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新潟水俣病の事例から

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【論文】

世代を超えた被害の社会学的疫学

新潟水俣病の事例から

関   礼 子

1.はじめに

ふたつの水俣病の発生から半世紀以上を経てな お、水俣病の被害の声があがり続けている。なぜ、

水俣病の被害はいつまでも問題であり続けるのか。

その理由のひとつは、水俣病の補償・救済制度 が抱える矛盾にある。1995 年の政治解決、2004 年の熊本水俣病関西訴訟最高裁判決後の行政救済、

その後の水俣病救済特別措置法(特措法)1)と、

被害者救済の枠組みは繰り返しつくられてきた。

最終解決をうたいながら、いずれの救済枠組みも 申請受付時期が限定されたため、最終の解決には 至らなかったのである。制度が想定する時期から 遅れて顕在化した被害者が、そのたびに補償・救 済を求めて裁判を提訴する構図が繰り返され、最 終的な解決は遠のいてきた。公害健康被害の補償 等に関する法律(公健法)上の水俣病認定制度は 生きているが、その弊害に対処する法や制度が時 限的であるという制度的矛盾からすれば、被害の

訴えが続くことは当然の帰結である(関 2015:

86)。

本稿は、2018 年末現在も裁判係争中のノーモ ア・ミナマタ第 2 次新潟全被害者救済訴訟(以下、

ノーモア第 2 次訴訟)のなかで、6 名の原告がで ている阿賀野川中流域のS集落を例に、集落のな かで水俣病はどのように経験されてきたのか、な ぜ被害の訴えが遅れたのかを考察していく。

新潟水俣病の被害は、メチル水銀に汚染された 川魚の多食という疫学条件と、水俣病に特有の症 状という 2 つの条件で判断される。後者について は、「水俣病の疑いあり」の診断書が客観的な資 料になりうる。他方、前者については過去の魚介 類の汚染状況、川魚を多食していた状況、水俣病 の被害の特徴とされてきた被害の家族集積性や地 域集積性を立証しなくてはならない。

とはいえ、高度経済成長期を経て、阿賀野川流 域の生活は大きく変化してきた。さらに、阿賀野 川中流域では、新潟水俣病第 1 次訴訟が終わって

裁判 新潟水俣病第1次訴訟 新潟水俣病第2次訴訟 新潟水俣病第3次訴訟 ノーモア・ミナマタ第1次新潟 全被害者救済訴訟

ノーモア・ミナマタ第2次新潟 全被害者救済訴訟 患者団体 新潟水俣病被災者の会 新潟水俣病被害者の会 2011年に新潟水俣病患者会 阿賀野患者会 阿賀野患者会

原告(認定/未認定) 認定患者 未認定患者 未認定患者 未認定患者 未認定患者

被告 昭和電工 国・昭和電工 国・県・昭和電工 国・昭和電工 国・昭和電工

提訴~判決(年月日) 1967.6.121971.6.21

地裁判決 1982.6.211992.3.31

(第1陣のみ地裁判決、控訴)

1996.2.231陣高裁和解 1996.2.2728陣地裁和解

2007.4.272015.3.23地裁判決 控訴~2018.3.23高裁判決 上告~係争中

2009.6.122011.3.3和解 2013.12.11~係争中

解決の枠組み 1973年補償協定 1995年解決協定 別の新潟市を相手取った抗告 訴訟高裁判決後に認定された 患者は第3次訴訟を取り下げ、

2名のみが裁判を継続

水俣病特措法

表 1 裁判を中心にみた新潟水俣病問題の推移(2018 年 12 月末現在)

(2)

から水俣病被害が顕在化したことから、被害の家 族集積性も地域集積性も見えにくい。また、身内 に対しても水俣病を語ることがタブー化され、世 代を超えて水俣病被害に関する情報がコミュニ ケーションされてこなかったという事情もある。

そのため、過去の集落の漁撈や食生活を復元的 に示し、水俣病被害に関する断片的情報を集めて、

被害の家族集積性や地域集積性を描くことが必要 となる。本稿は、S 集落の過去の漁撈や食生活を 検討し、裁判や被害者運動の資料、ヒアリング調 査から水俣病被害史を描くこと2)、いわば社会学 的疫学の手法から、見えにくい水俣病被害の全貌 を立体的に描き出すことを目的とする。その前提 となる新潟水俣病の裁判や被害者団体は、表 1 の ようになっている。

2.S集落における漁撈の位置づけと水俣病 の被害経験

2.1. 集落の概要

新潟県阿賀野市(旧安田町)S 集落は、阿賀野 川中流域にある 34 戸の農業集落である3)。近隣 には、船頭集落といわれた千唐仁・布目や小浮

(以上、旧安田町)、砂利採取業が盛んだった分田

(稗河原場、旧水原町)がある。これら集落はい ずれも水俣病患者を多く出している集落である。

S 集落は、阿賀野川の自然堤防上にあった集落で

(「角川日本地名大辞典」編集委員会 1989)、阿賀 野川に直接に面してはいないが、農業用水(新江 用水、新川)がひかれていた。阿賀野川から用水 路(幹線)へ流れた水が、支線の用水路、そこか ら枝分かれした水路を通って各水田に流れ込むの だが、それらは「川」、「用水」、「排水」、「掘りっ こ」などと呼ばれた。

農業は米作を主体とし、農作業のための牛馬、

採卵のための鶏などを飼っていた。野菜は女性た ちが市で売って「小遣い銭」とした。卵は年寄り のタバコ銭」にした。冬場は俵や縄をなう藁仕事 があり、箒づくりが盛んな頃は、50 本をひとま

