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芸術における真理とは何か ̶̶

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(1)

はじめに

ジル・ドゥルーズの哲学は,芸術への絶えざる言及とともに発展してい ったといっても過言ではない.しかし,なぜ彼自身が芸術について語ると きも絶えず哲学を行ってきた,と表明しているのだろうか.哲学は何らか の形で真理に関わる一方で,芸術もまた真理に関わるからではないだろう か.このような真理観は,実はハイデガーに依るところが大きいように思 われる.というのも,『芸術作品の根源』においてハイデガーは,真理を

「生起(

Ereignis

événement

])として経験されるもの」であるとし,真理

が自らを芸術作品の中に据えることが芸術の本質である,と規定している からである.ドイツ語

フランス語間の翻訳における訳語選択の問題も相 俟って,ハイデガーとドゥルーズの関係に関して,とりわけ芸術と真理の テーマについてはこれまであまり言及されることがなかった

1)

.しかし,

ドゥルーズ哲学における芸術の取り扱いに関して考察する上で,ハイデガ ー的な真理観を抑え,それを基にドゥルーズにおける芸術と真理の問題の 発展を考察することは不可欠であるように思われる.とはいえ,ハイデガ ー論という形でのドゥルーズの著作はなく,また言及も限られている.そ のため,ドゥルーズが具体的にどのようにハイデガーを読んだのか,とい う形で問いを立てることはできない.そこで本稿は,同系列の意味内容を もつ亀裂(

Riß

裂け目(

fêlure

)概念に注目することによって,ハイデ ガー

ドゥルーズ間に補助線を引きつつ,ドゥルーズ哲学の芸術との関係 の一端を明らかにすることを目的としたい.「亀裂(

Riß

)」概念は,『芸 術作品の根源』において,芸術の本質を規定する上で重要なキーワードの 一つであり,ドゥルーズにおける「裂け目(

fêlure

)」のテーマは,ゾラ,

フィッツジェラルド,ラウリーの文学に言及しながら,繰り返し現れるテ ーマである.その中でも今回は,「裂け目」に関して一定の定義が与えら れているゾラ論を中心に読解したい.まずは,ハイデガーの真理観とドゥ

芸術における真理とは何か

̶̶ ドゥルーズの fêlure とハイデガーの Riß ̶̶

黒 木 秀 房

(2)

ルーズの真理観を比較検討した後に,ハイデガーの「亀裂」概念とドゥル ーズの「裂け目」概念を照らし合わせつつ,ドゥルーズの「裂け目」解釈 を読解することによって,「裂け目」に関する表現形式の問題を考察したい.

1 . ハイデガーとドゥルーズの真理観

ドゥルーズの真理観を探る上で重要なのは『プルーストとシーニュ』で あるように思われる.ここでドゥルーズは「真理とは何か」という形で直 接的に真理を問うことはしていない.むしろ,真理へのアプローチの仕方 について,哲学とプルーストの芸術を対置させ,その差異を際立たせてい る.まずは,ドゥルーズが述べるところの哲学における真理へのアプロー チについて見ていきたい.

思考という積極的意志,真なるものへの欲求や自然的な愛が人間の中にあると 想定するのは哲学のおかす誤りである

2)

ここでドゥルーズは,哲学が真理探求を行う際の前提について批判してい る.その前提とは,「真理への意志の普遍性」と「理性の合理的な使用」

である,とまとめることができよう.このような前提に基づいて思考する 哲学では到達しえない真理がある,とドゥルーズは考えているのである.

一方でドゥルーズは,哲学がこれまで扱ってこなかった真理へのアプロー チをプルーストの文学のうちに見て取っている.

真実は,われわれに真なるものを考えさせ,探究させるように強いる何かある ものとの出会いに依存している

3)

作品に含まれている思考を促す出会いの対象をドゥルーズは「記号

signe

)」と呼んでいた.この記号のある種の暴力によって促される限り

において,真理が明らかにされるのであり,ここにドゥルーズ特有の「思 考の受動性」を見出すことができる.この「思考の受動性」こそが,まさ に既存の哲学による真理へのアプローチに対峙する新たな真理へのアプロ ーチであるといえるだろう.

