――記憶の集合性についての批判的考察
滝澤 克彦
長崎大学多文化社会学部・多文化社会学研究科『多文化社会研究』 年第 号 抜刷
モンゴルの大粛清と「死者の記憶」
――記憶の集合性についての批判的考察
長崎大学多文化社会学部
滝澤 克彦
はじめに
本論の目的は、 年代のモンゴルにおいて行われた大粛清の事例を題材としながら、
「死者の記憶」という概念のとり扱い方について方法論的な考察を加えることである。特 に、「死者の記憶」が個人を超えて、社会的・集合的なものとして論じられる時の問題点 を批判的に検討する。
過去の戦争や自然災害をめぐって「記憶の継承」が叫ばれる今日、「死者の記憶」を扱 う研究が増えてきているが、その一方で、それらの研究の多くで、「死者の記憶」という 概念の意味するものについて、十分な吟味がなされていないように思われる。曖昧さを残 したままそれらのテーマに取り組むことは様々な問題をはらんでいる可能性がある。特に 本論が焦点を当てたいのは、その記憶の社会性・集合性についてである。まさに「記憶の 継承」という言葉に示されるように、しばしば「記憶」は個人を超えた社会的あるいは集 合的なものとして表現される。しかし、そのような記憶は個人の記憶とどのような関係に あるのか、あるいは、そもそも個人を超えた記憶というものは存在するのだろうか。この 点の省察なしに「死者の記憶」を社会科学的な分析概念として用いることはできないはず である。ここでは、そのような問題意識にもとづき、具体的な事例をとりあげながら、そ れを「死者の記憶」という概念で論じることの意味を批判的に考察する。
分析概念としての「死者の記憶」のあいまいさ
「死者の記憶」は、「死者」と「記憶」という二つの概念で構成されるが、そのいずれも 単独で用いる際にさえ厳密な定義が求められ、慎重にとり扱われるべきものであることは 明らかである。一方で、近年「死者の記憶」は、しばしば社会科学における分析概念とし て用いられ、特に宗教研究の分野において顕著である 。
原 著 論 文
例えば、宗教学者の鈴木岩弓は「死者を忘れない―― 死者の記憶 保持のメカニズム
――」と題する論文において、東日本大震災の犠牲者へ向けられた慰霊碑にしばしば刻ま れる「あなたを忘れない」という言葉をとりあげ、その「石碑は、その後長年に渡ってそ の地に立ち続けることになる。とすると将来、この石碑を訪れる人々が、震災犠牲者個人 のことを知らない人で占められる日が来るであろうことは必至である。(中略)そうなっ た時、果たしてこのメッセージはどのような意味をもつのであろうか」と問題提起し、そ のために「死者の記憶」のメカニズムを検討する意義を強調している(鈴木 : )。
一方で、このような形でしばしばとり扱われる「死者の記憶」という概念そのものにつ いては、先述したように深く省察されることはまれである。先の例で言えば、鈴木は「死 者の記憶」を「遺された人がもつ死者に関する記憶」と定義づけ、その「死者」と「遺さ れた人」の関係性に焦点を当てて分析を行っている。しかし、その際、「死者」と「記憶」
の意味するものについては明言していない。すなわち「死者」とは、幽霊などのように実 在的な他者として認識されるものなのか、個人の記憶のなかにある過去の姿なのか、遺し た言葉や名前など死者に関する知識や情報なのか、それらを通じて想像/創造されるイ メージなのか、図像など死者を表わす何かなのか。その意味するものは明白ではない。ま た「記憶」についても、鈴木は世代を超えて対面経験のない人にまで「死者の記憶」が保 持されていくメカニズムを解き明かそうとするが、それをあえて「記憶」という言葉で表 現する意味については論じていない。鈴木自身が、慰霊碑を訪れる人について「覚!え!て!い! な!い!人」ではなく「知!ら!な!い!人」と表現しているように、それは「知識」「情報」「記録」
などの言葉に置き換えても問題なさそうである。このような「死者」と「記憶」の意味を めぐるあいまいさは、「死者の記憶」を扱う他の研究者の論考にも広く見られる。
