平安時代前期
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通史整理編3
章
平安時代前期
XNQA3A-Z1J1-01平安時代初期の政治と弘仁・貞観文化
1. 桓武天皇の政治
a. 平安遷都 光仁天皇の後を継いだ桓かん武む天皇は,寺院勢力の強い平城京を離れ,人心 を一新して律令政治を再建するため,山背国への遷都をはかり,まず784 年に ① へ遷った。しかし造営責任者である ② が暗殺される不祥 事が起こったことにより(※₁),改めて794年に平安京へ遷都した。 ※₁ この事件に関与したとして桓武天皇の弟の早さわ良ら親王が失脚した。 b. 蝦夷征討 桓武天皇は,反乱の続いていた東北地 方を平定するため(※₂),蝦夷征討に力 を入れた。₉世紀初め,征せい夷い大将軍となっ た ③ は蝦夷の族長阿あ弖て流る為いを帰順さ せて反乱を収拾するとともに,胆い沢さわ城を 築いて多賀城にあった鎮ちん守じゅ府ふを移し,さ らに北方に志し波わ城も築いて東北経営の拠 点とした(※₃)。 ※₂ 光仁天皇の780年には,伊これはりの治呰あざ麻ま呂ろ が大規模な反乱を起こした。 ※₃ この後,嵯峨朝での文ふん室やの綿わた麻ま呂ろの遠 征で,蝦夷平定が完了した。 c. 桓武朝の改革 蝦夷征討と造都事業という₂大政策は国家財政や農民の大きな負担とな り(※₄),農民の困窮化や耕地の荒廃を招いたため,桓武天皇はそれに 対応するため,₆年ごとの班田を12年ごとに変更し,雑ぞう徭よう期間を半減する などした。また,兵役による兵士の質の低下に対処するため,東北・九州 などを除く多くの軍団を廃止し,郡司の子弟から ④ を選んで,国府 の守備に当たらせた。さらに,地方政治を立て直すため, ⑤ という 令 りょう 外 げの 官 かん (※₅)を置いて,国司交替を厳しく監査させた。 ※₄ 藤原緒お嗣つぐと菅すが野のの真ま道みちによる徳政論争の結果,₂大政策は中止された。 ※₅ 令外官とは,令に規定されていない官職のことである。2. 嵯峨天皇の政治
a. 薬子の変 桓武天皇の没後即位した平へい城ぜい天皇は病のためまもなく退位し,弟の嵯さ峨が 天皇が即位した。810年,回復した平城太上天皇は,式家の ⑥ ・藤原 薬 くす 子こ兄妹の協力を得て 重ちょう祚そをはかったが,嵯峨天皇側の迅速な対応に よって失敗した。この変に際し,嵯峨天皇は天皇の機密事項を扱う 蔵くろう人どの 頭 とう を設け,北家の藤原冬嗣らをこれに任命して対処した。 空欄の解答 ① 長岡京 ② 藤原種たね継つぐ ③ 坂さかのうえの上田た村むら麻ま呂ろ ④ 健こん児でい ⑤ 勘か解げ由ゆ使し ⑥ 藤原仲なか成なり 城 ・ 柵 国府 鎮守府 設置年代 数字 陸 奥 出 羽 平安遷都後 (9世紀) 平城遷都後 (8世紀) 大化直後 (7世紀?) 秋田城 渟足柵 733 803 802 648 647 志波城 胆沢城 出羽柵 708 多賀城 724頃 磐舟柵 ▼蝦夷征討関係図 解答欄 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥₁
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b. 嵯峨朝の改革 嵯峨天皇は,蔵人頭の他,京内の治安維持や裁判に当たる ⑦ など, 実情に応じた令外官を設置して機構の整備に努めた。また,法制の整備も 進め,従来の 格きゃく・式(※₆)を整理・集録した『 ⑧ 』を編纂させた (※₇)。 ※₆ 格は律令の補足・改正,式は律令の施行細則のことである。 ※₇ のちに清和朝で『 貞じょう観がん格式』,醍醐朝で『延えん喜ぎ格式』が編纂された。 『 ⑧ 』と合わせて,三代格式という。
3. 弘仁・貞観文化
