アメリカの﹁聖地﹂と﹁巡礼﹂
Ueffersongs University99とthe Mississippi Delta
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今日は﹁アメリカの﹃聖地﹄と﹃巡礼﹄﹂という題で︑アメリカ南部のふたつの場所についてお話をさせてい
ただきます︒
ふたつの場所のひとつはバージニア州のシヤーロッツビルという町で︑ここにバージニア大学があります︵写
真1︶︒もうひとつはミシシッピ州の内陸部にあるミシシッピーデルタ︵写真2︶と呼ばれる地域です︒
このふたつの場所はポウとフォークナーという二人の作家に導かれて知るようになりました︒きっかけは私か
バージニア大学に留学した一九八一年に遡ります︒私はその当時︑エドガフーアランーポウを研究していました
が︑ウィリアムーフォークナーという南部の作家は学部生の頃から読んでいました︒ポウは創立後間もないバー
ジニア大学で一年間︵一八二六年︶学んでいます︒ミシシッピ生まれのフォークナーは一九五〇年代の後半に
ふたつの場所 村田 薫
写真2
あるトマスージェファソンに興味が しだいにこの大学の歴史と創設者で 程度の認識しかなかったのですが︑ カ南部を代表する州立大学といった 学については留学するまではアメリ たって滞在しました︒バージニア大 バージニア大学に招かれ︑長期にわわき︑建学の理念や建築デザインの
みならず︑大学全体およびジェファ
ソンの自邸モンテチェロがアメリカ
の歴史・文化に大きな意味を持って
いることを知るようになりました︒
ウィリアムーフォークナーはアメリカ南部の文学という枠を超えて︑いまや二〇世紀最大の作家のひとりであ
り︑その文学に普遍性があることはいうまでもありませんが︑南部の歴史・文化と切り離してフォークナーを読
むことは不可能です︒とりわけ作品の舞台となっているミシシッピ内陸部の風土の理解は欠かせません︒フォー
クナーは青年時代と晩年の数年をのぞけば生涯の大半を作家兼農夫としてミシシッピーデルタの北東部にある町 36 Iオクスフォードで過ごしました︒そのオクスフォードから東へ数十キロ行くと︑エルヴィスープレスリーの生ま
アメリカの﹁聖地﹂と﹁巡礼﹂ 七七
写真1
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れ育った町チューペロがあります︒ミシシッピーデルタは︑二〇世紀アメリカのポピュラー音楽に大きな影響を
与えたブルース音楽の原点ともいうべき土地でもあります︒私はフォークナー︑ユウドーラーウェルテイ︵ミシ
シッピ州出身︶︑フラナリー・オコーナー︵ジョージア州出身︶などのアメリカ南部の作家たちに魅了され︑両
大戦間のブルース音楽に夢中になり︑いつの問にか南部︑とくにミシシッピーデルタという場所に架空の故郷の
ような愛着を覚えるようになりました︒実際にデルタを旅して回ったのはずっとあと︑二〇〇一年三月のこと
で︑そのときデルタの風土が持つ魅力に圧倒され︑その体験からさまざまなことを考えるようになりました︒今
回このふたつの場所を引き較べることによって︑いくつか明確になってきたことがあり︑そのことをお話したい
と思います︒
世界の超大国アメリカは︑二十一世紀になって自由もデモクラシーも世界標準になりつつあるかと思われたと
きに出口の見えない混迷に入り込んでしまいました︒混迷を深めるのは政治や経済ばかりではなく︑自由と平等
を得たアメリカ人が︑自分たちは果たして幸福なのだろうか︑あるいは何をもって幸福とするのかという問いを
抱えているように思われます︒それは今に限ったことではありませんが︑アメリカ型の政治︑アメリカ型の経済
の再検討を迫られている現在︑本当の課題は政治や経済ではなく︑生きるうえで何を大切とするかということ︑
すなわち人のこころ︑感情の領域にあるのではないかと私は思います︒
ジェファソンの起草した﹁独立宣言﹂︵一七七六年︶には﹁幸福の追求﹂が﹁譲り渡すことのできない権利﹂
幸福とメランコリー
写真3車がかかりました︒が︑そのときすでに︑幸福を追い求めることが可能 を破格の安値で購入してから︑土地の所有︑富の獲得の競争はさらに拍 三年︑大統領だったジェファソンがフランスからミシシッピ以西の土地 貫して﹁幸福の追求﹂の可能な場所としてあり続けてきました︒一八〇 たわけですが︑十七世紀の植民地時代以来︑アメリカという新世界は一 として記され︑ここでもいわゆるアメリカンードリームの確認が行われ
であり︑だれもがそれを当然と考えるがゆえにある種の不安にさいなま
れることを指摘した人がいました︒ジェファソンの死の五年後の一八三
一年にアメリカ視察にやってきたフランスの貴族アレクシスードートク
ヴィルです︒のちにふれますが︑トクヴィルは自由と平等の社会に住む
アメリカ人の多くにメランコリーの箭があると指摘しています︒トク
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ヴィルほどアメリカの知識人が好んで引用する人は他にいないのですが︑彼の鋭い指摘はむしろ現在においてよ
りあてはまるように思われます︒一方︑アメリカ深南部︑とくにミシシッピー・デルタの黒人たちはアメリカ
ンードリームから遠く隔てられ︑メランコリーよりも何倍も重苦しいブルース︵憂診︶を生き抜いてきました︒
彼らの生きてきた姿︑そしてブルース︑ジャズなどの独特の音楽には︑前のめりに幸福を追う生き方とは違うも
