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イタリアの黒死病関係史料集(七)

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(1)

イタリアの黒死病関係史料集(七)

著者 石坂 尚武

雑誌名 人文學

号 184

ページ 25‑189

発行年 2009‑03‑15

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011700

(2)

イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集 ︵ 七 ︶

編 訳 石 坂 尚 武

第二一章サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の﹃死者台帳﹄より

││ペスト死の数量的傾向を読む││

目次

解説と考察

はじめに

││史料としての価値と先行研究││

第一節﹃死者台帳﹄の基本的性格

第二節﹃死者台帳﹄の記載事項

︵一︶﹁死亡年﹂

︵二︶﹁死亡者の氏名﹂

︵三︶﹁所属する教区﹂

第三節サンタ・マリア・ノヴェッラの特別の地位

︵一︶特別の地位のゆえん

― 2 5 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

(3)

︵二︶富裕層の疫病死亡率

第四節台帳において史料として活用できる時期の限定

第五節データが新たに語るもの

││三つの数量的発見││

︵一︶夏︑恐るべし

││数量的発見その一││

︵二︶強きものよ︑汝の名は││

││数量的発見その二││

︵三︶寡婦は強かった!

││数量的発見その三││

おわりに

︿付録﹀﹁年代順死亡者リスト﹂

史料

サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の﹃死者台帳﹄より

││ペスト死の数量的傾向を読む││

第二一章サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の﹃死者台帳﹄より

││ペスト死の数量的傾向を読む││

解説と考察 イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

― 2 6 ―

(4)

はじめに

││史料としての価値と先行研究││

サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂は︑フィレンツェの中央駅で

ある同名の﹁サンタ・マリア・ノヴェッラ中央駅﹂のすぐ駅前に

位置している︵図1︶︒この聖堂の美しい﹁ファサード﹂︵正面︶

は︑一五世紀にレオン・バッティスタ・アルベルティ︵一四〇四

〜一四七二︶の図案にもとづいて制作されたものである︵図2・

図3︶︒この教会はその起源を一〇世紀にまでさかのぼり︑一二

二一年からはドミニコ修道会の付属教会︵サンタ・マリア・デッ

レ・ヴィーニェ︶となっている︒ここには多くの貴重な史料が残

されたが︑そのひとつ︑﹃死者台帳﹄︵ラテン語︶

は︑一四世紀

前後の時期にここに埋葬された人びとの死亡年︑死亡日︑所属教

区等を記載した台帳︵過去帳︶である︒一四世紀に発生した大規

模な疫病の衝撃のありさまを知るには︑死者の実名と死亡日を克

明に記したこの台帳は︑まことに貴重な注目すべき史料である

︵この史料はC・C・カルツォラーイによって刊行されている

︶︒

1

フィレンツェ中央駅から見えるサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂(画面右半分)

1279

年からの新築により「ノヴェッラ」(新しい)の名が与えられた。

― 2 7 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

(5)

実際︑これまで︑いくつかの

先行研究

は︑年代記︑一家

の家

長の記した覚書︵リコルディ︶︑

托鉢修道士用の﹁死者名簿帳﹂

等︑他の史料をも合わせて利用

しながら︑この台帳に記載され

た死亡日を綿密に分析すること

によって︑イタリアにおいて発

生したペストがいかに季節的性

格の強いものであったかを証明

している︒とりわけハーリヒー

らの研究は︑イタリアのフィレ

ンツェを中心に﹁月別平均死亡者数﹂を算出して︑それを﹁疫病

年﹂と﹁非疫病年﹂に分けて比較することで︑両者の歴然とした違

い││ペストの季節性││を明快に立証している︒﹁非疫病年﹂で

は各月の死亡者の割合はほとんど変わらないのに︑﹁疫病年﹂では

夏季に極端に高い死亡率が示される︵グラフ1﹁非疫病年と疫病発

2

アルベルティの図案によるファサード(サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂)

3

同ファサード(部分)

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

― 2 8 ―

(6)

0 5 10 15 20 25 30

1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 死

者 の 割 合

非疫病年 疫病発生年

生年の月毎の死者の平均﹂

節一てっよにれこは性季︶の害被るよにトスペ︒目

瞭然である︒なお︑イタリアのペストは︑冬の寒冷の湿った気候で猛威を振る

う肺ペストでなく︑夏に流行する腺ペストが中心であった︒

またサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の﹃死者台帳﹄は︑ペスト研究とは全

く別の研究領域にも貴重な史料を提供した︒すなわちこの台帳は︑そこに一七

七〇名の人びとの名前を擁することから︑﹁名前の研究﹂に対しても豊富なデ

ータを提供し︑関係の研究者に強い刺激を与えた

︒それは一種の心性史研究

といえるものである││

すなわち︑親は︑誕生したばかりの子どもに対してどのような気持ち││心

性││を抱いて名前をつけたか︒ふつうの場合︑名前には子どもへの親の願い

が託されている︒もしそうなら︑名前の付け方を見ることで︑そこにこの時代

を生きる人びとの一種の心性が浮き彫りにされることになる︒この台帳に記さ

れた総数一七七〇人に及ぶ人びとの名前︵いわゆる﹁下の名前﹂︶についてデ

ータ解析がおこなわれ︑それによって︑実は︑ようやく一四世紀の時代になっ

て︑托鉢修道士の運動などの成果として︑キリスト教がようやくイタリアに深

く︑真に日常的レベルにまで浸透し︑その結果として︑子どもの命名法にまで

作用したことが確認されている︒具体的に見ると︑一三世紀半ばにはまだキリ

グラフ

1

非疫病年と疫病発生年の月毎の死者の平均

D. Hearlihy and C. Klapisch-Zuber, Toscans and their Families, 79. より作成

― 2 9 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

(7)

スト教とは無縁の名前︵古代ローマ系や歴史上の人物︑縁起をかつぐ名前等︶がほとんどの子どもに付けられていた

のに対して︵一二六〇年のシエナの兵士のリストでは八一パーセントが非キリスト教的な名前が付けられてい

の︑キリスト教的な色彩強すいヨーロッパ人の命名る配︶な︑ようやくこの時代にっ支て︑現代にまで及んでの

パターンがはっきりと確認されるのである︒ヨーロッパ人の命名のパターンとは︑﹁名前をつくる﹂というよりも︑

新約・旧約聖書やその他のキリスト教の諸聖人から好みの聖人を﹁選択﹂して︑その名前を子どもに与えるというパ

ターンである︒この﹁選択制﹂によって子どもの名前の種類は限定されることとなり︑このサンタ・マリア・ノヴェ

ッラ聖堂の台帳では︑男性の名前については︑二七の名前があれば全体の半数がカバーできるようになったのであ

今日︑日本ではふつう親は︑名前を付ける際には︑漢字の意味やその組み合わせを考えたり︑同音であっても異義

語の漢字︵あるいはひらがな︶を与えたり︑画数やことばの響き︑名字︵姓︶とのバランスなど様々な要素を考慮し

て子どもの名前をあれこれ﹁考える﹂﹁つくる﹂が︑ヨーロッパではふつうキリスト教の聖人のなかから﹁選択﹂す

る︵ある種の習慣にしたがって﹁選択﹂する︶︒聖人︑それも人気のある聖人の名前から﹁選択﹂することから︑お

のずと名前は限定され︑使われる名前の種類はずっと少なくなり︑おのずと同名の子どもが多くなる︒実際︑日本と

比べると︑ヨーロッパ人の間では︑学校のクラスや職場では下の名前が同じ者が非常に多い︒これは一四世紀にその

傾向のルーツをたどることができるのである︒︵││ついでにいうと︑どうも西洋と日本とでは下の名前に対する感覚が本質

的に異なっているように思われる︒西洋人は︑名字よりも下の名前の方に個人のアイデンティティーの本質を感じているようだ︒

私の見たイタリアの銀行の行員や郵便局の局員の名札には︑名字ではなく︑驚くべきことに︑日本の幼稚園児のように︑何と下の イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