とめにして問屋に売った。高度経済成長の頃にな ると出稼ぎ、日雇い仕事に従事する人も出てきた。

生活はほぼ自給自足であった。米と野菜をつく り、川魚を獲り、冬場に採卵できなくなった鶏を つぶして肉とした。たまに、海沿いの地域の「ハ マの衆」が自転車で行商に来ると、米と海魚を 物々交換した4)。市で海魚を買うこともあった。

2.2. 水俣病発生前後のS集落の状況

新潟水俣病が発生した 1965 年は、経済成長に より生活状況が大きく変化していく時期である。

当時の生活状況は現在の感覚では捉えきれないと ころがある。この頃、S 集落では米の脱穀後に残 る籾殻を用いて「ぬか釜」で飯を炊き、「掘りっ こ」で洗濯をした。阿賀野川で汲んだ水を飲んだ。

集落に商店はなく、近隣の千唐仁、小浮、分田に あった「タバコ屋」で、時折、酒、菓子や缶詰、

自家製の豆腐や納豆を買った。生鮮食料品はおい ていなかった。「肉だけでなく、豆腐や油揚げも めったに食べられなかった」、「納豆は冬になると 家でつくった」、「小浮の店屋の子どもは弁当に魚 肉ソーセージを入れてきたことがあるが、ソー セージなんて食べられなかった」頃である。

電化製品もまだ普及していない時期であった。

1965 年の冷蔵庫普及率は 50%で、この頃はまだ ワンドアのフリーザー付き冷蔵庫が主流だった。

2 ドア式冷蔵庫の普及が本格化するのは 1969 年 頃で、ほぼ全家庭に冷蔵庫が普及するのは 1975 年である(家庭電気機器変遷史編集委員会 1979, 1983)。

川魚は獲ったその日のうちに煮るか、囲炉裏で 焼いて食べた。コイを除けば、刺身で食べること はあまりなかった。冬場は雪のなかに魚を埋めて 貯蔵した。池を掘って魚を放しておく家もあった が、大量に保存するということはなかった。

冷蔵・冷凍保存ができないため、食べきれない ほど獲れたときには、近隣に分けた。囲炉裏で焼 いて保存することはできるが、一定量以上を串に 刺して焼くことはできないし、手間もかかる。た

(3)

くさん川魚が獲れれば、「いっぱい獲ってきた なぁ、(処理に時間がかかるので)畑仕事できな いなぁ」と言われることもあった。たくさん獲れ たときは、ごく普通に近所に配布した。魚を届け ることもあるが、「夕方、タライにとってきた魚 を入れておいておくと、欲しい人は顔をだしても らっていく」という情景もあった。集落内では

「くれるの当たり前、もらうの当たり前」だった。

自給自足の生活とは、土地の風土のなかで暮ら すということである。風土のなかで暮らすことは、

自然環境を最大限に利用して生活を組み立てると いうことである。自給自足の生活は必要なものを 必要なぶんだけ得ることで成立するが、これは世 帯内で完結するのではない。交換を通して資源は 必要な世帯に再分配されていく。隣の千唐仁や小 浮の親戚や友人などから川魚がおすそ分けされる こともあり、集落間での交換を通して得た川魚も 集落内で再分配された。

2.3. 川魚漁

輸送網が十分でなく、冷蔵・冷凍での運送技術 も発達していなかった時期、S 集落では米や野菜、

川魚が食事の基本だった。阿賀野川や農業用水で 川魚を獲るほか、水田漁撈も営まれた。S 集落の 漁撈暦をヒアリングによって復元したのが表 2 で ある5)

漁法は、主に釣り、アミ(投網)、ヤスであっ た。S 集落の当時の 36 世帯のうち、聞き取りや 第二次訴訟、ノーモア第 2 次訴訟の陳述書から、

過去に漁撈をしていたことが確認できたのは 19 軒(52. 8%)、そのうち舟を所有していた家は 2 軒、鑑札を持ってアユをとった家は 1 軒だった

(表 3)6)

なお、水田内にツツ(ウケ)を設置して魚を獲 る漁や、田んぼの水を抜く二百十日の漁は、ここ で示した 19 軒に限らず、集落全体で行っていた とみられる。

2.4. 川魚の調理と保存

S 集落は「川魚を豊富に食べられた」場所であ 表 2 S集落における漁撈暦

1 月

2 月 ○雪が固まると、長いヤスで土手から深みにいる寒ブナを獲る。1 尺以上のフナは尺ブナといった。

3 月 ○春は用水でコイ、フナ。

○田植えが終わった頃のライギョ。

○サツキの頃はナマズ、フナ、コイが用水に産卵にのぼってくる。アミでおさえた。夜はカンテラを使った。

「いっちゃんおいしい時期」。夜釣りもした。

4 月 5 月 6 月

7 月 ○夏のアユ。鑑札を買って獲った。焼いてツトにいっぱい刺した。

8 月 ○アユの次はドジョウ。

○二百十日は、川を区切って水を抜き、魚(ドジョウなど)を獲った。

9 月

10 月 ○カニは秋の稲刈りが終わる頃。

11 月

12 月 ○冬はあまり魚を獲らない。○冬はコブナなどの雑魚を獲る。

表 3 漁撈に従事していた世帯と漁法

漁法 軒数

ヤス、アミ、釣り 2

アミ、釣り 3

ヤス、アミ 1

アミ 3

釣り 6

不明 4

計 19

(4)