とはいえ,一見,芸術の肩を持つかのようにみせるドゥルーズの立ち位 置を,この箇所だけで判断するのは性急に過ぎよう.というのも,既に述 べたように,ドゥルーズは絶えず哲学をしていた,と繰り返し主張してい

(3)

るからだ.だとするならば,ここでドゥルーズは新たに哲学を作りなおそ うとしている,と考えることができるのではないだろうか.哲学が何らか の形で真理に関わるかぎりにおいて,新たな哲学は,新たな真理観ととも に作りなおされなければならないだろう.

ハイデガーもすでに伝統的な真理観に対峙し,新たな真理観を提示しよ うと試みていた.そのことが端的に現れているのが,『芸術作品の根源』

である.ハイデガーは,まず芸術家と芸術作品の本質を規定する「芸術」

とは何か,という問いを立てる.そして,ゴッホの《靴》への言及を通し て,芸術作品において真理が生起していることを明らかにしている.

ヴァン・ゴッホの絵画は,道具,すなわち一足の農夫靴が真理において[

in

Wahrheit

]それである0 0ものの開示である.この存在するものはその存在の不

伏蔵性[

Unverborgenheit

]の内へと歩みでる.存在するものの不伏蔵性を,

ギリシア人たちはアレーテイア[ɑ'ληʹθεια]と名づけた.われわれは真理

Wahrheit

]と言うが,この語ではほとんど何も十分には思索していない.こ

こで,存在するものの開示が,その存在するものがそれにほかならないものへ と,そしてそのもののまさにそれらしいあり方へと生起するなら,作品におい て真理の生起が活動しているのである

4)

このハイデガーの真理観の特異性を一言でまとめるとするならば,真理

Wahrheit

)は「隠れなさ(

Unverborgenheit

)」である,ということである.

ハイデガーの様々な著作の中に見出すことができるように,ハイデガーは 真理の語源であるギリシア語の「アレーテイア」に遡り,このアレーテイ アの訳語として「隠れなさ」という語を用いている.ハイデガーは,存在 するものが明るみの内に引き出され,存在するものが存在そのものとして こちらに立ち現れる瞬間を「真理の生起」と呼んでいた.したがって,真 理は最初に設定される到達点ではなく,また単にロゴスによって建設され るものでもない.ある条件下において,存在するものがそのもののそれら しいあり方で現れ出るものである.その条件とは,芸術である限りでの芸 術作品の内である.つまり,真理とは芸術作品において現れ出るのである.

このように定義可能なハイデガー的真理の三つの性質,つまり,アレー テイアとしての真理,生起するものとしての真理,芸術作品における真理 は,先に見てきたドゥルーズの真理と極めて似ていると言えないだろう か.というのも,ドゥルーズにおける真理とは,記号を解釈することによ

(4)

って折り広げられる真理であり,偶然の出会いによる真理であり,真理へ の思考を促す記号は芸術作品のうちに包含されているものであるからだ.

そこで,真理が生起する「場」が芸術作品である,ということに注目し,

真理が芸術作品においていかに現れ出るかという点について,ハイデガー とドゥルーズを比較しながら考察していきたい.

ハイデガーは真理の生起を「世界(

Welt

)と大地(

Erde

)の闘争(

Streit

)」

として考えている.ハイデガーは非常に独特なかたちで,何度も繰り返し 言及しながら,一つ一つの概念を掘り下げている.ここでは,その全体に 渡る詳細な検討を行うことは不可能であるため,比較的まとまった言及が 行われている箇所に注目しながら,一つずつ確認して行きたい.ハイデガ ーは「世界」と「大地」に関して,次のように述べている.

世界とは,歴史的な民族の命運(

Geschick

)となるような単純にして本質的 な諸決定の広い軌道の,それ自体を開けている開けである.大地とは,つねに 自己閉鎖し,そのようにして保蔵するものが,何ものにもせき立てられずに現 れてくることである.世界と大地は,本質的にたがいに異なるものであるが,

しかし両者はけっして切り離されてはいない.世界は大地の上にそれ自体を基 づけ,大地は世界中いたるところに突出する.しかし,世界と大地の間の関係 は,けっしてたがいにまったく関わりをもたない対置されたものという空虚な 統一に萎縮することはない.世界は,大地の上に安らいつつ,大地をいっそう 浮き立たせようとする.世界は,それ自体を開けるものとして,どのような閉 ざされたものをも容認しないのである.しかし,大地は,保蔵するものとし て,世界をそれ自体の内に引き入れ,留保する傾向がある

