}\ 同
曽我量深の二河警観
大谷派松
山
大
一
、
はじめに の思索の中、その根底を成すものが法蔵菩薩論であることは多くの先学が指摘している。 この他にも曽我の思索には﹁親驚の仏教史観﹂恥の論題が示すように、真宗の教えを今日に継承させるべく営為が 曽我量深︵以下は曽我︶ 存在している。勿論これらは曽我独自のものではなく、親驚聖人︵以下は親鷺︶が感得した真宗の教えを今の時代 に相応させようとした試みであり、それは曽我の学びの歴程と筆者は考えるのである。 しかし曽我が以降の仏教者に影響を与えた最深の課題は法蔵菩薩阿頼耶識論ではないだろうか。この思索に対し ては平川彰が﹁如来蔵としての法蔵菩薩﹂を著わし、曽我の法蔵菩薩を阿頼耶識︵蔵識︶とする考え方への反応と して、法成菩薩は如来成である、との見解を示している。この反いめに対し、曽我は蔵識と法蔵菩薩の﹁蔵﹂が偶々 同じであったために同一と定義しているのではない、旨の応答が様々な研究者から行われている。これら論争は曲目 我の難解な論の真意を俗耳に入りやすくしており意義深い。とはいっても、法蔵菩薩阿頼耶識論に関する考究は巳 後も課題として温存されていると考えるのである。抑も、この論争は曽我が法蔵菩薩を唯識思想における阿頼耶識と領解したところから始まっているとされる。し かし筆者は曽我の法蔵書薩阿頼耶識論の始まりを別の観点から捉えるべきと考えるのである。それは﹁論集﹃救済 と自証﹄に達する思想的段階﹂として著した論集﹁地上の救主﹄の序に於て、曽我が、 私は初め﹃観経﹄を一貫せる﹁仏心大悲﹂の教説を讃仰し、それが上に開顕せられたる第十九の願、臨終来迎 の本願を憧慣して止まなかった。しかしながら私はこの ﹁ 観 経 ﹄ の隠彰の実義なる弥陀大悲の本願を徹底して、 遂に因位法蔵菩薩の自証に進まずに居られなかった。巻中の﹁地上の救、王﹂の一篇は正しくこの自証を讃仰し た も の で あ る 。 もとよりその自証は微光であって、到底独我論なる自性唯心の境を出で得なかったに違ひない。しかしなが ら世は泊々として、神話宗教として法蔵菩薩を冷笑せし間にあって、独りそれの上に地上の救主の意義を見出 したこと、而して爾来わが真宗教界に於て漸く法蔵の名を聞くに到ったことはこよなき喜びである。 ︵﹃選集﹂二・後記四六
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一 頁 ︶ と述べるように、上述思索の形成過程を考察する際には﹁仏説観無量寿経﹄︵以下は ﹁ 観 経 ﹄ ︶ の役割を看過すべき で な い と 考 え る か ら で あ る 。 そこで本稿に於て、﹃観経﹂とりわけその誓仏暇である二河警を曽我が如何に領解していったかを考察したい。何 故 な ら 二 河 警 は ﹁ 観 経 ﹄ の中心課題である三心釈の端的な誓聡、即ち真宗における一大事である信心守護の警職だ からである。また、そこから﹃観経﹂を所謂方便に留まらせない真宗の教えが存在することを見抜いた親鷲の二河 警観を、曽我が見つけることができたからと考えているからである。 因みに、法蔵書薩阿頼耶識論への道程と指摘されている論集﹁地上の救主﹂には、 二河警以外に関わる論文も所 収されている。法蔵菩薩阿頼耶識論展開への足跡を考察するにはそれらを網羅的に考察対象にすべきかもしれない。 曽我量深の二河警観 人 五曽我量深の二河警観 二 八 六 しかし、筆者が特に二河警に注目する理由は、大正一四年に曽我が大谷大学教授に就任した際、担当する講義の選 択が曽我自身の責任に帰せられ、 大乗仏教講座は、﹁了別と自性||唯識論に於る認識問題の一斑 l l t ﹂ 、 妻 、 宗 学 講 座 は 、 ﹁ 二 河 警 に 付 て ﹂ と し た。