一戦時下の特質と戦後の再出発一
佐 藤 広 美
はじめに
宮原誠一(1909〜78年)は、戦後日本の教育学の創造 的発展を進あた代表的人物の一人である。宮原は、敗戦 直後の有名な論文「教育の本質」 (1949年)で、教育を 社会の基礎構造からとらえることに道をひらき、教育を ひろく社会のいとなみの中に位置付けなおそうとした。
そして敗戦直後の根本課題であった平和の維持と産業の 復興のために、教育の計画化を提唱し、精力的に生産教 育論を展開する。また、学校教育と社会教育の関連構造 を問い、社会教育のもっ矛盾構造の歴史的性格を分析し、
国民教育全体の民主的創造をみとおすなど社会教育にお ける理論創造に先駆的な業績をあげたω。
その宮原は、戦前、すでに旺盛な理論活動を開始して いた。1932年東京帝国大学に入学する以前に新興教育研 究所にかかわった彼は、38年には教育科学研究会(以後 教科研と略す)に参加し、城戸幡太郎、留岡清男、宗像 誠也らとともに常任幹事を務め、教育の科学的研究の一 翼を担った。とくに、ソビ手ト教育学やデユーイ、ク リークの教育学に学び、生産労働と教育の結合による教 育の計画化構想は彼の特徴的な議論の一つであった。戦 後の宮原の教育計画論は戦前にすでに用意されていたと いわれる所以である。
しかし、ここに重大な論争点がもち上がってくる。
宮原は、1936年頃には近衛文麿のブレーン・トラスト である昭和研究会の事務局に加わって数々の庶務に携わ り、40年に大政翼賛会が出来上がったのちには、そこの 人形劇研究委員会に入り、当時の文化政策を推進する立 場に立っていく。彼の教科研の活動はこれら昭和研究会 を中心とする政策的立場と密接に関連ついており、43年 に出版されたr文化政策論稿』はこの点を如実に示して いる。同r論稿』の序文は、国家総力戦の本義に照らし、
国民の精神と生活とを国家目的にむかって動員し訓練す ることが文化政策の課題だとしている{2}。宮原が戦争 に協力したことは明らかであった。ここに、彼の戦争協 力を厳しく問う議論が生じるのである。
生産労働と教育の結合による教育の計画化構想は何故 戦争協力へとすすみ、戦後どのような再出発を遂げたの か。これは重要な研究課題である。
このことを検討するうえで、加藤周一の指摘は有益な 示唆を与えてくれる。加藤は、戦後の民主主義の積極的 な担い手の多くが、少なくとも気持の上で「戦争に協力 した」知識人の一部であったとし、また日本ファッシズ ムの戦争努力に協力を拒否した知識人が必ずしも戦後再 びファッシズムと戦争に日本国民をひきずりこませない ための積極的な力になったとは言い切れないとした。す なわち、戦時中の「協力」への拒否は、戦争への反対に 力点があったか、傍観に力点があったかは、戦後の反 ファッシズムの動きのなかで明らかになるはずのものだ
とした。
同じように、戦時中「協力」した大多数の知識人も一 様に考えることは出来ないであろうとする。だから、積 極的な戦争支持者ではなかったにもかかわらず、多かれ 少かれ進んで協力した、その体験のなかにあった「苦し さ」そのもののなかから、戦後の平和主義や戦争反対の 態度が出てくるということがあるという(3}。
宮原を断罪することはやさしい。しかし、彼が戦後日 本教育の民主主義的転換と発展に力を注いだ事実は大き
い。
そこで、本論文では、宮原の戦前の戦争協力から戦後 初期にかけての教育学研究の歩みを、加藤がいう「苦し さ」に注意を払いつつ、宮原の教育計画論を中心にして 分析を試みていきたい。
しかし、宮原に「苦しさ」を見出すには二つの困難が 予想される。一つは、宮原は戦後、戦争協力にたいする 自己批判を明確にしていないことである。これはたとえ ば、宗像がとった態度と違っている(4}。
二っ目は戦争協力があからさまであったことである。
「苦しさ」を描き出すうえでこれらは少なからぬ障害で ある。
