過失の競合に関する一考察
著者 楠田 泰大
雑誌名 同志社法學
巻 66
号 3
ページ 699‑764
発行年 2014‑09‑30
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014665
( )過失の競合に関する一考察同志社法学 六六巻三号一二三六九九
過 失 の 競 合 に 関 す る 一 考 察
楠 田 泰 大
Ⅰ 問題の所在Ⅱ 過失の競合における諸問題︱︱正犯概念・実行行為・因果関係︱︱ ⑴ 過失犯における正犯概念 ⑵ 過失の競合と実行行為 ⑶ 因果関係Ⅲ 過失の競合の限定 ⑴ 危険性による限定 ⑵ 最終惹起者を原則的に正犯とする見解 ⑶ 一定の場合に正犯から共犯に格下げする見解 ⑷ 各人の危険分担の在り方から、行為者の答責領域を切り分ける見解 ⑸ 刑罰論からの限定
( )同志社法学 六六巻三号一二四過失の競合に関する一考察七〇〇
Ⅳ 考察 ⑴ 視座 ⑵ 限縮的正犯概念か、統一的正犯概念か ⑶ 過失構造論について ⑷ 正犯性と実行行為 ⑸ 正犯性の要件 ⑹ 事案の類型化Ⅴ おわりに
Ⅰ 問 題 の 所 在
近時、過失の競合が注目を集めているといってもよいであろう。たとえば、患者の同一性を確認する義務を怠ったとして、看護師二名、麻酔科医二名、執刀医二名の計六名が業務上過失致傷罪とされたいわゆる横浜市大病院患者取違え事件 )1(や、明石の朝霧歩道橋で群衆なだれが生じ、二〇〇名近くの死傷者を出し、当該夏祭りの明石市職員三名、警備会社の統括責任者一名、明石警察署地域官一名の五名が業務上過失致死傷罪で有罪とされたいわゆる明石歩道橋事件 )2
(を例として挙げることができるであろう )3
(。これらの一連の判例を受けて日本刑法学会第九〇回大会(於大阪大学)の共同研究に﹁過失の競合﹂が取り上げられるなど )4
(、学会でも耳目を集めている問題といってもいい。
ここで過失の競合とは、﹁一つの構成要件的結果の発生について複数の過失が競合していることをいい、①単独の行為者による複数の過失が競合的に併存している場合、②複数の行為者の過失が競合的に併存している場合の二種類があ
( )過失の競合に関する一考察同志社法学 六六巻三号一二五七〇一 る﹂ )5
(。本稿で扱うのは二つ目の意味における過失の競合である。それは、広義では過失の同時正犯と共同正犯いずれをも含むが、狭義では複数の者がそれぞれ過失の単独正犯の構成要件を充足し、過失の単独正犯の同時犯として競合している場合を指す )6
(。本稿では、狭義の過失の競合を検討課題とするが、ただし、過失の競合とは単なる現象形態を示す言葉であって、﹁過失の競合論﹂といった特別な理論が存在するわけではない )7
(。すなわち、過失の競合は本来、各人の過失犯の成否を検討すればいいだけなのである )8
(。だとすれば、過失の競合にはいかなる問題点が含まれているのだろうか。
従来から過失犯の領域では、判例において複数の行為者をそれぞれ単独正犯として処罰されてきており、学説においても過失犯の複数の正犯ということそれ自身は問題視されてこなかった。しかし、その処罰範囲が広範なものとなりすぎてはいないかと危惧されているところである )9
(。一方、故意犯ではこのような複数の単独正犯は、絶無とはいわないまでも、あまり認められてこなかったように思われる。大阪南港事件 )₁₀
(では、結果を第一行為者と第二行為者のいずれの者に帰属するべきなのかということが論じられた。そこには単なる因果関係の有無を超えて、複数の正犯を認めてもよいのかという問題意識が少なからず含まれていたのではないだろうか )₁₁
(。
故意犯と過失犯でこのような差が生ずるのは、いかなる理由に基づくのか、その理由に問題はないのであろうか。その理由を正犯概念や実行行為、因果関係を通じて検討した後、過失が競合する事案の適切な処罰範囲を導くためには、どのようなアプローチが適切かを、探っていきたい。
( )同志社法学 六六巻三号一二六過失の競合に関する一考察七〇二
Ⅱ 過 失 の 競 合 に お け る 諸 問 題 ︱
︱正 犯 概 念 ・ 実 行 行 為 ・ 因 果 関 係 ︱
︱⑴ 過 失 犯 に お け る 正 犯 概 念
1 正 犯 概 念
我が国の現行刑法は、六〇条に共同正犯、六一条・六二条に教唆犯と幇助犯を規定しており、正犯と共犯の区別を行っている。本稿においては共同正犯については検討対象外であるため、本稿で共犯というときには原則として狭義の共犯を指す。それでは、正犯と狭義の共犯は、いかなる関係に立つのだろうか。これが、正犯概念についての争いである )₁₂
(。具体的には、限縮的正犯概念と拡張的正犯概念という形で現れる。
限縮的正犯概念とは、自身で構成要件を充足したものだけが正犯とされるとするものである )₁₃
(。限縮的正犯概念からは、自身で構成要件を実現しない狭義の共犯は処罰の拡張事由ということになる )₁₄
(。一方の拡張的正犯概念は、構成要件の実現に対して因果的に寄与したものを全て正犯とする )₁₅
(。この見解からは、教唆と幇助も本来的には正犯であることになり、狭義の共犯は、六一条と六二条のために特別に処罰範囲を狭め、刑を軽くされているということになり、刑罰の縮小事由である )₁₆
(。
拡張的正犯概念は、故意ある道具を利用した間接正犯を容易に説明できるという利点を有する )₁₇
(が、第一次的な責任を負う正犯を、共犯でないから正犯であるという形で、正犯の成立範囲を共犯によって画するということになるのは妥当でないとして、現在では支持を失っている )₁₈
(。したがって、現在では故意犯の領域で拡張的正犯概念を支持する論者はいないといっていいであろう。
しかし、過失犯においては様相を異にする。日本においては少数説に留まっている )₁₉
(ものの、ドイツでは過失犯には拡
( )過失の競合に関する一考察同志社法学 六六巻三号一二七七〇三 張的ないしは統一的正犯概念が妥当するとする見解が通説である )₂₀
