入唐?と杭州・越州
その他のタイトル Hang‑chou (杭州) and Yue‑chou (越州) in the Record of the Priests who worked in Tang China
著者 藤善 眞澄
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 29
ページ 37‑56
発行年 1996‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/15974
三百年になんなんとする遣隋使・遣唐使時代にも︑日本人による
中國紹介はさほど多くはない︒これにはわが國における日記︑とり
わけ旅行記の執筆習慣とも深い闘わりがあるように思う︒が最古の
日記を﹃安斗智鋸日記﹄︵六七二年︶︑﹃記淡海日記﹄︵同︶︑﹃具
注暦﹄︵七四六年︶などに求め︑入唐記の類を﹃伊吉連博徳書﹄や
(1 )
﹃難波男人書﹄などに遡らせてみても︑侠文が僅かに残る程度では
殆んど問題にならず︑決定的な要因は他に求めなければなるまい︒
限られた記録の中でも地域的に偏りを示すのは︑嘗時における文
化受容の側面を語るに足る象徴的な意味を持つが︑今ここに扱う杭
州について日本人の紹介した記事はほとんど絶無に近い︒杭州に獣
上されてきた歴史的評債や︑文化的風土のイメージからすれば︑い
ささか拍子抜けの感を免れない︒けれども︑それは疑いもない事寅
なの
であ
る︒
入唐
僧と
杭州
・越
州
は じ め に
入唐僧と杭州・越州
入唐僧と杭州との開係が稀薄な理由としては︑旅行記執筆の習慣
ありや無しやの問題を棚上げすれば︑なによりも先ず遣唐使節の入
唐路に注目する必要がある︒航海については周知の通り︑初期の北
路︵翌高い頑翠誌︶と中期の南路︵埒繹合繹芸︶・後期の南路︵這げ戸
吋績︱︱咤︶に大別される︒常識的にみて︑北路期には江南によほ
どの関心を引きつける何かが無ければ︑杭州はもちろん越州などの
登場する可能性は少なく︑やはり中期已降を待たねばなるまい︒
朝鮮半島をめぐる新羅との閥係悪化にともない︑北路の維持が困
難となり︑渤海路や南島路が利用され︑やがて五島列島から一氣に
東シナ海を横断する南路の開拓が急がれた︒かくして江淮以南の江
蘇︑浙江各地域が一躍脚光を浴びることになる︒その兆候はすでに
大賓二年︵七
0
二︶入唐の粟田員人らの行歴に早くも現われており︑(2 )
彼らは楚州蓋城縣に上陸して長安に向っているのである︒中期より
後期へ移るにしたがい︑江南とりわけ浙東地域の比重はいよいよ増
大することになる︒
藤
善
七
員
澄
いる入宋僧の記録に描き出された杭州との違いをクローズアップす推測できるという論法になる︒ で
あっ
たか
否か
︑
に直結するものであろう︒そして次稿に豫定して 延暦二十三年に入唐した藤原葛野麻呂の遣唐使船三隻中︑第一船は幅州に︑副使石川道盆の第二船が明州へ︑七月に出稜した判官三棟今嗣の第三船は孤島に漂着ご行方知れずになった︒第一船に乗った空海と橘逸勢︑第二船の最澄と義員の事蹟は後に譲り︑雨船は使
(3 )
命を果したのち︑翌年五月に明州から解緩して無事に蹄園している︒
かの璧員招請に盛力した普照が︑招請を断念して壁員らと分れ︑獨
り明州に向い蹄國の便を待ったことでも窺えるとおり︑日中交渉の
従来の日中佛敦交渉史研究において︑長安や洛陽あるいは天台山︑
五豪山等の聖蹟に注目することはあっても︑その他の地域に日中閥
係史上の地方差を正面から見据えたものは︑管見の及ぶかぎり無か
ったように思う︒そこで素材を入唐僧逹の断片的な記録に求め︑ポ
イントを杭州に合わせ︑なぜ杭州が唐一代を通じて入唐僧逹に無視
されつづけたのか︑この問題にしぼって検討を加えてみたい︒ただ
しこの試みを成功させるためには︑少くとも杭州近傍の諸都市︑な
かんずく杭州を左右より挟む位置闘係にある雨地を選び︑おのがじ
し入唐僧にどう描寓されているかを知る必要がある︒この相互比較
によって導き出されるものは︑入唐僧逹の求めた内容の如何︑各地
がそのニーズに應え得る地域であったか否か︑換言すれば政治・鰹
清・文化とりわけ各地の佛敦事情が彼らの食指を動かすに足るもの 玄閥口として明州の比重がいや増したことの證左である︒ れば︑唐宋閲の地方差はもとより︑杭州の佛敦事情︑ひいては日本佛敦の動向を眺め直すことが出来るのではないかと考えている︒
齊明天皇の時︑父幅亮︵領︶とともに渡来した智蔵は︑法隆寺や
元興寺に住して一︳一論を學んだのち︑入唐して三論をきわめ︑その奥
義を偲えたことから三論の第二傭者と目されている︒彼ら親子は呉
國の出身であり︑入唐後も呉越の閲において佛法を學んだと偉えら
れている︒年代的に合わないが︑かの三論中興の祖と稲される嘉詳
(4 )
寺吉蔵に謁したという説さえあることを思えば︑おそらく會稽すな
わち越州秦望山にあった嘉詳寺を訪ね︑吉蔵の餘蘊に接した事賓に
もとづく誤博であろう︒それはともかく︑智蔵によって呉越の佛敦
事情が紹介されたことほ疑いなく︑後につづく入唐僧逹の指針にも
なった筈である︒なぜなら智蔵自身が會稽の地に導かれたのは︑彼
の師であり三論初停者である渡末僧︑元興寺慧灌が嘉詳寺吉蔵に學
(5 )
んだという賓績に負うところ大だと思われるからである︒つまり一
地域が日本僧にとって身近に感じられ︑親しまれるには︑その地域
の持つ魅力︑具證的にいえば営時どのような敦學が盛んであり︑い
かなる名僧知識が活躍しているかが最優先されるわけである︒した
がって入唐僧逹の行歴により︑彼らの行脚遊學の地を辿れば︑自ず
と嘗該地域の佛敦事情︑入唐僧ひいては日本佛敦界のニーズまでも
八
如上の視座にもとづき常面の課題である杭州にかんする唐前半の
記載を洗い出せば︑わずかに淡海三船の﹃唐大和上東征偉﹄にみえ
る次の文が唯一具髄的なものである︒
天賓三載︑越州龍興寺の僧ら︑和上に律を講じ戒を受けんこと
を請う︒事畢り︑更に杭州・湖州・宣州より並びに来りて和上
に律を諧ぜんことを請うもの有り︒和上︑次に依りて巡遊し︑
講を開き戒を授け︑還た椰山阿育王寺に至る︒
第二次渡航に失敗し︑明州の阿育王寺に牧容された時のことである︒
後述するが越州龍興寺は緊員の師道岸ゆかりの寺であり︑門流の活
躍する土地柄であった︒その縁故によったものと思われ︑杭州あた
りまでも四分律の學が行われていたことを窺えよう︒この直後︑緊
員の渡航を阻もうとした越州の弟子逹により密告され︑招請に必死
