二十六夜﹂には、浄土教の極楽浄土の発想が 描かれているとされてきた。賢治が浄土真宗の家庭 に生まれ育っていることからも、彼の幼少時の浄土 真宗の信仰がにじみ出てきたと考えることは可能で あ る。 し か し 一 方 で、 当 時 賢 治 が 国 柱 会 と い う 日 蓮・法華経を強く信じることを主張する会に入会し ていたこと、さらに法華経もまた浄土や月と関係が 深 い こ と か ら す る な ら ば 、﹁ 二 十 六 夜 ﹂ は 法 華 経 色 の強い作品であると考えることが出来る。浄土教の 習俗を使用しながらも、法華経色を打ち出している 点において﹁二十六夜﹂は賢治作品の中でも特徴あ る 作 品 と 言 え よ う。 ︵ 大 島 丈 志 前 掲﹁ 法 華 文 学 と し ての ﹁二十六夜﹂ 考 ― 梟の悪業に出口はあるのか ― ﹂︶ 宮澤賢治をめぐる宗教的環境の時系列とコンテクスト は、次のように整理される。 1889 年 か ら 1916 年 ま で の 毎 年 夏、 花 巻 郊 外 の 大 沢 温泉で夏季講習会が開催された。当初は学生を対象 と し た 学 術 的 な 内 容 だ っ た が、 1902 年 以 降、 一 般 人を対象とした仏教講習会となった。父の宮澤政次 郎 ら 宮 澤 一 族 を 中 心 と す る 有 志 か ら な る 花 巻 仏 教 会・四恩会が計画、運営した。浄土真宗大谷派の近 角常観、暁烏敏、多田鼎、斉藤唯信、村上専精、島 地大等、臨済宗の釈宗活、浄土宗の椎尾弁匡ら、当 時 の 著 名 な 仏 教 者 や 仏 教 学 者 が 講 師 と し て 招 か れ、 最 新 の 仏 教 知 識 が も た ら さ れ た。 1906 年 に 暁 烏 が 講師を務めた際には、 9歳の賢治も参加。暁烏と一
緒に記念写真に収まっており、暁烏の日記にも賢治 の 名 前 が 散 見 で き る。 ま た、 1910 年 と 191 1年 の 会 にも参加し、後者では島地大等の﹁大乗起信論﹂を 聴 講 し た。 な お、 島 地 が 1915 年 8月 に 願 教 寺 で 催 した夏期仏教講習会に 18歳の賢治は参加し、歎異抄 の 講 話 を 聴 い て い る。 ︵ 前 掲﹃ 宮 澤 賢 治 イ ー ハ ト ヴ 学事典﹄ ﹁仏教講習会﹂の項︹大谷栄一執筆︺ ︶ もともと宮澤家は浄土真宗大谷派・安浄寺の檀徒で あ り、 政 次 郎 は そ の 檀 家 総 代 を 務 め て い た。 賢 治 は、伯母のヤギを通じての伝統的な真宗信仰と政次 郎の近代的な真宗信仰︵精神主義︶という宗教的環 境の中で育った。 10歳の時、花巻での仏教講習会で 暁烏敏の侍童を務め、 16歳の時、政次郎に宛てた手 紙の中で﹁小生はすでに道を得候。歎異抄の第一頁 を以て小生の全信仰と致し候﹂ ︵書簡 6︶ と書き記し、 幼いながらも自らの真宗信仰を告白している。その 後も、真宗本願寺派・願教寺に島地大等の法話を聞 き に 行 く な ど︵ 1912 年 8月、 1913 年 10月、 1915 年 8月 ︶、 真 宗 と の 関 係 は 続 い た が、 曹 洞 宗 寺 院・ 報 恩 寺 で の 参 禅 体 験︵ 1913 年 9月 ︶、 盛 岡 浸 礼 教 会 牧 師のヘンリー・タッピングのバイブル講義への出席 ︵ 1915 年 ︶、 無 教 会 派 の 斎 藤 宗 次 郎 と の 交 流︵ 1921 年 1月 ︶ な ど、 他 宗 派 や キ リ ス ト 教 徒 の 関 わ り も あった。 ︵﹃宮澤賢治イーハトヴ学事典﹄ ﹁法華経信仰﹂ の項︹大谷栄一執筆︺ ︶ これが彼の家族と幼少時代をめぐる浄土真宗と島地大 等との関わりであり、さらにそれは、 ﹃法華経﹄をめぐっ て次のように展開する。 賢治は亡くなる直前、遺言として ﹃国訳妙法蓮華経﹄ を 1000 部 作 り、 知 己 友 人 に 配 る こ と を 家 族 に 託 し た。遺言通り、賢治の死後、父親の政次郎と弟の清 六によって﹃国訳妙法蓮華経﹄が出版されるが、そ の 底 本 は、 島 地 大 等 編﹃ 漢 和 対 照 妙 法 蓮 華 経 ﹄︵ 27 版 1926 年 10月 1日、初版 1914 年 8月 28日︶だった。 ⋮⋮ 賢 治 が 大 等 の﹃ 漢 和 対 照 妙 法 蓮 華 経 ﹄ と 出 合 っ た の は、 ﹃ 新 校 本 宮 澤 賢 治 全 集 ﹄ 年 譜 篇 に よ れ ば 、 賢 治 18歳 の 1914 年 9月 と さ れ て い る。 清 六 も こ の 年 の夏に賢治が本書を読み、 ﹁その中の﹃如来寿量品﹄ を読んだときに感動して、狂喜して身体がふるえて
