『新エロイーズ』試論
一記憶・時間・死−
湯 浅 史
ジャン=ジャック=ルソーの書簡体長篇小説『ジュリ,あるいほ新エロイ ーズ』JαJfβ,0〟エα肋祝〃eJJg〃 わど∫gは1761年1月発行された。刊行と 同時に,パリの社交界で爆発的人気を博し1),1800年までには実に72版 を重ねるに至り,18世紀フランスの文字通りベストセラーであった。
1756年4月,ルソーは喧喋のパリを離れ,エルミタージュに隠遁生活を
始める。以後1762年6月までの約六年間ほ著述家としてのルソーの最も 充実した時期であった。『永久平和論』『ポリシノディ論』『摂理について の手紙』『ダランベールへの手紙』とりわけ二つの主要若作『エミール』
『社会契約論』はこの期に次々と完成されたのであった。こうした中で,
ルソーにとっては全く予定外であった『新エロイーズ』という著作が,ル ソー白身の夢と追憶を母胎として生まれ,公けにされたのであった。小説 の創作動梯・過程については,『告白』にルソー白身のかなり詳細な記述 がある2)。久方振りに享受する隠遁生活の平穏の中で,己れの生涯のさま ざまな時期を追想するうち,彼は憮然たる想いに肥えられる。「こんなに 燃えやすい感覚をもち,愛のかたまりのような心をもっているわたし」が,
「愛したいという欲望」を絶えて満足させることなく,すでに「老いの戸 口」に達しつつあるとは何ということであろうか.′ 「一年のいちばんうこ しい季節の六月に,涼しい木蘭で,ナイチンゲールの歌や小川のせせらぎ をきく」うち,思い出が次々に思い出を呼び起こし,ガレー嬢,グラフェ ンリード嬢,プレイユ嬢,バジル夫人の清らかな面影,果ては官能的ラル ナージュ夫人,ズリエッタまでが彼のまわりに勢ぞろいし,まるで彼は
「ハレムの天女にとりまかれている」かのようであった。こうして「突如 としていかれた牧童にかえった,謹厳なジュネーヴ市民」,白髪まじりの ジャン=ジャックほ「現実の存在には手が届かないので,空想の国に身を 投じ」・それを彼の「心にかなう存在」で溝たした。彼好みの顔立ちの究
色の髪の娘とブロンドの髪の娘,そして彼自身の美点と欠点を備えた,愛 すべき一人の若者が想像される。舞台としては,ヴアランス夫人の故郷で ある湖水のほとりのヴヴュが選ばれる。やがて「順序もつながりもない何 通かの手紙がばらばらに紅の上に書きつけ」られ,『新エロイーズ』は誕 生したのであった。
こうして,1756年8月末か9月初めに書き始められたこの小説は,1757 年11月,四部構成の小説として一応の完成をみたが,1758年初頭,ルソ ーほ五部を書くことを決心する。この五部がやがて二分され,1758年9月 には,六部から成る『新エロイーズ』が完成されていたものと推定される。
小説執筆の初期の頃(1757年春から夏にかけて),空想の恋が現実とな ったかのどとく,ルソーは「全生涯ではじめてのたったひとつの恋」を経 験する。このドゥドト夫人への恋は,いわゆるエルミタージュ事件Les
a#aires del Ermitage3)へと発展し,『新エロイーズ』にさまざまな形で
影を落とすことになるのである。
以上が,『新エロイーズ』の背景であるが,ここで,クレが「18世紀フ ランスの最も美しい小説」4〕と述べるこの作品の鷺異的とさえ言える現代 性に触れねばなるまい。ランソンの示した解釈,「官能的夢の道徳的教訓 への立ち吊り」5)は,長い間『新エロイーズ』に関する伝統的・一般的見 解とされてきた。現代人の鑑賞に堪え得ざる,誇張された愛のレトリック と説教臭がないまぜになった古くさい観念小説という評価の巾で,『新エ ロイーズ』の彪大にして詳細をきわめる校訂本を出したモルネほ,この作 品は基本的に,ドゥドト夫人との恋愛事件の虚構世界への置き換えにすぎ ないと断じた8)。1962年,ギュヨンは『世に認められざる傑作『ジュリ』』
と題した椎誌論文の冒頭で,「今日もはや誰も『ジュリ』を読みはしな い」と述べる7)。しかしながら,同じギュヨンは1964年,プレイアード 版の序文で,「ごく最近の茸要な新事実」として,ルソー研究の硫学たち のみならず,すべての先鋭的文学者たちが挙って『新エロイーズ』に注目 し始めた事実を記している8)。一方,オスモンの論考9)を始めとする幾多 の研究は,1757年のルソーの実体験に対する『新エロイーズ』の自律性を 実証する。こうして漸く,『新エロイーズ』は,均斉のとれ,一貫性のあ る構造を備えた10)一個の完成された文学作品として,正当な評価を受ける に至ったのである。
この小説が現代の我々をひきつけて止まないのは,そこに我々がルソ岬