a. 平安新仏教 平安時代初期に興った唐風の文 化を弘仁・貞観文化という。この 時代には,奈良時代の仏教政治の 弊害を受け,仏教界に革新が起 こった。₉世紀初頭,唐から帰国 した最さいちょう澄・ ⑨ によって,天 台宗・真言宗が伝えられ,加か持じ祈き禱とうで ⑩ を約束する密みっきょう教の教えが皇 室・貴族の支持を受けて,両宗は仏教界の主流となった。 ※₈ 天台宗では最澄の没後,弟子の円えん仁にん・円えん珍ちんにより密教化が進んだ。 ※₉ ⑨ が嵯峨天皇より賜った教王護国寺(東寺)に因んで,真言密教は東 密と呼ばれた。 b. 弘仁・貞観文化の美術 平安新仏教の成立を受けて,平安時 代初期には密教美術が盛んとなった。 天台宗・真言宗が山中での修行を重ん じたため,この時代の建築は伽が藍らんを地 形に応じて自由に配置した山岳寺院が 多かった(※10)。彫刻では,一いち木ぼくづくり造と ⑪ を特徴とする神秘的な作品が作 られ,絵画では,密教の世界を構図化した ⑫ が発達した。一方,書 道では,唐から様ようと呼ばれる唐風書道が広まり,のちに三さん筆ぴつと称された嵯峨天 皇・ ⑨ ・ 橘たちばなの逸はや勢なりらの能書家が現れた。 ※10 密教信仰と山岳信仰が結びつき,修しゅ験げん道どうが形成された。 c. 文学・学問・教育 平安時代に入ると漢詩文が一層隆盛し,『 ⑬ 』『文華秀麗集』『経けい国こく 集 しゅう 』という₃つの勅撰漢詩文集が編まれた。大学でも中国の文学・史学 を学ぶ紀き伝でん道どうが学科の中心となり,有力氏族は ⑭ と呼ばれる寄宿施 設を設けて,子弟の勉学の便宜をはかった(※11)。また, ⑨ は庶民 教育の機関として京都に綜しゅ芸げい種しゅ智ち院いんを設けた。 ※11 和わ気け氏の弘文院,藤原氏の勧学院,橘氏の学館院,在あり原わら氏の奨学院が有 名である。 解答欄 ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑪ ⑫ ⑬ ⑭ ▼平安新仏教の比較 天台宗 真言宗 開祖 最澄 ⑨ 本山 比 ひ 叡 えい 山 ざん 延 えん 暦 りゃく 寺じ 高 こう 野や山さん 金 こん 剛 ごう 峰ぶ寺じ 密教 台たい密みつ(※₈) 東密(※₉) ▼弘仁・貞観文化の主な美術作品 建築 室むろ生う寺じ金堂 彫刻 元 がん 興 ごう 寺じ薬師如来像 観 かん 心 しん 寺じ如にょ意い輪りん観音像 薬師寺僧そうぎょう形八はち幡まん神しん像 絵画 神 じん 護ご寺じ両界 ⑫ 園 おん 城 じょう 寺じ不ふ動どうみょう明王おう像 空欄の解答 ⑦ 検け非び違い使し ⑧ 弘こう仁にん格式 ⑨ 空海 ⑩ 現げん世ぜ利り益やく ⑪ 翻ほん波ぱ式しき ⑫ 曼まん荼だ羅ら ⑬ 凌りょう雲うんしゅう集 ⑭ 大学別曹 XNQA3A-Z1J1-02平安時代前期
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摂関政治と国風文化
1. 藤原氏の台頭
薬子の変に際し藤原冬嗣が蔵人頭に任ぜられ,藤原北家が台頭した。冬 嗣の子 ① は 承じょう和わの変で 伴ともの健こわ岑みね・橘逸勢らを退け,858年に幼少の清せい 和わ天皇が即位すると,臣下として初めて事実上の摂政となった。次いで 866年には ② で大納言 伴ともの善よし男おを除き,その際正式に摂政となった。 ① の養子藤原基もと経つねは884年に光孝天皇を擁立して初めて事実上の関白 となり,887年に ③ が即位すると,正式に関白となった(※₁)。 ※₁ 関白就任の際の勅書をめぐって,阿あ衡こうの紛ふん議ぎが起こった。2. 延喜・天暦の治
