カンボジア水稲文化調査行
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(2) 60. 1. メコン河とプノンペン平野 メコン河は、中国青海省の山岳部に源を発して、チベット、雲南、ミャンマー、ラオス、タイ、. カンボジアを通過して、ヴェトナムのメコンデルタで南シナ海に注いでいる。全長4200kmの大河 で、流域面積は81万kr丘に及んでいる。 メコン河を内陸中心にもつ東南アジアは、日本列島とも深い繋がりがある。縄文時代には、東 南アジアを経由して、アフリカ原産のヒョウタンやエゴマ、東南アジアのクワイやサトイモなど が日本列島にもたらされている。また員斧や丸整形石斧など、東南アジアやオセアニアから琉球 諸島を経由して島伝いに渡ってきた品々もある。 弥生時代になると、今回のテーマでもある水稲作が大陸から伝わり、ローマ系のガラスが東南 アジアや中国南部、朝鮮半島を経由して、日本列島に伝来している。古墳時代にも南島経由の宝 員やイモ貝が日本列島や朝鮮半島に運ばれている。 奈良の正倉院には、東南アジア原産の白檀や伽羅、丁子、沈香、黄熟香などが残されているが、 中国や朝鮮半島経由で輸入されたに違いない。 鎌倉時代には、東南アジアから占城(チャンパ)米とよばれるインディカ系の長粒種の稲がも たらされ、日本各地で栽培されている。室町時代末から安土桃山時代にかけては海外貿易が盛ん で、ヴェトナムのホイアンやカンボジアのプノンペン、タイのアユタヤなどには、交易のための 日本人町が造られた。山田長政やジャガタラお春のように名の知られた人々の他にも、多くの日 本人が移り住んでいたのである。交祉焼や宋胡録(スワンカローク)などの陶磁器、ジャガイモ やカボチャのような農作物、それに武器の鉄砲などが輸入された。江戸時代はじめにはアンコー ルへの祇園精舎詣でが行われ、鎖国とともにしだいに貿易量は縮小したが、南蛮渡りの品物が貴 重な舶来品として取引されたのである。. 2 東南アジア稲作の歴史 8月1日には、プノンペンの王立美術館を参観し、遺物調査をおこなった。多くの石仏や石碑、 彫像やレリーフ、青銅像など優れたクメールの遺品が揃っている。そのなかに、寝転がって頬杖 をっく破損した大きな青銅像があった。胴部以上の破片で、二本の右手、口髭や顎嶺、腕釧や胸 飾りなどからヴィシュヌ神と見なせる。手には法螺貝、車輪型円盤、梶棒、蓮華を持ち、頭には 冠飾りをっけていたはずだが、痕跡のみで失われて今は無い。 言い伝えでは、ヴィシュヌ神はひとっの世界が終わり、次の世界が誕生するまで、水に浮かん だ龍蛇・アナンタの上で眠る。休息している間に膳から蓮が生え、蓮華の中からブラフマー神が 化生する。やがてブラフマ‑神の創った新世界が始まると、ヴィシュヌ神は目覚めて、邪鬼や悪 魔、魔族を退治し、人々を助けるために天界からやって来るのである。その様子を鋳造の青銅像 で表現している。彫像の中でもひときわ大きな青銅製破損像である点と、玉象蕨が抜け落ちた眼.
(3) カンボジア水稲文化調査行. を見開き、虚空に壊れた手を伸ばした状態で横たわる姿に違和感がある特異な神像で、印象に残っ た。 ここでは稲作農業関係の資料を挙げておこう。ただ博物館内では写真撮影が禁止だったので、 メモと東南アジアの類似資料を参考に挙げておきたい(図1)。 東南アジアの稲作は、かつてはインドから伝来したと考えられていた。最近の考古学発掘調査 によると、中国南部の珠江デルタでは、紀元前4000年ころには稲作が行なわれている。遅くとも 紀元前2000年前後には、ヴェトナム北部の紅河デルタ地帯に中国南部から稲作が伝播したのであ ろう。西のインドからではなく、東の中国から稲作が伝わった可能性が高い。そのほか打製石斧 や石製穂摘み具、員製穂摘み具などの出土から、新石器時代後期には、東南アジアのラオス、タ イ、カンボジアなど各地に稲作が伝来したのであろう。 やがて紀元前1千年紀に入ると石製農具のほかに靴型青銅斧や青銅鋤先など青銅製農具が出現 し、紀元前4世紀前後になると鉄製農具にとって替わる。靴型青銅斧は、木柄の先端につけて葦 など椎草の根を断ち切るための除草農具であり、木材加工用斧ではない。青銅製農具は、中国南 部やヴェトナムとの類似を指摘できる(1)。. ⁚ . . 、 ⁚ ⁚ ; ; ‑ v : : : : E = ‑ ‑. 15. 図1. 16. 東南アジアの農具図 1打製石鋤先 2靴型石斧 3, 4員製穂摘み具 5青銅製穂摘み具 6, 7鉄製穂摘み具 8, 9鉄鎌10, 11鉄刀12, 13靴型青銅斧14, 15, 16移植用掘り棒.