思想の総和を認める11)故のみならず,個としてのルソーの内奥に揺れ動く 把え難い何かが,凝縮され,いわば普遍化された形で呈示されていること にあろう。クロッカーは雑誌論文−この論考には異論の余地が多々ある が,ここでは不問に付すとして−の末尾で,この小説の「驚くはど現代 的な性格」に触れ,「意識と無意識がまざりあう漠として複雑な世界,揺 れ動く意識や内的葛藤や心理的あいまいさの世界」に読む者を導き入れた ことこそが,『新エロイーズ』を不朽の小説たらしめると述べている12)。
事実,この作品における潜在意識の豊かさは,我々を睦目させるのである。
本稿では,主に小説の結末の特異性に着目し,記憶と時のテーマがどの ようにジュリの死を導いていくか,それがジュリとサン=プルーという一 組の恋人たちの二律背反する内的要論とどのように有機的に連関している かを探り,そのメッセージが謎のヴェールに包まれた小説,『新エロイー ズ』理解の一つの試みとしたい。考察の順序として,第一に,如何にして,
また何故に主人公たちの恋愛が「記憶」を巡って展開されるのかという問 題を検討し,次に,記憶の問題と必然的に関係する「時間」について彼ら が如何なる経験をするのか跡づけたい。そして最後に,ジュリの「死」が 意味するものを明らかにすることを通して,ルソーの根本的意図の解釈を 試みたいと考える。
*
『新エロイーズ』において注目すべき現象は,ジュリとその家庭教仰サ ン=プルーとの情熱恋愛が「現在時」において経験されるのではなく,「退 去時」になされた経験が「記憶」という形で持続的に生きられるというこ とである。この意味で,「記憶の小説,情念にまつわる思い出の説明し難 い力を頁祝し,それに環要な役割を与えているフランスで最初の小説」13)
というルッセの指摘は,正鵠を得ていると言えよう。
まず,作品中の主人公たちの恋愛体験を追うことから始めたい。一般的 な意味における彼らの恋物語は,小説の第一部においてしか描かれない。
ジュリとサン=ブルーが現実に会い,愛を語りあうのは,六部構成の作品 中,実に第一部のみなのである。しかしながら「思い出」のテーマは,す でに第一部から予告されていることに注目しておこう。「ああ,幻想と熱 狂と歓喜のあのひと時の不滅の思い出よ,決してお前ほ私の魂から消え去 るまい。ジュリの魅力がそこに刻みこまれている限り,お前は私の人生の
苦悩となり,幸福となるだろう」1■)とサン=ブルーが叫ぶのほ,二人の情熱 恋愛の出発点となるクラランの木立での最初の接吻の直後なのである。
平民であるサン=ブルーと貴族の娘であるrジュリとの恋は,階級を重視 し,体面に固執するジュリの父,デタンジュ男爵の知るところとなり,そ の怒りから身を守るべくサン=ブルーほ男爵領を離れる。こうして作品第 一部の末尾で,恋人たちは別離を余儀なくされるのである。以後,天然痘 を患いはとんど意識のないジュリと,密かに見舞いに訪れたサン=ブルー との無言にして瞬時の対面(第三部,第14の書簡)を除き,彼らは第四部 冒頭まで会うことはない。
第一部では現在時において経験された彼らの愛は,強いられた別離と同 時に,退去時の思い出の中に,記憶の中に封じこめられる。第二部冒頭で サン=ブルーは,記憶として持続されることによって,「過去は未来へと続 く力を愛に与えている」15)という信念を述べる。ジュリの方でも,別離以 降に恋人に宛てた第二信の中で,「あの清く,えも言われぬ」経験が「あ なたのど記憶に浮かびます限りは」,サン=ブルーがジュリを愛さなくなる ことはあり得ないと語るのである1¢)。このようにして,爾来,「愛の記憶」
は小説全篇を通じて二人の主人公たちを結ぶ絆となるのであり,彼らはひ たすら過去の愛を糧として生きるのである。いわば「回顧的反賽」によっ て,彼らは変を経験し続けるのである。
第二部全体を通じて,再び結ばれるという微かな希望を抱きつつ,彼ら は頻繁に書簡を交換する。それはまだ熱狂的恋愛(amour−fou)の歌と言 ってよい。しかし彼らの希望は,ジュリの父の恩人であるヴォルマールと ジュリの強いられた結婚によって,決定的に打ち砕かれる。ところが,注 目すべきことには,まさにヒロインの結婚そのものが,恋人たちの「愛の 記憶」を一層強化し,不動のものとするのである。サンごプルーは確かに
「もはや帰ってくるはずのない時,永久に過ぎ去った時」を哀惜し,絶望 に沈むが,同時にその時こそ「私の愛,唯一の愛,私の生の栄誉と魅力」
であると明言し,その時が彼の裡で消えることはないと述べる17)。ヴォル マールの妻となるジュリもまた,愛の思い出の不滅を誓うのである。「さ ようなら,わたくしの愛しい方,永遠にさようなら,けれども信じて下さ いませ,ジュリの心は愛しかった方を忘れることばできません18)。」
それでは,何故この小説において「記憶」が重要な役割を担うのであろ