の榮叡が捕えられたあげく︑都へ械送という憂き目にあった︒幸い
杭州に到着したとき同情者があったとみえ︑病死したことにして免
(6 )
れることが出来た︒この次第は有名であるが︑それ以上の記述は見
えな
い︒
唐後半に入り︑南路が開拓され入唐僧逹の記録は量を増すけれど
も杭州閥係の記事は依然として現われない︒最澄は台州︑天台山︑
越州を往復するのみで杭州に向おうとはせず︑空海は杭州鰹由で都
に上りながら︑蹄路においてと同様︑杭州については獣して語ろう
としない︒入唐記︑在唐記として本格的な圃仁の﹃入唐求法巡證行
記﹄も︑圃仁が天台入りを果さなかった純緯もあり︑杭州はおろか
入唐
憎と
杭州
・越
州
一 九
江浙に言及するところさえ見嘗らぬ︒
直接︑杭州に燭れたものではないが︑管下の墜官縣に滞在した事
寅を告白するのは︑承和年聞に入唐した慧蒋である︒彼は皇太后橘
嘉智子の命によって海を渡り︑山東半島に上陸し楚州から五豪山に
登り︑皇太后施入の賓幡や袈裟などを奉納したのち︑杭州臨官縣の
霊池寺に赴き︑臨演調の齊安國師に謁した︒橘皇太后はわが國に輝
宗を興隆させたい意向が強く︑施物を持たせ慧総に禰僧の招請方を
(7 )
依頼していたらしい︒齊安は慧蒋からこの申出を受けるや高足の義
空を推學したので︑慧蒻は承和十四年︵八四七︶七月︑義空を伴い︑
かの園載が一時蹄國させた仁好らと同じ船に乗り込んでいる︒齊安
と義空をめぐっては割愛するが︑後にも先にも杭州の名を見出す唯
一の
例で
あろ
う︒
﹃入
唐記
﹄
唐大中七年︵八五三︶に入唐した智證大師圃珍にほ︑
もしくは﹃在唐記﹄と呼ばれる五巻本があった︒けれども現在は抄
文の﹃行歴抄﹄一巻が博わるだけである︒この他には在唐中︑各地
で書寓したり買い求めた典籍を記録する目録類︑例えば輻州におけ
る﹃開元寺求法目録﹄︑長安で蒐集した密敦閥係の﹃青龍寺求法目
録﹄︑あるいは台州での﹃國消寺目録﹄︑﹃入唐求法縮目録﹄なども
(8 )
現存し入唐僧の中では比類をみない江南の紹介者である︒もし﹃在
唐記﹄ありせば︑という危惧もなくはないが︑小野勝年氏による
(9 )
﹃入唐求法行歴の研究﹄の詳細をきわめた追跡調査にもかかわらず︑
ついぞ杭州の地名は現われないのである︒
圏珍に績いて︑唐咸通一1一年︵八六二︶九月に入唐した高岳親王︑
法名員如一行の行歴は︑伊勢興房の﹃頭陀親王入唐略記﹄にみえる
が︑書題どおりの簡略な記録のほとんどは︑明州・洛陽・長安の資
( 10 )
料で埋る︒同行した宗叡が汗州の玄慶について修學したというが︑
彼の﹃新書寓請来法門等目録﹄を閲しても汗州はもちろん︑杭州に
( 11 )
ついて得るところはない︒彼もまた五豪山と長安・洛陽しか眼中に
なかったかのようである︒
時はすぎ︑寛平六年︵八九四︶のいわゆる遣唐使展止ご︑五代呉
越國の頃になると︑様相は一愛する︒﹃日本紀略﹄承平六年︵九三
六︶七月十三日條に大宰府から呉越商人の藤承動などが来着したと
の報告があった旨を記し︑同年八月二日條には
左大臣贈一︳書朕於大唐呉越王1
( 12 )
とみえている︒明らかに呉越國の文穆王錢元瑾が蒋承動を使者に立
て︑わが國に親書をとどけさせ︑これに左大臣藤原忠平が返書を贈
ったことが分る︒同様の事件は天慶三年︵九四
0 )
七月條にもあり︑
今度は藤原仲平が左大臣として書を贈っている︒商人逹が貿易にな
にがしか利櫂を期待する思惑もあったろうが︑忠平と仲平が半ば鎖
國に近い朕況の下で︑わざわざ返書をしたためているのは呉越國の
正式な國信書であったからに違いない︒こうした闊交に準じた扱い
がなされるにつけ︑呉越國都杭州が身近に感じられたに違いないの
であるが︑詳細は次稿に譲ることにしたい︒ 杭州ほ︑そもそも大運河の開竪により交通の要衝となって以来︑
唐代の中期には江南有敷の都會にのし上っている︒継演的にはもち
ろん︑古来名だたる景勝の地として文人墨客の訪ずれる者多く︑文
化的にも恵まれた先進地域の︱つであった筈である︒にもかかわら
ず︑入唐僧逹の行歴に徽して誰一人︑この杭州と闘わりを持った痕
跡は認められない︒満天下に詠われた西湖にしばし時を忘れ︑ある
いは法門を求め名僧知識を尋ねる者がいても不思議ではあるまいに︑
ややオーバーな表現をすれば一顧だにされず︑杭州とは彼らにとって浙東から洛陽•長安に向う、輩なる通過貼の一っにすぎなかった
としか思われないのである︒
試みに比較した五代の杭州が︑日中閥係史に華ばなしく登場する
のは︑呉越園の成立に加えて海外貿易を重視する國策が背景にある︒
これにひきかえ江南東道に麗した唐代の杭州は︑前に述べたように
大運河の終着地として飛躍的な稜展を遂げたけれども︑潤州︵鎮
江︶に置かれた浙江西道観察使に統轄され︑鰹演・文化においては
ともかく︑政治都市としては未だしであった︒それが新たな展開を
見せるのは唐末に武勝軍が配置され︑やがて澗州より鎮海軍節度使
の治所が杭州へ移されてからである︒ようやく政治都市としての重
みを増し︑錢氏による呉越國の成立を促すわけであるが︑さりとて
留學僧や請盆僧逹の杭州に到する無闘心さを︑呉越國と同様の條件
四〇
入 唐 僧 と 杭 州
・ 越 州
7 5 2 8 i 3
蘇
7 1 ; 4 2 1 8 6 , 8 0 8
4 2 2 , 6 5 5
湖
7 3 , 3 0 6 4 3 , 4 6 7
4 7 7 , 6 9 8
杭
8 6 , 2 5 8 5 1 , 2 7 6
5 8 5 , 9 6 3
越
9 0 , 2 7 9 2 0 , 6 8 5
5 2 9 , 5 8 9
明
4 2 , 0 2 7 4 , 0 8 3
2 0 7 , 0 3 2
台
8 3 , 8 6 8 1 0 3 ; 0 3 8
4 8 9 , 0 1 5
安史の風による激減ぶりには︑各州ともに目を覆わしめるものが が準備されていなかったため︑と短絡するのほ危険この上もない︒
これに到し歴史を誇る越州は︑唐代後半になると都督府の治所と
して稜展する︒安史の風最中の乾元元年︵七五八︶︑ここに浙江東
道節度使が置かれ︑徳宗朝の初め若千年の展止はみたものの︑貞元
三年︹七八七︶より唐末まで七州を管領する浙江東道観察使の治所
たる地位を保ちつづけるのである︒その秘密の全容を解き明すこと
は出来ないけれども︑入唐僧と開係が深く︑越州に鄭接する諸都市
閲の戸口敷からアプローチしてみよう︒今︑﹃元和郡縣圏志﹄を中
心に︑﹃薔唐書﹄﹃新唐書﹄地理志ほかの史料に基づき試算した趙