一方で、記憶に触れずに死者について論じることが難しいのも事実である。東日本大震 災に関連した「死者」をとり扱った高橋原と堀江宗正( )による『死者の力――津波 被災地「霊的体験」の死生学』では、気配や夢などを含めた「死者」との接触体験が生き ている人々に与える影響が論じられている。そこで「死者」とは霊的実在を指し、その意 味するものは明白である。堀江は、その霊を特に遺された人にとっての親しさを基準に「身 近な霊」と「未知の霊」に分けた上で、両者についての人々の反応や語りを対比し、特に
国立情報学研究所の論文検索データベース(https://ci.nii.ac.jp/)によれば、「死者の記憶」をタイト ルに含む論文の数は 年以降 件あり( 年 月 日現在)、そのうちの 件が宗教学あるいは その隣接分野(思想史等)の研究者によるものである。他には、文学研究者によるもの( 件)が多 い。
両者を決定的に分けるのは、親しい間柄ゆえに「育まれた個人的記憶」であるとしている
(堀江 : )。ここでは、「死者」の認識のされ方において「記憶」そのものが果た す役割の重要性について認識されているが、一方で、死者と記憶の関係についてそれ以上 踏み込んだ考察はなされていない。
死者と記憶の関係については、中国宗教研究者の池澤優による論考がある。彼は、「『死 者のたましい』とは『死者についての記憶』と置き換え可能なもの」(小松 : )で あるという小松和彦の言葉を引きつつ、「死者イメージ」の基本的あり方について述べる。
つまり、( )死者は多くの人に記憶されるために、常に複数の像を併存させること、( ) 死者と遺族の関係がパーソナルなものであったとしても、特定の死者の記憶が「分有」さ れるため、「それが記憶となった段階で社会性を帯びることは避け得ない」こと、( )記 憶とは後から構築される「物語」であるから、死者についても個人レベル・社会レベルの いずれにおいても「物語」として存在し、記憶する主体の状況の変化に伴い、絶えず再編 されること、( )死者の記憶は過去に関するものだが、基本的に未来を志向すること、
である(池澤 : )。しかし、ここでも、記憶の「分有」という仕組みが、個人と社 会との関係の中でいかにして成り立つのかという点についての詳細な説明はない。記憶の
「分有」や「社会性」という考え方は、必然的に個人を超えたものとしての記憶の存在を 前提としているが、そのような認識が共有される背景には、M・アルヴァックス( ) やP・ノラ( )によって論じられた「集合的記憶」についての理解があるのではない かと思われる。しかし、それらの議論の「死者」をめぐる実証的研究への適用は、「記憶」
という概念が指すものについて慎重に吟味した上でなされなければならないだろう。
以上を踏まえながら本論では、「モンゴルの大粛正」をとりまく諸事象をとりあげなが ら、「死者の記憶」という概念の問題点について批判的に考察する。
モンゴルの大粛清と名誉回復
世紀初頭、清朝の支配下にあったモンゴルの人々は、辛亥革命以降の独立へ向けたプ ロセスでソビエトの援助をとりつけ、それによって 年にモンゴル人民共和国を建国す る。しかし、このような独立の経緯から、モンゴルは次第にソビエトの強い影響下に入り、
独立国でありながらソビエト連邦の「衛星国」と揶揄されるような状況へ置かれていくこ とになる。早くも 年代に、ボドーやダンザンといった現役の首相が次々と失脚し、処
原 著 論 文
刑されたことなどによって、当時のモンゴル側指導者たちは恐怖を植え付けられ、ソビエ トに対する忠誠を強いられていくことになった。
社会主義体制の確立とともに、当時のモンゴル社会で強い影響力をもっていた仏教も、
社会主義イデオロギーの中核をなす無神論・反宗教政策の標的となっていった。特に、た びたび起きた寺院の蜂起などから、ソビエトは次第に危機感を募らせるようになっていく。
このような危機感を背景に、 年、ソビエトにおけるスターリンの大粛清に呼応する ように、モンゴルにおいても恐怖の嵐が吹き始める。折しも、日本の侵出によって極東の 緊張が高まってきた時期でもあった。粛清対象者には反革命と同時にスパイの嫌疑がかけ られ、十分な証拠も示されないままノルマのように処刑が行われた。このような事態は 年まで続き、その間の犠牲者は、当時の人口 万人ほどに対して少なくとも 万 人以 上であったと考えられる。特に、処刑された者のうちの 万 人あまりが実に僧侶であ り、当時 ほどあったとされる寺院の全てが 年までに破壊あるいは閉鎖されるなど、
