VOL23 第6章 第五節 松平侯忍時代 明治維新上編 目次 1、 松平忠誠 (忠誠公肖像) 1−1 忠誠公上洛 1−2 品川第一台場防備 2、 水戸浪士騒擾と忍藩出兵 2−1 水戸浪士の蜂起 2−2 幕軍出動と忍藩出兵 2−3 忍藩郷夫出発状況 2−4 忍藩兵到着前の戦況 2−5 忍藩兵到着後の戦況(祝町御台場地図) 2−6 武田耕雲斎の末路 2−7 城下町行田の情勢 3、 明治維新の胎動 3−1 時局険悪 3−2 忍藩兵備充実 4、 京阪の形勢急転直下 急遽忍侯上洛 5、 明治維新の第一日 薩土芸三藩御所警衛 5−1 忠誠公紀州路落去(紀州路地図) 5−2 忍藩兵の一隊官軍付属となり上京す、隊長家老加藤大炊(おおい) 5−3 大阪天満の東照宮 5−4 殿様紀州落去の報忍に伝わる 5−5 大阪城崩壊の状況 1、 松平忠誠(ただざね) (十二代) 文久三年(1863)四月一日家督相続し、忍城主となり、元治(1864)、慶応(1865~1867)経て、明治二年 (1869)六月五日歿。 享年三十。 治世僅か七ヶ年ではあるが、明治維新という最も多事の時代である。 忍藩主松平忠国公は、男子が無かったので最初、水戸宰相慶篤卿の弟九郎麻呂を嘉永元年(1848)八 月二日に養子となし、名を忠矩(ただつね)と改めて、嘉永三年(1850)二十三日に松平家に移られた。 同 年九月十二日に初めて将軍に謁し、溜の間(たまりのま)格となり、位も四品(しほん)となられた。 また同年 十二月十六日には、従四位侍従となった。 この祝いを翌四年(1851)二月二日行なわれ、藩中に御吸い 物御酒を下されたのである。 安政元年(1854)十一月二十六日前髪を落として元服した。 同四年(1857)四月五日、爾今(じこん)若殿 様と御呼び申し上げる様に達せられ、お祝いがあって藩中に御酒を下された。 然るに、安政六年(1859) 十一月二十三日、故あって俄(にわか)に離縁となった。 この原因は頗る重大な事件である。 水戸斉昭(なりあき)は景山と号し、烈公と呼ばれた傑出した人物で、
大いに藩政を改革し、序(つい)で日本国の大改革を計画し、自ら将軍にならんとしたのである。 この陰謀 が発覚したので、弘化元年(1844)職を罷(や)められて駒込の邸に幽閉の身となったのである。 嘉永六年(1853)米艦浦賀に来たので全国騒然となった際、斉昭は策を献じ併せて、自ら鋳造して置い た巨砲七十四門を幕府に献じた。 安政二年(1855)八月罪を許され、幕政に参与出来ることになった。 同五年(1858)六月将軍家定が危篤 に陥った。 そこで嗣子が問題になった。 斉昭は己の子慶喜を推し、大老井伊掃部頭(かもんのかみ)は、 紀州家の家茂十二才を推した。 議論紛糾したので、斉昭は大いに怒り、抜刀して大老を斬らんとしたが 大老はうまく逃げた。 七月四日、将軍家定歿し、家茂が後を継いだ。 斉昭と尾州侯慶恕(よしくみ)と越前侯慶永とは禁固に 処せられ、慶喜は登城を禁ぜられて事は落着した。 斉昭が御三家と云う家柄の為でこの位で済んだので ある。 法の通り処分すれば御家断絶なのである。 斉昭は尚もこれに懲りずに密使を京都に遣わし、攘夷 断行の勅書を請うて、その勅書を拝受したのであった。 幕府は早くもこれを知ったので、安政六年六月二十七日斉昭を居城に禁固した。 而して勅書は幕府が 奪って京都へ御返しした。 また勅書拝受に奔走した鵜飼吉左衛門と安島帯刀とは斬罪に処せられた。 これが忍藩に影響して、水戸家からの御養子を離縁したのである。 松平下総守家は深い姻戚であるし、 また幕府の意向をも酌んでのことである。 そこで文久元年(1861)九月に、黒田甲斐守の弟である国之進を御養子とされ、名を忠毅(ただかつ)と改 め、同二年三月二十九日松平家へ移り居られた。 然るに同年八月二十六日不幸にも病歿された。 八 月二十八日から九月一日まで三日間、鳴物御停止(なりものごちょうじ)であった。 忠国公は文久三年三月二日烏山城主大久保佐渡守忠美の従弟八五郎左膳を御養子に迎えた。 する と直ちに忠国公は隠居し、文久三年四月一日家督を相続され、名を忠誠と改められた。 時に二十三才 である。 余り健康でなく、どちらかと云えば才子蒲柳(さいしほりゅう)と申すべき方であった。 1−1 忠誠公上洛 忠誠公は、家督を継ぐや否や大事件があって幕府の命で上洛となった。 事の起こりは、文久二年 (1862)十月、勅使三条実美(さねとみ)が江戸に来て、速やかに攘夷を決行せよとの勅旨を伝えた。 将軍 家茂は、勅旨は奉載したものの攘夷決行は、軽率には出来ない大事なので将軍親しく入京し、勅裁を仰 がんとして、一橋慶喜、松平慶永が先ず上洛し、文久三年三月に家茂将軍が上洛して二条城に入った。 朝廷では、四月十一日男山八幡(=岩清水八幡宮)に行幸して社前に於いて、攘夷の節刀(せっとう)を 将軍家茂に授けんとしたのである。 将軍はこの節刀を受けることになれば、攘夷の断行を余儀無くされるので、どうしても御受けは出来難い。 大いに困却したあげく病と称して引き籠った。 また慶喜もまた病を以って出ない。 慶永は国に帰ってし まった。 それで一人も節刀を受ける者がない。 天下の世論は、蓊然(おうぜん)として将軍を非難し実に 囂々(ごうごう)たる有様となった。 この四月、丁度英国軍艦数艘が横浜に入港し、前年生麦(なまむぎ)で島津藩士が英人を殺害した事件 の賠償を要求し、頗る強硬である。 将軍はこの事件を口実に七月十六日急ぎ軍艦で江戸に帰ったが、こ の将軍上洛は頗るまずいものであった。 八月二十六日幕府は、御用番井上(正直)河内守から忠誠公に 対し御呼出しがあった。 忠誠公が登城すると、従四位下侍従に任ぜられ、加えて将軍御上洛滞り無く相 済んだので、その御礼として京都への使者を仰せ付けられた。 これ実に将軍家と朝廷との間に円満を欠くものがあるから、その穏便(おんびん)工作であって頗る大役で
ある。 然し、表面上は京都が不穏であるから禁裏(きんり)警衛のためと云った。 二十八日京都参向に付き、将軍へ御暇乞(いとまごい)に登城。 この時黄金二十枚、時服十領、御馬 等拝領した。 忠誠公は、九月十七日無事京都に到着。 忍藩兵の先発隊は、八月十八日頃から京都本 樹院に到着していた。 仏光寺を屯所として紀州、尾州両藩と共に、日の御門(建春門)を警衛した。 十二月二十八日忠誠公は、 御使中條中務大輔(なかつかさのたいふ)と同道して参内、献上の品々を 奉り天皇に拝謁し、天盃、御太刀を頂戴した。 また親王、准后(じゅごう)からも頂戴物があった。 この時 従四位上少将に任ぜられた。 誠に上々の首尾である。 この大役を滞り無く終えた忠誠公は、元治元年(1864)四月十日江戸に帰った。 1−2 品川第一台場防備 忠誠公が江戸に帰ると直ぐに内海御警衛を命ぜられ、品川第一御台場の防備に就いた。 防備に必要 な高輪(たかなわ)の御陣屋を渡された。 忍藩は直ちに人数を差し向けその配置を完了した。 当時の御 台場警衛の状況は下記の通りである。 第一台場 松平下総守 忍 藩 第二台場 松平大和守 川越藩 第三台場 伊達遠江守 宇和島藩 御殿山 奥平大膳頭 中津藩 第五台場 真田信濃守 松代藩 第六台場 松平大和守 川越藩 第一台場は、高輪に最も近い所にある。 それから隅田川河口に向かって第五、第二、第六、第三と数 えるのである。 御殿山は八つ山の一部である。 忍藩の海岸防備としては、文久(1861)元年には軍艦 操調所が設けられ、元治元年には高輪御陣屋が設けられた。 第一御台場は高輪に近いからである。 