第2章 両国民衆の「公的」な初等教育機関 に関する比較
義学と郷学は中日両国の地方的な「学校」であることは、第1章でも述べた通りである。
両国において、近代学校制度の導入以前に、民衆教育を一つの目的として開設された「公 的」な教育機関が一定程度普及し発展していた。さらにそれらは両国の近代の小学校へと つながり、近代学校への橋渡しの役割を果たした点で極めて重要な歴史的意義をもつ教育 機関と言える。本章では、このような義学と郷学の歴史的意義を踏まえ、両機関それぞれ の設立にどのような人々が加わっていたのか、またその経営がどのように行われていたか を具体的に考察するとともに、さらに義学と郷学の教育対象や教育活動などについて比較 し、両者の性格上の特徴を明らかにする。
第1節 義学と郷学の設立の趨勢
本節では、中国の資料としては清末に刊行された 12 省 88 県(州)の『地方志』を用い、
また日本の資料としては『日本教育资料』(三)や地域史・教育史などを用いて、近世にお ける中国の義学と日本の郷学について、その設立・普及状況を分析し、それぞれの共通点 と相違点を実証的に考察する。
1.義学設立の情勢
中国では、義学を建てることは唐代からあったようであり、その例を唐末五代(10 世紀 末)にみることができる。しかし、清朝以前の義学は主に「族塾」、すなわち同族集団によ って創られた一族の教育機関であり、国家により提唱され、地方行政官あるいは民間有志
によって設営された義学は、清代に入ってから本格的に発展・普及したのであった。
清代において義学はかなり普及していたため、全国にわたる義学のデータを集めるのは 困難であり、そのためここでは長江以南の地域を中心とする清末民初に刊行された 12 省 88 県(州)の『地方志』1を用いて、各地域における義学開設の情勢を把握することにす る。これら『地方志』の刊行年代はまちまちではあるが、ほぼ 1870 (同治9)年以降に刊 行されたものであるため、義学の開設の状況について、1870 年以前のものを中心に分析す る。また、各地域の『地方志』によって義学に関する記述が一様ではないため、実際に存 在した義学の数は『地方志』に記されている数よりも多いと考えられる。
これらの『地方志』を調べた結果は「<付録>資料二:中国 12 省における義学開設一覧」
にまとめた。分析の結果、次のようことが明らかになった。
まず 88 県(州)の中で、14 県(州)は『地方志』に義学の存在が記載されていなかっ た。ほかの 74 県(州)は少ないところで1校、多いところで約 30 校設けられており、合 わせて 549 校に達し、平均一県あたり約 7.4 校の義学が存在したことが明らかになった。
次に義学の開設時期を分析すると、開設時期が詳細に記載されていない義学 112 校を除 いて、宋代に2校、元代に4校、明代に2校が創設されているが、残りの 243 校は清代に 入って 1870 (同治9)年までに開設されている。さらにこの 243 校の義学について開設時 期を調べると、図2-1に示したように、康煕半ば(1680 年)ごろから義学開設の気運が高 まり、康煕後期・乾隆初期(1700―1749 年)になると、発展の一つのピークとなっている
図2-1 中国の義学開設の推移(1680-1869 年)
0 20 40 60 80
1680- 89
1690- 99
1700- 09
1710- 19
1720- 29
1730- 39
1740- 49
1750- 59
1760- 69
1770- 79
1780- 89
1790- 99
1800- 09
1810- 19
1820- 29
1830- 39
1840- 49
1850- 59
1860- 69
年代 義学数
浙江省など 74 県・州『地方志』による作成
ことが分かる。乾隆中期から嘉慶初期まで(1750―1809 年)の間は低迷期となったものの、
嘉慶後期(1810 年)から義学の開校数は次第に増加し、清末になるとその開設の勢いは急 激に上昇した。1870(同治9)年以降の状況については、調査対象とした諸『地方志』の刊 行年代が一様ではないため、正確な数
を知ることはできないが、1870(同治 9)年から 1908(光緒 34)年までの間の 開設と判明できる義学は 177 校を数え、
清朝のほかのどの時代よりも多いこと が明らかになった(図2―1)。
最後に、義学の地域分布の特徴を明 らかにするために、華南地方の広西省、
華中地方の浙江省と華北地方の直隷省
(順天府)をとりあげ、3地域の義学 設立の状況を考察してみた。その結果 をまとめると、表2-1のようになる。
表2-1の資料については、浙江省と
直隷省(順天府)のデータは前述した両省の『地方志』に基づいて作成したものであり、
広西省のデータは『広西通志・教育志』から引用した2。この表をみると、1県あたりの義 学の数は、浙江省が一番高く、約 9.5 校である。近畿地方の直隷省(順天府)は約 4.4 校 であり、少数民族が多く集っている辺鄙な広西省は最も少なく、2.8 校しかなかった。つ まり、浙江省の1県あたりの義学数は、直隷省(順天府)の約2倍であり、広西省の 3.4 倍である。このことから、義学の普及には地域格差がかなり存在したことがわかる。
表2-1 広西・浙江・直隷三省における義学設立の状況
年代 広西 浙江 直隷
康煕(1662-1722 年) 61 10 17
雍正(1723-1735 年) 41 2 7
乾隆(1736-1795 年) 16 11 3
嘉慶(1796-1820 年) 4 4 4
道光(1821-1850 年) 17 24 3
咸豊(1851-1861 年) 2 4 4
同治(1862-1874 年) 13 52 26 光緒(1895-1908 年) 57 29 34
不明 10 53 13
合計 221 189 111
調査した県(州)数 78 20 25
1県あたり義学数 2.8 9.5 4.4
浙江省 20 県・州『地方志』、順天府 25 県・州『地方 志』と『広西通志・教育志』より作成
また、3地域のそれぞれの義学開設の時代的な推移は、どのようであったのだろうか。
1県当たりの 10 年ごとの義学開設数を計算して、その推移をまとめると、図2-2のよう になる。これをみると、地理的に異なっている3地域においても、それぞれの義学発達の 情勢は、前述した全国のものと同様な傾向がみられる。すなわち、3地域とも康煕中期の 1680 年代から義学を設立し始め、康煕後期・乾隆初期(1700―1749 年)の間に、義学発展 の最初の興隆がみられるのである。その後低迷することもあったが、嘉慶末期の 1820 年か ら義学の開設が急速に増えたことがわかる。しかし、3地域における義学増加の割合は相
