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プロテスタント・カレッジと同志社

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ウィリアム・E・ドッジ、ベイルートのシリアン・

プロテスタント・カレッジと同志社

著者 コビルスキ アレクサンドラ

雑誌名 同志社談叢

号 34

ページ 35‑54

発行年 2014‑03‑01

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014156

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ウィリアム・E・ドッジ、ベイルートの シリアン・プロテスタント・カレッジと同志社

アレクサンドラ・コビルスキ

1 ラットランドにおける同志社創設の再考

同志社が1875年に京都で誕生したとするなら、その懐胎は1874年ヴァー モント州ラットランドで行なわれた、アメリカン・ボードの年次総会で あった。ラットランドの出来事について、オーティス・ケーリは、1990年 の独創的で重要な論文で、これまであまり注意を払われてこなかった、

ラットランドでの同志社の懐胎に注目していた。その上、同志社の歴史に おけるラットランドでの総会の役割について、調査を行ない、「同志社と いう考え」の起源として注目した1。本論では、ケーリの研究を踏襲し、さ らに、ラットランドでの新島の後援者の一人であるウィリアム・E・ドッジ

(William E. Dodge, 1805~1883)について紹介をしたい。

1874年10月アマースト大学とアンドーヴァー神学校を卒業した最初の日 本人が、ヴァーモント州の教会で1,000人の会衆に向かって挨拶をするため に、説教壇に上がった。敬虔な会衆は、もっとも裕福な北米の宣教団体の 一つの年次総会の出席者だった。その場で新しく派遣される宣教師たちが 一人ひとり紹介され、挨拶をする送別会であった。新島は祖国日本での同 胞への福音の宣教者となろうとしていた。新島の場合は日本への出発とい うより、むしろ帰国のためのものであった。アメリカン・ボードの総会に 出席していた、後援者のアルフェウス・ハーディ(Alpheus Hardy)に よって、新島は紹介された。ハーディの新島の紹介に、ウィリアム・E・

ドッジは、立ち上がり、言葉を添えたのだが、紹介をしたハーディが自分 自身についてはあまりにも謙虚であったので、ドッジが、その日本人が教

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育を受けられたのは、ハーディのおかげだったのだと述べて、会衆の注意 を喚起したのは、重要なことであった。ドッジは、会衆がハーディが新島 の支援者であったことを充分に気づいただろうと確信した。

新島は説教壇で演説をするまでに、決心をしていた。新島は、年次総会 の儀礼を乱し、伝統を誇る慣例を無視した。旅立つ宣教師は、祈りを申し 出て別れの言葉を述べることを期待されていたが、新島は、日本で「養成 機関」を設立するのに資金を求めたのである。日本人の若い牧師は大胆に 行動し、自分の夢見る学校のための資金を得るまで説教壇を離れることを 拒否した。「私は座りません、皆さんが約束をしてくれるまで」と、宣言 した。その宣言に当惑したのは、二、三の会衆だけではなかったはずだ。

これは重大な時なのだと理解し、新島が嘆願を終える前に、以前に中国へ 派遣された宣教師であり、新島の友人であったも、ピーター・パーカー

(Peter Parker)博士は会衆席から叫んだ。「1,000ドル出そう!」、しば らくの沈黙の後、何人かの手が挙がり、2、3分のうちに、5,000ドル以上 の寄付が新島の計画のために約束された(5,000ドルは、2010年の価値に換 算すると少なく見積もっても58,300ドルにあたる)。

ヴァーモントで嘆願を行なったとき、新島は注意深く、「学校」または

「大学」という言葉を使わないようにした。その代わり、「養成機関」あ るいは「教育機関」という曖昧な言葉を使った。新島の話に関する他の記 事には、別の説明がある。新島には言葉を選ぶのに注意しなければならな い充分な理由があった。ラットランドの現場で、学校との複雑な関係の あった組織に、新島は雇われたばかりだった。何十年もの間、アメリカ ン・ボードの役員は、「ミッション・スクール」について論争をしてき た。論争は、一般教育に反対するルーファス・アンダーソン(Rufus Anderson)に代表されるボストン本部と、一般教育を改心の見込みのある 人々を惹き付ける方法だと考えていた現場の宣教師たちとのあいだに起 こったのものだった。こうした現場の革新的な宣教師たちが、小さな一般

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教育の学校を始めたときに、論争がすぐに始まった。1850年代に、ボスト ン本部によって命じられた方針から外れたために、世界の至る所で小さい 一般教育の革新的な実験が閉じられたという歴史が、アメリカン・ボード にはあった。この方針は、アメリカン・ボードのすべての外国宣教地域本 部を管理する、外国局長を長年務めた一人である、ルーファス・アンダー ソンによって規定され、命じられたものであった。それは以下の二点にま とめられる。第一は、「すべての宣教師は人々を解放し、教育し、啓蒙す ることではなく、改心させる」のが務めであること。第二に、アンダーソ ンが主張したのは、「ミッション・スクール」が、行なうべきはただ一 つ、福音を宣べ伝えることである。アンダーソンの意見によると、学校は 宣教師の働きの目的にかなう手段ではなく、従って宣教の資金の無駄な対 象であった。「多くの場合、宣教師は、そうした学校の助けなしに、自分 のメッセージが確実に聞かれるようにすることができる」と彼は主張し た。