2、 水戸浪士騒擾と忍藩出兵 水戸浪士騒擾(そうじょう)は、原因の頗る深いものがあるばかりか、明治維新史に未だ明かされていない 所がある。 また、これが忍藩に種々の影響を与えているので、聊か(いささか)その真相を語る事にする。 既に前項に於いて、斉昭と井伊大老との間に不和を醸したことを述べたが、斉昭は深くこれを遺恨とな し浪士に命じて、井伊大老を桜田門外で斬らせたのである。 時は安政七年(1860)三月三日の桃の節句 で珍しい雪の朝であった。 斉昭は斯くて恨みを晴らし、この年の八月十五日六十一才で歿した。 ここで未だ世間に知られてない大事がある。 それは「水戸家来言上書」(国会図書館にある水戸藩幕末 史料か?)と云うものである。 これは斉昭の腹心の家来が、非を悟り連署して幕府に差出した書類である。 その内容は、幕府の鋭い詰問に対して返答したものである。 第一に感ずることは、幕府が充分にその陰 謀の内実を悉く知り尽くしての詰問である。 水戸家来言上の主眼とする所は、「少しも隠さず正直に白状 するから御三家の一つでもあること故、水戸家は取り潰さないでもらいたい。 家来が主君の非を諌めない のが悪いのであるから、家来の私達は、如何様に処分されても異存はない」とある点だ。 斉昭が幕府の衰微を憂えて、その再建を念願したのは、三、四十年も以前の事で、有栖川宮の姫君を 内室に迎えたのも、朝廷と結ぶ必要があったからである。 その計画の一つとして、上野東叡山法親王宮 を大和国吉野に隠居せしめ還俗なし、南北朝の例に慣(なら)い、京方と吉野方に天皇を二ヶ所に立て、幕 府は京方、水戸は吉野方とする。 斉昭は関白兼将軍となり、水野越前守が執権職に就くと云う天下二分 の計である。 これは幕府に発覚され、弘化元年(1844)斉昭は蟄居を命ぜられたのである。
次は十二代将軍家慶の毒殺である。 これは奥向女中を使用してやらせている。 然しこれは斉昭の意 志でないとして、関係した江川太郎左衛門を毒殺している。 次は十三代将軍家定の毒殺である。 この時こそ斉昭の子、慶喜を将軍に据(す)えんとしたが、井伊大 老に遮ぎられて果たさなかった。 その次は、攘夷の密勅を受けた時、これもまた井伊大老に見破られた。 重ね重ねの悔しさに、斉昭は 浪士の名のもとに桜田門外で、井伊大老を殺害して恨みを晴らしたのである。 以上に増して重大なことは、 若し水戸家が天下の大軍を引き受けた場合を予想し、兵器の充実を計り、また一方には秘策を廻らした。 嘉永六年、異国船江戸湾乗り入れの時、大森海岸には松平大膳大夫、浜御殿には立花左近少監、佃 島には松平阿波守が守備である。 而してその軍(いくさ)奉行が斉昭である所から、各備場毎に腹心の者 数人を配置してあって、いざと云う時は、鋒(ほう)を倒(さかしま)にして幕府に向ける心算であって、万一の 場合には、米国が水戸家の後援をなす密約が出来ていたのである。 即ち米国軍艦を以って所々の海岸 に乗り入れて応援することとなっていた。 水戸家は米国に対し、この場合は便宜上、一時、琉球、壱岐、 対馬、佐渡、隠岐、大島、八丈島等を貸与する密約である。 また日本改革の大方針としては、天皇を伊勢に都とせしめ、伊勢神宮の神官となし、政治に関与せしめ ない。 寺院を全部破却してその土地を没収する。 諸国の神社神職を優遇して、名実共に神国とする。 参勤交代を廃止する等である。 以上の驚くべきことが、水戸家来言上書に盛られた大要である。 而してこれ等を悉く真実であると白状 しているのだ。 この書が一種の怪文書であるか、真実であるかは、更に詳細な研究に時間を与えられな ければならない。 この秘書が忍藩に伝えられていて、忍藩主脳部は斯く信じていたのである。 斯く信じればこそ、忍藩主 松平家は水戸家からの御養子を俄かに離縁され、また幕府もこれを許されたのである。 忍藩は御三家と同席の家柄である。 幕府では溜間(たまりのま)詰めであって御三家及び忍藩等の控 室である。 その上忍藩は、度々紀州家から御養子を迎えている間柄であるから、幕府の内密も知ることが 出来るのである。 また私の祖父は、大阪の御留守居であって、京阪のことに通じていた。 各藩の御留守居仲間にも親交 が多くあって、鍋島藩の御留守居とは特に別懇で、祖父は女の子を養女にやった位である。 その祖母が 私の子供の時分に、水戸家は天子様を伊勢の神主にしてしまう計画であったと話してくれたことを覚えて、 また長く御小姓とで殿様の側近に仕えた漢学の善く出来た人からも、祖母と同じことを聞いている。 これ 等から見ると少なくとも忍藩では信じられていたのである。 これから見ると水戸家の尊王攘夷も文字通りには受け取れない。 とにかく複雑怪奇である。 事実は小 説よりも奇なりとあるが、これ等を指しての言である。 幕府の江戸湾防備も外国のこともあるが、内実水戸 に備えた点もあるらしい。 少なくとも忍藩の上層部は斯く信じていた。 然し、外と結んだのは水戸家だけではなかった。 佐幕派は仏国(ふらんす)と結び、勤王派は英国と結 んだことは公然の秘密である。 勤王派の勝利は英国の勝利でもあった。 これ故に英国は明治政府に対 し、指導的地位にあった。 英国のハ-リス公使の権勢は、大官を呼び付けて怒鳴り散らした話が今に残 るのである。 2−1 水戸浪士の蜂起 斉昭が攘夷の密勅(みっちょく)を受けたことが発覚し、幕府はその密勅を堤出せしめた。 水戸の浪士 は、密勅を途中に奪わんとして、長岡に屯したが目的を果し得なかった。 この浪士は伊賀守武田耕雲斎
の養う所の者であった。耕雲斎は斉昭の老臣で一千五百石を食(は)んでいた。 当時、水戸家中は、藩論二派に別れ、一つは尊王攘夷党であり、他は佐幕開港党であった。 尊王党 を正党、佐幕党を奸党と呼んだ。 斉昭の歿後は争いが特に甚だしかった。 斉昭歿後は佐幕党が大い に力を得たが、その後に至って慶喜が耕雲斎と結んだので、俄かに尊王党が勢いを盛り返した。 文久三年(1863)将軍家茂が上洛の時、慶喜も上洛し耕雲斎が隨従した。 時に耕雲斎は天皇に拝謁 の光栄に浴した。 水戸では慶喜と耕雲斎との留守中を幸いに、佐幕党の市川三左衛門、朝比奈弥太郎 が相計り、尊王党に属する者の職を廃し幽閉した。 元治元年(1864)尊王党大いに怒って、これを藩主に訴えんとして、三百余人郷里を発して下総の小金 井原に至る。 これより少し前に藤田信、山田一郎等は佐幕党が尊王党の妻子を捕え幕府に訴えて殺さ んとしたことを悪(うら)み、筑波山に兵を挙げ監察府と号した。 次(つい)で小金井原の兵と合体し、田丸直 諒を軍師となし、藤田信、竹内延秀、岩倉信成の三総裁を頂き、斉昭公の木像を奉じ筑波を発して日光に 向かった。 田丸直諒は、日光奉行小倉但馬守に対して、斉昭公攘夷の詔(みことのり)を奉じ、未だ断行 に至らざる内に歿した。 その後神洲(神国)の外侮を受けること、日毎に甚だしい。 これを神廟に祈って、 夷人を横浜に伐(うた)んとするものである。 日光の寺院を軍旅の宿舎に充てたいと申しいれた。 但馬守は、幕府の許しがなければと云って埒があかない。 田丸は、軍を栃木の大平山(おおひらやま) に移す。 来り属する者は極めて多い。 佐幕党の市川三左衛門は、幕府の援軍を率いて来た永見貞之 丞と共に大平山を攻めたが、田丸の反撃に会(あ)い撃退された。 いよいよ田丸は、耕雲斎と相謀り攘夷 断行に出でんとした。 幕府は水戸家の支藩である松平大炊頭頼徳に命じ、水戸藩主に代わって常野(常 陸、下野)両州の鎮撫せしめた。 大炊頭は、小金井原に至って耕雲斎を諭さんとして、反って耕雲斎に諭 され尊王党になった。 耕雲斎は、大炊頭と共に水戸城に入城せんとして吉田村に屯した。 