﹁二河警﹂を講義題目とするのはどうかと思案したが、これが﹃観経﹄の精要をつかんだ善導の椅定︵た だすべきをただし、是非を定めること︶の本質であろう、また﹁:::に付て﹂では、単なる一席講演か通俗講 演の題のようで重みを欠くといわれるかもしれないが、﹁此は私が私自身への通俗講演である。極愚なる私の 心の隅まで領納の出来るまで説明せずんば止まらない気分を、此の題のみ:::に付て。に表現したのである﹂ ︵﹃両眼人﹄二四八・二五一頁、取意︶ということからこのように決めたのであった。︵傍点はママ︶ と、それまで真宗大学で講じた﹁因明入正理論﹂﹁成唯識論﹂﹁解深密経論﹂﹃摂大乗論﹂﹃唯識述記﹂及び﹁七祖交 県﹂や東洋大学で講じた﹁倶舎論哲学﹂﹁唯識哲学﹂﹁起信論任幹﹂等の大乗仏教の講義とは別に、真宗学の講義を あえてこ河警とし、唯識と二河誓を講義している。曽我の二河誓に対する想いをこの行動から読み取ることが可能 だからである。更に曽我は晩年に到るまで説教や講義の際、法蔵菩薩論と同様に二河警について言及している点か らも、二河警領解によって真宗の教えを求めた姿を窺うことができるからである。以上をふまえ、本稿に於て、曽 我が法蔵菩薩論の形成をした中で、如何に二河警を領解していったかを窺いたい。
一
、 一一河誓領解の道程 ︵ 一 ︶ 緒 百 曽我の思索に関して上述したように先行研究は存在する。しかし曽我の﹃観経﹄領解と二河誓領解の先行研究を筆者は見つけることができなかった。 一方、二河警は真宗の教説に於ても中核であるためその解釈書は多く、真宗 内外の先学による論考も多数存在する。これら論考は純粋に二河警をどう解釈すべきかを論じている点に於て、お よそ同じ方向性で書かれていると筆者は考えている。ところが、これら先学が二河誓解釈を発表した緒論や解説書 と比較すると、曽我の二河警領解の仕方は逐語的な解釈を目的としていないという特慨を見出すことができる。勿 論、最初期には曽我も二河聾解釈の方法として逐語的解釈を行い、その奥にある信心守護の内実に迫ることを目的 として、真宗の教えの根幹に近づこうとしている態度があることも否定はできない。いずれにせよ本来述べたい真 宗の教えの本質を適切に表現する手段としての誓喰の代表として、曽我は二河警を取り上げていると考えることが で き る の で あ る 。 そこで本章では、曽我が二河警を如何に理解し、また真宗の教えの中でどう位置づけたかを窺いたい。具体的に は曽我の初期論文上の二河誓領解を概観し、曽我が真宗の教えを理解する際、それら考察が果たした用きを探りた ぃ。その方法として、法蔵菩薩阿頼耶識論の原型と考えることができる﹁久遠の仏心の開顕者としての現在の法蔵 比丘﹂︵大正二年﹁無尽燈﹄掲載︶と﹁地上の救主法蔵菩薩出現の意義﹂︵同年﹁精神界﹂掲載 以下は﹁地上の 救 主 ﹂ ︶ の前後における二河誓解釈の推移を時系列順に確認する。 ︵二︶論集﹃地上の救主﹂以前︵明治四
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年 以 前 ︶ 曽 我 の 初 期 論 考 で は 、 ︵ 日 ︶ 一般的で常式的な二河誓領解をしていたことが窺える。端的な事例は法蔵菩薩論を発表す る以前、論集﹁地上の救主﹂に所収されていない﹁南無阿弥陀仏は我等が久遠の名也﹂︵﹁界﹄明三八年一月︶ る。法蔵菩薩についての言及は、 で あ 如来は霊的煩悶の声を聞き給ふ。是に於てか心霊の主脳なる如来、云何ぞ黙止し給ふべき。彼は蹴然として起 曽我量深のご河警観 J¥ 七曽我量深の二河誓観 J¥ J¥ ち給へり、法蔵比正となり給へり、超世の四十八願を発起し給へり、︵中略︶南無阿弥陀仏と呼べり。是れ如 来自己を顕はすの語也、自己の何人たるかを顕はすの語也、自ら救済主たるを顕はすの語也。自ら救済主たる を顕はすは衆生を喚び給ふ語也、衆生を喚ぶは衆生煩悶の要求に応ずる語也。 ︵ ﹃ 選 集 ﹄ ニ ・ 九 九 頁 ︶ とし、法蔵比丘を神話としての如来との関係に於て取り上げ、その実体には言及していない。