5)

ハイデガーによれば,芸術作品のうちには二つの本質動向がある.一つは

「世界」を空けて立てることであり,もう一つは「大地」をこちらへと立 てることである.この「世界」とは,単なる現前するものの集合体ではな く,想像されるものでもない.「世界

存在」というハイデガーの概 念にも表れているように,「世界」はわれわれに対して開かれている「開 け」であると同時に,われわれが絶えず包みこまれている何ものかであ り,われわれを条件づけている何ものかである.その一方で大地とは,わ れわれが用いるものであるが,しかしそれ自体はあらゆる侵入を防ぐ,自 己閉鎖したものである.ハイデガーにおいて,この二つの運動が可動性を 保ったまま統一性を持ったものが,真理を内包する作品なのである.その

(5)

統一性とは,「闘争」である.ただし,この「闘争」は,真理がそのつど 生起する,という動性を確保するために,開けの後に保蔵される,という 単純な総合と区別されなければならない.

ハイデガーは「闘争」について次のように説明している.

闘争は,単なる溝を裂開することとしての亀裂[

Riß

]ではなく,それは闘争 し合うものたちの相互帰属の親密さなのである.このような[親密さとして の]亀裂は,対向的なものたちを,一致した根底からのそれらの統一の由来の 内へと共に拉し去る[

zusammenreißen

].それは根底への拉し去り[根底の

亀裂(

Grundriß

)]である.それは上への

拉し去り[上への

亀裂(

Auf-

riß

)]であり,これこそが存在するものの空け開けが上へと立ち現れる

Aufgehen

]さいの根本諸諸動向を描き出す.この亀裂は対向的なものども

を二つに破裂させるのではなく,対向的なものを,尺度と限界とによって,一 致した輪郭,すなわち囲繞する拉し去り[

Umriß

]の内へともたらす

6)

一見矛盾するようにも見えるこの「闘争」は,「亀裂(

Riß

)」という語と ともに展開されている.この語の解釈については後に詳述するが,ここで は,「闘争」が持つ構造に注目したい.「闘争」という語から,相容れない 二項の対立や,一方が他方を打ち負かすといったイメージを想起すること が可能である.しかし,ハイデガーにおける「闘争」とは,親密性を表わ すものであるという.つまり,「闘争」は異なる二つの対立を強調するも のではなく,異なる二つのものの根底に潜む統一性を示すものである.

ところで,「闘争」という概念を提示するとき,ハイデガーの念頭にあ ったのは,ゴッホの《靴》であった.ハイデガーは,農夫が生きなければ ならない「世界」と農夫がそこに住まい,食糧を得る「大地」を読み取り,

農夫の労働の辛苦と困難を切り抜けた喜びであるところの「闘争」の痕跡 として《靴》を見出していた.一方で,ドゥルーズもまた,芸術家が読み 取ることができる記号の「世界」と芸術家がそこに住み,養分を得る「大 地」の「闘争」を,芸術家へと至る「習得の物語」としてプルーストの作 品を読解しているということができよう.

ここでは,これ以上,真理論という形で,両者の理論の比較検討を行う ことはできない

7)

.しかしながら,両者ともに,既存の哲学における真理 に対峙し,新たな真理について考える上で,芸術作品を参照していた点,

また,真理は芸術作品のうちに包含され,芸術作品との出会いのうちに生

(6)

起するものであるという点,さらには,芸術作品のうちに「闘争」を読み 取っているという点で一致していることを確認しておきたい.

2 . 亀裂( Riß )と裂け目( fêlure )の構造

これまで,ハイデガーとドゥルーズの芸術における真理に関する密かな 共鳴について見てきた.芸術がそのうちに真理を明らかにするものである とすれば,哲学はその真理を概念として抽出しているのではないだろう か.ここでは,ドゥルーズのゾラ論における「裂け目(

fêlure

)」概念を,

ここまで見てきたハイデガーの概念「亀裂(

Riß

)」に照らし合わせつつ,

芸術における真理の構造を見出したい.とはいえ,ドゥルーズのハイデガ ーによる影響の痕跡を探るというよりはむしろ,ハイデガーを援用する形 でドゥルーズの概念を考察したい.