のを見出すことができるのではないかと私は思います︒
すでにおわかりのように︑シャーロッツビルとミシシッピーデルター一方は自由︑平等と幸福の追求を掲げ
た新生国家アメリカの理念を象徴する場所であり︑もう一方の場所は﹁幸福の追求﹂という﹁独立宣言﹂の言葉
アメリカの﹁聖地﹂と﹁巡礼﹂ 七九
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八〇
がこれほどうつろに響く土地はアメリカにないと思われるようなところです︒アメリカにあって今回取り上げた
このふたつの場所ほど対鮭的な組み合わせはほかにないといえるほど両者は異なっています︒もしバージニア大
学︑モンテチェロ︵写真3︶を﹁聖地﹂と呼ぶなら︑ミシシッピーデルタは﹁反・聖地﹂と呼ぶべきかと思える
ほどです︒一方は光り輝く﹁丘の上の町﹂であり︑他方は繰り返される大河の氾濫でできたriver bottom︑すな
わち川床の大地です︒一方はトップであり︑他方はボトムです︒
少し先を急ぎすぎました︒まず︑ジェファソンとバージニア大学についてお話しいたします︒
簡単に地理の説明をします︒アメリカの大西洋岸︑首都ワシントンから南ヘー八〇キロ下った内陸部にシヤー
ロッツビルという町があり︑そこにバージニア大学とかつてジェファソンの私邸であったモンテチェロがありま
す︒西にはアパラチア山脈の中でもとりわけ美しいブルーリッジ国立公園の連山が青く霞んで見えます︒
Jdersongs Universityとはバージニア大学tthe University of Virginiajの別名で︑﹁独立官一言﹂の起草者にし
て第三代大統領のトマスージェファソン︵一七四三−一八二六︶が創設したことにちなんでそう呼ばれていま
す︒ジェファソンは長い間州立の高等教育機関の構想を練っていましたが︑大統領職を辞してから余生をこの大
学建設に捧げました︒カリキュラムの構想はもちろん︑建物の設計図面もみずから手がけ︑一八二五年に開校し
ました︒ちなみにジェファソンの墓碑銘はみずから選んだ言葉ですが︑独立宣言とバージニア信教自由法を起草
しバージニア大学の創立に関わったことだけが記され︑大統領であったことにはふれていません︒ Jeffersonls Uniくersity
ルネッサンスーマン
今日のキーワードは﹁聖地﹂ですが︑アメリカにはキリスト教のエルサレム︑あるいはイスラム教のメッカのような聖地があるわけではありません︒ここでは比喩的な意味で︑バージニア大学と彼の私邸モンテチェロをアメリカ建国思想・神話における﹁聖地﹂と呼びたいと思います︒一九八七年にはバージニア大学とモンテチェロが世界遺産にも登録され︑毎日多くのアメリカ人がこの聖地を訪れます︒歴史の浅い国家にとって︑重層的な意味がバージニア大学とモンテチェロに凝縮されているのです︒訪れる観光客は建国神話の中核となる場所を訪う﹁巡礼﹂者といっていいでしょう︒132
﹁独立宣言﹂ほど現在のアメリカ合衆国の根幹を成す文書はないでしょう︒
﹁人間は平等であり︑生命︑自由︑幸福の追求﹂は何よりも大事な権利であることを記して︑イギリスからの
独立を宣言しました︒
ジェファソンは思想的にはヨーロッパから多くを学んでいますが︑フランクリンらとともに国家規模でその思
想を実践し︑新しい人間社会を築こうとしたところに歴史的な意義があります︒﹁独立宣言﹂ほど頻繁に引用さ
れる文書はなく︑未来が見通しにくくなるとアメリカはつねに建国の理念に立ち返ります︒
ルネッサンスーマンと呼ばれるにふさわしく︑ジェファソンは数ヶ国語を自由に使いこなし︑法律︑農学︑建
築︑経済学︑音楽︑天文学︑考古学︑測量など多くの分野で専門家と同等の力を発揮しました︒ケネディ大統領
は︑一九六二年に五〇人近いノーベル賞受賞者を招いた晩餐会の席上で︑次のように述べ︑先人を称えました︒
アメリカの﹁聖地﹂と﹁巡礼﹂ 八一
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﹁ホワイトハウスのこの席に︑これほど卓越した才能と知識が一堂に会したことはありません︒ただし︑ジェ
ファソンがここでひとりで食事をしていたときを別にすれば︑ということですが︒﹂つまり︑その場のノーベル
賞受賞者全員とおそらく大統領を足しても︑その総和はジェファソンひとりの能力と知識に及ばないということ
をケネディは言ったわけです︒
バージニア大学の中心になる建物は︑すでにご紹介したロウタンダも含めてジェファソンが設計し︑現場管理
を行なって築いたものです︒人生の最後の九年間をすべて大学創設に捧げました︒馬に乗って一日おきに七キロ
離れた大学の建築現場を見に行ったというジェファソンですが︑行けない日はポーチに据えた望遠鏡で工事の進
行を眺めていたということですから︑意気込みのすごさがうかがえます︒
小高い丘の上にあるバージニア大学のキャンパスの中心にはロウタンダ︵︷ぼえOど乱巴と呼ばれる巨大な円
筒形の建物がそびえています︒︵写真I︶ロウタンダは図書館として造られました︒ジェファソンはここに古代
から近代にいたるまでの西洋の叡智の結晶ともいうべき書物を集めました︒ロウタンダの前には教授の宿舎と学
生寮が一体になった建物が連なり︑まさにキャンパスは自由︑平等︑幸福の追求をモットーとする新国家をにな
う青年たちの理想的な教育の場所であったわけです︒ジェファソンは︑知性によって結びつけられた共同体の誕
生を願って︑八八ンニア大学を﹁学問の村﹂︵the academical villagejと呼びました︒