図2-2 広西・浙江・直隷三地域における平均1県あたり 10 年ごとに義学開設数の推移
0.00 0.50 1.00 1.50 2.00 2.50
1680- 89
1690- 99
1700- 09
1710- 19
1720- 29
1730- 39
1740- 49
1750- 59
1760- 69
1770- 79
1780- 89
1790- 99
1800- 09
1810- 19
1820- 29
1830- 39
1840- 49
1850- 59
1860- 69
1870- 79
年代 義学数
広西 浙江 直隷
浙江省 20 県・州『地方志』、順天府 25 県・州『地方志』と『広西通志・教育志』より作成
当異なっている。特に、1820 年から 1879 年までの 60 年間に、浙江省では1県当たり 10 年ごとに 0.76 校の義学が増加したのに対して、直隷省(順天府)では 0.29 校、広西省で は 0.08 校しか増加していなかったのである。
2.郷学の設立状況
次に江戸時代の郷学の設立状況を考察する。既述したように、郷学は郷校・郷学校など ともいい、寺子屋とともに日本における江戸時代の民衆教育機関とみることができる。郷 学開設の状況について、石川謙が「藩学の延長としての郷学一覧」と「庶民教育のための 郷学一覧」を作成しており、郷学を研究する際に貴重な先行研究となっている3。しかし、
この郷学一覧表には生徒数・教員数・修学年間などの重要な項目は省略されており、また 郷学経営の方法などの記述も非常に簡単なものとなっているため、本研究の目的からみれ ば、郷学開設に関する再調査が必要であると考える。そこで、本研究では、まず 1886(明 治 19)年に文部省が日本各地の郷学を調査した結果を収録した『日本教育史資料』(三)を 用いて、江戸時代における郷学の設立時期・設立者・経営・修学年間・教員数などを項目 別にまとめてみた。また、地域史や地方教育史における近年の研究成果4を調べ、『日本教 育史資料』に記載されていない郷学に関する資料も参考にしながら、「<付録>資料三:江
戸時代における郷学一覧表」を作成した。
しかし、『日本教育史資料』中の郷学調査は不備も多く、欠落が多い。石川謙は、近世か ら明治初年にかけて「幾千という郷学が打ち建てられたことであろう」と述べたが、これ はあくまでも推測であり、実際どの位の郷学が開設されたについては、資料的制約のため 明らかにすることは困難である。したがって、実際の郷学開設の時代的な変遷を正確に把 握することは難しい。しかし、主な特徴として以下の5点を指摘することができる。
第1に、寛永・慶安年間(1624―51 年)に日本では最初に周防国山口領の観園、肥前 国佐賀領の謹申館、三河国幕府領の有教館という3つの郷学が誕生した。このうち観園は、
『日本教育史資料』によれば、1624(寛永5)年に山口藩毛利氏分家が自ら領内に「観園ヲ 建文武ノ諸稽古ヲ精勤」させ、その後連綿と続いて 1849(嘉永2)年に「日新舎ヲ創設シ 足軽以下ノ演武場」としたとされている5。また、謹申館は采主鍋島茂賢が「寛永ノ度学校 創設爾後連綿官校ニシテ文久年間茂精代」に至った6。そして有教館は 1649(慶安2)年 2月に幕府旗下菅沼定實が「家臣ノ子弟ヲシテ武術文学ヲ講習セシムル為メ創設スル所ナ リ爾来百九十年間」続き、さらに天保年間(1830―43 年)の菅沼定志の代に至ると、「有 教館大ニ旧来ノ面目ヲ改メ学事頗ル旺盛ノ域ニ進歩」した7。以上からみれば、これらの最 初の郷学はいずれも代官あるいは大藩の分家や家老などの采地に建てられた陪臣学問所で あり、設立当初の目的は武士のための教育機関であったのであり、一種の小型藩学といえ る。
第2に、1660 年代に入ると、民衆教育機関としての郷学が創設され始めた。1667(寛文 7)年1月、岡山藩主池田光政が、「備の前中州庶民乃子弟に、孝弟の道・書数の芸を教え」
る必要があるとし、「郡乃奉行に命したまひ、郡々に数多の手習所を御立」させた8。この ようにして、同年に、岡山城下に町方手習所を開設し、翌年領内 12 郡すべてに郡中手習 所計 123 校を開設した9。さらに 1670(寛文 10)年に、光政は領内の和気郡木谷村に閑谷学 校を設立した。これらの手習所は 1674(延宝2)年に、1郡1校の政策により全 12 郡 14 校 までに整理削減され、また翌年にさらなる統合を試みて閑谷学校1校だけが残された。こ のように、閑谷学校を除いてほかの 123 の手習所が 15 年のうちに閉鎖されたが、郷学の歴 史の中で最初の藩立民衆教育機関が建てられたことは画期的なものといえよう。
第3に、天和年代から安永年代まで(1681―1780 年)の約 100 年間に、郷学の新設数は わずか 11 校に止まった。このことから、岡山藩のように大規模に郷学を建てることは例外 であり、全国的にみればまだ郷学設立の萌芽期であったといえよう。しかしこの時期で特
筆に値することは、1717(享保2)年、摂津平野郷に民間有志によって含翠堂ができ、1726(享 保 11)年には大阪に三宅石庵によって懐徳堂が設立された点である。民間有志によって学 校が建てられ、民間子弟のための学校教育が行われるようになったのはこの時期からであ ろう。
図2-3 日本の郷学開設の推移
0 10 20 30
1680- 89
1690- 99
1700- 09
1710- 19
1720- 29
1730- 39
1740- 49
1750- 59
1760- 69
1770- 79
1780- 89
1790- 99
1800- 09
1810- 19
1820- 29
1830- 39
1840- 49
1850- 59
1860- 67
年代 郷学数
『日本教育史資料(三)』などより作成
第4に、天明の頃(1781 年)から郷学は次第に発達するようになった。文化・文政(1804
―1829 年)を経て、天保(1830 年)以降幕末の間に郷学がかなり普及し始めた(図2―3)。
分析の結果、開設時期が判明できた 155 の郷学のうち、江戸時代初頭から安永まで(1603
―1780 年)の約 160 年間に創設されたものはわずか 21 校しかないのに対して、天明年代 から幕末まで(1781―1867 年)の 87 年間に新設された郷学は 134 校に達し、全体の約 86.5%
を占めていることが明らかになった。したがって、この時期は郷学の一大発展期といえる。