( 1 3 )
文林・謝淑君雨氏の﹃中國人口史﹄を参照すれば︑玄宗の天賓十一
年︵七五二︶と憲宗の元和八年︵八一三︶の蘇・湖・杭・越・朋五
州における戸・ロ敷は︑次表の通りである︒
四
あるが︑原因となる戸籍の混風︑脱漏戸などに言及する餘裕はなく︑
要は杭州と越・蘇雨州の戸敷が盛唐期から最澄・空海らの入唐頃ま
でに︑逆轄現象を起している事賓を知れば充分である︒この結果に
( 14 )
ついては所管の縣敷に増減がないことを確認しており︑戸口敷にお
いて遜色のなかった天賓中はもちろんのこと︑格段に差が廣がった
元和時代已降でも︑行政上にあってほ依然として杭州は遅れをとっ
ていた︒これが日本僧により闘心が彿われなかった原因の第二であ
ると考えたいのである︒
ちなみに杭州を統轄する浙西観察使の治所潤州は天賓時代に一〇
二 ︑
︱
0 1
︱三
戸︑
元和
時代
には
五五
︑四
00
戸を敷え︑杭州より僅か一應の面目を保っている︒けれども蘇州
の繁榮ぶりに目を轄ずれば︑さすがの潤州も顔色はない︒江南各都
市が安史の風後に軒並み戸口を激減させるのに到し︑蘇州・台州が
逆に敷値を膨ます不思議な現象が何に起因するのかは問うまい︒ま
た園珍在唐時までこの欣況が持績されたという裏付はないけれども︑空海•最澄らの入唐時代には浙西観察使下の諸都市中、蘇州の戸ロ
敷は一頭︑地を抜きん出た存在となっていた︒戸口の多少が︑その
まま都市の繁榮や政治・文化などの比重増加に必ずしも結びつくと
は限らないが︑天下に名だたる豊穣の地であり︑盛唐このかた大運
河を中心とする四通八逹の地と目され︑次第に潤州に代る江南第一
の都市としての地歩を固めていくのである︒では蘇州における入唐
僧逹の足跡はいかがなものであろうか︒ ながら多く︑治所として︑
唯一人︑蘇州に開する記録を残した園珍は︑大中九年︵八五五︶
三月十九日︑越州都督府より過所を交付されると︑同行を約束した
圃載を待たず長安へ旅立った︒彼らの杭州通過は日程より同月下旬
の某日であろうが︑本論の期待通り杭州を無視し︑越州から蘇州へ
と姿
を現
わす
︒
ママ
大中九年二月︑轄じて蘇州に至る︒病いに縁り︑街前︹同︺十
雙の徐公直の宅に寄宿す︒直︑力を壷して看病さる︵匹頸濯蔽
鬱
本来︑入唐僧は寺院を宿坊とするが︑よほど緊急を要したのであろ
うか︑はからずも徐直の世話を受けることになった︒幸いに病も愈
え騰調が回復したところへ︑遅れてきた圏載が合流し︑四月二十五
日に蘇州を出稜することが出来たのである︒
圃珍らの蘇州濡在は翌年にとぶ︒一行は約半年にわたる長安生活
にピリオドを打って越州へ還る道すがら︑またも蘇州に上陸︑おお
よそ三箇月閲を徐直の家で過ごしている︒
﹃行
歴抄
﹄に
五月十七日︑蘇州徐押街の宅より稜っ
とあり︑圃珍には往路に受けた厚情に到する報謝の氣持もあったこ
とは一應首肯できる︒事寅︑病氣が愈えた直後︑圃珍は徐家の安榮
を祈願して
み う ち く ど く
三郎押衡︑舎弟五郎︑合宅の親情︑同じく此の功に油い︑永え
まみに平安・輻智を保ち︑来劫は同じく遮那佛土に生れ︑佛に見え
んこ
とを
︒
大中九年四月七日︑日本國上都の比叡山延暦寺・天台遮那受
業・内供奉・救賜袈裟沙門・博燈大法師位圃珍・字遠塵記す
︵ 駐 弓 ︶
の一文をしたためている︒彼が蹄國後も徐直との手日問を交したこと
ほ知られており︑徐家一鴬に壷きせぬ喪いを抱いていたわけで︑い
かに手厚い看病を受けたかが偲ばれる︒とはいえ三箇月になんなん
とする日時を報謝のためとするには餘りにも長すぎる︒この長逗留
に疑いを持った小野勝年氏は︑往路で世話を受けた因縁のほかに︑
蘇州において日本人の蹄航に開する情報を得る目的があったためと
( 15 )
推測されているが︑けだし妥嘗な見解であろう︒
すでに先學逹が注目しているように︑遣唐使船の猥着地として蘇
州の占める位置は大きい︒天賓十二載︵七五三︶︑墜員一行が遣唐
副使大伴古廠呂の船に乗り込み︑最後の航海へ解綾した黄洒浦は︑
まさに蘇州管内にあり︑嘗時は長江口の海濱に臨む常熟縣の一浦で
( 1 6 )
あった︒天平五年︵七三二︶入唐の遣唐大使多治比廣成らが蹄國の
( 17 )
船に乗ったのも︑黄洒浦ないし近邊の浦港であったと考えられる︒
また天平賓字三年︵七五九︶︑先の遣唐大使藤原清河を迎えに渤海
鰹由で入唐した高元度らが︑粛宗から新造船一隻を下賜され︑越州
浦陽府︵浦江縣︶折衝の沈惟岳らに護られて出帆したのも蘇州であ
り賓蘊九年︵七七八︶十一月に蹄着した遣唐判官大伴織人の報告 ( 1
8 )
法を聞き︑頓に一心[‑二観︺の道を修し︑共に四徳の果を證せ
四
によって、この度の遣唐使船四隻の中、第一•第二船が蘇州常熟縣
( 19 )
において順風を待ったことを知るわけである︒
このような日唐交通に占める蘇州の立地條件に加え︑先にみた唐
後半期における繁榮ぶりを併せ考えれば︑圃珍が蘇州に居座ったの
ほ罹病という偶猥的な事故もさることながら︑往路ともども蘇州で
母國からの情報待ちが目的であったように見受けられる︒貪欲なま
でにひたすら研鑽にはげみ︑経論蒐集につとめた圃珍が︑わずかに
長安青龍寺の法全より贈られた﹃大日経義繹﹄十巻中の末巻を披閲
している以外︑痕跡らしい痕跡を残していないのは不思議であり︑
情報を待ちながらも蘇州一圃の佛寺を訪ずれ︑あるいほ典籍をあさ
っていたものと思われる︒﹃智證大師請来目録﹄に
已上一十七本一十五巻︑並雑碑銘集部︑惣計七十二部二百一十
︑ ︑
三巻︑並於︳天台山並雨浙諸州f偉得
というのはその傍證であり︑また日程からみて
並別家章疏博記部︑已上一百七十四本五百五巻︑
︑ ︑
井浙西等f停得
とも記す浙西とは︑主として蘇州を指すものであると断定してよい
であ
ろう
︒
入唐
僧と
杭州
・越
州
於禰温台越
論を越州にもどそう︒南路の開拓により閥係を深めた越州につい
ては︑まず最澄の紹介がある︒最澄は延暦二十三年︵唐貞元二十・
八
0
四︶九月一日︑遣唐副使石川道盆の第二船で明州に着岸︒病死の道盆にかわる遣唐判官菅原清公らが長安へ出稜した後︑約半月の
四
病氣療養をへて義員を伴い︑九月二十六日に台州臨海縣に到着して
( 20 )
いる︒時に台州刺史であった陸淳から天台山修輝寺の道蓬を紹介さ
れ︑天台敦學の研修に没頭するわけであるが︑越州に赴いたのは翌
貞観二十一年四月のことであった︒
( 21 )
﹃天台法華宗偉法偶﹄に
四月十一日越州城に歴遊し︑龍興の寺に向う︒順暁和上の邊