る。調理方法は、魚の種類に関係なく、焼くか煮 るというのが一般的だが、から揚げにしたという 家もあった(表 4)。魚は塩焼にすることもあっ たが、焼いた後に醤油に漬けて(焼き漬け)食べ ることが多かった。

水田用水期の漁は、小規模であっても繰り返し 漁ができ、温かい気候のため「焼き干し」での保 存に不適であるから、二、三日中に自家消費され るオカズトリの漁であるのに対し、水田乾燥期は、

用水路の排水をして大量の魚を一度にとることが でき、寒冷な時期であるため「焼き干し」での保 存に適していると指摘される(安室 2005)。

ただし、アユやサケの「麹漬け」、アユやヤツ メの「焼き干し」、サケの「塩引き」を除けば、

S 集落の川魚は特別に珍重されるものではなく、

「焼き干し」して大量に長期保存する必要もな かった。池にコイを放しておく、雪の中に入れて 保存するということもあったが、たくさん獲れれ ば「余所にやる」のが基本であった。川魚は、

「獲って食べる」、「もらって食べる」もので、

買って食べる物ではなかったし、アユやサケを除

けば、日常(ケ)の食であって、ハレの日に食べ る食ではなかった。

3.川魚の汚染状況ならびに喫食中止時期 S 集落で食べられていた川魚のうち、個体差は あるが、水銀値の高い魚種はニゴイ、川ガニ(モ クズガニ)、ウグイ、ナマズ、ライギョであり、

水銀値の低い魚はコイ、オイカワ、アユ、ヤツメ であるとされる(本間 1995: 125)。他方、1964 年以前に捕獲された幼魚中の総水銀値をみると、

オイカワからもウグイより高い水銀が検出されて いる(滝沢 1979: 217)。

阿賀野川の水銀汚染の継時的変化をみると、川 魚の水銀量は 1965 年から 66 年にかけて激減する が、その後は上下しながら横ばい状況となり、

1978 年に阿賀野川の「安全宣言」が出される。

この間、流域には新潟県から川魚の採捕・食用規 制が出されていたが、特に阿賀野川流域の中・上 流域では、はじめて認定患者がでる 1972 年まで は、川魚が喫食されていた。S 集落でも、「危険 表 4 川魚の調理法や食味

○ミゴを焼いて醤油をつけて食べた。

○ハエは煮たり、から揚げ、てんぷらにした。

○ヤツメは焼いて干してから食べると目に良い。

○ライギョやナマズは身が柔らかく淡泊である。

○小さいフナ(フナッコ)は甘露煮にした。

○フナは味噌煮、甘露煮にした。

○カニは塩茹でにして殻を割って身をしゃぶった。ミソも食べた。一度に二匹も食べた。

○川ガニは味噌汁に入れた。

○イトヨはよう食った。

○川エビは味噌汁やてんぷらで食べた。

○コイはコイ汁、甘露煮にした。

○ナマズは甘露煮にした。

○ドジョウはゴボウのササガキと煮て卵とじにした(柳川風)。

○川魚は出汁にしたが、ハレの日のご馳走には「煮干し」を買い求めて使った。

○川魚は醤油煮や味噌煮で、骨まで食べるように柔らかく煮た。

○川魚は焼いたものを、水からゆっくり煮て、骨が柔らかくなってから味噌を入れる。

○雑魚を味噌で煮て「魚味噌」にした。

(5)

だ」と噂が出ると食べないようにし、「心配ない」

と噂が出ると食べたりするような状況があった7)。 ノーモア第 2 次訴訟原告へのヒアリングでは、言 葉を濁しながらも、「10 年前まで」、「5 年前まで」

川魚を獲り、長く喫食していたと語る人もいた。

S 集落で食べていた魚種が具体的に確認できた のは 4 世帯である。ウグイは全国の川に広く生息 するため、生物汚染指標として用いられる、汚染 魚の代表格である(新潟県生活環境部 1979: 92)。

このウグイを食べたと確認できたのは世帯番号 1 だけだが、同じく汚染魚の代表格で新潟県の阿賀 野川総合調査で水銀値を測ったニゴイやフナは、

4 世帯すべてで食べていたことが確認できた。

4.被害の顕在化プロセスとS集落の被害状況 S 集落における新潟水俣病患者の顕在化プロセ スは、おおまかに 3 つの時期に区分できる。第 1 期は、1972 年に阿賀野川中・上流ではじめて認 定患者が出てから、1976 年と 1977 年の旧安田町 での自主検診、1982 年の第 2 次訴訟提訴を経て 1995 年の「政治決着」、その後の水俣病総合対策 医療事業の申請打ち切りまでである。第 2 期は、

新潟水俣病第 3 次訴訟の提訴、ノーモア・ミナマ タ新潟全被害者救済訴訟(ノーモア第 1 次訴訟)

の提訴と和解、水俣病特措法の締め切りまでであ る。第 3 期はノーモアミナマタ第 2 次新潟全被害 者救済訴訟(ノーモア第 2 次訴訟)の提訴後から 現在に至るまでである。

4.1. 第 1 期自主検診運動から水俣病総合 対策事業申請の締め切りまで

4.1.1. 中上流の患者認定と明和会の結成 新潟水俣病の認定患者が阿賀野川の中・上流に でたのは 1972 年、第 1 次訴訟判決後である。当 時、認定患者は新潟水俣病被災者の会に入り、新 潟水俣病共闘会議とともに補償協定締結のための 運動を行っていた。だが、S 集落を含む旧安田町 では、「再三にわたる共闘会議の患者組織の一本