現場の多くの宣教師たちは、長年の自分たちの経験に基づいて、この考 えに反対であった。自分では外国で宣教をしようとしたことのない人々に よって決められた指針に沿って、何千マイルも離れた場所で、ある宣教師 は働こうとした。またある宣教師は、地域の必要を受け、また自分自身の キリスト教の奉仕の考えを発展させ、ボストンで作られた宣教師の学校に ふさわしい仕事という定義から離れた。アンダーソンやアメリカン・ボー ド本部からの対応は、誤った宣教師たち(またその同僚たち)に、彼らが なぜその地に送られたのかを思い出させ続けることであった。つまり、宣 教することであり、今日の意味での教育をすることではなかった。アン ダーソンの圧力は、多くの場合成功であった。例えば、1859年にコンスタ ンティノープル(現在のイスタンブール)のプロテスタント神学校の校長 が辞めさせられた。彼の誤りは、その町のプロテスタント神学校の教科課 程にいくつかの新しいアイディアを実行したことであった(ベベク神学

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校)。彼の考えは、社会的福音の神学に似ており、何十年も時代を先んじ るものでもあった(牧師の職業教育の訓練と奨学生を支援するための非営 利企業の投資であった)。その当時、福音の務めに関するアンダーソンの 考え方と一致するものではなかっただけである。

アンダーソンの意見が、望んだような影響をもたらさなかった場合に、

彼はアメリカから出航し、自身で直接理解させるよう赴くことに異論はな かった。このことは、組合教会の組織の形式による組織にとって容易な仕 事ではなかった。自治を重んじる組合主義者は、ローマ・カトリック教会 の徹底した階層的な組織と正反対の形に独自な組織を築いたのである。監 督的な階層的な形の聖公会や、層的な権威の組織の長老派といった、他の プロテスタント教派からも、注意深く距離をとった。1880年代まで、教派 の緩やかな構造にさえ抵抗し、組合教会主義者は、集められたキリスト者 のそれぞれの体が、牧会上の事柄同様に牧会的な事柄において、すべてを 決定するのに充分な権威があると主張した。宣教所は、厳密に言えば組合 教会(会衆)ではなかったが、自治の伝統はそれぞれの宣教所の自己統治 の程度に解釈された。予算と活動を含む多くの事柄が投票によって決めら れたのだが、男性の宣教師には特権があった。その妻たちには補助の宣教 師という地位があり、投票権は通常なかったが、彼女たちには自分たちの 声が届くようにする非公式の方法があった。

こうした枠組みのなかで、アンダーソンの仕事は『兄弟たち』と協議す ることで成り立っていた。兄弟とはお互いに対等であることを強調するた めに使っていた呼称であるが、兄弟たちが自分に賛成するように説得する まで、個人的にも、集団でも彼らと協議をすることが、アンダーソンの仕 事であった。1855年、アンダーソンは南アジアへそうした旅をしたのであ る。彼の目的は、世俗的な学校を始めることに関心のある『不信心者』

に、「言葉を通した福音の宣教は、現実に第一の目的であり宣教の務めで ある」ということを思い起こさせることであった。

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アンダーソンは、宣教師の大多数が彼のやり方に賛成の投票をするま で、彼の意図するところを繰り返し説得するために、ひとつひとつの宣教 所で困難な交渉をするのに、何週間もかけた。彼の訪問の後、多くの革新 的な教育の構想が葬り去られ、ある意味、彼は成功した。セイロン(現在 のスリランカ)の神学校は、「インドの他の英学校よりも科学を教える」

ようになり、伝道師や「現地の助手」よりもさらに多くの教師、商人を産 み出すようになったため、1855年に廃止された。ボンバイ(現在のムンバ イ)では、宣教師とのアンダーソンの話し合いや会議によって、英語の高 校を開校することで従来のミッション・スクールを拡大するという彼らの 熱意が抑制された。アンダーソンは、ミッション・スクールへの反対の声 を支持し、自分の権威を容赦なく巧みに使った。こうして、彼らの宣教の 将来は、彼らの考えるような学校を開くことにではなく、宣教の務めに関 する彼の理論に従うことにかかっているのだと、宣教師たちに確信させよ うと働きかけた。しかし、その理論は、海外宣教の経験によらないところ で作られたのであった。