これに来り従 うものが多く、総勢四千余人に達した。 時に元治元年(1864)八月十日である。 大炊頭は、水戸城中に使者を遣わし、我れ水戸侯に代わって常野両州の鎮撫を命ぜられた。 近日入 城すると云はしめた。 城中の佐幕党大いに驚き、大炊頭様は入城遊ばさるとも、その他の衆は許せぬと 返答した。 大炊頭は大いに怒って使者の鈴木茂左衛門を斬った。 城中はこれを聞いて戦備をなし、戦 雲みなぎるのであった。 耕雲斎は使いを城中に送って、和を講ぜんとしたのに使者を斬った。 耕雲斎は 怒って砲を放って戦い、佐幕党の家を襲い、大いに破って那珂湊に至った。 連戦連勝、敵将川上捨次 郎を殺し、兵勢頗る盛んである。 2−2 幕軍出動と忍藩兵 幕軍出動部隊は下記の如くである。 御目代(もくだい)若年寄田沼玄蕃頭(げんばのかみ) 二千七百十人 十万石 松平下総守 三百五十人 二万三千石 大岡兵庫頭 九十八人 三万石 板倉内膳正 五百五十人 七万七千石 戸田越前守 二百五十人 六千石 神保山城守 二百五十人 三万石 鳥居丹波守 四百人 二千二百石 河野伊予守 二百人 十万石 丹羽左京大夫 三百五十人 四万八千石 久世謙吉 二百五十人
一万石 井上越中守 五百五十人 この外砲兵隊一千四百十一人 2−3 忍藩郷夫出発状況 忍藩主松平下総守は兵糧の御役を命ぜられ、元治元年七月二十五日から十一月十一日までこれに当 たった。 侍三百五十人、郷夫八百九十一人、馬八十六疋であった。 これが才料(行列や荷物の指揮 者・監督)として久兵衛及び久松の両人が当たった。 久兵衛はこの時、二十三才で谷郷堀ノ内の者であ る。 後に私の祖父の仲間(ちゅうげん)を勤めた。 下町穀商森田屋の祖である。 郷夫派遣の第一回は七月二十四日、第二回は九月十九日出発であった。 郷夫とは村々から出る賦 役である。 第三回まであった。 二回目には日記があるのでその一般を述べる。 九月十九日、郷夫四 組五百二十人は行田町を朝九時出発。 行田から川俣まで一里半、古河へ六里、途中雷鳴甚だしかった。 この夜、古河吉田屋源兵六へ泊まる。 幹部だけが旅宿で、その他は町家へ分宿する。 二十日、野木へ半里、間々田へ二里、小山へ二里、ここで昼食。 川を舟で結城へ二里、下館へ二里、 この夜裏町糀屋半兵衛泊まり。 旅籠銭弁当付きで三百五十文ずつ。 二十一日晴、門井宿へ二里、岩瀬へ二里、羽黒へ一里、笠間へ三里、本町蛭子(えびす)屋徳兵衛へ 御馬廻衆宿泊。 二十二日曇、朝七時戦場生捕(いけどり)の者十一人、御城下仕置場で打首(うちくび)。 追討使田沼玄蕃頭は馬乗、軍兵多数相従へ行装美々しく到着。 町内見物の人夥(おびただ)しい。水 戸へ五里、田沼玄蕃頭は御本丸下、弘道館へ入られた。 忍藩の者は、上町和泉町伊勢屋彦八へ宿泊。 二十五日から弘道館見張所へ御馬廻衆一時間交替で詰める。 2−4 忍藩兵到着前の戦況 元治元年七月二十五日、尊王党の徒党は筑波山から来襲し水戸城下仙波河原で佐幕党の軍と開戦、 尊王党五十余人の戦死者を出し敗北、磯ヶ浜に逃れて防戦する。 八月十二日佐幕党は、下総国佐倉の城主堀田備中守の軍兵が、磯ヶ浜村に火を放って攻撃。 尊王 党は利を失って湊村へ逃げる。 途中祝町に火を放つ。 祝町の百姓二十八人戦いに倒れる。 八月十三日、祝町の百姓必死となって戦い、十五日夕刻まで三日間に百余人の戦死者を出し、尊王党 の軍は五人戦死しただけであった。 八月十六日朝、湊村の村民家財を捨て逃れ去る。 尊王党は湊村を全て占領する。 新製館は、福知 政之丞の守備した所だが、尊王党の将師耕雲斎が来て乗っ取る。 この日の戦では尊王党の立原朴次斎 が戦死、佐幕党では弘道館の斎藤先生が戦死した。 この合戦五日間に及んで、佐幕党に応援した丹羽 左京大夫が大いに奮戦し新製館を奪還した。 八月二十八日、湊村から五里の糠田村で、尊王党の田丸稲右衛門は水戸佐幕軍を破る。 九月一日、佐幕党の筧(かけい)助大夫を将とする七百余人が敗北。 戸田采女正(うぬめのしょう)五百余 人を率いて戦い、これもまた敗北。 この所佐幕党の旗色甚だ悪いのである。 九月十四日、前浜で合戦。 戸田采女正再び大軍を催し九月十五日反射炉で奪戦、互いに損害多く 勝敗なしであった。 九月十六日、湊ヶ原に戦い、戸田采女正と佐幕党の将師市川三左衛門は大敗北を喫し、平磯を尊王 党に乗っ取られた。
2−5 忍藩兵到着後の戦況 九月二十五日、幕軍の鯉淵勢先陣、野州壬生の城主鳥井丹波守後詰めとなって大いに戦い、尊王軍 の首級を百三十余討ち取る。 九月二十八日、幕軍は謀略を廻らし松平大炊頭を欺き、幕軍の陣所に誘い生け捕ること百余人。 その 他を討ち取り、田沼玄蕃これを実検した。 九月二十九日晴 十月一日晴、昨夜から忍藩兵弘道館へ交替で宿泊。 今日鯉淵勢戦場から逃げる浪人二人を討ち取 る。 十月二日晴 十月三日、去る一日、谷津村に籠る田中源蔵の組百余人が鯉淵勢へ押し寄せる。 鯉淵勢首二つ討ち 取り、生け捕り七人である。 その他は遁走した。 十月四日晴、この日忍藩兵は上町を発し、磯の浜へ御陣替え。 夜八時に到着。 下町の江戸屋藤四
郎方で夕食。 十月五日雨、祝町御台場は、去る文久三年耕雲斎の築いたものである。 この所は堀田備中守の攻口 である。 ここの加勢として忍藩兵今日から一昼夜交替で詰める。 十月六日曇 十月七日晴、曩(さき)に幕軍は松平大炊頭を招いた。 大炊頭は行かんとするので耕雲斎は押し止め たが、振り切って数人の供を連れて水戸城に入る。 これは計略であるので即日、大炊頭に切腹を命じ従 者は悉く斬に処した。 これから両軍の戦闘激烈を加えた。 十月八日晴 十月九日晴 十月十日雨、風吹いて寒い。 攻手の諸将は夜中から大小砲を打ち掛け、唯一揉(ひともみ)に乗り入ら んとするが、尊王軍も防備厳重で大砲を盛んに打つ。 砲声すさまじく夜十時に及ぶ。 十月十一日雨 十月十二日晴 十月十三日晴 十月十四日晴 十月十五日晴 十月十六日晴 十月十七日晴、朝六時総勢浜原に繰り出す。 堀田備中守の郷夫一人銃丸に当たって死亡。 正午、 諸手から六人中川を渡り尊王軍の屯所へ火を放った。 十月十八日晴、朝八時から鉄砲を打ち合う。 攻手の先陣は、水戸軍と宇都宮奇兵隊である。 尊王軍 は、間道から宇都宮勢の後に廻り、前後から挟撃され宇都宮勢、危うしと見えた。 この時水戸勢は、尊王 軍の後に廻って必死に攻め立てる。 尊王軍総崩れとなる。 今日の生け捕り八十四人。 十月十九日、昨日田沼玄蕃弘道館から中根館へ移る。 この日尊王軍から使者が来て今明日(こんみ ょうにち)中、合戦を御扣(ひか)え下されたしと願い出る。 田沼玄蕃この旨聞き届けられた。 十月二十日晴 十月二十一日晴、この日忍藩兵国元から交替の郷夫が来て、夕刻交替した。 十月二十二日晴、忍勢上下共、磯浜を立ち水戸下町在酒門村の仮陣所へ移る。 本陣は一向宗善浄 寺と浄土宗定善寺である。 人足は最寄りの農家へ宿る。 吹上村の郷夫は、水戸家の御先手(さきて)川 俣泰助宅に二、三日逗留、二十五日下町九丁目に移る。 十月二十三日、幕軍諸手総攻撃。 尊王軍大敗北、湊町を追い出された。 降参及び生捕中、首領三 十八人、女房共八十四人、男女合計百二十二人。 残兵五百余人は、水戸勢の将師市川三左衛門の馬 印を偽造し、人を欺いていた。 これ等の残党は野州へ遁走した。 十月二十六日、奇兵隊を以って追撃した。 奇兵隊の有様は真っ先に白地に朱の丸の旗を押し立て、 太皷四,剣付鉄砲四十七挺。 次は旗一旒(いちりゅう)、鉄砲九十五挺、太皷四、剣付鉄砲七十二挺。 次は旗一旒、鉄砲百八挺、馬乗四人。 次に旗一旒、太皷四、剣付鉄砲七十二挺。 次に旗一旒、剣付 鉄砲百六十挺。 次に旗一旒、太皷二、剣付鉄砲六十五挺。 次に旗一旒、剣付鉄砲六十挺。 合計六 百五挺。 人数八百余人。 その後から鯉淵勢が各々抜身の鎗で続き、都合総勢一千五百余人であっ た。 忍藩兵は、常州の残党が野州辺を横行するので、これの討払いを命ぜられ十一月十二日出陣した。 その人名は下記の通りである。