化の申し入れを拒否し続け」、「明和会」が結成さ れた8)。明和会の事務所は旧安田町役場におかれ、

塚田十一郎参議院議員(当時)が明和会の代表に なった(のちに本田富雄安田町町長、当時)。

当初は 10 数名で組織した。最初から、共 闘会議とは別組織である。ここは塚田十一郎 の選挙地盤で、塚田さんは代議士もやったし、

知事もやった。弁護士資格も持っていたから、

本田(富雄)町長に相談して、塚田さんに代 理人をお願いすることになった。しかし、途 中で塚田さんと連絡がつかないことがあって、

本田町長に代理人をお願いした。明和会の補 償契約は共闘会議と同じものだが、交渉は個 別で行った。9)

塚田さんは参議院もしていて、町に選挙地 盤の一部があった。共闘会議からの呼びかけ があっても、ここらへんの人は共産党を嫌っ たので、明和会をつくることになった。患者 の会は、自分の立場からすると、一本になっ ていたほうが良いのだが、二本に分かれてい る。10)

第 1 次訴訟後に認定された患者は、阿賀野川沿 いの千唐仁や小松だけでなく、阿賀野川の本流か ら離れた保田からもまとまった人数が出て、多く は明和会に所属した。もちろん、少数ではあるが、

共闘会議の支援する新潟水俣病被災者の会に入る 人もいた。そのような人からみれば、明和会に 入っている人は、どんなに仲が良い間柄でも「水 俣病の“み”の字も出さない」し、「水俣病の話 にはあまり興味がない」素振りに見えた11)

明和会は独自の動きをするため、被災者の会が 昭和電工と補償協定を結ぶ際に足を引っ張るよう なところもあった。だが、1973 年に補償協定が 結ばれると、明和会は補償協定の蚊帳の外におか れ、1977 年頃までは死亡後の追加補償金が支払 われないなど、補償格差の問題を抱えることに

(6)

なった。

このように、旧安田町の認定患者は、阿賀野川 流域の他市町村の認定患者と異なって、独自に明 和会という組織をつくった。そして、この時期の S集落の認定患者は 1 名のみであった。

4.1.2. 旧安田町を中心とした自主検診運動 旧安田町の阿賀野川沿いの集落では、新潟水俣 病第 1 次訴訟後に集団検診の実施を求める運動、

自主検診を実施する運動、行政不服審査請求をす すめる運動が独自に展開された。

千唐仁を中心に実施された 1973 年の行政によ

る集団検診(船頭検診)は、流域住民の要求で実 現した、最初で最後の公的な集団検診であった。

この検診の後で、さらなる集団検診の実現を求め て保健所、旧安田町、新潟県などに「要望書」が 出された。

当時の「地元で集団検診を実現させる会」の資 料によると、集団検診を求める運動は、「認定さ れてる者と同じように魚を食べて来て、棄却後も、

少しも体の具合がよくならず、なぜ棄却となった のかの一言の説明もなく、また他の病気であると か治療とかの説明もないまま、たった一枚の棄却 通知で処分され、これでは納得できない」という

表 5 S集落の自主検診受診希望者(1976 年と 1977 年の 2 回分)

患者番号 世帯番号 発症年 男/女 備考

1 1 女 第 2 次訴訟中に認定

2 2 男 後に家族が特措法で救済

3 3 女 特措法で救済

4 11 S34 発症 女

5 12 女

6 14 女 特措法で救済

7 16 斎藤医師の診断を受ける

8 17 S36 発症 男 二次訴訟原告、医療手帳

9 23 女 医療手帳

10 24 S35 発症 女

11 27 S34 発症 女

12 女

13 28 S37 発症 女

家族が斎藤医師の診察を受ける

14 男

15 29 S34 発症 女 斎藤医師の診察を受ける

16 30 女 転居、2 次訴訟原告

17 35 男

18 36 男

19 S40 発症 女

出典:自主検診(第 1 回、第 2 回)受診希望者リストをもとに作成。

注:世帯番号は資料「S集落における被害顕在化状況」に対応。

(7)

ところから始まった。

この運動の中で、「他にも、そのような症状が あるという人が大勢いるということ」が明らかに なっていった。

この運動は「あくまでも健康被害を受けた者と して“なんとかしてくれ”という素朴な要求」で あり、「私たちの病苦と運動(やり方)を理解し てくれる人であれば、だれからでも力になっても らおう」という立場で進められた12)

旧安田町では、1976 年、1977 年の 2 度にわた り自主検診が実施されており、それぞれ約 100 名 が受診した13)。このうち、当時の検診希望者と 検診結果一覧の 2 つの名簿からS集落に在住した 者の情報を拾うと、表 5 のように 19 名、16 世帯 となる。当時のS集落 36 世帯の 44.4%の世帯で、

身体に何らかの不調を感じ、不安に思っている人 がいたことがわかる。また、名簿に記載の生年月 日をみると、明治生まれ 6 名、大正生まれ 10 名、

昭和戦前生まれ 3 名であり、高齢の人から水俣病 の訴えがあったことを確認できる。

旧安田町では、水俣病に認定されることは、厳 しい環境に身を投じることであった。認定になる とすぐにその情報が集落中に伝わる、認定になっ てタクシー運転手をやめざるを得なくなった、土 木の日雇いをしていたがやめるように言われて仕 事を失った、子どもが結婚する時期で水俣病にな らないよう診察を避けた、家族から 1 名以上の認 定患者がでると水俣病のマキ14)だと思われるの で認定申請を避けた、認定患者になって恥ずかし いと自死した人がいた。