この二つの概念が比較可能なのは,「亀裂(

Riß

)」というドイツ語はフ ランス語の「裂け目(

fêlure

)」を訳語として選択することが可能であるか らだ

8)

.ハイデガーの概念「亀裂(

Riß

)」は,

1962

年版ウォルフガング・

ブロクマイヤー訳では

trait

というフランス語に訳されている.

trait

には,

線,輪郭,特徴,表情,表現など多様な意味がある.しかし,ドイツ語の

Riß

に含まれていて,フランス語の

trait

には含まれない意味がある.そ れは,潜在的な何らかの精神的な異常,という意味である.この意味を考 慮するならば,ドイツ語の

Riß

に対応するフランス語は,むしろ

fêlure

で あるといえないだろうか

9)

.フランス語の

fêlure

には,亀裂,ひびといっ た意味だけではなく,心の傷あるいは精神的な異常という意味で用いられ る場合があるからである.

ドゥルーズは,「裂け目」を現代文学における一つの大きなテーマとし て考えていた.このテーマの下にドゥルーズが主に取り上げる作家は,エ ミール・ゾラ,スコット・フィッツジェラルド,マルカム・ラウリーであ る.三者とも国籍は異なり,一見何の関係もないように見えるのだが,ド ゥルーズはそこに一つの同じテーマを見出しているのである.フィッツジ ェラルドの短編『崩壊(

The Crack-up

)』(

1936

)のフランス語訳は,

fêlure

である.また,ゾラの『獣人(

La bête humaine

)』(

1890

)の有名な一節の

うちに

fêlure

という語を見出すことができる(そして,ドゥルーズは「ゾ

ラと裂け目」の冒頭で,テーマ導入のためにこの一節を引用してい る)

10)

.とはいえ,これらの要素だけでは,一つのテーマの下にこの多様 な一群の作家を扱う理由にはならないだろう.ちなみに,これらの作家の

(7)

中で,ドゥルーズが始めて取り上げたのは,ゾラであり,『意味の論理学』

1969

)に補遺として収録される以前に,「ゾラと裂け目」は

1967

年にゾ ラ『獣人』の序文として出版されている.また,マルカム・ラウリーの名 は『プルーストとシーニュ』第二版(

1970

)に見出すことができる.つま り,初期ドゥルーズ哲学の芸術との出会いのうちにすでにそのテーマを見 出すことができる.しかし,それだけではなく,後に『千のプラトー』

1980

)などでも発展させられる.このように,ドゥルーズ哲学における 芸術との関係について語る上で,欠くことのできないテーマなのである.

しかし,なぜこのテーマが重要であるのか,またこのテーマの下に一見関 係のないように見える一群の作家を繰り返し取り上げられているのか,不 明瞭であるように思われる.そこで,芸術における真理のテーマをこの概 念のうちに見出すことによって,ドゥルーズの狙いをより明確にしたい.

まずは,「ゾラと裂け目」における「裂け目」概念の性質を確認してい きたい.ドゥルーズは「裂け目」というテーマを導入するにあたって,以 下のように述べている.

遺伝は,裂け目そのものである.つまり,知覚不可能な亀裂や穴である.真の 意味において,裂け目は,病気の遺伝ための経路ではない.裂け目はそれだけ で,遺伝のすべてであり病気のすべてである

11)

ゾラの「ルーゴン・マッカール叢書」における遺伝のテーマはよく知られ たものである.ドゥルーズはこのゾラにおける遺伝のテーマを「裂け目」

として読解しようと試みている.このテーマは,ルーゴン・マッカール叢 書の統一性をなすもの,いわば作品一つ一つを結びつける横糸である.し かしながら,繰り返しドゥルーズが強調しているのは,裂け目が何かを伝 えるわけではなく,裂け目そのものが遺伝であるということである.遺伝 としての裂け目とは,身体は健康であるにも拘らず,突如として精神的に 変調をきたすことである.したがって,この変調が何かの病の兆候である のではなく,この変調そのものが病であり,これが遺伝しているというわ けである.ここから,ドゥルーズにおいて「裂け目」とは,意識とは無関 係に突如として露になるものであるが,それと同時に知覚しがたい潜在的 な形でルーゴン・マッカール叢書全体を貫いているものである,というこ とができる.