第5に、江戸時代の義学設置状況を地域別にみると、表2-2 に示したように、東山道 は郷学の開設数が一番多く、全体の 26.5%を占め、以下は山陽道 20%、東海道 18.7%、
西海道 18.1%となっている。北陸道と山陰道はもっとも少なく、全体の 1.3%にとどまっ た。また、地域の郷学開設の時代的な変遷からみれば、天明年代まで(1788 年)、山陽道 と西海道が圧倒的に多く、24 校のうち 16 校、66.7%を占めた。しかし、寛政年代に入る と(1789 年から)、東山道と東海道で郷学の設立が盛んになり、山陽道と西海道の増加率
を上回り、寛政年代から嘉永年代まで(1789―1854 年)の間に、両地域に新設された郷学は それぞれ 27 校と 17 校となって、全体の 57%を占めるようになった。そして、安政・慶応 年代(1855―1867 年)になると、郷学はほぼ全国(北陸道を除く)に普及したのである。
表2-2 江戸時代における地域別の郷学開設の推移
年代 地域 畿内 東海道 東山道 北陸道 山陰道 山陽道 南海道 西海道 合計 百分比
1603-1672(江戸時代初頭) 0 1 0 0 0 3 0 2 6 3.9%
1673-1710(延宝・宝永年代) 0 0 1 0 0 1 0 2 4 2.6%
1711-1735(正徳・享保年代) 2 0 0 0 0 0 0 0 2 1.3%
1736-1771(元文・明和年代) 0 0 0 0 0 2 0 0 2 1.3%
1772-1788(安永・天明年代) 0 0 2 0 0 0 2 6 10 6.5%
1789-1803(寛政・享和年代) 0 2 9 0 0 6 2 2 21 13.5
1804-1817(文化年代) 0 5 8 1 0 3 0 3 20 12.9
1818-1829(文政年代) 0 1 5 1 0 1 0 2 10 6.5%
1830-1843(天保年代) 3 8 5 0 0 3 1 0 20 12.9
1844-1854(弘化・嘉永年代) 1 3 0 0 0 1 1 0 6 3.9%
1855-1867(安政・慶応年代) 3 9 9 0 2 7 6 9 45 29.0
不詳 0 0 2 0 0 4 1 2 9 5.8%
合計 9 29 41 2 2 31 13 28 15 100%
百分比 5.8 18.7 26.5 1.3% 1.3% 20.0 8.4% 18.1 10
『日本教育史資料(三)』(1890 年)などより作成
3.義学と郷学の設立状況の相違について
以上の分析結果として、庶民教育を目的とする中国の義学と日本の郷学は、地域間格差 が認められるものの、17 世紀に入ってから各地域で本格的に発展・普及したことが、共通 点として指摘できよう。
しかし、義学と郷学の発達過程においては、相違点もみられる。すなわち、日本におい ては、17 世紀の 60 年代ごろから、岡山藩を中心に民衆教育機関としての郷学が創設され 始めたが、その後の約 150 年間は、極めて緩やかに増加し続け、天明の頃(1781 年)に入 ってから一挙に発達し始め、全国に広まった。これに対して、中国の義学の創設は、宋代
に遡ることができるが、17 世紀の 80 年代ごろからその開設気運が高まり、18 世紀の前半 が義学発達の一つのピークとみられるものの、18 世紀半ばに入ると一旦低迷してしまう。
しかし、19 世紀初頭から再び義学の開校数が増加し始め、清末になるとその開設数は急増 した。つまり、中国における義学の開設数は増減が繰り返されていたが、全体的には螺旋 を描きながら増加してきた。一方、日本の郷学においては、江戸初期から緩やかなスピー ドで伸びながら、江戸時代の後期になると急増したことが特徴といえる。
第2節 義学と郷学の設営
本節では、義学と郷学の設立にどのような人々が加わっていたのか、またその経営がど のように行われていたのかを具体的に考察し、さらに両者を比較することにより、それぞ れの設置・運営主体の特徴を明らかにする。
1.義学と郷学の設立者
中国の義学の設立者について、上述した 12 省 88 県(州)の『地方志』を調べた結果を 表2-3にまとめた。この表から明らかになるように、設立者となっているのは、判明で きない 144 校を除くと、地方行政官が最も多く約 50.7%を占め、以下は「邑人」・「里人」
が 36.3%、監生・貢生・生員・童生などいわゆる読書人(知識人)が 4.9%、郷紳 3.7%、
官立 3.5%、団体(ギルドのような商人及び手工業者の特権的な同職組合など)2.2%とな っている。
200 人の「地方行政官」の内訳としては、県(州)の最高行政長官である「知県(州)」
が 131 人と圧倒的に多く、残りの 67 人は県学(儒学)の訓導、駐屯軍の総兵や知府など官 吏である。また、「邑人」・「里人」と分類される人々の階層や職業をみると、村民、県内の 良民、郷紳の未亡人というごく少数例を除くと、『地方志』は「邑人」・「里人」と記すか、
あるいは単に姓名だけを記載しているのが殆どである。そのため、このような人々がどの
ような階層に属していたかを明らかにすることはできない。しかし元来「邑人」「里人」は 県内の住民あるいは同郷人という意味で、上述の読書人や郷紳、村の実力者、富民層もこ の中にも含まれているといえる
10。そうすると、義学の設立者 は「知県(州)」などの地方行政 官と県内の住民との2種に大別 することができ、その比率は約 49.4%と 44.9%になる。
一方日本では、郷学の設立者 の中で一番多いのは、藩主や大 藩の分家や家老など重臣層であ り、全体の 61.5%を占めている
(不詳を除く、以下同)。これに 続くのは有志者や村民 15.4%、
奉行・名主・年寄などの村の有力者 12.3%、医師・儒者 4.6%であり、また在住藩士と代 官はそれぞれ 3.1%であった(表2-3)。
表2-3 中国の義学と日本の郷学の設立者一覧表
中国の義学 日本の郷学
設立者 校 数 百分比 設立者 校 数 百 分 比
官立 14 3.5% 代官 4 3.1%
地方行政官 200 49.4% 領主、家老 80 61.5%
読書人 20 4.9% 在住の藩士 4 3.1%
郷紳 15 3.7% 医師・儒者 6 4.6%
邑人・里人 147 36.3% 名主、年寄 16 12.3%
団体等 9 2.2% 有志者 20 15.4%
不詳 144 不詳 37
計 549 計 167
義学と郷学の設立者を比較してみると、その特徴として次の点を指摘できる。
第1に、両者の設立者は地方支配者(中国の場合は知県・知府などの地方の行政官、日 本の場合は領主や家老)と民間有志者に分けることができ、その比率は全体的にみれば、