そして主題の、名号 が我等の名である、例として二河警を引用し、群賊悪獣を左右と後方の外的迫害に、水火二河を自己心中の煩悩に、 と定義づけ、三定死の場面での自己罪業の自覚を旅人と如来が遮断する現実を受容し法を深心することにより、 我は念仏也、念仏は我也、我は白道也、白道は我也、人法一体也。是に於て百即百死は一転して百即百生とな り、必堕地獄は決定往生となれり。︵中略︶我れ万死を決して必生を確信する時、前後の二岸に於て教主世尊 の教法人格の指導と、及び如来招喚の勅命を是念仏の上に感得し、悲に無難に我が心霊的故郷に到達し終れり。 ︵ ﹃ 選 集 ﹄ 二 ・ 一
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五 頁 ︶ と、白道の意味づけを念仏と自己の同一、即ち名号は我名也、という人法一体になった時に救済があり自覚が生じ ると表明している。そして二河警の深長なる意義を、 吾人を以て見れば、自己念仏人法一体の白覚に依りて、是を九十五種の邪道群賊悪獣と自己心内の煩悩とに対 比して、破邪顕正の旗峨を明にせしに外ならず。 ︵ ﹁ 選 集 ﹂ 二 ・ 一 O 五 頁 ︶ と著わしている。この時点に於ては常式的な二河警解釈をふまえて善導大師︵以下は善導︶と親鷲の教えを聞き、 二種深信を﹁罪悪の自覚は同時に本願の自覚也、救済の自覚﹂︵﹃選集﹄二・一O
六頁︶と領解し﹁我は則ち念仏と なれり、如来は我に来たり給へり、我は如来を摂取せり﹂︵向上︶として念仏の意義を顕説しているのである。 このように本論には如来の神話化が一部残存するが、念仏と名号の意義を二河警により表わしているのである。 二河警を引用して真宗の教えの解釈を試みながらも、最初期には法蔵菩薩論の萌芽は確認できないのである。2
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﹁地上の救主﹂以前︵明治凹O
年から大正二年︶ さて、論集﹃地上の救主﹂には明治四O
年四月発行﹁精神界﹄第七巻第四号に掲載された﹁印度支那日本仏教の 特色を論じて親鷲聖人の地位を明にす﹂以降の論文が所収される。以下に二河警を引用した論考を挙げ、曽我の領 解 を 順 に 確 認 し た い 。 ﹁天親の﹃浄土論﹄に問合せるこ河白道﹂︵﹃界﹄明四二一年五月︶に於ても曽我は二河誓領解について常式的な解 釈をしていると考えることができる。それは﹁無量寿経優婆提金口願生偶﹄︵以下は﹃浄土論﹄︶が﹁一心の華文﹂で ある反面、その潜在の意義は苦痛の表白であるとし、二河警との類似性を挙げつつ、その内実を、 二 河 白 道 の 警 聡 は 思 想 界 の 乱 世 に 於 て 信 念 生 活 の 持 続 の 困 難 を 云 何 に 免 れ 得 べ き や の 要 求 に 対 し て 、 士 宜 旦 道 寸 大 師 が人生と信念との関係を卑近なる警聡に寄て示されたる者である ︵中略︶誠に宗教は我々を死の前に立たしむ る者である。此死の事実に対して、釈迦弥陀二尊の勅命に接し、初て死中に活路を発見するを得る、是れ二河 白 道 の 醤 聡 の 一 不 す 所 で あ る 。 ︵ ﹃ 選 集 ﹄ 二 ・ 二 六 六 頁 ︶ と、信心守護の困難さを提示していると解釈するのである。そして貧眠水火二河こそ自我の現実相であり、また二 河の前に立ち招喚の大命を聞く生活こそが厳粛なる宗教的生活の相としている。その上で二河警を﹁浄土論﹂の発 端偶墳に配当している。この配当により自身を貧眠二河の前、即ち死に当面した時にのみ永久出離の縁無き自己を 見つけることができるとしている。 本論にも法蔵菩薩は登場せず、宗教的生き方をする人間像を二河警と ﹁浄土論﹂を重ね合わせることにより述べ て い る の で あ る 。 また、﹁大闇黒の仏心を観よ﹂︵﹁界﹄明四四年一月︶に至っては ﹁願生偶﹄に天親菩薩︵以下は天親︶の光明讃 曽我量深の二河警観i