ドゥルーズは,この「裂け目」概念に関する考察を深めていく前に,「裂

(8)

け目の周りに配置されるもの」を問うている

12)

.これはおそらく,裂け 目が潜在的で知覚しがたいがゆえに,われわれの言葉では到達不可能なも のであるため,まずはその外堀から埋めていこうという戦略からであろ う.ドゥルーズによれば,この裂け目の周りに配置されるものとは,ゾラ が言うところの「本能(

instinct

)」である.とはいえ,この概念が示して いるのは,精神生理学的総体ではないということをドゥルーズ自身が指摘 している.それでは,ドゥルーズが見出すゾラ的本能とは何だろうか.

本能が指示するのは,一般に,生活と生存の条件,歴史的で社会的な環境(こ こでは第二帝政)の中で決定される生活方式の保持の条件である

13)

本能とは一般的に生の保存のための生得的な行動であるが,その本能は歴 史的,社会的に規定されているということがドゥルーズの強調するゾラ的 本能の特異性であろう.言い換えるならば,ゾラの小説においては,本能 によって,その本能を持つ登場人物の住む「世界」が規定されているので ある.この本能は,金,女,名声,アルコールといった,対象との結びつ きによって,われわれ読者の前に立ち現れる.ここで,「歴史的,社会的 に規定されている」とは,「世界」と対象の組み合わせが固定されている ことを指し示している.この固定された本能と対象の結びつき毎に「世 界」が立ち上がり,この「世界」の組み合わせによって,ルーゴン・マッ カール叢書全体が構成されているのである.

このように,ドゥルーズはゾラのルーゴン・マッカール叢書全体のシス テムを二つの観点から考察している.すなわち,潜在的な次元における

「裂け目」 と現働的な次元における「本能」である.またドゥルーズは,

この二つのサイクルを「大きな遺伝」あるいは「他なるものの遺伝」と「小 さな遺伝」あるいは「同じものの遺伝」とも呼んでいる

14)

.それでは,

一体この二つのサイクルはどのように連関しているのだろうか.

別の用語で言えば,本能が形成され,対象を見出すのは裂け目の縁においてだ けであるとするなら,逆に,裂け目が自己の道を行き自己の蜘蛛の巣を延ばし 方角を変え各身体で現実化するのは,裂け目に対して道を開いてやる本能との 関係においてだけである.本能は,あるときは裂け目を少し貼り合わせ,ある ときは裂け目を伸ばしたり深くしたりする.そして,裂け目は最後の崩壊に到 るわけだが,これもまた本能の労働が請合っているわけである.したがって,

(9)

二つの秩序の間には恒常的な相関があり,この相関が最高点に達するのは,本 能がアルコール中毒的になり,裂け目が決定的な亀裂になるときである.二つ の秩序は,大きな環の中の環として密接に婚姻しているが,決して混じり合う ことはない

15)

本能と対象の結び付きの組み合わせが世界によって規定されることはみて きたが,本能が対象と結び付くその作動因となるのは裂け目によってであ る.なぜならば,本能は,一般的に生の保存を目的としているがゆえに,

精神的な傷である裂け目をカバーする役目を果たすからだ.しかしなが ら,本能は裂け目によって条件づけられているため,精神的に満たすため に身体の健康を阻害してしまうことがある.その最も典型的な例がアルコ ール依存症である.繰り返しになるが,ゾラにおいてはアルコール依存症 が遺伝するのではなく,裂け目が遺伝しているのである.そして裂け目を 覆うための本能は歴史的社会的に規定されている.しかし,一方でアルコ ール依存症という固定された本能−対象の関係は,身体が健康である限り において機能している.このように身体と本能の絶えざるせめぎ合いがア ルコール依存症のテーマのうちに潜んでいる.とはいえ,この闘争におい て感情が問題になるわけではない.実際,ドゥルーズが強調するように,

ゾラにおいて問題なのは,感情ではなく,まさに裂け目であるということ である.つまり,裂け目を満たすためにアルコールや殺人などの対象と本 能が結びつくのであって,そこに後悔などの感情はなく,あくまで裂け目 が問題となっている.