― 3 0 ―

(8)

名前を書いている︒西洋人は﹁名前は?﹂と尋ねられた時に︑名字を言わずに︑下の名前だけ答える場合が多い︒一方︑日本人

は︑自己紹介の時でも︑名字については︑はっきり発音するのに︑下の名前になると︵恥ずかしいのか︶急に声が低くなることが

あり︑場合によっては︑下の名前を省略して︑言わないことがある︒下の名前に対する意識の違い││文化の違い││があるよう

に思われる︶︒

さらにいえば︑命名において︑一四世紀においてこのようにして﹁聖人﹂が全般的に注目されるようになったが︑

つづく一五世紀になると︑聖人のなかでも﹁殉教の聖人﹂がいっそう注目されるようになる︒それはなぜか││それ

は周期的に頻発するペストが大きく作用したと考えられる

と五一︑がたれらえ考も﹂︒苦め責﹁の種一はトスペ世

紀になると︑初期キリスト教時代に迫害││﹁責め苦﹂││に耐えて見事に宗教的栄光を勝ち取った﹁殉教の聖人﹂

が俄然人気を得るようになった︒﹁アントーニオ﹂︵アントニウス︶︑﹁ロレンツォ﹂︵ラウレンティウス︶︑﹁ニッコロ﹂

︵ニコラウス︶などは︑そうした流行に乗った一五世紀に初めて一般化した新しい名前である︒親は︑ペストで死な

ずに生きる元気な子どもになってほしいと願って︑苦痛に耐えて栄光を得た殉教の聖人の名前を﹁選択﹂したのであ

る︒

また︑一五世紀になって︑周期的に発生するペストを背景にして︑疫病や急死を防いでくれる守護聖人が注目さ

れ︑それにあやかって﹁セバスティアーノ﹂︵セバスティアヌス︶︑﹁ロッコ﹂︵ロクス︶︑﹁コジモ﹂︵コスマス︶︑﹁ク

リストーフォロ﹂︵クリストフォルス︑︶などが新顔として登場する

生無がもど子たれま︑︒はに向傾の名命のこ事

に健康に育つことを願う同類の親の切実な願いが込められている︒

この命名の傾向は︑一六世紀以降のプロテスタントの世界にさえ生き残った︒プロテスタントは︑聖書に関わりの

― 3 1 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

(9)

男性 592人

61%

女性 382人 39%

ない中世カトリックの聖人を拒否したにもかかわらず︑実際には︑急死を防ぐため

に︑教会の壁に大きく描かれた︑キリストを肩に載せた大男クリストフ︵クリスト

フォルス︶の像に祈りを捧げ︑生まれた子どもにその名を与えたのである︒また︑

カトリックの疫病除けの聖人である﹁セバスティアヌス﹂などの名前を子どもに与

えた︒大作曲家バッハは︑一六八五年︑ルターの宗教改革の教えの息吹がまだ非常

に強く残っていた町アイゼナハ︵ルターはここで教育を受けた︶に生まれたにもか

かわらず︑その名を洗礼名を含めていうと︑ヨハン・ゼ

!

!

!

!

!

!

・バッハであ !

る︒││ペストと子どもの名前の関係については︑できれば別の機会に詳しく触れたい︒

しかしながら︑それでもなお︑サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の﹃死者台帳﹄には︑﹁名前の研究﹂以外にも︑

内に秘められまだまだ我々の気づかない事実が隠されており︑光さえ当てれば見えてくる貴重な事実を内在している

ように思う︒そこで︑私は一二ヵ月からなるこの台帳の夏季三カ月間と冬季三カ月間︑合わせて六カ月間の死亡者︑

すなわちこの台帳に記載された全埋葬者一七七〇名のうち全体の六割の約一〇〇〇名︵正確には九七五名︶の氏名と

記載項目をすべてパソコンに入力して︑データ解析を試みた︒内訳は︑男性五九二人︑女性三八三人であり︑男性が

六割︑女性が四割である︵グラフ2﹁サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂に埋葬された男女の割合︵全期間の夏・

冬︶﹂︶︒

ここでは︑データ処理によって︑全死亡者のうち︑ペストによる死者の割合を﹁男﹂と﹁女﹂についてそれぞれ数

量的に示すことで︑両者の﹁疫病死亡率﹂を特定することができた︒また︑女性の全死亡者のうち︑ペストによる死

グラフ

2

サンタ・マリア・ノヴ ェッラ聖堂に埋葬 された男女の割合

(全期間・夏冬) 関七︵集料史係病イ死黒のアリタ︶

― 3 2 ―

(10)

者の割合を﹁妻﹂﹁寡婦﹂﹁独身﹂に分類して︑﹁疫病死亡率﹂を算出した︒そこでは特に﹁寡婦﹂について非常に興

味深い事実を発見した︒このほか夏と冬の死亡率の比較も提示している︒これらの数量的比較はこれまでなされたこ

とがなく︑とりわけトレチェント︵一四世紀︶のペストによる被害の傾向については新しい発見といえるものを提供

できた︒

方法論的には︑原点としての﹁個人﹂に視点を設定することから出発した︒この﹃死者台帳﹄には︑疫病や熱病そ

の他さまざまな理由から世を去った一人ひとりの死者の名前が次々と報告されており︑当時死んでいった個人の顔を

我々にイメージさせてくれる︒この︑一人ひとりの死者の名前を次々と記録する形式は︑ある意味では単調でありな

がら︑我々に独特のリアリティ︑身近な現実感を与えるものである︒特に一四世紀の時代は︑ヨーロッパやイタリア

ではほとんどどこでも飢饉・疫病・内乱・戦争が多発し︑人口が激減した﹁苦難の時代﹂であり︑それが台帳での市

民一人ひとりの死去の日々の克明な記録を通じて如実に感じ取られる︒例えば︑飢饉に続いて発生した疫病の結果︑

多数の死者の名前が連日つづけて異常に多く記載され︑同じ日に︑同じ家族から複数の死者が出たり︑息子が死んだ

翌日になって後を追うように父親もまた死んでいったことなどが︑実名を挙げて記載され︑比較的平安な現代に生き

る我々の胸を打つ︒また有名なチョンピの乱によって死刑に処された者たちが次々と埋葬されるのがこの台帳から認

められる︒││ふつう歴史の研究者は︑人を﹁集団﹂としてしか見ずに︑どこの都市で﹁何万人﹂死んだとか︑﹁何

パーセント﹂死んだとか述べて︑﹁個人﹂を消去して語る︒しかし実際には︑当然ながら︑歴史的現実はその時代を

生きる一人ひとりによって構成されている︒この史料は︑ペスト研究においても︑まず時代を生き︑時代のなかで死

んでいった個人が存在していることを痛感させるものであり︑これは﹁個人﹂から出発した﹁一次史料﹂であること

― 3 3 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

(11)

からまさに二重の意味の一次史料である︒ここでは︑改めて個人から出発し︑﹁集団﹂と﹁個人﹂との相互の関係を

密にしたかたちでデータ解析をし︑再び﹁集団﹂に還元して疫病の衝撃のありさまを数量的に示したいと思う︒

本章の全体の構成について述べると︑本シリーズの﹁イタリアの黒死病関係史料集﹂の第二一章として

︵一︶﹁解説と考察﹂として︑まずこの台帳の﹁基本的性格﹂を概観し︑次に私のデータ解析から得た成果を論ず

る︒

︵二︶この台帳に記載された埋葬者のうち︑夏季の六・七・八月分︑冬季の一二・一・二月分︑すなわち一年間の

うちの六カ月の埋葬者については︑台帳の一年周期の配列を並び替えて︑年代・月日の流れに沿った︿付録﹀﹁年代

順死亡者リスト﹂を添えた︒

︵三︶サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の台帳から夏季の六・七月分︑冬季の一二・一月分︑計四カ月間を翻訳し

て紹介する︒

個人に視点を据えた史料の翻訳とリストが今後のペスト研究に役に立てば幸いである︒

サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の﹃死者台帳﹄のテキスト︵刊行史料︶は︑注にも示したが︑以下のものを利用

した︒

‘Il “Libro dei M orti” di Santa M aria Novella

1290−1436

’, a cur ad iC .C .C al zo la i, Memorie D ominicane, ns XI

1980

: 15−218.