(。ここでいう統一的正犯概念とは一般的に、構成要件の実現に帰属可能な手段で原因を設定した、全ての者を正犯とするものであるとされる )₂₁
(。なお、本稿では拡張的正犯概念と統一的正犯概念を特別に使い分けて論じない。確かに、その基本思想が刑法における諸概念の規範化にある拡張的正犯概念と、因果論に立脚する主観的共犯論を基礎とする統一的正犯概念とは異なる理論であるとされる )₂₂
(。しかし、統一的正犯概念は法益侵害を基準として正犯という評価が行われるという点で拡張的正犯概念と一致し、拡張的正犯概念は共犯の可罰性は共犯自身に存するという点で統一的正犯概念と同様の基盤に立つのである )₂₃
(。本稿にとって重要なのは、このような理論的な基礎や基盤ではなく、過失犯の領域においては正犯と不可罰の共犯を区別しているかどうかだからである。したがって、このような理解からは、狭義の共犯の規定が適用されない拡張的正犯概念と統一的正犯概念は同じということになる。なお、拡張的正犯概念によって、過失犯においても共犯規定の適用があると考えると、拡張的正犯概念と統一的正犯概念は実質的にも異なるものとなる。しかし、そのような組み合わせは我が国では見受けられず、ドイツにおいては法文上不可能であるから、過失犯の領域では統一的正犯概念と拡張的正犯概念を特に区別せずに論じても問題ないであろう。では、なぜ過失犯の領域においては統一的正犯概念が有力に主張されるようになったのかを、次節で簡潔に振り返ってみたい。
2 過 失 犯 に お け る 統 一 的 正 犯 概 念 の 受 容 に い た る 沿 革
ドイツにおいて拡張的正犯概念が主張された実際的な意味は、故意ある道具を利用した間接正犯を認めることだけでなく、故意正犯背後の過失正犯を認めることにあった )₂₄
(。そのきっかけの一つとなったのが、一九二七年のライヒ裁判所の倉庫火災事件である )₂₅
(。この判決は、火災が故意の殺人目的での放火によるものである可能性があったにもかかわらず、
( )同志社法学 六六巻三号一二八過失の競合に関する一考察七〇四
工場の屋根裏部屋に被害者家族を住まわせていた工場主の過失致死罪の成否が問題になった事案である。このような事案に対してライヒ裁判所は被告人の過失致死罪を肯定した。その際弁護側は上告趣意において因果関係の中断を主張していたが、被告人の設定した原因が違法な結果に対して寄与していることを根拠に、第三者が故意の放火でさらに殺人の故意があったとしても因果関係は中断されないとして、弁護側の主張を退けた。
安達教授によると、このような判決は以下のような影響を与えたという。故意犯と過失犯は責任の要素としてのみ区別されるのであり、客観面は同一であるという自然主義の犯罪体系と矛盾するものであった。すなわち、客観的な共犯行為は故意・過失関係なく共犯となるはずであるにもかかわらず、この判決は故意であれば共犯であるものが過失犯では正犯とされたが、このような矛盾を抱えつつも、この故意正犯背後の過失正犯という具体的な結論自体はある程度、通説的にも妥当であるとされた。このような流れの中で過失犯において拡張的正犯概念が主張されていくのであるが、﹁故意正犯に過失で関与する者は、過失正犯である﹂という結論を維持するには、故意犯と過失犯では正犯概念が異ならなければならなかった。しかし、これは自然主義の前提である故意と過失の客観面の同一性と相反するものだったのである。そして、この自然主義に代わるものとして登場したが目的的行為論であった )₂₆
(。
W elz el
によれば、過失の正犯は、必要とされる注意の程度に反した行為によって非故意に構成要件的結果を引き起こした全ての者である )₂₇(。一方の故意犯が、因果的事象の目的を意識した操縦によって、構成要件的結果に向けて構成要件を支配した者だけが正犯であるとされる )₂₈
(のとは明白に異なる。この両者の差異を
W elz el
は共犯論から説明する。共犯行為はいつも故意の(目的的)行為にのみ関係するのであり、それに対して全ての過失の関与は正犯として現れる。この相違は立法の所産ではなく、過失の行為は客観的にもっぱら単なる惹起構成要件であり、客観的に全てが同等なのであるから、過失の正犯は過失の惹起となんら異ならないことに基づく。他方の故意行為は、客観的な事象が自己の目( )過失の競合に関する一考察同志社法学 六六巻三号一二九七〇五 的設定として直接的に、あるいは他人の目的設定を介してただ間接的に属する目的活動的な意思から、その客観的な形を得るという目的的な構造である )₂₉
(。そして、刑法の対象は社会的な事象としての行為であるから、意味の表出としての行為と、単なる回避可能な惹起としての行為の間の違いは法的にも重要な意味を有し、このことが目的的行為と回避可能な惹起を客観的な構造において同等に取り扱うことを禁じるのは明らかである )₃₀
(。
ただし、
W elz el
もなんら無限定に過失犯の処罰を肯定するわけではない。﹁その惹起の大きさや程度は重要ではな﹂く、﹁もっとも劣った共同惹起も︱︱社会的相当性の程度を超える限り︱︱その正犯にとって十分である﹂ )₃₁(とあるように、少なくとも過失正犯を社会的相当性という範囲内で限定はしているのである )₃₂
(。
3 過 失 の 競 合 と 正 犯 概 念 の 関 係
上述のように過失犯において統一正犯概念が主張されてきたのは、まさに過失正犯の成立範囲が故意正犯よりも広いということを示すためであった。とはいえ、注意を要するのはドイツにおいてもこれらの争点の中心は﹁故意犯背後の過失正犯﹂を認めるかということであり、﹁過失正犯背後の過失正犯﹂についてのものではないことである。事実、ドイツにおいて過失犯における統一的正犯概念ないし拡張的正犯概念を動揺させたのは、警察官が計器盤の上に置き忘れたピストルで連れの女性が自殺した事案に対して、故意の自殺への共犯が不可罰であることを理由に過失致死罪の成立を否定したBGHの判決 )₃₃
(であったと指摘されている )₃₄
(。また、故意正犯の背後に過失正犯を認める判例を厳しく批判した
E xn er
も )₃₅(過失正犯背後の過失正犯は認めていた )₃₆