もちろんこうした傾向は、宮原だけでなく、教育学者 全般にかなり広く指摘し得ることであった。そこで、本 論文では、出来るだけ、宮原の教育学研究の形成に視点 を当て、戦争協力になぜ向ったのかを、また、戦後に戦 前の教育研究をどこまで徹底して批判できたのかを宮原 の蓮論的農開のうちに分析してみる努力をしたいと思う。
また、戦争協力の論理を宮原だけに見るのではなく、他
の知識人との比較を通して行なってみたい。とりわけ、
彼が強い関心を示した文化政策に大きな関わりをもった 三木清と大政翼賛会文化部長の岸田國士の論をとりあげ、
戦争協力へのみちを考えていきたい。
宮原が戦争に協力した事実を無視して、彼を評価する ことが多すぎるのではないか。これでは、真の宮原像が 描ききれない。しかし、同時に戦前の宮原を断罪するだ けでは、なぜ戦後彼は民主主義的教育の発展のために努 力できたか、が説明できないであろう。
宮原教育学の画期性は、戦前の教育研究をどのように 克服したのかを分析することにおいて、より真実に近い 形で理解できるのではないだろうか。
先行研究は、この意味で、不十分さを免れない。たと えば、藤岡貞彦は戦後の宮原の生産教育を軸とする教育 計画の構想を意義づけ、それは戦前に用意されていた、
と指摘するが、戦争協力とその批判的克服のあり方を問 う問題意識はすっぽりと抜け落ちている{5,。
長浜功は、宮原の戦争責任を厳しく断罪した数少ない ひとりである。しかし、長浜の論は戦争の反省に立った 教育学理論の課題と構想を必ずしも明らかにしていない。
かえって、それは宮原の戦後教育学の検討を拒否ないし 軽視に導いているのではないか(G)。
また、清水康幸は、戦後の宮原の生産教育論は、戦時 下の「錬成」教育論の一つの「転生形態」であったとし ている。これは戦前一戦後の連続性に着目する議論であ るが、今問われるべきは、「転生」の中身ではないだろ
うか(7)。
宮原誠一の全仕事に学ぶことが必要であり{8}、戦前 から戦後初期にかけての宮原教育学の軌跡(1930年代〜
1950年代前半)の検討はその第一歩となろう。
1、国策の一環としての教育計画論
宮原は、1940年代の前半、高度国防国家体制確立のた めに、自由主義経済を否定し国家統制経済に移行しなけ ればならないとし、物的資源のみならず人的資源をふく め「すべての経済要因を国家の最高目的に副ふやうに計 画的に運営されなければならない」とした(9}。この国 家統制経済政策にたいする国民の自主的積極的協力を教 育によって引き出すことを期待し、これを「教育的な統 制」(1°}呼んだ。そして「教育政策が各般の国策の内部
に浸透する」ことを展望した(川。
なるほど宮原は自由主義経済下における労働者の機械 の付属物化や退廃を指摘するが(12)、彼の構想が国策に 協力する「教育計画論」であることは明らかであった。
宮原はなぜ国策協力を唱えるに至ったのか。彼の研究の
歩みを追っていくことにしたい。
宮原は、1928年水戸高等学校に入学して以降、二つの 事柄を原因にして精神に変化が起こったとしている。一 つは、 「結婚に失敗して実家に帰り、すでに10年このか た浮かぬ月日を送っていた」伯母と従姉との不幸につい てであり、もう一っは、暮れかかる大気のなかで黙々と 働いている自分と同い年の村の青年の姿であり、 「精神 的生活から遮断されて肉体労働にとじこめられている」
現実であった 3)。
読書会(社会科学研究会)に参加し、それがもとで検 挙され停学の間に、山下徳治にめぐり合い、新興教育研 究所の創立に加わった宮原は、30年、 r新興教育』の創 刊号で、文部省の「思想善導」政策を論じている。彼は、
「学生の左傾は、それ自らの経済的、社会的根拠」があ るとし、学生の圧倒的構成部分たる中産階級のプロレタ リア化などを根拠にあげ、労働者が工場に、貧農が土地 に、それぞれの職場において闘争しているようi}こ、学生 運動は「それ自らの要求を掲げる学生大衆の、学校を基 礎としての闘争でなければならない」と書いた{14}。ま た、同2号では、マルクス主義と婦人問題に触れ、 「相 互的愛情以外の如何なる動機にも依らない結婚の自由は、