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

― 3 4 ―

(12)

第一節﹃死者台帳﹄とサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂

︵一︶﹃死者台帳﹄の基本的性格

フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂で記録された﹃死者台帳﹄の目的のひとつは︑この聖堂に埋葬さ

れた人びとの﹁死亡日﹂すなわち﹁命日﹂を記録することであったと考えられる︒﹁命日﹂の記録は︑キリスト教徒

にとって重要な意味をもっている︒なぜなら﹁命日﹂には︑ふつう故人のために回忌として﹁供養ミサ﹂︵追悼ミサ︶

がおこなわれることがあったからである︒当時︑死後︑たいていの死者の霊魂は﹁煉獄﹂︵浄罪界︶に滞在して︑そ

こで生前犯した大小の罪に対して︑贖罪として責め苦が与えられると考えられた││そして晴れて贖罪がすんだ暁に

ようやく天国に行くことができると考えられた︒そして本人の遺志や遺族の願いによっておこなわれる供養ミサは︑

この煉獄での滞在期間を短縮する力を備えていると信じられたことから︑この﹁供養ミサ﹂は死後の重要な行事とみ

なされたのである︒供養ミサは︑遺言によって教会への喜捨の条件として﹁命日﹂││この日だけに限定されたわけ

ではなく︑多ければ多いほどよかったのだが││などに実施されることが望まれたのである︒北イタリアのローディ

の司教館に保存されているローディ市民の遺言書にはこう記されている

遺言者は︑サン・クリストーフォロ教会の聖堂参事会にローディのコムーネの下記の地代の一〇〇帝国ソルドを毎年授与す

るものとする︒この授与によって遺言者の霊魂のために毎年ミサが挙行されるべきものとする︒

また︑チェッレートの修道院に毎年一〇帝国ソルドを授与する︒この授与によってチェッレートの修道士はこの遺言者の霊

― 3 5 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

(13)

魂のために毎年ミサを挙行すべきものとする︒

このように︑死者台帳が作成されたひとつの大きな目的は︑

年忌の際に供養ミサを実施することであった︒目的がそのよう

に﹁日にち﹂を特定するものであったことから︑教会によって

は台帳には故人の﹁死亡年﹂を記載しない場合があった︒つま

り﹁供養ミサ﹂の実施のためだけなら︑﹁死亡した月日﹂さえ

わかれば︑それで十分であり︑わざわざ﹁死亡年﹂まで記載す

る必要はないからである︒それが証拠に︑フィレンツェのサン

タ・レパラータ教会︵フィレンツェの﹁地図﹂のほぼ中央に位

置︶︵現在のフィレンツェ大聖堂の前身︶の﹃死者台帳﹄に

は︑死亡した﹁月日﹂の欄に死者の氏名が記載されるだけで︑

その人の﹁死亡年﹂は記載されていないのである︒

このように教会で記載された﹃死者台帳﹄は︑その目的にお

いて宗教的要素が本質であったが︑一三八〇年代からいよいよ

都市コムーネも﹃死者台帳﹄を作成し出す︒このコムーネによ

る﹃死者台帳﹄は︑疫病対策そのものを念頭にして作成され

地図

14〜15

世紀のフィレンツェ

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

― 3 6 ―

(14)

た︒特に一五世紀以降︑コムーネは疫病対策として都市の衛生管理に取り組むようになるが︑それと併行して︑都市

全体の死亡状況をより早期に把握していこうとする動きのなかで﹃死者台帳﹄の取り組みがなされたのである︵それ

は︑以後一八世紀まで継続して記録されていく︶︒この行政的対処は︑一四世紀後半に数回の疫病を体験した結果︑

政府として本腰を入れてペストに対処しようとしたあらわれであった︒フィレンツェ政府はそうした動きの一環とし

て﹁穀物局﹂︵

Grascia

︶を通じて﹃死者台帳﹄を作成させたのであった︒

この穀物局は︑本来︑穀物の調達・供給の管理や経済的︑政治的危機の際の物価の統制を委ねられた政府の部局で

あった︒その観点からフィレンツェの人口変動の把握を命じられ︑疫病という人口減少問題に対処する役割が与えら

れた︒また︑この部局は都市住民全般に対して治安維持的な役割も担っていて︑そのことは間接的に疫病に関係する

ものであった︒すなわち穀物局の役人は︑﹁正義の規定の執行官﹂︵もともと豪族の抗争等を取り締まるものであっ

た︶から命じられて︑一三七八〜七九年に制定された法令にもとづいて︑主に下層民に対する取り締まりとして︑

﹁売春婦・召使・死

!

対一おこなった︒その方りで都市の富裕層にをまそ数の他の類似した多の締者﹂に対する取り !

しては︑葬

!

儀取した行為がないかをりに締まった︒つまり葬反︶や侈結婚式において﹁奢禁照止令﹂︵第二〇章参 !

や結婚式の宴会で規制を越えた出費・装飾︑奢侈行為がないかを監視した︒その監視において穀物局の役人の手足と

なって第一線で動いたのが︑葬儀や宴会に直接関わった墓

!

!

や料理人であった︒ !

こうした経過で﹁死者﹂の人数の把握は︑穀物局の監督下にある墓掘人に委ねられた︒墓掘人は役人の厳しい管理

のもとで死者の数を役所に報告する義務を負った︒彼らは︑自分たちが墓地に運び︑そこに葬った死者の名前やその

所属教区などを公証人に報告した︒公証人は︑毎日の死者を記録し︑それを﹃死者台帳﹄として保存した︒年によっ

― 3 7 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

(15)

ては時々紛失による欠落はあるも

の︑例えば一三八五年から一四四九

年までについていえば︑四巻に分け

られ保存されている︒特に一四〇〇

年に勃発し猛威を振るった大規模ペ

ストについて特徴的なように︑その

詳細な報告のおかげでグラフ3﹁穀

物局﹃死者台帳﹄によるフィレンツ

ェの一日の平均死亡者数﹂を作成す

ることができるのである

この穀物局の﹃死者台帳﹄は︑一

四一〇年代から二〇年代にその記載

事項に重要な変化が認められる││すなわち︑死亡者の氏名︑教区名のほかに﹁疫病﹂の流行の早期のチェックと対

処のために﹁死因﹂が記載されるようになったのである︒﹁疫病﹂︵

pestilenzia

︶による死については︑台帳に大文字

で﹁P﹂と記載された︒こうした死因への関心はコムーネの医学的専門家においてはいっそう強かった︒すなわち穀

物局の作成した﹃死者台帳﹄のほかに︑医師・薬種商組合は︑以前から死者の埋葬に関与していたが︑一四五〇年

︵本格的には一四七六年︶になってから︑死因に強い関心を示し︑死因を記載した﹃死者台帳﹄を記載し始めたので

グラフ

3

穀物局『死者台帳』によるフィレンツェの 一日の平均死亡者数

D. Hearlihy and C. Klapisch-Zuber, 271.

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

― 3 8 ―

(16)

ある︒

こうして穀物局と医師・薬種商組合のふたつの﹃死者台帳﹄がそれぞれ独立して併行して継続して記載された︒研

究者G・パレンティによって︑前者については一七五五年まで︑後者については一七八五年まで一覧が作成されてい

らもので︑宗教的目的か記し載された我々のサンタたと︒もいずれの﹃死者台帳﹄行質政的︑医学的要素を本・

マリア・ノヴェッラ聖堂の﹃死者台帳﹄とは本質的に異なるものである︒このように見ると︑サンタ・マリア・ノヴ

ェッラ聖堂の﹃死者台帳﹄︵

Libro d ei morti

︶は﹃過去帳﹄と訳しても差し障りがないが︑穀物局や医師・薬種商組合

の﹃死者台帳﹄は文字通り﹃死者台帳﹄としか訳せない性質のものである︒しかし︑史料の極めて少ない一四世紀全

体について︑その世紀をほぼ包括するサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の﹃死者台帳﹄は︑我々にとって︑ほかのも