止 ま ら な か っ た と い う。 後 年 こ の 感 動 を ノ ー ト に ﹃太陽昇る﹄とも書いている﹂と記している︵ ﹃兄の トランク﹄ 1987 ︶。この﹃漢和対照妙法蓮華経﹄は、 政 次 郎 の 法 友・ 高 橋 勘 太 郎 か ら 政 次 郎 に 寄 贈 さ れ、 それを賢治がたまたま手にした。しかし、小倉豊文 が 綿 密 に 検 証 し て い る よ う に 、 そ の 出 合 い を 1914 年 9月とするのは不自然である。というのも、この 本 の 刊 行 が 1914 年 8月 28日 で あ り、 高 橋 か ら 政 次 郎に同年 10月 1日に寄贈されたとの書き入れがある からである。小倉は、賢治の法華経信仰を高等農林 学 校 入 学︵ 1915 年 4月 ︶ 以 後 と 考 え る 説 を 採 っ て いるが︵ ﹁二つのブラックボックス﹂ 1982 ︶、ここで もそれに従いたい。 ︵中略︶ 当初の賢治の法華経理解が、著名な天台学者である 島地大等の影響による天台学的なものであると指摘 す る の は、 大 平 宏 龍 で あ る︵ ﹁﹃ 法 華 経 と 宮 澤 賢 治 ﹄ 私 論 ﹂ 2010 ︶。 そ し て、 賢 治 の 天 台 的 法 華 経 観 が 日 蓮的法華経観へ傾斜したのは、 1918 ︵大正 7︶年頃 と推察しており、妥当な見解と思われる。この年の 2月、賢治は政次郎に宛てた手紙の中で、 ﹁願はく ゞ 誠に私の信ずる所正しきか否や皆々様にて御判断下 され得る様致したく先づは自ら勉励して法華経の心 をも悟り奉り﹂ 、﹁或は更に国土を明るき世界とし印 度に御経を送り奉ることも出来得べくと存じ候﹂ ︵書 簡 44︶ と、 自 ら の 法 華 経 信 仰 を 宣 言 し て い る。 ま た、同年 3月 14日前後の保阪宛ての手紙での﹁今は 摂受を行ずるときではなく折伏を行ずるときだそう で す ﹂︵ 書 簡 49︶ に み る 田 中 智 学 か ら の 影 響、 同 年 3月 20日の保阪宛ての手紙での﹁私の遠い先生は三 十二かにおなりになって始めてみんなの為に説き出 し ま し た ﹂︵ 書 簡 50︶ に み る 日 蓮 へ の 言 及 な ど、 智 学の日蓮主義を介した日蓮的法華経信仰が表出され ていることを確認できる︵ただし、どのようにして、 智 学 の 日 蓮 主 義 と 邂 逅 し た の か は 検 討 の 余 地 が あ る︶ 。⋮ ︵﹃宮澤賢治イーハトヴ学事典﹄ ﹁法華経信仰﹂ の項︹大谷栄一執筆︺ ︶ この時系列と信仰の系譜に重要な役割を果たす二つの 本が、島地大等の﹃漢和対照妙法蓮華経﹄と浩々洞編無 我山房版﹃真宗聖典﹄であった。そして両本が期を接し て献呈されたのが、賢治の友人保阪嘉内である。そこに
は、島地と保阪を双方の核とする、興味深いトライアン グ ル の 一 体 性 が 存 す る。 以 下 は、 そ の 事 情 に 直 接 し て、 宮澤賢治から保阪嘉内あてに送られた﹁ ﹁ 17︹封書︺ ︿和 紙 青 罫 紙 四 枚 左 端 に﹁ 大 正 六 年︵ 拾 行 三 田 ︶﹂ と 刷 込 み 毛 筆 ﹀﹂ と い う 書 簡 の 中 の﹁ ⋮ 先 づ あ の 赤 い 経 巻 は 一切衆生の帰趣である事を幾分なりとも御信じ下され本 気に一品でも御読み下さいそして今に私にも教へて下さ い。 ﹂という一節に付せられた注釈である。 *あの赤い経巻 保阪家に保存されている本の一つ に 明 治 書 院 版、 大 正 三 年 八 月 二 八 日 発 行 の 初 版 本、 島地大等著の﹃漢和対照 妙法蓮華経﹄がある。賢 治が初めて法華経に触れたのがこの島地著書である らしいことは前からいわれていた。赤い布表紙の本 で あ る。 ︵ 中 略、 こ の 本 に は、 賢 治 の 父 政 次 郎 の 信 仰上の先輩高橋勘太郎から政次郎へ贈られた旨の書 き入れがあることに触れつつ︶その二人の間に贈答 されたこの本が、賢治を法華経へ導いたその当の本 で あ る こ と は ほ と ん ど 確 実 で あ る。 す で に﹃ 宮 沢 賢 治 と 法 華 経 ﹄︵ 昭 和 三 五 年 普 通 社 ︶ の 中 で 森 荘 己 池氏は﹁賢治が、大正三年二十才のとき、はじめて 読んで、ただ、感動で、身ぶるいしたという法華経 は島地大等の著述で、そのころの新刊だった。大等 師は、比叡山で法華経を講義して、そのあとの著述 だったと伝えられている。布の黄褐色の表紙で、高 0 橋勘太郎翁から宮沢家でもらったもの 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 か、東京で政 次郎翁が手に入れたものか﹂という静六氏談話を発 表されている。右の引用文で編者の傍点した部分こ そ、まさしく保阪家蔵本がその本であることを示し て い る。 と す れ ば 、﹁ 退 学 は 何 で も な い ﹂ と 云 い な がらその大切な本を失意の友へ贈った賢治の気持ち に籠められた嘉内への期待と信頼の深さは想像に余 るものがある。 この本はたぶんこの書簡と同じ頃贈られたものであ ろう。 *なお、参考までに、もう一つ嘉内へ賢治が贈った 本が保阪家に残っている。それは、無我山房版、大 正六年五月一日発行︵二版︶の﹃真宗聖典﹄で、奥 付の奥に〝宮澤賢治兄より贈らる〟とある。嘉内の 字である。皮表紙の上製本である。大正六年、真宗 の本を友に贈ったことは賢治の信仰形成という点に