(。
他方で、過失犯に統一的正犯概念を妥当させる論者も、結果の原因となった過失を常に過失正犯として処罰すべきであるとしているわけではない。たとえば、過失犯においては通説同様に統一的正犯概念を妥当させる
R ox in
)₃₇(も、過失
( )同志社法学 六六巻三号一三〇過失の競合に関する一考察七〇六
の競合のような事案で一定の限定を図ろうとしている。その一つに、構成要件の保護範囲として扱われている他人の答責領域の問題がある。この点に関して、
R ox in
は、トラックの後部が無灯火であったため警察に停められ、警察の指示によってAはガソリンスタンドに向かうこととなったが、Aが発車する前に、警察官が安全のためにトラックの後ろに置いてあった赤色電灯を取り去ってしまったために、無灯火のトラックに別のトラックが衝突した事例 )₃₈(をあげる。
R ox in
は無灯火のトラックの運転手に対して過失致死を認めた判決は不当であるとする。なぜなら、警察が一度交通の安全を引き受けた以上、それに続く出来事は警察の答責領域に属するので、構成要件の保護目的はトラックの運転手には及ばないからである )₃₉(。
また
P up pe
は、行為者の行為後に過失行為が介在して結果が発生する事例に対して、許されない危険の現実化という観点で一定の限定を加えている。彼女によると注意義務違反との因果関係が危険の現実化の第一の要素であり、その上彼女はさらに、一貫性の要件(D ur ch gä ng ig ke its er fo rd er nis
)を要求する。これは、注意義務違反が許されない状況の鎖を通して結果まで因果的に繋がっているときに帰属を肯定し、結果発生に至るまでの経過に許された状況が介在した場合には帰属を否定するというものである。とはいえ、交通事故後に医療ミスが介在して被害者が死亡したような事例に対しても、そもそも事故がなければ危険な手術が行われることなはなかった、すなわち第一行為者の行為が被害者を後の危険にさらす基礎となっていることを根拠に、一貫性の要件を肯定する )₄₀(。そのため、
P up pe
の見解が本稿で対象としているような過失の競合事例において、どの程度の意義があるのかは疑わしいと言わざるをえない。しかしながら、少なくともこのように過失犯において統一的正犯概念を妥当させる見解も、過失の競合の事案において無制限にその処罰を肯定しているわけではないのである。我が国においてはどうであろうか。日本でも過失の競合事案において﹁過失犯には故意犯と違って統一的正犯概念が
( )過失の競合に関する一考察同志社法学 六六巻三号一三一七〇七 妥当するから、過失犯の複数の単独正犯は故意犯よりも広く当然に認められる﹂という説明は、一つの答えであろう。実際、井田教授は﹁過失犯については、結果に近い者の正犯行為が先行者の行為の実行行為性を(原則的に)排除するものではなく、同一の結果との関係で複数人の実行行為が重畳的に成立することが認められる。これも、過失犯については拡張的正犯概念が妥当することの表れである﹂ )₄₁
(と指摘している。統一的正犯概念ないしは拡張的正犯概念からは、過失の競合事例において複数の単独正犯を広く肯定するのは当然であるとして、ここで重要となるのは統一的正犯概念ないし拡張的正犯概念でなければ説明がつかないのであろうかということである。
この点、島田博士は、過失犯の領域において、故意であれば共犯となって刑の減軽がなされるものが減軽されない正犯となるのは不当であり、自殺への過失の関与を共犯であるとして不可罰とするべきであるから、過失犯においても限縮的正犯概念が妥当するとする )₄₂
(。
第三者の行為が介在した場合において背後者に正犯として結果の帰責が禁じられるのは、島田博士によれば行為者が自律的に行為した場合に限られる )₄₃
(。この自律的な行為は故意の場合に限られるのであるから、過失行為の介在の場合 )₄₄
(には背後者の正犯性は否定されないことになる。このような立場に立った場合、過失の競合事例において過失正犯が成立するか否かは、介在する過失行為の予見可能性が重要になる )₄₅
(。島田博士はこの予見可能性を信頼の原則が働かない場合を類型化することによって限定する )₄₆
(。ここで注目すべきは、限縮的正犯概念に立脚しつつも、背後者の正犯性に与える影響が故意犯と過失犯では異なっているということである )₄₇
(。
また、過失の共犯の可罰性を否定する前田教授 )₄₈
(は、過失の共同正犯は観念しうるとしながらも、過失の共同正犯の事案は過失同時犯に解消しうるとする。すなわち、﹁過失の共同正犯を基礎づける共同の注意義務、すなわち、﹃相手の行為からも結果が生じないようにする注意義務﹄を具体的に認定しなければならないのだとすると、﹃共同義務の共同違反﹄
( )同志社法学 六六巻三号一三二過失の競合に関する一考察七〇八
が認められるとされる事案は、ほぼ、各関与者自身の監督義務・監視義務違反により過失責任を問いうる場合に解消され﹂、﹁過失の共同正犯を基礎づける﹃共同注意義務﹄と、個人について考えられる﹃客観的注意義務﹄とはさほど異なるものではない﹂のである )₄₉
(。他方で、過失犯においては拡張的正犯概念が妥当するとする井田教授も過失の共同正犯は過失の同時犯に解消すべきであると主張する。そして井田教授は、﹁共同者の各自が自分の行為について注意を払うだけでは足らず、それぞれ他の者の行為についても気を配り、他の者の担当部分についても安全を確かめる法的義務が存在し、共同行為者がその義務に違反したとみられる事態があるとき﹂には、過失の単独正犯を肯定する )₅₀
(。このように過失犯に限縮的正犯概念を妥当させる見解内でも過失犯の成立範囲に関しては相当の差があり、また拡張的正犯概念を前提とする立場とそれほど差がない場合もある。