現在見てもロウタンダの大きさには目を瞳りますが︑当時のアメリカで一番大きな建造物でした︒赤褐色のレ
ンガ造りで︑ドーム部分は白亜に塗られています︒これほど大きくしたのは︑このアパラチアの山裾と大西洋岸
の平地との間にある地域で︑遠くからも一目でわかるランドマークの役割も持たせたかったからだとされていま
す︒片側四車線のハイウェイが大学の近くを走る現在とは大きく異なり︑十九世紀初頭のシャーロッツビルはま
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だフロンティアの面影をとどめ︑大学の周辺には農地と大自然が広がっていたことでしょう︒そこに︑周囲の景
観とはまったく異なる︑ヨーロッパの古代の叡智の面影を宿す白亜のドームとレンガ色の大きな建築群が並んだ
ところはまさしく壮観だったにちがいありません︒小高い丘の上に忽然と出現した﹁学問の村﹂は︑歴史上類を
見ない理念に基づく独立国家の知的な拠点になろうとしていました︒
退職した元大統領はバージニア大学の設計図面を引いただけではなく︑自らの教育理念を実現させようとしま
した︒
その理念の一つはキャンパスに教会を作らなかったことに現れています︒アメリカで最初に作られたハーバー
ド大学を初めとして︑それまでのアメリカの大学は直接間接の違いはあれ︑キリスト教各派と深く結びついてい
ました︒神学はヨーロッパの大学の最重要な学問でしたが︑その点はプロテスタントが主流のアメリカでも同様
でした︒しかし︑バージニア信教自由法の制定の立役者であったジェファソンは︑大学教育と宗教を切り離しま
した︒これは画期的なことでもあり︑同時に激しい批判もあびました︒
ジョージーワシントンなどと同様︑ジェファソンは宗教に合理主義を持ち込んだ理神論の影響下にありまし
た︒が︑もちろん無神論者ではなく︑宗教を軽んじるところはありませんでした︒それどころか︑先住民をキリ
スト教に改宗させるために︑聖書の最重要な箇所だけを選んで切り貼りして一冊に編んでいます︒これは﹁ジェ
ファソンーバイブル﹂と呼ばれていて︑生前に刊行されることはありませんでしたが︑ジェファソンは近代科
学︑近代政治思想の申し子であったばかりでなく︑キリスト敦の伝道者の側面も持っていたことをうかがわせま
す︒ともあれ︑ジョンーロック︑ニュートン︑フランシスーベーコンなどのヨーロッパの新しい思想から多くを
学んだジェファソンは︑大学は科学︑哲学︑数学︑語学などでカリキュラムを組み︑神学部は作りませんでし
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た︒これは当時としては大変斬新な教育構想でした︒既成の宗教を離れ︑啓蒙思想︑合理主義︑理神論を体現
し︑自由︑平等︑幸福の追求といった理念を追う場所placeとして︑ロウタンダのドームが新しい聖地の雰囲気
を作り出し始めていたと言っていいでしょう︒
バージニア大学から七キロほど東にある山の上に立つモンテチェロは一七六八年︑ジェファソンが二十五歳の
ときに着工したものの︑建築費がまかなえず︑数十年をかけて少しずつ築きあげられました︒十六世紀イタリア
の建築家アンドレアーパラディオの影響を受けたデザインで︑ほぼ半世紀後の一八一七年に着工したバージニア
大学にもその影響は見られます︒KoにF巴oとはイタリア語で611ttle mountain99のことですが︑その通り︑海抜
二六〇メートルほどの小さな山で︑お椀を伏せたような形のその山のてっぺんにジェファソンの自邸は立ってい
ます︒モンテチェロから西︑すなわちフロンティアの方角を見るとバージニア大学が見え︑その向こうにブルー
リッジ山脈の稜線が霞んで見えます︒
バージニア大学もモンテチェロも丘もしくは山の上にありますが︑エリクーエリクソンはジェファソンをめぐ
る講演﹃歴史のなかのアイデンティティ﹄︵Dimensions of a New ldentity︶の中で︑この﹁小さな山﹂には特別
な意味が込められていたはずだと言います︒それは︑植民地時代初期のピューリタンの指導者であったジョン・
ウィンスロップが二八三〇年に行った説教で︑自分たちが新世界に作る共同体は﹁丘の上の町﹂a口名目Q巨︸
になるのだと言ったことを指しています︒これは新約聖書のイエスの山上の垂訓の一部﹁あなたがたは︑世の光
モンテチェロ
である︒丘の上にある町は隠れることができない﹂からの引用で︑ピューリタンたちの高邁な理想を表現してい
ます︒ジェファソンはピューリタンではありませんが︑全方向に視界の開けた場所に叡智をそそぎこんだ農園を
開き大学を創ったのは人間の進化を信じてのことでした︒
ジェファソンは古代から近代までのヨーロッパの書物を読み漁りましたが︑彼の理想的な人間像は学者でも政
治家でもありませんでした︒公職に就いているとき以外は自らを農夫︷自∃qと呼んだジェファソンは︑歩いて
行ける距離︑七マイル四方で日常生活のすべてが済むことを理想としていました︒近隣の農民が助け合って︑作
物︑果樹を育てる﹁自営農民﹂︵lO白目︶の共同体がアメリカ社会の基本的なユニットであるべきだと考えてい
ました︒﹁大地を耕すものこそが神に選ばれた民である﹂と言っています︒
ジェファソンは熱心に穀物︑野菜の栽培・研究もしました︒その当時は︑畑に肥料をやって土壌を豊かにする
よりは新しい土地を買ってしまったほうが安いくらいでしたが︑ジェファソンはアメリカの国土が有限であるこ