仏教に対する弾圧は熾烈で、生き残った僧侶もそのほとんどが俗人へ還された。
また、仏教とともに標的とされたのは国境をまたいでロシアとモンゴルの地に居住して いたブリヤートと呼ばれるモンゴル系の人々である。彼らの一部はロシア革命の戦火を避 けて、モンゴル人民共和国に含まれることとなる地域へと大挙して移住していた。そのこ とは、ソビエトに対する潜在的な抵抗勢力であり、それゆえ日本との密通者という嫌疑を かけられる一つの要因となってしまった。実にその成人男性の半数近くが処刑されたとも 言われる。
これらの出来事が、一般に「モンゴルの大粛清」と呼ばれているものである。
それから 年後の 年、モンゴル人民共和国では、ベルリンの壁崩壊や東欧革命を受 けて民主化の気運が高まり、同年末に起きたデモをきっかけに体制転換が進められた。
年 月には、憲法改正によって人民革命党による一党独裁体制が放棄され、それ以降、複 数政党制による自由選挙の実施や市場経済への移行が順次着手されていく。そして、
年 月 日に施行された新憲法によって国名も「モンゴル国」となり、国家としては完全 に社会主義を手放すこととなった。
このような「民主化」と呼ばれるプロセスにおいて、粛清の歴史は重要な役割を果たし ていくこととなる。それは、モンゴル国民にとってソビエトによる民族抑圧のイメージと 結びついたものであり、それゆえ民主化によって清算されるべきものだったからである。
早くも 年には粛清被害者の名誉回復と部分的な補償が開始された。民主化以前にも「名
誉回復」が行われることはあったが、社会主義体制の枠内で行われたものだったのに対し て、民主化は社会主義という過去そのものを対象化し、改めて粛清の歴史を捉え直す機会 となった。そのような意味で、粛清の過去をもっとも身近なところで清算しなければなら ない立場に立たされたのは、その主体でもあった人民革命党だった。そのことはまた、粛 清における「死者の記憶」が政治的次元に巻き込まれていく一因となった。
粛清と「死者の記憶」
モンゴルで、人民革命党が民主化を経ても引き続き政権を維持することができたのは、
民主化勢力の運動を触媒としながらも、人民革命党自身が率先して改革を進めることでそ の主導権を手放さなかったことにある。しかし、このような連続性ゆえに、人民革命党は
「粛清」という拭いがたい過去を自ら清算しなければならない宿命を背負ったのである。
そのとき、重要な役割を担うことになったのが粛清に関わる人物を表現する事物である。
まず、国立中央図書館の前に立てられていた高さ メートルのスターリン像が 年 月 という民主化プロセスの極めて早い時期に撤去された。それは、大粛清を含めた人民革命 党の負のイメージをもっとも強くまとったものだった。さらに、人民革命党は、独裁的な 権力によって粛清を主導したチョイバルサン、および、その後を継いで 年から 年 までのあいだ権力の座にあったツェデンバルという「独裁者」に対する批判を強め、その ことによって自らもその被害者であることを強くアピールしようとした。
一方で、「正しい社会主義」の象徴とされたのはレーニンだった。改革が本格化する 年 月はレーニン生誕 周年と重なり、人民革命党機関紙のウネン紙上には「レーニン 主義者的改革」「今日こそレーニンを」「レーニンとレーニン主義を守ろう」などの文字が 躍った。スターリン主義の行き過ぎを批判し、レーニン主義への回帰を叫ぶロジックは、
年 月にソビエト連邦第 回共産党大会でフルシチョフが行ったスターリン批判の まったくの焼き直しである。このような対比は一つのレトリックであったが、一方で人々 の歴史的感情からそれほど乖離したものでもなかった。そのことは、首都ウランバートル の中心部ウランバートルホテルの前に、 年までレーニン像が残り続けていたことが示 している(写真 )。民主化後の格差拡大や治安悪化などによる社会不安のなかで社会主 義時代へのノスタルジーも聞かれるような状況にあって、レーニンとスターリンという対 比は社会主義に対する人々の両義的な感情を体現していたと言ってよいだろう。