家老 加藤 大炊(おおい) 番頭 生田(しょうだ)泰之助 用人 奥平弥左衛門 物頭 松井弥四郎 同 山田 志馬 使番 斎藤甚兵衛 目付 大根田七左衛門 同 足助(あすけ) 軍内 軍事方 松宮奥太郎 佐藤 孫助 松平平之進 榎本 直衛 永田傅兵衛 奥平瀬左衛門 望月 幸助 後藤雄太郎 福田金次郎 石垣 双 和田造三郎 森 勘助 井狩勘大夫 生田平右衛門 村上竹之進 片山新右衛門 黒屋銘次郎 杉浦久次郎 尾崎鏡之助 長坂小四郎 薮田七良兵衛 安井 金吾 御馬廻 富永清兵衛 畠山惣左衛門 勘定頭 鈴木伝左衛門 御馬廻 懸川九左衛門 川合 守 松田刀太郎
医師 久河 道伯 同 志村 謙貞 同 溝部 有真 御用席 吉田実兵衛 武器預下役 菅沼 甚七 組外 土屋留右衛門 末吉勘兵衛 長谷川礒右衛門 見役* 植松源蔵 *見役は検見役(けみやく)のことか 岡本兼治 御徒 桜井幸左衛門 江草三十郎 渥美門右衛門 村越新九郎 吉村小平治 中野音三郎 大久保七左衛門 鈴木友右衛門 森 請之助 羽山小太郎 書役 山下 桂藏 下目付 大倉定兵衛 菊地為三郎 御細工人 澤田 六蔵 村岡 覚藏 田中 廣太 瀬野栄之助 加藤與四郎 松岡夘右衛門 岸 弓之助 奥山左伝治 足助小太郎 萩野加兵衛 小林順之進 杉本九十郎 大根田貞助 一都 語 岡田杢右衛門
兵糧方 岸野鉄次郎 高田三良右衛門 金預り 山野 磯治 吟味役 木村藤右衛門 御大工 水野平大夫 物書 太田鐐(かね)之助 水越宗三郎 小島義三郎 大竹又四郎 尾山条左衛門 西山 富蔵 後藤伊三郎 服部辰太郎 松岡三十郎 鮎川 逸八 渡辺 郡藏 野間金之進 伴 文次郎 貝原 三藏 後藤五良右衛門 奥平 源吾 鈴木曽平太 金沢 量吾 医師 徳重 玄瑞 武器下役 中井治兵衛 御徒目付 佐藤作右衛門 妹尾喜十郎 下奉行 三人 御先手小頭 四人 御先手 四十人 御旗組 三人 上記の外、予備隊として御番頭小笠原鎮馬、御物頭池田五右衛門等が待機していた。 上記の隊は、下総古河と常陸真壁に出陣したが戦争はなかった。 2−6 武田耕雲斎の末路 まだ水戸で尊王党と佐幕党と相対峙し戦を交えつつあった頃、幕軍は甘言を以って降者を招い たので、戦いを欲しない者相謀って、降る人多く出て尊王軍は頗る不利に陥った。 特に湊町を佐
幕軍に奪われては耕雲斎も是非もなく、一千二、三百人を率いて館山に出て、大宮村に至り幕軍 を破って佐貫に進み、水戸勢の将師である市川三左衛門の軍と戦うこと三日、遂にこれを破った。 それから奥州路より下野に入り、世良田を過ぎて上野に至って、高崎城主松平輝照の兵を破って 信濃に出て、高島の城主諏訪忠誠、松本の城主戸田光則の兵を和田峠に破り、美濃を目指して 大田川を渡り、加納に至って京師(けいし=みやこ)に上らんとした。 大垣侯戸田氏彬、島津の軍兵と共に大軍を擁して防ぐ所に会い、耕雲斎は路を転じて北行して 越前の大野に至った。 城主土井利恒は、沿道数ヵ村を焼いて宿泊の場所を皆無とした。 時に大 雪積もり士卒凍えて進退を失った。 丁度ナポレオンの兵がモスコ-に入り寒気将軍に降ったのと 同一であった。 耕雲斎は万策尽きたので書を以って降伏を加賀藩に請うのであった。 加賀の永原甚七郎は耕雲斎を愍(あわれ)み、厚く遇して敦賀の本勝寺等に将兵を入れた。 これ 実に元治元年十二月二十四日のことである。 これより先、一橋慶喜は耕雲斎の西上を聞いて詔を請い、自ら大将となって桑名、会津、松江、 福岡、阿濃津、小田原の兵を率いて加賀の兵を先鋒として、十二月十日榛原(かいばら現大津市 真野普門町)に陣したのであった。 この加賀の先鋒の将が永原甚七郎であった。 翌二年二月三日、幕府の大目付黒川近江守を遣わして耕雲斎以下を処刑した。 時に耕雲斎 は六十三才であった。 耕雲斎、田丸直諒、藤田信、竹内延秀等二十四人は死刑、次いで三百二 十八人が死刑、その外は流刑その他であった。 この時水戸浪士一百二十人は、忍藩御預かりと なった。 忍藩では郷夫二百五十人を出して、これ等降人が利根川を下り、下総国佐原に到着を 待って受け取り、利根川を舟三十艇で上り、大越河岸に着き、それから駕籠で沼橋の別邸に入れ た。 二月二十七日のことである。 元治二年四月三日朝、御預かりの降人中三人、床井庄三、溝口園兵衛ほか一人が死罪に処さ れた。 床井と溝口とは時世の和歌を残している。 慶応四年二月九日、降人全部を江戸伝奏屋敷に送った。 これで忍藩御預かりが無事に済ん だ。 藩中でも水戸浪士に同情を寄せる者があって、下忍の農家福島久吉は痛く同情し、人を介し て慰問し、遂に床屋となって沼橋邸に入り慰問したのである。 床井ほか二人が斬に処せらるるや、 その遺髪を持ち帰って懇(ねんごろ)に菩提を弔ったのである。 志士達はこれを聞いて徳とし、十 一人が合作の詩書を贈ったと云う。 沼橋邸でも厚遇したが、藩士の中でも慰問する者も少なくな かった 。 今日に残る記念品としては、感文帖とて菊池恒ほか四十四人氏の詩歌墨跡(ぼくせき) を広田村澤田氏が秘蔵している。 何れも見事な筆である。 百二十人中約半数が文筆のたしな みがあったことは、水戸藩好学の風が伺われるのである。 巨魁は床井庄三であった。 名を親徳 と云う。 漢詩数扁がのこる。 扁額としては柴田甫氏に蔵されてある。 忍藩御預かり水戸浪士の氏名 久方 彦助 武石権三郎 間々田長十郎 栗田藏次郎 菊池治右衛門 小山平治右衛門 床井 庄三 中村 新平 大間亮之助 鰹木萬右衛門 国松銀次郎 広岡登四郎 山本万次郎 松下弥大夫 長久保権三郎 松延 喜七 鈴木金次郎 高橋弟四郎 沼田藤右衛門 五十嵐宗四郎 皆川三輪吉 酒家金三郎 岡部忠太郎 福地 定吉
相澤 庄吉 根本孝五郎 跡部量三郎 本間豊之助 伴 七之助 伊藤弥四郎 伊藤源三郎 関 強助 岡本得三郎 川崎 平吉 小田 将吉 増子 謙藏 石川 孝三 篠本 亀松 今井 賞吉 伊藤 留吉 小原恒五郎 渡辺徳次郎 久木孝太郎 平山富次郎 加藤熊之助 林 亀之助 安積健之助 竹内市太郎 菊池秀次郎 柴田源次郎 大竹 与市 鈴木 祐助 向坂進之助 安松 仙助 原 集之助 進藤夘之助 天野虎之助 相沢雄次郎 天野小次郎 武藤秀三郎 白石新五兵衛 浅利七次郎 松平万次郎 跡部鉄之助 河西辰次郎 前野新之助 河西銀三郎 鰹木 鐘吉 落合巳之吉 海野吉之介 平山得三郎 川崎 内藏 小平 辰三 安松 晋助 服部熊五郎 三田寺秀次郎 照澤 泰吉 横山喜右衛門 大関直四郎 園部 俊雄 田村徳太郎 川橋 豊吉 岡山夘之次郎 檜山辰太郎 白石 恒藏 関内彦四郎 増子重之助 明珍仙之助 大関八五郎 栗木林之助 武田 監物 助川英太郎 立花平三郎 瀧田鉄之助 米川留四郎 坂井海平太 神松 鉄蔵 江幡 平吉 大内 礒藏 国友吉次郎 海野八之進 国友 兵助 大塚新左衛門 佐藤 太吉 小貫源兵衛 海老澤孫次郎 桑名徳十郎 梶 二助 坂場恒太郎 関内 政助 榊原忠兵衛 栗本清藏 川瀬辰之助 以上百十七名である。 三名不足するが病死の者があるとのことだから、それで氏名がないらしい。 2−7 城下町行田の情勢 行田町にも水戸浪士の挙兵は、頗る風雲の危急を告げたのである。 元治元年(1864)五月六日に、羽州(出羽の国)松山の城主酒井大学頭の藩士が領分である桐生町 へ金作に出かけると、水戸浪士の大軍が野州(下野国)太平山に屯在し、形勢不穏なので、特に酒 井家の藩兵出向となり行田町を通行する。 その様は各人後鉢巻(うしろはちまき)で陣羽織を着し 槍を携え、大筒三挺を車に乗せたもの、長持七棹、小長持四棹であって行田の人を驚かせた。 五月晦日には城中から御触れが出て、近時物騒であるから下町、新町の御門に見張り人を出す よう命を受けた。 直ちに辻番所を建て出方(でかた)二人ずつを置いた。 これが十月八日まで続 いた。 六月五日、川俣関所に不審な浪人が来たが、通行を許さないので浪人滞在とのことで、物頭市 川某同勢を引き連れて出張する。 その後、続いて乗馬で出張さる。 六月六日、秩父の猟人を呼び寄せ、七日から二十人ずつ川俣関所に詰めさす。 尚、藩兵は熊 谷方面の見回りをする。