では、他の多くの人々が失敗したことを、新島はどのようにして成功し たのだろうか。その答えの一部は、アメリカン・ボードの理事会における 変化にあった。1857年アメリカの南北戦争の前夜に、アメリカン・ボード には新しい議長、副議長、諮問委員会の特別委員、何人かの新しい理事会 のメンバーが誕生した。ラットランドでの新島の成功にとって重要となる 新しい顔ぶれのなかでも、アルフェウス・ハーディは諮問委員会に選ば れ、ウィリアム・ドッジはメンバーに選ばれた。新島がラットランドの壇 上に登ったときまでに、より幅広い教育の考え方の熱心な支持者であった ドッジは、アメリカン・ボードの副議長となった。本稿では、ラットラン ドでの新島の成功に果たしたドッジの役割を検証することによって、ウィ リアム・E・ドッジと同志社との間の関係を追跡する。

ラットランドで起こった詳細を理解しようとするのに二種類の記録があ

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る。一つは日本語で新島自身によって後年に書かれたものである。他方 は、目撃者や報道記者による英語の記事である。ここに1878年に新島に よって書かれた一つの例があり、次のように、ラットランドでの出来事を 描いている。

「明治七年十月之事なりき、襄米国へ滞在之末最早帰朝せんと思立し折柄 耶蘇信徒之大集会ありし、襄も辞別旁出席し其坐ニ而衆人に向ひ、帰国之 上日本ニ一学校を設立致し度宿志を吐露し、且微力ニ而到底確立之見込み も無之協力ノ人ハ無き哉と開陳せしに、演説未タ了サルニ友人Dr. Parker 忽チ揚声シテ吾レ千金を寄附せんと呼へり、継テウエルモント洲之旧知事 ページ氏も亦千金ヲ寄附シ、其他或ハ五百或ハ三百、二百金、百金、以テ 五十金、三十金、二金、一金ノ微に至り五六分時を出ス積テ数千ノ額ニ上 レリ、因テ学校建築之費用ハ略備レリ、然ルニ教師ハ如何ニシテ支給スベ キヤノ談ニ及ビシニ、爾後継テ寄附金モ可有之ニ付悉皆アメリカン・ボー ルド教会社ニ寄託シ該社ニ集メ、友人ハーデー氏之を預リ置キ西航之教師 ニ支給スベキニ決シタリ」(1878年4月27日・草稿)2

英語の記事の例が、アメリカン・ボードの公式な出版物である、『ミッ ショナリー・ヘラルド』に「日本の養成機関のための動き」という題で掲 載された(1875年1月)。次のように書かれている。

「金曜日の午前、ラットランドでのアメリカン・ボードの『送別会』に 出席した人々、また会の報告を読んだ多くの人々は、故国へ帰還しようと する、新島氏の演説によって呼び起こされた感情を思い出すだろう。特 に、将来キリスト教を受けいれるかもしれない若者を教育するために、ま たこの者たちは自国民の間で牧師またはその他キリスト教関係の仕事に就 くために当然訓練されるべき人々なのだが、こういう人々のために、日本

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に学校を建てたいとする彼の最初期の訴えの中に感じられる関心を思い出 すであろう。この目的のために金額を約束する何人かの個人の申し出に よって、彼の演説は中断された。50ドルから1000ドルと金額は多様であっ たが、約束された金額の合計は、やく3500ドルだった。(略)これは、

ボードそのものの活動ではなかったので、書記の議事録には書かれていな かったのは、適切であったと言うべきである。これは、個人の動きであ り、全体として、計画されたものではなく突発的なものであり、新島氏自 身にとってもおそらくまったくの驚きであったであろう、それでも、その 課題を充分に考えてかなり祈ってきたことを新島は述べたのであり、こう した組織にかなり重要なことだと感じていたのである。

しかし、この動きは、あらかじめ誰とも相談せずになされたことだが、

摂理によるものとみなされただろうし、確かに宣教の業にとって益となる と考えられたであろう。設立を提案された学校は、おそらく、やがて宣教 によって命じられ、そのために貢献することは疑いなく目的にかなうもの であり、ある程度、近い将来ボードの財務からの直接の支出を減少するこ とになり、諮問委員会の監督のもと用いられるようになるだろう」。

‘Those who were present at the” farewell meeting” of the American Board at Rutland, on Friday morning, and many who have read reports of that meeting, will remember the feeling awakened by remarks of Mr. Neesima, who was about to start on his return to him native land; especially the interest felt in his earliest plea for the establishment of a school in Japan for educating young men who may embrace Christianity, and be proper subjects for training for the work of the ministry, and other Christian service among their own people. He was interrupted in his remarks by several individuals pledging sums of money for this purpose, varying in amount from $50 to $1,000; the whole sum then pledged

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being not far from $3,500. [...] It is proper to say, that this was not the action of the Board as such, and has no place in the Recording Secretary’s minutes. It was a movement of individuals, wholly unpremeditated and unexpected, and was probably an entire surprise to Mr. Neesima himself, although, as he stated, he had thought much and prayed much over the subject, feeling very deeply the importance of such an institution.