のでは代えられないまことに貴重な史料なのである︒

サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の﹃死者台帳﹄

二さき大のルトーメチンセ〇横は︑ルトーメチンセ九二縦︑の

羊皮紙を一八七枚束ねて一冊に製本されている︵一部破り取られた形跡がある︶︒その羊皮紙の厚さはさまざまであ

り︑厚いものもあれば︑裏側が透けて見えるほど薄いものもある︒台帳の背表紙には︑﹁一二九〇年から一四三六年

までの死者﹂と書かれ︑その上の方に﹁サンタ・マリア・ノヴェッラ﹂と書かれている︵実際には一四三六年以後に

も記載された︶︒

では︑サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂を死後の埋葬先に考えていた集団︵﹁埋葬予備軍﹂と呼ぼう︶は︑フィレ

ンツェ全体においてどの程度の割合を占めていたのであろうか︒これは避けることのできない問題である︒まず︑こ

の頃フィレンツェには五〇から六〇を越える教区があり︑すべての修道院を含めて多数の教会︵おそらく一〇〇前

― 3 9 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

(17)

後︶が存在していたと思われること︑また聖堂は富裕層の受け入れを中心にしていて誰でも容易に埋葬してもらえる

わけでなかったということ︑この二つのことから︑この聖堂の埋葬者の全市に占める割合はおのずと少なくなり︑基

本的にフィレンツェのごく一部の市民が埋葬されたのではないかと推測される︒

試みに︑全市で疫病死した人数の大体わかっている疫病を例にして︑その疫病のためにこの聖堂で埋葬された人数

を比べて︑都市全体においてこの聖堂の利用者の占める割合を推測してみよう︒まず︑ジョヴァンニ・ヴィッラーニ

︵一二七六頃〜一三四八︶の年代記によると︑一三四〇年三月末に彗星が東方に現れ︑それから飢饉とともに夏に

﹁疫病﹂が発生したという︒これによって﹁男も女も子どもも︑フィレンツェで遺体が一万五〇〇〇人以上も埋葬さ

れ︑町中に涙と嘆きが満ちあふれた

葬ッラ聖堂に埋さヴれた死者の数ェノ﹂時という︒この︑・サンタ・マリアは

七〇人に及び︑これは先立つ一〇年間の平均死亡者数﹁一〇・八人﹂より飛び抜けて多い︒機械的に計算すると︑こ

の時の聖堂での埋葬者の数は︑全市のうちの〇・四六パーセント︵上限︶となる︒これは︑当時のフィレンツェの全

人口を一二万人︵ハーリヒー︶とするならば︑埋葬先予備軍の集団は︑五六〇人︵上限︶となる︒この五六〇人とい

う人数が実際の数とすれば︑この埋葬予備軍は︑フィレンツェ全市から見るとかなり限定された少数の集団というこ

とになる︒

また︑同じくヴィッラーニによると︑一三四七年の飢饉によるフィレンツェ市内の死者は︑四〇〇〇人であった︒

この時のサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂での死者は︑他の死因によるはずの若干の死者も含めて二二名である︵富

裕層の多いこの聖堂の利用者で多く餓死者が出たと考えにくいのだが︶︒この時の全市の人口を九万六〇〇〇人︵ベ

ネディクトー

五合は︑上限︶〇・五パのーセントとなる︒こ割がで時とす市ならば︑このるの葬聖全者の埋ので堂 関七︵集料史係ア病死黒のリタイ︶

― 4 0 ―

(18)

の数値から︑この聖堂を埋葬先に考えている埋葬予備軍の集団は︑五二八人︵上限︶となる︒これもまたかなりは限

定された集団である︒

しかしながら︑次に見る一三四八年の夏の有名な黒死病の場合︑埋葬予備軍の数は全く見当がつかない︒というの

も︑当時のフィレンツェの総人口に関して︑有力と考えられる学説の上限が一二万人︑下限と考える九万二〇〇〇人

であるが︑その半数かそれ以上︵六〇パーセント程度︶の死者がこの黒死病によって出たのに︑サンタ・マリア・ノ

ヴェッラ聖堂の埋葬者はわずか七二人である︒この信じがたい少ない埋葬者の数は︑思うに︑この聖堂が一三四八年

において埋葬について︑普通の教会並の機能を果たしていなかったことを示している︒つまり︑黒死病のもたらした

大パニックのなかで埋葬の受け入れに対して特別の制限を加える措置を取らざるを得なかったのか︑あるいは我々に

知られていない特殊事情が作用したのか︑そのどちらかであろう︒これは推測を越える問題である︒実際︑托鉢修道

士もこのペストのさなかで大混乱に陥ったはずだ︒この聖堂に所属した修道士の死について記録した﹃死者名簿

帳﹄

職ェッラ聖堂にいた聖者ノ一三〇人のうち八〇人ヴ・によよると︑この黒死病にっアて︑このサンタ・マリの

修道士とその他の六人の聖職者がペスト死し︑それは六六パーセントの死亡率であった

︒││結局︑結論的にいう

と︑サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂を死後の埋葬先に考えていた埋葬予備軍がフィレンツェ全体においてどの程度

の割合を占めていたかは︑残念ながら︑この黒死病の年の不可解な埋葬者の数の問題を前にして︑判断不能となるの

である︒また︑ことによると︑この聖堂への埋葬予備軍の数が一定ではなく︑時代によって流動的であったというこ

と︑あるいは聖堂側の受け入れ基準が時期によって変動していたということもありうることだ︒このようなことか

ら︑例えば︑あるひとつのペストによるこの聖堂での死亡者数からそのペストによるフィレンツェ全市の死亡者数を

― 4 1 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

(19)

類推するなどといったこともむずかしいように思われる︒

この﹃死者台帳﹄は︑背表紙に﹁一二九〇年から﹂と書かれているように一二九〇年から記載が開始された︒しか

しその最初の記載に先立って︑各羊皮紙︵カルタ︶の一番上に︑一年間の日付が順に書き込まれた︒ラテン語で︑

﹁一月一日﹂﹁一月二日﹂︑﹁一月三日﹂・・・と書き込まれ︑一月から一二月まで順に続き︑最後に﹁一二月三一日﹂

で終わる︒この一年間の日付の書き込みは︑字体・筆跡がすべて同じであることから︑同じ一人の托鉢修道士の手に

よって最初におこなわれたと考えられる

第二節﹃死者台帳﹄の記載事項

サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のドミニコ会の托鉢修道士はこの﹃死者台帳﹄にどのようなことを記載したので

あろうか︒

この聖堂に埋葬されることを希望していた者が︑例えば︑四月一日に死亡した時︑托鉢修道士は︑まず台帳の﹁四

月一日﹂のところを広げる︒そして︑原則的には︑そこに﹁死亡年﹂︑﹁死亡者の氏名﹂︑﹁所属する教区﹂を記載し

た︒個人によってはそのほかに︑ここでの埋葬の仕方の特徴である﹁修道服を着て﹂埋葬がおこなわれた場合︑その

事実が書き加えられ︑その他︑聖堂への喜捨など︑補足的な記載事項や特記事項が付け加えられた︒

なおパソコンにはそうした項目をできるだけ細分化して入力した︵しかし付録﹁年代順死亡者リスト﹂では主要な

ものに限定している︶︒ イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

― 4 2 ―

(20)