六月十二日、彦根藩兵一百三十人行田宿泊。 十三日出立。 大小砲及び剣付き鉄砲を各人 が所持している。 佐野の陣屋へ詰めるとのことだった。 六月十四日、戸田侯の軍兵多勢行田宿泊。 十五日出立。 兵備頗る厳重であった。 六月六 日、水戸浪士栃木を焼亡し勢い激烈なので、出陣とのことである。 六月十七日、代官松村忠四郎廻村で行田二泊。 十九日朝出立。 ライフル銃二挺、銃槍等大 勢が警衛していた。 七月十九日、御使番二人桶川宿り、富岡宿りで通行された。 七月二十四日、水戸浪士騒擾で忍藩兵の出動となる。 その行列は、鉄砲槍兵器、御物頭松平 四郎左衛門乗馬。 鉄砲槍兵器等、物頭市川孝太郎乗馬、鉄砲鎗兵器、番頭伊藤兵衛。 いずれ も陣笠、陣羽織、晒し木綿で後鉢巻の扮装(いでたち)であって常州(常陸の国)へ向って発向する。 八月一日、鈴木孫四郎、大瀧粂次郎、関戸八十五郎行田を通行して常州に向かった。 九月四日、筑波山屯集の賊徒平定の御触が出た。「尚右賊徒各地に潜伏徘徊し、金銀を押借り する等の乱暴を働く者を見つけ次第竹槍等で突き殺せ」との強いものである。 九月十四日、忍藩物頭畠山夘左衛門常州へ発向。 郷夫もこの時引替えとなる。 九月二十八日、忍藩から松井弥四郎乗馬、小笠原鎮馬乗馬、人数多勢、御紋付玉箱三荷、武 器長持、小長持数多、旗、大砲、荷物、郷夫等総勢六百余人出発。 十月三日、又々御人数多数出発。 十一月四日、忍藩兵の長持八棹帰る。 十一月九日、忍藩兵館林宿り、御帰陣の荷物到着する。 十一月十日、大旗、大幟、鉄砲等の行装美々しく、物頭小笠原鎮馬は小具足で乗馬。 物頭松 井弥四郎乗馬。 槍武具続く、名々陣笠、陣羽織で目出度く御帰城である。 十一月十一日、長持二十七棹、籠長持四棹返る。 藩兵は凱陣したが、上州太田辺に常州の残 党が滞在し、十一月十一日熊谷へ押し寄すとの風聞盛んなので、利根川通りに警備の人数を差し 向け、川俣関所へは警備兵の増員などで混雑した。 秩父市上野の旧家松本由太郎氏の祖父重 太郎の手記での御用日記に忍藩が二十名と五十余名の猟師より成る鉄砲組を召集したとある。こ れはこの時の事である。 これは川俣と石原へ出陣したのであった。 奉行中村長左衛門熊谷へ出陣。 物頭その他警備の人数出発する。 忍藩討伐軍は砲車を引 いて石原へ出動した。 砲車は大型荷車に、二間余もある花火筒の如き大砲を積載したものである。 石原のはずれに据付けて発砲した。 水戸浪士軍が太田から間道を通って、深谷、本庄方面へ向 かうのを側面から攻撃して忍領内への侵入を防ぐものらしい。 熊谷の市中は、何れも戸を閉め戦争気分である。 義勇兵が組織されて、紅、白、黄、緑と色とり どりの後鉢巻で武器を手にし、忍の砲兵陣地より更に前方に進み玉ノ井方面まで行った。 その時 突然に白鉢巻の義経袴を着け、太刀を提げた浪士が一人竹薮から飛び出たので、びっくり仰天し たと云う話しがある。 十一月十三日には、家老加藤帯刀御出陣である。 籠原で浪人三人を召捕え行田へ連行し打 首。 大長寺に葬った。 十一月十六日午前四時、高崎藩兵が小坂村名主宅前に陣を布き、下仁田村に宿泊した浪士隊 を待ち受けた。 藩兵が浪士隊の裏に廻ったので浪士隊は総崩れだ。 名主宅の二階へ逃れ切腹
する者三人。 裏手に死人七人。 その他往来に十二人の死体があった。 生捕七人は、下仁田 河原で打首。大砲五挺を分捕った。 同日午後四時頃高崎藩兵は、下仁田を発し、西技、藤井の 両番所を越し、本宮村に出て小筒を放つと、浪人隊は大砲を放ったが浪士は残らず散乱した。 往来に大木を切り倒してあった。 (藤井関所跡は下仁田町東野牧にある) 同日行田町では、越後新発田(しばた)の城主溝口伯耆守(ほうきのかみ)の軍兵が通行した。 大 幟、馬印(うまじるし)、陣鐘、陣太鼓、大小砲等一千三百人であって、浪士軍が利根川を渡って本 庄、新町に屯在するのを討伐の為と聞いた。 尚、大久保侯も歩兵を率いて行田を通行された。 十一月十七日、館林城主秋元但島守の軍兵一千人と新発田侯の軍兵二千人とが行田を通行す る。 十一月二十七日、討伐軍の総師田沼玄蕃頭が熊谷に滞在された。上州鬼石と藤岡付近へ出張 した忍藩兵は、十一月二十八日帰陣して水戸浪士騒擾(そうじょう)は、全く終りを告げた。 3、 明治維新の胎動 文久も三年(1863)となると、攘夷論益々旺盛となった。 五月には長州藩が外国船を砲撃する。 越えて六月には、米艦を下関で砲撃した。 七月には英艦が鹿児島を砲撃すると云う騒ぎである。 八月になると、朝廷が長州藩の建言を容れて、将(まさ)に天皇は大和に行幸し親征の挙に出でん とした。 然れども、この挙には各藩兵反対が多く、特に薩藩が長州藩の行動を痛く非難したので、 朝廷も俄かに大和行幸を取り止め、長州藩士を京都から退去せしめた。 (七卿落ち) 長州藩は、止むを得ず三條実美(さねとみ)、三條西季知(すえとも)、東久世通禧(みちとみ)、四 條隆歌、壬生基修(もとなり)、錦小路頼徳、沢宣嘉の七卿を奉じて長門(長州)に走る。 これを世に 七卿落(しちきょうおち)と云う。 この七卿中にある四條隆歌は、忍藩主松平下総守家と姻戚の関係 にあるので、忍藩帰順に糸を引くのである。 (家茂将軍上洛) 元治元年(1864)正月将軍家茂は二度目の上洛である。 最初の上洛は、文久三年三月であっ て、その時には攘夷の節刀を天皇から親授されんとし、家茂は窮地に追い込まれたので、逃げる 様にして江戸に帰った。 然るに今度は以前と全く異なり、外患に備え戦備を充実せよとの勅諚で 将軍の思うつぼである。 ところが六月二十三日、長州藩の老臣等七卿及び藩侯の罪を許された いと哀願したが許されない。 遂にこれが強訴と変じて、七月十九日の蛤御門の変となった。 (蛤御門の変と長州征伐) 長州藩士国司朝相(ともすけ)、来島(くるしま)政久、児玉民部等が会津藩の守護する蛤御門を攻 撃した。 薩摩、桑名、越前、彦根の諸藩が会津に応援したので長州の大敗に終わった。 幕府は 直ちに長州藩主毛利侯の官職を罷免し、尾張大納言徳川慶勝を大将となし、山陰、山陽、西海、 南海二十一藩に命じて長州征伐の軍を起こした。 総兵力二万と号した。 征討軍は十月京都を発し堂々として広島に着し、将(まさ)に長州に向かって進発せんとした時、 長州藩は漸くその非を悟り謝罪したので、徳川慶勝はその罪に伏する状を江戸に伝えて軍を返し た。