But the movement, though made without previous consultation with any one, may be regarded as Providential, and decidedly in the interest of the missionary work. The school which it is proposed to establish would in all probability have been called for soon by the mission, and what is contributed for it hat is will doubtless serve, in some measure, to diminish direct expenditure from the treasury of the Board in the near future, and will be expended under the supervision of the Prudential Committee.”

記事は、102ドルになったいくつかの小額の寄付の一覧と、さらに結果的 に、総会でなされた四つの約束まで続く。ヴァーモント州のジョン・B・ペ イジ、ワシントン市のピーター・パーカー博士、ニューヨーク州のウィリ アム・E・ドッジがそれぞれ1000ドル、ウィリアム・E・ドッジの妻が250 ドル、合計で3250ドルの約束であった。

これら二つの記事がの描き方には多くの相違があるのだが、それは記事 が作られた背景によるところが大きい。アメリカン・ボードの記事は、疑 いなく出来事の例外性について述べ、将来の同志社は、ボードの新しい提 案ではないと厳密に語っている。このことは、先に述べたように、幾人か の宣教師の経歴をかけた新提案に反対するボードの長い歴史から、強調す るという重要な事実である。別の相違点は、二つの記事に述べられている 名前についてである。日本語の記事は(そして少なくともひとつの英語の

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版は)、ウィリアム・E・ドッジの金銭的な貢献についてまったく言及して いない。

しかし、本記事の目的にとってもっとも重要な点は、日本語と英語の記 事に現れる名前である。新島は名前を挙げて、ピーター・パーカーとペイ ジ州知事という二人の寄付者について言及しているだけである。事実、新 島によるラットランドの記事は、ウィリアム・E・ドッジに言及していな い。対照的に、アーサー・シャーバン・ハーディの1891年の伝記を含む、

ほとんどの英語の記事は、ラットランドでの3人の主な寄付者のうち、メ リッサ・ドッジの貢献には触れていないが(一人の例外を除いて)、ウィ リアム・E・ドッジについて記している3

女性の寄付者に関する短い記述について、ここで触れおきたい。一般的 にラットランドでの女性寄付者について言及されていないのは残念なこと だが、彼女らの名前が記録されていなかったため、ある点必然的であっ た。しかし、たとえこれがそうしたケースだとしても、地域の新聞記者の 証言記事によると、ピーター・パーカーの最初の約束に続いてすぐに、ま たペイジ州知事が寄付を決心する前に、4人の女性が手を挙げて同志社の ための資金を約束した。彼女たちはさらに控えめに、「ヴァーモント州の 女性」「マサチューセッツ州の女性」「マサチューセッツ州からの女性」

「ロードアイランドからの女性」とだけ記されているので、名前さえも知 られていないは残念なことであった。だが、同志社の寄付者の一覧に加 わっている前ヴァーモント州知事の前に、彼女たちは多く反応し、合計で 350ドルを約束したことが、歴史上に記録された事実として残っている4。 名前がわかっている稀な女性の寄付者の一人が、ウィリアム・E・ドッジの 妻であるメリッサ・ドッジで、250ドルを約束した。この情報は興味深い事 実を示している。ドッジ家は同志社の設立のために1250ドル寄付をした。

家族単位で考えると、ラットランドにおける初めての寄付の中で最大の額

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である。

女性の寄付に注意をしながら、ラットランドでの最大の寄付について見 るなら、ウィリアム・E・ドッジとメリッサ・ドッジは初期の同志社の寄付 者の中で最も大きな額を寄付したことは明らかである。初期の同志社の歴 史(英語でも日本語でも)について、寄付者の中で彼らの名前の出ないこ との方がむしろ興味深い事実である。

2 ウィリアム・E・ドッジとは誰か

今のところ、1833年にメリッサがウィリアム・E・ドッジと結婚してから のメリッサについて、彼女の父親の財産の記録の他、彼女についての記録 はあまりない。

対照的に彼女の夫はニューヨークでのキリスト教慈善団体での活動と商 業での成功について多くのことがわかっている。ウィリアム・アール・

ドッジ(1805年9月4日- 1883年2月9日)は、ニューヨークのビジネスマン で、ウォール街の「商人の貴公子」の一人と呼ばれていた。アメリカ南北 戦争に先立つ何十年かの間、ほかの一握りのニューヨークの商人ととも に、アメリカの株式市場のほとんどの支配権を手にしていた。

1833年に裕福な家庭の娘と結婚した後、義理の父親と一緒にプェルブス

=ドッジ(Phelps-Dodge)という石炭採鉱会社を設立した。ある一時期こ の会社は、アメリカで最も大きな採鉱会社であり、南北戦争の後、鉄道に も投資し、その他にも様々なビジネスを始めた。

ビジネス以外に、奴隷制廃止論者として活発に活動し、アメリカ先住民 の権利のための活動も行なった。彼はまた1866年から一年間米国連邦議会 で議員としてニューヨーク第8選挙区から選出された5

他の多くのニューイングランドの人々のように、ドッジは、彼の信仰が 他の人々を助ける義務をもたらし、ビジネスの成功が彼に方法を与えてく れると考えていた。だからキリスト教に基づいた社会活動のリーダーのひ