中国ではほぼ半々であるが、日本では前者が約 70%、後者が 30%となる。
第2に、設立者階層の割合が時代によって異なっていることが指摘できる。中国では、
民間有志者が設立した義学の割合は、康煕・雍正年間(1662―1735 年)の 13.7%から、乾 隆年間(1736―1795 年)には 58.8%に急増し、嘉慶年間(1796―1820 年)にさらに 75%
にまで伸び、道光・咸豊年間(1821―1861 年)になると 84.9%に達し、この時期にピーク を迎えた。しかし、同治年間(1862―1874 年)に入って急に 27%まで下がり、その後、回 復の傾向がみられるが、清末の光緒年間(1875―1909 年)でも 41.3%にとどまっていた。
一方日本の場合は、民間有志者の割合が、寛永-安永年間(1624―1780 年)に 12.5%、天 明・寛政・享和年間(1781―1803 年)に 10%、文化・文政年間(1804―1829 年)に 50%、
天保以降(1830―1868 年)に 56.2%となり、民間有志者が設立した郷学の割合は時代とと もに増加する傾向がみられる。
2.義学と郷学の経営
では、義学と郷学はどのように経営されていたのであろうか。設立費や経営維持費という 財政面から、両者の経営様式を分類し、それぞれの特徴を明らかにする。
(1)中国における義学の経営
義学の経営様式については、上述した 12 省 88 県(州)の地方志を調査した結果、①官 費で経営するもの、②地方行政官の義捐によって経営されたもの、③官民協力によって経 営されたもの、④民間有志によって経営されたもの、の4種類に分けることができた(表 2-4)。以下、タイプ別に義学の経営様式を要点化してみる。
表2-4 義学の経営方法
経営方法 校数 百分比
官費 54 11.7%
知県など捐資 133 28.8%
官民協力 71 15.4%
民間人捐資 204 44.2%
不詳 87
合計 549 100.0%
①官費で経営する義学
このタイプの義学は 58 校に達し、全体の約 11.7%を占めている。義学の設立者は知県
(県令)などの地方行政官が多いが、その維持や経営の方式はさまざまである。
例えば、貴州省普安直隷庁の北門楼義学と起鳳義学は知府陳煕によって創建され、官庁 から毎年 60 京石11の食料を義学経費として支給された12。また、江蘇省宝山県の京江義学 の場合、1724(雍正2)年に県令が創設し、一端廃校となったものの、1866(同治5)年 に郡守李仲良がそれを再興し、維持費として毎年書院の予算から銭 60 千文、救命会の予算 から銭 40 千文を支給するとした13。また、浙江省寧海県の鍵跳義塾は、県の財政から基本 金 500 元が支給され、その全額を銀店に預けて毎年の利息 60 元を塾師の給料や義学修理費 に充てている14。
義学経営費のもう一つの出所は、犯罪者から没収した財産である。広東省潮陽県の義学 はその一例である。この義学は 1685(康煕 24)年に知県臧憲祖によって創建されたが、その
義学の費用について、『潮陽県志』(光緒 10 年=1885 年)では以下のように記されている15。
康煕五十二年、知県支森が田六畝四分寄付し、県衙門の東西両側の商店を調べて、
十七部屋分の商店を没収した。その貸し賃銀四両七銭九分を義学の経費とした。雍正 六年、署知県藍鼎元が沙港にある田畑を調べ、田七十六畝を没収し、官営の土地とし て義学に帰した。その貸出料百五石は教師の給料と義学の費用(膏火)に充てる。
つまり、潮陽県の義学は政府が没収した商店や田畑の収入と官費で経営されていたとい いうのである。
さらに江蘇省奉賢県では、知県韓佩金は地元住民の要求に応じて「升真道院」という寺 院を没収し、寺院の部屋を義学に改修し、寺院の財産である田 44 畝を義学の学田とするこ とによってそれを維持した16。そのほか、広東省豊順県令李洪毓は 1875 年(光緒元年)に
「禁令に違反した商店を閉鎖し、その財産を差し押さえた」、そして「没収した店舗を貸し 出し、その家賃で義学を2校設立し、教員を招聘して子どもを啓蒙」した17。
このように、これらの義学の設立や経営様式をみると、糧食、学田、現金あるいは基本 金の利息であれ、維持運営の費用が何れも政府の負担となっていることが共通している。
②地方行政官の義捐によって経営された義学
このタイプの典型的な例は順天府東安県の王里邨義学である。「王里邨義学碑記」18によ ると、1715(康煕 54)年に、康煕帝が地方を視察した際、「村民の生活が豊かとはいえな いが昔よりよくなったのに、朗読の声が聞こえない」ことに注目し、すべての辺鄙な片田 舎にも義学を建てるよう命じた。そして知県杜瑯がこの勅令に従い、自らの俸禄の一部で 義学を設立した。また、義学の維持費の問題を解決するため、政府はこれらの村々におい てすべての労役を免除し、永遠に税金を徴収しないことを決めた。
さらに、広東省感恩県令姜焯は、赴任後同県の教育が遅れていることを問題視し、1698
(康煕 37)年に自分の年俸を寄付して義学を建設するとともに、村民の就学を促すため生 徒の労役を免除することにした。これにより、就学者が短期で 40 人に達することになった。
のちこの義学は廃校されたが、同治年間(1862―74 年)に知県邱桐が銭 160 千文を寄付し、
再興した19。
地方の行政官の義捐によって設立され経営された義学は、各地域に広くみられ、表2-
4に示したように総計 133 校に達し、全体の 28.8%を占めている。
③官民協力によって経営された義学
このタイプの義学については、地方の行政官がまず義学の設立を唱え、自ら率先して捐 資し、次いで民間有志者が行政官の呼びかけに応じて、義学の経営に協力するという例が 多くみられる。例えば、永清県韓邨義学の設営について、県令李秉鈞が著した「李秉鈞韓 邨義学記」には次のように記されている。
韓邨義学がいつ頃に創設されたかは明確ではないが、(中略・引用者)康煕 27 年に 県令祖良屏が畑を 20 畝購入し、元の学田 20 畝をあわせて 45 畝となった。乾隆 27 年 に、村民劉運昌が田 21 畝と家1棟を寄付した。しかしその後義学を経営する人もいな いので、学田を失い、校舎の傾き崩れがひどく、義学が廃校されてからもう数十年に なった。(中略・引用者)私が赴任してから、失った学田を見つけ、地主が知らない土 地 15 畝7分を押収した。その地代 423 千文を義学の費用とした。そして紳士・商人・