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一方で、スターリンの影響の下、モンゴルにお ける大粛清を主導したチョイバルサンの意義も両 義的であった。超大国の力に翻弄されながらも独 立を守り続けようとしたモンゴルの如何ともしが たい運命を彼自身が体現していたからである。彼 の像が、現在もモンゴル国立大学の前に立ち続け ていることは、人々のそのような感情を反映して いる(Kaplonski 2002: 161)。
しかし、人民革命党自身による過去の清算は、
民主連合などの対抗勢力からは不十分なものと受 け止められた。裏返せば、対抗勢力にとって人民 革命党に付与された「粛清」というスティグマは 格好の標的であり続けたのである。それゆえ両勢 力の対立軸には、常に粛清の問題が絡んでいくこ
とになった。 年の総選挙の大勝によって、民主連合は建国以来政権を維持し続けてき た人民革命党から初めてその座を譲り受けたが、同年 月には毎年 月 日(大粛清の始 まりとされる 年 月 日に因む)を公式な「政治的粛清被害者記念日」とすることを 決議し、また 年には国会議事堂に隣接する国立歴史博物館の前に粛清被害者記念像を 建設するなど、「粛清」の歴史を積極的に前面化してきた。さらに 年 月には、人民 大会議における人民革命党との度重なる論戦を経て、政治的粛清被害者名誉回復補償法を 成立させている。
粛清被害者記念像の前面には「死刑 のないモンゴル国」という文言が刻ま れたが(写真 )、そこには粛清とい う大規模な冤罪の歴史を単なる「記 念」ではなく、「教訓」として残そう とする意志が込められている。 年、
民主党出身の Ts・エルベグドルジ大 統領は、死刑判決の減刑と死刑執行の 停止を宣言し、 年にモンゴル国は
写真 在りし日のレーニン像( 年)
写真 粛清被害者記念像
死刑撤廃条約に批准した。人民革命党は死刑制度に対しては存続の立場をとり続けたが、
民主連合の中心であった民主党が再び単独政権にあった 年 月、政府はモンゴル国の 死刑制度撤廃を宣言、 年 月には、刑法より死刑規定が削除された。(ただし、
年に再び政権を取り戻した人民党(旧人民革命党)政府により、再び死刑の復活が議論さ れている。)
民主連合政権による「粛清」の前景化と呼応するように、 年代後半から多くの粛清 関連書が出版されている。 年には少将A・ドンボライによって『抑圧―― ・ 年 代にモンゴル人民共和国で起きた粛清』が公刊される。本書は、粛清被害者家族、粛清生 存者、粛清実施者らへのインタビューや公文書にもとづき粛清の実態を描き出したもので ある。さらに、 年にはG・アキムによる『粛清された運命 』、 年には歴史家M・
リンチンによる『政治的粛清と名誉回復』、 年にはD・ウルジーバートルによる『な ぜ、 年に?』などが出版されている。
一方、前景化する「粛清」問題に対して、人民革命党も、 年には機関紙「ウネン」
紙上で粛清関連の記事を多く掲載し、特に歴史的には人民革命党自体が被害者であり、民 主化前と後を通して被害者の名誉回復にいかに努めてきたかを訴えている(「モンゴル人 民革命党自身が粛清された」「モンゴル人民革命党は被粛清者の名誉回復に尽力してき た」 年 月 日〜 日)。
社会主義という過去を捉え直す上で、 年は重要な意味をもつ年となった。それはちょ うどモンゴル帝国建国 年目にあたり、社会主義時代にソビエトの下で自由に賞賛する ことの叶わなかったチンギス・ハーンを民族の英雄として改めて讃える年となったからで ある。(当時の政権は、人民革命党と民主勢力の連立政権であった。 年の選挙で人民 革命党に大敗した民主党は、 年の選挙で半数近くの議席を獲得し、人民革命党との大 連立によって政権を何とか手にしていた。)この年、国会議事堂前のスフバートル広場に はチンギス・ハーンの巨大な銅像が完成するが、そこはかつて、社会主義革命の英雄スフ バートルと「独裁者」チョイバルサンの霊廟の在所であった。その建設のため、 年に は、霊廟に安置されたスフバートルとチョイバルサンの遺体が取り除かれ、荼毘に付され た後、ウランバートル市東部の要人墓地に埋葬されていた。この改葬は、社会主義から民 族主義への完全なる移行を示す象徴的な出来事となった。さらに、 年には、この広場 の名称自体がチンギス・ハーン広場と改名されている。一方で、霊廟は撤去されたものの、