ついて大きな問題点になろう。この書が贈られたの は﹃漢和対照 妙法蓮華経﹄より前だったろうと編 者 は 推 定 す る。 ︵ 保 阪 庸 夫・ 小 沢 俊 郎 編 著﹃ 宮 澤 賢 治友への手紙﹄筑摩書房、一九六八年︶ 宮澤賢治の﹃法華経﹄への出会いが、彼の家族が親近 していた真宗僧侶である島地大等の﹃漢和対照妙法蓮華 経﹄によってもたらされたという起源は重要である。そ の一体性は、賢治の友人、保阪嘉内という人物への贈答 と し て、 ﹃ 真 宗 聖 典 ﹄ の 贈 答 と い う、 も う 一 つ の 矛 盾 を 内 包 す る 膠 着 と し て 実 現 さ れ た。 小 倉 豊 文 を し て、 ﹁ ブ ラックボックス﹂と称せしめた矛盾的両立である。 ところで賢治の信仰が完全に念仏から法華に転じた のは、前に触れたように賢治の高農の本科卒業前後 であり、校本全集の年譜は卒業直前の大正七年二月 二日の父への手紙を初めて﹁法華行者としての生き 方 を 強 く 述 べ た も の と し て 注 目 さ れ る ﹂ と し て い る。この時点は前述した親友保阪に贈った﹁真宗聖 典﹂の刊行日の大正六年五月一日より約十箇月後に すぎないから、真宗信仰の否定と法華信仰への転換 という重大なる変化は、この短期間のことでなけれ ば ならない。 ︵小倉豊文 ﹁二つのブラック・ボックス﹂ 初出一九八二年、大島宏之編 ﹃宮沢賢治の宗教世界﹄ 渓水社・北辰堂︵発売︶一九九二年に再録︶ 賢治の歴史の中に、真宗から法華へ、という思想転換 があり、それが実は、島地大等と真宗という、一体的な 膠着を内在し、その膠着の矛盾的象徴が保阪嘉内に贈ら れた﹃真宗聖典﹄であった。なら ば その﹁ブラックボッ クス﹂を開けるためにまずなすべきことは、 ﹃真宗聖典﹄ の繙読であるはずだ。しかし管見では、研究史上、その 必要性は驚くほど等閑視されてきたように思う。 八、結節点としての存覚と『諸神本懐集』 ここで、その前提として、今成元昭の重要な指摘を参 照したい。今成は、宮澤賢治には﹁清沢満之の主催する 浩々洞の人びとからの薫陶﹂があったこと、そのころの 浩 々 洞 の 主 張 に 、 日 蓮 を き わ め て 高 く 評 価 し て、 ﹁ 日 蓮 を、親鸞と並ぶ、我が国仏教史上の最高峯の人と位置づ け﹂ 、﹃法華経﹄の題目をもって仏教を改革した﹁宗教的 偉 人 で あ る ﹂ と す る 評 価 が あ っ た こ と を 述 べ て、 ﹁ 即 ち 賢治の法華信仰・日蓮鑽仰の基盤には、清沢満之門流の
﹃ 法 華 経 ﹄ 観・ 日 蓮 観 が 深 々 と 根 を お ろ し て い た、 と い うことは疑いを入れる余地がなかろう﹂と論ずる。 今成は、如上の分析の上に、宮澤賢治の宗教観が、 ﹁教 0 化 0 ・ 折 伏 0 0 を 前 面 に 押 し 出 し た 田 中 智 学 の 侵 略 的 宗 教 と は 全 く 背 反 す る も の な の で ﹂ あ り、 そ の﹁ ﹃ 法 華 経 ﹄ 観 が 対 蹠 的 で あ る ﹂ こ と を 指 摘 し、 む し ろ そ の 背 景 に は、 浩々洞が﹁信条﹂とした﹁摂受﹂観が根強く生き続けて いたことを示唆している。劃期的な論述であろう。 今 成 は、 同 上 論 文 で、 ﹁ 賢 治 が 法 華 経 文 学 の 拠 り 所 と し た﹃ 法 華 経 ﹄ と は ﹂﹁ 賢 治 が 幼 少 の 頃 か ら 信 仰 と 学 問 との師として敬慕していた島地大等編著の﹃漢和對照・ 妙法蓮華経﹄ ﹂﹁であった﹂ことを次のように位置付けて いる。 その理由は、件の﹃法華経﹄が、他の﹃法華経﹄一 般 と は、 典 籍 と し て の 形 態 が 明 確 に 異 な っ て い る 点 に 求 め な け れ ば な ら な い 筈 で あ る の で、 そ れ を 尋 ね る な ら ば 、 こ の﹃ 法 華 経 ﹄ に は、 冒 頭 に、 ﹁ 賛 序﹂として、聖徳皇太子御賛・伝教大師御釈・弘法 大師御釈・法然聖人法語・道元禅師法語・日蓮聖人 法語・存覚上人法語・白隠禅師法語が二十四頁にわ たって載せられており、次に﹃妙法蓮華経﹄各品の 原漢文と和訳文とが上下二段に記され、その後には、 法華大意・法華略科・法華字解・法華歌集・刻経縁 起が載録されている。 ここに一見して知られるように、赤い 4 4 ﹃法華経 4 4 4 ﹄が、 他の﹃法華経﹄典籍の一般と明確に異なっているの は、巻頭に日本仏教界を代表する高僧たちの賛辞を 掲げ、巻末に平安時代以来の百二十余種の歌集群か ら収録した一千三百六十首に及ぶ法華経和歌を載せ て い る こ と で あ る。 ︵ 今 成 元 昭﹁ 宮 澤 賢 治 編﹃ 攝 折 御文・僧俗御判﹄について︵一︶ ― ﹃摂折御文﹄の 位相 ― ﹂﹃仏教文学﹄三二、二〇〇八年︶ 右 の 引 用 に 私 に 傍 線 を 付 し た よ う に 、﹁ 日 本 仏 教 界 を 代 表 す る 高 僧 た ち の ﹂ 中 で、 ﹃ 漢 和 対 照 妙 法 蓮 華 経 ﹄ に はただ一人、真宗と直接結 ば れる人物として、存覚の法 語を掲出することに注意しよう。というのは、他ならぬ 大 正 七 年 と い う 時 に、 ﹁ 同 年 3月 14日 前 後 の 保 阪 宛 て の 手紙での﹁今は摂受を行ずるときではなく折伏を行ずる と き だ そ う で す ﹂︵ 書 簡 49︶﹂ と い う 表 現 が、 保 阪 嘉 内 その人に向けられているからである。 ﹃真宗聖典﹄には、