これまでみてきたように,本能の遺伝は,本能と対象の固定された組み 合わせが伝えられるのに対し,裂け目の遺伝は裂け目そのものが遺伝され るのである.潜在的な裂け目の遺伝が現働化する際には,絶えず異なるも のとして現れる.したがって,この二つのサイクルは,全く異なるもので ありながら,互いに干渉し合っているのである.本能によって対象に向か わせるその原動力となるのが裂け目であるのに対して,裂け目が現働化 し,われわれの前に現れるのは本能を通じてである.そして裂け目が現働 化する際には,絶えず異化作用が働いている.

ドゥルーズがゾラのルーゴン・マッカール叢書のうちに見て取った「裂 け目」とは,その叢書全体に通奏低音のようにして流れる潜在的な空虚で ある.この空虚は,無時間無空間の空虚ではなく,覆うことを促すような 空虚である.裂け目の周りに配置される本能が,空虚を覆い,生を保存さ

(10)

せようと努める一方で,偶然の出会いによって裂け目が現働化し,本能と 合流して,生を破壊することもある.この空虚をドゥルーズは端的に「死 の本能」と呼んでいる.

裂け目が指示するものは何か,あるいはむしろ,裂け目とは何か.あの空虚で あり,それは,〈死〉,〈死の本能〉である

16)

死の本能とは,周知の通りフロイトの概念である.これを極めて単純化し て言えば,生の保存あるいは拡張を前提とするその他の本能とは異なり,

有機的な生物の根源的な無機的な状態への欲求である,とまとめられよ う.ただし,ドゥルーズが強調するのは,死の本能こそが,その他の本能 を条件づけているということである.『獣人』においては,本能とその対 象のコンビネーションが変化しながら,本能と対象の同一化が行われ,反 復される.

このように,ドゥルーズはゾラの登場人物において,本能と対象が結び 付いていることを発見すると同時に,本能が生の保存を目的とする一方 で,アルコールという対象が生をおびやかすものである矛盾を見出してい た.さらに,このむすびつきを規定すると同時に生を闘争のうちへともた らすものを潜在的な死の本能であると規定した.ところで,世界と大地が 闘争関係のうちにありながらも,その根底において統一性を見出すことが できるような,互いを区別する線であり,互いを結び付ける線をハイデガ ーは「亀裂」と呼んでいた.このハイデガーの真理構造に鑑みるならば,

ドゥルーズはまさにゾラの作品のうちに本能の真理を見て取っているとい えよう.

3 . 死の本能の表現形式

ここまでドゥルーズの「裂け目」概念を,ハイデガーの「亀裂」概念に 照らし合わせることで,ドゥルーズの芸術における真理構造として考察し てきた.それでは,この真理はいかに表現されるのだろうか.ドゥルーズ は,「死の本能」として解釈されるゾラにおける裂け目の表現について,

以下のように述べている.

われわれの語は,本能にしか行き着かないが,その意味・無

意味・結合を受 け取るのは,他の審級,〈死の本能〉からである.本能のあらゆる歴史の下に

(11)

は,死のエポスがある

17)

厳密に言えば,人間の死を経験できるものは誰もいない.にもかかわら ず,誰もが死という非経験的な領域に向かう性質を持っており,この非経 験的な領域,言い換えるならば,超越論的な領域こそが生を条件づけてい る.その一方で,我々の言葉もまた,超越論的な領域によって条件づけら れている.しかし,経験に裏打ちされている我々の言葉は,この超越論的 な領域には届かない.したがって,死の本能をわれわれの経験的な言葉で 語ることは不可能である.

しかし,ここで用いられている「エポス」という言葉のうちに,ドゥル ーズが読み取ったゾラの文学形式を見,死の本能を表現する術に関してヒ ントを得ることは可能であるように思われる.死の本能が表現されている ゾラの文学に対し,ドゥルーズは「悲劇」あるいは「ドラマ」と区別する 形で,頻繁に「叙事詩」という言葉を用いている.例えば,アリストテレ スによれば,叙事詩形式の特徴は一つの時間における複数の出来事を扱っ たものである.さらに,彼は悲劇との差異に関して単に出来事の再現では なく,全体を通じて作者の考えを出すことが肝要である点を挙げてい る

18)

.このように,叙事詩においては語り手の存在が重要な位置を占め ているといえるだろう.それでは,『獣人』の語り手が産み出している効 果とは何であろうか.ドゥルーズは次のように述べている.