人はそれの実現を求めるが故にこそ又、無産階級運動の 陣営に参加せざるを得ない」(1 s)とした。
このように宮原は=身上の問題を解くために教育学研 究をはじめ、社会と自分を重ねあわせながらモラルを底 にたたえて教育研究を開始した(1 6)。この時期、日本は それまでに経験したことのない深刻な不景気に落ち込み (昭和恐慌)、失業者が増大し、農村は窮乏のどん底に あった。文部省は、31年7月に省内に学生思想問題調査 委員会を設置し、学生生徒の左傾の対策を練りはじめて いた時である。
宮原は、東大入学後、デユーイ(John Dewey)を中心 にアメリカの進歩主義教育学(Progressive Education)
の研究を始める。この研究は、教育を社会のなかで考え、
教育を、社会の人間形成力の目的意識的作用ととらえる 着眼の形成を促すことになる。
37年、宮原億、デユーイにおける「社会」把握を問題 にし、それは「理念としてのゲマインシャフトで」なく、
「現実の社会的諸条件の平明な観察から出発するアメリ カニズムの常識性」に依拠する現実の社会であるとする。
現実から出発するデユーイの教育の歴史叙述は「比類を みない正確さ」となる。デユーイは、 「民主主義がe ・.
・ブルジョアジー自身の利害と必要とに応ずる階級的思 想であることを知っている」。彼はいう。 「初等教育は、
民衆にたいする教育であるというまさにそのゆえをもっ
て、為政者たちによって慎重な教育的事業と考えられる よりも、むしろやむをえない一種の政治的・経済的譲歩 と考えられた」。
また、デユーイが、生産と科学の結合に触れ、労働者 たちが機械の盲目的な奴隷にならぬためには機械のなか にひそむ自然的原理ばかりでなく、 「社会的諸関係の理 解まで到達しなければならない」とのべたことを宮原が 記していることも重要である{1 7)。
たとえば、36年、早坂二郎著r子供の経済学』を書評 した際、本書が流通諸部面の叙述に限られている点を問 題にし、子どもの注意を商品の彪大な集体積からその背 後に隠れた生産の諸関係に赴かせることを喚起している ことから分かるように(! 8}、宮原にとって「社会的諸関 係の理解」は社会と教育の関連を把握する重要な原則で あった。
このように宮原は、デユーイから学校と社会の関連構 造と学校の編成原理、すなわち学校に現代社会の必要と 進歩とを反映させることを学んでいった。
40年、宮原は、デユーイにとって「民主主義の条件即 ち自由を脅す者は何人と難も彼の敵である」とし「彼が 今日わけてもヒトラー総統を憎悪し、合衆国内における ファシズムの台頭及びその凡ゆる変種に対する警告の声 を大にしてゐる」とのべ(1 9}、41年には、「民主主義の 成立の基礎条件である自由の味方として、強毅果敢な閲 歴をすごしてきた」とデユrイを紹介した(2 e)。
40年の夏、新体制運動は活発化した。軍部や革新官僚 層は、西欧の自由主義的・民主主義的な体制のいきづま りを説き「旧体制」の残津を一掃し、統制経済への転換 をはかり、天皇を中心とするファシズム体制の樹立めざ す新体制運動を展開した。自由主義的な書論を極端に抑 圧するこうした状況のもとで、宮原がデユーイの自由と 民主主義に対する姿勢を紹介したことは重要である。
しかし、こうした研究を積んだ宮原が国家統制経済の ための教育計画を論じるに至る理由はなにか。
この問題を考えるうえでここでとくに注意したいのは、
アメリカ進歩主義教育学の社会観および「社会再構成の プログラム」にたいする宮原の見解と関心のあり方であ る。宮原は、デユーイ協会(John Dewey Society for the Study of Education and Culturue)の社会的態度 は著しく反資本主義的であるが、全体主義とも共産主義 とも異なるとし、社会的変革は「あくまで強力を排し、
啓蒙と教育とによる漸進主義の立場をとり、平和的手段 による社会の根本的再構成が可能である」とのカウンツ