パソコンへの入力内容

漓その死亡者の死亡年 滷死亡した月 澆死亡した日 潺死亡した季節︵夏か冬か︶ 潸性るす力入を●し断判とい高が能疫可の死病疫は者死の夏の年病︒ 澁れ効有に﹂究研の前名﹁はこ死︑﹂名の下﹁︵前名の者亡︶ 澀と住居に住んでいるこが同重要なので︒パソコンじは死嫁亡者の名字︵妻の場合ぎで先の家の名字││疫病で

この項目にソートをかけることで同一家族の死亡状況︑例えばペストによる死の連鎖を把握できる︶

潯性別 潛ど・寡婦・独身のれ︑であったかを入力妻り家女庭的立場︵これは性あの場合についてで︶ 濳さ力入をれそはに時るいてれ載職記が業職の夫︑合場の妻︵業︶ 潭所属した教区 澂容か否か︒喜捨の内︒あ死者の略伝その他るが備修考・特記事項︵﹁道ズ服を着て﹂のフレー︶

︵一︶﹁死亡年﹂

記載を担当したドミニコ会の托鉢修道士は︑﹃死者台帳﹄に最初に﹁死亡した年号﹂を書き込んだ︒台帳にはラテ

― 4 3 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

(21)

ン語で記入するのが原則であることから︑数字はローマ数字で書き込まれた︒例えば死亡した年が﹁一三六九年﹂な らば︑﹁

MCCCLXVIIII

﹂と書く︵つまり︑

M

﹇千﹈││

CCC

﹇三〇〇﹈││

LX

﹇六〇﹈││

VIIII

﹇九﹈︶︒しかしロ

ーマ数字は︑アラビア数字︵算用数字︶が瞬時に認識できるのに対して︑単純ながら足し算と引き算を伴うので︑誰

にとってもわかりにくいものである︒また書く場合も読む場合と同様︑足し算引き算を伴うので︑やや面倒なもので

ある︒実際︑この台帳にローマ数字で年号を書き込んだ托鉢修道士も時に勘違いをした︒台帳の﹁六月﹂の﹁一一

日﹂の欄︵テキスト1﹁﹃死者台帳﹄のレイアウト﹂参照︶の四人めでは︑﹁一三六九年﹂と記入すべきところを間違

えて︑﹁

MCCCXLVIIII

﹂︵﹁一三四九年﹂︶と書いてしまっている︒つまり﹁六〇﹂は﹁︽五〇︾プラス︽一〇︾﹂であ るから︑﹁L﹂の右側に﹁X﹂を添えて﹁

LX

﹂と書くべきであるが︑間違えて左側に添えて﹁

XL

﹂︵四〇︶としてし

まっているのである︒また︑台帳の﹁六月一三日﹂の欄でも年号の単純な書き間違いがある︒﹁一四〇八年﹂は

MCCCCVIII

﹂と書くべきであるが︑﹁

MCCCVIII

﹂とミスしている︒こうしたことからか︑﹁合理化﹂の傾向による

ものか︑一四世紀も後半になると︑フィレンツェ商人と同じく︑﹁1408年﹂というようにアラビア数字︵これは

見れば瞬時に認識できる︶で年号を書き込む托鉢修道士も出てくる︒﹁六月﹂の欄について見ると︑その月に記載さ

れた全死亡者二二九人︵石坂の確認︒カルツォラーイによると二三三人︶のうち︑八人についてはアラビア数字で書

かれている︵﹁1387年﹂︑﹁1402年﹂︑﹁1404年﹂など︶︵なお︑本史料集での日本語への翻訳では︑すべて

漢数字︵一︑二︑三︶で表わされている︒したがって︑修道士が台帳に年号を﹁ローマ数字﹂で書いたか︑それとも

﹁アラビア数字﹂で書いたかはそこには反映されていない︶︒ イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

― 4 4 ―

(22)

︵二︶﹁死亡者の氏名﹂

台帳のレイアウトを示すため

に︑カルツォラーイによる刊行

史料の一頁﹁六月一〇日﹂と

﹁六月一一日﹂︵一部省略︶を紹

介する︒テキスト1﹁﹃死者台

帳﹄のレイアウト﹂

からわか

るように︑カルタの一枚︵一

頁︶のレイアウトはやや特殊で

ある︒すなわち︑一枚の縦長の

羊皮紙を左右半分に仕切り︵縦

の実線は引かずに︶︑左半分の

欄が男性用︑右半分の欄が女性

用として記載された︒記載され

たすべての死者の総数一七七〇

人のうち男性が一〇二三人︑女

性が七四七人であることから︑

テキスト

1

『死者台帳』のレイアウト

― 4 5 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

(23)

記載の数の少ない右半分の女性欄については︑どうしても空白が目立ちがちである︒このように︑レイアウトとし

て︑左右に男女が分けて記載されたことから︑例えば︑ペストで夫婦が同じ日に死亡した場合に︑左の欄に夫︑右の

欄に妻が記載されて︑夫婦が共に死去したことが視覚的に示すことができる︒台帳の記載を担当した修道士はここで

も時々ミスをして男性の欄に女性を︑女性の欄に男性を書き込んでいる︵なお︑本史料集の翻訳では︑男女を左右に

分けた書き方も空白部分の設定もおこなわずに︑男女をそれぞれ詰めて記載している︶︒また︑時に修道士は︑最新

の死者の記録を末尾の余白に書かずに︵書けない場合もあったかもしれない︶︑年代をさかのぼってずっと上の過去

の余白の部分を利用し︑そこに強引に氏名等を挿入するように書き込んでいる︒

この時代のイタリアでは︑いうまでもなく︑正式な書類︑つまり契約書・遺言書・公文書などはふつうラテン語で

記された︒また︑同じことであるが︑法律家・聖職者・医師などの知識人によって作成された文書は︑公私いずれの

場合もふつうラテン語で書かれた︒こうしたことから︑托鉢修道士の書いた﹃死者台帳﹄︵公文書に準じるもの︶

も︑ラテン語で記された︒したがって当時︑日常使われていたイタリア語︵トスカーナ語︶の氏名も︑ここではわざ

わざラテン語読みの名前に直された︒したがって翻訳では逆に台帳のラテン語名を本来のイタリア語名に戻してい

る︒例えば︑﹃死者台帳﹄では︑ラテン語名﹁ヨハンネス﹂はイタリア語名﹁ジョヴァンニ﹂に直される︒ラテン語

名をイタリア語名に変換した例を挙げると││

ヨハンネス・グッチ︵

Joha nne s G huc ci

︶↓ジョヴァンニ・グッチ︵

Gi ova nnni Guc ci

アンドレアス・デ・オリケラリイス︵

An d reas d e Oricellariis

︶↓アンドレーア・ルチェッラーイ︵

Andr ea Ruc el la i

︶ イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

― 4 6 ―

(24)

ただ︑台帳に記入する修道士がイタリア語の人名をラテン語の人名に変換する仕方も一様ではなく︑担当する修道士

によって異なる場合があった︵例えば︑イタリア語の人名﹁ロッソ﹂は︑ラテン語において﹁ルベウス﹂と直す修道

士もいたが︑そのまま変えずに﹁ロッソ﹂とする︶︒

しかし︑ルネサンス以降の近世に認められる﹁合理化﹂と﹁世俗化﹂の傾向は﹃死者台帳﹄にもあらわれた︒すで

に以前︵一三世紀頃︶からフィレンツェの商人は︑会計簿への記入において︑伝統的な﹁ローマ数字﹂││このロー

マ数字には﹁0﹂︵ゼロ︶を表現できない決定的な欠陥がある││から決別して﹁アラビア数字﹂を使って﹁合理化﹂

の道を進んでいたが︑それとちょうど同じように︑﹁世俗化﹂の傾向として︑人名をラテン語式に書かずにイタリア

語の人名をそのまま書く修道士も多かった︒﹁六月﹂についてその割合を示すと︑この月の全二二九名の死亡者の記

載のうち︑七〇人︑およそ三割について︑修道士は氏名をイタリア語名のまま記載している

ラテン語で書くにせよ︑イタリア語で書くにせよ︑名前の記載の仕方は︑この時代の男性︵男系︶中心社会の法意

識・習慣にしたがっていた││これはどういうことであろうか︒次に具体的に示そう︒

わかりやすくするために日本人の名前を使って説明しよう︒男性については︑﹁長嶋一茂﹂の場合︑台帳にそのま

ま﹁長嶋一茂﹂とする場合もあったが︵この場合は︑素性が示されていないことから︑当時の人びとには格式は感じ

られなかったことであろう︶︑正式には﹁長嶋茂雄の一茂﹂あるいは﹁長嶋茂雄の息子一茂﹂と記載された︒現在の

日本では﹁本籍﹂﹁生年月日﹂﹁氏名﹂が役所で個人を特定するポイントであるが︑ここでは父親の名前を示すことが

重要であり︑遺言書・契約書などにおいてもそうであったが︑その男性個人を正式に特定する重要ポイントとされた

︵この場合︑アイデンティティーを示すのに母親の名前を記載することはなかった︶︒名字を書かずに︑単に﹁一茂﹂

― 4 7 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

(25)