•つにて五部灌頂を稟け︑兼ねて員言の義を寓す︒
とある︒これを﹃顕戒論縁起﹄巻上の﹁大唐明州向越府牒﹂に照合
すれば︑同月六日付で最澄の要請にもとづき明州公験が登給され︑
その直後に越州へ赴いたことが分る︒別稿に論ずる公験・過所の問
題からすれば︑明州上陸後︑ただちに長安と越州都督府へ申報され︑
菅原清公ら一行の明州公験︑越州過所が︑また台州へ直接向う最澄
らには明州公験が渡されたものに違いない︒それから半年後︑明州
にたちもどった上での越州行であった︒
明州
︑牒
す︒
した
日本國求法僧最澄の状に準るに稲すらく︑今︑證を追い法を求
め︑越州龍興寺井ぴに法華寺等に往かんと欲す︒
求法僧最澄︑義員行者丹輻成︑罷生員立人
牒す︒日本國求法僧最澄の朕を得たるに稲すらく︑
きて求むる所の目録の外︑闘くる所の一百七十餘巻の鰹井ぴに
疏等︑其の本は今見に具足して越州の龍興寺井びに法華寺に在
り︒最澄等︑自ら諸寺に往きて寓し取るを得んと欲す︒伏して
﹁台
州に
往
すなわち最澄は台州・天台山において集めた経疏の補充を越州に求
めたものであり︑越州の佛敦事情を窺う重要な資料となるが︑その
ことは後段に譲る︒
遅ればせながら空海もまた諦國の途次︑越州に姿を現わす︒
霊集﹄巻五所牧の﹁興越州節度使求内外経書啓﹂には︑長安で寓書
した経・論・疏・大曼荼羅などの不足を嘆き︑あるいは詩賦︑碑銘︑
瞥卜などの外典もあわせて補いたい旨を︑切々と訴えている︒最澄
の申請と同様︑注目すべき啓文であろう︒
遊歴わずか一月足らずの最澄にくらべ︑二度にわたって滞在した
圃珍の越州紹介は︑入唐僧中︑最も詳細である︒まず大中八年九月
七日︑天台國清寺を稜ち︑越州開元寺にあった良諧のもとを訪ね︑
前述した如く翌年三月下旬までの半年餘にわたって受講し︑﹁索
( 2 2 )
車﹂﹁四悉檀﹂﹁減縁減行﹂などの決答を求めている︒この地で抄
寓した経典も多く︑﹃智證大師請来目録﹄等に牧録されている︒
また﹁請弘偲員言止観雨宗官牒款欣﹂によれば長安よりの蹄途︑
五月晦︑越州に至り︑良請座主に相い看ゆ︒天台法華玄義一本
十巻︑砒陵妙築寺天台法華疏記一十巻︑剣川石鼓寺天台法華私
志一十四巻︑法華諸品要義一巻︑都て三十五巻の法文を拾輿せ
( 23 )
らるるを蒙むる︒此れ従り拝し別れて天台山に向う︒
とあり︑抄寓のほかに唐僧より贈呈されたものも多敷含まれていた
ことを物語る︒法門にまつわること以外に脇目もふらぬ圃珍が︑た 乞うらくは公験もて慮分せられんことを﹂といえり︒
﹃ 性
だ一度︑最澄の昔を偲んでか越州の山々と暮れなずむ夕日を眺める
シーンがあるのも︑彼が越州に捧げる攘いの丈を物語っている︒簡
略にすぎるが︑員如一行も五箇月餘りをこの越州と天台山の閲で過
( 2 4 )
して
いる
︒
興房が随伴した員如一行は貞観四年︵八六二︶九月七日︑明州の
揚扇山に着き︑望海鎮︵今の鎮海︶にて明州が遣わした司馬李閑の
検閲を蒙むった︒その年十二月︑越州に上陸を許可する墨救がとど
き︑翌年改めて越州観察使鄭暉略の調書上奏をへて︑五月十一日に
( 25 )
なって所々行脚を開始することができた︒やがて越州節度使孤陶許
に請い入京の手績きをとり︑許されて同年十二月︑員如と宗叡︑智
聰︑安展︑調念それに興房︑任仲元︑仕丁の丈部秋丸らを加えた上
京組は越州を出稜したのである︒彼らが越州滞在の半年閲︑どの地
( 26 )
を歴訪したのか不明であるが︑天台山に登った可能性があるほかは
杭州に言及するところはない︒
これまで入唐僧の越州相闊圏を取急ぎ眺めてきたが︑立地條件ほ
ともかく︑出入國にともなう越州の役割や政治的な側面︑いわば^
ードウニアーに相嘗する部分は杭州のそれを遥かに上まわる比重を
占めていたことが分る︒では雨地域のソフトウニアーの面︑換言す
れば入唐僧逹の最大関心事である佛敦事情についてはどうであった
のか︑彼らを魅了してやまない何かが越州佛敦により多く存在した
のではなかったか︑という問題につき検討を加えることにしよう︒
四四
入唐僧逹が杭州に閥心を示さず︑越州に魅入られた最大の理由は︑
やはり求法に情熱を燃やす彼らの渇きを癒すに足る敦學が︑杭州よ
りも多く存在したことでなければならない︒わが國の佛敦界が貪欲
に︑悪くいえばアトラソダムにひたすら振取につとめた時代から︑
意識的に取捨選揮を行う時代へと移行するのは隋唐佛敦における宗
派成立の動きと決して無闘係ではなく︑それが奇妙にも南航路の開
拓と時を同じくしていることも︑注目に値いしよう︒営然のことな
がら長安・洛陽はいうに及ばず各地の佛敦事情︑とりわけ碩學・高
僧の動向は最大の閥心事であったと思われる︒今︑全髄にわたる餘
裕はなく︑さしあたって必要な浙東︑越州それに密接な関係を持つ
天台山周邊までを︱つの佛敦圏として扱い︑杭州を中心とする佛敦
圏の消長と比較検討すれば︑そのことが證明できるほずである︒
すでに早く︑中國佛敦の地域性に注目し︑各地の特色や流布の情
況︑換言すれば佛敦界の消長を分類研究する必要を説かれたのは山
崎宏氏であった︒その成果は﹃支那中世佛数の展開﹄に﹁南北朝佛
教の敦線の概況﹂﹁隋唐時代に於ける佛敬々線の稜展﹂の雨篇とし
てまとめられ︑時代ごとに地域ごとに活躍した高僧の分布圏表が提
( 2 7 )
示された︒高僧の出身地を検討した滋野井括氏の補足研究もあるが︑
その着想と業績ほ債値を失ってはいない︒ただ行雲流水の性格上︑
困難なためか地域を特定することほ鉄落したままである︒今後は
入唐
憎と
杭州
・越
州
四
四 五
天 越 杭 蘇
台 州 州 州
581‑ 4 I 1 3 6 2 6
627‑ 4 4 6 6 6 7
668 1 3 2 1 7 1 3
714‑ 1 2 4 7 5 5
756‑ 2 5 5 5 8 0 0
801 5 1 4 1 8 4 6
847‑ 2 7 2 9 0 7
計
1 9 2 3 1 6 1 8
唐・宋雨高僧停に限らず稜堀資料も含めた再調査と細かな分析の必
要があるけれども︑今回ほ杭・越雨州の比較の問題であり︑雨州の
特色をクローズアップするのが狙いであるから最大公約敷として前
例にならい高僧偉に限定し︑検討を加えてみたい︒なお雨地域の人
的構成をヴヴィッドに描き出すためには各人の居住︑滞在の時期を
追跡せねばならないが︑今回は割愛した︒
山崎宏氏の分類により﹃績高僧偉﹄
三州と天台の高僧分布を表示すれば次のようになる︒ ﹃宋高僧偉﹄中︑蘇.杭・越