(4) 62. 紀元前4‑3世紀ころには、鉄製の鋤や斧、鎌や鉄刀などからみて、沖積平野での水田稲作の ほかに丘陵や高地での畑稲作、山腹での焼畑稲作、低湿地での除草無耕起稲作がおこなわれた可 能性が高い。そのご紀元前2世紀には中国南部から濯概稲作、インドからは直播稲作、メコンデ ルタから浮稲の管理栽培が伝えられる。紀元前後には、焼畑、畑作、水田稲作、無耕起稲作、浮 き稲管理栽培など、現在につながる稲作の基本形は、ほぼ出揃っていたと想定できる。 イネ品種のDNA分析によると、すでに熱帯ジャポニカを栽培していた可能性が高い。そのご 中国から温帯ジャポニカ種、インドからインディカ種が伝えられている。中世の日本列島に南海 貿易で東南アジアから伝えられたのは、インディカ種の赤米で、 「唐法師」とか・「チャンパ米」 と呼ばれている。 王立美術館の展示品には、石製、青銅製、鉄製の遺物が多く、当時多用されたであろう木製品 や植物質の素材はほとんど見られなかった。除草用の有肩石斧、柄をっけた草の根切り用斧、雑 草を切り払う鉄鎌や鉄刀、耕作のための鋤先、イネ苗移植用の木製掘り棒、収穫用の各種穂摘み 具、脱穀の杵と白などが展示されていた。これらの農具は、東南アジア各地で使われ、ヴェトナ ムでもカンボジアでも共通の形態を示している。ただ水田用と定欄用、焼畑用とでそれぞれ差異 がある。 Ⅱ 1. シェムリアップの農村景観. ブノン山とクパル・スピアン アンコールの北に位置する聖なる山、プノン・クーレンから湧き出した水は、丘陵斜面や台地. を下って、半乾燥地に流れる.丘陵崖線のクパル・スピアンでリンガやヒンドゥーの神々によっ て浄化され、シェムリアップ川上流をくだってアンコール台地の寺院群や都市を清める。そのあ と水田の稲や砂糖郁子、蓮根の実りを豊かにし、再び集まってシェムリアップ川となって稚魚を 育て、やがてトンレサップ湖‑と注ぎ、水草や浮稲、大魚を育てる(2)。聖なる山と恵みの川は、 人々の住む都市や農村とを結びつけ、さらにトンレサップ湖からメコン河、海へと繋がるクメー ルの宇宙世界を構成している(図2)0 8月3日は、シェムリアップ川の源流にあるクパル・スピアン‑川床に彫り込まれた石像を調 べに行った。山麓の駐車場でバスを降りると、急な斜面の山道をひたすら登っていく。途中で休 憩して向かいの山をながめると、山の傾斜面に焼畑が見える。日本の対馬で見られる焼畑の木庭 作とよく似ている。距離が離れているので、肉眼ではいま何を栽培しているかまでは確かめられ なかった。少なくなったとはいえ、まだ焼畑も健在である。 再び山を上りはじめると、頭上を覆う熱帯雨林と道の左右にカヤツリ草や萱(カヤ)のような 植物が生い茂り、黒い腐葉土が厚く堆積している。年中暖かく年間1400mmと雨の多い、亜熱帯気 候のお陰である。.