内海教授は、ドイツにおいても注意義務違反を要求する新過失論が通説となった現在では、過失犯に拡張的正犯概念が妥当するという意味を、﹁拡張的正犯概念とは、かつては行為と結果との間に条件関係があれば正犯性を認めることを意味するものであったのが、過失実行行為と結果との間に相当因果関係、ないし帰責連関が認められるときには、これをすべて正犯とし、これ以上正犯性の要件を要求せず、正犯・共犯といった刑事責任の段階づけは不要であるとする﹂ )₅₁
(というように解している。このように解した場合、まさに日本において過失犯に限縮的正犯概念を妥当させる見解とほぼ差はないといってよいのではないだろうか。
ここで明らかにしたいのは、統一的正犯概念・限縮的正犯概念のいずれの正犯概念に依拠したとしても、画一的に正犯の成立範囲が導き出されるわけではないということである。これは、限縮的正犯概念と拡張的正犯概念の対立は、狭義の共犯が本来的には正犯であるかどうかの点にある )₅₂
(からである。事実、ドイツでは故意犯において限縮的正犯概念に立脚しつつも、正犯性の要件を目的的行為による行為支配とすることで、物理的な自手実行を要求していない )₅₃
(。つまり、
( )過失の競合に関する一考察同志社法学 六六巻三号一三三七〇九 正犯概念自体は﹁正犯とはなにか﹂について示すものではないのである。したがって、限縮的正犯概念と統一的正犯概念を比較した場合に、一概に正犯の範囲について統一的正犯概念は広く、限縮的正犯概念は狭いとはいえないのである )₅₄
(。それどころか、限縮的正犯概念に立脚しつつも、統一的正犯概念とほぼ同等な正犯の成立を認めるという解釈も成り立たないわけではないであろう )₅₅
(。したがって、過失が競合する事例において、通説的な判断形式、つまり正犯の成立をもっぱら注意義務違反行為(実行行為)と結果との因果関係によって判断する考え方を、拡張的正犯概念ないし統一的正犯概念であると主張するのは早計である。
以上みてきたように、日本の通説が過失犯に広い範囲で複数の正犯を認めているのは、ただちに正犯概念を理由とするものではないことが明らかとなった。正犯概念が、正犯とはなにかについて述べるものでない以上、次に検討を要するのが実行行為であろう。なぜなら、通説によれば、正犯とは実行行為を行う者 )₅₆
(だからであり、行為者が正犯となるかどうかは、実行行為の解釈いかんということになるからである。そうだとすれば、過失犯の実行行為性が正犯の成立範囲と関係してくることは想像に難くないであろう。
⑵ 過 失 の 競 合 と 実 行 行 為
前述したとおり、通説によれば正犯とは実行行為を行った者である。そうすると、過失の競合事案において、広い範囲で単独正犯として処罰されていることと過失犯の実行行為性については関連があるといいうるであろう。この点、過失犯の実行行為は定型性がゆるやかであるとよくいわれる。そこでそのことと過失犯が広い範囲で肯定されている現状との間にはどのような関係があるのかを以下では検討していく。( )同志社法学 六六巻三号一三四過失の競合に関する一考察七一〇
1 過 失 犯 の 実 行 行 為 = 低 い 危 険 性 ?
過失の競合事案において、広い範囲で単独正犯が認められる理由の一つとしてまず考えられるのが、過失犯に要求される実行行為の危険性が故意犯で要求されるものに比べて低い程度で構わないというものである。
この点、前田教授によれば、過失の実行行為は、故意でいう実行行為に比してより軽度な危険を含み、その理由は﹁殺す﹂行為と﹁過って殺す﹂行為は客観的に異なりうることに求められる )₅₇
(。ここでは過失犯の実行行為は、同一の法益を侵害する故意犯の実行行為に比べて低い程度の危険性でよいとされている )₅₈
(。このような考え方は過失犯の定型性のゆるやかさを、要求される危険性の低さとして捉えている見解といえよう。その意味で実行行為性がゆるやかに認められるために、過失の正犯行為が複数競合しうるということになるのである )₅₉
(。そして、前田教授は殺人罪と過失致死罪で危険性が異なることの具体例として、Aを殺そうと毒入りウィスキーを戸棚に入れて準備しておいたところ、その意に反してAが自分でそのウィスキーを発見し、それを飲んで死亡した場合、殺人の実行行為を開始したとはいえないが、過失致死の実行行為はあったとする )₆₀
(。
このような見解に対しては批判がなされている。前田教授の見解に従うと、この﹁(わざと)殺す﹂と﹁過って殺す﹂との相違は﹁わざと﹂と﹁過って﹂の部分にあり、これは主観的構成要件要素の故意・過失に対応し、﹁殺す﹂という客観的構成要件要素は同じといえる。このような違いを根拠づけるためには、殺人罪(一九九条)と過失致死罪(二一〇条)の文言の相違に求めるほかないであろうが、﹁殺す﹂行為と﹁死亡させる﹂行為が異なるものを想定しているとは思われない。なぜなら、そのように解した場合には﹁わざと死亡させる﹂行為は、﹁殺す﹂行為とは等価でなく殺人でないことになるが、それは不当であるとされる )₆₁
(。
しかし、学説においては、過失犯に要求されている実行行為性を故意犯のそれよりもゆるやかに解していると思われ
( )過失の競合に関する一考察同志社法学 六六巻三号一三五七一一 る場面が見受けられる。その一つが原因において自由な行為(
ac tio lib er a i n ca us a
)である。原因において自由な行為を巡っては、大別して、実行行為時に責任が欠ける以上は常に不可罰とする否定説と、実行行為と責任の同時存在の原則を維持して原因行為時に実行行為性を認める構成要件モデル、一定の要件の下で同時存在の原則の例外を認める例外モデルに分かれている )₆₂(。このように侃々諤々議論されている原因において自由な行為であるが、このような議論はもっぱら故意犯を念頭において議論されてきたと指摘されている )₆₃
(。事実、過失犯の領域では原因において自由な行為の理論は不要であるとされることがある )₆₄
(。杉本教授によると、我が国の通説は以下のようなものであるという。