うか。ルソーは「記憶」を如何なるものとして把えているのであろうか0
彼は自註の「tlで,「それが言其の記憶でないことは真実である」19)と言う。
さらにはジュリの次のような言葉に耳を傾ける必要があろう。「書物から 学ばなくともそのために子供の記憶力が働かないでいるということはあり ません。子供は見るものすべて,聞くものすべてから感銘を与えられ,そ れを見えます。人々の行為や話を自己の内に記憶し,周囲のすべてのもの が書物となり,思わず知らずのうちに,そこから絶えず記憶力を豊かにす るのです28)。」ここでは子供の教育において,書物中心の,知識の蓄積と しての記憶を斥け,生きた感性的体験に基づいた記憶を勧めているのであ る。すなわち,ルソーにとって意味をもち得る記憶とは,言葉や事実に関 わるものではなく,情念の深い飢域に根ざしたものなのである。『一合自』
の次の一節は,記憶についてのより明確なイメージを呈示する。「時,場所,
人々だけではなく,まわりにあったあらゆる物,大気の温度,その香り,そ の色,そこでしか感じられないその場所固有のある印象まで思い出す。そ して,それの生き生きとした思い出が私をそこへ再び連れて行くのだ21)。」
ルソーにとっての「記憶」とは,事物や感党の思い出というよりむしろ,
それら事物や感覚が感性に作用して惹き起こす絶対的共鳴を引き出すこと,
それを再現在化することに存すると思われる。事実ルソーほ,眼前の現実 に即座に参与することの気質的不可能を述べ,逆に,記憶の中に廼らせる ことによってその現実を完璧に把捉できると言う。「私は,自分が現在見て いるものは何も分からない。あとで思い出すものだけがよく分かる。私ほ,
自分の記憶の巾でしか,理解力がはたらかないのである。私の前でひとの 言うこと,ひとのすること,起こること,それらすべてのことについては,
私は何も感じないし,何も洞察できない。私の注意をひくのは外観の徹し ばかりだ。しかし,後になってそういうことがみな整ってくる。私は場所,
時間,語調,眼つき,身ぶり,状況を思い出し,何一つもらさない22)。」
彼の桁神活動のメカニズムにおいては,記憶によって追体験され,反窮さ れ,いわば浄化された現実のみが意味をもち得るのである。すなわち,『新 エロイーズ』において,最初の瞬間,激情と興奮の時には,混沌とし,不 明瞭であった愛の本質的意味は,記憶というフィルターを通して初めて,
主人公たちの眼に顕わになってくるのである。従って,逆説的ではあるが,
真の恋愛はまさにジュリとサン=ブルーが離れ離れになり,過去の変の思 い出を糧として生きることを余儀なくされる暗から始まると言えよう。レ イモンも指摘するように,愛しあったことを思い出すことは,ルソーにと
って永久に愛するということ,真の意味において愛するということなので ある23)。「記憶」は爽雑物を取り去った,純化された愛の本質的様相を明 らかにすると同時に,もしそれが完壁で永続するものならば,時の経過と ともに変わらざるを得ない愛を風化作用から守るであろう(なぜなら,「記 憶となった愛」は,記憶がそのままである限り,もはや変化しないのであ るから)。
*
さて,第四部冒融で世界周航の旅から帰国したサン=ブルーが,ジュリの 夫,ヴォルマールの招きにより,子供たちの家庭教師としてクラランで暮 すことになった時,ジュリとサン=プルーはどのような状況に身を置くこ とになるのであろうか。彼らの「愛の記憶」にとって,それは恵まれた機 会なのであろうか,あるいは苛酷なことなのであろうか。その事情を明終 に示すのは,サン=ブルーの次のような言葉であろう。「私に,過去を意の ままにすることができるでしょうか。数限りない愛の火が私をかつて焼き 遠くしたということを妨げることができましょうか。どうして単なる想像 の力で現在と過去を区別し得ましょう。恋人としてしか見たことのない人 をどうして友だちとして思い描けるのでしょう24)。」
かつての恋人同士が,いまは一方は他の男の妻となり,二児の母として,
他方はその夫妻の友人となり,彼らの子供たちの師として,同じ屋根の下 で暮すことになる。この事態からどのようなことが生じるであろうか。ま ず第一に,「過去」の変の思い出が絶えず容易に磨り,反窮され得るという ことである。ところが,第二に,その愛の記憶の簸りは「現在」の二人に とって困惑させられること,脅威であり,恐るべきことなのである。こう して「過去」と「現在」の相克,時間の錯綜した緊張関係,いわば「時の からくり」(jeu temporel)が表面化することになる。「現在の感情と同じ くらい,恐るべき思い出というものがあるのです。追憶によって心を動か されるのです」之5)とジュリは述べる。このようにして主人公たちの内面で,