藤原基経の没後,藤原氏と外戚関係にない ③ は摂政・関白を置かずに親政を行い, 菅原道みち真ざねを登用した(※₂)。続く醍醐天皇・村 上天皇も天皇親政を行い(※₃),律令制再建の た め の 最 後 の 努 力 が な さ れ た そ の 治 世 は (※₄),のちに理想化され,延えん喜ぎ・天てんりゃく暦の治と 呼ばれた。 ※₂ 菅原道真は901年,左大臣 ④ の策謀で 大だざいの宰ごんの権帥そちに左遷された。 ※₃ 醍醐・村上朝の間の朱す雀ざく朝では,藤原忠平が摂政・関白となった。 ※₄ 『延喜格式』は三代格式の最後,『日本三代実録』は六りっ国こく史しの最後,乾けん元げん 大 たい 宝 ほう は皇こうちょう朝十二銭の最後となった。3. 摂関政治
a. 他氏排斥の完了 村上天皇の没後,藤原氏は勢力を盛り返し,969年に関白藤原実さね頼よりが源 満 みつ 仲 なか の密告を受けて左大臣源高たかあきら明を左遷する ⑤ が起こり,これ以降, 摂政・関白がほぼ常置されるようになった。藤原氏が天皇の外戚として, 天皇幼少時には摂政,天皇成人後は関白となって天皇の政務を代行・後見 した10世紀後半から11世紀頃の政治を摂関政治と呼ぶ。 b. 摂関政治全盛期 摂関政治開始当初は,摂関を兼ねて大きな権力を握る「氏うじの 長ちょう者じゃ」の 地位をめぐり,藤原氏内部で争いが続いたものの(※₅),11世紀の ⑥ とその子藤原頼より通みちの時には摂関政治の全盛期を迎えた。 ⑥ は ₄人の娘を天皇の后とし,天皇の外戚として朝廷で権勢を振るい,藤原頼 通も₃天皇の約50年にわたって摂政・関白を務めた。 ※₅ 藤原兼かね通みちと藤原兼かね家いえ, ⑥ と藤原伊これ周ちかの争いがとくに有名である。 ▼延喜・天暦の治 延喜の治(醍醐天皇) *延喜の荘園整理令発布 *『延喜格式』編纂 *『日本三代実録』編纂 *『古今和歌集』編纂 天暦の治(村上天皇) *乾元大宝鋳造 解答欄 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ 空欄の解答 ① 藤原良よし房ふさ ② 応天門の変 ③ 宇う多だ天皇 ④ 藤原時平 ⑤ 安あん和なの変 ⑥ 藤原道長 XNQA3A-Z1J1-03₂
4. 遣唐使の廃止と東アジア情勢の変化
894年,菅原道真は唐の衰退と航路の危険を理由に遣唐使廃止を建議し 遣唐使は廃止された。10世紀,中国では唐に代わって宋が,朝鮮半島では 新羅に代わって ⑦ が統一を果たし,中国東北部では契きっ丹たん(遼)が渤 海を滅ぼした。日本はこれらの諸国との間に正式な国交は開かなかった。5. 国風文化
a. 国文学の隆盛 遣唐使廃止の影響を受け,10~ 11世紀には従来の唐風文化を日本 風に消化・発達させた国風文化が 発展した。この時期, ⑧ が 発達して日本的な感情表現が可能 になり,物語や日記などの国文学 が盛んになって,女流作家が活躍 した。また,和歌が漢文学と並ぶ 貴族の教養として重んじられるようになり,最初の勅撰和歌集である『古 今和歌集』が編纂された。 b. 浄土教信仰と神仏習合思想 天台・真言両宗の世俗化や社会不安の広がりを背景に,阿弥陀仏信仰に よって来世での極楽往生を願う浄じょう土どきょう教が流行し, ⑩ が京の市でこれ を説いた。さらに, ⑪ が985年に『往おうじょう生要ようしゅう集』で念仏による極楽往 生の根拠を示すと,貴族層にも浄土信仰が広まった。1052年に末まっ法ぽうの世に 入るという末法思想の広まりもあって,来世での救いを求めて浄土教は一 層流行した。一方,奈良時代以降,仏と神は本来同一であるとする神仏習 合思想が起こっていたが,平安時代中期には,神は仏が権かりに形を変えて現 れたものとする本ほん地じ垂すいじゃく迹説せつが生まれた。また,怨霊や疫神を祀って災厄 から逃れようとする御霊信仰が広まり,御ごりょう霊会えも開催された。 c. 国風文化の美術 浄土教の流行を受け,貴族の間 では,阿弥陀堂・阿弥陀如来像が 盛んに作られるようになり,定じょう 朝 ちょう は ⑫ の 技 法 を 完 成 さ せ た。阿弥陀堂内は極楽往生の場面 を描いた来らい迎ごう図ずで飾られた。