一見して杭州のバラつきに封し天台・越州の安定供給ぶりが目を引
く︒杭州が活況を呈するのは玄宗朝から武宗朝まで︑入唐僧にふり
嘗てれば道慈や普照・榮叡の時代から最澄・空海の頃までである︒
玄宗時代における漕運の重視と杭州の登展︑安史の風にともなう江
南諸地域への平均的な人口流入なども無視できまいが︑佛敦界の動
隠山に檀越の陳仲賓が建立した天竺寺を中心に﹃法華継﹄
経﹄等を諧じ︑天台系の法門を轄じた︒彼は隋文︱帝・燭帝をはじめ
多くの貴顕に蹄仰され︑大業七年︵六︱‑︶七月に往生したが︑彼
の死後その法系は姿を消し︑杭州に名僧を見出すには開元年閲の華
( 28 )
厳寺玄覧︵六五一ー七三四︶を待たねばならなかった︒玄覧は玄宗
朝の侍講として知られる舒國公猪無量の弟であり︑開元二十三年
︵七三五︶杭州北郊の臨平に没したが︑門下に明了・大覺・普賢・
紳濡.摸遜の名がみえる︒
玄覧と同様︑律學を専攻した徳秀ほ杭州定山霊智寺の僧であり︑
( a )
天賓初年︵七四
11
)
1 l 没した︒また﹃法華経﹄を諧じた道光︵六八
二—七六0)~南山律の巨星道岸に學んだ律僧でもあり︑玄覧と同
( 30 )
じく華厳寺に住した︒この三律匠をついで︑霊隠山にュニークな學
風を弘め杭州佛敦界をリードしたのが天竺寺の守直︵七
O O
I
七( 31 )
0 )
である︒今︑絞然の﹁唐杭州霊隠山天竺寺故大和尚塔銘井序﹂
︵社晶冗︶とこれに基づく﹃宋高僧偲﹄によれば︑蘇州支硼山に
( 32 )
て具足戒を受け荊州大雲寺の恵員に學んだのち︑全國を行脚する聞
に長安で正純密敦初祖の善無畏に菩薩戒を︑また北宗調の普寂から
榜伽の心印を受け︑﹃起信宗論﹄﹃南山律紗﹄を講じ︑のち五豪山
に入り﹃華厳鰹﹄を轄讀︑開元二十六年︵七三八︶に杭州大林寺︑
﹃涅
槃
向からすれば律と椰によるところが大きいと思われる︒
杭州南天竺寺の開基として知られる員観は錢塘の人︒天台智顕と
法兄弟の契りを結んだ名僧であり︑隋の開皇十五年︵五九五︶︑
守寵と同時代の餘杭宜豊寺の霊一
法嘱の相部律をよくし﹃法性論﹄を著わした︒越州の曇一や晉陵の
義宜
︵竺
讀
1得﹄︶と親しく︑會稽若耶山の懸溜寺︑餘杭の宜豊寺に住
し多くの文人墨客と塵外の交りを結び︑賓應元年に杭州龍興寺で入
( 33 )
寂している︒また玄宗時代の霊隠寺には潤州招隠寺の朗然に南山律
を講じた遠法師や天竺寺の威律師のごとき隠れた名僧もいた︵仁麟
嬰畔︶︒この威律師の行歴は分らないが︑あるいはかの墜員が法嘱
の﹃四分律疏﹄を學んだ長安調定寺の義威について︑﹃東征偉﹄に
︹道︺岸律師遷化の後︑その弟子杭州の義威律師︑響は四遠に
振い︑徳は八紘に流れ︑諸州も亦以て受戒の師と為す︒義威律
みまかる師の無常の後︑開元二十一年ー時に大和上は年冊六に涌つー淮
南・江左の戒律を浄持する者は︑唯大和上のみ獨り秀れ倫ぶも
の無
し︒
とあり︑開元二十一年以前に没したと偉える義威の可能性が強い︒
これほどの律匠を後輩の賛寧が﹃宋高僧偲﹄に立偉していないのは
不思議であるが︑墜員が受學したのは長安輝定寺においてであり︑
義威が杭州にあった時期は分らない︒また蘇州支硼山道遵が﹁年ニ
十に至って天竺︹寺︺の義威律師に詣りて具︹足︺戒を受け﹂た義
威であるとすれば︑道遵の受戒年齢が義威没後の二年目に営るとい
︵ 七
1一
八ー
六二
︶も
律僧
であ
る︒
霊
大暦二年︵七六七︶に天竺寺へ移り三年後︑龍興寺浄土院に没した︒
多くの門弟子には蘇州洞庭の辮秀(〗畷燈愕』)、越州の清江(直)そし
て絞然などがいる︒律匠であり華厳の學匠でもあった︒
四六
( 34 )
う矛盾を生ずる︒以上が玄宗の開元・天賓以前の概要である︒
安史の風後に注目すぺき杭州僧は霊隠山白雲峯の道標︵七四
0
ー八二三︶である︒永泰初め︵七六五︶霊光寺に具足戒を受け︑湖州
抒山の絞然︵鰈噂博﹄︶︑越州雲門寺霊激︵鰈辛1僧
倦﹄
︶と
並び
稲さ
れた
詩僧となり﹁雪の査︵絞然︶は能く清秀︑越の︵霊︶激は氷雪を洞
かにし︑杭の︵道︶標は雲害を摩す﹂との諺さえ生んだという︒竪
債は都に聞こえ相國李吉甫︑大司空厳綬より以下︑白居易や劉長卿
など錘々たる文人逹との交りが偲えられている︒佛學においては律
( 35 )
匠に
麗す
る︒
杭州佛数に彩りを添えるのは元和二年︵八
0
七︶より四年まで︑永輻寺と天竺寺の臨壇大徳をつとめた慧琳︵七五
O I
八 三11
)
であ
る︒彼は杭州霊隠寺に業を受け︑永禰寺に迎えられるまでの二十餘
年を天目山に隠れ住み︑天竺寺を辟して再び山に入り︑太和六年四
月に没するまでの二十年︑門弟子の訓導に専念した︒慮元輔や白居
易など元和より太和に至る歴代の郡守に蹄仰を受け︑一様に﹁砒曇
の孔子﹂﹁勝力の菩薩﹂と讚嘆され親しまれたという︒これまた律
(3
6)
匠で
ある
︒
最澄ら入唐前夜の杭州に光彩を放ったのは径山寺法欽である︒李
( 37 )
吉甫撰﹁杭州径山寺大覺師碑銘井序﹂などによれば丹徒の鶴林寺玄
素に遇い出家入道し︑のち天目山の一峰径山に入り︑多くの参學者
を得た︒彼が代宗の招請を受けて都に上り國一大師の琥を賜わった
ことは知られているが︑蹄山後には杭州刺史王顔の願いによって杭
入唐
僧と
杭州
・越
州
きる
︒
四七
州龍興寺に住し︑貞元八年︵七九二︶十二月︑七十九歳で没した︒
杭州における禰學のパイオニア的存在である︒爾来︑調門の逸材が
あいつぎ︑馬祖道一門下の明覺
( I
八三一︶は径山法欽の風を慕っ
( 38 )
て天目山に入り︑齊安︵ー八四二︶は蓋官縣の海昌院に馬祖の法を
( 39 )
弘めた︒かの入唐僧慧驀が皇太后嘉智子の命を受けて調宗を興隆す
べく︑霙池寺に齊安を訪ねた次第ほすでに述べた︒また百丈山懐海
( 40 )
の高足圏脩︵七三五ー八三三︶は秦望山に草庵を結び︑衰中︵七八
一人
であ
り︑
o l
八六二︶は南嶽より杭州の大慈山に入り︑四方から集まった参
拝者でにぎわった︒唐末の龍泉院文喜︵八︱
‑ o l
九
0
0 )
も弟子の
( 41 )
のち仰山恵寂の門をたたいた俊秀である︒
一方︑杭州の華厳學には天竺寺法読︵七一八ー七八︶がいる︒彼
が天竺寺で﹃華厳純﹄を講じたとき︑かの清涼國師澄観が法席に就
( 43 )
き疑義を決したといえば︑大暦中︵七六六ー七八︶のこととなろう︒
門下には溺陽の正覺︑會稽の稗秀を見出すが︑天賓六年には蘇州︑
大暦1一年には常州龍興寺で敦化するなど︑幅廣い活動を展開してい
る︒こうした環境は徳宗の貞元年聞︵七八五ー八