元の名称の由来となったスフバートルの騎馬像は、現在も広場の中央にチンギス・ハーン
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に対峙して立ち続けている(写真 )。
スフバートルは、また現在でも トゥ グルグ以下の紙幣の肖像となっており
( トゥグルグ以上の紙幣はチンギ ス・ハーンの肖像)、これらのことも 先述したような社会主義の過去に対す る評価の両義性を表していると言える だろう。
先述したように、老舗のウランバー トルホテル前には、レーニンの像が
年の建設以来ウランバートル市の象徴として立ち続けていた。しかし、 年 月、
それは撤去された。当日の共同通信は、市長のバト=ウール氏が、レーニン思想の影響を 受けたモンゴルの共産主義者による大量虐殺を念頭に「こうした人物の像がモンゴルの首 都に立っているのは不適切だ」とその理由を説明したと伝えている。バト=ウールは民主 化運動の指導者であり、モンゴル民主党(のちの民主党)の党首を務めた人物であるが、
またその祖父は粛清の犠牲者でもあった。しかし、彼自身、民主化運動の当初には、その 目的を「レーニンの思い描いていた形での社会主義の実現」と語っており、その態度は必 ずしも一貫していない。レーニンの意味づけの変化には、粛清をめぐる両党の対立構造が 影響した可能性が高い。レーニン像が撤去された跡には、革命期の詩人ナツァグドルジの 像が別の場所から移設されたが、一時期には粛清された首相の一人であるアマルの像を建 設するという案も出されていたようである。
民主化から現在に至る以上のようなプロセスからは、記念日や「死者」の彫像が粛清の 過去を記念するだけではなく、人民革命党と対立勢力の政治的抗争にも巻き込まれてきた ことが分かる。このような事象は、しばしば「表象(あるいは記憶)のポリティクス」と いう文脈で捉えられてきたものである(川村 、米山 、池澤/ブッシィ )。
「死者」は、まさに物言わぬ不在性ゆえに社会主義の歴史を体現する「表象」となり得た のであり、そのような意味での「死者」には粛清被害者だけではなくチョイバルサンやレー ニン、スターリンまでもが含まれている。
それでは、チンギス・ハーンはどうだろうか。彼のような「歴史上の人物」は、一般的 には「死者」とは見なされない。「死者」が「死者」とされるためには、おそらく実際に 写真 チンギス・ハーン像に対峙して立つスフ
バートル像
は個人的な記憶との関わりが必要とされるからであろう。例えば、粛清被害者(あるいは 加害者)のような比較的近い過去の「死者」も、人によってはまさにチンギス・ハーンと 変わらない「歴史上の人物」でしかない。このような「死者」をめぐる記憶の濃淡は、ど のように捉えられるべきなのだろうか。
「死者」の個人的な記憶
粛清被害者記念日の式典には政府による記念行事が実施されるが、そこには遺影を手に した遺族も参列し、記念像を前に献花や拝礼が行われることもあった。つまり、この式典 は故人が社会的レベルと個人的レベルの双方において表現される機会となっている。遺族 が手にした遺影は個人的記憶と直接的に結びつく媒体であり、それは個別具体的な「死者」
の存在を改めて人々の前に顕わにするものである。しかし、「遺影」は死者の記憶を想起 したり、想像させたりするものではあっても、記憶そのものではない。また粛清被害者記 念像も、個人的な記憶と関連づけられてはいるかもしれないが、それを集合的に表現する ものではないし、そこに込められたメッセージは「死刑制度の廃止」という未来へ向けら れた教訓や、より誠意ある補償の要求である。つまり、この式典にあっては、遺影のまな ざしはその文脈に巻き込まれて教訓や要求を訴えるのであり、もはやそれは「死者」自身 の意思とは関係ない。一方で、遺影の背後にある個人的記憶は、あくまで個人のものなの であり、そのような記憶は、語りや回想録を通してしか表現されない。