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とりだったということは驚きではない。例えば、1865年から1883年までア メリカ禁酒協会の会長も務め、YMCAの創立メンバーの一人でもあった6

ドッジの永眠に際して、ドッジの財産は500万ドルと推定され、彼の遺志 は様々な市民団体やアメリカン・ボードのようなキリスト教団体、外国宣 教のプレスビテリアン・ボード、南部のいくつかの学校、ニューヨークの 二つの博物館、メトロポリタン美術館や自然史博物館、シリアン・プロテ スタント・カレッジ(Syrian Protestant College)、といった彼や家族が親 しく関係し、現在も続いている団体に35万ドル(2013年の価値では少なく 見積もっても800万ドルに相当)を残すものだった。

ドッジの教育的な考え方はどうだったであろうか

ドッジは、国家の発展のたしかな唯一の基盤は、教育、特にキリスト教 に基づいた教育だと信じていた。彼の高等教育への関心は明らかであった が、彼自身は大学教育を受けていなかった。教育というものは、彼にとっ て知性や思考力の発展だけではなく、精神や情操面での発達をも意味して いた。新島と同じ考え方であった。そのため、ラットランドで新島の言葉 を聴いたとき、彼の考え方をすぐに理解し、彼の計画を支援したのは驚く べきことではなかった。

ところが、ドッジは自分で学校や大学などを設立したことはなく、他の 創立者を喜んで支援することがよくあった。

興味深いのは、南北戦争の混乱の最中、1862年の奴隷解放宣言の2、3カ 月前にペンシルバニア州のリンカーン大学の理事になったことである。

この学校は1854年創立で、当時はアシュムン=インスティテュートとい う名前だった。解放以前に作られた、黒人の高等教育のための初めての学 校であったが、現在も約2500人の学生を教育をしている。

キリスト教に基づいた教育へのドッジの関心は、第一に合衆国に限定さ れていた。しかし1850年代以降、彼は宣教運動に貢献し始め、アメリカ ン・ボードの活発な一員となった。アメリカン・ボードの一員として、彼

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は教育についての革新的な考えに時々触れることがあった。こうした考え 方はボードの公式な支援を受けることはなかったかもしれないが、ドッジ を含むボードのメンバーの中には共感する人もいた。1860年代までにドッ ジはこれから私たちが注目する革新的な構想を少なくとも支援しようとし ていたようである。本稿の目的は、ドッジが1862年以降ベイルートの大学 の構想を支援したことが、ラットランドでの新島の成功した上での重要な 要素であったことを示すことである。

3 ベイルートとシリアン・プロテスタント・カレッジへのドッジの関係(現 在のベイルートアメリカン・ユニバーシティ)

主要な舞台は、再び1862年にマサチューセッツ州スプリングフィールド で行なわれたアメリカン・ボードの年次総会であった。その舞台で今度は 地中海岸のシリアのオットマン州にある宣教所からアメリカに一年の一時 帰休のために戻ってきた若いアメリカ人の宣教師が登場する。しかし彼の 目的は休暇をとることではなく、友人に会うために総会に出席することで あった。現在のレバノンに主に位置しているシリアの宣教所の同僚は注意 を要する仕事のために彼をニューイングランドに送った。それ以前、彼ら は「文化大学」を設立するという自分たちの考えを承認してもらうため に、アメリカン・ボードに嘆願することを全会一致で決定した。彼らは、

プロテスタントのある教科(聖書購読、祈祷会、義務的な礼拝出席)に世 俗のカリキュラム(現代の言葉では一般教養課程)のある高等教育の機関 を考えていた。これは、アメリカン・ボードが以前支援していた、神学校 といった高等教育機関とはかなり異なっていた。

新島のように、彼らは1862年当時こうした計画のためにボードに資金を 依頼することさえ考えられなかった。先に述べたように、ちょうど3年前に イスタンブールのアメリカン・ボードの仲間の宣教師、サイラス・ハムリ ン(Cyrus Hamlin)が、世俗の教科と職業訓練を取り入れるという新しい

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考えを導入しようとしたため、結果として辞職することになった。そのた めベイルートの宣教師たちはアメリカン・ボードの「評価と制裁」を考慮 して礼儀正しく服従するだけであった。宣教師たち自身が事業のために資 金を調達する責任があり、ボードにはないことがはっきりとした。その宣 教師、ダニエル・ブリス(Daniel Bliss)は、12人以上の宣教師の間の一致 によって、事業の責任者となった。彼には広く交渉し資金調達を計画する 責任があった。