機関車は,対象ではなく,明らかに叙事詩的な象徴であり,ゾラにおいては常 にそうであるように,書物のすべてのテーマと状況を反映する〈大いなる幻影〉

である.ルーゴン

マッカールのすべての小説には,場所でも証人でも作用体 でもある,幻影化された巨大な対象がある

19)

ゾラにおいて語り手の役割は,まさに象徴的なものを利用することによっ て,言葉では直接到達不可能な領野を目に見える形にすることではないだ ろうか.とりわけ,『獣人』において,死の本能の象徴的役割を担うのが,

機関車であり,あるいはドゥルーズの言葉を借りるとするならば,まさに

「機械」なのである.つまり,ゾラの語り手は蒸気機関車ラ・リゾン号と いう象徴を利用する形で死の本能を描いているのである.注目したいの は,ここで言われる象徴とは,単に現実にあるもの同士の代替物であるの ではなく,外部にその参照項を持たない象徴であるという点である.この

(12)

象徴はあくまで作品のなかで立ち上がるものであると同時に作品の推進力 となっており,この象徴を中心に一つ一つのドラマが配分されている.つ まり,作品の基調となる潜在的な死の本能の表現であり,物語の推進力と なりながら複数のドラマを結び付けて行くのがこの象徴の機能である.

このように作品の中で闘争のうちに確立されるものに関して,実はハイ デガーは次のように述べていた.

亀裂の内にもたらされ,そしてそのようにして大地の内に立て返され,その結 果として確立された闘争が,形態0 0

Gestalt

]である.作品が創作されている ということは,真理が形態の内へと確立されているということを意味する.形 態とは,亀裂がそのようなものとしてそれ自体を組み立てる[

fugen

]結構

Gefüge

]である.組み立てられた亀裂は,真理の輝きの接合[

Fuge

]である.

ここで形態が意味するものは,つねにあの立てることと立て

集め[

Ge-stell

] とから思索されるべきであり,そのようなものとして作品0 0はその本質を発揮す るのである,作品がそれ自体を開けて立て,こちらへと立てるかぎりは

20)

芸術は真理を内包する.この芸術における真理がわれわれに向かって立ち 現れるのは,形態が打ち立てられるときである.ドゥルーズが『獣人』の うちに見出した象徴としての機関車は,まさにこの形態としての死の本能 であろう.ところで,仏訳『芸術作品の根源』において

Gestalt

は,

stature

と訳されている.しかし,この語を

figure

と仏訳することも可能であろう.

芸術と哲学の間の亀裂から立ちあがるフィギュールこそ,後期ドゥルーズ が再創造しようと試みた概念であった.このように,ドゥルーズ哲学にお いて一貫して発展させられる芸術における真理のテーマは,このフィギュ ール概念のうちに凝縮されることになることが見て取れよう.

まとめにかえて

これまで哲学が考察してこなかった芸術における真理をアレーテイアと して考察することを促している点において,ハイデガーとドゥルーズは共 通していると言える.そして,真理の位置づけ,真理が生産される構造,

そして真理の表現形式を考察することで,ドゥルーズはハイデガー的真理 観を元に,実際に芸術作品を分析しつつ,新たに概念を練り上げ,自身の 哲学を展開している点についてもみてきた.もっとも重要だと思われるの は,芸術作品において生産される真理の構造のうちに闘争関係があること

(13)

である.だとするならば,哲学の役割とは,哲学もまた芸術において露に されたものとの闘争関係のうちに入ることではないだろうか.これまで,

両者の関係は,哲学のうちで芸術を扱うもの,あるいは芸術のうちに哲学 を見出すといった形で考察されることが多かった.しかし,ドゥルーズ は,哲学と芸術は全く異なるものでありながら,お互いに反作用を及ぼし つつ,新たに自身を展開していく,そのような闘争の中に真理が宿る,と 考えているのではないだろうか.というのも,哲学と芸術の間に「真理」

という共通の問題がある一方で,その表現形式において全く異なるもので あるからである.この問題を考察する際に鍵となるのは,「形態」概念で あることはすでに見てきた.ドゥルーズ哲学におけるフィギュール概念と 裂け目,それから芸術作品との関係については稿を改めたい.