存覚の ﹃諸神本懐集﹄ ︵本・末の二部構成︶ が掲載される。 そこでは、折伏と摂受とが、次のように説明されている のである。 第三に諸神の本懐をあかして、佛道にいり、念佛を 勤修すべきおもむきをしらしむといふは⋮おほよそ、 諸佛菩薩の利生方便に、二種の門あり。一には折伏 門、二には摂受門なり。摂受門といふは、諸佛菩薩 の本地の化導なり、ひと利根にして、因果にあきら かなるものには、すぐに経法をもて、濟度したまふ。 折伏門といふは、聖教にくらくして、因果にまとへ るひとのためには、賞罰をあらはして、縁をむす ば しめたまふ。後世をしらざるともがらには、富貴を いのらしめんがために、あゆみをはこ ば せ。因果を わきまへざるやからには、そのたゝりをなして、信 心をこらしむ。これすなはち、蘋蘩鼓笛のいさゝか なる縁をもて、八相成道のおほきなるもとゐとなり。 ⋮︵ ﹃ 諸 神 本 懐 集 ﹄ 末、 引 用 は、 浩 々 洞 編 纂、 無 我 山 房 発 行 の﹃ 真 宗 聖 典 ﹄ 大 正 六 年 四 月 初 版 に よ る。 原文は総ルビ︶ こ こ に、 ﹁ 今 は 摂 受 を 行 ず る と き で は な く 折 伏 を 行 ず る と き だ そ う で す ﹂ と い う こ と ば と、 ﹃ 法 華 経 ﹄ と﹃ 真 宗 聖 典 ﹄ と、 賢 治 か ら 保 阪 に 向 け て 行 わ れ た 行 為 と が、 一体的に説明できる唯一の道が見出される。すでに﹃法 華経﹄への強い信仰を固めはじめていた彼が、自己矛盾 を起こすことなく、真宗から法華へと渉ることの出来る 通路が、確実に存在していたのである。浄土教から法華 経 へ。 賢 治 が か つ て こ う し て 結 ん だ 確 信 と 友 へ の メ ッ セージとを、その数年後に作品として成就された﹃二十 六夜﹄読解にシュミレートすることができるのではない か、と思う。 九、 「二十六夜」の習俗と『二十六夜』との距離 ﹃二十六夜﹄は、大正十一、十二年頃の執筆と推定さ れており、上記に焦点化されたようなデリケートな問題 がある時期の作品ではない。賢治はすでに﹃法華経﹄信 仰の地点におり、そこから、通常は浄土教的に捉えられ る 現 象 さ え も が、 ﹃ 法 華 経 ﹄ 教 理 の 中 に 内 包 し て 理 解 す ることができるという確信が、より固まっていた時期に あった、とおぼしい。かつて﹁折伏と摂受﹂をめぐって、 自らの信仰告白として保阪嘉内に示したように、幼い頃
からよく知る真宗的知見を縦横に用いて、実はそれが法 華の真理へと繋がるということを、たとえ ば 方便として の小説に提示する。それこそが、賢治の本来のもくろみ であったのではないだろうか。 賢 治 に は﹁ ﹁ 高 輪 の 二 十 六 夜 ﹂ の 海 の い ろ 果 て ほ の 白 くいづち行くらん﹂大正五年八月十七日、保坂嘉内宛書 簡 中 の 短 歌 ︶ と い う 短 歌 も あ り、 ﹁ 二 十 六 夜 ﹂ の 習 俗 へ の知見があったことは確実である。 農学校の教師時代になると、自身の教え子に岩手山 山頂で﹁二十六夜の観月﹂を持ちかけたという話も 残されている。一九二二年九月のことで、農学校の 生徒だった藤原健太郎氏らの回想文﹁転落した英国 皇 太 子 ﹂︵ 読 売 新 聞 社 盛 岡 支 局 編﹃ 啄 木 賢 治 光 太郎﹄ 、一九七六︶に次のとおりある。 旧暦八月十五日は満月です。この満月を、岩手山 の頂上から拝むと、ちょうどおわんのようなかっ こうに見え、その中から仏さんが三体現れると先 生 が 言 う。 ︵ 略 ︶ そ う そ う、 頂 上 か ら 満 月 が お わ ん型に見え、中には仏さんが三体現れるという話、 結局わたしには見えませんでした。確かにおわん 型には違いなかったんですが ― これは明らかに月待信仰の一種、 ﹁二十六夜﹂ ﹁二十 六夜待﹂あるいは﹁二十六夜講﹂とも呼 ば れる風習 のことで、盛岡では伝統的に岩手公園に集い、観月 が行われていたという記録もある。引用した本文で は 満 月 と 回 想 し て い る が、 ﹁ 先 生 ﹂ す な わ ち 賢 治 の 言う﹁仏さんが三体現れる﹂という二十六夜は、旧 暦二十六夜の晩の行事である。なお、二十六夜につ いては、同名の同話作品がある他、短歌︵書簡中の 短歌 ﹁版画のうた﹂ 14 9 ︶にもその引用がある。 ︵加 倉井前掲﹁月が映す人と影 宮沢賢治と月﹂ ︶ ただし、右の回想には月を﹁満月﹂とするなど問題が ある。そして﹃二十六夜﹄自体もまた、決して単純に浄 土教的世界を描いたものとして完結するものではなかっ たことを、他ならぬ先引の杉浦論文が指摘している。 ﹁ 二 十 六 夜 ﹂ と は、 ﹁ 陰 暦 の 七 月 二 十 六 日 に 当 り 高 地に昇りて月の出を拝する風習あり。これを二十六 夜 の 月 待 ち と 云 ふ。 俗 説 に 此 日 は 月 の 出 づ る 際 阿 弥 陀 の 三 尊 出 現 あ り と せ り。 ﹂︵ ﹃ 仏 教 大 辞 彙 ﹄ 龍 谷 大学編・大正 11・ 1︶と説明される民間信仰であり、