(5) カンボジア水稲文化調査行. やがて小川のせせらぎが聞こえ、 川沿いの小径を進むと急に視界が開 けて、彫像が並んでいる場所にでた。 シヴァ神やヴィシュヌ神、ラクシュ. ミ‑神など神々が、川岸や川床の大 岩に彫られている。川底をのぞき込 むと岩盤にリンガやヨこ、蓮華の台 座などが刻まれている。ここはヒン ドゥー教の修練の道場であり、水の 聖地なのである。 川沿いに下ると、川床のところど ころにリンガとともに四角い研形の 掘りこみがあり、聖なる水で修行し 沫浴するための窪みだという。流れ 落ちる滝があらわれ、その滝壷で水. 図2. 山と川と湖とのつながり. に手をひたすとひんやりと冷たい。 森林の養分の多い水で、下流の水田や都市の人々、トンレサップ湖の魚たちに美味しくて栄養たっ ぷりの生命の水を送りつづけているのである。落ち葉がたまった滝壷では、ミネラル分をふくん で茶色味を帯びた水の中を、小魚が群れて泳いでいる。こんな高さにまで魚が遡上し、生息して いるのには感心した。 市内に帰る途中のシェムリアップ川の川岸で、小さな小屋掛けを見っけた。ガイドのチャーチ さんに聞くと、 1月になるとたくさんの人々が繰り出して川で小魚をとり、川岸で自家用のペー スト状塩辛(魚醤、プロホック)をつくるという。魚醤は、そのまま焼いたりご飯にかけたり、 調味料としておかずの味付けにも使う。この川が注ぐ河口のトンレサップ湖では、専業漁師が綱 で小魚をとり、市販用魚醤を作るという。 市の郊外にある魚醤作りの作業所に立ち寄って見学した。頭や腸を取りはずした小魚に大量の 塩をして、大きな木の樽に詰めている。中には魚の姿や形が見分けられないほどに発酵が進み、 上澄み液が惨み出た樽もある。上澄み液から作った魚醤池をトウックトレイと呼んでいる。少し ずつ味は異なるが、タイのナンプラー、ヴェトナムのニョックマムと同じ魚から作った醤油で、 日本では秋田県のショツルに近い(3)。 長くは見学して居られないほどの強烈な匂いだが、カンボジアの人々にとっては、無くてはな らない調味料や蛋白源である。シェムリアップ滞在中に、何度かプロホックやトウックトレイの 味を楽しむ機会があった。.
(6) 64. 8月4日には、トンレサップ湖に浮き稲と野生稲とを調査するために出かけた。シェムリアッ プ郊外からトンレサップ湖に至る道路の両側には、高さ3‑4mの柱の上に建っ高床住居が連なっ ている。聞くと雨季には床下まで水位があがるという話しである。 やがて岸につないだ船外機付きのボートに乗り換えて、入り江からトンレサップ湖を目指す。 まわりには筏に乗せた水上住居や船の家などがもやっていて、ときおり場所移動をしているのを 見かけた。船上には蟹寵や建て網などの漁具が、所狭しと積み上げられ、忙しそうに立ち働く人々 がいる。 しばらくしてトンレサップ湖に出たが、まともに向い風をうけ沖は白波がたっている。風が強 くこれ以上、沖に出るのは危険だという。どの船もみなUターンしているので、やむなくわれわ れも引き返すことにした。自然には勝てず、浮き稲と野生稲の調査は、またの機会にお預けとなっ た。岸辺の水際には、琵琶湖のエリと同じような魚の民が仕掛けられている。水上レストランに 立ち寄って、養殖している魚や鰐、漁具を見せてもらった。鯉やウナギの笠(ウケ)、伏せ寵、 ヤス、魚ザル、魚篭(ビク)など淡水用の漁具で占められている(4)。漁法の多様性から魚の種 類が多いことが推定できる。これもブノン山から湧き出し、シェムリアップ川を流れてくる豊か な水と、亜熱帯の太陽の賜物である。浮き稲と野生稲とは見られなかったが、トンレサップ湖の 漁労活動を垣間見ることができたのは、幸いであった。. 2 田植えの風景 都市や遺跡をめぐる途中で通る集落や農村では、田植えシーズンなのであろうあちこちで牛の 型桝や、稲苗取り、田植えなどを目撃した。牛は赤毛牛や白茶色のコブ牛、それに灰黒色の水牛 がいる。水田を耕している牛は、三日月形に湾曲した立派な角をもっ水牛が多い。牛を操作する のは男の仕事らしい。これに対して稲苗取りと稲苗の運搬とは、男女の共同作業である。 稲苗取りを観察すると、長さ30cmほどに育った稲苗を、苗の中はどの茎を束ねて両手で引き抜 く。そのあと足の裏に打ちっけ、水の中ですすいで根についた泥を落とす。数束をまとめて縛り、 前進しながら作業を続けてゆくと、苗代田の中には、束ねられた稲宙が残されている。日本の稲 苗にくらべて、育ち過ぎと思えるほどに苗丈が長い。稲宙取りは2‑3人がかりで、家族労働な のであろう。 田植えをしているのは、女性や子供が多く、 5人から10人はどの人数である。遠くからでも、 カラフルな衣服で女性とわかる。人数から見て家族労働だけではまかなえず、親類や知り合いの 助けを借りながらの作業と見える。日本の「結い」のような相互扶助による労力交換なのであろ う(5)。田植えには、植え縄や正条枠などはつかわず、各自が後方に下がりながら隣りとの間隔 を保ちっっ目分量で植えていく。このため苗の植え幅は狭くなったり曲がったりしながら、水田 の端から端まで植えられていく。田植え機やコンバインを使う機械植えや機械刈りではないので、.