こうした状況であればこそ、潜在患者の顕在化 には、地域ぐるみで集団検診を求める運動が重要 だった。S 集落では、資料「S 集落全世帯におけ る被害顕在化状況」の世帯番号 17 を介して世帯 番号 36 に相談があり、そこから自主検診の受診 希望者が集まったという経緯があった。1976 年 の自主検診の受診者のみをみると、表 6 のように 千唐仁・布目、小浮・小浮新田に次いで、S 集落 の受診希望者数が多いことがわかる。

しかし、地域ぐるみでの顕在化であっても、家 族にさえ水俣病については隠していた状況があっ た。実際、ノーモア第 2 次訴訟の原告になった人 であっても、自身の親が水俣病ではないかと不安 を抱えて過去に自主検診を受けていた事実を知ら なかった。

4.1.3. 行政不服審査請求の運動から第 2 次訴 訟提訴へ

2 度目の集団検診が行われた 1977 年、新潟で はじめて行政不服審査請求の口頭審理が行われた。

行政不服審査請求は 1977 年から 1987 年までに 160 件行われたが、1979 年に 1 件、1982 年に 1 件、計 2 件の棄却処分が取り消しになっただけで あった。この頃、認定申請が棄却される未認定患 者が大量に生み出されており、潜在患者が名乗り をあげるには難しい状況にあった。

77 年の 12 月 21 日だったと思います。若 い奥さんが、病苦で細い細いいちじくの枝で 首をくくって命を絶ってしまいました。ダン ナさんは、やはり水俣病を棄却になっている 人でした。奥さんは、なかなか申請に踏み切 れないでいたところでした。早朝でまだ家族 が寝ていた頃の出来事です。その前の晩、奥

表 6 地区別受診者数

地域 人数

千唐仁・布目 小浮・小浮新田 S

保田 小松 三川村石間 五泉市佐取

50 17 13  1  7  2  3

計 93

出典:関(2003: 205)を一部修正。

注: 「安田町水俣病検診結果一覧表」

より作成

(8)

さんは私に、「クスリはからだに合わないよ うだし、灸や薬草をはじめたらバカにいい按 配なんですョ」と話してくれていました。ダ ンナさんは、「これまでの苦労が水の泡に なってしまった、悲しいよりくやしい」と涙 を流しておられました。結婚してほんとうに 元気に過ごせたのは何年もなかったそうです。

(旗野 1985)

集団検診、さらには行政不服審査請求と、独自 の運動を続けてきた旧安田町の運動は、第 2 次訴 訟の提訴へとつながっていった。S 集落で一度は 顕在化した水俣病被害者のうち、第 2 次訴訟にま でたどり着いたのは 2 名である(うち 1 名が裁判 の途中で認定)15)。裁判の原告になるには心理的 に敷居が高く、また 1 世帯から代表して 1 名だけ が原告になるというケースが多々あった。すでに 認定患者が出た家は、新たな患者を出さないよう にしていた。そうしたことから、1992 年の第 2 次訴訟の第 1 陣判決後、国の水俣病総合対策事業 に申請し、医療手帳の対象になったのは、裁判原 告だった 1 名をあわせて、わずか 2 名にすぎな かった。

4.2 第 2 期第 3 次訴訟、ノーモアミナマ タ第 1 次新潟訴訟提訴から特措法締め切 りまで

4.2.1. 新たな患者の顕在化

2004 年の熊本水俣病関西訴訟判決で国の責任 が認められた後に、不知火海沿岸では新たに認定 申請を求める動きが出てきたが、新潟では目立っ た動きは見られないでいた。しかし、2007 年の 関西訴訟最高裁判決後初の認定審査会で 2 名が認 定され、同年、新潟水俣病第 3 次訴訟が提訴され た。また、2009 年にはノーモア第 1 次訴訟が提 訴された。

新潟水俣病の診断に長く携わってきた医師は、

斎藤恒医師と関川智子医師である。新潟水俣病第 3 次訴訟は斎藤恒医師が診断した患者が主に原告

になっており、ノーモア第 1 次訴訟は関川智子医 師が診断し、「阿賀野患者会」に所属している患 者が主な原告である。

S 集落のなかで斎藤医師の診断を受けた人は 5 世帯 7 名であるが、その診断結果は不明である。

また第 3 次訴訟およびノーモア第 1 次訴訟の原告 になった患者は 0 名である。

ノーモア第 1 次訴訟が提訴された 2009 年に特 措法が制定され、2010 年から申請受付が始まっ た。原告 173 名中、すでに認定された 2 名を除く 171 名が特措法の救済対象となり、裁判は 2011 年に和解した。特措法に基づく救済策の受付は 2012 年には締め切られたが、阿賀野患者会が把 握している患者情報によれば、S 集落では 19 世 帯 27 名が対象になった。

4.2.2. 被害顕在化を促した要因

自主検診運動から第 2 次訴訟への流れのなかで、

いったん顕在化した被害者が再潜在化したことを 論じてきた。自主検診運動で顕在化した 19 名の うち第 2 次訴訟に加わったのは 2 名のみであった。

特措法の申請過程で新たな被害者が顕在化し、19 世帯 27 名が救済されたが、これは自主検診運動 に加わった人よりも若い世代の人で、過去の自主 検診運動については親世代から聞かされていな かった。後にノーモア第 2 次訴訟で顕在化する人 であっても、当時は第 2 次訴訟についての関心は 高くなく、S 集落から顔や名前を出して活動して いた第 2 次訴訟原告(「資料 S 集落全世帯にお ける世帯別被害顕在化状況」の世帯番号 1716)) についても、「またテレビにでていたわい、くら いで見ていた。気にかけていなかった」という状 況であった。