1)

例えば,アラン・バディウとバルバラ・カッサンは,

20

世紀フランス思想 におけるハイデガーの重要性を指摘し,ハイデガーの影響を受けた一連の思想 家 を 挙 げ つ つ も,「 ド ゥ ル ー ズ は 除 く 」 と し て い る.

Cf, Alain Badiou, Barbara Cassin, Heidegger, Le nazisme, les femmes, la philosophie, Fayard, 2010 , p. 19 .

2) Gilles Deleuze, Marcel Proust et les signes, PUF, 1964 ; nouvelle éd.

augmentée, Proust et les signes, 1970 ; nouvelle éd. augmentée, 1976 , p. 24 .

(『プルーストとシーニュ』増補版,宇波彰訳,法政大学出版局,

1977

年,

20

頁.以下,

PS

と略す.尚,訳出に際しては既存の邦訳を用いた.以下,同様.)

3) Ibid., p. 25 .

(邦訳,

20 - 21

頁)

4) Martin Heidegger, Der Ursprung des Kunstwerkes, Stuttgart : Philipp Reclamjun, 1960 , S. 30 ; L’origine de l’œuvre d’art, dans Chemins qui ne mènent nulle part, tr. Wolgang Brokmeier, Galimard, 1962 , pp. 36 - 37 .

(『芸術作品の根源』関口浩訳,平凡社,

2002

年,

42

頁.以下,

UK

と略す.)

5) Ibid., S. 45 - 46 ; tr. pp. 52 - 53 .

(邦訳,

65 - 66

頁)

6) Ibid., S. 63 - 64 ; tr. pp. 70 - 71 .

(邦訳,

91 - 92

頁)

7)

ここで言及することはできないが,ハイデガーの「道具(

Zeug

produit

])」

とドゥルーズの「機械(

machine

)」を比較することが可能であるように思わ れる.ハイデガーは,道具の道具存在を明らかにするものとしての芸術作品に

「闘争」を見出すと同時に,「道具」を自己充足性が足りないがゆえに,作品に は至らぬものとして位置づけている.一方,ドゥルーズは真実を生産する芸術 作 品 を, 作 家 が 作 り, 使 う と 同 時 に 読 者 に よ っ て 利 用 可 能 な「 道 具

instrument

)」,あるいは端的に「機械」と呼んでいる.

Cf. UK, S. 21 - 22 ;

(14)

tr. P. 28 .

(邦訳,

29

頁),

PS, p. 174 .

(邦訳,

160

頁)

8)

ラルース・ドイツ語大辞典には,

Riß

の訳語として

fêlure

の他に,

déchirure, accroc, crevasse, rupture

などが挙げられている.

Larousse Grand Dictionnaire Allemand, Larousse, 2007 , p. 638 .

9)

とはいえ,

Riß

Grandriß

Auf-riß

などのハイデガーが用いる用語法と の関連を考えるならば,

Riß

に当てられた

trait

というフランス語の訳語は妥 当であるように思われる.本稿は,ハイデガー

ドゥルーズ間における語彙ネ ットワークにおいて共通する意味を積極的に見出しつつ,両者の哲学を読解す ることを主眼に置いているため,翻訳の正確性あるいは正統性について検討す ることを目的としないことをお断りさせていただく.

10) Gilles Deleuze, Logique du sens, Minuit, 1969 , p. 373 .

(『意味の論理学』

小泉義之訳,河出文庫,

2007

年,下巻・

260

頁.以下,

LS

と略す.)

11) Ibid., p. 373 .

(邦訳,

261

頁)

12) Ibid., p. 374 .

(邦訳,

262

頁)

13) Ibid., p. 374 .

(邦訳,

262

頁)

14) Ibid., p. 377 .

(邦訳,

266

頁)

15) Ibid., p. 378 .

(邦訳,

267

頁)

16) Ibid., p. 378 .

(邦訳,

268

頁)

17) Ibid., p. 379 .

(邦訳,

269

頁)

18) Cf. Aristote, Poétique, tr. J. Hardy, Gallimard, 1996 , pp. 125 - 130 .

(『詩 学』,『アリストテレス詩学,ホラーティウス詩論』所収,松本仁助・岡道男訳,

岩波文庫,

1997

年,

88 - 95

頁)

19) LS, p. 383 .

(邦訳,

276

頁)

20) UK, S. 64 ; tr. P. 71 .

(邦訳,

93

頁)

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