とだけ記す例もあるが︑この場合︑名字をもたないことからかなり低い身分が暗示された︵実際には︑﹁一茂﹂だけ

では︑個人が特定されにくいことから︑﹁鍛冶屋一茂﹂というように︑その職業をしばしば添えたりした︒﹁六月二

日﹂の﹁一三四〇年﹂には﹁鍛冶屋キーノ﹂とある︶︒

具体的に史料の個別例として︑同じく﹁六月二日﹂の﹁一四〇二年﹂を見てみよう︒ラテン語をイタリア語に直し

て示すと││

ヤーコポ・ディ・フランチェスコ・ディ・ヴェントゥーラ

とある︒実は︑この名前のなかには二人の人物が存在している︒一人の人物をそれぞれ︽︾にくくって示すと││

︽ヤーコポ︾・ディ・︽フランチェスコ・ディ・ヴェントゥーラ︾

である︒この名前のなかの二つの﹁ディ﹂は所有を表す英語の

of

と同じ意味である︵台帳ではラテン語で

Jacobus Fran- cisci V ennture

と書かれている︶︒したがって︑﹁︽ヴェントゥーラのフランチェスコ︾の︽ヤーコポ︾﹂であり︑その

意味するところは︑﹁ヴェントゥーラ家のフランチェスコのヤーコポ﹂つまり﹁フランチェスコ・ヴェントゥーラの

息子ヤーコポ﹂である︒また︑実際に﹁息子﹂ということばを使う場合もあった︒例えば︑﹁六月三日﹂の﹁一三四

〇年﹂の欄では﹁ドナート・ウベルティの息子ジョヴァンニ﹂︵台帳ではラテン語で

Johannes filius D onati Uberti

︶と

書かれている︒

女性の場合はその名前はどのように記載されたのであろうか︒

女性の場合︑次に述べるように︑既婚・未婚によって異なる記載がなされたので︑都合がよいことに︑その女性の

﹁家庭的身分﹂︑すなわち﹁独身﹂であったのか︑﹁妻﹂であったのか︑﹁寡婦﹂であったのかが把握できるようになっ イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

― 4 8 ―

(26)

男性(592 人)

60%

妻(216 人)

22%

寡婦(75 人)

8%

独身(75 人)

8%

その他(17 人)

2%

ている︒この女性の三種類の身分の割合について︑﹃死者台帳﹄の扱う﹁全期間﹂について見てみよう︒

その前に︑まずことばの使い方について断っておきたい︒まず﹁全期間﹂とは︑台帳が扱う﹁一二九九年から最後

︵一四三六年︶までの期間﹂を指す︒また我々のデータ処理は﹁夏﹂と﹁冬﹂に絞っているので﹁全期間﹂といって

も﹁春﹂と﹁秋﹂は含まれない︒ここでいう﹁夏﹂は六月・七月・八月の三カ月間を指す︒同様に﹁冬﹂は一連の同

じ冬︑すなわち一二月に始まり︑翌月の一月とそれに続く二月までの三カ月間を指す︒実は︑この三カ月間はフィレ

ンツェ暦では同じ年号のままである︵フィレンツェでは三月二五日になって年号が変わる︶︒我々の現代の年号では

同じ冬が違った年号で二分割されてしまうのに対して︑フィレンツェ暦はむしろ好都合であり︑史料のフィレンツェ

暦を変えずにそのまま採用している︒フィレンツェ暦は︑四月から始まり︑三月

で終わる日本の学校・役所・会社の﹁年度﹂に近く違和感は少ない︒

こうして全期間の全女性の身分の内訳は七七頁のグラフ

13

﹁女性の死亡者の家

庭的身分︵全期間︶﹂で示される︒全女性三六六人のうち︑﹁妻﹂が︑五六パーセ

ント︵二一六人︶︑﹁寡婦﹂が二〇パーセント︵七五人︶︑﹁独身﹂も同じく二〇パ

ーセント︵七五人︶︑﹁その他﹂︵不明なもの︶が四パーセント︵一七人︶であ

る︒また︑﹁男性﹂││これについては︑台帳の記載からは妻帯者・独身者等の

区別はつかない││を含めたものが︑グラフ4﹁全期間の全死亡者の家庭的身

分﹂である︒

女性が結婚していなければ︵生涯独身の場合︶︑男性の場合と同様に︑ふつう

グラフ

4

全期間の全死亡者の家庭的身分

― 4 9 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

(27)

の場合︑父親の氏名を添えて﹁バルトロ・オルランディーノの娘モンナ・ジェンマ﹂︵﹃死者台帳﹄の﹁六月一三日﹂

の欄参照︶と書かれるか︑少し格式を欠くが︑そのまま﹁モンナ・ガーレ・ボスティーキ﹂︵﹁六月二日﹂︶とか﹁ピ

ヴァンナ・ネーラ﹂︵﹁六月三日﹂︶と記載された︒﹁モンナ﹂とは︑既婚・未婚を問わず使用される女性全般への敬称

である︒

一方︑結婚した女性の多くは︑台帳では︑夫の所有物であるかのように︑﹁誰々の妻︵または寡婦︶﹂と記載されて

いる︒ごくまれに﹁誰々の母﹂などと記載される場合があり︑この場合は﹁妻﹂なのか﹁寡婦﹂なのか﹁不明﹂とな

る︵これがグラフの﹁その他﹂の主要なものである︶︒妻が︑アイデンティティーとして生まれながらにもっている

出身の家の名前︵名字︶はふつう記載されていない︒例えば﹁六月五日﹂の女性欄を見ると││

一三三七年チェンノ・テリーニの妻モンナ・ジョヴァンナ

と記載されている︒この場合︑この女性の名字は﹁テリーニ﹂ではない︒女性は嫁に行っても婚家の名字を与えられ

ることは決してなかった︒結婚しても︑法的に見て︑今の日本でいう入籍︑すなわち戸籍の名義上の変更はなかっ

た︒結婚はあくまで一種の契約でしかなかったのである︵実際︑結婚には︑ふつうの場合︑契約として﹁嫁資﹂︵妻

が夫に預ける︶がからむこともあって公証人が仲介した︶︒

ついでに言えば︑結婚が姓の変更を伴う戸籍上の結び付き︵入籍︶ではなかったことから来る不利益は︑男性の側

にとっても同様であった││すなわち︑一家に男子が生まれない家の場合︑たとえ娘の夫が日本での婿養子のような イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

― 5 0 ―

(28)