0
五︶までつづいたようであり︑その恰好の例證として天竺寺道齊を畢げることがで
道齊は錢塘の生れで定水寺に出家した︒具足戒後は律を學ぴ︑や
がて霊隠寺において華厳に親しみ︑天竺寺に移って調定と頭陀行に
っとめた︒偲に﹁貞元二十一年︑四方の學者勘請し︑華厳経を講ぜ
しむ﹂とあり︑講席に瑞華を生じた話を残すなど名磐を博したこと
五
らかにするであろう︒
( 44 )
を物語るものといえよう︒けれども道齊ののち華厳の法燈が輝きっ
づけた様子ほ認められず︑あるいは彼の活躍が一時の仇花であった
ようにも思われる︒まさに最澄・空海の入唐時のことであった︒
これまで主として開元時代已降︑つまり入唐南路の開拓前後から
の杭州佛敦について概観してきたが︑律を中心に禰・華厳そして天
台の學風も若干認められる︒唐末においても同様であり︑相部律の
ほか黄菓山希運のもとで祠を修し︑會昌の麿佛後は蘇州そして杭州
( 45 )
千頃慈雲院に住した楚南︵八ニニー八八︶︑前出の悟空大師齊安に
( 46 )
學んだ径山の緊宗︑その弟子にあたる大慈山行満ほか︑甕官齊豊寺
( 47 )
や千頃山に入った衰中門下の越州龍泉院文喜のように︑杭州一闘に
留錫した高僧逹を拾い上げれば︑仲々の盛況であるが︑その主流は
やはり律と禰であることに注目しておく必要がある︒さらに唐末よ
り五代にかけて次第にその敷を増していく事賓ほ︑次稿において明
杭州佛敦は確かに盛況であり︑多くの人材を輩出した︒けれども
越州のそれに比べれば相常に見劣りがするのも否定できない︒律學
︱つを取っても﹁會稽の風土は律範の淵府﹂︵﹃這隠証﹄虹︶と目され
る法城の地であり︑それを代雛するのが龍興寺道岸以下︑彼の高足
の法華山寺玄懺さらに開元寺曇一であった︒
道岸︵六五四ー七一七︶は高宗の菩薩戒師であり朝野の尊信を浴
﹃ 褐
( 48 )
びた名僧である︒疑問もあるが南山律師道宣の弟子文綱に學び︑越
州龍興寺に住して南山律を弘め大和尚と琥された︒のち中宗の請救
を受けて入京︑雨京諸寺の綱維をつとめ︑大薦顧寺の造螢を宰領し
て越州に還り︑開元五年に龍興寺で入寂した︒
江表は多く十誦律を行い︑東南の僧ほ堅執にして四分を知る岡
きを以て︑岸は一帝の墨赦を請い南山律宗を執行す︒伊の宗の江
淮の閲に盛んなるは︑岸の力なり︒︵嘩亨直記峠︶
門下には越州に玄懺のほか行超︑龍興寺主の義海︑同寺都維那の
道融︑慧武︑大萬寺の懐則︑大喜寺の逍超︑齊明寺の思一︑雲明寺
の慧周︑洪邑寺の懐螢︑香厳寺の懐彦︑平原寺の道網がおり︑湖州
( 49 )
大雲寺の子璃や興國寺の慧纂なども學がっている︒ちなみに璧員は
道岸に具足戒を受けており︑後述するとおり明州阿育王寺に滞在中︑
招請によって越州へ出講しているのも︑師道岸との因縁によるもの
とみ
られ
る︒
道岸による四分律宗を確固たるものにしたのは法華山寺の玄懺
︵六七五ー七四二︶である︒道岸に受具して長安に上り︑道宣の上
にあ
てら
れた
︒
足の満意・融済に南山律の印可を許され安図寺・佛授記寺の律大徳
( 50 )
のち道岸のもとに還り﹃四分律輔篇記﹄十巻︑
磨述章﹄三篇︑﹃金剛義疏﹄七巻を撰した︒開元二十六年︵七三八︶
救命を蒙り臨壇大徳となり︑採訪使潤州刺史の齊瀧は彼を潤州ほじ
め浙西諸州に奉迎し﹁廣陵より信安におよぶ迄︑地方千里︑道俗の
法を受くる者︑殆んど萬人を出ず﹂る有様であった︒天賓元年︵七
四八
四
11
)
十一月︑住寺の戒壇院に坐亡したが法華寺の曇俊・崇獣︑龍
興寺の崇一︑開元寺の智符︑稲心寺の崇義︑香厳寺の懐節︑賓林寺
の洪需︑覺引寺の灌頂など多くの門弟子を育て︑同族の徐嬌︑徐安
貞ほか太子賓客賀知章︑越州都督景誠︑洒州刺史王弼など在俗の弟
子を生んだ︒
経始には則ち紳墓・崇暁︑住持には則ち唯湛・道昭︑並びに射
から聖場を護りて親しく智印を博う︒その餘一一一千の門人︑五百
( 51 )
の弟子︑般若の深法を承け︑砒尼の密行を受く︒
玄懺につづき︑四分律をもって名聾を博した碩學は︑越州開元寺
の曇一︵六九ニー七七一︶である︒會稽に生れた彼は景龍中︵七〇
七
‑
1 0
) u
剃髪し︑開元五年︵七一七︶︑都に遊び律をはじめ倶舎・唯識を修め︑善無畏に菩薩戒を受けたといえぽ新来の純密をも
學んだと考えられる︒在京中﹁三蔵の隠蹟を得︑諸宗の源底を究め︑
加うるに素く玄・儒を解し︑芳ねく暦・緯を縮べ﹂る博學ぶりは公
卿の賓護を受けた︒陸象先・賀知章・李蘊・徐安貞・張説・宋現な
ど嘗時を代表する人士を莫逆の友としている︒彼が郷里に錦を飾っ
たのは開元二五年︵七三七︶のことであり︑時あたかも全國に配置
された開元寺の寺主として迎えられたのであった︒
曇一は揚州龍興寺の法懺に學び︑杭州宜豊寺の霊一︑揺州榜伽寺
の懐一を合せ﹁懺門の三一﹂と呼ばれた︒ひたすら﹁三世の佛法は
戒を根本と為す﹂との信念に立ち︑相部律の﹃四分律疏﹄と南山律
入唐
僧と
杭州
・越
州
の盛況であったという︒ の﹃四分律行事紗﹄をベースに自ら﹃四分律痰正義記﹄を著わして
( 52 )
いる︒興味深いのは同門に親しい霊祐がおり︑霊祐は墓員にも師事
したばかりでなく︑墜員の第四次東征を阻んだ張本人ということで
ある︒法慎は緊員より若干先輩であるが︑同じ揚州僧として交流が
あったと推測される︒のち入唐僧誡明と得消らは揚州龍興寺に霊祐
を訪ね︑聖徳太子のいわゆる﹃勝霊鰹義疏﹄﹃法華経義疏﹄を賑呈
したところ︑荊嚢湛然の弟子︑
雲寺の明空が嘆服し︑
四九
つまり曇一の孫弟子にあたる揚州法
﹃勝覧継疏義私紗﹄六巻を撰述する︒これが
( 53 )
圃仁の眼にとまり書寓して叡山に送ったことは周知のとおりである︒
璧員は天賓二年十二月︑第三次渡航に失敗し明州阿育塔寺に留錫
するに至った︒第四次渡航計憲に及ぶ開︑越州龍興寺の衆僧が律を
講じ戒を授けるよう要請し︑これに應じた緊鳳は越州に赴き︑さら
に杭州・湖州・宜州をめぐっているが︑越州龍興寺は師匠道岸ゆか
りの寺院でもあり︑安藤更生氏が推測された恩師道岸の逍跡を訪な
( 54 )
う意闘のほか︑開元寺にて活躍中の曇一の姿を背後にすかし見るこ
とが可能である︒その龍興寺僧らの密告によって榮叡が捕えられた
のも︑むしろ睾員との深い闘係があったればこそのことであろう︒
曇一が越州へ蹄還した開元二六年︵七三八︶より大暦六年︵七七
‑︶十一月に遷化するまでの開元寺は︑弟子三千︑門人八萬と稲さ
れる律學の一大林叢と化した︒本博には越州妙喜寺常照︑建法寺清
源︑湖州龍興寺紳玩︑宣州隠静寺道昂︑杭州龍興寺義賓︑台州國清