「現在時」が要請する徳と,「退去時」が求める情熱恋愛が激しく括抗する ことになる。二律背反と言えよう。なぜなら一方では,過去に経験した帖 熱を「記憶」によって存続させ,絶えず反窮しようとする願望が,彼らの 心の深奥に潜んでいる。しかし他方で,現在における妻,母としての徳,
友人としての徳を遵守するために,彼らは記憶の磨りを抑制し,「現在」
と「過去」との違いを認識し,受け入れねばならないのである。
そしてまさしく,ジュリの夫,ヴォルマールの企てた「恋の治療法」
(thむapeutique)の狙いは,主人公たちに過去と現在の相違を認識させる こと,「時間の経過」に伴なう変化を受け入れさせることによって,愛の 記憶の魔力を取り除くことに存するのである。「サン=ブルーが恋している のは,ジュリニド=ヴォルマールではなく,ジュリ=デタンジュである」と 判断するヴォルマールは,サン=ブルーから記憶を取り去ることによって,
彼を「情熱から治癒させ」得ると考えるのである26)。「なるほど現在の彼 女は昔の彼女に非常に似ていますし,しばしばその思い出を彼に呼びおこ させます。彼は昔の彼女を愛しているのです。これこそ謎を解く鍵となる 言葉です。彼から記憶を取り去ってしまえば,もう愛情を抱かなくなるで しょうZ7)。」
こうして「湖の場面」のメイユリ一再訪のエピソードが設定される。ヴ オルマールは主人公たちの思い出の場所であるメイユリ一に28),彼ら二人 を赴かせることによって,退去時と現在時の相違を認識させようとするの である。だが,一方,サン=ブルーの側ではヴォルマールの意図とは逆に,
愛の記念の場所で十年の歳月を超え「過去のまま」のジェリを磨らせるこ とを企てる。聾え立つアルプス山脈を背景に広大な自然に囲まれた,孤独 なこの場所は,「天変地異から二人だけ逃がれた恋人たち」の永遠の隠れ 家のようである。絶えて消えることのない氷雪に覆われた壮大なアルプス は,太古から悠久に続く永遠を象徴するかのようであり,あたりの風景は 悉く十年前と同じなのである。そしてサン=ブルーの期待通り,二人の「過 去」は鮮明に蘇生し,一瞬恋人たちは時間を超越して双方とも「昔のまま」
であり,愛の記憶にいかなる変化もないことを確信する。しかし,次の瞬 間,彼らは,周囲のすべてが同じままであっても,時に従属する存在であ る彼ら二人はもはや同じではないこと,過去の己れと現在の己れには相違 があり,それは時間がもたらした「変化」に他ならないことを認識せざる を得ないのである。十年の歳月が流れたからこそジュリは他の男と結婚し,
母となり,サン=ブルーは世界の果てまで見聞を広めてきた成熟した男と なったのである。こうして「治療法」は,恋人たちに「愛の記憶」の不変 を確認させたと同時に,逆らい難い「時の流れ」とそれに伴なう人間存在 の変転を認識させたと言える。ヴォルマールの治療は,半ば成功し,半ば 失敗したと考えられよう。
従って,小説後半三動こおいて,ジュリとサン=プルーをもその構成員 として包みこむクララン共同体とその生活が主たるテーマとなる中で,主 人公たちの愛の記憶は時には心の深層に沈潜し,時には表層に湧出する心 理の間軟となるのである。現在と過去を巡って絶えず動揺し,往きつ戻り つする彼らの心理は,いわば人間の実存そのものに内在する分裂・矛盾を 露呈するものと言えるであろう。例えばクララン共同体の平和と歓喜の象 徴であり,理想的友愛の実現のクライマックスをなすブドウ収穫祭の夜に も,突如「身震い」がサン=プルーを襲うのである。「これらの歌にかつて 私たちが用いた言い回しや表現を見つける時には,クレールは微笑せずに はいられず,ジュリは顔を赤らめずにはいられず,私はため息をつかずに はいられないのです。その時,彼女たちに眼を注ぎ,過ぎ去った時代を想 いおこして,私は身震いに襲われ,耐え難い重苦しさが不意に私の心にの しかかるのですZ9)。」こうしてサン=ブルーは,後半三部において彼が直接 ジュリに宛てた唯一の書簡の中で,愛の記憶の永遠を言明するのだ。「あ あジュリ,時間も心遣いも消すことのできない永遠の刻印というものがあ るのです。傷はなおりましても,痛が残ります。(…‥・)私たちがもう同じ ではないとしても,昔の私たちを,私ほ忘れることはできないのです80)。」
ステイ〆マット
この療痕のイメげジは,いわば聖痕として永遠に刻み込まれ,「時間も心 遣いも」消すことのない記憶を表象していると言えよう。
それ故にこそ,一旦鎮静の方向に向かうかに見えた「愛の記憶」の魔力
が,第五部のサン=ブルーの不吉な夢:の場面でかつてないほど激烈に露呈
されることも了解され得るのである。ゲィルヌーヴの或る宿屋で,案内さ