彼らの嘆願に対して、ボストンの最初の反応が全く好ましいものではな かったため、ブリスの務めは容易なものではなかった。諮問委員会の名に おいて、「現在こうした機関をはっきりと必要とすることは、悪だと見な される」とルーファス・アンダーソンは書いた。そうした機関は、もし設 立されるなら、「あなた方の現場において、素朴で満足しうる現地の牧師 職の基礎を築くことの妨げとなる」7。言い換えれば、アンダーソンと少な くとも諮問委員会の一部の目には大学という考えは悪であった。それでも ベイルートの宣教師たちには、自分たちの嘆願が全く拒絶されるのではな く、さらに考慮されるだろうという希望がいくらかあった。ブリスの務め はアメリカン・ボードの気乗りがしないメンバーに大学の正当な理由と資 金調達のための根拠を主張し働きかけることであった。ボストンで彼が行 なった廊下での会話について、また個人的な会話でなんとかして大学の正 当な根拠を支援してくれるように有力なメンバーに影響を与えようとした 様々な方法については知られていない。彼がアメリカに戻った直後、1862 年のアメリカン・ボードの総会で行なわれた重要な出来事については少し 知られているだけである。

その会で、彼は在シリア宣教師の代表者として会衆に演説する機会が与 えられた。新島のように、ブリスは感情的な演説を行なった。しかし、大 学の計画に言及することを非常に注意深く避け、聖書の土地で働きすぎて いる宣教師たちを助けるために、ベイルートにもっと多くの宣教師を送る

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応援のための嘆願に重点をおいた。もちろん、ある程度新しい宣教師が必 要であったのだが、それは大学が設立されるときに、宣教師の何人かが教 師になるだろうから、ベイルートでの宣教師の人員を減らすことになる と、彼は述べなかった。同僚の宣教師の何人かは、教師になっていた。

1874年の新島の場合のように、ウィリアム・E・ドッジは、会衆のなかにお り、ベイルートでの活動についてブリスから聞いたことに心を動かされ た。ブリスの演説の後、ドッジは彼を昼食に招いた8。スプリングフィール ドホテルの最上階の内輪の席で、ブリスは大学について述べ、「事業の必 要と目標」を説明した9。ウィリアム・E・ドッジは、嘆願について春の期 間に話し合った諮問委員会のグループに近かったので、新提案についてす でに知っていたらしい。この昼食の直前に、1861年のアメリカン・ボード のさほど大きくない赤字の予算について相談会が行なわれているときに、

ドッジは赤字予算については少しも心配していないと発言した。「借財は なにもない」と彼が言ったと記録されていた10。むしろ、彼は1年で5万ド ル、10年の期間を超えて組織が機能する予算を50万ドルにまで増やすこと に関心があった。このため、必要なら1万ドルあるいはそれ以上寄付する ことを彼は申し出た。言い換えれば、彼はボードの財政的な将来を確保す るのに関心を持つ、主要な活動的な人物の一人であった。ブリスが昼食の テーブルでドッジと向かい合った時、ドッジがボードのもっとも裕福なメ ンバーの一人であるだけではなく、宣教活動を越えて新しい提案に資金を 提供する気持ちがあることもよくわかった。

その会合は成功であった。同じ昼食の席にいたのはウィリアム・E・ドッ ジの息子、 スチュアート・ドッジ牧師 であった。若いドッジはシリアの オットマン州の宣教師になることに関心があったと伝えられているが、い くつかの理由でその考えをあきらめざるをえなかった11。伝えられるところ によると、スチュアート・ドッジは、大学の構想に、エルサレムに近い場 所で宣教活動をするという自分の昔の夢を見て、会合の後、「自分の家族

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の中だけではなく、説教壇でも出版物でも、新しい大学の概要を心から支 持していた」12。次の40年間にわたって、スチュアート・ドッジは、ベイ ルートを何回も訪れ、大学の設立を支援するのに滞在期間を延長する。彼 の両親、ウィリアムとメリッサもまた、1871年の定礎式にベイルートへ旅 をすることになる。

ウィリアム・E・ドッジと息子のスチュアートは、ブリスの重要な協力者 となった。1862年の冬から1863年の春という2、3カ月の短い期間で、

ドッジ家は志を同じくする裕福な人々を理事会員として募集し/集め、

ニューヨーク州が大学を認可するよう働きかけ、ブリスに紹介状を用意 し、資金調達ができるようにした13。ドッジの関与が、計画の規模に重大な 影響を与えた。運営の最初の3年間でおよそ2万ドルという控えめな計画 から、10万ドルの寄付で始められ計画へと構想が代わった。元々の計画の 規模の5倍もの目標を設定し、運営の資金の代わりに、寄付を確立するこ とで、ドッジ家は計画をより高い水準のものにし、財政的な足場を準備し た。このようにして、シリアン・プロテスタント・カレッジがベイルート で着想され、スプリングフィールドでのボードの年次総会で1862年に船出 したのは、主としてドッジ一家の雅量によるのである。

支援はすべてドッジからのものではなかったが、彼は充分に支援をし、

さらに資金を調達するために4年間かかった。シリアン・プロテスタン ト・カレッジはついに1866年に開校したが、同志社のように、借家で2~

3人の生徒だけであった。大学自身の建物を持つことの重要性にすぐに気 づき、ウィリアム・E・ドッジは大きな土地を購入するために6万ドルを寄 付した。約4万8000平方メートルの土地はベイルート郊外で、地中海を望 む岬に位置していた14