そうしたS集落の雰囲気が変化するのは、世帯 番号 9 の働きかけによるところが大きい。阿賀野 患者会のメンバーであった世帯番号 9 は、自らも 特措法により救済されていたが、S 集落内で特措 法の救済を受けた人の名前を具体的にあげながら、

関川医師の検診を受けるよう 1 軒 1 軒、声をかけ

(9)

て歩いたという。こうした地道な潜在患者の発掘 運動によって顕在化した 4 世帯 6 名が、ノーモア ミナマタ第 2 次訴訟の原告になった17)

4.3 第 3 期ノーモアミナマタ第 2 次訴訟 の提訴から現在まで

特措法は水俣病問題の最終解決を目的として制 定された時限立法である。その前文には、次のよ うに書かれている。

これまで水俣病問題については、平成七年 の政治解決等により紛争の解決が図られてき たところであるが、平成十六年のいわゆる関 西訴訟最高裁判所判決を機に、新たに水俣病 問題をめぐって多くの方々が救済を求めてお り、その解決には、長期間を要することが見 込まれている。

こうした事態をこのまま看過することはで きず、公害健康被害の補償等に関する法律に 基づく判断条件を満たさないものの救済を必 要とする方々を水俣病被害者として受け止め、

その救済を図ることとする。これにより、地 域における紛争を終結させ、水俣病問題の最 終解決を図り、環境を守り、安心して暮らし ていける社会を実現すべく、この法律を制定 する。

しかしながら、特措法が申請期限を設けたこと に対しては、当初より潜在患者の申請の遅れが懸 念され、問題の最終解決につながらないと指摘さ れてきた。事実、新潟でも申請に間に合わなかっ た 22 名が、2013 年にノーモア第 2 次訴訟を提訴 した。原告数は、2018 年末現在、11 陣 136 名に のぼっている。

S 集落の 4 世帯 6 名というのは、集落の世帯数 や人数からみても、さほど多いとは言えない。し かし、みてきたように、S 集落の被害の顕在化に は自主検診受診時の 19 名と、特措法救済時の 27 名というふたつのヤマがある。その間に約 40 年

の歳月があることから、被害の顕在化は、親世代 から子世代にシフトしてきたことがわかる。こう した異なる時期の被害を一覧してみると、S 集落 の被害の家族集積性や地域集積性が浮かび上がっ てくる。

資料「S 集落全世帯における被害の顕在化状 況」をみると、36 世帯のうち、被害の顕在化を 確認できなかったのは 4 世帯のみであり、残る 32 世帯には過去に被害を訴えた人がいることが わかる。世帯ごとに顕在化した人の合計は、把握 できただけで 52 名にのぼる。もちろん、その背 後には、身体的に症状を持ちながら、顕在化の機 会を持たずに亡くなった人もいただろう。

5.犬猫の狂死からみた地域被害の状況 ノーモア第 2 次訴訟の原告らは、医師から「水 俣病の疑いあり」の診断書は得ているものの、汚 染された川魚の多食という疫学的要件を客観的に 立証することの困難を強いられている人々である。

そこで、前節では、世帯ごとの水俣病顕在化プロ セスから、水俣病の被害の特徴とされる地域集積 性や家族集積性を示してきた。

ところで、S 集落は農業集落であり、阿賀野川 の本流だけでなく農業用水や田んぼで漁撈を行っ てきたことから18)、汚染された川魚の多食とい う状況もやや見えにくい。そこで、見えにくい地 域被害をより可視化するために、本節では、犬猫 の狂死に着目しながら、川魚の分配の流れを可視 化してみたい(図 1)。

S 集落では、2 軒の家で犬猫の狂死があったと 記録されている。1 軒は新潟水俣病の公式発表以 前の 1962~63 年ころ、もう 1 軒は公式発表の 1965 年である。この 2 軒は、どちらも 1976 年以 降に中流域で展開された「地元で集団検診を実現 させる会」の運動のなかで顕在化した患者宅であ る。1982 年提訴の第 2 次訴訟では、それぞれ 1 人ずつ原告が出ている。資料「S 集落全世帯にお ける被害顕在化状況」に示すように、1 名は裁判

(10)

途中に認定され(世帯番号 1)、もう 1 名は裁判 の和解後に総合対策医療事業の対象者になった

(世帯番号 17)。

世帯番号 17 は自分の家でも川魚を獲っていた が、同じ第 2 次訴訟原告が出ている千唐仁と稗河 原場の家から川魚をもらっていた。他方で、ノー モア第 2 次訴訟原告のいる世帯番号 4 と世帯番号 8 に川魚を配布している。世帯番号 4 は川魚漁を していないが、特措法で 2 名が救済された世帯番 号 7、ノーモア第 2 次訴訟原告の出ている世帯番 号 11 からも川魚をもらっている。また、世帯番 号 8 は犬猫の狂死があった世帯番号 1 からも川魚 を入手し、特措法での救済者がいる世帯番号 13 に川魚を配布している。