寺湛然︑蘇州開元寺辮秀︑潤州棲霞寺昭亮︑常州龍興寺法俊などの
門弟子を列奉するが︑この他にも華厳の清涼國師澄観︑潤州招隠寺
( 55 )
朗然︑襄州辮覺寺清江などの名僧が綺羅星のごとく並んでいる︒唐
代中期における越州佛敦の特色と殷賑ぶりの一っは︑この曇一を中
心とする四分律系の律學にあるといえよう︒
かい りつ
江淮の繹子の木叉を受くる者︑
郎ち法を得たりと為さず︒
︹ 曇 ︺
一の
壇に
登る
に非
ざれ
ば︑
と記し︑安史の籠には越帥ことごとく曇一を僧統に祭り上げ︑民心
の牧緩に協力を求めたとさえいう︒その入寂は承和の遣唐使船に先
立つこと三十餘年ではあるが︑道岸・玄懺・曇一の令名は壁員一行
により必ずや日本に偲えられたはずである︒
ところで玄徽の弟子中︑異色の人物は越州稲心寺の大義︵六九一
ー七七九︶である︒彼は西郷りの爾山に生れ杭州震隠寺に出家し︑
紳龍元年︵七
0
五︶の試鰹度僧に應じトップの成績で昭玄寺に配住された英髯である︒受具ののち越州開元寺の深律師に四分律を學び︑
長安遊學をへて玄像の門に入り︑玄億をして﹁今に於いて法を偲う
るもの︑子に非ずして誰ぞや﹂と嘆ぜしめたという︒やがて稲心寺
の超律師に請われて寺主の任を掌ったが︑開元末︑親を喪なったの
を潮に天台佛瀧逍場に入り︑天賓中には支遁ゆかりの沃州山に寺宇
( 56 )
を建てた︒紀年にいささか疑わしい貼もあるが︑天台・四分律双習
の寅賤者であったことは閲違いない︒この大義を慕い天台山および
東陽左漢に同行したのが越州大萬寺の紳逍である︒本偲︵麟謬僧得﹄︶
に﹁晩年︑稲心寺に大義律師を慕い︑同じく三観を天台宗に習う﹂
とみ
える
︒
越州の律師としては他に雲門寺霊激︵七四六ー八一六︶がおり︑
﹃律宗引源﹄二十一巻を著わし︑また詩僧としても杭州の道標︑審
( 57 )
川の清査とならぴ稲されたことはすでに鱚れた︒雲門寺にはまた梵
僧無側が住み絞然らと交わりがあった︵麟詑疇記巻二九︶︒威通中︵八
六
OI
七四︶に開元寺の寺主をつとめた曇休︵鮫古噴得﹄︶も加えるべきで
あろ
う︒
開成よりのち嘉詳寺に留錫した相部律の允文︵八
0
五ー
八二
︶は
︑
宜宗の復佛とともに開元寺へ迎えられ︑中和1一年に往生するまで律
乗を嘉詳・静林三寺で講じた︒まさに圃珍の入唐時にあたるが︑法
嘱の相部律を浙東に弘めた立役者であって︑懐盆・攘瘤ら多くの門
人を輩出している︒﹃宋高僧偲﹄の撰者賛寧は﹁賛寧︑會稽に登り︑
曾って︹允︺文の員相に證し︑法孫の可翔︑苦節進修して杜多の行
に叶うを見る﹂︵翌転︶と述べている︒この允文と同時期︑越州の
律學を背負って立ったのが開元寺の丹甫であり︑主に南山律を偲え
f こ ︒
嘉詳寺が三論の吉蔵ゆかりの寺であるように︑越州には初唐まで
三論の傭統があり︑やがて調五祖弘忍の弟子印宗が妙喜寺に調風を
( 58 )
偲え︵認回借倦﹄︶︑後述する天台學の玄朗が参禰する風景もみられた︒
そのことを代辮するのが雲門寺道亮であろう︒彼は越州に生れ三論
を學ぴ﹃涅槃継﹄を講じ︑中宗の菩薩戒師となり審宗朝に重んじら
れ廣く調風を博えた︵峠置震﹄︶︒初唐における越州佛敦のありよう
五〇
を満身に浴びた人物といえる︒けだし杭州に比べ朦學の影ほ希薄で
ある︒越州に生れ弘忍の禰法︑道岸の律を修めた妙喜寺の僧逹︵六
弓ハー七一九︶もいる︵野噂停﹄︶︒輝・律・華厳双習者には聟陽杭
鳥山智蔵︵七四一ー八一九︶がおり︑律虎と琥せられ︑﹃華厳罷妙
義﹄を著わした︒馬祖道一にも参椰している︵麟冨借偲﹄︶︒
律とならんで越州佛数を彩るものほ天台學である︒智顕の天台學
ほ章安灌頂︵五六一ー六三二︶ののち︑これを畿承した智威︵ー六
( 59 )
八
0
)
慧威︵六三四ー七︱︱︱‑︶の時をへて︑左漢玄朗︵六七三ー七
五四︶に至る閲はヴェールに包まれており︑一種の暗黒時代と目さ
れている︒玄朗は惹威の門下であり︑異論もあるが天台敦學は︑玄
朗を織いだ荊湊堪然によって復興されたとされる︒堪然以来︑活況
を呈したことは開違いないとしても︑越州に天台學のレールを敷い
た功勝者は玄朗にほかならない︒
玄朗︵六七三ー七五四︶字は恵明︑東陽は義烏︵浙江省︶の生れで
ある︒如意年中︵六九二︶故郷の清泰寺に得度し︑光州の律師道岸
に具足戒を受け︑これまた前出の越州妙喜寺印宗に従って律學を受
けた︒のち東陽天宮寺の慧威の門をたたき︑爾来三十餘年を左嚢巖
( 60 )
に過し︑天賓十三年九月︑八二歳で減した︒﹁故左撲大師碑﹂によ
れば門下には衝州龍邸九巖寺の道賓以下を列學するが︑入室の弟子
に婆州開元寺の行宜︑常州妙架寺の湛然がおり︑湛然が天台に入っ
たのは︑玄朗の没した二年後の至怨元年︵七五六︶のことである︒
玄朗の箕讚をものしたのが稲心寺大義とともに机下に参じた前記
入唐
憎と
杭州
・越
州
五
の大馬寺誹逍である︒律學と天台學を兼習する大義らの姿勢が︑玄
朗のそれと相い通ずるのもさることながら︑やはり天台敦學の影響
篤い越州の地理的條件と佛敦界の事情によるところが大きいと思わ
れる︒玄朗門下の中︑越州僧には法華寺の法源・紳醤︑杭州僧には
霊曜寺の法澄︑霊隠寺の法員が名を連ねており︑明州僧の天賓寺逍
( 61 )
源︑浄安寺恵従などを含め︑その事賓を裏付けるものがある︒
紳墓︵七一
0
ー八八︶は開元二六年︵七三八︶郷里の聟陽︵浙江省諸聟︶の香厳寺に得度し︑越州法華寺の玄懺より南山律紗を學び︑
師をして﹁この子敷年の後︑卒に學者の司南とならん︑爾︑それ勉
めよ﹂といわしめた人物である︒その彼が玄朗に従い天台の四敦三
観を習い︑五夏にして﹁呉・會の閲︑學者これに従う﹂までに大成
し︑天賓年閲に入ると請われて聟陽の法架寺に住した︒まさに玄朗
そして越州僧にみた律・天台兼習の特徴を︑彼もまた備えているこ
とに注目する必要がある︒肺墓はのち長安に上り︑安史の風を避け
ょて越州法華寺にもどって登壇授戒につとめ﹁丹陽起り金華に消ぶま
で︑その開の繹子は皆命じて親敦師となす﹂と稲された︒大暦中の
ことである︒やがて越州焦山に大暦寺を建立し執筆に︑あるいは弟
子の敦導に務め︑貞元四年︵七八八︶十一月に没した︒彼が観察使
陳少遊の要請を受けて嵩岳道士の呉箔と交えた有名な論戦は﹃翻迷
論﹄三巻に結果している︒湛然の員讚を撰したのは彼であり︑門下
( 62 )
からは霊激のほか智昂︑進明︑慧照らが巣立っている︒
このほか呂后山寺の開基寧賀︵七五四ー八二八︶は馬祖道一の弟
天台
中興
の祖
︑ ,.