(Counts)の言葉を紹介している。(21}
ところで、宮原が、マルクス主義者による、カウンツ
ら「自由主義的教育家」の批判書を要約・紹介している ことは興味深い。スレシンガー著(Zalmen Slesinger)
のr教育と階級闘争』(Education and the cIass stru 991e 二 a critical examination of the liberal educ ator sprogram for social reconstruction 1937)がそ れであるが、同書はカウンツらがいう「階級的」矛盾は、
諸矛盾の根底をなすものでなく、並立する諸矛盾の一っ でしかないという。彼らの社会再構成は、階級間の権力 関係を軽視または無視しており、宗教・国家主義などに 手をっけずに専ら経済的領域とその意識のみの改革を問 題にしていると。
スレシンガーは、カウンツらの「今や資本主義は狂暴 であり非人間的であるばかりでなく、浪費的であり、非 能率的である」との資本主義批判を紹介し、彼らの社会 再構成のプログラムは「ソーシャル・プランニング」の 設定であるとする。すなわち、 「個人主義的経済の集団 主義的経済への再構成」と、そのためのソーシャル・プ ランニングの設定、および社会意識の改造にたいする教 育の任務の強調であった{22) 。
当の宮原は、同書を「自由主義的教育家の傾聴を要求 する」としつつも、 「機械論的偏奇」の性質を備え、教 育論に具体的展開がないと批判しただけで(23}、その後 カウンツらのソーシャル・プランニングの批判的検討は 戦時中行なっていない。これは彼の国策協力を考える上 で重大な問題であった。
戦争の拡大は、民衆の生活を著しく圧迫し、国内矛盾 を深刻化させ、企画院を中心に利潤統制論が登場し、
「公益優先」が主張されていた。公益優先にそう課題は 教育分野にも当然及び、教科研は「40年綱領」で、 「利 潤追求の抑制」を教育刷新の指標に掲げている。
当時、 「革新官僚」を中心に展開されていた経済新体 制論は、資本主義的な利潤追求を目的とする企業の理念 を「生産第一主義」に切り換え、 「所有と経営の分離」
を実現すべきことを主張した。たとえば、昭和研究会が 発表した「日本経済再編成試案一建設期経済体制編成の ために一一」 (1940年8月)は、現代は私的利益の追求が 公共利益と矛盾衝突しており、そのための「企業におけ る私的利益の専恣的な追求を統制する」方法の提案を試
みていた(2 4} 。
「私的利潤の追求が公共利益と矛盾衝突している」と いう認識では、統制経済論とソーシャル・プランニング は一致している。しかし、日本の場合は「公共利益」
「公益優先」が国家目的に吸い寄せられ、それに解消さ せられてしまった(25)。
宮原が国家統制経済政策に批判的に対処出来なかった
理論的原因は、まさにこの「公共利益=国家目的」の等 置にたいする検討の欠如であったが、それはソーシャル
・プランニングにたいする批判的検討の回避と密接不可 分であった。
そして検討の回避は、現実の戦時統制政策への彼の屈 伏を一層進めることになる。彼の教育計画論はソーシャ ル・プランニングの資本主義批判の内容からも大きく離 れていき、資本主義批判が「無計画性」の強調へと後退 し、デユーイの紹介でみせた自由と民主主義にたいする 注視の姿勢を著しく失わせることとなっていった。