(7) カンボジア水稲文化調査行. 65. これで十分なのであろう。 移植した苗は、上の部分を鎌で切り取られている。大きな百が水田に活着し、早く根をはり茎 を伸ばすための工夫であろう。日本でも葉タバコの収穫後に普通稲よりも遅れて植える大きく成 長した稲苗は、苗の上端を切り落とす。. 3. 水田と潅概 アンコールにあるバライや池は、東西方向に長い形態である。これは等高線に沿って堤を築き、. 少ない労力で人工的なバライや池を築いた工法の結果である。河川はプノン・バケン山に源を発 し、ロリュオス川とシェムリアップ川とは、ほぼ北から南に向かって流れ、ブオク川は西南方向 に斜め方向で流れ、最後にはいずれもトンレサップ湖へ流入している(図3)。バライや池の水 は、いずれも河川を通じて、最終的にはトンレサップ湖‑と注いでいる。北バライと東バライは、 20m等高線内にあり、西バライとインドラタクーカは、 10m等高線の中にある。 5m等高線以下 は、雨季には水に浸かる氾濫原である。 アンコールの周辺で、濯概施設を河川や水田で注意深く観察したが、古くからの取水堰や給排. 水の水路を見出すことはできなかっ た。わずかにボルボト政権の時に新 しく掘削されたという水路や取水堰、 放水路を観察するにとどまった。 西バライ周辺の水田や東バライの 水田では、田の畔越しに給排水する 田越し潅概である。田植えをしてい る水田でも観察したが、水路からの 取水や水田から水路への排水は見ら れなかった。 西バライから新たに設けた放水ゲー トを通じて流される水は、西バライ の湖面とは5m以上の落差がある。 このためバライの南側では、水田面 と水路との問に2‑3mの高低差が 存在する。西バライの放水を水田の 濯概に使うためには、水路から2m 以上、揚水用踏み車かポンプで汲み 上げる必要がある。現状で見る限り、. 図3 河川水系と等高線.
(8) 66. 西バライから濯概水路によって直接各水田に導水し、給水するのは不可能である。 また東バライの中にある農家で、聞き取り調査を実施した。畑作と水田稲作とを行ない、作付 け期の異なる水田を複数の場所に分けて所有し、牛を使って耕起するという。稲の種類には、昔 から使っている品種と政府が推奨している品種とがある。その種籾を見本に少し分けて貰ったが、 どちらもインディカ種の長粒米である。自宅の周りに家庭菜園や果樹園を作り、野菜や豆,瓜、 果物など主なものは自給白足でまかなえるという。道路に面して作業場の中庭があり、高床の住 居と稲籾を取り出した倉庫、牛小屋などが配置されている。小屋の横に木舟がおかれ、大きなコ ンクリート製の水聾も据え付けられていた。ここでも雨季と乾季に備えている。鶏が走り回る屋 敷地内には息子夫婦の家も建ち、榔子や果樹も植えられていてかなりの広さである。 自宅周辺の水田には、すでに一面に稲が移植されて、見渡すかぎりの青田となっている。水田 の土を手に取ると、砂まじりで思ったより粘性が少ない土壌である。それぞれの水田は、幅30cm ほどの畔で仕切られているが、畔は予想以上に固く締まっている。港概水路はなく、水田の中を 水が流れている。またより低い位置では、水の流れが強すぎて、稲を植えられない。そこには簡 単や水蓮、ヰンポウゲのような水生植物が生えている。 ここは東バライの祉なので、水のかかりは十分なようで、新たに造られたコンクリートの幹線 水路を水が勢いよく流れていた。 Ⅲ 1. 寺院とバライと都市. バライとタタ‑カ、スラ、ラ‑‑ル. それぞれの人工湖や人造池の用語は、タクーカはクメール語で「聖なる池」を意味し、バライ はサンスクリットのパーラヤナが語源で、 「堤」や「横切る行為」の意味がある。ラハールはパ‑ リー語のラハダを語源と七、 「神聖な池」を、スラはパーリー語のサラスを語源とし、 「池・水溜 り」を意味する。いずれも池や水溜り・堤など、水と関係した言葉である。 西バライの調査で、バライ南岸中央部にある西メボンへ渡るボート乗り場に行った。その東隣 りには新しく作られた放水ゲートがある.近くで子供たちが岸から池に飛びこんだり、タイヤチュー ブの浮き輪で水遊びに興じている。 50年前の私の子供時代と変らない伸び伸びとした世界が、そ こには広がっていた。 この放水路から流れ出した水は、 8mはどの川幅で南に向かってゆっくり流れている。放水口 の深みで魚釣りを楽しむ人々が数人いて、熱心に釣り糸を垂れていた。しばらく見ていたが一向 に釣れないので、もっと下流にいってみると、水路の中で投網を打っている人を見つけた。魚寵 を腰に下げ膝まで水につかりながら、水溜まりの魚を狙ってサッと投網を投げた。慎重に網を絞っ て手繰り寄せたが、獲物は入っていなかった。目が合うと照れくさそうに笑って、もっと下流‑ とさがって行った。今日の夕飯に使うオカズ採りをしていたのであろう。.