先述したように、レーニン像の撤去を決めたウランバートル市長バト=ウールの祖父は 粛清の犠牲者だった。バト=ウールの父エルデネは、貧しい一牧民であった父センゲが連 れ去られていく様子を、かつて次のように語っていた。それは、まさに死者についての記 憶の語りである。 年のことである。
その年の 月中旬もまた大きな山火事が春の白い干し草に燃え移ってきて、わが父 はその火を消しに出かけたのだった。煙のなかに太陽が鈍く光り、山々がもやにつつ まれてぼんやり見える、暖かい日、私が西の山で子ヒツジたちを放牧していると、淡 黄色のウマに乗ったわが父が鉄砲をもった 人の男を連れて家へ向かっていくのが はっきり見えた。急いで家へ駆けて帰ると、緑色の帽子をかぶった内務省の 人が父 を逮捕しにきたのだった。
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そのまま、父は淡黄色のウマに乗って山火事の煙たなびく薄い雲の中に消えた・・・。
あれから 年たって、私はモンゴル国の高等裁判所の軍委員会などから「名誉回復 証明」というちっぽけな白い紙をもらった。内務省の文書館において父を取り調べた 文書を見ると、 年の 月上旬に 度取り調べた結果、日本のスパイであるという 嫌疑を認めたので、特別委員会の命令によりヘンティ・アイマグ(県庁所在地)で銃 殺した、とあった(エルデネ : ‐ )。
この語りのなかでは、粛清によって引き離された父との最後の日の記!憶!が鮮明に描き出さ れている。特に、情景や色彩の描写は昨日の出来事のようであり、このような鮮明さは他 の粛清の語りにも共通する(例えば、粛清された指導者ルフンベの妻ノルジマーによる回 想など(Ölziibaatar 2004: 14-18))。
注意すべきは、このような個人的な記憶にもとづく語りのなかに登場するのが、実際に は故!人!の!生!前!の!姿!であるということである。その生前の記憶の想起は、もはや故人とは会 うことができないという喪失の感覚と結びつくが、この感覚こそが記憶における「死者」
を「生者」から区別するものとなっている。ただし、この喪失の感覚そのものは記憶では ない。個人にとっては、「死者の記憶」とは過去の故人の記憶と現在の喪失の感覚のあい だの揺れ動きそのものなのである。「死者の記憶」という表現の問題は、まさにこの故人 の生前の記憶と喪失の感覚をひとまとめにし、その複雑な関係性を捉えることを難しくし てしまいがちな点にある。
故人の記憶と喪失の感覚のあいだの動揺は、強すぎる場合にはトラウマとなることもあ るが、まさに、このような記憶は生!き!て!お!り!、時にはそれを飼い慣らすために、人は物語 化という手段をとることがある。文化人類学者の島村一平は、言葉では表せない粛清のト ラウマ的記憶が「物語記憶」に置き換えられ、それが人々を癒やす力をもつことを現代の モンゴルにおけるシャマニズムの流行現象を事例に論じている(島村 : ‐ )。
しかし、このような故人の死を無意味なものから有意味なものにしようとする物語化の要 求自体は、しばしば政治的主張や日常を取り戻そうとする社会的圧力の文脈に巻き込まれ る。岡真理が主張したように、それによって物語は強制的な完結を迎え、その背後にある トラウマを含めた記憶自体の本質的な語りえなさへと通じる通路は、「封印」されてしま うのである(岡 : )。
完結した物語のなかの「死者」は、記憶自体に含まれるような両義性や矛盾を失って、
特定の文脈のなかで一貫した意味と意義をもたされ、その存在は「記憶」か「忘却」かの 二者択一によって規定されるようになる。故人の生前の記憶と喪失の感覚のあいだの揺れ 動きとは対照的に、そこに動きはなく、物語に依存した「死者」が想!像!されると同時に創! 造!される。そこでは「死者」はまさに死!ん!で!い!る!。
モンゴルにおいては、このような「死者」が公的領域において語られるときには、ほと んど政治的文脈に巻き込まれ、単純化されて描き出されていることがC・カプロンスキー によって指摘されている(Kaplonski 2002: 166)。祖父を粛清されたバト=ウールでさえ、