かたちとして入っても︑その夫は法的に跡継ぎにはなれなかった︒つまり︑その娘の夫に娘の側の名字を与えること

はできなかった︒夫には生まれた時の父親の名字が終生排他的に付きまとうのである︒ヨーロッパの王家について起

こったように︑男子が生まれない場合など︑一家はその家系を断絶せざるを得なかったのである︒

女性が再婚者の場合はどうであろうか︒その場合︑﹃死者台帳﹄の女性の記載には︑前の夫と次の夫の両方の名前

が記載された︵しかしこの記載方法がどこまで徹底したものかはわからない︶︒例えば︑台帳の﹁六月二六日﹂の欄

にはこう記載されている││

一三八三年最初はバルトロ・パラディージの妻︑次にヤーコポ・ベッカヌージの妻であったビーチェ

女性が夫に先立たれて寡婦になった場合でも︑女性が若ければ︵この時代︑かなり年上の男性と結婚する場合が多か

った︶︑再婚は可能であった︒離婚しての再婚はふつう許されなかったが︑配偶者が死んでこの世にいない場合につ

いては︑再婚は許された︒夫が死んだ場合︑いわば契約が切れたとして︑︵たとえ幼い子どもがいても︶寡婦は︑婚

家から嫁資を取り返してから実家に帰ることもありえたが︑そうした場合でも︑名実ともに婚家と縁が切れたわけで

はなかった︒すなわち︑夫の名前を引きずる場合が多かったのである︒そうした女性は台帳では︑﹁故アンドレーア

・グィーディの妻モンナ・ヴァッジャ﹂︵

Domine V aggia uxor olim Andree Guidi

︶と記載された︒

女性や子どもなど︑この時代において社会的地位が低かった存在については︑台帳での記載の仕方にそれが反映さ

れた︒女性の場合︑その名前そのものが記載されないこともあった︒例えば︑﹁故ダンテ・ディエティサルヴィの妻﹂

― 5 1 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

(29)

非教区民 501 人

76%

教区民 154 人 24%

教区民以外の 非疫病死者

293 人 44%

教区民以外の 疫病死者

208 人 32%

教区民の非疫病死者 63 人 14%

教区民の疫病死 63 人 10%

︵﹇六月七日﹂︶のように︑単に﹁妻﹂と書かれるだけで名前が記載されてい

ない︒それが子どもであれば││フィリップ・アリエスを喜ばすことになる

かもしれないが││なおいっそうそのことが言えた︒次に一三六三年の二つ

の事例を示そう︒一方の事例︵A︶は︑一四世紀に到来した二度目のペスト

︵一三六三年︶によって一家のうち父親︵家長︶と娘二人の合わせて三人が

同じ日に同時に死んだ悲惨な例である︒ここでは幼い娘の名前は記載されて

いない︵﹁七月四日﹂の﹁一三六三年﹂︶︒また︑そのもう一方の事例︵B︶

すなわち﹁六月二〇日﹂の﹁一三四八年﹂の事例でも︑幼い息子の名前は示

されていない︒

︵A︶一三六三年ジョヴァンニ・グェルッチ・ダ・サン・ジェーリ並びに幼い娘一

人とその妹一人

︵B︶一三四八年バルトロ・リッチ殿並びに幼い息子一人二人とも

︵三︶﹁所属する教区﹂

﹃死者台帳﹄の記載を担当した修道士は︑﹁氏名﹂を記載してから︑次にそ

の故人の所属する﹁教区﹂を記載した︒しかしこの﹁教区﹂の記載は︑ペス

トの死者が続出した時には︑しばしば無視された︒一三四八年や一三六三年

グラフ

5

サンタ・マリア・

ノヴェッラ教区民 と非教区民の割合

(全期間)

グラフ

6

聖堂に埋葬された

S・M・ノヴェッラ

教区民と非教区民の疫病死と非疫病死 の割合(1330〜87)

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

― 5 2 ―

(30)

の夏は続出するペストの死者にせわしかったせいであろう││﹁年代順死亡者リスト﹂の九〇頁からわかるように︑

修道士はしばしば﹁教区﹂を記載していない︒それが大量死の忙しさを伝えるようでかえって生々しい気がする︒

この時代︑フィレンツェには﹁教区﹈︵﹁小教区﹂に同じ︶が六〇以上あったが︑サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂

に対しては︑これらの教区のほとんどの教区︵五一教区︶から埋葬の依頼があった︒通常の場合︑その死者の所属す

る教区の教会の墓地︵教会に隣接していた︶に埋葬されるはずであったが︑この聖堂に対しては︑例外的にさまざま

な教区から自分の所属する教区を越えて希望があったのである︒グラフ5﹁サンタ・マリア・ノヴェッラ教区民と非

教区民の割合︵全期間︶﹂は︑台帳の夏・冬の全期間について︑この聖堂に埋葬された人びとのなかのどの程度がサン

タ・マリア・ノヴェッラ教区民であったかを示したものである︒また︑グラフ6﹁聖堂に埋葬されたS・M・ノヴェ

ッラ教区民と非教区民の疫病死と非疫病死の割合︵一三三〇〜八七︶﹂は︑両者の人びとの疫病死と非疫病死の割合・

数を加えて作成したものである︒これを見ると︑疫病時も非疫病時も︑わざわざ越境してここでの埋葬を望んだ人び

とによって全埋葬者の四分の三が占められていることがわかる︒このことから︑この聖堂が通常の教区教会の墓地で

あったと言い切れないということができる︒ではどうしてわざわざそのような面倒なことが望まれたのであろうか︒

第三節サンタ・マリア・ノヴェッラの特別の地位

︵一︶特別の地位のゆえん

自己の教区を越えてまでこの聖堂での埋葬を望んだのは︑実はこの聖堂のもつ格式のためであった︒すなわちひと

― 5 3 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

(31)

つにサンタ・マリア・ノヴェッラは︑その格式の高さから︑厳密には︑﹁教会﹂︵

chiesa

︶ではなかった︒それは

﹁聖堂﹂︵

basilica

︶であった︒﹁教会﹂と﹁聖堂﹂は区別されなくてはならない︒ここでいう﹁聖堂﹂とは︑建築様式

のひとつ﹁バジリカ様式﹂を指すことばではなく︑格式をもった由緒ある特定の教会に与えられた教会法上の称号で

ある︒例えばミラノではサンタンブロージョ聖堂︵聖アンブロシウス聖堂︶︑パドヴァではサンタントーニオ︵聖ア

ントニウス聖堂︶︑ヴェローナではサン・ヴィターレ聖堂などがこれに相当する︒さらに︑このサンタ・マリア・ノ

ヴェッラ聖堂は︑その格式ある教会としての地位から︑ルネサンス教皇がフィレンツェに訪れた場合の宿泊所として

機能したし︑その修道院にはルネサンス教皇たち︵マルティネス五世︑エウゲニウス四世︑ピウス二世︑レオ一〇

世︶が祈

顰した﹁教皇の小礼拝堂﹂もある

ェツンレィフのかつくい︑はラッヴ︒ノ・アリマ・タンサにうよのこェ

の古い教会とともに﹁聖堂﹂として特別の権威を有していたのである︒

したがって︑奢侈禁止令を扱った前章︵第二〇章︶で触れたように︑何かと都市での権勢を誇示したがる有力な一

家にとって︑最高レベルの宗教的建造物であるサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂は︑最も重視された教会のひとつで

あった︒一家の栄誉の誇示のために彼らがここに目をつけない手はなかった︒こうしてこの聖堂は︑彼らの多くの埋

葬先として﹁永遠の生﹂の﹁すみか﹂に指定されたのである︒そればかりでなく︑その死への準備として︑この聖堂

に対して︑家族礼拝堂の建設︑宗教美術の作品の寄進︑日常的喜捨および遺言書による喜捨などがなれたのである︒

こうしたことから︑ルネサンス期のフィレンツェの第一級の名家であったストロッツィ家︑バルディ家︑ルチェッラ

ーイ家などが︑ここに家族の礼拝堂をもち︑この聖堂に当代一流の画家を採用して最高傑作の作品を寄進をしている

のである︒例えば︑ドゥッチョ︽荘厳の聖母︾︵現ウッフィッツィ美術館所蔵︶︑ジョット︽磔刑図︾︑オルカーニャ イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

― 5 4 ―

(32)