とを見越して︑タバコやとうもろこし栽培で荒れた土壌の改良を研究しました︒クローバーや蕎麦の種を蒔い
て︑それを土に鋤き込んだり︑同じ作物を続けてつくらずローテーションを行なって︑土地が痩せるのを防いだ
りといったことです︒
ジェファソンが数十年を費やしたモンテチェロは︑建築としては大学よりもさらに建築的趣向を凝らしていま
す︒しかしそれについて詳しく紹介する余裕はありません︒ぜひウェブサイトで調べてみてください︒
ところで︑ジェファソンの広大な農園は誰が耕していたのか?もちろん黒人奴隷です︒父親から受け継いだ
奴隷︑妻が結婚したときに連れてきた奴隷などを所有していて︑常時百数十人の奴隷がいたとされています︒ま 28
1た︑ジェファソンは妻の死後しばらくして︑妻の異母妹である黒人奴隷︵黒人の血は八分のこサリー・ヘミン
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グズと夫婦同様の生活をするようになり︑それはジェファソンの死まで続いたといわれています︒
ジェファソンは︑奴隷制度がアメリカの発展とともに自然消滅することを期待していました︒晩年︑奴隷問題
への危機感をある北部の政治家への手紙で次のように記しています︒﹁このゆゆしき問題は︑深夜に打ち鳴らさ
れる半鐘に目覚めたときのように︑私を恐怖におとしいれます︒まさに連邦政府への弔鐘のように私には聞こえ
るのです︒﹂
ジェファソンは段階的な奴隷解放を模索していました︒また︑主著﹃バージニア覚え書﹄の中には奴隷に体罰
を加えるのを子どもが見れば︑その子どもも同じ事をするといった深い懸念が吐露されていますが︑奴隷制度を
一挙に廃止することは当時の国情を考えれば不可能だとみていました︒
奴隷労働による農園経営︑愛人サリーの存在などもあって︑現在では﹁独立宣言﹂の草稿を作成したジェファ
ソンを偽善者とする見方もあります︒が︑現代の﹁正義﹂の物差しをそのまま十九世紀初頭にあてがうのは幼稚
な思考というべきで︑歴史の問題はその時代の枠組を無視することはできません︒些細な損得に驚くほど敏感な
現代人が︑なぜか過去や他国のことになると途端に型通りの正義感を振り回すのはおかしなことといわなければ
なりません︒少なくともミシシッピーデルタの悲劇を理解するにはジェファソンの功績を否定しなければならな
いといった二者択一的な思考は︑人間の問題を数式化するようなもので︑そうすることによって私たちは過去を
見失い︑現在を見失うことになるのではないでしょうか︒
﹁独立宣言﹂やバージニア大学に託されたジェファソンの理念は現在から見ても大変すぐれたものといえます︒
しかし︑その後の歴史は︑アメリカが彼の理念の示した道筋通りに進まなかったことを示しています︒私はミシ
シッピーデルタを訪れたときに︑その食い違いの象徴的な場所に立っていることに気づきました︒
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ミシシッピーデルタという場所
アメリカ南部と呼ばれる広大な地域の中で︑バージニアは北東の角にあり︑一方︑ミシシッピーデルタはその
対角線上の南西の端にあります︒ミシシッピ︑アラバマ︑ジョージア︑ルイジアナなど︑いわゆる﹁深南部
︵ぼりQ名印I9︶﹂と呼ばれる地域は︑豊かな国アメリカの中で貧困の目立つところですが︑とりわけミシシッ
ピは全米でもっとも貧しい州で︑その州内でもミシシッピーデルタの貧困は際立っています︒
もう一度ミシシッピーデルタのイメージを見てください︵写真2︶︒まさに空と大地だけが見渡すかぎり続き
ます︒もちろんデルタにも町はありますが︑ほとんどが畑︑ナマズの養殖池︑林地で︑その片隅にうずくまるよ
うに町は点在しています︒
ミシシッピーデルタは︑デルタといっても︑大河の河口にできたものではなく︑度重なる氾濫によって内陸部
にできた肥沃な沖積平野です︒このデルタはミシシッピ州の北西の角に広がり︑東西約一三〇キロ︑南北三五〇
キロの紡錘形をなしています︒三六〇度開けた真平らな大地に立つと︑異世界に入り込んだような不思議な解放
感を感じます︒しかし︑歴史をふりかえれば︑ミシシッピーデルタほど自由や解放と縁遠い場所はないでしょ
う︒ある歴史家はいみじくもミシシッピーデルタを﹁この世界で最も南部的な南部﹂9 e most southern place
on earthと呼びました︒差別や貧困︑停滞の度合いがどこよりもひどかったのがデルタなのです︒
デルタはかつて広大な沼沢地でしたが︑十九世紀初頭︑大規模な綿花畑のプランテーションを営むために多く
の黒人奴隷がこの地に投入されました︒千数百キロ離れたところでバージニア大学が開校した当時︑ミシシッ
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ピーデルタで開墾されていたのは全体のI〇パーセントほどでした︒ワニやヘビの棲息する︑一度迷い込んだら
抜け出ることのできないような原生林の湿地帯を濯漑する工事が︑いかに過酷な労働を必要としたかはいうまで
もありません︒奴隷労働の典型的な例がデルタにはあったのです︒
二〇〇一年三月︑私はそのデルタを旅してまわりました︒テネシー州メンフィスを起点として︑メンフィスに
隣接するミシシッピ州を南に下り︑最終目的地のルイジアナ州のニューオリンズにたどり着きました︒カトリー
ナ以前のニューオリンズだったわけですが︑カリブ海︑ヨーロッパ︑アフリカなどの文化が雑多に入り込んだ街