2年後、ウィリアムの息子、スチュアート・ドッジは、新しい大学の土 地の計画を描くため、著名なニューヨークの建築家に委託した。時計と鐘 楼のある4階建ての大きな建物の建設に2年間を費やし、1873年の秋に完

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成した。ベイルートのカレッジホール(College Hall)と京都の彰栄館(当 時英語でカレジアトホールCollegiate Hallと呼ばれていた)両方の時計が、

同じ時計製造元、セス・トーマス社から提供されているのは興味深い。

ドッジの寛容さにより、ブリスとシリアン・プロテスタント・カレッジの 74人の学生は、ベイルートのにぎやかな通りから離れた、果樹園とサボテ ンに囲まれた、素晴らしい、新しい「カレッジホール」へと移った。一年 後の1874年にブリスはまた休暇の期間にアメリカへ戻りヴァーモント州 ラットランドでのアメリカン・ボードの年次総会に出席することになっ た。そこで彼はドッジ一家に会った。ある意味、これはキリスト教主義に 基づく、一般教養課程を提供するキリスト教主義大学という着想の成功し た瞬間であった。その着想が初めて声を挙げた1862年と大学が目を見張る ようなキャンパスへと移った1874年の期間に、シリアン・プロテスタン ト・カレッジは実験的な機関から安定した確かな機関となった。ラットラ ンドで、ブリスは、印象的な新しい建物の図を示し、諮問委員会の尊敬を 受ける一員のウィリアム・E・ドッジの無条件の支援を誇りに思ったようで ある。彼はまた、アメリカの大西洋岸や内陸部や英国両方のプロテスタン トの商業者や慈善家の、多くの小額の寄付者から財政的支援を受けた。こ の時まで、ルーファス・アンダーソンがキリスト教主義大学を悪の観念と 呼んだことを覚えている人はほとんどいなかった。アメリカン・ボードの 公式の方針はそれでもまだ、変化するのに抵抗を受けなければならなかっ たが、一般教養課程の高等教育を含めるという、宣教の務めを広げること に反対しない人の方が多かった。

4 結論 ラットランドでの新島の成功に対する新しい見方

ラットランドの総会での最後の日に、よく知られた出来事が起こった。

アマースト大学とアンドーヴァー神学校の日本人初の卒業生、新島は、立 ち上がって会衆に演説を行なった。旅立つ宣教師の典型的なお別れの言葉

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を述べる代わりに、新島は会衆に向かって、日本へ戻って学校を設立した いという長年の望みを表明した。おそらく彼の期待以上に成功を納めた。

理由がはっきりしていないのは、不思議なことだろう。なぜ、新島は慣習 に従わない行動について、罰せられなかったのだろうか。なぜ、彼は、優 しくだが厳しく壇上から降りるように勧められなかったのだろうか。その 代わりに、自分の夢見る学校に寄付を与えられたのはなぜだろうか。同志 社の史料/歴史は、新島の成功は彼のカリスマとニューイングランドのプ ロテスタント宣教集団との個人的な関係の結果であったと、暗に示唆して いるように思われる。結局、新島は、アメリカン・ボードの長年の役員で あった、アルフェウス・ハーディの被保護者だったというのである。

本論の狙いは、アメリカン・ボードという社会的環境のなかで、新島は 優れた立場にあったが、他方では別の力が働いていたことを示すことで あった。実際的な言葉で言うならば、新島の嘆願を助けたものは、ウィリ アム・ドッジとメリッサ・ドッジの夫妻の地位と資力が、新島の考えを公 的に支援しようと願ったことであった。しかし、教育の構想への彼らの支 援が問題なのではなく、ミッショナリー・カレッジへの彼らの考え方の発 展という事実の問題だったのである。この発展が、ベイルートのシリア ン・プロテスタント・カレッジとの直接の経験にほとんど基づいていた。

ウィリアム・E・ドッジが「黒人の学校」の支援者から海外のミッショナ リー・カレッジの支援者への変化は、1860年代に起こった。それは、ダニ エル・ブリスのような、新島の先輩宣教師の働きと構想の結果であった。

ところで、新島とブリスはほとんど同じ学歴を共有している。ブリスも、

アマースト大学に入学したときに、20代後半の年齢だった。新島の入学10 年前に、ブリスはアンドーヴァー神学校を卒業した。このように、教育と いう厳密な言葉と考え方という両方で、新島はブリスの後輩であり、ある 意味で新島はブリスの足跡を追っていたのである。ミッショナリー・カ レッジに対するアンダーソンの厳格な考えに勇敢にもまた敬意をもって反

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対したブリスと同僚の宣教師たちのおかげで、ドッジはミッショナリー・