元治二年四月改元して慶応元年となる。 その四月十七日は、家康公の二百五十回忌に当たる ので日光で大法要が行われた。 家康の神霊も時勢の変遷に驚かれたことであろう。 一旦は罪に 伏した長州藩は、幾許(いくばく)もなく藩論強硬となり、幕府へ反抗の態度を明かにした。 (再度 長州出兵) そこで慶応元年(1865)五月十六日、幕府は再び大軍を発し将軍家茂の親征となる。 将軍は江戸を発し、紀伊中納言徳川茂承(もちつぐ)を前軍の将となし、尾張大納言徳川茂徳(も ちなが)を後軍の将とした。 将軍は先ず京都に入って朝廷に敬意を表し、尋で(ついで)大阪城に 入った。 この報は直ちに行田に飛んだ。 公方様(くぼうさま)去る十六日、長州再征の為に御進発。 東海 道を上られた。 御帰城まで、他所から来た者はよくよく改め申すこと、火の用心に念を入れること、 風の烈しき日は、湯屋は休業すること、神事祭礼、寺院の法談等人の多く集まることは、御伺いの 上になすこと等の御触れが出た。 十一月征討軍は安芸に進んだ。 然し慶応二年二月に至ると、蛤御門の変以来の薩長間の不和 が解消し、互いに好を通じて勤王に精進することとなり、形勢一変し、幕軍頗る不利となり、幕軍 所々に敗走を重ねる有様となった。 この間に仏国(ふらんす)軍艦は幕軍に応援する所があった。 英国はまた両者の調停に出た。 (忍藩主忠誠公上洛) 六月に至り忍藩主忠誠公は、幕命で兵を率いて上洛された。 忠誠公は江戸から側近を召し連 れて東海道を上られ、忍藩兵は中仙道を上った。 兵数三百七十七人であった。 京都に入り妙心 寺に駐屯し、京都の守護に任じたのである。 この頃の京都の様子を知るものに、志士相楽総三が 京から江戸の親許へ送った信書に依ると、物価高く米は百匁(もんめ=文)で九勺(しゃく)位なの で、何となく物騒で夜は追剥(おいはぎ)が出たり人殺しがある。 強盗、放火又は首つり、捨子、人 が斬らるること毎夜の如くであるとある。 随分と不穏な世情であったらしい。 (参考) 江戸時代は三貨制度(金銀銭)であった。 公定相場あるが、実際は毎日変動する。 江戸初期(1609~)の公定相場 金 1 両=銀 50 匁=銭 4000 文 江戸中期(1700~)の公定相場 金 1 両=銀 60 匁=銭 4000 文 江戸後期(1842~)の公定相場 金 1 両=銀 60 匁=銭 6500 文 幕末(慶応 3 年 1867 頃)の公定相場 金 1 両=銭 8000 文 金 1 両で買える米 江戸初期 350kg(23.33 斗) 金 1 両で買える米 江戸中~後期 150kg(10 斗) 金 1 両で買える米 江戸幕末 15-30kg(1-2 斗) 銭 100 文で買える米 江戸初期 5升8合3勺 銭 100 文で買える米 江戸中~後期 2升5合 銭 100 文で買える米 江戸幕末 1合5勺ー3合 (将軍家茂の死去) 七月二十日、将軍家茂が大阪城で歿した。 家茂は出陣の際、遺言して置いたがそれが事実と
なった。 死因については疑えば疑えないことも無いが、別にこれに関する史料が無いから病死か も知れない。 (慶喜将軍となる) この報は八月二十九日、一ヶ月もたって行田に知らされた。 これと同時に一橋中納言慶喜が将 軍になられたと通達された。 即日鳴り物御停止である。 将軍の死は、西征軍の帰還となって、長 州再征は全く失敗に終る。 忍藩兵も京都滞在三ヶ月で帰国。 藩侯も江戸に帰られた。 (孝明天皇崩御) 十二月二十五日、突然孝明天皇の崩御である。 この事は、当時から色々と疑惑がもたれたの である。 この時分私の祖父は、大阪御留守居であった。 祖母が私の子供の時に、孝明天皇は毒 殺されたのだと話してくれたのであるから、そう云う噂があったのである。 中山忠能卿の日記に、老女浜浦から中山大納言忠能卿に送った手紙が載っている。 その一節 に、 「この度、御痘(おいも=ほうそう)全く、実疱には在らせられず。 悪瘡発生の毒を献じ候。 その 證は、御容態大秘、御内の者すら一切承らず、且つ、二十五日敏宮御参内を達って止られ候へど も、押し切って御参内などは、怪しむべき第一云々」とあるのである。 これが真実なれば毒殺と云うことになる。 この文献は容易ならぬものである。 敏宮とは後の明治 天皇である。 孝明天皇崩御の報は、行田に通達されたのは、慶応三年正月九日である。 直ちに鳴物御停止 で子供の凧揚げまで禁ぜられた。 凧にはうなりがあるからである。 明治天皇は十六才で慶応三 年正月九日御践祚(せんそ=天皇の位を継ぐこと)である。 四月、兵庫開港の難問題解決の為に、将軍慶喜は上京し、勅を得て開港に決した。 いよいよ明 治維新の楽屋裏の準備は、全く整ったので、ただ幕開きを待つばかりとなった。 3−1 時局険悪 維新の前夜は、形勢混沌としていて、その局に当たる人々ですら容易に事態の推移は掴(つか) めなかった。 舞台裏の暗転また暗転で、更に知る由もない。 今日の如くラジオも新聞もあるでなし、大阪江戸間の交通は、十三泊の十四日入りと云われた時 代で、上方で何が起こったか知るよしもない。 ただ慌しい武士の動きに目を見張るだけであった。 3−2 忍藩兵備充実 慶応二年六月十三日突如として、外秩父名栗、吾野(あがの)に起こった打毀(ぶつこわ)しと云っ た百姓一揆は秩父、高麗(こま)、入間、比企の各郡に波及し、実に大暴動であった。 熊谷町では、 これを村岡の渡で食い止めたので事無きを得た。 熊谷の人々は、星川橋で必ず防御する大決心 で岡引(おかっぴき)連中は十手捕縄を、有志から成る義勇隊は長鳶(ながとび)や刺股(さすまた)を 携えて待ち構えた。 暴徒はこれを望み見て来なかった。 これに鑑(かんが)みた忍藩では、村々の身分ある者に対し、鉄砲を貸与して防備を厳しくした。 当時は、米価が騰貴し、江戸では白米が百文で一合七勺した。 行田町でも殆ど同一であった。 それ故に十一月に至り、幕府で外米を買い入れ、民間に自由外米の買入売捌(うりさばき)を許可し
た。 古老の語る所では、当時初めて南京米(輸入米)が来たと云うことである。 子供が「南京米は、 いやだなし、割り(=麦飯)がいい」と云ったそうである。 慶応三年五月二十七日、世情いよいよ険悪を加えたので忍藩では、行田町民に対し町内防備を 厳重にする為に、銃隊の組織を命令した。 この組織は、上町二十二人、新町十二人、下町十一 人、八幡町二人の合計四十七人である。 何れも青壮年者で、町内の屈指の富める階級の者から 選んだ。 その扮装は、笠、銃、ダンブクロと足袋、麻裏(ぞうり)である。 ダンブクロとは、今日のズ ボンである。 また一方窮民に夫々救助の手が差延べられたのである。 藩の財政は益々困難なので、十一月二十日御用達金、即ち民間借入金を半命令的にやった。 行田町から二千五百両、在方から四千両であったが何れも富豪が出金した。 十一月には、藩の 兵制大改革を断行したのである。 重衛隊、これは寄合衆とて、現在役職を離れている者から成る。 親衛隊、これは御近習とて殿様側近者から編制したもの。 表銃隊、これは御馬廻で組織する。 十八組あった。 一組は何れも二十人。 新撰隊、これは少年隊である。 衆合隊、これは御目見え以上、御切米取(=領地を持たない下級武士)の階級からなる。 衆合並隊、これは御目見え以下の御切米取から成るもの。 撤兵隊、これは御先手組であって足軽の隊である。 十八組あった。 何れも陣笠、陣羽織である。 これ等の隊は、下忍村遍照院前方の練兵場で洋式訓練を行った。 その外に農民中の強壮な者を召して兵とした。 これを農兵と云う。 急変の節は、佐間組は埼玉 村天祥寺に詰める。 持田組は下忍村稽古場に詰めること、谷郷組は川俣関所へ詰めることとなっ ていた。 皿尾組だけは、その時の指図に依って行動する定めであった。 十二月二十四日には、火の見櫓が始めて出来た。 加藤十左衛門の側に建てた。 現在では山 屋呉服店の北側(現行田市行田6-1)に当る。 大きな梯子を立てた様な形のもので、中辺に半 鐘がつるしてあった。 