ちなみに、現在、S 集落の犬猫の狂死について 尋ねてみると、「このあたりは猫を飼っている家 は少ないようだ」、「別の地域で狂死したというの

を聞いたことがある」などの答えが戻ってくるの みで、集落内で犬猫の狂死があった話は伝わって いないようである。S 集落を含めて、新潟水俣病 の地域被害状況を明らかにすることが難しいのは、

被害の顕在化の時期が異なると世代も変わること、

また世代間で水俣病の被害経験がコミュニケー ションされてこなかったことに因っている。

6.社会学的に捉えられたS集落の地域被害 新潟水俣病発生当初に戻って確認すると、S 集 落の生業および食文化の特徴は、以下のように整 理できる。

①流通や小売りが未発達で、ほぼ自給自足の生 活が営まれる状況にあった。

②川魚は日常(ケ)の食で、煮たり焼いたりし

稗河原場 千唐仁

患者多発地域(被害の地域集積性が顕著な地域)

猫の狂死があった世帯

S

集落

川魚漁をしていた世帯 川魚漁をしていない世帯

世帯番号7 特措法2名

世帯番号17 2次訴訟 医療手帳1

世帯番号1 2次訴訟認定1名 斉藤診断1名 世帯番号4

ノーモア22

世帯番号11 ノーモア22名 世帯番号8

特措法1名 ノーモア21

世帯番号13 特措法1

世帯番号2 特措法1

世帯番号9 特措法1

世帯番号 24

図 1 犬猫の狂死が指摘される世帯と川魚の流れ

(注 1)斎藤診断の結果は不明である。

(注 2)図中の稗河原場は、住所としてはS集落であるが、社会関係上は稗河原場に属する世帯を意味している。

(11)

て頻繁に食べた。

③「くれるの当たり前、もらうの当たり前」の 集落内には食の均一性があり、漁をする家も、

そうでない家も、川魚を食べていた。

④したがって、被害の母数は川魚が汚染されて いた当時に、S 集落に居住していた人と捉え るのが適当である。

また、S 集落は、隣接する患者多発地帯の千唐 仁を中心にした自主検診運動のなかで被害の訴え があったが、その後、潜在化と顕在化を繰り返し て現在にいたっている。そこから、以下の状況を 確認できる。

⑤S集落で水俣病が問題になって以降、なんら かの顕在化行為をとった人がいる世帯は、36 世帯中 32 世帯、52 名となる。

⑥犬猫の狂死が記録されている世帯を中心に川 魚の流れを追うと、漁をしていたか否かにか かわらず、被害状況が連鎖している状況がみ える。

⑦集落内での食の均一性や被害の連鎖状況など、

社会的文化的に把握される川魚の喫食状況か らすると、水俣病に特有の症状を訴える被害 者が、水銀に汚染された川魚の多食という疫 学条件を満たしていると考えることができる。

水俣病問題が長期化し、何度も最終解決がうた われながら、なおも最終解決に至っていないのは、

制度設計上の問題に負うところが大きい。水俣病 は公健法によって認定されるが、その補償は公健 法ではなく、補償協定によってなされる。

しかし、新潟水俣病の補償協定が結ばれた 1973 年から相当程度の年月がたち、広く被害者 を救済していこうという意図から最終解決が求め られたのである。あえて批判を恐れずにいえば、

公健法から水俣病を外して補償協定とのリンクを 切り、かわりに特措法を時限立法ではなく恒久法 として水俣病の補償・救済制度を再構築すること

が考えられてもよかった。

もっとも、特措法は、自民党から民主党への政 権交代間際に制定されたため、議論の時間が十分 でなかったという事情もあったろう。最終解決が 最終解決になるような制度設計がなければ、水俣 病は終わらない。

1) 正式名称は「水俣病被害者の救済及び水俣病問題 の解決に関する特別措置法」。

2) 以下、指示がないものは、2018 年 1 月 22 日から 24 日に実施した S 集落での聞き取り調査に依拠す る。

3) S集落で新潟水俣病の最初の認定患者がでた当時は 36 戸であった。

4) 物々交換であっても「買う」と表現することがあ る。

5) ノーモア第 2 次訴訟原告および子世代の語りから 漁業暦を復元した。住所上はS集落で社会関係上は 隣接集落の地域では、ウグイを冠婚葬祭用に用い た、コイやフナは妊産婦や病人に食べさせるため 珍重されていたという証言も残されていることか ら(二次訴訟原告番号 49 陳述書)、水銀汚染状況 を示す指標とされたウグイを避けて喫食を継続し てきた可能性も指摘しうる。

6) 阿賀野川の「安全宣言」(1978 年)以降に舟を所有 し、また鑑札を持った家を除く。なお、「安全宣 言」とは、新潟水俣病の発生を受けて新潟県が 行った、川魚の漁獲・食用規制の行政指導の解除 のことである。

7) 第 2 次訴訟の陳述書(世帯番号 17)による。

8) 旗野秀人氏の文書より。

9) 1993 年 12 月、明和会役員Aさんへのヒアリングに よる。

10) 1993 年 12 月、明和会役員Bさんへのヒアリングに よる。なお、共闘会議は、1970 年に新潟県民主団 体水俣病対策会議(民水対)を発展的に解消し、

多党派の組織として結成されたもので、共産党単 独の組織ではない。

11) 1993 年 12 月、旧安田町の被災者の会の認定患者C さんへのヒアリングによる。

12) なお、1976 年の段階で、「現在でもまったく食べな

(12)