の賑わいにうっとりしながらも︑途中で見てきたミシシッピーデルタの荒廃と貧困がフラッシュバックのように
頭をよぎったのを覚えています︒
ミシシッピーデルタの人々の生活は困窮度がきわめて高く︑多くの問題をかかえていますが︑十九世紀前半か
ら二〇世紀の半ばまで︑かつては綿花の一大産地でした︒が︑その時代でも︑富は少数の白人の農園主が握って
いました︒これまで研究者たちが奴隷制や人種差別の犠牲者としてのアフリカ系アメリカ人たちの悲劇の象徴的
な場所としてミシシッピーデルタを見てきたのも当然でしょう︒ジェファソンの﹁学問の村﹂をアメリカの聖地
と呼ぶなら︑ミシシッピーデルタは﹁反・聖地﹂であり︑西アフリカから奴隷として連れてこられ︑アメリカの
大地に血と汗と涙を吸われて死んでいった黒人たちの生涯は﹁反・巡礼﹂というべきでしょう︒
しかし二〇〇年にもわたって悲惨な生活しかなかったと見るのはあまりに一面的です︒人間はそのような状況
に耐えられないし︑事実黒人たちの一生を犠牲という言葉でくくることはできません︒人間は拷問のような生活
の中でも何かに希望を託します︒ささやかな自由さえ見出します︒黒人たちを犠牲者としてのみ見る人々の憐欄
の情には傲慢さがありはしないでしょうか︒外部の人間が憐れむ必要もなく︑人が生きてきたということは︑ミ
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アメリカ人のメランコリー シシッピーデルタにも︑﹁平等﹂︑﹁自由﹂︑﹁幸福の追求﹂が違ったかたちで存在していたはずです︒
ジェファソンは一八二六年に亡くなりましたが︑その五年後の一八三一年︑フランスの貴族アレクシスードー
トクヴィルがアメリカの視察旅行にやってきました︒滞在したのは十ヶ月ほどでしたが︑数年後に最高のアメリ
カ論と称される大著﹃アメリカのデモクラシー﹄を刊行します︒アメリカが早晩世界の超大国になり︑デモクラ
シーが世界に広がることを予見した歴史的な名著ですが︑その中にアメリカ人に特有のメランコリー︵憂愁︶に
ふれている有名なくだりがあります︒
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すべてがほぼ平準化するとき︑最小の不平等に人は傷つく︒平等が大きくなればなるほど︑常に︑平等の欲
求が一層飽くことなき欲求になるのはこのためである︒
民主的な国民にあっては︑ある程度の平等を人は容易に獲得するが︑欲するだけの平等にはついに到達し
得まい︒それは日ごとに目の前を遠ざかり︑しかし決して視界の外に消えず︑後退しながら︑さらに人を引
きつけて︑後を追わせる︒今にもつかめそうにいつも思えるが︑握ろうとする手から絶えずこぼれる︒その
魅力を知るには十分近くに見えるが︑これを楽しむほどには近づけず︑その甘みを心ゆくまで味わう前に人
は死ぬ︒民主的な国に住む人々は豊かさの中でしばしば特有の憂愁を表わし︑余裕ある静かな暮らしの中で
時として生きることへの嫌悪にとりつかれるが︑その原因はこれらの点に帰すべきである︒︵松本礼二訳︶
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〇九
日本をふくめた現在の先進国すべてに通ずるような洞察ですがヽジェファソンら建国の父祖たちの作り出した 12
流れの中に現在のアメリカの繁栄があるとすれば︑その象徴としての﹁学問の村﹂とミシシッピーデルタを比較
する試みる者にとってはとりわけ興味深く思われます︒デルタでは最小の平等さえ実現するには長い時間がかか
りました︒その苦闘の日々から生まれたのがブルース音楽です︒ブルースとは憂僻を意味するブルーが語源です
が︑﹁最小の不平等﹂に焦慮を覚える人々と異なり︑デルタの人々は最大の不平等から独特の音楽を作り出し︑
それがいまや世界的規模の影響を与えています︒
教科書的にいえば︑自由︑平等︑幸福の追求のいずれもデルタにはなかったということになりますが︑そう言
い切れるものでしょうか︒試みに︑彼らの生の文脈にこうした言葉を置き換えてみます︒デルタの北部地方出身
のブルースマッ︑フレッドーマクダウェルの名曲﹁行かなきゃならないんだよ﹂︵べIGotta Move︶はローリン
グーストーツズのカバーで有名になりましたが︑そこでは﹁金持ちも貧乏人も︑神様がおいでと言ったら︑みん
な行くんだ﹂と歌われます︒﹁通りを歩くあの娘も︑ギャンブラーも︑みんな行くんだ﹂と︒死は平等に誰にで
も訪れます︒その事実を拒むのではなく︑日常の光景の只中に引き下ろすとき︑絶対的な平等が見えてきます︒
メランコリーの暦りを払うことのできない平等で豊かなはずの生活と引き比べると︑ここには死の位置から向き
直って生を見据える目︑ふてぶてしい自由があります︒人は生まれ︑叩かれ︑酷使されて死んでゆく︒その悲惨
な生存の条件を正面から受け止める勇気に彼らの自由はあったと言ってもいいでしょう︒こういうことを言えば︑
黒人の歴史的な体験を軽視するという批判が出てきそうですが︑奴隷制や差別の歴史的事実と︑その中で黒人た
ちが生き抜いてきたこととは︑後者の意義を評価するためにも別々の視点から考える必要があると私は思います︒
一九三〇年代の大恐慌のときには政府の援助もあって︑多くの写真家がアメリカ南部を撮っています︒ドロシ
アーラング︑ウォーカー・エヴァンス︑マリオンーポストーウォルコットなどの写真には︑この時代の歴史を語
るには欠かせないものが数多くあります︒私は︑そういう著名なプロの写真家たちの仕事のわきに置いても︑ミ