その下に消防器具置き場がある。 4、 京阪の形勢急転直下 急遽(きゅうきょ)忍侯上洛 当時、京都御留守居役に新任された佐藤江場之助は、日記を残している。 幸いにこの日記を 基本として、この間の消息を述べる。 佐藤江場之助は、京都半年詰めを命ぜられたので直ちに出発し、慶応三年十月一日に京都に 到着した。 そこで前任者の芳賀三大夫と交替すべきだが、時局多難なので芳賀は佐藤を助ける こととなった。 間もない、十月十一日急使が来て、明後十三日に重役の者二條城へ登城せよとあ った。 十月十三日、佐藤は国事掛牧勝兵衛、岡本金蔵の両名を伴い登城する。 大広間に各藩の重 役が列座すると、間も無く、大御目付戸川伊豆守安愛と閣老(老中)板倉伊賀守勝静(備中松山藩 主)が出座される。 一同緊張する。 閣老おごそかに口を開いた。 その大要を簡約すると、 今時事態が急変したのであるから、将軍家には非常な御決意を以って、今度将軍職を御辞退、 大政返上の思し召しである。 その御趣意書はこれにあるとて、一同に拝見を許された。 何と云う重大事件であろう。 突然のこととて一同声を呑み、互いに顔を見合すのみである。 御
趣意書を拝見し終って退く。 また別室で戸川伊豆守から忠誠公至急上京の内意を伝えられた。 佐藤は急ぎ帰って急飛脚を江戸へ差し立てる。 薩州、芸州、上州、備前、宇和島の五藩から意 見書が今日差し出されたと聞いた。 十月十四日、将軍から政権返上の上奏があった。 二條城で閣老から示されたのは、上奏の前 日であった。 十月十五日、京都御所仮建所から御呼び出しで平野桂之丞出頭する。 忠誠公至急上京の朝 命下る。 十月十六日、又々二條城からの呼び出しである。 佐藤罷出ると、大広間で戸川伊豆守と閣老板 倉伊賀守からの口上は、いよいよ将軍職御辞退を仰せ出された趣である。 その御書面を拝見し た。 同時に忠誠公の上京方重ねて閣老から申された。 十月十七日、佐藤は事の急なのに驚き、直ちに京都を出立し単騎鞭を上ぐ。 十月二十二日夜、江戸に到着した。 これが当時の大々的スピ一ドであってこれ以上は不可能な のだ。東海道は、江戸日本橋から京都の三條大橋まで五百四キロを、十三泊の十四日入りと云う のが普通であった。 これに比すると六日間も早いことになる。 十月二十三日、佐藤は殿様及び大殿様の御前で、御用席一同列座の所で、京都の形勢と将軍 御辞退、既に上奏遊ばされたこと、それから殿様上京の内命ここに申し上げる。 その場で直ちに 大評議となったが、余りに事が重大で容易に決定しなかった。 十月二十四日、昨日に引き続き御前で大評議。 殿様には上京を仰出された。 十月二十六日、殿様には、御名代として山田丹波、山田此面(このも)の両人を忍へ遣わされ、京 都の形勢を口述せしめられる。 十月二十七日、両山田は渡辺勇を伴い馬乗で忍へ急いだ。 この時家老山田は空腹を感じ、鴻 巣で路傍のうどん屋で一杯食べた。 さて御家老のこととてその価を知らない。 一分だか二分銀 だかを一つ置いて急ぎ馬にのる。 うどん屋のお爺余りの大金にびっくり、急ぎ飛び出したが既に 遅かった. 十月二十八日、翌二十九日の両日、忍城中の諸役人を招き時局の急変を伝え、両山田は再び 馬乗で江戸に帰った。 十一月八日大殿様、九日殿様から佐藤を御召しである。 佐藤は山田求馬(もとめ)と共に参殿し た。 来る二十日殿様御上洛と決定した。 十一月十日、佐藤は再び上京を命ぜられたのである。 十一月十二日佐藤は江戸を立ち、十七日夕刻に京都光国院に着いた。 十一月二十日、殿様御病気で上京延期となる。 十一月二十一日、佐藤二条城に登城すると予州(愛媛県)と松山両侯から忠誠公上洛を促され た。 十一月二十二日、薩州侯は、脱走公卿の上京御赦免を得んとして、多くの精兵を率いて堂々と 上京する。 十一月二十三日、忠誠公の急速な上京を勧奨する、御同席連名書を会津侯から急飛脚で送る。 十一月二十四日、京都の妙心寺天祥院で時局平穏の御祈祷があり、大般若経の転読が行われ た。
十一月二十六日、芸州(安芸=広島県)侯上京の報がある。 種々断片的なニュ-スがあって、た だ不安が増すばかりである。 十一月二十八日、殿様御病気で又々上京延期の急報が来る。 十一月二十九日、奥御祐筆湯浅貫一郎殿に忠誠公上京延期の旨を内聞し置いて、晦日に伝奏 と閣老とに届書差し出す。 十二月一日、外面的には平静を取り戻した様に見えるが、裏面では益々急迫する。 十二月五日、忠誠公上京の先発として、加藤大炊と黒澤轉(うたた)が着京する。 黒沢は直ちに 大阪蔵屋敷に向かった。 十二月七日、いよいよ脱走公卿入京する。 十二月八日、突如薩州侯参内、尾州、越州、芸州の三侯も同じく参内。 公卿達は宮中で徹夜。 御所から諸藩一人ずつの呼び出しがある。 そこで平野俊吾が出頭した。 長州侯父子の復旧と 入京赦免の是非に就いてのご下問である。 各々存意を申し上げたが夜が明けてから帰った。 この日、土州(土佐=高知県)侯上京の途に就くとの報がある。 5、 明治維新の第一日 薩土芸三藩御所警衛 慶応三年十二月九日。 昨夜は諸公卿とも宮中に徹夜。 今朝一旦退出し再び参内すれば、薩 摩、土佐、芸州の三藩士厳重に警固して参内を許さない。 而して、摂政初め諸大官、伝奏、議奏 には謹慎を命じ、徳川慶喜の将軍職を免じ、守護職、所司代は廃止の朝命下る。 実にあざやか なものだ。 明治維新の大業は、実にここに発足したのである。 前古未曽有の大改革は断行された。 天皇 親政の一大号令は発せられた。 然し一般人民は暗中模索である。 況(いわ)んや京阪地区を離 れた所では何も知らない。 事は全く秘密裏に運ばれて文字通り急転直下であった。 会津と桑名との両侯は、急変で軍装凛然と二條城に入る。 旗下の諸士皆々軍装で登城だ。 諸 藩は持ち場、持ち場を固める。 市中は寝耳に水の驚き、人心の動揺甚だしく、今にも戦争が始まると、仰天し家財を車に積んで 逃げ廻る。 婦女子の慌てふためき、蜘蛛の子を散らすが如くである。 その内に土州容堂公の参 内がある。 夜に入ると、長州藩士続々として入京する。 御所の諸門は総て薩長両藩士で警固し、 篝火(かがりび)は天を焦がし、官軍も幕軍も互いに徹夜で警戒だ。 十二月十日、尾州と越州の両侯御所から急遽二條城に登城さる。 何でも将軍家の参内を御許 し願うこと、薩長の御門警衛を止める相談とのことである。 又々夜間尾州老公登城である。 この度大改革の綱領書を持参された。 これには将軍家の官 位返上、土地没収並びに旧典廃止、新法選挙等々であった。 二條城中は事の意外に驚き、且つ 怒り、人々一致して、断然背命の臍(ほぞ)を固めるのであった。 十二月十一日、佐藤は終日二條城に在って監察衆と連絡を密にした。 十二月十二日、将軍慶喜は密かに二條城を脱出し、僅かに十四、五騎で大阪城に向われた。 夕刻鳥羽街道に姿を見せられたので、旗下の士初めてこれを知り、後を追って淀で追い付き御供 する。 十二月十三日、将軍には明け方に大阪城に入られた。 これを知った二條城中は呆然とするばか