「死者」を人民革命党を糾弾するための道具としてしまっていることで、その物語におい ては彼の父の語りに見られたような故人が生!き!た!時間の色彩や情景の鮮明さが失われてい る。逆に、そのような個人の「死者化」によってこそ、像や遺影などは公的な領域におけ る政治的な関心の対象となることができるのであろう。
別の例をあげれば、 年 月 日の粛清被害者記念日には、「独裁者」チョイバルサ ンに対する批判と(具体的にはドルノド県府チョイバルサン市の名称変更、国立大学前の チョイバルサン像の撤去を要求)、粛清犠牲者遺族への補償法案の提出に尽力した国会議 員への感謝を記した横断幕が貼られた(写真 )。参加者は、犠牲者の写真や略歴が記さ れたプレートを胸に掲げ、補償の拡充や粛清被害者記念日の国家祭日への指定などを訴え た。活動を行う「政治的粛清被害者の子供達」代表のD・ダシダワー氏は、父や叔父など の親族が粛清の犠牲者となった遺族であるが、故人自体についての記憶はほとんどない。
活動の原動力となり、生者の思いを代弁するのは、表象としての「死者」である。公的な 領域においては、このような形での「死者」の姿が前景化するようになってきている。
このような「死者」をめぐる議論は、必然的に政治性にかかわる視点を中心軸に展開さ れることが多い。それに合わせて、先
にとり上げたような故人についての個 人的な記憶も、その文脈のなかに位置 づけられやすくなる。当然そのような 文脈の外部には多くの個人的記憶が捨 象されているのだが、実証的な社会科 学的観点からは、どのような文脈にも 回収され得ないような――それゆえ語
り得ないような――記憶の存在を意識 写真 記念像に貼られた横断幕
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しておくことや、またそれらの文脈以外のところにどのような形で故人の痕跡が残され、
それがどのように現在の社会のあり方に影響を残しているのかという点に注意を向けるこ とが重要なはずである。
例えば、政治的粛清被害者記念式典において、遺影がしばしば政治的な文脈に巻き込ま れて特定の意味をもたされていることは先述したとおりであるが、遺影は家庭においては まったく別の側面をもつ。筆者が別のところで論じたように、モンゴルでは、宗教が公的 領域から排除されていた社会主義時代、宗教的習慣の一部は私的領域に隠棲することに よって様々な変容をとげながら維持されてきた。なかでも遺影は、仏像に代わる崇拝対象 として家庭内の祭祀において重要な位置を占めるようになっていた。それは、故人を想起 する媒体であると同時に、献茶や献灯といった特定の家庭内祭祀を維持させたり、変容さ せたりする物質的基盤となることで、日常のなかに埋め込まれていったのである。そのよ うな身体的・物質的関わりは、社会主義体制崩壊後の宗教状況に、意識的あるいは無意識 的に影響を及ぼしている(滝澤 )。
このように、故人についての個人的記憶を起点とした波及的な社会的影響は極めて広範 にわたるが、特定のバイアスが学術的関心の志向性を無自覚に取捨選択してしまうことは、
実証的研究の厳密さを損ねてしまう可能性がある。それに対して、先述したように「死者 の記憶」は、政治的関心や教訓などの――西村明が「パフォーマティブな記憶」(西村
)と呼んだような――特定の意図と結びついた語りや実践の文脈に限定されがちなの である。
おわりに――「死者の記憶」とは何か
「死者の記憶」として扱われているものが、時間のなかでどのように位置づけられるの かを考える上で、T・モーリス=スズキによる「連累」(implication)という概念を批判 的に検討してみることが示唆的である。モーリス=スズキは、「今生きているわたしたち をすっぽり包んでいるこの構造、制度、概念の網は、過去における想像力、勇気、寛容、
貪欲、残虐行為によってかたちづくられた、歴史の産物である。こうした構造や概念がど のようにしてできあがったのかはほとんど意識されない」(モーリス=スズキ : ) とし、このような過去の出来事に我々が巻き込まれている事実を「連累」という言葉で表 現している。この捉え方は、過去の個人的記憶が、社会化され、人々の共同性や制度のな