るで失過、り限るきが果とこのす解と為行結犯実な犯﹂るなと能可おがのとこるめ認を立成行 ₆₅) こ。るあが地余るめ認と反務違義意注ういに犯失過、をそたでた責失過を体自れ為行因原それえ任さ能力を備段階でな たも行し定設をに意注不因(為の飲酒行為や薬物摂取行為)方な原うよし責任は問えい。しかな、神喪失状態に陥る心 をする行為合行った場起接害惹直を果結傷死致の者こ、ののにに者為行、り限るす目着点直時で為行起惹果結な的接被 ﹁下意者為行す示を反違務義注態、はと為行行実の犯失の度態力状のそ、し招自を態状能で無任責が者為行。るあ過
(。このような学説の状況が生じたのは、﹁従来から﹃原因において自由な行為﹄の問題が主に﹃実行行為論﹄として議論されており、それゆえ、原則として過失犯にあっては実行行為・実行の着手に注意が払われず、可罰性に問題のないものと考えられてきたこと、さらには不注意と結果との間に因果関係が存在すれば過失処罰は基礎づけられるとする旧過失論が通説たる地位をしめ、過度の飲酒という不注意と結果との間に因果関係があれば処罰できると一般に考えられてきたこと﹂ )₆₆
(にあると指摘されている。
この点につき団藤博士は、実行行為と実行の着手時期を同視した上で )₆₇
(、過失犯の構成要件の定型性のゆるやかさを根拠に、原因行為に実行行為性を肯定することは可能であるとする )₆₈
(。したがって、たとえば酒を飲めば暴れて人を傷つけ
( )同志社法学 六六巻三号一三六過失の競合に関する一考察七一二
てしまう酒癖を有する者がそれを利用して酩酊状態に陥って人を傷つけた場合には、酒を飲む行為(原因行為)に故意犯の実行行為性を認めることはできないが、うっかり酒を飲んでしまった場合には過失犯の実行行為を肯定できることになろう。実行行為=実行の着手と解する立場からすると、まさに原因行為においては実行の着手が通常認められないことが、原因において自由な行為の問題点であったはずである。そうであれば、本来は過失犯においても同様の問題が生じなければならない。すなわち、原因行為時に過失犯の未遂を肯定しうるかということが問われなければならないのである。一つの回答としては過失犯の未遂はそもそも概念的にも認められないというものかもしれない )₆₉
(。しかし、過失犯においても実行行為概念を肯定できる以上は、やはり過失犯の未遂の存在も肯定すべきであろう )₇₀
(。原因行為時においては故意犯でいう未遂の危険性は認められないといわざるをえないとすれば、原因行為を過失の実行行為として捉えるためには過失犯の実行行為は故意犯のそれよりも程度の低い危険性で足りるとするか、実行の着手と実行行為を切り離す立場に立脚しなければならない )₇₁
(。本稿で実行の着手概念まで踏み込むことはできないが、さしあたりここでは学説において過失犯で要求される危険性が故意犯のそれよりも低いことを想定している見解も根強いということを指摘するにとどめたい。
なお、このような疑問点は判例においても同様に生じうる )₇₂
(。たとえば、原因において自由な行為を最高裁が初めて認めたとされる最判昭和二六年一月一七日刑集五巻一号二〇頁は、精神病の遺伝的素質があり、回帰性精神病者的顕在症状を有するため、多量の飲酒により病的酩酊に陥って心神喪失状態で被害者を殺害した被告人に、﹁多量に飲酒するときは病的酩酊に陥り、因って心神喪失の状態において他人に犯罪の害悪を及ぼす危険ある素質を有する者は居常右心神喪失の原因となる飲酒を抑止又は制限する等前示危険の発生を未然に防止するよう注意する義務あるものといわねばならない﹂として、過失致死罪の成立を肯定した。この事案においては、被告人は普段から大量に飲酒すると他人に危害
( )過失の競合に関する一考察同志社法学 六六巻三号一三七七一三 を加える性癖を有し、かつそのことを認識していたのであるから、飲酒行為(原因行為)に現実的危険性を認める余地があるのかもしれない )₇₃
(。とはいえ、酩酊したからといって必ず人に危害を加えることはありえないのであり、そこにはかなりの偶然性が必要とされる。そうすると、故意犯でいう未遂を基礎づけるほどの危険性が存在するかは、やはり疑問と言わざるをえないように思われるのである )₇₄
(。
2 過 失 の 認 定 論 と の 関 係
以上のように、学説や判例は過失犯において故意犯よりも軽微な危険性で実行行為性を把握している可能性がある。どの程度の危険性を過失犯において想定しているにせよ、その実行行為性は故意犯と幾分異なっているように感じられる。この差はどこから生ずるのであろうかということを考えてみると、過失実行行為の認定の問題が重要となろう。過失犯の実行行為の特定は結果が生じて初めて問題となる。故意犯とは異なり過失犯では、その発生した結果から順次溯って過失行為と特定していく必要がある )₇₅
(。いわゆる、段階的過失論である。なお、段階的過失論は、過失を結果に最も近い過失に限定する直近過失一個説と結び付けられて論じられることがあるが、これは正確ではないと指摘されている。段階的過失論は結果から溯って過失行為の存否を判断する過失認定の方法論の問題であり、直近過失一個説はそれを結果からみて直近の一つに限定するというものにすぎない。したがって、段階的過失論の採用は直近過失一個説に結びつくものではないのである )₇₆
(。
現状、結果発生に至るまでに段階的に過失が存在する場合に、それぞれに過失を肯定する過失併存説が学説 )₇₇
(と実務 )₇₈
(の両者において支配的であるといえる。この点、過失による原因において自由な行為に実行行為性を認めるためには、過失併存説を採用する必要があることが指摘されている )₇₉
(。他方、中野博士は、故意犯の実行行為の危険性を直接の危険と
( )同志社法学 六六巻三号一三八過失の競合に関する一考察七一四
解し、その危険が発生するのは行為者が事態を手放して因果の流れにまかせた時点に求め、直近過失一個説を支持すべき理由として、故意犯の実行行為とパラレルに考えられることをあげている )₈₀
(。このことは、さらに過失犯の実行行為性を故意犯のそれとは、異質に考えているのではないかという推認を働かせる。とはいえ、過失併存説を採用することが、過失犯の実行行為と故意犯の実行行為の危険性を異なって捉えるということに必ずしも直結しているわけではないように思われる。たとえば、北川教授は過失犯と故意犯の実行行為性は主観面の相違にすぎず、法益侵害の現実的危険が担保できる限りは、過失併存説を支持すべきであるとする )₈₁