れた部屋に入った瞬間,サン=ブルーは強い衝撃に打たれる。なぜなら彼
はその部屋が,十年前シオンに行く途中で滞在した部屋と同一であること
を認めたからである。その瞬間,彼の裡で無意志的に記憶が簸る。「私は
非常に激しい感動を受けたので,即座に,その当時の自分に再びなったよ
うな気がしました。十年が私の人生から消え去り,すべての不幸な出来事
が忘れ去られました。(・・‥‥)ああ,時よ,幸福なる時よ,お前はもうな
い。私は愛し,愛されていたal)。」狂おしい興奮状態の中で,次のような
不吉な言葉が彼の口から洩れる。「どうして彼女ほ亡くならなかったのだ
ろう。(‥‥‥)そうだ,私はその方が不幸ではないだろう32)。」その夜,彼
は顔をヴェールで覆われた,観死のジュリの幻を夢に見るのである。我々
はここに,サン=プルーの意識下に深く沈潜していた抑圧された撤望の境
出を見なければなるまい。なぜならこの夢を誘発したものは,他ならぬ愛 の記憶の磨りであるからである。このサン=ブルーの無意識的願望は何に 拠るものなのか,それは結末における現実のジュリの死とどのように関連 するのかという点については,後に再び考察したい。
*
ところで,『新エロイーズ』はジュリの死をもって完結する。作品の結 論として呈示されたこの死は,どのような意味を担い,とりわけ記憶と時 間のテーマにどのように関わるのであろうか。この間題の検討に入る前に,
まず作品において「死」のテーマがどのように現われるか見ておきたい。
全体を僻撤すると,作品の冒頭,中央,結びの部分に三つの葬儀が位置し ていることがわかる。第一の死はクレールの養育係シャイヨの死であり,
この事件は小説展開の本筋に直接には関係しないが,第二の死であるジュ リの母の死は,ヒロインとヴォルマールとの結婚の直接的誘因をなすもの でかなりの重要性をもつ。そして第三のジュリの死が,小説を締め括る鼓 も重要な事件であることは明らかであろう。注目すべきことば,少なから ぬ場面で,恋人たちの心理の底流に,死へ傾斜する情動が看取されること であり,密かな死への願望が透視されることである。すでに情熱恋愛の初 期の矧こ,つまり初めて結ばれた「変の一夜」の直後に,サン=プルーは 死を呼び寄せる有名な一節を語る。「ああ,死にましょう,愛しい人よ,
死にましょう,私の心の最愛の人よ.′ あらゆる歓喜を汲み益くしてしま った後の味気ない青春をこれから私たちはどうすればよいのでしょう33)。」
恍惚と陶酔の只中で,彼は,至福の瞬間は死によってのみ持続され得ると 直感するのではなかろうか。そして,一瞬成就した愛の結びつきを,その あとの瞬間に続く時の流れという危険に委ねることなく,死によって永遠 化することを願うのではなかろうか。
いわゆる「愛の種痘」(inoculation del
amour)の場面にも(ヴォルマールとの結婚がもはや避けられないものとなった時,ジュリは重い天然痘 に確り,その病いとそれがもたらすであろう死を喜んで受け入れようとす る。そして密かに会いに来たサン=プルーは,意識のない恋人の病める手 に接吻することによってその揃いと死を分かちあうことを欲する),死に よって二人の結びつきを永遠なもの,不変なものにしようとする願望が認 められるのである。また同時にここでは,死によって,別離の苦悩から,
また絶えざる内面の葛藤から解放されることへの願いをも読みとれるであ ろう。そしてこの願いこそが,世界伯航の旅に出発するサン=プルーの心 に秘められた歓喜の悟の源をなすものなのである。「広漠たる海よ,無限な る晦よ,おそらく私をそのふところに呑み込むことになる海よ,揺れ動く 私の心に訪れない平安を,お前の波涛の上で取り戻したいものだ.′34〉」作 品を前半三部と後半三部に分かつ,この長期にわたる危険な旅は,直前に エドワード卿との自殺是非論議が位置することからも推察されるように,
間接的な自殺ともみなされよう。
作品の中央部に位置し,重要な山場となる場面,そして最もドラマチッ クに「死」へ向かって突進するかのように見えるエピソードは,サン=ブ ルーがジュリとの心中死の誘惑に駆られる「湖の場面」である。前述の通 り,「治療」の過程においても「愛の記憶」は生き生きと廻り,存続して いるのであるが,また同時に,自分たちの過去と現在の問には,逆らい得な い時の流れに因る変化が生じたことを認めざるを得なかったサン=ブルー ほ,深い絶望に提われる。レマン湖での舟遊びが終わらんとする頃,彼は
「長い間の苦悩」から逃がれるためには,また二人の愛が時とともに変化 することなく永遠に続くためには,死以外の手立てはないと確信するに至 る0「私は彼女を私と一緒に波間に突き落とし,彼女の腕の中で,私の生 と,長い間の苦悩を終わらせたい気特に激しく駆られました35)。」ところ で,周知の通り,1757年11月に一旦完成された四部構成の『新エロイー ズ』は,二人の恋人たちの湖での溺死で完結していたはずであった。だが,