シシッピーデルタ近くで生まれ育った女性作家ユウドーラーウェルティが同じ頃に撮った写真は︑比べて遜色が
ないどころか︑より高い評価にあたいするのではと思っています︒
大恐慌期のとき︑まだ二〇代半ばだったヴェルディはミシシッピ州の生活実態を調べる仕事を州政府から与え
られ︑貧困にあえぐ州内各地を歩き回りました︒写真はその仕事の合間に撮ったもので︑カメラも高価なもので
ユウドーラーウェルティの写真
はありません︒このときの写真は︑のちに﹃あるとき︑あると
ころで﹄︵Ow 7fM6 0s PaaOとして刊行されますが︑素
人の仕事ながらアメリカの写真史において別格の位置をしめる
ものだと思います︒制約があってその中から示すことができる
のはごくわずかですが︑写真4をご覧ください︒
これは﹃あるとき︑あるところで﹄の巻頭に掲げられた一枚
です︒一九三五年にミシシッピーデルタに隣接するハインズ郡 22
1で撮影されたもので︑黒人の女性がまっすぐに前を向いて立つ
九一アメリカの﹁聖地﹂と﹁巡礼﹂
写真4
九二
ています︒服はすり切れているものの︑大切に着てきたことが一目でわかります︒私はこの写真を最初に見たと
っよ 91﹈き︑その立ち姿の毅然とした勁さと顔の表情の深さに驚きさえ覚えました︒ヴェルディ自身がこの写真にいだく 1
特別な思いを言葉にしていて︑写真を撮ってから半世紀も経つたいま︑﹁彼女のヒロイックな顔立ち﹂を改めて
見て思うのは﹁大恐慌︑黒人︑南部のいずれでもなく︑世界の終わりなき悲惨さでもない︒私か思うのは︑その
表情に刻まれた彼女の人生だ﹂とヴェルディは書いています︒さらに︑﹁人間について私かこれまで考えてきた
こと︑あるいは人の語ったことなど︑どんな言葉を持ってきても彼女の表情にはそれ以上の真実︑恐怖︑高貴さ
がある﹂と続けています︒大恐慌の貧困︑差別に苦しむ黒人︑貧困と差別から抜け出せない南部といった政治
的︑社会的視点からのステレオタイプな断罪を持ち出さずに︑この黒人女性の人としての勁さに感銘を受ける
ヴェルディの言葉は︑それ自体私たちの感銘を誘うものです︒
縮小した写真ではわかりませんが︑顔立ち︑とくに目は多くの感情を秘めていて︑一にして多︑多にしてI︑
とても深みがあります︒やわらかな顔立ちですが︑目にはウェルティのいう恐怖︑おびえの痕跡があります︒
が︑同時に︑苦しみに顔をそむけず︑運命を全身で受けとめてきた人に特有の気品︑ウェルティのいう高貴さが
あり︑あたかも神の前に立って︑みずから恥じるところのない生き方をしてきたことを無言で示しているかのよ
うです︒思えば︑十七世紀初頭にやってきたピューリタンたちは︑まさに彼女のように毅然と神の前に立つこと
を願ってアメリカを目指したはずでした︒が︑政治︑経済︑教育における彼らの努力は本来の道筋とはそれた方
向でみごとに報われ︑大きな成功を収めました︒しかし︑その成功がもたらした﹁幸福﹂を世界中の人々が追い
求めるいま︑本家のアメリカでは個人主義やデモクラシーの内実が問われ︑﹁希望﹂の回復の試みがなされてい
ます︒社会格差が縮小され︑貧困者が少なくなればこういうこころの問題が解決されると思うのはまったくの幻
写真6
写真5
想でしょう︒
写真5は﹁母と子﹂
と題されています︒幼
い子の小さな右手が動
きのためにぼやけてい
て︑母親の乳に手を伸
ばす瞬間を捉えたもの
120
今回︑この講演を準備するにあたって︑できるかぎり多くのアメリカ人の写真を見てみました︒が︑ウェル
アメリカの﹁聖地﹂と﹁巡礼﹂ 九三 のようです︒この静謐であたたかみの感じられるイメージは︑ミシシッピの聖母子像ともいうべき一枚です︒ もう一枚︑写真6を見てください︒これは﹁デートをする﹂と題されています︒ふたりとも靴も服もボロボロです︒男の破れたズボンの尻ポケットに帽子が無造作につっこまれ︑娘は︑緊張したときの癖なのか︑左手の小指を小鼻に押しあてています︒互いの顔から外された視線が生まれたばかりの恋を物語っているようです︒ユーモアを含む写真ですが︑それは二人の羞じらいから出てくるもので︑ヴェルディの祝福が感じ取れます︒やや大げさながら︑アメリカの写真家の撮ったものでこれほど幸福そうな若い男女の写真は他にないIそう断言したくなるような一枚です︒
限界の認識がもたらす自由
九四
ティの撮った黒人たちのような穏やかさと勁さをもった人の姿は見つかりませんでした︒私か知らないだけかも
しれませんが︑たとえそうだとしても︑﹃あるとき︑あるところで﹄の人物たちの実在感にはこころを揺さぶる
なにかがあります︒
私たちは苦しい時にはつねにごく些細なことに心を奪われたり感動したりして︑自分を押しつぶす力からそっ
と体をかわそうとします︒ヴェルディの写真が示すのはそういう生きるすべを苦しい日々の中で会得した︑ある
いは会得しつつある人の姿ではないかと私は思っています︒そういう美徳がアメリカには皆無だったとは言いま
せんが︑少なくとも積極的には評価されてきませんでした︒
私はこれこそが南部の黒人の真実だというっもりはありません︒しかし︑文化の新しい動きを作り出すのは︑
何を肯定し︑高く評価するかといった倫理観であり美意識です︒ヴェルディが写真集を編むために行った取捨選
択には︑デルタの多くの死者たちの沈黙の声を聴きとった彼女の希望が託されていたはずです︒否定や抗議やシ
ニシズムを金太郎飴のように量産する文化論はもう十分過ぎるほどあります︒
ヴェルディの写真集を見ていると︑心の奥深いところにあって︑ふだんは気配さえ感じさせないくある確かな