(9) カンボジア水稲文化調査行. 67. つぎにはバライの建設順序について、簡潔に述べておこう(図4)。 ①アンコールで最初に作られたロレイのバライは、インドラパルマンによって880年頃に造られ、 インドラタクーカと呼ばれた。東西3200m、南北750mの規模である。その後、人造湖の南に 王宮や寺院が建設された。すでに陸地化しているが、濯慨用の水門や水路などは見出しがたい。 また寺院、宮殿の北にあり、南の水田地帯とは離れていて結びつかない。. 図4. バライの建設順序 1東バライ(890年建設) 2西バライ(1040年建設) 3北バライ(1180年建設).
(10) 68. ②東バライは、 890年頃ヤショパルマンによって築かれ、ヤショダラタクーカとも呼ばれた。規 模は7000mx1800m、面積1260haの大きさである。湖の中には、碑文によると952年にピラミッ ド型の両堂をもっ東メボン寺院が建立された。東メボンでは、膳から水を流す青銅像があった と『真月鼠風土記』に周達観は記述している。タクーカの南にはラージェンドラヴァルマンⅡ 世によって新たな王宮や都城が建設された。ここでもバライと水田との問には、王宮や寺院が 計画的に配置されている。今では湖が泥で埋まり、すっかり水田に変っている。近くの農家で 聞き取り調査をおこなったことはすでに記した。かつて湖の中にあった東メボン寺院には、今 では車で南北に横断して自由に行けるありさまである。ちょうど東メボンのお寺で宗教行事が あり、参観させていただいた。村人が熱心に祈る姿が印象に残った。ここでは仏教が生活の中 に活きている。東バライの水は、現在ではアンコール・トムの環濠に注ぎ、そのあと西バライ に流れ込む。いっぽうアンコール・ワットの環濠に注いだ水は、シェムリアップ川に還流して いる。濯概設備や濯概水路を伴わず、水田濯概に使われた考古学的証拠は認められない。 ③1040年頃にス‑ルヤパルマンⅠ世によって造成された西バライは、 8000mX2100m、面積1680ha のクメールで最大の人造湖である.アンコール・トムからの水が主な水源である。今では東半 分が泥で埋まって水田に変り、かろうじて西半分に水が残っていて、昔の面影を想像できる。 さらに湖の中央には、東メボン同様にヒンドゥー教寺院の西メボンが建てられ、王が湖をわたっ て寺院に参詣したと碑文に記されている。現在は寺院遺跡が破壊されて、遺構の残りが悪い。 しかし1932年に発掘調査によって寺院の周壁や基壇を検出し、青銅製の巨大なヴィシュヌ神像 が井戸状遺構から発見され、プノンペンの王立美術館に展示されている。神像は、上半身のみ で下半身は壊れて失われているが、そのお陰で銅像の鋳造方法を細かく観察できた。眉、日、 口髭、顎嶺は象蕨のための彫り込みがあり、また窪んだ目には、眼玉を族入していたようであ る。時代のながれか東西どちらのメボンも、今では上座仏教の寺院が建てられている(6)。池 の周囲には、水門や放水口などを備えていない。また水田に給排水する濯概水路は、西バライ 周辺では認められない。西バライは、巨大な湖ではあるが、濯概用の貯水池とは言えない。 ④ジャヤパルマンⅦ世によって1180年頃に造られたニヤック・ボアンの北バライは、ジャヤククー カとも呼ばれる。 3700mx900mの規模で、その中央にニヤック・ポアン寺院を建立している。 バライの南には東バライやアンコール・トム、アンコ‑ル・ワットが築かれ、周辺に水田はな い。シェムリアップ川からの水を、ブリヤ・カーンの環濠、アンコール・トムの環濠などに注 水するが、水田とつながる潅概水路は見あたらない。やはり濯概設備を持たず、水田濯概に用 いられた痕跡を見出せない。 ⑤スラ・スランは、アンコールでジャヤパルマンⅦ世によって造られた最後のバライである。 700mX350mの大きさで、四方の土手には砂岩で階段状の護岸をめぐらせ、湖に入るためのテ ラスと階段を設けている。中央にはメボン寺院があったというが、今は水没している。この人.