今日見られるような六部構成の小説(1758年以降に加筆訂正され,1761年 出版されたもの)においてほ,この湖の場面で描写されるのは,死への強 い誘惑のみにとどまっている。最初の構想では結末をなしていたはずの主 人公二人の死は,−それがベルノの推定のように「二人の自殺」である にせよ36),あるいほギュヨンの考えるように「不作為の事故」であるにせ よ37)一現在の小説とはきわめて異なる方向へ作品の意味を導いたことは 間違いない。こうした結末は,トリスタンとイズー的な,情熱恋愛の死によ る成就・完結を示すものであろう。しかしながらルソーは,作品の結びと して最終的に恋人たち二人の死を放棄し,ジュリ単独の死を選んだ。一体,
『トリスタン物語』の恋人たちにとって,愛の究極が死を媒介とした両者
の永遠・不滅の結合に存するならば,『新エロイーズ』の恋人たちにとっ
て,愛の絶対的到達点としての二人の死は,彼らの愛の根源的要請に全面
的に応えるものではないのではなかろうか38)。
そこで,現在の小説の結末をなすジュリ単独の死の意味を考察するため に,小説最終郡にさらに焦点を合わせてみよう。まず問題となるのは,前 述したサン=プルーの「悪夢」の場面である。夢の中で彼は,顔をヴェー ルで覆われた瀕死のジュリの姿を見るのである。やがて小説が展開される に従って,この彼の夢は現実となる。それ故,彼の夢は事実上予言的役割 を担うものと言えよう。この点に関して,ルソーの自註に次のようなきわ めて興味深い一文が見られる。「事件はやがて起こるから予言されるので ほない。予言されたからこそ起こるのである39)。」つまりルソーは,サン=
ブルーの夢とジュリの死との間に,明白な因果関係を認めるのである。と いうよりむしろ,彼はそれを杭極的に意図したのではなかろうか。すなわ ち,サン=ブルーの歩こそがジュリの死を惹き起こしたのであり,換言す れば,サン=プル一におけるジュリの死への願望そのものが,一彼の夢 が彼自身の額意識的噸望の表出に他ならぬことは,前に見た通りである
−彼女の死を誘発したと考えられよう。そしてこの死の願望は,サン=
プルーの側にのみあるのではなく,ジュリの側にも,すべてを解決し,救 済するものは己れの死以外にあり得ないという考えが槌限の地点まで切迫 していたのである。過去の求める情熱と現在の要請する徳の間で,如何に 厳しい緊張の中に生きなければならないかをジュリは告白している。「誰 が死ぬまで自分に打ち克つことができるでしょう? ああ,あなた,人生 は快楽にとってほ短かいものですが,徳にとっては何と良いものでしょ う.′ 不断に警戒していなければならないのです。(‥‥‥)一瞬でも己れを 忘れますと破滅してしまいます10)。」それ故に彼女は,遺書において自分 の死を,当然予期された死,「幸福な死」として次のように記すのである。
「もう一目でも生き延びたら,おそらくわたくしは罪を犯したことでしょ う.′ あなたと共に余生を送りましたならどういうことになりましたでし ょう? 知らずして,何という危険をわたくしは目したことでしょう.′
(・‥…)あなた,わたくしは都合のよい時にこの世を去るのです。(‥…・)
わたくしは喜んで去ります41)。」
ところで他方,我々は,ジュリの死が事故に因るもの,すなわち,湖に 落ちた彼女の息子を救ったことによる犠牲の溺死であることを知っている。
その意味で彼女は,「母性愛に殉じて」42)死ぬと言えよう。従って,一方 では,情熱恋愛こそがジュリの死の間接的原因となるのであり(なぜなら
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彼女は「愛の記憶」を純粋に守るために死ぬのであるから),他方では,
稼がその直接的原因をなすのである(なぜなら母としての務めを全うして 死ぬのであるから)。このように,これまで相克し,緊張関係にあった情 熱恋愛と徳が,一致協力してジュリの死を実現させるということは,すな わち,この結末のエピソードが,両立不可能であった二つの要請の統合
(synth昌se)を象徴すると解釈されよう。それ故にこそ,ジュリは遺書の 申で次のように明言するのである。「わたくしはなすべきことをしました。
徳は汚れないまま,わたくしに残っておりますし,愛は悔いのないまま,
わたくしにとどまりました▲3)。」