りである。 何れも大阪に向ったので、二條城は空家同然となった。 加藤大炊と佐藤江場之助は、 今朝これを知ったので直ぐに妙心寺の光国院を立って大阪に向かわんと、竹田街道を通り、伏見 から船に乗らんとしたが船が一艘も無い。 暫くすると下り船がある。 漸(ようや)く六両で雇い両人 乗船して下る。 十二月十四日、加藤、佐藤の両人は大阪堂島の忍倉屋敷に着いた。 伏見乗船場の混雑は実 に大変だった。 同日直ちに加藤と佐藤とは大阪に登城し、若年寄平山図書頭と、大小監察衆と に面会すると、初めて忠誠公上洛のことを話され途中まで出迎えたがよいとも云われた。 そこで佐 藤はその夜ただ一人折柄(おりから)の大雨をおかして出発したが、伏見、大津、草津の各宿場に 馬も駕籠も人足も居ない。 大いに困難をなめる。 十二月十六日、佐藤は漸く勢州(伊勢)大矢知の忍藩陣屋に辿りついた。 忠誠公は去る八日、 江戸御立であることが知れた。 御先宿割の佐藤作右衛門と他の一人に面会出来て、郷人足や何 かの打合せも済んだ。 十二月十八日、佐藤は浜松まで行くと忠誠公には岡部御逗留である。 昼過ぎ掛川宿へ行くと、 只今大井川が川あけになったので即刻に、忠誠公は川越しなさるとのこと、掛川宿で御待ち申上 げる。 間もなく御着。 佐藤は直ぐに、平山図書頭からの内命と京阪の状勢を申し上げた。 忠誠 公には御疲労の色が御顔に表れ、長途(ちょうと)の御旅行は御無理と思われるのであった。 十二月十九日、佐藤は御伴の人々と話しが尽きず、遂にその夜は浜松に一泊した。 十二月二十日、佐藤は早立ちの積りであったが、江戸から山田此面(このも)、世良定兵衛など到 着するとのこと、待ち合わせて二川宿から出発した。 十二月二十二日、佐藤が伏見に差しかかると、昨夜一騒動あって、藤の森から薩摩兵が警固に 来り交通止めとあって、途中から大津に引き返した。 十二月二十三日、宿割りに来た原田伝八郎と一緒になる。 連れ立って行く。 今日は昨日と事 変り無事に通行が出来た。 道で薩藩士の引揚げるのに逢った。 夜になって大阪天満に着く。 十二月二十四日、佐藤は大阪城へ登城し平山図書頭から、この際であるから忠誠公には、伊賀 越への途に依られたいとの内諭があったので急飛脚で知らせる。 十二月二十七日、姫路侯から御召がある。 佐藤は加藤の御伴をして伺う。 御話の要旨は、今 回忠誠公上洛に就いて深く配慮せられ時局の変を憂い、伊賀越の途に依られるのが安全であるか ら、是非この道を取られたいとのことであった。 それから内外の情勢に就いての御話を承ることが 出来た。 昨日越州侯が大阪に来られたことや、脱走中の公卿が淀川通りから帰洛されたこと、今 日尾州老公が大阪に来られて、朝廷と幕府との間の無事解決に周旋して居られることなど御話は 尽きなかった。 十二月二十八日、大矢知陣屋から飛脚が知らせを持って来た。 忠誠公は途を伊賀越にとられ、 二十六日大矢知御立ち、二十九日大阪御着と分る。 佐藤は直ちに大阪城に赴きこの事を言上し た。 この時御城で去る二十三日午前五時出火、江戸城二の丸炎上のことを聞いた。 この出火は、御広敷長局(ひろしきながつぼね)の辺から始まった。 その実は放火らしく、前々の 将軍家定の夫人天璋院は、島津斉彬の女であって、侍女の内に薩邸浪士伊牟田尚平が手引きで 放火したものと云われている。 十二月二十九日,忠誠公が暗(くらがり)峠に御昼休み中に佐藤は御迎えに参上した。 而して内
外の形勢を御耳に入れた。 「姫路、松山の両侯は京都からの御召しにも所労とて参内せず、会津 と桑名の両侯は大阪城中に御住居、彦根侯は京都に残って居られる」など申し上げた。 忠誠公 には、二軒茶屋から御供の行列を揃えて、夜に入って大阪天満の建国寺に入られた。 この時の 上洛御供の人数に就いては別に記録が無いが、先の慶応二年六月上京の際と略(ほぼ)同様と見 て大差ない。 御供の総数約五百人である。 但しこの外に若党、仲間(ちゅうげん)、草履取、また は合羽籠や挟箱、鎧櫃などを持つ人足、鎗持ち等々を数えると二千人にも達するのである。 十万 石大名の軍役内規には、旗二十本、騎馬百七十人、鎗二百本、弓七十張、銃二百五十挺とあるか ら、凡そのことは知れる。 十二月大晦日、忠誠公は大阪城へ登城。 閣老板倉伊賀守、会津、桑名両侯に御面談。夜に入 り提灯をつけて御帰館、忠誠公の上洛は全くきわどい時である。 この日諸藩から一名ずつの御召状。 例に依って佐藤が登城すると、昨今不測の急変も計り難い。 用意万端落度なき様にとの内命であった。 この時に二十四、五の両日江戸薩摩邸焼討があった と聞かされた。 次に今度将軍家には参内の旨、仰出(おおせいだ)されたが日限は追って沙汰する。 この事は 機密に属するからその積もりで居る様にとのことである。 それから元旦には、年始の祝儀一切無用との御達しであった。 事態は、いよいよ容易でない。 慶応四年正月元日、常ならば華やかに今日を晴れと登城するのであるが、元日と云うに平服の 登城で、殿中何となく不安の空気に包まれて動揺の色が濃い。 将軍参内先供(さきども)が今晩 から繰り出すのでものものしい。 将軍参内とは表向き、内実は帝側の奸を除くのである。 薩州侯 を幕府に引き渡せと強硬に出た。 これに依って兵端を開くとも止むを得ないと覚悟は出来た。 諸 藩の重臣、続々緊張の面持(おももち)で登城する。 忍藩からは佐藤が登城。 時局余りにも重大 なので一旦退出。 委曲を忠誠公に言上。 今度は山田此面(このも)と共に再登城。 平山図書頭 と面接。 一月二日、大少監察衆から重臣並びに佐藤に登城を促してきた。 山田小隼人、芳賀三大夫と 佐藤との三人登城する。 この際であるから忠誠公には、大阪城内に引き移る様にとの内命が下っ た。 また陸軍局からも召し出される。 同じ三人で罷り出る。 陸軍奉行戸田肥後守から絵図面を以っ て指示され、忍藩は安治川口を警衛の為三百人出兵方御沙汰である。 次に撤兵頭天野加賀守から、安治川に警衛とは表面の口実で、内実は中之島の薩藩邸へ討ち 入りの計画であること、詳細の申渡しがある。 城内には、軍装の諸兵多く屯していた。 忍藩では、直ちに芳賀三大夫が主として出動準備に当 る。 一月三日、大少監察衆から隊長呼出しである。 山田小隼人と佐藤と登城。 陸軍奉行から安治 川警衛の面々総て呼出している。 明暁を期して、中之島薩藩邸討入りの手筈(てはず)を示され る。 また撤兵頭天野加賀守から、戦闘方略を授けられる。
幕軍部隊配置 配置箇所 出動部隊 安治川 松平下総守 (忍) 牧 方 永井飛弾守 (加納) 橋本 松平伯耆守 (宮津) 淀街道 松平豊前守 (大田喜) 洞ヶ嶽 加藤左京大夫 (水口) 山 崎 松平甲斐守 (大和郡山) 同 朽木近江守 (福知山) 伏見街道 小笠原左京大夫 (小倉) 宇 治 有馬遠江守 (丸岡) 逢 坂 成瀬隼人正 (犬山) 藤ノ森 九鬼大隅守 (綾部) 坂本大津 井伊掃部頭 (彦根) 竹内街道 松平肥後守 (会津) 九条 松平越中守 (桑名) 同 蒔田相模守 (浅尾) 豊後橋 戸田采女正 (大垣) 朱 雀 大久保加賀守 (小田原) 太秦(うずまさ) 本多主膳正 (膳所) 三條紙屋川 松平隠岐守 (松山) 下加茂 仙石讃岐守 (出石=いずし) 上加茂 松平因幡守 (鳥取) 雲母、叡山 門部 卍次 (鯖江) 九條、桂川 酒井若狭守 (小浜) 逢坂太秦 本多美濃守 (岡崎) 但し太秦(うずまさ)に主力を置くこと この外に千本、二條に別動隊がある。 四條紙屋川には筑前、真田、松山、青山四藩の兵があっ た。 堂々たる大規模の陣容である。 松山侯は昨日から、姫路侯は昨夜から城中に住居を移され る。 忠誠公は所労で未だ移されない。 深夜松山侯からの直書で忠誠公即刻登城だ。 これは鳥羽伏見の変によるのであった。 鳥羽伏見の戦いは、桑名藩物見の言に依ると、伏見は三日午後二時頃敵から兵端を開いた。 鳥羽は四塚関門通過の交渉中付近の竹薮に潜伏していた敵兵、堤通りの側面から突然発砲し、 幕軍応戦の遑(いとま)なく敗走、下鳥羽まで退く。 敵は民家に火を放ち、煙で敵味方中断され自 然に休戦となる。 また伏見に向った会津藩士山田某の手記に依ると、前駆の兵が伏見に達すると関門守衛の諸藩