八 九曽我量深の三河醤観 九
。
仰 と 同 時 に 痛 傷 の 血 一 保 を 見 出 し 、 二 河 誓 を ﹃ 願 生 偏 ﹂ の序分と定めるのである c この如来の光明に対比した我の無 限 の 閣 を 、 我惟ふに如来は無辺の蝋燭である。彼は尽十方の光明を以て外十方を照す。而も光の中心は又無辺の闇黒であ る。此無辺の闇黒とは大悲の本願である、修行である。智慧を以て光明とせば慈悲は闇黒である。︵中略︶此 知来の闇黒は誠に如来光明の根本原動力にして、如来の真生命は藷に在る。︵﹃選集﹄二・二二七1
八 頁 ︶ と領解して﹁仏説無量寿経﹄︵以下は﹃大経﹄︶は光明の一面を説明し、﹃観経﹂は闇黒の存在を証明しているので あり、我等の胸中にある闇黒は我等が如来大悲の胸中の間室に居ることを証明していると領解するのである。 曽哉はこの後、﹁地上の救主﹂︵﹁界﹄大正二年七月︶に於て法蔵菩薩論を表白している。それは明治四五年七月 に﹁如来は我なり﹂を、同年︵大正元年︶八月に﹁如来我となりて我を救ひ給ふ﹂を、そして同年一O
月に﹁如来 我となるとは法蔵菩薩降誕のことなり﹂の次第に感得したとしている。 ︵四︶﹁地上の救主﹂以後︵大正二年以降︶ それでは大正二年以降に目を向けると、二河誓全体を通して真宗の教えを領解する態度が顕著となってくる。 ﹁出山の釈尊を念じて﹂︵﹃界﹄大三年一月︶に於てもそれは確認できる。冒頭で大正二年一O
月に九州﹁枇昨﹂で 見た出山の釈尊の画から﹁我を逐ひっ﹀わが後より来たり給ふ﹂釈尊を感じるようになったと記述し、後には、 ﹁出山の釈尊像﹂を拝して、二河除を想ひ、﹁我が背後から﹂の釈尊の現在の発遣の御姿を拝して、生来初めて かすかに発遣の音 ︵ ﹁ 大 自 然 の 胸 に ﹂ ﹃ 選 集 ﹂ 三 ・ 一 七 七 頁 ︶ と述べる。筆者は、この時に発遣の意義である還相回向を感得し、人間釈尊を還相としての菩薩と見なし、その象徴としての法蔵菩薩を感得したと考えるのである。しかも、この表現様式は二河誓を題材にしたと考えることがで きる。ただし、この出来事により二河盛田を因として法蔵書薩論を感得したと主張することは無理であろう。続けて 曽 我 は 我は聖者の後を逐ふた。我は専ら釈尊と栽鷲聖人との往き給ひし道を尋ねた。我は如来本願の大道を忘れて、 偏に聖賢の後を尋ねた。︵中略︶惟ふに釈尊入山の後を逐ふは小乗仏教であり、釈尊出山の大精神より出立す るが大乗経である。︵中略︶天親論主は﹁願生偶﹄ の初にその浄土願生の信念を表白するに当りて、先づ教主 釈尊を呼び、︵中略︶直に世尊を背にして尽十方無碍光の如来に向ふた。︵中略︶しかしながら此天親論主の先 きに立って進んで居らる、人がある。それは親驚聖人である。︵中略︶しからば我々は親驚聖人のおあとを慕 ふべきでなからふ。祖師に先だって進むべきであらふ。 ︵ ﹃ 選 集 ﹂ コ 了 五
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七 頁 ︶ と、二河警に関連づけ、如来に帰命することは﹁帰命せよ﹂との過去の聖者からの教えから来るものとし、そのこ とが知実に表現されている二河警の領解を始めている。それは求道者が中間の白道を進もうとした時に東岸から釈 尊が呼びかけたことについて、 釈尊は己に三千年の前に浬般市の域に入らせられたと思ふて居るが、今や現に此迷界に常住し給ふ。入山の釈尊 は巳に三千年の昔にかくれましました。出山の釈尊は現に生き我が背後に活躍して居らる三 ︵ ﹃ 選 集 ﹂ 三 ・ 七 頁 ︶ として自己内心の貧眠と本願を自覚し、白道を進もうとした時に初めて釈尊や聖賢の声を背面から聞くのであり、 白 道 を 求 め る 時 を 、 設時、始めて空前の東岸上の背面に教主世尊の御声を聞いたと一五ふは正に﹃観経﹄下々口聞の経文の意味を顕は すものである。