村民に義挙のために共々力をつくそうと呼びかけ、数月間のうちに、新しい校舎が建 てられた。義学の創設は元県令の功績であり、義学の再興は紳士・村民の努力のたま ものであると私は痛感している20。
以上のように、韓邨義学の設立と経営については、まず県令が義学建設を提唱し、自ら 学田を義捐もしくは出資し、さらに政府の呼びかけに応じた民間人が、寄付金を出して義 学経営の不足を補い、官民協力という形で経営していた。
これとは逆に、民間有志者が最初に義学を建て、途中で経営難などの理由で政府から援 助を受けて、再興したケースもある。これについて、まず浙江省象山県における珠山書院
(義学)の例が挙げられる21。この義学は地元の王憲章など附貢生・例貢生と、いわゆる
「読書人」4人がともに醵金して土地 15 畝を購入し、義学を設立した。のち県令沈鐘瑞が 主唱して民間から寄付金 1100 貫と水田 150 畝を募った。その後経費不足のため、県令史恩 緯が救済補助金から銀 960 元を義学の経費にあてた。
浙江省寧海県の香岩義塾の場合も、1879(光緒5)年に鄥肇基など篤志が民間寄付金を 使って義学を建て、貧民の子弟を対象として教育を行った。しかしまもなく経費不足のた め廃校を余儀なくされた。しかし、1897(光緒 23)年に県令柳商賢が義学を再興し、さらに
明恩寺の僧侶の協力で、水田 25 畝を得ることにより、その運営を近代学校制度発足の時期 まで続けた22。
以上の例からみると、政府と民間が何らかの形で財政面において協力して経営している ことがわかる。このような方式で経営された義学は、調査対象とした 91 県 549 校のうち 71 校に達し、経営方式が判明しない 87 校を除いて、15.4%を占めている。
④民間有志者によって設営された義学
このタイプの義学は、上述した①~③の義学 と違って経営維持費の面において政府の力に頼 らず、まったく民間人の義捐によって設営され たものである。このタイプの義学は 549 校の中 でも一番多く、約半数を占めている。
一人で義捐して義学を設営した場合もあるが、
複数の民間有志が力をあわせて捐建する場合が ほとんどである。『奉化県志』によれば、長寿郷 の孫芝雲など 93 人が 1838(道光 18)年から6 年間に、毎月1人につき 200 文ずつ醵金して義 学の運営費を積み立てた23。また、江蘇省奉賢 県の青村義塾では、1836(道光 16)年に宋三啓・
林国宝などが拠金して義学を設立し、さらに学 田1畝6分を設けた。しかし経費不足で義学を 維持することができなくなったため、民間から 寄付金を募り、新たな学田 158 畝を購入し、学 田の収入で義学の運営を賄った24。このように、
義学の設立から運営に至る一切が、すべて民間 の資金によって支えられていたと推察される。
では、このような民間有志はどの様な階層の
人々であったのだろうか。これに関する資料は非常に少ないが、幸いにも江西省武寧県志
25には義学田を寄付した人々の職業などが記載されている。それをまとめると表2-5に なるが、21 人の出捐者の中で、各レベルの学生(廩生、貢生、監生、生員、庠生、童生な
表2-5 中国民間人捐田一覧表
職 業 姓 名 捐田数量
廩生 劉延晪 12 畝
生員 羅応権 10 畝 4 分 貢生 潘崇桂 9 畝 監生 葉発祥 7 畝 廩生 余鳴珂 6 畝 監生 周国柱 2 畝 6 分 郷賓 盛禰鳳 4 畝 3 分 耆民 徐躬膺 6 畝 2 分 耆民 盛任臣 3 畝 4 分 抜貢 黄夢鶴 2 畝 童生 黄坤勉 3 畝 耆民 汪子旺 8 畝 耆民 但用侯 8 畝 庠生 葉秀雲 1 畝
劉武錫 2 畝 7 分 耆民 余定臣 5 畝 4 分 儒童 丁日幹
儒童 丁啓周
3 畝 5 分
儒童 明涛 6 畝 職員 邱穗蘭
生員 邱林
3 畝
『武寧県志』巻之十一義学田(乾 隆五十一年刊行)より作成
ど)が 10 人と最も多く、以下豪農(耆民)5人、儒者(儒童)3人、郷賓(具体的職業は 不明)・職員・不詳が各1人となっている。このことから、教育から直接に利益を受けた知 識人(読書人)が義学教育の主要な推進勢力であったといえよう。
(2)日本における郷学の経営
次に日本における郷学の経営様式を検討してみる。江戸時代に全国で設立された 164 校 の郷学の経営様式を分析すると、その方法が不明の 41 校を除いて、次のような3種類に分 けることができる。1つは郷学の諸費用が主に藩費で賄われるタイプである。このような 郷学は江戸時代に多く設立され、全体の 50.8%に達している。もう1つは領主と領民の協 力経営によるものであり、全体の 34.9%を占めている。3つ目は主に民間有志者の経営に よるものである。この種の郷学は全体の 14.3%しか占めていないが、江戸後期に著しく増 加する傾向がみられた。以下この3種類の郷学の経営過程について具体的に検討する。
①藩費で経営する郷学
鍋島領の身教館は、主に藩費で経営する郷学の一例といえる。身教館は、1717(享保2)
年に領主鍋島茂正により「領内ノ士民ヲ教育」することを目的として創設され、その経営 については「旧佐賀藩親族多久氏多久学校沿革調」に次のように記述されている。すなわ ち、「鍋島茂昌育英ノ志厚ク戊辰ノ役羽州ヘ出張凱陳ノ後ニ於テ従来藩校ノ経費ガ一個年現 米百石ナリシヲ増加シテ百五拾石トナセリ」26とされている。つまり、領主に支給された 現米は、同校実際の一年の経費「現米百石ナリ」を超えている。さらに、その経費の出所 は「学費ノ名称ヲ以テ別段領内ニ賦課セシニ非ズ領主ノ蔵入中支給シタリ但学生ノ増減ニ ヨリ経費ニ過不足ヲ生シタル場合不足シタルトキハ請求シ過剰アリタルトキハ翌年ノ費ニ 充テタリ」とされている27。要するに、身教館の場合は、領主によって建てられ、日常の 経営費用はすべて藩費から支給されていたことがわかる。佐賀藩だけでもこのような郷学 が8校あり、準藩学または小型藩学といえる特徴を有している。
小型藩学のような郷学だけでなく、既述した岡山藩のように、1667(寛文7)年から、庶 民の子弟に教育の機会を与えるために設立された 123 の手習所においても、その設立の費 用や維持費は主に藩費で賄われた。例えば最初に建てられた町方手習所の経費については、
藩主池田光政が 1668(寛文8)年9月に、半田山から三間梁の松木 300 本を切り出して手 習所に与え、また毎年 300 俵並びに手習所借屋のため銀1貫目を下付したという28。各郡
の手習所の経費について、『日本教育史資料』では以下のように記されている。
米四拾石御野郡読書師手習師賄人人足給付持雑用共下同し 米四拾石奥上道郡 米五 拾石和気郡 米五拾石口高郡 米六拾石奥津高郡 米五拾石磐梨郡 米六拾石赤坂郡、