そしてジュリの死は,彼女の実存そのものを「記憶」としての存在へと 変える。それは主人公たちの愛にとって,如何なる意味をもつのであろう か。我々はすでに「現在時」において経験された情熱恋愛が,二人の別離 を起点として「愛の記憶」へと封じ込められたことを見てきた。この「記 憶としての愛」は純粋にして本寅的な変へと高められるのである。しかし クラランでの再会の後,二人ほ「時のからくり」にさらされることになる。
つまり一方で彼らは,愛の記憶を絶えず反窮し,廻らせずにはいられず,
他方で「現在」の要請する徳に従わねばならないということが,間断なき 内的葛藤・緊張を産み出したのであった。ところが,いまやヒロインの死 によって,彼女の存在そのものが記憶となり,彼らの愛は最終的・決定的 に「記憶」の中へ封入されることになる。ジュリは死によって,人間の実 存に伴なう有為転変の世界,「時間の流れ」によって変化し,風化にさら される世界を去り,「永遠」の領域へ入ったのである。
息絶えて,肉体の腐敗の始まるジュリの顔を,真珠の縁取りのある金糸 のヴェールで覆いつつ,クレールは「あたりに響き渡る声」で叫ぶ。「こ のヴェールを取りのけようとする恥ずべき手は呪われよ.′ この面変わり
ジJミスl
した顔を見ようとする不敬な眼は呪われよ.′=)」このクレールの挙止,そ してジュリの変貌を覆い隠すヴェールにほ,この上なく深い暗示が籠めら れているのではなかろうか。すなわちそれは,一切の「変化」,一切の「時 問の菜」の拒否を象徴するのである。そしてこのヴェールとは,サン=ブ わざ
ルーが世界周航の際,最愛の人のためにはるばるインドから持ち帰ったも のに他ならない。従って,ヴェールに託されたサン=ブルーの愛が,「変化」
の拒否,すなわち「時間」の拒否を表明しつつ,ジュリを永遠に包むのだ
と解されよう。こうして,ジュリとサン=ブルーの愛は,彼女の死によっ
て,地上的な徳の要請を満たすとともに「永遠の記憶」としての愛へと昇 華されるのである。
以上で,この小論は終わるわけであるが,最後に,この永遠の記憶とし ての愛を信ずることはルソーにおいて霊魂の永遠性,不滅性を信ずること と相通ずるように思われる点を補足しておきたい。知られている通り,当
フィpゾ7
時のいわゆる哲学者たちの問で,ルソーの宗教観は独特なものであった。
彼はディドロやドルバックの唯物論を理性的には理解しつつも,「理性と ほ独立して私の信仰を導く内的感情」45)に従い,霊魂の不滅を信ずるとい う意味で,信仰を捨てなかった。「友よ,私ほ神の存在を信じています。
そして,私の魂が不滅でないとしたら,神は公正ではあらせられないでし ょう。私には,このことこそが宗教の本質的なもの,有用なものと思われ るのです48)。」ルソーが『新エロイーズ』において,記憶をある意味で時 間を超越するものとして,神聖視,絶対視したのは,おそらくこの信念と 関連があるものと考えられる。
詮
1)ただし,当時の知識人たちの反応はきわめて冷ややかなものであったことを什言しておかねばならない。ヴォルテールの執拗なまでの激しい攻撃を始めとし て,パリソ,ビュフォン,フレロンらは挙って『新エロイーズ』を非丼した。
例外としてダランベールは,この小説は「深い情熱に心を満たされた」者にし か味読されないと述べ,デュクロは暖かい讃辞を惜しまなかった。
2)エビ∫Gフ花々∫滋ク〝∫,1ivreIX,0.C.,Bibl.de!a P】占iade,tOmeI,Gallimard,
1959,pp.426−427,pp.430−431.
3)この間の事情は次の書に詳しい。
H.Gui11emin,《Les a仔aires del Ermitage》,A乃〃αJg∫J.−J.月0〟g∫gα〟,ⅩⅩⅠⅩ,
1941−1942,pp.59−258.
4)H.Coulet,エg ro∽α乃ノ〟∫9〟
∂′αR 〃OJ〟Jわ乃,Armand Colin,1967,p.401.
5)G.Lanson,《L unit占dela pens占e deJean−Jacques Rousseau》,A〃″αJg∫,
ⅤⅠⅠⅠ,1912,p.17.
6)エα入bむむgJgg月石Joぎ∫g,Edition critique par D.Mornet,Hachette,1925,
tomeI,p.87.
7)3.Guyon,《Un chef・d oeuvre mさconnu:J〟J∠♂》,エビ∫cαん了gr∫ゐ∫〟d,NO 367,1962,p.335.
8)エα入わ祝〃βgJβ月ZJoどぶg,0・CリBibl.dela Pl占iade,tOmeII,Gallimard,1964,
《IntroductiollS》,p.XX.
9)R.Osmont,《Remarquessurla gen占se etla composition deん‡Ⅳ川㍑仇 f#わざ∫g》,A〃〃αJg∫,ⅩⅩⅩⅠⅠⅠ,1953−1955,pp.93−148.