(11) カンボジア水稲文化調査行. 69. 造湖は、碑文によると「王の休浴場」と呼ばれていた。この人造湖は、底にラテライトの敷石 があり、濯概貯水池ではなく、休浴の池と考えられている。. 2 バライは濯概用貯水池か フランス極東学院のベルナール・p・グロT)工は、 『16世紀のアンコールとカンボジア』 1958年 と『アンコール水利都市論』 1979年とで、東西35km、南北22kmにわたる「アンコール水利都市論」 と「アンコール水利網区域」を提案し、アンコールの高度な水田濯概組織網を唱えた(7)。しか しこの水田潅概組織説には、いくつかの疑問がある。 グロリ工は、バライに水門や放水口がないことについて、 「(堤に)臨時の排水口を使い、水を 抜いた後を土砂でふさいだ」と想定している。バライが港概施設なら、都市水利と同じように堤 にアーチ形水門を作って水をコントロールする技術は、当時存在していた。しかし濯慨用の放水 の必要が無かったために、水門は造られなかったのである。溜池や貯水池の堤をきることがどの ような危険や結果をもたらすかは、農業に携わる者なら誰でも知っている。堤やダムが決壊し、 下流が洪水に襲われる恐れのある危険な放水方法は、農民は決して採らないだろう。池の中央に 寺院を建立し、そこに王が参詣して水垢離までとるという碑文の記述から、バライは聖なる水を 蓄える場としての宗教的な意義が高いとみなせる。 このようにアンコール都市中心部のバライや人造湖は、水田稲作のための水門や潅概水路など の設備をもたず、直接に水田と繋がっていた施設も見あたらない。人造湖は、水門、水路などの 濯概施設や遺構もなく、濯概用貯水池とみなすことはできない(8)。 1296年にクメールを訪れて1年近く滞在した中国人の周達観は、元朝へ帰国後に『真臓風土 記』を著している。その見聞録の中に、東バライとジャヤクタ‑カについての記載がある. 「東 の池は、城東の十里に在り。周囲は百里ばかりで、中央に石塔、石室がある。塔の中に臥銅仏が 一体あり、膳の中から常に水が流れ出ている」と記述している。これは東バライとその中にある 東メボン寺院の様子を示した内容である。メボンは、クメール語で「恩恵あふれる母」の意味で ある。多少の誤りはあるものの、詳細に事物や状況を見極め、丁寧に記述している点が、今でも 参考になる。横になった青銅像が、膳から水を出しているという鋭い指摘は、歴史上の貴重な観 察記録である。 さらに「北の池は、城北の五里に在り。中に金の方塔一座がある。石の部屋が数十室あり、 (口から水を吐く)金の獅子、金の仏、銅の象、銅の牛、銅の馬の頬が、皆それぞれある」と記 している。これはジャヤククーカと池の中央にあるネアック・ポアン寺院の描写である。ジャヤ パルマンⅦ世が1190年ころに築いた最後の人造湖・ジャヤククーカでは、湖の中央に350m四方 の人工島が造られ、ニヤック・ポアン寺院を建立している。なかに70m四方の池があり、真ん中 に円形基壇の上に砂岩製の中央両堂が建てられ、リンガが安置されていた。両堂の基礎部分には.