宮原の教育計画論の弱点は、日本の歴史や現実分析に も関係しよう。1939年、彼は、 「明治以後の民間教育運 動」を書くが、これは社会教育の歴史的矛盾構造を民間 教育運動にあてはめて分析したものである。宮原は、こ の論文で、福沢諭吉の慶応義塾を、維新政府が封建社会 の徹底的な克服をなしえないとき、封建的支配の不合理 と腐敗とを清掃し自由独立の人間社会を建設するために 民衆の眼を強力にひらかせようとしたとする。また、井 沢修二の「国家教育社」の運動は、集会条令(明治13 年)から改正小学校令(明治23年)を法制的指標とする 全機構的な規模における国家主義的再構成の過程といさ さかも背馳するものでなく、その基本方向に忠実に一致 するとした。福沢は「一面の屈従」はあったが、この点 で井沢とはまったく立場を異にするとのべた(2 6)。大正 期の独立労働学校までのべるこの論文は資本主義社会の 教育のもっ矛盾の構造を明らかにしようとしており、教 科研のその後の運動の基盤を資本主義社会の矛盾構造の 中で探ろうとする意図が感じられるが、現状分析にまで は進んでいない。40年の「教育科学研究会一年史」論文
(2 )はこの分析の方法を全くとってはいなかった。
また、ソビエト・ロシアの総合技術教育の研究一「ソ 連邦の青年教育」1939年、 「ソ連邦総合技術教育」40年
(2s}一はどうであろうか。たとえば「覚書」とある40年 のものは、 「労働者は完全に発達した個人でなければな
らない」などと総合技術教育の基本原則を教えてくれて いるが、「書かれてある事柄と筆者の賛否とは全く別で ある」との断り書を添えており、またなにより問題なの は、総合技術教育の原則を大工業とその資本主義的形態 との矛盾の分析からっかみだす努力が極端に弱いことで
ある(2 9,。
国策の一環としての教育計画論を形づくる要因がこう して出来上がっていった。43年、宮原は企業経営の労務 管理は資本主義的経営の合理化から国家目的に応ずる運 営へと変化しなければならなくなってきたとする。 「国 家的な労務動員体制の確立を通じて労務管理の公共化の
趨勢が濃厚となった」。この労務管理の公共性こそ「労 務管理の教育性」の保持であり、工場事業場そのものが
「一つの教育体」になることができるとする。ここに人 的資源の育成確保にたいする燃ゆるが如き国家的使命観 を期待しえるのであり、 「日本的産業観」が確立するで
あろうという{3 °)。
公共性の確保は国家によって果たされる。宮原にとっ て、公共性の確保と計画化(プランニング)の主体は国 家だったのであり、その国家とはまぎれもなく軍部・内 務官僚と独占資本・経済官僚が権力機構の中枢を握る天 皇制絶対主義国家であった。宮原の最大の弱点は、 「公 共性」の幻想を剥ぎとる天皇制国家の分析の欠如であっ た。ここに「生産力拡充=科学技術力向上=皇国勤労者
・皇国技術者」の形成という「新徒弟制度の提唱」を唱 えるに至る(31}陥穽があったのである。
ll、 「教育的統制」と文化政策論
宮原は、日本の商工省や企画院による上からの経済統 制政策とドイツの「指導者原理」による経済統制機構と を比べ、後者のほうが「政策に対する国民の自発的・積 極的協力」が期待できるとし、いっそう「教育的な統 制」であると指摘した{32)。彼は、錬成の新らしい性格 を「智識や技能と無関係に単なる「性格」を錬成したり、
職能活動のぞとで単なる「精神」を錬磨したりするので はない」とした〔33)。
宮原は、経済統制政策にはなにより国民の自発的協力 が必要であり、抽象的・観念的な鼓舞激励の類を意味す るのではない「ひとびとの理解と共感をよびおこす」(3 4}「教育的な統制」とならなければならないと考えた。
彼が文化政策に強い関心を示した要因はここにある。
彼は、 「科学的精神」と教育の結合を否定していない。
文化政策の課題のひとつは、 「国民生活の科学化」であ り、 「国民の科学的生活能力を錬成する」ことであると いう(35)。もちろん、文化政策が「国策に対する理解と 情熱をよびさます」ものであり、「新政治体制運動の根 本精神はいふまでもなく一一君万民我が国体の本義に基い た万民翼賛の政治理念の恢弘にある」(3 6}ことを、彼は 隠そうとはしない。彼の文化政策論が「国民をして国家 の経済及び文化政策の樹立に内面より参与せしむるも の」 (40年8月の新体制準備委員会における近衛文麿の 声明)という新体制運動の基本方策に沿っていることは いうまでもない〔3η。その意味で「科学的精神」の内実.