こころ︶とでも呼ぶべきもの︑郷愁に似ていて郷愁ではない︑しかし懐かしさに似た感情が湧き出してきます︒
それがなくなったら︑自分は自分であることを確かめるすべがないと思える感情とでもいえばいいのでしょう
か︒私たちが生きながら追い求めているのは︑富でも幸福でも︑人生の意味でさえもなく︑そういう﹁確かなこ
ころ﹂ではないかIヴェルディの写真はそんな思いを誘います︒﹁こころ﹂はheart 4 mindやSEといった
英語ではピタリと置き換えられない広がりと深さのある言葉です︒アメリカの人間・景観を撮った写真を見て日
本語をあてがうのも奇妙なことですが︑私にはそう感じられます︒
19
政治︑法律︑制度︑経済といったものがある特定の人種や個人を押しつぶすように働くとき︑人生がどれほど
苦しいものとなるか︒アメリカの黒人たちが経験したものは私たちの想像を超えるものであったに違いありませ
ん︒しかし︑どんな逆境もこころまでは縛りつけることはできません︒こころこそ人間が最後まで自由を持ち続
けることのできる場所です︒むしろこころ以外のことがらがあまりにも不自由だからこそ︑こころが持ちうる自
由の感覚はより深くなるといえましょう︒
﹃独立宣言﹄の有名な言葉︑﹁生命と自由と幸福を追求する権利﹂は﹁譲り渡すことのできない﹂ものであると
いうくだりをもじっていえば︑黒人たちにとってこころこそ﹁譲り渡すことのできない﹂権利であったのではな
いでしょうか︒彼らは悪魔に魂を売り渡すことを何よりも恐れましたが︑それは︑﹁譲り渡すことのできないこ
ころ﹂という言葉で私か意味するところとほぼ同じであると思います︒
イギリス本国という強力な縛りに抑えられていたからこそアメリカで自由と平等︑幸福の追求の夢が育まれま
した︒が︑トクヴィルの指摘が含意するように︑影がないところでは光が見えないのにも似て︑夢や可能性が四
方に解き放たれると︑たどりつけない焦燥感ばかりが残る︒そうなると私たちの生の実感は希薄になるばかりで
す︒
ヴェルディの写真やフォークナー︑フラナリー・オコナーなどの文学作品から浮かび上がるのは︑最低限のも
のすら持つことができない黒人たちの苦闘です︒しかしそれは黒人たちの姿であるとともに︑あらゆる人間の生
の縮図でもあると言うべきではないか︒むしろ︑死を含めて︑徹底した限界の認識があってはじめて自由のかた
ちも見えてくるのではないか︒やや反語的な言い方をすれば︑素裸の貧しさには素裸であることの自由があるの 18 1ではないか︑ということになります︒アメリカは︑人間の限界の認識を︑絶えざる進歩や富︑力︑勝利などの達
アメリカの﹁聖地﹂と﹁巡礼﹂ 九五
感じたことを伝えることができないIミシシッピの不思議な魅力について語るのはなかなか難しいように思
います︒私の大好きなミシシッピーデルタのブルースマン︑R・L・バーンサイドは︑﹁ミシシッピは大好きだ︒
目が四つもあって見えないってところがね︒﹂CI love MississippiXecause it has four iど=肩旦目aり政こ恥じ
というジョークをよく使いましたが︑見えないのは私たちのほうなのかもしれません︒
117
九六
成で押しのけて来た国ですが︑その国が行き詰まりを経験しているいま︑進歩や発展が置き去りにしてきた世界
に生きていた人の姿は大きな呪力をもって迫ってきます︒小さいながら︑ヴェルディの写真集は︑その呪力を伝
える衝撃的な媒体であると︑あえて申し上げておくことにします︒
する本部キャンパスは全体として︑学生が入学してから ︵2︶American dreamという言葉が使われるようになった
卒業するまでの過程を一種の﹁巡礼﹂︵pilgrimagejと のは一九三〇年代のこと︒しかし︑実際には最初のバー 考えてジェファソンは設計したと語っていた︒ベリーの連作壁画は77zg 51adgxzrs ynwgssと題されているが︒これは十七世紀末のジョンーバニヤンの74 R4r44X tgggSS︵邦訳﹁天路歴程﹂︶を踏まえている︒︵この壁画については次のにzrを参照のこと︒httpyZW WyvirginiaeduZmuralZ︶講演ではバニヤンの宗教的寓話がアメリカ民衆の想像力に深く浸透し︑文学から映画まで影響を与えていることにふれたが︑ここでは省略する︒ 注︵1︶この原稿は二〇一一年十二月三日の多元文化学会での 講演のために準備したものであるが︑実際には原稿から 離れ︑スライドを説明するかたちで話を進めた︒ 画家リンカンーベリー︵Lincoln Perryjはバージニ ア大学の建物のひとつオールドーキャペルーホールに連 作壁画を描いている︒二〇一一年三月初旬にペリーに話 をうかがう機会があり︑そのときにロウタンダを中心と
James Co Cobbo 74 MasX Suaea Paa u Eara 77k
Mamsz4j.ZXsa2 nd Zk 20a g tqjauj MaMy
︵Oxford University Pressj
Erik R Eriksc4 pSajus y a yVez47 MaMy 77k j92
jStsu lsdsss i as 77zxsaiXtMWo W o Norton︶
Mern11 DJetersonXdJgir r 94qMThe Library of
Americaj
Alexis de Tocquevilk pgMacgCy a jMg717a Translated
by George Lawrence 4Anchorl