地 方 に よ り﹁ 二 十 六 夜 講 ﹂﹁ 二 十 六 夜 待 ち ﹂ な ど と 称されたり、正月・霜月などに行われたりした。宮 沢賢治の住んでいた花巻の近く盛岡でも同様の行事 が行われていたことは、橋本勇﹁二十六夜尊の思い で﹂ ︵﹃十代﹄昭 58・ 7︶に報告されている。それに よ る と 盛 岡 で は﹁ 二 十 六 夜 さ ん ﹂﹁ 三 体 さ ま ﹂ と 呼 ば れ、 ﹁ 二 十 六 夜 講 ﹂ の 信 者 た ち が 毎 年 旧 暦 七 月 二 十六日の夜半月の出を待った。月が昇るとそれが三 体の仏像に変身し、講中のひとたちはそれを拝して ﹁ナンマン ダ ・ナンマン ダ ﹂と名号を唱えたという。 た だ し こ こ に 報 告 さ れ て い る﹁ 二 十 六 日 の 夜 待 ち ﹂ で は﹁ 黄 色 い 月 は 山 の 頂 上 に 顔 を 出 し た と み る や、 スル、スル、スルット上空に昇りつめ、中空に静止 したかと思うと、こんどは三つに割れて、バナナの 真ん中のやや太い形をした光の部分がさらに上層へ 前と同じ速さで昇った。光のかたまりはやがて水に 溶けたようにゆらゆらと揺らぎ、その光量の全部を 使って仏体に変身した。次いで左の細い部分が同じ よ う に 昇 天 し て 小 さ な 仏 像 と な り、 続 い て 右 の と がった光も小さく変身して中空に金色の仏画を出現 さ せ た。 ﹂ と 書 か れ る よ う に 月 そ の 物 が 変 形 し て 仏 像に見えたものであり、賢治の作品﹁二十六夜﹂の 月を光背にした三尊仏の出現とは異なる。 宮沢賢治が盛岡における﹁二十六夜待ち﹂を体験し たか否かはともかくとして、彼の生活圏・文化圏と もいえる地域に確実に行われていたこの行事が賢治 に作品﹁二十六夜﹂を発想させたと考えてよいだろ う。 ︵杉浦前掲﹁ ﹁二十六夜﹂考﹂ ︶ そ う い え ば ﹃ 二 十 六 夜 ﹄ は、 冒 頭 か ら、 ﹁ 旧 暦 の 六 月 二 十 四 日 の 晩 で し た。 ﹂ と 始 ま り、 本 来 の﹁ 二 十 六 夜 ﹂ を前提にしつつも、その違いを強調していた。 坊さんの梟はそこで云ひました。 ﹁さあ、講釈をはじめよう。みなの衆座にお戻りな され。今夜は二十六日ぢ ゃ 、来月二十六日はみなの 衆も存知の通り、二十六夜待ちぢ ゃ 。月天子山のは を 出 で ん と し て、 光 を 放 ち た ま ふ と き、 疾 翔 大 力、 爾迦夷、波羅夷の三尊が、東のそらに出現まします。 今宵は月は異なれど、まことの心には又あらはれ給 はぬことでない。穂吉どのも、たゞ一途に聴聞の志 ぢ ゃ げ な で、 こ れ か ら さ っ そ く 講 ず る と い た さ う。
穂吉どの、さぞ痛からう苦しからう、お経の文とて 仲々耳には入るまいなれど、そのいたみ悩みの心の 中に、いよいよ深く疾翔大力さまのお慈悲を刻みつ けるぢ ゃ ぞ、いゝかや、まことにそれこそ菩提のた ねぢ ゃ 。﹂ 賢治の﹃二十六夜﹄は、杉浦が指摘するように、幻月 としての月の分離ではなく、三尊の仏が登場する、とあ えて描く。もしそれが﹁阿弥陀三尊﹂を想起させるので あれ ば 、そこには阿弥陀・観音・勢至の三尊が寓意され ていることになるだろう。 十、三尊の月と月天子 ― 『諸神本懐集』の叙述 杉浦が指摘するように、本来の﹁二十六夜待ち﹂の月 と は、 ﹁ 三 つ に 割 れ て ⋮ 光 の か た ま り は ⋮ そ の 光 量 の 全 部を使って仏体に変身し﹂ 、﹁月その物が変形して仏像に 見えたものであ﹂る。ところが賢治の﹃二十六夜﹄では、 月そのものの変化ではなく、 ﹁﹁二十六夜﹂の月を光背に した三尊仏の出現﹂であり、両者には明瞭な﹁異な﹂り がある。このズレに、じつは法華と真宗的世界とを結び、 融合するカギがある。再び ﹃真宗聖典﹄ の ﹃諸神本懐集﹄ を開いてみれ ば 、次のような興味深い一節に遭遇する。 そも〳〵日本わが朝は、天神七代、地神五代、人王 百代なり。そのうち天神の第七代を ば 、伊弉諾伊弉 冊とまうしき、伊弉諾尊は、おとこがみなり。いま の 鹿 嶋 の 大 明 神 な り。 伊 弉 冊 尊 は き さ き か み な り、 いまの香取の大明神なり。かのふたりのみこと、あ まのうきはしのうへにして、めがみおがみとなりた ま ひ て、 と も に あ ひ は か り て い は く、 こ の し た に、 あにくになからんやとて、あまのさかほこをさしお ろして、さぐりたまふに、ほこのしただりこりかた まりて、ひとつのしまとなれり。この日本国これな り。そののち、くにのうちに、ぬしなからんやとて、 御子をまうけたまへり。日 神、月 神、これなり、日 神といふは天 照大神。月神といふは、素戔嗚尊なり。 ︵ 略 ︶ 天 照 大 神 は 日 天 子、 観 音 の 垂 迹 な り。 素 戔 嗚 尊は月 天子、勢至の垂迹なり。この二菩薩は、弥陀 如来の悲智の二門なれ ば 、この両社もはら弥陀如来 の分身なり。 ︵﹃諸神本懐集﹄本︶ 宮 澤 賢 治 に は﹃ 月 天 子 ﹄ と い う 著 名 な 詩 が あ る︵ ﹃ 雨 ニモマケズ手帳﹄所載︶ 。﹃二十六夜﹄にも﹁月天子﹂と