こそが問われなくてはならない。
しかし、国民の自発性を強調する「教育的統制」を主
張したことは彼の特色であり、 「政治の教育化」 「政治
の文化性」C38)を展望したことは明らかである。
ところで、この「政治の文化性」こそは、体制内部に 食いこむことによって内部から現実変革を目指そうとし た人たち(3 9}の理論課題の焦点であった。たとえば三木 清と岸田國士がそうである。宮原がなぜ大政翼賛会に加 わり、戦争協力へ進んだか、彼らの論を追ってその問題 をさらに検討してみたい。
三木は、昭和研究会内の「文化研究会」に所属し、協 同主義の哲学を練りあげ、昭和研究会を理論的思想的に リードしてきた。大政翼賛会に文化部を設置することを 進言したのも彼とされている(4 °)。
三木は、40年の「文化政策論」のなかで、 「今日の文 化政策は、大政翼賛会の岸田文化部長が種々の機会に力 説してゐるやうに、政治の文化性に対する要求から始ま らなければならぬ」とのべている。「我が国の政治に新 しさを齎らすものは何よりも文化政策である」と考える からである。そして彼は「政治が文化性を担うことに よって、従来とかく政治に冷淡であった文化人をして政 治に眼を向けさせ、かくして文化政策の遂行のために彼 等を協力させ得るに至るのである」とした{ D。 「文化 の権威は政治を回避することからは生じない」(42)から である。
三木の思想的態度は、時代に対する換手傍観ではな かった。日本に課せられている現実の課題に知識階級は
「知性」の立場から積極的に関与し、 「協力」すべきと 考えていた(43}。 「政治の文化性」はまさに日本の現実 に課せられた課題であり、知識人や文化人の協力を得、
日本の政治を再生していく手立てと考えられた。
三木は、文化統制が画一主義に陥らぬよう最大の注意 を払っている。 「文化統制とは文化計画のことでなけれ ばならぬ。… 計画性が完全に実現されるならば、統 制はもはや統制といふものでなくなり、統制と自由は一 致するであろう」という。画一主義は文化を貧困にする
ものであり、本来の意図に反するとする{4 4)。
「個人の自発性を認めない限り全体主義は非合理主義 に止まるのほかない」{45)。三木は、個人の独自性と創 造性を生かすことが文化の発展にとって大切であると、
考えた。とりわけ、個人を全体に対する機能的関係にお いて捉えることを問題にする。全体主義は個人を機能的 乃至職能的関係において把握するが、それだけでは個人 は全体の器官の如きものとなり、その独立性と自由は失 われてしまうという。この点で近代個人主義は個人の内 面性の問題を追求しており注目される。役割における人 間ではなく自己の良心にたいする責任を問うことが内面 性であり、全体にたいする個人の機能的見方はまさにこ
の点が欠けているという。多くの国策文学が生産されて いるが、 「全体に対する個人の関係を単なる政治的 機能にのみ考へて内面性が失われる場合、精神的文化に とっては自殺とならざるを得ない」(46)と、三木はのべ
る。
三木の推薦で大政翼賛会の文化部長になった岸田{4 ) はどうか。今日までの政治には文化性が希薄であったと のべる岸田は(4 B}、職域奉公を通じての国家への奉仕と いう観念をあまり弄んではいけないとし(49}、健全な文 化は生活から遊離したものでなく、生活に根を下ろした ものであるという〔5 °)。また、時に作家は沈黙を守らな ければならないとし、その作家の良心は信じなければな
らないとする(51)。