(12) 70. 2匹の蛇が絡み合っている。四辺に付属して一段低い方形の小池が設けられ、中央池の暗渠樋を 通じて東の神、西の牛、南の獅子、北の象と、頭部をかたどった吐水口から、聖なる水が流れだ す仕組みである。ネアック・ポアンの塔と諸像は、今でも現地で見ることができる。ただ金属製 ではなく、残っているのは石製で、金箔や銅板で荘厳していたのかもしれない。ここでも人造湖 の水と神像から流れ出る水は、聖なる水、聖なる池として信仰の対象であったと想定できる。. 3. 西メボン寺院の発掘とヴィシュヌ神像 9月2日に私たちはプノン・バケン山にのぼり、沈む夕陽と幻想的な寺院や尖塔のシルエット. をいっまでも眺めていた。夕陽がまさに沈もうとするその時、広大な西バライの湖面が真っ赤に 染まった光景は、今でも印象に鮮やかである。 8000×2100mの巨大な人造湖・西バライの中央には、島が造られ西メボン寺院が建てられてい る。 1936年にこの寺院をアンコール遺跡保存事務所のフランス人モリス グレースやジャック デュ マルセイなどが発掘した(9)。池を掘った土で島を造成し、護岸に砂岩の壁をめぐらしているの を検出した。その上に一辺100mの方形石組みを築き、寺院の敷地を造成していた。中には10m 四方の砂岩敷きの基壇があり、中央に深さ2,7mの不思議な遺構を掘りこんでいる。遺構は、上 部が四角、中部が八角、底部が円棒状に造られ、リンガを逆さまにしたような奇妙な構造である。 その底には銅製のパイプが埋められ、西バライの湖水に通じているようである。 さらに池の底から青銅像を掘り出した。欠損しているが、上半身のみで1,14mX2,17mあり、 復原すると3m以上に達する巨神像となる。分厚い1 cm以上の頑丈な壁体で、型持たせ痕の残る 鋳造製である。今は左腕の2本が欠失しているが、本来は4本の腕をもっヴィシュヌ神像で、横 たわって手枕をし、うたた寝している様子を表現している。この出土像こそ、プノンペン王立美 術館で見たあの奇妙な違和感のある青銅像だったのである。東メボンの青銅像と同じように、西 メボンのヴィシュヌ神像も同じ装置と機能で、聖なる水を流し続けていたのであろう。 ところでリンガとヴィシュヌ神とは、切ってもきれない密接な関係がある。シェムリアップ川 の源流にあるクパル・スピアンでは、リンガとヴィシュヌ神が川の床や巨岩にところ狭Lと彫り 込まれている。ヴィシュヌ神が千の頭をもっ龍蛇・アナンタの上に寝そべり、勝から生えた蓮華 の中からブラフマ‑神が化生する様子を表し、やがて悪を懲らしめるためにヴィシュヌ神が長い 眠りから目覚める情景をひとっの場面で表している。このモチーフは、ヒンドゥー教の岩画や壁 面レリーフによく登場する。またヴィシュヌ神は、蓮華上のブラフマー神と共に表される場合と、 妃のラクシュミ‑を膝に乗せている場面とが数多く表現されている。 西メボンで発掘された井戸状リンガ遺構と銅パイプと青銅のヴィシュヌ神像とは、クパル・ス ピアンのリンガとヴィシュヌ神、それに周. 達観の東メボンやネアック・ポアンでの観察記録を. 思い起こさせる。それらを総合して解釈すれば、西メボンの寺院では、リンガの形をした井戸を.
(13) カンボジア水稲文化調査行. 71. 掘り、その上に青銅像を横たえ、西バライから引き込んだ銅のパイプで水を導き、ヴィシュヌ神 の勝から水を噴水のように流していたのであろう(図5)。碑文によると、西メボン寺院には、 ジャヤパルマンⅦ世が参詣に訪れたと記されている。水に関わる厳粛な儀式が、王やバラモン僧 によって、たびたび執り行われたのである(10)。 ヒンドゥー教徒は、聖なる川や聖なる水での休浴を尊ぶ。寺院では立派な休浴場が必要であり、 都市では多くの人々が集まり、 1日に数回は休浴できる施設が欠かせなかった。 「都市を築くと きは、彫像を安置し、財貨を供え、聖なる池を掘った。それから園地を作り、池を掘り、土手を 築いた」と碑文に書かれている。往時の人々は、沫浴や水浴が積れや汚れ、汗を落とし、聖なる 水が心身を清めてくれると信じていた。また王やバラモン僧、聖者が休浴した池は、清浄であり、 かつ御利益のある聖なる水と考えられてもいた。 周達観によると「その地は炎熱に苦しむ。毎日、数回は水浴し、夜になっても1‑2回は水 浴しないわけにはゆかない」と述べ、 「男女を分かたず、みな裸体で池に入る」とし、 「城中の婦 女は、三々五々みな城外に至り、川の中で水浴する。一中略一川に寄り集まる者は、ややもすれ. 図5. 水を流すヴィシュヌ神像(復原図).