7(;
10)『新エロイーズ』執筆のどく初期からすでにルソーは作品のおおよその全体構
造を念頭においていたという見方は現在,有力になりつつある。トゥルッソン は,それを実証する一つの試みとして,この小説の直前に書かれ(1756年6月 と推定される),中断・放棄された二つの小品(『クレールとマルセランの恋』
『−サヴォワ人,あるいはクロード=ノワイエの生涯』)に,『新エロイーズ』の 原型が見い出されることを示した。(Voir:R.T∫OuS5011,《P∫占1ude5 丘 エα
肋保むgJJe月壱わざgゼ》,βeわr戌ggヱ保rノンα乃ヱ∂ざf5Cあe乃混刀dゆα乃オ5亡んe乃工如r〃f〟r♂,
Akademie一Verlag,1971,pp.413−425)
11)エリスは『新エロイーズ』がルソー思想のいわば集大成であり,総括であるこ
とを証明しようと試みた。(Voir:M£.Ellis,J〟Jgg∂rエα入b抑β批月言わざ∫g:
α草加ゐg∫g∫q/月∂〟∫∫g〃〟 =ゐ0αg加,University of Toronto Press,1949)
12)L.G.Crocker,《Julie oula nouvelle duplicit占》,A乃〝dJg∫,ⅩⅩⅩⅤⅠ,1963−
1965,p.152.
13)J.Rousset,《RousseatlrOmanCier:エα ♪わαγ¢i〜e f影go首5e》,Jgα乃−J(打9〟g5
鳥肌敬称La Baconni占re,1962,p.69.
14)エα∧わ〟〃g脇月払7独,0.CリBibl.dela Pl占iade,tOmeII,Gallimard,1964,
1ettre14,Ire partie,p.64.(以下,本稿において,『新エロイーズ』のテク
ストの引用はすべてこの仮による。)
15)1ettrel,ⅠIe partiらp.190.
16)1ettrell,ⅠIe partie,p.225.
17)1ettre19,ⅠⅠIe patie,p.369.
18)1ettre20,ⅠⅠIe partie,p.377.
19)Ia note de Roussea11,p.579.
20)1ettre3,Ve partie,p.580.
21)op.citリIivreIII,p.122.
22)ibidリ1ivreIII,pp.114−115.
23)M.Raymond,《J.−J.Rousseau,Deux aspects de sa vieintるrieure(inter−
mittences et permanemce du《moi》)》,A7‡〃αJg∫,ⅩⅩⅠⅩ,1941−1942,p.43、
24)1ettre3,ⅠVe parfie,p.415.
25)lettrel,ⅠVe partie,p.402.
26)1ettre5,ⅠVe partie,p.417.
27)1ettre14,ⅠVe partie,p.紬9.
28)メイユリーが,恋人たちの情熱恋愛の象徴に他ならぬことを指摘しておく必要
があろう。なぜなら,十年前のサン=プルーのメイユリー訪問(第一部,算26 の書簡)は,二つの決定的事件一木立での最初の接吻と最初の肉体的結びつ き一に挟まれて位置し,さらにほ,後者の事件の誘因ともなったからであ る。従って,「愛の記憶」の消去を企てるヴォルマールにとっても,また反対 に,それの蘇生をもくろむサン=プル一にとっても,メイエリーは選ばれねばな らぬ舞台なのである。
29)1ettre7,Ve partie,p.609.
30)1ettre7,ⅤIe partie,p.675.
31)】ettre9,Ve partie,p.615.
32)ibidリp.615.
33)1ettre55,Ire partie,p.147.
36)J.−L− Bellell叫《Les formes del amour dansエα♪ん〟むβJJg月諺わ言∫g》,A乃一
乃αJg∫,ⅩⅩⅩⅠⅠⅠ,1953−1955,p.194.
37)op.cit.,P.XLIV.
38)『新エロイーズ』における愛の観念の問題は,稿を改めて論じなければならな
い重要な問題である。この小説で,ルソーはベトラルキスム(p如rarquisme)を 出発点としつつ,独白の恋愛観を展開しているのであるが,ここでは次の一点 を挙げるのみにとどめておきたい。主人公たちの情熱恋愛は,特に小説後半に おいて,全体的愛・普遍的愛を志向するものとして示される。クララン共同体 の中心的人物として,彼らは恋愛至上主義による自己充足的傾向や,閉鎖的・
排他的要素を超克しようとするのである。ジュリについて語るサン=ブルーの 次の言葉はその事情を端的に表わしている。「この類なき女性は妻であり,友 人であり,娘であるのと同様に母でもあるのです。そしてまたそのようなもの として,彼女は恋人でもあったのです(1ettrell,ⅠVe partie,p.486)。」
39)1allOte de Rousseau,p.737.
40)1ettre6,ⅤIe partie,p.667.
41)1ettre12,ⅤIe partie,p.741.
42)1ettrell,ⅤIe partie,p.717.
43)lettre12,ⅤIe partie,p.741.
44)1ettrell,ⅤIe partie,p.737.
45)Corre∫タ0〃dd〃Cgg
〝βr
ZJg dβJ.−J.R〃〟∫∫gα〟,tOmeIII,ArmandColin,1925,p.287.
《(・…‥)j
aiconsult占Ia nature,C est−a−direle sentimentilltむieur quidirige ma croyanceind毎endamment de ma Raison.》
46)ibid.,p.287.
《Mon ami,je crois en Dieu,et Dieu ne serait pasjlユSte Simon ame
n,飢aitimmortelle・Voilace me semble tout cequela Religion a d,es−
Sentielet dutile.》