特に注目すべき点は、現在の政治が文学に求めている ものは、愛国心の鼓舞や国策の宣伝など「狭い政治的な 範囲」に留まっている嫌いがある(52〕、とのべることで ある。国防国家のたあの「前衛的な文学」がしきりに要 求されているが(53)、現在の国民のなかには、自分で判 断しようとしない付和雷同性や性急で粗暴な言動と競争 心理、思考力が凝結され便宜主義に走る傾向が見られる という{54}。こうしたことからも文学は、「人間が人間 の本性から遠ざか」ることのないよう文化的教養を創造 する、いわば「側衛的任務」(55)が重要であろうと主張
した。
三木と岸田が、強制的同質化に反発し、新体制運動を 国民の自主性と主体性を発揮する運動に導こうとしたこ とは明らかであろう。観念右翼から内務官僚、財界、旧 昭和研究会のメンバーらによる呉越同舟の大政翼賛会は、
やがてその主導権を内務官僚に握られ、 「精動運動」に 変質するが、宮原が三木・岸田の文化政策論に共感を寄 せる根拠は十分にあったといえよう。
宮原は、三木・岸田のかなり近い位置にいたのであり、
文化政策に「教育的統制」の理念をあてはめようとした のがそのあらわれであった。しかし、新体制運動のなか で宮原の理論的後退は止めようがなく、矛盾は拡大して いった。日本の文化・宣伝・啓蒙の機構は、ドイツと比 べ「民族文化建設への国民の奮起と協力とを促しつっあ る国家の旺盛な文化意思を表明する積極面の展示に乏し い」(56)とし、文化政策は、文化の自由の度合いが文化 の進展を示すという消極的統御という観念とちがって、
高度国防国家体制建設の要請に応える国民の精神動員の 一環という範疇においてとらえなければならないという
{5 T)
B戦時における新聞の厳重な統制を支持し、事実の 隠蔽や修飾を当然とした(58)。
しかし、この後退は宮原だけではなかった。42年1月、
三木は「英米の帝国主義的秩序に対する新しい秩序の構 想… 、そこに新秩序戦の意義がある」〔59)、と戦時 認識の基調をのべている。三木、宮原の「敗北の過程」
(6°}は明らかであった。この「過程」の原因は厳しく批 判されなければならない。次に戦後の宮原を見ていきた
い。
皿、生産教育論とソーシャル・プランニング 戦後、宮原は生産教育論と平和教育論を積極的に展開
し、社会と教育の構造的把握を試みつつ、教育の計画化 構想を改めて世に問いだしていく。ではこの構想は戦前 の弱点をいかに克服出来ていただろうか。以下、分析を 加えていくことにしたい。
(1)「教育の再分肢論」一戦前と戦後一
形成と教育という二っの概念を区分し、教育を「社会 の基本的機能の再分肢」ととらえる宮原の議論は、教育 の本質規定として画期的であった。宮原は、こうした教 育の本質規定を戦前と戦後、二度にわたって行なってい る。40年の「形成と教育」論文と49年の「教育の本質」
論文である。ここで注目すべきは、49年論文が40年論文 の弱点をどのように克服しているかであるc6 1)。
人間形成の基礎的過程である「形成jを自然成長的過 程であるととらえ、 「教育」をこの自然成長的な形成過 程を望ましい方向に統御しようとする社会的過程とする 点で、両論文に違いはない。しかし、40年論文は「日本 社会における人間形成を国家目的の見地より統御せんと する教育的立場」から、すなわち教育を「国家の根源的 職能の再分肢」ととらえていた。なによりこの論文は国 家経済統制政策の要請を前提に書かれているのである(6
2)
B40年論文は、社会的機能を国家的職能と等置し、教 育の階級性を抹消した点に決定的な弱点があった。49年 論文は、この等置を「社会の基本的の諸機能の再分肢」
と置き換え、さらに教育の階級性を導入して、弱点の克 服を試みている(63〕。
40年論文は、教育と形成の区分を曖昧にすることは 「教育の実践的意義を曖昧にする」{64,としていたが、
49年論文は、そこに「あたえられた社会秩序を肯定する 気分、態度、思想がひそんでいる」〔65)をっけ加えた。