一方,日本的風物を題材とした ⑬ が発 達し,書道でも小野道風・藤原佐すけ理まさ・藤原行ゆき成なりが和わ様ようの名手として三さん跡せき (蹟)と称された。 d. 貴族の生活 貴族の住宅として日本風の ⑮ が普及した。貴族の服装も,男性の 束 そく 帯 たい ・衣い冠かん,女性の女房装束など,優美なものに変わった。また,陰おんみょう陽 道 どう の影響から,物もの忌いみ・方かたたがえ違などの風習も見られた。 解答欄 ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑪ ⑫ ⑬ ⑭ ⑮ ▼国風文化の主な文学作品 詩歌 『古今和歌集』( ⑨ ら) 『和漢朗詠集』(藤原公きん任とう) 物語 『竹取物語』(作者未詳) 『源氏物語』(紫式部) 日記 『土佐日記』( ⑨ ) 『蜻かげ蛉ろう日記』(藤原道綱の母) 『更さら級しな日記』(菅原孝たか標すえの 女むすめ) 随筆 『枕草子』(清少納言) ▼国風文化の主な美術作品 建築 法 ほう 成 じょう 寺じ( ⑥ が建立) ⑭ (藤原頼通が建立) 彫刻 ⑭ 阿弥陀如来像(定朝作) 絵画 高野山 聖しょう衆じゅ来迎図 空欄の解答 ⑦ 高こう麗らい ⑧ かな文字 ⑨ 紀きの貫つら之ゆき ⑩ 空くう也や ⑪ 源げん信しん ⑫ 寄よせ木ぎづくり造 ⑬ 大和絵 ⑭ 平等院鳳凰堂 ⑮ 寝殿造 XNQA3A-Z1J1-04XNQA3A-Z1J2-01
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平安時代前期
問題
■今回のねらい 平安時代前期~中期の史料からの出題である。史料問題には,史料の内容がわからないと解きづらいもの と,史料の内容がわからなくても設問のヒントなどから解けてしまうタイプのものがある。今回は,前者の タイプの問題を出題した。頻出史料なので,しっかりチェックしておこう。 延暦二十四年(805年)十二月壬寅,是日,中納言近衛大将従三位藤原朝臣内麻呂殿上に侍る。勅あ り,参議右衛士督従四位下藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下菅野朝臣真道とをして天下の徳政を相論 せしむ。時に緒嗣議して云はく,「方今天下の苦しむところは,軍事と造作となり。此の両事を停むれ ば,百姓安んぜん」と。真道異議を確執して肯んじ聴かず。帝緒嗣の議を善しとし,即ち停廃に従ふ。 有識これを聞き,感歎せざるはなかりき。 問₁ 史料の菅野真道が唱えた異議とは,次のうちどれにあたるか。 イ 天下の苦しみを救うため,国司が貸しつけた稲の返済を免除しなければならない。 ロ 恩赦により囚人を釈放し,困窮者に食糧を与えるなどの仁政を行わなければならない。 ハ 現状を考えると,軍事と造作はともに重要な政策であり,中止することはできない。 問₂ 史料に見える軍事と造作とは,何のことか。 問₃ 史料に見える次の官職のうち,令外官はどれ(複数)か。 イ 中納言 ロ 近衛大将 ハ 参議 ニ 右衛士督 ホ 左大弁 【中央大商学部入試 改題】 解答欄 問₁ [ ] 問₂ 軍事 [ ] 造作 [ ] 問₃ [ ] 史料 【キーワード】 ₂行目「藤原朝臣緒お嗣つぐ」「菅野朝臣真道」「天下の徳政を相論」 ₃行目「軍事」「造作」 【出典】 『日本後紀』である。六国史の₃番目で,史料中にも登場する藤原緒嗣らによって編纂さ れ,840(承和₇)年に成立した。桓武天皇の792(延暦11)年から淳和天皇の833(天長 10)年までを記し,平安時代初期の根本史料とされる。 【語句】 徳政…民衆に思いやりのある善政。 確執…自説を主張して譲らないこと。 解法 史料は徳政論争に関するものである。桓武天皇は805(延暦24)年に菅野真道 と藤原緒嗣に善政とはどうあるべきかを論じさせた。緒嗣の「方今天下の苦しむ ところは,軍事と造作となり」は有名な一節なので,覚えておくこと。 問₁ 藤原緒嗣が軍事と造作の停止を進言し,菅野真道がこれに異議を唱えて譲 らなかったとあるため,真道は軍事と造作の続行を主張したと考えられる。 問₂ 「軍事」とは蝦夷征討をさす。780(宝亀11)年の伊これはりの治呰あざ麻ま呂ろの乱を契機 に,桓武天皇の時代には頻繁に蝦夷征討が行われた。「造作」とは平安京造営事 業をさす。794(延暦13)年の遷都によって平安京が完成したわけではなく,遷 桓武天皇は坂上田村麻 呂を征夷大将軍とし, 蝦夷征討を行わせた。 ◀史料問題の解法編 平安時代前期