いう語が用いられて月を喚んでいた。右の ﹃諸神本懐集﹄ の一節は、 ﹁弥陀如来の分身﹂として観音と勢至を分析し、 そ れ ぞ れ﹁ 日 天 子 ﹂﹁ 月 天 子 ﹂ と 同 定 す る。 そ れ は﹃ 諸 神本懐集﹄末にいたれ ば 、次のような叙述へと展開する のだ。 なかんづくに、念佛を行ずるひとは、日 月星辰のめ ぐみにもあづかるべし。そのゆへは、道綽禅師の安 楽集に、須 彌四域 経をひきていはく、天地はじめて ひらけしとき、いまだ日月星辰ましまさず、たとひ 天人来 下することあれども、たゞうなぢのひかりを もって照 用す。そのときに、人 民おほく苦悩を生ず。 こゝに阿弥陀仏、二菩 薩をつかはす。一を ば 宝応声 菩薩となづけ、一を ば 宝吉祥菩薩となづく。すなは ち伏 義女媧これなり。この二菩薩、ともにあひはか りて、第七の梵天にむかひ、その七宝をとりて、こ の界に来至し、日月星辰二十八宿をつくりて、天下 をてらし、春秋冬夏をさだむ。ときにふたりの菩薩、 あひかたりていはく、日月星辰二十八宿のにしへゆ く ゆ へ は、 一 切 の 諸 天 人 民、 こ と 〴 〵 く と も に 、 阿 弥陀仏を稽首したてまつれとなり。こゝをもて、日 月 星 辰 み な こ と 〴 〵 く 心 を か た ぶ け て、 か し こ に む かふ。かるがゆへに、にしにながるゝなりといへり。 このなかに宝応声菩薩といふは、観音すなはち日天 子、 宝 吉 祥 菩 薩 と い ふ は、 勢 至 す な は ち 月 天 子 な り。 ま た も ろ 〳 〵 の 星 宿 は、 虚 空 蔵 菩 薩 な り。 こ れ また、浄土の二十五の菩薩のひとつなり。弥陀を念 ぜ ば 、三光天子の加護にあづからんこと、うたがふ べからず。いかにいはんや、人間にをいて現証あら たなること、日月星辰にすぎたるはなし。いまこの 界にむまれて、黒白をわきまへることは、しかしな がら日 月の恩なり、かれすでに観音勢至の化現なれ ば 、弥陀如来分身の智慧あらずといふことなし。こ のゆへに、念仏を行ずるひとは、別していのらざれ ども、かならず日月のめぐみにあずかる。かるがゆ へに、今生には福楽をえ、後生には浄土に生ず。念 仏を信ぜざるひとは、別していのれども、つゐに日 月のめぐみをかうふらず、かるがゆへん、現世には 冥 加 な く、 後 生 に は 悪 道 に お も む く。 ⋮︵ ﹃ 諸 神 本 懐集﹄末︶ ﹁ 日 月 星 辰 二 十 八 宿 ﹂ が 西 へ 行 く の は、 ﹁ 阿 弥 陀 仏 を
稽首したてまつれ﹂ということだ。その﹁日月星辰﹂の なかで、宝応声菩薩が、観音すなわち日天子、宝吉祥菩 薩が、勢至すなはち月天子。さらにまたもろもろの星宿 が 虚 空 蔵 菩 薩 で あ り、 そ れ は す な わ ち﹁ 浄 土 の 二 十 五 の 菩 薩 の ひ と つ ﹂ で あ る。 だ か ら、 ﹁ 弥 陀 を 念 ぜ ば 、 三 光天子の加護にあづからんこと、うたがふべからず﹂と 論 じ て い る。 こ こ に、 阿 弥 陀 如 来 と は 別 個 の 存 在 と し て、日・月・星の三光を体する三菩薩︵宝応声=観音・ 宝 吉 祥 = 勢 至・ 星 宿 = 虚 空 蔵 ︶ が 措 定 さ れ る。 ﹃ 二 十 六 夜﹄に形象された三人の尊者たちも、じつは如来ではな く、それぞれが三菩薩であった。そしてそれは﹁三光天 子﹂と喚 ば れていたのである。 こ こ で﹃ 真 宗 聖 典 ﹄ の﹃ 諸 神 本 懐 集 ﹄ と﹃ 二 十 六 夜 ﹄ と で 共 通 す る、 ﹁ 三 光 天 子 ﹂ と い う 語 が 出 て く る と こ ろ が 重 要 で あ る。 ﹁ 三 光 天 子 ﹂ こ そ が、 日 蓮 が﹃ 法 華 経 ﹄ 教学の中で重要視した三尊であった。 ﹁ 三 光 天 子 ﹂ と は、 日 天︵ 太 陽 ︶・ 月 天︵ 月 ︶・ 明 星 天 ︵ 星 ︶ の 三 つ を い い ま す。 天 と は﹁ 神 ﹂ を 意 味します。法華経では、日天・月天・明星天の三天 を仏法守護の神として説き、日蓮大聖人はそれを御 本仏の一念に具わる妙用として説かれています。 三 天 に つ い て、 法 華 経﹃ 序 品 ﹄ に は、 ﹁ 爾 の 時 に 釈 提 桓 因、 其 の 眷 属 ︶ 二 万 の 天 子 と 倶 な り。 復、 名 月 天 子、 普 香 天 子、 宝 光 天 子、 四 大 天 王 有 り。 其 の 眷 属 万 の 天 子 と 倶 な り ﹂︵ 新 編 法 華 経 五 七 ペ ー ジ ︶ と あ り、 こ れ を﹃ 法 華 文 句 ﹄ に は、 ﹁ 名 月 は 是 れ宝吉祥にして月天子、大勢至の応作なり。普香は 是れ明星天子にして虚空蔵の応作なり。宝光は是 れ 宝意にして日天子、観世音の応作なり﹂と、名月天 子・普香天子・宝光天子がそれぞれ月天子・明星天 子・日天子であり、欲界の天として法華の会座に名 を 連 ね て い る と 釈 し て い ま す。 こ れ ら 三 天 は、 ﹃ 法 師 品 ﹄ で 記 別 を 受 け、 ﹃ 宝 塔 品 ﹄ で 滅 後 流 通 の 勅 を 蒙 り、 そ し て﹃ 嘱 累 品 ﹄ で、 ﹁ 世 尊 の 勅 の 如 く、 当 に 具 さ に 奉 行 す べ し ﹂︵ 新 編 法 華 経 五 二 〇 ペ ー ジ ︶ と誓言し、末法に出現された日蓮大聖人を守護する とともに、法華経の絶大な威力を証明しています。 すなわち、文永八年九月十二日の竜の口の法難の際、 ﹁ 江 の し ま の か た よ り 月 の ご と く ひ か り た る 物、 ま りのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわ
た る ﹂︵ 御 書 一 〇 六 〇 ペ ー ジ ︶ と い う よ う に 、 不 思 議 な光り物の飛来により、幕府の兵士は大聖人を斬首 することができませんでした。また、翌十三日、本 間 邸 で は、 ﹁ 天 よ り 明 星 の 如 く な る 大 星 下 り て、 前 の 梅 の 木 の 枝 に か ゝ り ﹂︵ 同 一 〇 六 一 ペ ー ジ ︶ と あ る ように、大聖人の諌暁に対して明星天の奇瑞があっ たことを示されています。この不思議な天佑を大聖 人 は、 ﹁ 三 光 天 子 の 中 に 月 天 子 は 光 物 と あ ら は れ 竜 口の頸をたすけ、明星天子は四・五日已前に下りて 日 蓮 に 見 参 し 給 ふ ﹂︵ 同 四 七 九 ペ ー ジ ︶ と、 竜 の 口 の光り物は月天子、本間邸の梅の木に掛かった大星 は明星天子であり、それらは宇宙法界を貫く御本仏 大聖人の力用によって出現したことを説かれていま す。 また、 ﹃国府尼御前御書﹄の、 ﹁日蓮こいしくをはせ ば 、 常 に 出 づ る 日、 ゆ う べ に い づ る 月 を を が ま せ 給 へ。 い つ と な く 日 月 に か げ を う か ぶ る 身 な り ﹂︵ 同 七 四 〇 ペ ー ジ ︶ と の 御 文 か ら、 日 天 子 も ま た 御 本 仏 大 聖 人 の 体 具 の 妙 用 と 拝 さ れ ま す。 ﹃ 四 条 金 吾 釈 迦 仏 供 養 事 ﹄ に 、﹁ 当 に 知 る べ し、 日 月 天 の 四 天 下 を め ぐ り 給 ふ は 仏 法 の 力 な り ﹂︵ 同 九 九 四 ペ ー ジ ︶ と 説 か れているように、三光の恩恵は、正法の興隆、正法 の 衰 退 に よ り 左 右 さ れ る の で す。 ︵﹁ 教 学 用 語 解 説 ︵ 41︶三 光天子﹂ ﹃大白法﹄第五一〇号平成十年九月 十六日刊︶ 三光天子は、日蓮の大曼陀羅にも勧請され、雲に乗る 三尊として、あまた図像化されている。 ﹁その雲の上に、 金いろの立派な人が三人まつすぐに立ってゐます。まん 中の人はせいも高く、大きな眼でぢっとこっちを見てゐ ます。衣のひだまで一一はっきりわかります。お星さま をちり ば めたやうな立派な瓔珞をかけてゐました。お月 さまが丁度その方の頭のまはりに輪になりました。右と 左 に 少 し 丈 の 低 い 立 派 な 人 が 合 掌 し て 立 っ て ゐ ま し た ﹂ という形象は、容易に、一般的な三光天子の仏像を想起 させる。 そうした視点で﹃二十六夜﹄本文を読み返してみると、 梟の坊さんは、金色の二十六夜の月が出る前に次のよう な説法をしていた。 勿 体 な く も、 我 等 は 光 明 の 日 天 子 を ば 憚 か り 奉 る。 い つ も 闇 と み ち づ れ ぢ ゃ 。 東 の 空 が 明 る く な り て、
日 天 子 さ ま の 黄 金 の 矢 が 高 く 射 出 さ る れ ば 、 わ れ らは恐れて遁げるのぢ ゃ 。もし白昼にまなこを正し く開くなら ば 、その日天子の黄金の征欠に伐たれる ぢ ゃ 。 二 十 六 夜 の 三 尊 出 現 に は、 ﹁ そ の 円 光 は ぼ ん や り 黄 金 いろにかすみうしろにある青い星も見えました﹂と星も 付随する。そしてまもなく﹁東の空が明るくなりて、日 天子さまの黄金の矢が高く射出さる﹂る朝の時刻が到来 することが暗示される。そして次のような叙述をもって、 この美しい作品は終焉を迎えるのである。 ⋮俄に何とも云へないいゝかをりがそこらいちめん にして、もうその紫の雲も疾翔大力の姿も見えませ んでした。たゞその澄み切った桔梗いろの空にさっ きの黄金いろの二十六夜のお月さまが、しづかにか かってゐる ば かりでした。 ﹁ お や、 穂 吉 さ ん、 息 つ か な く な っ た よ。 ﹂ 俄 に 穂 吉の兄弟が高く叫びました。 ほ ん た う に 穂 吉 は も う 冷 た く な っ て 少 し 口 を あ き、 か す か に わ ら っ た ま ゝ、 息 が な く な っ て ゐ ま し た。 そして汽車の音がまた聞えて来ました。 月、 星、 日 の 三 光 が 煌 め き つ つ 交 錯 し て、 ど こ か で、 賢治の好きな始発の電車が、黎明の大地に 遠く汽笛を響 かせる。 十 一 、 月 と 星 、 普 香 と 経 王 と 香 王 ( 花 王 ) そ の 時、 三 光 天 子 の う ち、 ﹁ 普 香 天 子 ﹂ を め ぐ っ て、 宮 澤 賢 治 に 興 味 深 い 比 定 の 経 緯 が あ る こ と に も 注 意 さ れ る。 先 引 の 板 谷 栄 城 が 指 摘 し て い た よ う に 、 賢 治 は、 ﹁﹁ 東 の 雲 は は や く も 蜜 の い ろ に 燃 え ﹂ と い う 詩 の 中 で、 月天子がエステルをお吐きに なると書いてい﹂るが、そ の﹁ 下 書 き 原 稿 に は﹁ 普 香 天 子 ﹂ と い う 題 が 書 い て あ ﹂ る。すなわち ﹁七四 ︹東の雲ははやくも密のいろに燃え︺ ﹂ の 先 駆 形 の 異 稿 に は、 ﹁ 普 香 太 子 ⋮ む か し の 普 香 天 子 さ ま﹂という記述が見えるのである。板谷はそれを、 普という字はあまねくという意味ですから、この創 作らしい普香天子というお名前は、心象の香りを空 いっぱいに行きわたらせてくれる月天子という意味 で し ょ う。 ︵ 板 谷 栄 城﹃ 宮 沢 賢 治 の 見 た 心 象 田 園 の風と光の中から﹄ ︶ と解釈していたが、どうやら賢治は ﹁月﹂ と ﹁普香天子﹂