さらに、カウンツの指摘である「教育における中立性と いう仮象の成立」に学びつつ、 「階級社会における支配 的な教育の傾向は、っねに支配階級の利益と信念とに、
その価値の体系に、依存するものであった」{6 1}と教育 の階級性を指摘してみせたのである。
宮原は、戦後になってカウンツを批判的に学び取り入 れはじあたといえよう。
(2)ソーシャル・プランニングと生産教育論 の展開
戦後もっとも精力的に生産教育論を主張したのが宮原 であった。新教育の批判としての性格を強く持っこの生 産教育論は、はたして戦前批判の要素を如何に内包して
いるだろうか。
宮原は、49年「生産主義教育論」を発表し、生産教育 の輪郭を明らかにした。身体的労働と精神的労働との二 元的分裂の止揚やすべての主要な職業的な活動に必要な 教養の基礎の獲得についての計画化をはじめ、7点にわ たって提起されているが{67}、ここでは次の二つの点に 注意を払いたい。
生産教育は、科学的な生産人をっくるための教育であ り、産業の科学的基礎をたかめる教育であるから、「産 業の現在の秩序への教育ではなく、その新しい秩序をっ くりだすための教育である」とする(68㌔これは、先の 教育本質論でも出てきたものであり、宮原が教育の秩序 維持機能への転化を問題にしようとしていることが分か
る。
次に注目したいのは、宮原がソーシャル・プランニン グをあらためて提起したことである。彼は、日本の産業 の復興のためには、自由放任的資本主義経済はゆるされ ず、日本全体の経済力・資源力・技術力。労働力をもっ とも合理的に総合・調整する「広汎なソーシャル・プラ ンニングが必要である」(6 9)とのべるのである。
ソi・・一シャル・プランニング、これはあきらかにデユー イやカウンツらの考えであった。宮原は、52年、「アメ リカ教育学の自己批判」のなかで、カウンツの展望する 社会を「豊かな資源と高度に発達したテクノロジーとを 公共の福祉のためにソーシャル・プランニングのもとに おく社会のこと」(Te)と指摘していた。
このプランニングの意義については、その主体は誰か という問題を含め、興味深い宮原の見解を知ることが出 来る資料がある。48年、丸山真男との「教育の反省」と いう対談である。そこで丸山は、職業教育の必要の根拠 に触れ、資本主義社会の高度化にともなって社会的分業 がおしすすめられ、彪大な生産機構のメカニズムが成熟 してくると、人間のタイプが機械の歯車としてのみ発展 し、人間的な全体性と総合性が破壊されていく、そうい う問題にっいてどう考えるかと問いかけている{7 1)。こ れについて宮原は次のようにのべている。
生産過程が分業化されているなかで、人間が機械の塚 隷にならず、主人公になるには、やはり「この社会化さ れた生産過程を社会的な計画と統制のもとに」おき、
「労働者自身がこのソーシャル・プランニングに参加す
る。そういう方向以外には解決のみちはもとめられな い」のではないか。そして自分の部署を選択し、仕事の ソーシャル・コンテキストを理解する、いわば全体の意 識的部分とならなければならない。しかし、全体の意識 的部分となるためには、労働者が全体の計画と統制に参 与しなければならず、そういう職業的地位を要求しなけ ればならない。 「人間的な全体性の回復は、資本主義的 分業とこれに奉仕する職業教育のもとにおいてはまった
く不可能なことなのですから、そういう従来の分業の秩 序を破ることを考えねばならない。私はそういう意味で 新しい職業教育のあり方を模索しているわけです」〔72}
と。
労働者のソーシャル・プランニングへの参加が明瞭に.
示されており、しかもそれは人間的な全体性の回復のた めに資本主義的分業の秩序の変革を展望するものであっ
た。