(。また、大塚教授のように危険のコントロールを失した点に実質的危険性が認められるとする )₈₂
(のは、故意犯よりも厳格な危険性を要求することになると指摘されている )₈₃
(。このように考えていくと、過失犯の定型性がゆるやかであるとされるのは、危険性の差異ではないように思われる。そうだとすると、過失犯の定型性のゆるやかさの意味をどのように解するべきであろうか。
3 「
定 型 性 が ゆ る や か で あ る 」 の 意 味
過失犯の実行行為性は、上述のように直近過失一個説か過失併存説かに関わりなく、段階的過失論に則って判断されることになる。このことは、過失犯の実行行為の危険性を故意犯のものと同一であると解したとしても同じである。では、この過失犯の実行行為を認定する構造が、過失犯の実行行為性についてどのような影響をもたらしているのであろうか。この点、柏木博士によると、﹁結果を基準として実行行為の内容が定まるということは、予想されうべきさまざまな結果に応じてその内容が変わりうるということであ﹂り、﹁過失犯の構成要件は類型性が緩やかであるとか、﹃開かれている﹄とかいわれるのは、このことである﹂と指摘している。すなわちこれは、﹁故意犯では表象した結果が発生しなければならないのに反して、過失犯では表象しうべき範囲内の結果が発生すればそれで構成要件が充足されるとい
( )過失の競合に関する一考察同志社法学 六六巻三号一三九七一五 うことであ﹂り、﹁したがってまた、過失犯では原因行為と結果との間に因果関係が認められるかぎりほとんど構成要件は充足されているのであり、錯誤で故意が阻却されても多くの場合過失犯となる﹂ )₈₄
(ことを意味する。これを簡潔にいうと、過失行為には、故意犯よりも様々な結果に対して向けられた危険性が潜在しているということであろう。そして、この指摘は正鵠を射ているように思われる。過失犯の実行行為がある結果発生に向けられて行われた行為に対する評価ではない以上、その行為に潜在する危険性の判断にならざるをえない。したがって、過失犯の実行行為は、故意犯の実行行為と比べると結果に対する射程の広いものとなるのである。そしてその射程範囲の広さゆえに、多数人の過失行為が関与して初めて発生するような結果に対しても、実行行為性を比較的容易に認めうることに繋がっているのではないだろうか。このような意味において﹁過失行為は定型性がゆるやかである﹂という言葉を理解すべきである。
⑶ 因 果 関 係
当然のことながら、複数の行為に正犯性(実行行為性)が認められるだけでは、複数の既遂正犯は成立せず、それぞれが結果に対して因果関係を有しなければならない )₈₅(。大阪南港事件で問題となったのは、第一行為者と第二行為者のいずれの行為に結果が帰責されるのかという点だけでなく、死という一つの結果に対して複数の行為が因果関係を有することがあるのかという点であった。ここで重要なのは後者である。この複数の行為に因果関係が認められうるかという問題には、複数の因果性がありうるかという問いに留まらず、もう一点重要な論点が含まれているのではないだろうか。それは﹁複数の者が正犯となりうるか﹂という問いである。なぜなら、複数の行為に因果性が認められるとしても、現行刑法が正犯を一人しか予定していないとなると、それは因果関係とは別個の問題として論ぜられるものだからである。この点、過失犯においては複数の正犯は当然のものとして認められている。しかし、もし﹁複数の行為に因果性を認め
( )同志社法学 六六巻三号一四〇過失の競合に関する一考察七一六
ることはできるが、現行刑法は原則として正犯は一人しか予定していない﹂もしくは﹁複数の行為に因果関係が認められることはありえない﹂ということであれば、通説の過失犯にも限縮的正犯概念が妥当するという見解は誤りであるということになる。そのいずれかの理由によって正犯が一人しか存在しないのだとすると、複数の正犯を認めるには統一的正犯概念ないし拡張的正犯概念によって立つほかないのである )₈₆
(。
したがって、以下では複数の行為に因果関係はみとめられうるのかという点と現行刑法は正犯の個数を限定しているのかという点について検討していく )₈₇
(。
1 複 数 の 因 果 性
日本の通説によれば、因果関係の判断は条件関係と相当因果関係による判断である。条件説は、周知の通り﹁あれなければ、これなし(
co nd ic io s in e qu a no n
)﹂の関係を行為と結果の間に問うことで、その二者間の事実的なつながりを調べるためのものである。条件関係では因果を無限にさかのぼることができるという、条件説に対する批判の決まり文句が示す通り、条件関係においては複数の行為が因果関係を有するのは、ある種当然といっても良い )₈₈(。問題は、法的因果関係であるとされる相当因果関係において複数の因果性はありうるかである。ただ、そもそもこのような問いの立て方すら疑問視されるかもしれない。というのも、通説によれば相当因果関係説にいう﹁(狭義の)相当性﹂とは、当該行為から当該結果が発生することが一般の経験則上相当であることをいう )₈₉
(。裏を返すと、結果発生について因果経過に異常な部分があるときに否定されるにすぎないのである。そして、結果発生に至るまでに過失行為が介在した場合は、﹁ありがちなこと﹂と評価されることが多い。そうだとすると、過失の競合において複数の者に結果が帰属されるのは当然ともいいうるのである。
( )過失の競合に関する一考察同志社法学 六六巻三号一四一七一七 そこで、この問題に関して、大阪南港事件を契機として議論されたことが参考になると思われるので、ここで少し検討してみたい。大阪南港事件は、第三者の故意行為が介在した事例であり、このような予見不可能な介在行為を通じて発生した結果は、一般的に相当因果関係が否定されるとされてきた事案であった。ここで簡単に事案を確認しておく。