くなったという者はほとんどなく、ミゴなどはな るべく食べないようにしている程度である」状況 であることが当時の資料に記されている。

13) 運動の経過については関(2003: 199-218)も参照 のこと。

14) マキとは、有賀喜左衛門のいう同族団のこと。マ ケ、イットウなど各地で呼称が変わる。ここでは 親族集団をイメージされたい。

15) なお、住所がS集落だが、社会関係的には稗河原場 集落に属する世帯を含めると、第 2 次訴訟の原告 は 3 世帯 4 名となり、さらにS集落から転居した人 を含めると 4 世帯 5 名となる。なお、「資料 S 集 落集落における世帯別被害顕在化状況」は前者を 除外し、後者を含めてカウントしている。

16) 以下、世帯番号とは、「資料 S 集落集落における 世帯別被害顕在化状況」における世帯番号を示す。

17) 近隣地域に嫁いだ人を含めれば 4 世帯 7 名である。

18) なお、S集落では水田漁撈が行われていたことから、

水銀系農薬の影響ではないかという疑問が生じる かもしれない。だが、「阿賀野川流域に散布された フェニール系水銀農薬が同川へ流入していたこと も可能性としては考えられるが、その量は極めて 小さく、その中に含まれるメチル水銀化合物の阿 賀野川の汚染に対する影響は無視しうるものと考 えられる」と結論されている(1968 年の「阿賀野 川水銀中毒汚染に関する政府見解」)。そもそも、

水田漁撈は全国的に農薬の多用によって姿を消し ていったものであり、S集落における川魚の汚染源 としても考えにくい。

参考文献

「角川日本地名大辞典」編集委員会 1989『角川日本地名 大辞典 15 新潟県』角川書店.

家庭電気機器変遷史編集委員会編 1979『家庭電器機器 変遷史 創立 30 周年記念』家庭電器文化会.

1983『家庭電気機器変遷史[追補版]』家庭電器文 化会.

関礼子 2003『新潟水俣病をめぐる制度・表象・地域』

東信堂.

2015「水俣病『解決』のために如何なる制度を構 想しうるか新潟水俣病問題を中心に」衆議院調 査局環境調査室『水俣病問題の概要』.

滝沢行雄 1979「新潟水俣病の疫学的研究」有馬澄雄編

『水俣病20 年の研究と今日の課題』青林舎.

旗野秀人 1985「私と水俣病」『どんこん』№ 3.

本間義治 1995『阿賀野川の陸水生物学的研究新潟 水俣病の原因究明との関連において』新潟日報事 業社.

新潟県生活環境部 1979『阿賀野川水銀汚染総合調査報 告書』新潟県生活環境部.

安室知 2005『水田漁撈の研究稲作と漁撈の複合生 業論』慶友社.

謝辞

本稿は科研費基盤研究🄑「語り継ぐ存在の身体性と 関 係 性 の 社 会 学排 除 と 構 築 の オ ラ リ テ ィ 」

(17KT0063、代表・関礼子)、基盤研究🄐「不確実性と 多元的価値の中での順応的な環境ガバナンスのあり方 についての社会学的研究」(16H 02039、代表・宮内泰 介)の研究成果である。

(13)

資料 S集落全世帯における被害顕在化状況(世帯別)

世帯番号   世帯別顕

在化人数自主 検診二次

訴訟行政 認定医療

手帳特措法 救済 斎藤医師

の診察 ノーモア 1 次 ノーモア

2 次 舟所有 猫狂死 川魚入手方法 魚種 備考

1    2 1 1 1 1 S37-

38 頃 獲る、もらう。

フナ、ウグイ、ナマズ、

ライギョ、アユ、ニゴイ、

ハヤ、ナツメウナギ

2    2 1 1 11 からもらう。

3   1 1 1

4 

   3 1 2 アミ、釣り。

親戚、7、17 からもらう。フナ、ハエ、コイ、ニゴ イ、川ガニ、ナマズ

5   1 1

6    2 2

7    2 2 獲る。

8    2 1 1 獲る。

1、17 からもらう。

9   1 1 11 からもらう。

10   1 1 釣り。

11 

   3 1 2

ヤス、アミ、釣り。島瀬 で一番多く魚を獲って近 所に分けた。主に 2, 9、24 に。

フナ、ニゴイ、コイ、ナ マズ、川ガニ、オイカワ、

アユ

12    2 1 1 あり 釣り、アミ。

13   1 1 釣り。8 からもらう。

14 

   3 1 2 1 アミ。 嫁いだ娘が

ノーモア 2 次原告

15    2 2 アミ(投網)、ヤス。

16    2 1 1 1 あり アミ(投網)、ヤス、釣り。

17     1 1 1 1 S40 頃 アミ。千唐仁や稗河原場より。 ニゴイ、フナ、ナマズ、

ハエ、アユ、マス

18   1 1 釣り

19   1 2 義父が特措

法救済

20   1 1 釣り

21    2 2

22    2 2

23   1 1 1

24   1 1 あり* アミ(投網)。

11 よりもらう。

25    2 2

26   親が釣り。

27    2 2 獲る。

28 

   3 2 1

29   1 1 1

30   1 1

31   0

32   0 釣り。

33   0

35   1 1 0

36    2 2 0 アミ、釣り。

親戚、7、17 からもらう。

52 19 2 2 2 27 4 0 6 3 2

(出典)旗野秀人氏、共闘会議、阿賀野患者会より提供の資料および第 2 次訴訟原告陳述書から作成。

(注 1)住所はS集落であるが、社会関係上、稗河原場に接続する世帯は含めていない。

(注 2)近隣集落に婚姻などで居を移した方については備考に記すに留め、カウントしない。

参照

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