米八拾石邑久郡 米五拾石児島郡 米五拾石備中山北 米五拾石備中浅口郡 米四拾 石口上道郡29
また手習所に必要な薪についても、「郡々手習所入用之薪ハ、子共在所より持参仕、又ハ 郡奉行立置候林ヲ伐用候」30としているように、子どもたちが持参するか、郡奉行が指定 する御林のものをあてるようになっていた。このことから、12 郡における諸手習所の費用 は藩庫から支給していたことが明らかになる。
②領主と領民(民間有志者)の協力経営による郷学
このタイプの郷学はさらに2種類に分けられる。まず1つ目は、藩費など官費によって 建てられ、官費で経営されていたが、その後民間有志者の寄付により、半官半民の力によ って維持されていくタイプの郷学であり、その1つの好例は佐賀藩多久郷学校の鶴山書院 である。
鶴山書院は、東原庠舎ともいい、1699(元禄 12)年に、佐賀藩国老多久邑主多久茂文に よって建てられ、その後嗣子の茂明が「父ノ志ヲ継キ聖廟祭費且文武稽古料トシテ杵島郡 花祭村ノ内白木分知行八十石(高二百石)並ニ聖廟葺補等ノ用トシテ椎原山ヲ昌平山ト改 称シテ之ヲ寄附」した。また、郷学の経営については「学田及ヒ寄附米其他歳入」により 維持された。すなわち、一方は「茂鄰(茂文四代ノ孫)毎歳現米拾五石茂族(茂文六代ノ 孫)同三十石永世寄附ス」31というように、各代の領主の支出によって郷学を経営する。
そして他方は、その足りない部分を領内の有志者や庶民に負担させるのである。この点に ついては、『日本教育史資料』に「志久村字新橋居住河原善左衛門ナル者邑主茂鄰ヘ厚恩ア ルヲ以テ文政年間泉貨弐百貫文ヲ学校ヘ寄附ス因テ該金ヲ邑内小城郡横山村ヘ相渡シ同村 浮地ノ内ヨリ地料米現米三石宛毎歳納米可キ旨ヲ命シテ学資ニ加フ」と記されている。ま た、「聖廟学校修繕掃除薪代等聖廟学校ニ係ル夫役一切之ヲ学田所在ノ白木村百姓ニ課ス」
32という規定からみると、庶民の側からも郷学の維持経営を支えていたことがわかる。
周防国萩領の成器堂の場合は、「藩立校萩山口ヘ遠隔ナルヲ以テ在住ノ藩士就学ニ苦」し
んでいるので、同志たちが郷学の建設に乗り出した。成器堂の建設の費用については、「同 志ヲ糾合シ経費ノ半ヲ藩主ヨリ乞請ケ残半方ヲ各自ヨリ辨出」した33。
もう1つは藩士・郷士もしくは庶民有志者が義学を設立し、領主がその経営に何らかの 形で経済的に援助するタイプの郷学である。例えば、川俁領梁川村郷学明倫館は、1839(天 保 10)年、「有志ノ徒二十余名同心協力シ醵金」して、梁川村石井仙臧所有地に「建設ア ル家屋ヲ以テ教場トシ子弟ヲ教授」した郷学であった。しかし「学生日ニ入学シ該場狭隘」
となったので、1847(弘化4)年に「官ノ許可ヲ得テ村民一百余員捐資以テ旧教場ノ側ニ 縦二間横四間ノ新教堂」を建て、直ちに開校した。これに対して、藩側は以下のように協 力・支援した。
○1847(弘化4)年 10 月、「県令( マ マ )石原左衛門臨校シテ有志ノ徒ヲ奨誉」した。
○1849(嘉永2)年9月、「 県令( マ マ )勝田次郎臨校シ自ラ扁額ヲ書シテ明倫堂ト称」を下賜 した。
○城主片倉小十郎が「年々米金若干ヲ贈与シテ校費ヲ助ケ」た。
このように、郷学明倫堂は官民協力により維持されていたが、1861(文久元)年に火災 によって廃校されるに至った34。
③民間有志の経営による郷学
この種の郷学は民間有志者によって設立され、藩から多少の援助があったが、主に個人 の寄付金あるいは共同の基金などで教員を雇って経営されたものである。典型的なものと して、1717(享保2)年に大阪に近い平野郷に土橋友直ら郷民有志によって創立された含翠 堂を挙げることができる。含翠堂の経営を示す資料としては「含翠堂手簿」や「年々諸勘 定書上控」などがある。これらは、創設以降継続して書かれており、有志者の掛金や寄付 金などの収入が詳しく記されている。これによると、含翠堂が発足した年には、土橋七郎 兵衛・土橋九郎右衛門・成安源右衛門・徳田四郎左衛門・井上佐兵衛・間元之進がそれぞ れ銀 50 匁ずつ、計 300 匁を出資しており、「講舎家賃」「灯油代」「炭代」「煎茶代」などの 支出 176 匁を引くと、残金が 124 匁になる。また、翌年には、前述の6人の有志者のほか に、末吉平次郎が新規加入して銀 50 匁を醵金した35。その後、新たな醵金者が現れ、特に 1853(嘉永6)年に領主が銀十枚を下賜し、これを機として郷民の寄付が広がり、寄付の 人数が 35 人にのぼった36。含翠堂の経営に関係した人々が実際どのような階層に属してい たかをすべて明らかにするのは史料的に難しいが、寄付金額の大きさと寄付期間の長さか
ら見れば、彼らの大部分は平野郷の有力者であったと推測できよう。従って、含翠堂は平 野郷を中心として成長した富民層によって創立され、維持された郷学であるとみることが できる。
飛騨の高山町教授所も民間有志者の手によって設営された一例である。この教授所の設 営についてのいくつかの具体的な史料が残されており、その設営方法などが明らかになる。
すなわち、1805(文化2)年に、商人和田屋忠右衛門をはじめ 14 人の有志者が、飛騨郡代 に次のような教授所の建設の願書を提出した37。
乍恐以 書 付奉願上候 右は今
般 高山 町幼童 読 書之儀、
赤田 屋新 助方 ぇ 一 同頼 入候 所
、 同人方 居 宅類 焼後間ニて
席 無御座 候 ニ 付
、 同 人扣 地之 内南側ニ
明 屋 有之 候所ぇ、
書面之教授所席建取
申 度奉願上候
、 勿論木品之
儀 は、
前達て新助方
ニて 酢小屋 ニ 御願申上
置 候御免之
用木 有之 候事故、
右 木品相用
ひ 申 候、
且 地 隣等故障聊無御座候
、 依之連印を以御願
奉申上候、
右 願之通御聞済被下 置候ハ
、 一同難有仕
合 ニ奉存候、
以 上 文化弐 丑 年三月
和多屋
忠右衛門
㊞ 田中屋
半次郎
㊞
野口養安
㊞ 上木 屋
徳次郎
㊞ 吉野屋
清三郎
㊞ 奥田屋
小平次
㊞
笹屋
安右 衛 門 ㊞ 打保屋
忠次郎
㊞ 上木 屋
甚四郎
㊞ 加賀屋
長右 衛 門 ㊞ 福島屋
清左衛 門 ㊞
鍵屋与作
㊞ 木主 赤田屋
新助
㊞ 組頭並地隣 石井屋
弥右衛門
㊞
これをみると、これまで赤田屋新助に幼童の読書の指導を頼んでいたが、類焼により新 助宅が狭くなったという理由をあげ、高山町教授所の建設を郡役所に願った。建設の費用 などについて、赤田屋新助が「扣地之内南側明屋敷有之候」、また「用木有之候事故、右木 品相用申候」というように、校舎敷地と建築用材も民間有志が自ら用意しておいたことが わかる。
また、1832(天保3)年には、教授所の近くは民家が軒を連ねて騒がしく、学習環境と