被告人Xが洗面器の底や皮バンドで本件被害者の頭部等を多数回殴打するなどの暴行を加えた結果、脳出血を発生させ、被害者を大阪市住之江区南港所在の建材会社の資材置場まで自動車で運搬して、同所に放置した。その後、被害者の生存中に第三者が角材で頭部を数回殴打し、それをもって脳出血を拡大させ被害者の死亡時期を早めた。これに対し、最高裁は﹁犯人の暴行により被害者の死因となった傷害が形成された場合には、仮にその後第三者により加えられた暴行によって死期が早められたとしても、犯人の暴行と被害者の死亡との間の因果関係を肯定することができ、本件において傷害致死罪の成立を認めた原判断は、正当である﹂とした。
第二行為が予見不可能な介在事情であり、その介在事情によって死の結果が早まったにも関わらず、最高裁は第一行為との間に因果関係を認めている。この結論自体は、大方受け入れられるものだったといえよう。一方の介在行為者の行為は﹁幾分か死期を早める影響﹂を有するものである。今にも死にそうな人を死に至らしめる行為は当然に殺人ないし傷害致死であるとすれば、介在行為が殺人ないしは傷害致死と評価されるのは当然の帰結といってもいい。しかし、その場合に第一行為者にも因果関係が認められるのだとすると、一つしか存在しない結果を、共犯ではなく正犯として両者に帰属することとなる。このような評価がはたして許されるのかという疑問が生ずるのである )₉₀
(。一般的に故意行為が介在すれば因果関係は認められないとされてきたのは、﹁一つの結果に対して複数の正犯は存在しない﹂という意識を暗に学説が有していたからではないのかというのは、邪推であろうか )₉₁
(。
ただ、このような問題意識は少なくとも故意犯に限られていた。過失犯においては複数の単独正犯が認められた事案
( )同志社法学 六六巻三号一四二過失の競合に関する一考察七一八
は枚挙に暇がない。しかし、因果関係は故意犯と過失犯で共通であるとすれば、過失犯においても上述の問題は検討を要するであろう。介在事情が予見可能な場合でも同じである。たとえば、﹁A↓B↓C↓結果﹂という連続する三人の過失が競合して結果が発生した場合を考えてみたい。もしCが結果の最終惹起者であるとしてCに因果関係が認められるとすれば、それは﹁当該結果はCのせいで発生した﹂ということを意味する。とすれば、Cが介在して結果が発生することが予見可能であっても、﹁結果がCのせい(つまりCが正犯)であるなら、AとBのせいとはいえないのではないのか(もはや正犯として帰属できないのではないか)﹂という疑問はやはり生ずるのである )₉₂
(。
この点に関し、佐伯教授は、相当性の判断においてはある程度の結果の抽象化が必要であるとする。﹁人間が全ての事情をコントロールすることができない以上、結果の発生に一定の幅があることは当然だからであ﹂り、このように結果を抽象化することによってはじめて大阪南港事件において﹁第一の暴行の寄与度が圧倒的で、第二の暴行の寄与度がわずかである﹂という判断が可能になる )₉₃
(。また﹁第二行為者の行為は殺人に当たると仮定せざるをえない﹂ )₉₄
(のであるから、ここではまさに結果の抽象化が複数のものに対する因果関係を認めるファクターとなっているのであ )₉₅
(る )₉₆
(。
この点、辰井教授によれば﹁結果﹂と呼ばれるものには、二つの意味が存在するという。すなわち、﹁状態としての結果﹂と﹁変更としての結果﹂である )₉₇
(。人を死亡させたといえるかの判断の際に死亡時刻や死因が重要であるとされるのは、まさに結果の抽象化の議論には﹁そのような変更は死亡させたというのに値する﹂という考慮が働いているからであり、実質的には結果を変更とみているに等しい )₉₈
(。
思うに、刑法上の因果関係における帰責とは、ある点から点(この場合、当然のことながら実行行為と結果という点)への移行をどのように評価しうるかという問題であろう。結果を﹁不良変更としての結果﹂と捉えるか﹁一定程度抽象化された結果﹂として捉えるかはさておくとしても、﹁その行為がもたらした作用が、致死ないしは殺人と評価できるか﹂
( )過失の競合に関する一考察同志社法学 六六巻三号一四三七一九 という観点からは、複数の行為に因果性が認められることはありうるということになるであろう。結果が抽象化されるとすると、複数の行為が﹁そのような結果をもたらした﹂といいうる影響を与えたといいうるのであろうし、死亡させたと評価しうる不良変更は複数存在しうるであろう )₉₉
(。
上記のように故意犯においても複数の行為に因果関係が認められるのであるとすれば、過失犯において故意犯より広く因果関係が認められてきているように感じられるのはなぜだろうか。これは故意犯では過失の競合のように複数の者が介在することが少ないというだけのことではない。なぜなら、現実に起きている過失の競合の事案を、全員が故意で行ったと仮定すれば、因果関係の認められる範囲は全員が過失の場合より狭くなると考えられる事例は少なくないであろう。もちろん、過失行為の介在は﹁ありがち﹂なことであるから、因果関係は否定されないということは一つの答えである。ただ、ここではもう一点指摘しておきたい。それは、先に検討した実行行為との関係である。過失犯の実行行為が射程の広いものであることを加味すれば、過失行為への結果帰属は故意犯のそれよりも、実際上広いものとならざるをえないように思われるのである。
2 正 犯 の 個 数
上述のように、複数の行為が一つの結果に対して因果性を有することはありうるということであったとしても、現行刑法は複数の正犯を予定しているのだろうかという問題が残っている。この問題提起を行った高山教授の見解をまず見ていきたい。
高山教授は、因果関係は規範的な判断ではなく事実的なものであり、どの人物を正犯とするかは因果関係とは別に定められなければならないとする。事実的な因果関係に﹁単一性﹂という規範的判断が入り込んでくることはないので、
( )同志社法学 六六巻三号一四四過失の競合に関する一考察七二〇