カレッジの実験に参加する機会を得たのである。ラットランドの壇上に新 島が上がった時、ブリスとシリアン・プロテスタント・カレッジが背景に あったことも明らかだと言いうるのである。

新島の出来事についての前述の分析を前提とするなら、ベイルート-ボ ストン-京都といった三角形は、不思議な組み合わせ以上のものとなる。

むしろ、グローバル化の未来に直面して、同志社のグローバルな過去がよ い示唆となる。シリアン・プロテスタント・カレッジの設立を可能にした 1860年代のベイルートとボストンでの出来事の流れが合流したのである。

ラットランドでの新島の成功の基礎の役割を果たし、準備したのが、ベイ ルートの大学による例であり、先駆けであった。19世紀の歴史において、

ベイルートで起こったことが、ボストンを経由して京都で起こったことの 原因となることは、一見して思いもよらないことのように思われる。しか し、私たちの生きているグローバル化した世界は、19世紀の後半に起源を 持ち、驚くべきことではない。『ミッショナリー・ヘラルド』のように、

グローバルに頒布された新聞は、教育の改革や新しい時代の新しい学校と いう考えをグローバルな規模で循環させ、宣教師、旅行者または商人とし て、多くの人々が海を渡って行き来することは、私たちの時代の新しい事 態なのではなかった。こうした要素は、19世紀後半のグローバル化した時 代にすでに起こっていた。同志社の考えと現実は、私たちがおそらく実際 に理解する以上に、こうしてますますつながりを強めつつある世界の産物 なのである。新島のビジョンと神の摂理以上の何かが、ラットランドで働 いたことを認めることが重要である。歴史的理解にとって、新島は気づい ていなかったかもしれない、彼には直接関係していなかったかもしれない が、ラットランドでの成功を助けた、新島を越えるグローバルな力を明ら かにすることは重要である。19世紀の同志社の遺産を認めることが、今日

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の同志社がグローバルな拡大と国際的な協力によりよく活動することがで きることとなる。

1 オーティス・ケーリ「ラットランドと新島襄と同志社」北垣宗治編『新島襄の世 界』晃洋書房、1990、201頁。

2 「同志社経営に関して政府への弁明」新島襄全集編集委員会『新島襄全集』1、同 朋舎出版、1983年、9頁。

3 Life and Letters of Joseph Hardy Neeshima. Boston: Houghton Mirrlin,1891,p.173.

4 “The American Board”, Rutland Herald 80 (October 15, 1874 [morning edition]), 2. オー ティス・ケーリの前出p.208-209に部分的に引用されている。

5 ドッジのビジネスの取り引き、政治的社会的活動については以下を参照。Richard Lowitt, A Merchant Prince of the Nineteenth Century: E.Dodge (New York: Columbia University Press, 1954); William Carlos Martyn, William E. Dodge: the Christian Merchant (New York: Funk & Wagnalls, 1890); Proceedings at the Unveiling of the Statute of William E. Dodge ( New York: New York Chamber of Commerce,1886).

6 “William E. Dodge: Largest Bequest to Charitable and Religious Institutions,” New York Times, 18 February 1883, Obituary. 当時のドルの価値については、以下を参照。

Samuel H. Williamson, “Seven Ways to Compute the Relative Value of a U.S. Dollar Amount,1774 to present, “Measuring Worth, April 2010, http://www.measuringworth.

com/uscompare/.

7 Rufus Anderson to the Syrian Mission, 1862. ABCFM papers, A.B.C.2.1,reel 20.

8 Daniel Bliss, Reminiscences of Daniel Bliss, Edited and Supplemented by His Eldest Son (New York: Fleming H. Revell Company, 1920),168-169.

9 Idem., 169. ブリスはスプリングフィールドの会合以前にドッジについて名前しか知

らなかったと書いているが、ヘンリー・ジェサップが1861年10月にスチュアート・

ドッジに、ベイルートで大学のような組織を創立する計画について手紙を書いたの で、ドッジは大学創立の計画について知っていたかもしれない。以下を参照。

Henry H. Jessup, History of the Syrian Mission. [manuscript], notebook F 1860-1880, RG-183-4-3, Presbyterian Historical Society, Philadelphia.

10 New York Times, October 12, 1862.

11 Henry H. Jessup, History of the Syrian Mission. [manuscript], notebook F 1860-1880, RG-183-4-3, Presbyterian Historical Society, Philadelphia. P.105[ Presbyterian Historical Society], 105.

12 Ibid.

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13 Ibid.

14 Annual Report of the Board of Managers President’s Report of The Syrian Protestant College, [typescript], ABCFM vol. 2, reel 551, p. 22. 続いて、大学が拡大するときに、

キャンパスの継続性を可能とするために、近接した土地の購入の交渉に多大な努力 が払われた。スチュアート・ドッジは土地購入の熱心な提唱者であり、彼が戦略的 だと思う土地の購入がもし起こったら、自分の個人的な預金から支払う準備ができ ていた。これが、1873年に彼が購入した、観測所のための一区画であった。

参照

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