して不適切であるなどの理由で、赤田屋新助など6人の有志が教授所の移転を申請した。
そこに「字馬場通東側堀之角、私所持之屋敷畑、外大阪屋七左衛門所持之屋敷畑借請、右 之地所へ引移致再興」というように、教授所移転の建設用地も有志者が提供したのであっ た38。
郷学の維持費については、1844(天保 15)年度の勘定明細しか残されていないので、そ の経営の全貌は知ることができないが、同年度の経営状況だけをみれば、20 村から 30 人 を超える村民が醵金している39。このことから、当時の郷学の運営は飛騨の人々の財政援 助のもとになされていたことがうかがえる。
(3) 義学と郷学の経営における相違点
中国の義学と日本の郷学について、その設立と経営様式を比較してみると、主な共通点 として次の諸点を指摘できる。第1に、義学と郷学の経営様式の類型については、①為政 者経営型(中国では県令を中心とした地方の行政官、日本では領主・家老など)、②官民協 力経営型、③民間有志者経営型に類型化することができる。
第2に、為政者経営型を除いて、官民協力経営型と民間有志者経営型においては、両者 ともその大部分は個人の経営によるものでなく、その発起人、経営者や出資者は数人から 数十人、場合には百人を超え、一種の共同体のようなものを形づくっていた。このような 共同出資は義学あるいは郷学の運営の基盤となったのである。
第3に、両者ともに学校の経営者と教育者(主体は教師)との分離がみられた。すなわ ち、両者とも官民共同出資あるいは民衆層の共同出資により、教員を招聘して教育を行っ ていた。これは寺子屋のような教育機関と大きく異なる点である。
中国の義学と日本の郷学は設営においてかなり類似しているが、両者の相違もみられる。
まず経営方式の類型の割合については、中国では民間有志者経営型が一番多く、約半分を 占めているのに対して、日本の場合は民間有志者経営型が3種の郷学のうち最も少なく、
約 15%である。次に経費の出所については、中国では醵金より捐田のほうが圧倒的に多く、
醵金の場合もそのお金で学田を購入するのが一般的であった。言い換えれば、ほとんどの 義学は学田を設け、その収入で義学を維持した。一方日本の郷学では、学田より現米や出 資で経営する場合が圧倒的に多かったのである。
以上のように、義学と郷学の間にいくつかの相違点があっても、しかし本質的な共通点 も存在した。とくに上述の第2と第3の共通点からみれば、義学も郷学も一種の「公的」
教育機関であったといってもよい。少なくとも、近代的な学校制度を導入する以前に、両 国とも公的な教育機関の萌芽がみられたということができよう。
第3節 義学と郷学の教育対象
前節では義学と郷学の成立や普及状況について比較考察してきたが、次に義学と郷学は 一体誰のために設けられていたのか、その教育対象はどの階層まで広まっていたのかなど について究明する。
1.義学の教育対象
義学教育はどのような階層を対象にして行われたのか。これを明らかにするために、義 学に関する勅令や地方官の上奏文などにみられる政府の教育政策、さらには各『地方志』
に記載された義学の入学資格を分析する。
(1)勅令や地方官の上奏文からみた義学の教育対象
義学の教育対象について、清朝の皇帝は大臣や地方官にどのような指示(勅令)を出し たのか、大臣や地方官は皇帝にどのような提案(上奏)をしたのだろうか。本研究では『皇 朝政典類纂』を用いて40、清朝の歴代皇帝の勅令の中から、義学の教育対象に関連したも のを調査した。表2-6はその結果をまとめたものである。これをみると、義学の教育対 象に関連する政策の変遷については、次のことが指摘できよう。
第1に、清朝が成立した直後の 1658(順治 15)年に出された勅令では、「少数民族の首長 である土司の子弟の中で向上心あるいは勉強の意向がある」者を入学させると記されてい る。また、1691(康煕 30)年に、朝廷が「八旗各佐領の子弟が 10 歳以上になった場合義学
表2-6 勅令や上奏文からみた義学の教育対象に関連する政策の変遷過程
発布時期 通達対象 教育対象に関連する内容
順治 15(1658)年 地方行政官 少数民族の首長である土司の子弟が向上心あるいは勉学の意向 があれば、学校を設けて彼らの教育を行う。
康煕 30(1691)年 八旗各佐領 八旗各佐領の子弟が 10 歳以上になると義学に入学させる。
康煕 41(1702)年 各省の府・州・
県 京城に義学を設立し、教員を招聘して優秀な人を教育する。
康煕 44(1705)年 貴州省の各府・
州・県
少数民族の首長である土司の官職を襲う子弟。または苗族の子 弟が希望あれば、入学できる。
康煕 52(1713)年 各省の府・州・
県
多くの義学を設立し、孤児と貧困な人を集め、教師を招聘して 彼らを教える。
康煕 59(1720)年 広西省 少数民族の地域にあわせて 15 の義学を設立し、少数民族の入学 希望者を教育する。
雍正2(1724)年 八旗各佐領 八旗の子弟のうち、貧困で入学できない子弟があれば、義学を
建てて、彼らを教育する。
雍正3(1725)年 雲南省 威達地域に義学を設立し、勉学したい彝族の子弟がいれば、彼
らを入学させよう。
雍正3(1725)年 貴州省 苗族の子弟のうち優秀な人のために義学を立てること。
雍正6(1728)年 八旗各佐領 義学を増設し、10 歳以上 20 以下の八旗子弟が勉強したいならば、
義学に入学させる。
雍正8(1730)年 四川省 四川省建昌において、少数民族の子弟を対象にして義学を設立
する。
雍正 13(1735)年 広東省 個々の村において、多くの義学を設立し、村の人を入学させる。
雍正 13(1735)年 広東省 広東省に黎族や瑶族がある州・県において、多くの義学を建て、
黎族・瑶族の俊秀子弟を入学させる。
乾隆1(1736)年 順天府
大興と苑平両県における義学を修繕し、地方と年齢を問わず入 学希望者あればすべて入学させる。貧しい人に対して学資を経 済的に援助する。
乾隆8(1744)年 綏遠城の八旗 綏遠城にある八旗左右翼において、1校ずつの義学を設立し、
兵士の子弟の中に 10 人ずつを選抜して、義学に入学させる。
乾隆 41(1776)年 熱河 各庁に義学1校ずつを設立し、地域住民の子弟を入学させる
咸豊1(1851)年 浙江巡撫 寧波城の周囲において4校の義学を建てよう。
咸豊1(1852)年 浙江学政 寧波府の町と農村において、義学を設立し、村の人々を教化す
る。
光緒9(1883)年 義学を建て、苗族の子弟を入学させる。
『皇朝政典類纂』巻二百三十一学校十九義学(光緒二十八年刊行)より作成