一定の事実的前提が満たされれば、複数の行為に因果関係が認められることになる。そのように結果に対して複数の行為が因果関係を有する場合に、それぞれの相互関係(だれが正犯でだれが共犯か)が問題となるのである。そこで高山教授は、複数の正犯性が認められない根拠を六〇条に求める。すなわち六〇条の﹁二人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする﹂という文言の反対解釈として、﹁二人以上が共同で犯罪を実行していない場合は、複数のものを正犯とすべきではない﹂と解するのである )100
(。したがって、一つの結果に対して単独正犯は一人しか存在しえないとする。
さらに、高山教授はこの﹁一つの結果につき、正犯は一人である﹂という結論を過失犯の領域においても維持する。この点に関して、政策的意義と理論的意義の二点から考察されている。この結論を支える政策的意義の積極的根拠は、限定的な処罰のほうが合理的だという点である。すなわち、判例の基準によれば多数の行為が有罪とされうる状況下では、当事者や被害者・遺族に不公平感を全く与えずに法を適用するのは困難である。さらにこのような不平等感は、訴追されたものとされなかったものの間にも生ずる。このような不安定な処理は、刑罰の感銘力を低下させる恐れがある。それを避けるためには、ごく限定的な刑罰運用を行うほかない。しかし、このように解しても、一般予防の観点からは特定の行為を禁止することで当該結果を回避できるのであれば、その行為を処罰すれば十分ということになり、法益保護がおろそかになるわけではないのである )101
(。
理論的意義については、上述の六〇条の反対解釈のほか、同時傷害の特例である二〇七条を根拠にする。二〇七条が﹁共同で実行した者でなくても、共犯の例による﹂と規定しているのは、共同で実行していないもの全員が正犯となることはないという法の趣旨であると解するということであろう。したがって、六〇条・二〇七条に該当しない複数の者をすべて正犯として処罰することを、法は想定していないということになる )102
(。
( )過失の競合に関する一考察同志社法学 六六巻三号一四五七二一 しかし、このような解釈には疑問がある。まず、高山教授が主張するような六〇条の反対解釈は必然的なものとはいえないであろう。すなわち、﹁二人以上の者が共同することなく犯罪を実行した場合には、かならずしもすべての者が正犯となるわけではない﹂ )103
(との解釈も可能だからである。二〇七条についても同様の批判が妥当しよう。また、理論的な面からだけでなく、結論としても不当であるように思われる。特に、過失が競合して結果が発生する事案においては、不幸にも複数人のミスが重なって結果が発生するということが多い。そのような中で、一人に刑法上の責任を負わせることが果たして結論として妥当なのかどうかは、疑問であろう。
Ⅲ 過 失 の 競 合 の 限 定
過失の競合の問題は当初、因果関係の問題と捉えられていたといってよいであろう )104(。一九五〇年代には実務家から、﹁﹃過失の競合﹄に対しては、刑法における﹃共犯の規定﹄は、適用にならないのであるから、やはり刑法における基本原則なる﹃個人責任の原理﹄に従って、過失の競合の場合とても、その発生せしめた結果に対し、これに因果関係を有するかぎりの一人一人の﹃過失責任﹄の有無を問うの外はないこととなる﹂ )105
(と指摘されていた。また、井上博士は、過失の競合を﹁因果関係論の適用の一場面﹂であるとし、判例を子細に検討されている )106
(。しかし現在では、過失の競合は様々な観点を含むものとして理解されており )107
(、過失の競合を考えるにあたってはさまざまなアプローチがありうる。そこで以下では、過失の競合事例において、処罰範囲の画定のために有用と思われる見解について検討を加えていきたい。
( )同志社法学 六六巻三号一四六過失の競合に関する一考察七二二
⑴ 危 険 性 に よ る 限 定
過失の競合の限定を実行行為で行おうとするのが内田博士である。内田博士によると、過失の実行行為も単独で構成要件的結果を惹起する危険を有していなければならず、危険性という観点からは、故意犯となんら異なるものではない )108(。そして限縮的正犯概念を前提とすると、過失同時犯の正犯性の実質的基準は過失犯の実行行為の内容いかんということになる。具体的には、①﹁具体的状況のもとの行為の自然的性質が、すでに、構成要件の実現に相当であると認定されるほど危険である場合﹂と、②行為の自然的性質からは構成要件的結果を惹起するにたりるほど危険ではないが、﹁行為が、状況の危険性にカバーされることにより、実行行為とみられなければならない場合﹂である。②はさらに、二つの場合に類型化される。すなわち、⑴状況の危険が﹁本人の行為によって生成せられた場合﹂と⑵﹁他の共働者の行為によって生成せられた場合﹂である )109
(。
このような判断形式の是非はさておくとして、思うに一番の問題は、そこから導き出される危険性の判断によって正犯と共犯を十分に区別しうるかどうかにある。上述のように通説によれば、正犯とは実行行為を行う者である。そして、正犯となるかどうかの判断は危険性によって行われることになる )110
(。この危険性説の問題は、実行行為の危険性についてはそれほど高度な危険性を要求していないことにある。なぜなら、故意犯において、かなり不確実な手段によって結果が発生した場合であっても、実行行為を認めざるをえないであろう )111
(。例えば死ぬ確率がほんのわずかでしかない毒薬を飲ませて死亡結果が発生した場合でも、やはり殺人既遂と評価せざるをえないように思われる。さらに間接正犯のように教唆犯と同程度の危険性しか有しない行為であっても、正犯行為とせざるをえないのである )112
(。過失犯においてもそれと同様に、結果発生がある程度不確定的であったとしても実行行為性を認めなければならないのである。
さらに一般的に過失犯の実行行為は、客観的注意義務に違反した作為もしくは不作為であるとされる )113
(。判例において