かに埋め込まれながら、現在の社会的状況に及ぼしている影響を捉えるうえでも重要な観 点を含んでいる。
しかし、実際にモーリス=スズキが触れる具体的な対象は、「連累」の定義における射 程の広がりに比して極めて限定的である。彼女の議論においてクローズアップされるのは、
ほとんど過去の出来事をめぐるポリティクスの問題である。ここで、彼女の主たる関心は
「歴史への真摯さ(historical truthfulness)」と表現されるものへ向けられている。その 概念によって主に対象化されるのは「人々が過去の意味を創!造!す!る!プロセスの〝真摯 さ〟」(モーリス=スズキ : 、傍点引用者)という認識論的課題である。しかし、
過去への「連累」が、「構造や制度、概念の網」という形で存在するならば、その分析の 射程は「構造や制度、概念の網の目」を含めた幅広い社会学的対象へ向けられなければな らないはずである。彼女自身の本来の定義に従うなら、「連累」は、過去の出来事に連な る現在のす!べ!て!にあるのであり、過去の出来事の認識のなかだけにあるわけではない。
このような問題が、「死者の記憶」に関わる議論にみられがちな傾向と通ずるものであ ることは明らかである。先述したように、「死者の記憶」が語られる場合の故人は、特定 の文脈のもとで一貫した意味をもたされ、「記憶」(あるいはその「継承」)か「忘却」か の二者択一的な舞台に立たされることが多い。それは、単にポリティクスや利害関心の対 象だっただけではなく、理不尽さや無意味さに満ちた故人の死に関わる個人的記憶が脈絡 なく表出し、想起されることへの不安や恐怖を、社会的に統制し、飼い慣らす手段でもあっ たであろう。それゆえ、このような記憶の物語化は、外から個人に侵食するだけではなく、
しばしば当人によって能動的に導入される。しかし、それは故人が生きていた時間の記憶 とはずいぶん違ったものである。個人的な記憶のなかでの故人は、喪失の感覚を常にまと い、物語ろうとする言葉のあいだからこぼれ落ち、忘却と記憶のあいだで行き来するよう な生!き!た!存在だからである。それにもかかわらず個人を超えたものとして想像される「死 者の記憶」という概念は、そこに含まれた「記憶」という言葉によって、それがあたかも 個人的記憶の集合であるかのような錯覚を抱かせる。実際には、個人的記憶が他の人びと へ継承されるとき、それは極めて深い断絶を経るのであり、その過程で意識の内側だけで はなく社会のあらゆる領域へと波及的な影響を及ぼしていくのである。
先述したように、過去の出来事の「連累」としての現在には、諸制度やその他の物質的・
客観的条件が含まれてくる。そのような現在を語ろうとするならば、特定の意図に関連す る語りや実践などに対象を限定する意味はほとんどない。それに対して、社会的・集合的
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なものとして「死者の記憶」を扱おうとする諸論考は、それを無自覚なまま一つの静的な 実体として措定しまっている。確かに「死者の記憶」をめぐる解釈や語りの多様性や動態 が意識されることもあるが、それもすでに物語化の対象として固定化された「死者」を前 提としている。そのような固定化が顕著になるのは、まさに「死者の記憶」が社会的・集 合的なものと見なされるときである。その瞬間、一方で死者をめぐる個人的次元での「生 前の記憶の想起」と「喪失の感覚」のあいだの揺れ動きが捨象され、他方で社会的次元で の故人をめぐる出来事の物語的な解釈の文脈を超えた波及的影響が射程外に置かれる。こ れらの傾向がはらむもっとも重大な問題は、「死者の記憶」という概念を無批判に具体的 事象に当てはめることによって、無自覚的に特定の文脈に比重を置こうとする人々の意向 をなぞってしまったり、あるいはそのような文脈により巻き込まれやすい実体として対象 を描いてしまったりすることである。
参考文献
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