︽ストロッツィ祭壇画︾︑マザッチョ︽三位一体︾︑ブルネレッスキ

︽十字架像︾︑ウッチェッロ︽ノアの洪水︾︑フィリッピーノ・リッ

ピ︽聖ヨハネとピリポ伝︾︑ギルランダーイオ︽聖母マリア伝︾な

どがあり︑その他の大作の数々から︑この聖堂はさながら一大ルネ

サンス美術館である︒そしてその聖堂のファサード︵正面︶は︑銀

行家ジョヴァンニ・ルチェッラーイの寄進により︑レオン・バッテ

ィスタ・アルベルティが図案を考えて︑制作されたものである︵そ

れは︑ルネサンス的な調和の比例美を駆使したルネサンス建築史上

の最高傑作のひとつである︶︒事実︑それが証拠に︑ファサードの

一番上の三角形のティパヌムのすぐ下に﹁パオロ・ルチェッラーイ

の息子ジョヴァンニ﹁贖罪﹂﹁一四七〇年﹂﹂の文字が大きく刻まれ

ている︵図4︶︒

また︑この聖堂がドミニコ修道会の付属の教会であったことも大

商人や銀行家を強く引き付ける大きな要因︵ことによると最大の要

因︶として作用したと考えられる︒もともともイタリアにおいてド

ミニコ修道会は︑都市に進出して設立した付属教会の数や托鉢修道

士の数において︑フランチェスコ修道会に圧倒されていた︒フラン

4

「ジョヴァンニ・ルチェッラーイ」の名の刻まれたファサード

― 5 5 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

(33)

チェスコ修道会はイタリアのほとんどの都市に進出し︑階層的にも下位の市民層も含めて都市全体を掌握していた︒

フランチェスコ修道会は﹁モンテ・ディ・ピエタ﹂︵公益質屋︶などに力を入れて︵これは一五世紀のこと︶︑下層市

民を含む市民層全体をターゲットにすえていた︒ドミニコ修道会は︑この全体的な劣勢のなかにおいて︑決して中層

・下層の人びとを軽視したわけではないが︑﹁効率性﹂から都市の上層部にターゲットを向ける傾向がやや強かった

かもしれない︒ここにドミニコ修道会とメディチ家などの大都市の上層支配層との関わりがあった︒すなわち︑都市

に進出し︑強力な足場を得ようとしたドミニコ修道会の修道士は︑その富の獲得にやましさを感じていた大商人に対

して︑告解聴聞師として︑救済の道を指し示すことにおいて︑寛大に対応したのである︒ドミニコ修道会は︑大商人

の利潤の﹁不正な﹂獲得に対して︑金品の喜捨による﹁贖罪﹂︵喜捨行為︶をもって代償させることでその罪を赦し

たのである︒ここに︑都市で力を得ようとするドミニコ修道会の立場と︑商業・金融活動にやましさを感じていた大

商人の立場とが︑相互に結びつく利害の一致が存在していたのである︒この富の贖罪のパターンについては︑基本的

にフランチェスコ修道会が示した富裕層への対処と同じであったかもしれないが︑効率性の考慮からドミニコ修道会

の力点が大都市の富裕層に向けられる傾向は強かったように思われる︒

ただ断っておくならば︑ドミニコ会からトマス・アクィナスを始め︑多くの学識高い修道士たちが輩出されてお

り︑彼らの抱いていた様々な考え方を単純化・一般化して理解するのは危険である︒例えば︑フィエーゾレのドミニ

コ会修道院長ジョヴァンニ・ドミニチ︵一三五七〜一四一九︶やフィレンツェのサン・マルコ修道院長ジローラモ・

サヴォナローラ︵一四五二〜一四九八︶のように︑その妥協なき厳しい教えが︑むしろ人びとを引き付けて強い影響

力を及ぼした場合があるからである︒同じことは︑サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のドミニコ会修道院長ジョヴァ イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

― 5 6 ―

(34)

ンニ・カローリ︵一四二九〜一五〇三︶についてもいえる︒次章で取り上げるが︑カローリは疫病︵彼は具体的に

﹁一三四八年﹂・﹁一三六三年﹂・﹁一三七四年﹂・﹁一四〇〇年﹂の疫病による精神的影響を論じている︶によってもた

らさたフィレンツェ人のモラルの荒廃に対して︑そして特にメディチ家独裁による私利私欲の風潮に対して︑鋭い批

判の矢を放っているのである

都市の有力者に対して托鉢修道士が︑全般的に寛大であったことの例がひとつある︒それは特殊なタイプの死者の

埋葬についてのものである︒それは︑埋葬の歴史を大きく変えてしまうほど大胆なものであった︒すなわち︑従来の

教区教会や都市政府は︑反逆罪などによって処刑された者││彼らの多くは都市の政争で敗北した有力者であった

││に対しては︑教会への埋葬は拒否していたのであるが︑托鉢修道会は教皇の支持をとりつけて︑時の世俗権力に

対抗して﹁謀反人﹂・政治犯の埋葬を受け入れたのである

発のェツンレィフたし生が︒どな乱のピンョチ︑際実一

四世紀という政治的激変の時代において︑政治犯として死刑に処され者たちが多数いたが︑このサンタ・マリア・ノ

ヴェッラ聖堂の﹃死者台帳﹄にもそうした人たちの埋葬が時々見受けられる︒本章で翻訳して紹介する四カ月分につ

いて見ると︑﹁一二月二二日﹂の三名の処刑︑﹁一月一四日﹂の七名の処刑︑﹁一月七日﹂の一名の処刑︑﹁六月一日﹂

の三名の処刑などがその例である︒

以上のいくつかの理由から︑サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂に埋葬された者は︑傾向として都市全域に及ぶ富裕

層の市民が多かった︒高額の埋葬料等の実証的な記録は入手していないが︑修道士はこの台帳に埋葬者の九・六パー

セントについてその職業︵妻の場合︑夫の職業︶を記している︵表1﹁埋葬者の所属組合・職業﹂︶︒その職業に就い

ている者が所属するはずの組合を見ると︑グラフ7﹁聖堂の埋葬者の所属組合︵全期間︶││職業の記載のある九六

― 5 7 ―

イタリアの黒死病関係史料集︵七︶

表 1 埋葬者の所属組合・職業 ──職業の記載のある埋葬者 94 人── !七大組合(49 人) !医師(2 人)1339. 8. 30 ; 1340. 6. 8. !理髪業者(1 人)1491
図 5 床面墓 これは、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のものではなく、サン・ミニアートの サン・サルヴァトーレ教会のもの。この床下に遺体が埋葬されている。「床面墓」 は石坂の造語。 図 6 アーチ付き石棺 中央の門扉の左右にいくつかあるのが、14 世紀に制作された「アーチ付き石棺」 (アルケ・トンバリ)。その下方に貴族の家などの紋章が三つずつ刻まれている。 門扉の上のルネッタ(半月画)にはドミニコ会が誇るトマス・アクィナスが描か れている。 イタリアの黒死病関係史料集︵七︶ ― 6 0 ―
図 8 サン・ミニアートの共同墓地 功績のあった人の墓。右手遠方にアルノ川とフィレンツェ旧市街が展望される。図7旧墓地ファサードの右側の入口から入ったところ。遺骸は撤去されて今はない。 ― 6 1 ―イタリアの黒死病関係史料集︵七︶
表 2 「サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂に埋葬された名家(教区別)」 (Calzolai, 188−190. ) *〈付録〉「年代順死亡者リスト」ではスペースの関係から教区名は省略して記 載した。[ ]のなかにそこでの省略名を記している。 サンタンドレーア・イン・メルカート・ヴェッキオ教区[サンタンドレーア] ディエティサールヴィ家、 アミエーリ家、アルディンギ家 サンティ・アポーストリ注教区[アポーストリ] アッチャイウオーリ家、ブオンデルモンティ家、ベルノ ッキ家 サン・バルトロメーオ・アル・コルソ教区
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