に入学させること」と八旗41の首領に命じた。このことから、義学の建設の最初のねらい は少数民族の指導者の子弟や八旗に所属した女真人の子弟を教育することにあったといえ よう。
第2に、18 世紀初頭の 1702(康煕 41)年に、朝廷が京城に義学の設立を許可し、さらに
「延塾師教育有成材者(教員を招聘して優秀な人を教育すること)」という勅令を発した。
このことから、義学の教育対象は、最初の少数民族の首領の子弟や八旗の子弟から、漢民 族を含む優秀な子どもへと拡大されたことがわかる。
第3に、康煕末期の 1713(康煕 52)年に、朝廷が各省、府・州・県に勅令を出し、「多立 義学、聚集孤寒、延師教読(多くの義学を設立し、孤児と貧乏な人を集め、教師を招聘し て彼らを教えること)」と命じた。これをきっかけに義学の教育対象は、全国の孤児と貧困 な家庭の子弟にまで拡大した。
第4に、雍正年代(1723―1735 年)に入ってから、朝廷が相次いで義学の開設に関する 勅令を出した。これらの勅令を総合的に分析してみると、少数民族の地域や農村に多くの 義学を設立し、少数民族の住民や村民の子弟、とくに貧しい人々を対象として教育を行う ことという主旨の勅令が大部分を占めている。したがって、18 世紀前半の雍正年代以降、
義学は地方特に農村の貧しい家庭の子弟あるいは普通の村民のために設けられたといえる。
(2)各『地方志』にみられる義学の教育対象
次に、義学に入学する条件などについて、資料として『地方志』を用いて明らかにする。
前述した 88 県(州)の『地方志』では、義学の教育対象については、ほとんど触れられ ていない。これらの『地方志』に載せられた 549 校の義学のうち、教育対象が判明できた のは僅か 85 校である。これらのデータだけで義学全体の教育対象を推測することは難しい が、しかし、その一般的傾向をみることは可能と考えられる。
表2-7 義学の教育対象
対象 校数
村民の子弟 26 校
貧しい人 55 校
優秀なもの 2 校
受験者 1 校
兵士の子弟 1 校
合計 85 校
教育対象が判明した 85 校の義学は、五つのカテゴリに分けることができる。これは、村 民の子弟(地元の人、児童の啓蒙のため、村の勉強に熱心な人などを含む)、貧しい人(貧 民と孤児いわゆる「孤寒子弟」)、優秀なもの、受験者及び兵士の子弟である(表2-7)。
このうち、貧しい人のための義学が一番多く、55 校で全体の 64.7%を占めている。次いで 村民の子弟のための義学は 26 校で、全体の 30.6%である。優秀なもの、受験者と兵士の 子弟のための義学は合わせて僅か4校であり、全体の 4.7%に過ぎない。したがって、各
『地方志』からみると、義学の教育対象は主に貧しい人や村民の子弟であるといえる。
しかし、いわゆる「孤寒子弟」(貧民の子弟と孤児)という基準が曖昧で、実際にどのよ うな人々が義学に入学ができたかについては資料から明らかにできない。また、前述した ように、清朝の義学普及状況が平均1県あたり約7校で、また1校の生徒数が数人から 40 人であることなどからみれば、実際に入学ができたものは、「孤寒子弟」の中でもごく一部 であったと推測できよう。
2.郷学の教育対象
郷学は、既に述べたように、本来藩士や陪臣を対象としたもの、すなわち藩学の延長線 としての郷学と、庶民を教育(教化)するための郷学とに大別できる。さて、教育対象の 異なったこの2種類の郷学は、それぞれどの位の割合を占めていたのであろうか。『日本教 育史資料』(三)及び各地域史・教育史を調べてみると、江戸時代に開設された 164 校のう ち、教育対象が判明できない 47 校を除いて、残りの 117 校における教育対象をまとめると、
表2-8のようになる。この表に示すように、士族卒のための郷学は合計 50 校、42.7%、
士庶のための郷学は 34 校、29.1%、郷村の子弟のための郷学は 33 校、28.2%となる。全 体的にみれば、不明の 47 校を除いて、庶民に門戸を開放した郷学は全体の 57.3%を占め、
半分を超えている。
したがって、郷学においては、その一部は武士階級の子弟を教育対象にするものがあっ たが、表2-8に示しているように、相当数の郷学は庶民に門戸を開放し、庶民の教育機 関として発足したことは確かといえよう。
例えば長門国の朋来館は、1867(慶応3)年、浜崎町平民の湯島秀臧が町内の石光少三 郎・須子清九郎・落合相太郎など有志と「相謀リ学資ヲ募集シ藩主ノ許可ヲ得」て設立さ れた。教育対象については、「入学ハ郡村ノ自他ヲ問ハス広ク募集」し、その中の「多クハ
平民ノ子弟」42であるというように、郷学の生徒の大部分は庶民の子弟であったことがわ かる。
表2-8 郷学の教育対象
対象 校数 百分比
士族の子弟 43
士卒の子弟 7 42.7%
士庶の子弟 34 29.1%
郷村の子弟 33 28.2%
計 117
不詳 47
合計 164
『日本教育史資料(三)』(1890 年)などより作成
また、1838(天保9)年に創設された摂津国の明倫堂は、士庶共学の郷学である。平民 の子弟は、「領主設立学校ヘ入学スルことヲ許可」し、しかし「其就学不就学ハ父兄ノ随意 ニシテ制限アルことナシ」と規定されている。さらに「領主近衛家ハ京都」に居住してい たので、「青侍等ノ此地ニ住スルモノナク」43という状況からみれば、明倫堂の就学者はほ とんど領民の子弟であると考えられる。
さらに、佐賀藩国老多久邑主の多久茂文が、1699(元禄 12)年に士庶の子弟の教育のた め、郷学鶴山書院を創立した。しかし、「年少生徒本校エ遠路通学スルヲ得ス或ハ貧生ニシ テ寄宿スルヲ得サル等」のため、1812(文化9)年に上田町に上田町学舎、同年笹原村に 笹原学舎、また 1859(安政6)年に志久村に志久学舎という3つの分校が村費で設立され た。この3つの分校に通っている生徒は、上述したように、本校鶴山書院に通学或いは寄 宿ができない「専ラ貧士卒平民」であった44。
しかし、郷学の入学者はどのような階層まで広まっていたのであろうか。これについて は、資料上の制約から全体的に把握することができないが、以下教育対象が比較的明確に なっている岡山藩郡中手習所と閑谷学校を例にして検討してみたい。
前述したように、1668(寛文8)年岡山藩内に設立された 123 か所の手習所は、庶民教 育のための公的施設としての郷学の最も早い例である。この 123 か所の手習所の状況をま とめてみると、表2-9ようになる45。これによると、手習所は5、6か村に1か所の割 合で設置され、生徒は1手習所あたり 17.5 人程度である。生徒の年齢層は4歳から 26 歳