善知識に遭ひ、真の教を聞くと云ふは決して容易の事ではない。︵中略︶唯自己に内省する利 曽我量深の二河警観 九曽我量深の二河警観 九 那に善知識にあふのである。則ち自己に当面するものは即ち善知識に遭はねばならず、真の善知識に遭ふもの は即ち一心正念の真の如来に直進せねばならぬ。 ︵ ﹃ 選 集 ﹄ 三 ・ 八 頁 ︶ と し て 、 二河警は善知識との値遇の意義を明らかにしたと領解している。 また二河警は現在の信の一念の表白であるが、その信の位が分かれていると論じている。それは現在一念の信に 関わる信前信後をたて、過去未信の位を後景、未来の信後起行の位を前景、として三世を一念に観るとしている。 そして第一の信前位を二段に分け、まず善を回向して一向に浄土を願生する第十九願の純白力の位、次に第二段を 他力念仏の一白道を知るも侍みにならない第二十願の半他力自力念仏の位、第三段を先の二段を背景にして実現す る第十八願の正信の相としている。特に三定死における﹁己に此道あり必ず度すべし﹂を自力の絶頂と同時に他力 の端緒とし、機の深信の表白と定義づけている。そして第四段は信後行業を示すとし、信後生活についても信の一 念より見た信の前景にすぎないとしている。ただしこのように二河警を四段に分けることについて、 信前は実には信の後民であり、信後は信の前景である。信前信後など実在せるものではない。唯ある所は現在 の信の一念の外はない。而して正信位に付ても畢克死を決して新しき生命を求むる所の自己の外何物もない。 而も此自己に対して釈尊は背面に発遣し弥陀は前面に招喚し給ふのである。我等は釈尊の教ふる故に信ずるに 非ず、又弥陀の招喚を預定して進むのではない。又死を決して前進するのである。死を恐れて逃避するのでは ない。死を決して真生命を求むるものである。而して此求むる心の前に弥陀は現はれ、その背に釈尊が励まし て 居 ら る 、 。 ︵ ﹁ 選 集 ﹂ 三 ・ 一 一
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二 頁 ︶ と主張し、曽我は四分断した二河警領解の第三段に真宗の教えの本質を見抜き、 二河聡の精髄も草に在る。人徒に二尊の喚遣を言はんとして此を聞く所の自己を看過して居る。自己のみ真に 現 在 の 事 実 で あ る 。 ︵ ﹁ 選 集 ﹂ 三 ・ 一 − 員 ︶として、自己表白、釈尊と弥陀の喚遣こそ一念同時でありながら、その根底を自己に見るのである。そして過去の 教命である釈尊は背景であり、未来からの招喚である弥陀は前景であり、自己のみ真に現在の事実とするのである。 本論にも法蔵菩薩は登場しないが、釈尊と善知識の役割を表出させることにより神話化された如来による恩寵主 義的な救済から、主体としての﹁我﹂が進むべき自覚としての道を如来の大道と考えていることが理解できる。ま た、そこへの発遣の力を釈尊と教えの伝灯に見出しているのである。 そ の 後 ﹁ ﹃ 二 河 聡 ﹄ と ﹁ 観 経 ﹂ ﹂ ︵ ﹃ 界 ﹂ 大 三 年 一
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月︶では﹃観経﹄を釈尊の自叙伝であり、そのことを如実に示 すのが二河警としている。﹁観経﹂に登場する提婆達多を下々品の経文の説者と同時に下々品に登場する善知識と 見倣し、釈尊の自覚を提婆達多によるものと解釈している。何故なら久遠の釈尊の面白を天上から降誕せる聖者で はなく、地涌の凡人に見出し、求道者としての釈尊を見ているからである。この領解と呼応させるように二河警を、 其 全 体 が 、 東 岸 上 の 人 、 釈 尊 の 自 覚 の 表 示 で あ る 。 ︵ ﹁ 選 集 ﹂ 二 了 四 六 頁 ︶ と領解し、東岸発遣の教主として説かれている釈尊は実際には求道者として現れているのであり、﹃観経﹂文字上 の章提希を釈尊の正体としている。また説者と聴者の主客が逆転しているとの領解を示している。そして求道者と 釈尊の真主観の世界に誕生した真仏として﹁諸仏如来 を根拠に機法、仏凡一体を示していると領解し、住立空中の如来と信念との一体が宣説されていると述べている。 して苦悩を除く救済を求めて心帰命する信欲の釈尊の前に現われた如来は釈尊の信念の表現であり、この如来こそλ