Eudora Weltyo 76 Qs P4zcOThe University
Press of Mississippij
Eudora Weltyo tdQ07zs︵The University Press of
MiSSiSSippil シニア植民地のリーダーであったキャプテンージョンー スミスから現在にいたるまで﹁アメリカの夢﹂を追うこ とは切れ目なく続いているとするのが近年の研究の定説 である︒︵3︶トクヴィルの著書﹁アメリカのデモクラシー﹂は数百
頁の大著だが︑その翻訳は大学のテキストとしてだけで
も毎年六万部以上使われている︒また︑近年︑新訳が複
数出され︑研究書も次々と現れて︑一七〇年前の本なが
らきわめて注目度の高い一書である︒
︵4︶CX Robert No BellahyPreface to the 2008 Editionjl
jlXa61Xs y Xk j712rMUniversity of California PreS
2008y lsaac Kramnick edoo Z3ssacsg is jsenlaz
︵NortonJ007y Andrew Delbancoo 774 Rax74sajcu
ZXrat yl MdiazXia u gOs 4Harvard University
PressJ999︶
引用文献エリクーエリクソン﹁歴史のなかのアイデンティティ﹂五
十嵐武士訳みすず書房
アレクシスードートクヴィル﹁アメリカのデモクラシー﹂
松本礼二訳全四巻岩波文庫
アメリカの﹁聖地﹂と﹁巡礼﹂
九七
116
MURATA Kaoru Sacred Ground and Pilgrimage in America
Thomas Jeferson, drafter of the Declaration of lndependence, later
became the third President of the United States of America.Together
with the other Founding Fathers, he achieved independence from Europe,
which had been dommated by the royal courts, the nobility and the clergy,
establishing the basis in the New World of America for a new vision of
what humankind might be.Jefferson devoted the majority of his later
years to establishing his Academical Village : the Umversity of Virginia.
The university and his home Monticello were designated in 1987 as a
World Heritage Site, and together they may rightly be called American
sacred ground。
Another sitel is dilametrliclally opposed to the city upon a hirinl the
land of freedom, 1iberty and the pursuit of happiness that America aspired
t0.1t is the Mississippi Delta, heart of the land of King Cotton, which one
writer has called the most southern place on earth. But is it not merely
arrogance on the part of outsiders to say that the black people who have
resided in this region farthest from the American Dream are simple
victims ? Writer Eudora Welty, who photographed the people of
Mississippi during the Great Depression, wrote that she found in the black
people who lived there and who confronted their tragic history on a daily
basis something heroic. As a consequence of possessing no p011tical,
economic or legal freedom, they seemed to seek an even deeper freedom
ofthe sou1. The community of so−called deve10ped nations, suffering from
melanch01y despite their prosperity, has much t0 1earn from them.
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九 八