ノ
れてはならない︒
いわゆる荊漢湛然︵七︱一ー七八二︶と天台國清 むすびにかえて
子であり︵麟謬噂2﹄)︑その遺寺に住した文質︵七七八ー八六一︶は
﹃四分律﹄﹃法華鰹﹄﹃華厳紐﹄等を講じ︵鱈亨偕倦﹄︶︑聟陽の棲員
院開基の輝借慧沐︵八一
OI
九七︶はまた越州鑑水院︵明心院︶の開基住職となった︵鰈鵡喧得﹄︶︒聾陽にはまた大中聖壽寺の開山稗智
︵八一九ー八六︶がおり︑雲門寺惟孝に投じ︑のち相國の翡休に重
んじ
られ
た︵
麟謬
噂﹄
︶︒
唐末には難を會稽に避ける者も多かったが︑應天山寺希圃もその
一人であり︑光啓中︵八八五ー八八︶蘇州より明州そして越州賓林
山寺に入っている︵鱈窪僭應﹄︶︒盛唐の詩人王維と莫逆の交りを結ん
だ元崇が大暦初︵七六五ー七
0 )
頃︑浙東へ巡錫したような例や睦
州龍興寺の慧朗とかかわりを持った越州雲門寺の調師晉公︑慧朗の
弟子にあたる越州賓林寺の有油・遠整︑あるいは若干年を開元寺で
喜喜︑訓導した文喜︵唸言︶のような例は一切ならずある︒
いずれにしても質量ともに杭州を匪倒していることは明らかなので
ある︒これに加えて入唐僧逹にとり同じ佛敦圏とみなされる石城︑
剣縣そして台州・天台山の情況を併せ考えれば︑もはや疑う餘地は
なかろう︒本傭はないが最澄の師順暁ほ越州東峯山寺僧︑圃珍が學
んだ良謂も越州開元寺僧であり︑諧天台座主の任にあったことを忘
( 63 )
︵6 4
)
寺とのことは喋々するまでもない︒最澄が師事した道蓬︑その弟子
( 65 )
で圃載が携えた叡山の未決に決答を輿えた禰林寺の廣脩︵七七︱│
( 66 )
八四一︱‑︶︑はたまた圃珍の止観堂建立に協力した物外や清観などは︑
日本天台にとって忘れ難い面々である︒廣脩と同年に死んだ輻田寺
普岸︵七七
OI
八四一︱‑︶は百丈職師懐海に學び太和中︵八二七ー三︵ 町︶
五︶に入山している︒
これより先︑牛頭祠六祗の慧忠に参禰した遺則︵七五四ー八三
︵f S
︶
0 )
ほ天台山佛窟巖に入り文オにまかせて詩文を多く残した︒また
﹃四分律﹄﹃法華紐﹄を講じた國清寺の文學︵七六
OI
八四二︶は﹁佛窟の︹逍︺則公の祠道と並謳して相い高し﹂と稲され︑國清寺
( fg )
大徳に救任されており︑最澄より園珍に至る閲の天台佛敦を桓閲み
る思いがする︒園珍が﹁日本國大徳僧院﹂をゆだねた清観が図清寺
僧元障律師に投じたというように(〗亨)博』)、詳細の分らない姿が
散見するが︑おおむね天台を主に律・禰そして浄土の色合いが強い
( 70 )
のである︒刻縣沃州山禰院の開基寂然(│八三三︶異僧の大濡山霊
( 7 1 ) ( 7 2 )
祐(七七一ー八五三)、萎州五洩山霊獣(七四七—八一八)などの
入山も天台佛敦を増幅させるものであろう︒
註
( 1 )
玉井
幸助
﹃日
記文
學概
説﹄
︵國
書刊
行會
・一
九八
二年
︶︑
齋木
一馬
﹃古
記録
の研
究﹄
︵﹃
齋木
一馬
著作
集﹄
一・
ニ︶
︒
( 2 )
﹃績
日本
紀﹄
巻三
・慶
雲元
年秋
七月
甲申
朔の
條に
﹁正
四位
下︑
粟田
員人
自唐
國至
︑初
至唐
時︑
有人
来問
曰︑
何慮
使人
︑答
日︑
日本
國使
︑
五
我使反問日︑是何州界︑答日︑是大周楚州憲城縣界也﹂とある︒
( 3 )
﹃日
本後
記﹄
﹃叡
山大
師偉
﹄︵
﹃偲
教大
師全
集﹄
一巻
附録
︶︒
( 4 )
﹃扶桑略記﹄巻五︑﹃三國佛法博通縁起﹄巻中︑﹃三論祖師博集﹄
巻下︑﹃本朝高憎博﹄巻一︒例えば﹃元亨繹書﹄巻一・智蔵催に﹁奥
國人︑禰亮法師俗時子也︑謁嘉詳受三論微旨﹂とし︑智蔵の父禰亮の
偲にも三論を吉蔵に受けたとあり︑これと混同された可能性がある︒
輻亮については﹃扶桑略記﹄巻四︑﹃三國佛法偲通縁起﹄巻中︑﹃本
朝高憎傭﹄巻一︑﹃元亨繹書﹄巻一六にみえる︒
( 5 )
慧灌の博は﹃日本書紀﹄巻ニニ︑﹃扶桑略記﹄巻四︑﹃三國佛法侮
通縁起﹄巻中︑﹃本朝高憎偲﹄巻一︑﹃元亨繹書﹄巻一にみえる︒
( 6 )
﹃東征博﹄に﹁時越州憎等︑知和上欲往日本國︑告州官日︑日本國
僧榮叡等︑誘和上欲往日本國︑山陰縣尉遣人︑於王丞宅︑捜得榮叡
師︑着枷通送京︑遂至杭州︑榮叡師臥病︑請暇療治︑経多時云︑病死
乃得
放出
﹂と
ある
︒
( 7 )
﹃元亨繹書﹄巻六・義空博に﹁初慧蒋法師跨海莞法︑吾皇太后橘
氏︑欽唐地之輝化︑委金幣於蒋︑拍聘有道奪宿﹂とある︒橋本進吉編「慧蒋和尚年譜」(『大日本佛数全書』遊方偲叢書•第四冊)は『元亨
繹書﹄巻一六に﹁齊衝初︵八五四︶︑應橘太后詔︑齋幣入唐﹂とある
のは
嘉詳
一ー
一年
︵八
0
五)
太后入減よりして疑わしいとする︒従うぺき
であろうが﹃文態賓録﹄巻一には嘉詳一︳一年條に一括して慧幕入唐のこ
とを記す︒神田喜一郎﹁林羅山手校の白氏文集﹂﹃ミュージアム﹄八
ニー
一参
看゜
( 8 )
いずれも﹃大正大蔵罷﹄第五五冊・目録部︒
( 9 )
﹃入唐求法行歴の研究ー智證大師圃珍篇﹄上・下︵一九八二年・法蔵館刊)。なお佐伯有清『智證大師偉の研究』(一九八九•吉川弘文
館︶︑小山田和夫﹃智證大師圃珍の研究﹄︵一九九
0
年・
吉川
弘文
館︶
も併
せ参
照︒
( 1 0 )
杉本
直治
郎﹃
員如
親王
停研
究﹄
︱︱
︱︱
︱︱
i
︱1H
ハ九
頁︒
入唐僧と杭州・越州
五
( 1 1 )
﹃大正大蔵経﹄第五五冊・目録部︒なお﹃入唐略記﹄には﹁但宗叡
和尚︑依有宿︑自汗州相別︑取河中府逍︑向五蛋山﹂とある︒
( 1 2 )
﹃日本紀略﹄後篇﹁承平六年七月十三日己亥︑大宰府申大唐呉越州
ママ
人蒋承動・季盈張等末著之由︒﹂とある︒時に文稜王︵成宗︶錢元瑠
の五
年目
にあ
たる
︒
( 1 3 )
人民出版祉刊﹃中國人口史﹄一九八八年︑第六章﹁唐朝和五代人
ロ ﹂ ︒
( 1 4 )
天賓中︑杭州の所管縣八︑越州八︒元和中は杭州八︑越州七であ
る ︒
( 1 5 )
小野勝年﹃入唐求法行歴の研究﹄下巻︑大中十年五月十七日條︑注
( 1 )
︒
( 1 6 )
安藤更生﹃墜員大和上偲之研究﹄第十七章︑註仰に詳しい論證があ
る ︒
﹃偲
数大
師全
集﹄
第三
所牧
゜
( 1 7 )
﹃績日本紀﹄天平十一年︵七三九︶十一月條に﹁平群朝臣廣成等拝
朝︑初廣成︑天平五年随
大使多治比員人廣成︳入唐︑六年十月事畢却1 1
婦︑四船同登︑従レ蘇入レ海︑悪風忽起︑彼此相失﹂とみえる︒
マ マ ( 1 8 )
﹃績日本紀﹄巻二三・天平賓字五年八月甲子條﹁迎藤原河清使高元
度等
︑至
レ自
=唐
國︱
⁝⁝
又有
ーー
内使
↓宜
レ救
日︑
⁝⁝
郎令
ュ中
謁者
謝時
和
押領元度等向=蘇州f
云云
﹂と
ある
︒
( 1 9 )
﹃績日本紀﹄巻三五・賓編九年十一月乙卯條﹁大伴織人等上奏言⁝
ママ
⁝九
月三
日︑
登レ
自ー
ー揚
子江
口
f
至ー
ー蘇
州常
耽縣
f候
レ風
︑云
云﹂
︒ま
た
﹃冊府元亀﹄巻九七一・外臣部・朝貢・開元二十一年八月條には﹁日
本國
朝賀
使員
人廣
成︑
興ー
ー僚
従五
百九
十
f
舟行
遇レ
風︑
謁至
一︳
蘇州
f刺
史錢惟正以聞︑詔1︳
通事
舎人
章景
f先
往=
蘇州
↓宜
慰焉
﹂と
もあ
る︒
( 2 0 )
﹃顕戒論縁起﹄上に台州司馬呉額叙の﹁送最澄上人還日本國叙﹂が
あり﹁以貞元二十年九月二十六日︑業於海郡︑謁太守陸公︑云云﹂と
ある
︒
( 2 1 )
﹃日
本大
蔵継
﹄天
台宗
顕数
章疏
第一
︑