一切衆生心想中﹂や﹁念仏衆生摂取不捨﹂ 是法界身 こ の 理 解 に よ り 、 ﹃ 二 河 聡 ﹄ の全文を、東岸上の人の言とすると共に、又此全文を挙げて西岸上の如来の招喚の勅命と見るもの で あ る 。 ︵ ﹃ 選 集 ﹂ 三 ・ 四 八 頁 ︶ と領解し、先にあげた﹁出山の釈尊を念じて﹂で見出した信の位についての見解を、 曽我量深の二河警観 九曽我量深の二河醤観 九 四 ﹁二河轍﹂を講ずる人にして、古来泊々として、聞其名号と云ふ経文の形式に拘泥し、二尊の遣喚を以て、正 信位と定め、其以前の丈を挙げて信前未信位として居る。是れ徒に文字の表面に拘束せられて、真に自ら二河 の前に立てる経験のない人である。 ︵ ﹃ 選 集 ﹄ 三 ・ 四 八 頁 ︶ として重説するのである。そしてこ河警の中心を三定死の丈と定め、特に﹁既に此道あり﹂に善導は此一旬の内に 居るとして法蔵菩薩の﹁我建超世願﹂と同じ信を聞き、釈尊が真実の自己をこの念仏の一道に発見した、と領解す る の で あ る 。 本論も中心課題は ﹁ 観 経 ﹄ であり、釈尊の位置の確認である。その上で如来は釈尊の信念の表現とされ、二河警 の言説により絶対の一道を自己と領解しているのである。 ﹁二重の﹁二河喰﹄﹂︵﹃界﹄大三年一一月︶に於ては、論の中心は法蔵菩薩の本願に登場する﹁十方衆生﹂である。 本論は二河警に二義があるとして、第一義を普導の真実の叫びであり彼の自叙伝であり、直に如来の本願の叫びと している。第二義を善導が法蔵菩薩の本願の﹁十方衆生﹂である﹁一切の往生人﹂に向かった叫びとしている。そ の十方衆生こそ誠の如来であり誠の親驚であるとしている。そして、世の所謂二河警を第二義の二河警としつつ、 この第二義は第十九願の伎でしかなく、また概念の第十八願であり、善導の慈悲方便の教えでしかないこ河警の模 写としての所謂方便と断じている。この論考で曽我は二河警の叫びを聞く時には単なる私の我ではなく、如来の我、 如来に念ぜられた我になるとしている。そして﹁十方衆生﹂としての自己の自覚の重要性を説いているのである。 また、﹁闇へ闇へ﹂︵﹃灯﹄大五年四月︶に於ては過去を光の世界と定め、未来を閣の世界と定義している。そし て自身は未来を厭い過去に執着する存在と自覚し、二河警に登場する旅人と同様に未来の闇黒たる真土に進んでゆ くべきとしている。この中で、曽我は、古来の宗学者は二河暑が善導の自伝であることに気づいていないと指摘し、 旅人の進行は心霊の進展と領解している。そして聖教に所謂一文二義というものはなく、言語に囚われず二河誓に
表現された生きた精神に触れるべきだ、と主張している。その上で曽我は二河警の中心を﹁既有此道必応可度﹂と 見定め、この語を古来の学者が信前の自力の覚悟としているのに対し﹁作此念時﹂に注目して、この白覚と東西二 岸の遣喚が同時であることを根拠として、 自己の決意は信であり、東岸の声は教であり、西岸の教は行である。教行は信の内容である。信は主観の信に 止まらず直に客観の教行となる。信は教を体とし、教は行を体とす。信は遂に如来の行に帰する。信なる生命 の歩みたる背後に教なるものが現はれ、その進む前路には如来回向の行が顕現するのである。 ︵ ﹁ 選 集 ﹂ 三 ・ 九