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XNQA3A-Z1J2-02 解答 都後も都の造営事業は続けられていた。史料には,天皇は「緒嗣の議を善しと し,即ち停廃に従ふ」とあるので,「軍事と造作」は中止されたことがわかる。 問₃ 大宝令・養老令の規定にない官職を 令りょう外げの官かんといい,大宝令制定直後から 必要に応じて新たな官職が設けられた。平安時代初期には,勘か解げ由ゆ使し・蔵くろうどの人 頭 とう ・検け非び違い使しなど新たな官職が設置され,元の官職をしのぐ要職となった。 なお,イの中納言は天皇に近侍し奏上・宣下を司る官職で,705(慶雲₂)年 に置かれた。ロの近衛大将は765(天平神護元)年に設置された近衛府長官であ る。ハの参議は議政官を構成した官職で,731(天平₃)年に正式に置かれた。 問₁ ハ 問₂ 軍事 蝦夷征討 造作 平安京造営 問₃ イ・ロ・ハ補充問題
重要史料のポイントチェック
平安時代前期~中期の史料としては,律令制の再建をめざして出された法令,荘園制の発達を示す記事な どを押さえておきたい。 1. ① の荘園整理令…出典:『類聚三代格』 太政官符す 応まさに⑴勅旨開田幷ならびに諸院諸宮及び五位以上の,百姓の田地舎宅を買ひ取り,⑵閑地荒田を占請する を停止すべきの事 (中略)但し元来相伝して庄家たること⑶券けん契けい分明にして,国務に妨げ無き者は此この限りに在らず。 * ① の荘園整理令は最初の荘園整理令で,902(延喜2)年に ② 天皇によって出された。 * ① の荘園整理令では,⑴勅旨開田(=天皇の命令によって開墾された皇室領。不輸租田)と院宮王 臣家が⑵閑地荒田を占請(=荒地を占有)することを禁じた。 * しかし,⑶券契(=土地の所有権を証明する公文書)があり,国務に妨げのないものは,規制の対象から 除外されたため,あまり効果は上がらなかった。 2. 摂関家の荘園集積…出典:『 ③ 』 万寿二年七月十一日(中略)天下の地 悉ことごとく⑷一の家の領となり,公領は立りっ錐すいの地も無き歟か。 *『 ③ 』は小4野宮右4大臣藤原実さね資すけの日記4で,摂関政治期の重要史料である。 *⑷一の家とは摂関家をさす。摂関家には多くの荘園が寄進され,摂関家の経済基盤の₁つとなった。 空欄の解答 ① 延喜 ② 醍醐 ③ 小右記 ◀ 検非違使は京の警察裁 判 権 を 掌 握 し, 弾 正 台・刑部省・京職など の 職 務 を 行 う よ う に なった。3
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平安時代前期
XNQA3A-Z1J3-01問題
■今回のねらい 史料論述問題である。史料を読み取る力と論述力の両方が問われるので,制限字数は30字と短いものの, やや難しく感じられるだろう。史料と設問をよく読んで,「人物名」「事件名」を間違えないようにしたい。 次の史料を読んで,設問に対する答えを記入せよ。 「大君は神にしませば赤駒の腹ばふ田居を京師となしつ」 「大君は神にしませば天雲の雷の上にいほらせるかも」(作者は大伴御行・柿本人麻呂) 問 このように天皇を神格化した歌があらわれた背景を,具体的な人物名や事件名をあげて,30字以内 で説明せよ。 【北海道大入試 改題】 解答欄論述問題の解法編 平安時代前期