の関係について、誤解もしくはあるロマンチックな転用 をあえてしていた時期があったらしい。 ︽その香気もまたよく凍らされて︾ ︵第二集 ﹁有明﹂ ︶ や︽ エ ス テ ル の 香 は 雲 に み ち ま す ︾︵ ﹁︹ 東 の 雲 は は や く も 密 の い ろ に 燃 え ︺﹂ ︶。 こ こ か ら 窺 え る の は、 ︿月﹀が香を吐くという感受である。 ︽あるかなしか に青じろくわたる天の香気︾ ︵﹁ ︹あけがたになり︺ ﹂︶ も同様で、賢治は実際にそのような香を嗅ぎとって いたのかもしれない。⋮⋮賢治にとって︿月﹀が信 仰の対象として存在していたことが、賢治に、より 解放された身体的感受としての表現を許したと捉え ることも可能である。 ﹁︹あけがたになり︺ ﹂ には ﹁普 香 天 子 ﹂ の 名 が 見 え、 校 異 を た ど れ ば そ れ は︿ 月 ﹀ を 意 味 す る こ と が 明 ら か だ が、 ﹁ 普 香 天 子 ﹂ と は 本 来明星天子︵金星︶のことで、法華経序品第一にも 記されるその名を賢治が誤用したとは考え難い。や は り、 ﹁ 香 気 ﹂ の 源 と し て﹁ 普 香 天 子 ﹂ の 名 が ふ さ わしいとの判断があったのだろう。自己の感受を信 仰を背景に解放させていった例の一つと見られよう。 鈴 木 健 司 ﹁ 月 ﹂︵ 天 沢 退 二 郎 編 ﹃ 宮 沢 賢 治 ハ ン ド ブ ッ ク Lit era ture ha ndb ook﹄ 新 書 館 、 一 九 九 六 年 ︶ 鈴木は﹃春と修羅 詩稿補遺﹄に ﹁あけがたに なり/ 風のモナドがひしめき/月は崇厳な麺麭実に 凍って⋮あ めなる普香天子にさゝげ⋮﹂とある一節を指していって いるのだが、賢治における月への尊崇的形象は、こうし て、三光天子へと固定的に は対応しない。月は、特立的 に 、より賢治的な世界の中で、香りを放つ、格別の存在 として、その文学的イメージを強く主張する。そのコン テクストからみれ ば 、月と香りのイメージを担った、 ﹃法 華経﹄の薬王品に見える、次のような叙述は、見のがし てはならないものである。仏が宿王華菩薩に 対して﹃法 華経﹄の卓越を論じ、次のような譬喩を用いて説き明か すところである。 宿王華、譬へ ば 一切の川流、江河の諸水の中に、海 爲第一なるが如く、此の法華經も亦復是の如し。諸 の如來の、所説の經の中に於いて、最も爲深大なり。 又、土山、黑山、小鐵圍山、大鐵圍山、及び十寶山 の衆山の中に、須彌山爲第一なるが如く、此の法華 經も亦復是の如し。諸經の中に於いて、最も爲其の 上なり。又、衆星の中に、月天子最も爲第一なるが
如く、此の法華經も亦復是の如し。千萬億種の諸の 經 法 の 中 に 於 い て、 最 も 爲 照 明 な り。 又、 日 天 子 の、能く諸の闇を除くが如く、此の經も亦復是の如 し。能く一切の不善の闇を破す。 ︵中略︶ 一切の聲聞、 辟支佛の中に、菩薩爲第一なり。此の經も亦復是の 如し。一切の諸の經法の中に於いて、最も爲第一な り。佛は爲諸法の王なるが如く、此の經も亦復是の 如し。諸經の中の王なり。 そして宿王華菩薩は、香りにみちた神秘を伴う﹁薬王 菩薩本事品﹂を付託される。 宿王華、此の菩薩、是の如き功德智慧の力を成就せ り。若人有りて、是の薬王菩薩本事品を聞きて、能 く隨喜讚善せ ば 、是の人現世に、口の中より常に靑 蓮華の香を出し、身の毛孔の中より、常に牛頭栴檀 の香を出さん。所得の功徳上に説く所の如し。是の 故に宿王華、此の薬王菩薩本事品を以つて汝に囑累 す。⋮ ﹃法華経﹄ 自らが説くように、それは ﹁諸経の王﹂ 、﹁経 王 ﹂ で あ る。 そ し て 賢 治 は、 三 光 天 子 の 序 列 を 転 じ て、 月こそ ﹁普香天子﹂ と語ろうとする。月はまさしく ﹁香王﹂ であった 11 。﹁香﹂の漢音は﹁きやう﹂ 、﹁経﹂の呉音が﹁き やう﹂で、それはそれぞれ﹁キョウオウ﹂そのものであ る。 そ し て、 そ う し た 教 理 を 説 く 薬 王 本 事 品 は、 ﹁ 宿 王 華﹂という、花の王をその名に含む菩薩に向けて説かれ、 その功徳・効能は﹁口の中より常に青蓮華の香を出﹂す の だ、 と い う。 こ こ に 再 び、 月 が﹁ 香 王 ﹂ と 吐 き、 ﹁ 花 王﹂と命名された、あのかぐわしい高級石鹸のイメージ と箱入りの能書きの説明︵それは、お経のように書かれ た効能の付託そのものである︶とが明確に絡み合い、復 活する。しかも花王は、 ﹁﹁長瀬商店で扱っていた輸入品 の 鉛 筆 に 月 と 星 の マ ー ク が あ り、 こ れ が ヒ ン ト に な っ て﹂ ﹁三日月﹂ ﹁人の顔﹂ 、﹁×印の店印を朝日の光で包ん だ 星 を あ し ら っ た 入 念 な 図 案 で し た ﹂︵ 注 6前 掲﹁ 花 王 キ ッ ズ︹ な ま え と マ ー ク ︺﹂ ︶。 ま さ し く 三 光 天 子 の 三 位 一体をその象徴としていたのである 12 。 十二、これは単なる擬人ではない ― おわりにかえて ﹃月天子﹄の詩に賢治はこう詠う。 私はこどものときから/いろいろな雑誌や新聞で/ 幾つもの月の写真を見た/その表面はでこぼこの火