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頁 ︶ と、教えを信じてから一後に行ずるのでなく﹁念仏申さんと思い立つ意のおこるとき﹂こそが真の念仏であり、また、 念仏の声こそ、声をあらはすものは信であり、あらはるム戸は教であり、あらはさんと欲ひ立つ所に如来の大 行 が あ る 。 ︵ ﹃ 選 集 ﹂ コ 了 九 一 頁 ︶ と二河警の中心課題がここに説かれていることを示すのである。そして﹁妙法華﹂が観念界である霊鷲山上で説か れ﹃観経﹄が王宮という現実で説かれたことに触れ、光を求めて山に入った釈尊が悲劇に泣く現実の閣である王宮 に降臨した所に、釈尊の素懐が﹃観経﹄に示されているとして、 きれば﹁ニ河誓﹂は﹃観経﹄ の秘奥、なつかしき過去の観念世界の裡に群賊悪獣を発見して、忽然として未来 の生死海に出られ念仏の本願を体得せられた釈尊の秘密を語るものである。 ︵ ﹃ 選 集 ﹄ 三 ・ 九 三 頁 ︶ としているのである。その上で専修念仏の成立の根拠を光明摂取の信と見定め、﹃大経﹂に書かれた法蔵比正誕生 後の﹁本願から﹂よりはむしろ法蔵比丘の出現までが大事であるとしているのである。 曽我量深の二河警観 九 五曽我量深の二河醤観 二 九 六
三、法蔵菩薩観及び
﹃
観
経
﹄
観
︵ 二 緒 仁ヨ 曽我はどのような道程により法蔵菩薩論に辿り着いたか改めて考えたい。寺川俊昭︵以下は寺川︶は曽我の法蔵 菩薩論の縁を、清沢満之の求道の姿と曽我との出遇いであり、明治期の日蓮主義の台頭と指摘している。また曽我 は幼少期から唯識に親しみ、﹃大経﹄を読む時には﹃唯識論﹄により読み、﹁唯識論﹄を読む時には﹁大経﹂により 読むことが法蔵菩薩と阿頼耶識の領解には必要と述べている。この言説から法蔵菩薩阿頼耶識論の因は唯識の眼を 通して見た ﹁大経﹂読諦によると考える事もできる。しかし﹁地トしの救主﹂には阿頼耶識の語を見つけることはで きない。そのため、唯識によって法蔵菩薩を解釈することは曽我にとって真宗の教えを表現するための方法と考え るのである。更に、法蔵菩薩論はそれ単独で醸成されたものではなく、神話化されたそれまでの真宗の教えを近代 に生きる者達へ伝えるためにその肝要を説示したもの、すなわち両洋から押し寄せた主体としての﹁我﹂を通して 宗教を考える必要に迫られたことによるともいえる。それにもかかわらず、筆者も寺川と同様に、これら事象は間 接的原因としての狭義の外縁と考えるのである。むしろ、曽我の法蔵菩薩論の因は本稿頭書の引用が一不すとおり ﹁観経﹄における大悲の感得であったと考えるのである。そこで、本章に於て曽我の法蔵菩薩に対する考え方がど のように醸成されたかを見ていきたい。そして、その元となる思索が﹃観経﹄によるものであり、就中二河誓領解 の展開によりそれが明らかになっていったことを以下にあげたい。︵二︶法蔵菩薩観 まずは法蔵菩薩をどう領解しているか。それは﹁地上の救主﹂直前に著された﹁我等が久遠の宗教﹂︵﹃界﹄明四 十五年七月︶に見ることができる。それは、 彼︵天親筆者註︶は生死巌頭に玄ちっ、 一切皆空無人空臓の世界に孤独黒閣の真我に接触した。此真我を ば、阿頼耶識と名くる。此阿頼耶識は理想の自我でなく、最も深痛なる現実の自我である。此自我は現に我媛、 我見、我慢、我欲の四大煩悩に執拘せられて居る。随て何等の自由もなく何等の光明もない。︵中略︶今や正 しく久遠の自我に触る冶時、人生は唯業繋である、千歳の黒閣である。 ︵ ﹁ 選 集 ﹂ 一 了 三 六 八 頁 ︶ である。曽我が二河警と ﹁浄土論﹄及び天親との関連性を見出していたことは上述したが、人が生きる世界の闇黒 性から真我を阿頼耶識としている。これは法蔵菩薩論の提出直前に著されたものでもあり、真我を阿頼耶識と見な していたことは意義深い。そして、大正二年までにおける一連の感得を経て、﹁久遠の仏心の開顕者としての現在 の法蔵比丘﹂及び﹁地上の救主﹂を著した後、﹁未来の世界より﹂︵﹃界﹂大六年二月︶に於て法蔵菩薩を、 大兄よ。