(14) 72. ば千をもって数える」と記している。人々は、亜熱帯での暑さを避け、身体を清潔に保ち、なお かっヒンドゥーの教えにも適うのであれば、 1日数回の水浴や休浴を欠かさなかったに違いない。 西メボンの寺院は、こうした水に関わる祭儀のための寺院であった。寺院の中央にはリンガが 掘られ、ヴィシュヌ神の身体から流れる神聖な水は、広大な西バライの水に大いなる力と恩恵を 与えていた。このため人々は、バライでの水浴や休浴を欠かさず、時には千をもって数えるほど の人々が、一度に湖に入る場合もあったのであろう。 寺院や王宮に付属するバライや池は、都市の水利とともに水浴、沫浴の場を都市住民に提供す る施設であったと考える。また多くのバライや池には、その中央にメボンなどの寺院を建立して おり、バライとメボンとの宗教的な繋がりが想定できる。水門や配水口など濯概用の設備や濯概 水路を持たない点から見て、農業用の溜地や潅概用貯水池ではない。農民のために巨大な濯概用 貯水池を造ったのであれば、全国各地で濯概用貯水池が遺存していても良いはずである。しかし 潅概池の必要な水田地帯には、溜池や沼はあってもタクーカやバライは建設されていない。巨大 な人造湖は都市の周辺や寺院に併設されていて、王やバラモン、都市住民のための生活用水や水 浴や休浴のために使われたのであろう。西メボン寺院の横臥し膳から水を流すヒンドゥー教のヴィ シュヌ神像は、旧世界と新世界との間にあって平和な時期を過ごす象徴であり、信徒にとっては 聖なる水をあふれさせるありがたい神であったに違いない。 アンコール時代以後に失われたものは、アンコール王朝であり、古いヒンドゥー教や大乗仏教 であった。またこれに伴って王宮や寺院、都市、環濠やバライも失われ、機能を停止した。しか し上座仏教や水田農業などは、力をうしない消滅することはなかったのである。裏を返せば、バ ライや池が、農業のための貯水池や濯概水路としては、利用されていなかった事実を明確に示し ている。 寺院や王宮に付属する巨大な人造湖は、ヒンドゥー教の乳海撹拝の説話にあるように、人々に 幸をもたらす聖なる水を育む巨大な装置であった。その効果を高めるための設備として湖中の島 に、メボン寺院やニヤック・ポアンが建設され、王が厳粛な儀式によってさらに聖なる力を加え たのであろう。また源流の川岸や川底に刻まれたヒンドゥー教の神々やリンガやヨ二は、この聖 なる川の水が都にまで流れ下り、寺院や王宮や人々の日常生活に使われることを想定して、聖な る力を増強する仕掛けとしても刻まれたのであろう。 人造湖のバライは、濯慨用の貯水池ではなかった。バライの水は澗れ、今まさに水田や畑に還 ろうとしている。たとえバライが埋まっても稲作に不便を感じなかったし、凌藻もしなかったの である。一方でブノン山から湧き出し、リンガやヨ二やヒンドゥー教の神々に力付けられた聖な る水は、数千年を‑ても潤れることなく、植物や動物や人々に、いまでも幸せを斎してくれ続け ている、とカンボジアの人々は固く信じている。暮れなずむアンコール・トムの環濠で、衣服を つけたまま休浴する人々を何度か目撃した。今日の1日を感謝し、明日の平安を願って、敬虞な.
(15) カンボジア水稲文化調査行. 73. 祈りをささげる人々の心のなかには、クメールの信仰や伝統が受け継がれ続けているのである。. 引用文献 (1)横倉雅章「東南アジアにおける稲作の始まり」 『東南アジア史1』 2001年、岩波書店。 (2)中川. 武. 監修『アンコール遺跡調査報告書』 1997年、日本国際協力センター。. (3)平野久美子『カンボジアは誘う』 2001年、新潮社。 (4) i. デルベール著、及Jlt浩吉訳『カンボジアの農民』 2002年、風響社。. (5)桜井由粥雄『米に生きる人々』 2000年、集英社。 (6)ヴァン・モT)ヴェン「アンコール水利都市論と遺跡整備問題」 『アンコール遺跡と社会文化発展』 2001年、 連合出版。 (7)ベルナール・p・グロリエ著、石津良昭・中島節子訳『西欧が見たアンコール』 1997年、連合出版。本書 は『16世紀のアンコールとカンボジア』 1958年、フランス大学出版の翻訳である。このほかに「アンコール 水利都市論」 BEFEO LXVI、 1979という論文があるが、時間がなくて論文にあたることができなかった。 (8)ラオ・キム・リャン「アンコール旧都城を取り囲む文化環境」 『アンコール遺跡と社会文化発展』 2001年、 連合出版。 ( 9 ) Jacques Dumarcay Michael Smithies The Site of Angkor 1998 Oxford University Press. (10)石津良昭『古代カンボジア史研究』 1983年、国書刊行会。 追記 この調査は、学術振興会の科学研究費補助金、総合研究B 「東アジア村落における水稲文化の儀礼と景観の研 究」 (代表:海老滞衷)によるものである こなった。メンバ‑の海老津. 2006年7月31日〜8月5日までの間、カンボジアでの現地調査をお. 裏、菊池徹夫、深谷克巳、堀口健治、紙屋敦之、案内役を務めていただいた三浦. 恵子さん、カンボジアでお世話になった皆様に、心から感謝いたします。 また本稿作成にあたって地名や用語についてカンボジアからの大学院留学生チュン・メンホン君、図版作成に ついては助手の持田大輔さんに助力を得ました。記して感謝いたします。.
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