教典上に神話的に記述せられたる、法蔵菩薩は過去の人であった。しかし真実の自我であらせられる 所の法蔵菩薩は永久に未来の人である。常に未来の人である。正覚の阿弥陀は十劫の昔に正覚を取り給ひた。 し か し 因 位 の 法 蔵 菩 薩 は 、 水 久 に 未 来 の 人 格 で あ る 。 ︵ ﹃ 選 集 ﹂ 二 了 一 四 九 頁 ︶ として、対象的に捉え偶像として執着し概念化してしまう阿弥陀ではなく、直に触れ招喚の声を直接聞くことがで きる主体としての実我を法蔵菩薩としているのである。その結果、曽我は法蔵菩薩を、理想としての菩薩でなく現 実界にある、人として見ている。その捉え方は﹁大自然の胸に﹂︵﹃灯﹄大六年六月及び七月︶に於て、 救世の本願の主体人格たる法蔵菩薩は畢寛大自然の懐に潜在して、将に現実人生に表現せんと欲する、潜在の 曽 我 旦 一 深 の 二 河 警 観 九 七
曽我量深の二河警観 九 J¥ 生命の徴象である。法蔵菩薩が此世界に出現して超世の本願を建立し給ひたとあるは、是れ正しくわが還相と しての菩薩の相に寄せて、自然の本願を閤明したものと云ふべきであらう。否寧ろ還相の菩薩を徴象したるが 法 蔵 菩 薩 で あ る 。 ︵ ﹃ 選 集 ﹂ 三 ・ 一 八 八 頁 ︶ と、還相の菩薩と捉えているのである。 法蔵菩薩を菩薩の象徴として捉える曽我は、二河警に登場する﹁我﹂と﹁汝﹂について﹁正覚より本願へ﹂ ︵﹁界﹂大六年一月︶に於て、﹁汝一心正念直来﹂を取り挙げ、如来が﹁汝﹂と呼ぶ対象を罪業の凡夫でなく必定の 菩薩と親鷲が決定したことについて、ここに如来の甚深の誓願があり、主客、機法、能所、心境の転換なる事実が あるとしている。また主客の混乱は謹むべきであるが、主客の区別が明らかになって初めて主客転換の不思議的真 実に触れ得るとしている。これは客としての我等ではなく、主であるはずの如来自身が、罪を負うことによって浄 心を我に発起させたのであるとし、 罪の自覚は如来の現実界に顕現するものとしては、余りに我々に直接に過ぎる。此を他力と云ひ、如来の回向 と云ふに就ては、余りに我が現実的主観に近接し過ぎる。此れすなはち我等の間接意識の上に、それが反って 所謂自力と見ゆる所以である。しかし真実の他力は我々に回向せらる、所に於て成立するものである以上、真 の他力は真実に我の力でなければならぬ。真実の他力、即ち直接に経験せらるべき他力は、この罪の自覚に在 る の で あ る 。 ︵ ﹁ 選 集 ﹄ 二 了 二 一 五 頁 ︶ とい、つように、真実の我は罪の自覚である機の深信に於てこそ起こりえると考え、それこそが法蔵菩薩であると曲目 我はおさえたと考えることができるのである。
( \ 」J ﹁ 観 経 ﹄ 観 一 方 、 曽 我 は 親 驚 の ﹃ 観 経 ﹄ の位置づけをどう理解したのか。 一 般 的 理 解 は ﹁ ﹃ 観 無 量 寿 経 ﹄ の ゴ 一 心 を 論 ず ﹂ 第 一章﹁観経三心の地位﹂︵﹁灯﹄明四二・六︶に見出すことができる。それは﹃観経﹄の如来を人情的如来と定め、 如米大悲を顕彰した経としている点である。しかしその後の随筆﹁暴風馳雨﹂を参考にすれば、曽我が﹃観経﹂の 精神について言及している﹁九四 隠 顕 ﹂ ︵ ﹃ 界 ﹂ 明 四 五 年 四 月 ︶ に は 、 単 純 に ﹃ 観 経 ﹄ の精神を隠顕に於て理解す る先学の教えに対し親驚の読経観を、 我接ずるに顕とは所説の経の文字を指し、隠とは能説の釈尊の精神を指す。隠彰の実義は釈尊の信念である。 釈尊の信念界は唯我々の信念の実験によりて触知し得るのである。かくて隠顕なるものは、純信念上の事実に して、全く学問論議を超越して居る。それが経の文字に顕はれて居ゃうが、全く見えまいが、そが釈尊の真信 念であるならば隠彰の実義であると信ずる。 一部の背景なる仏心者大慈悲是の一旬の如き、最大の隠彰の文字と信ずる。念仏 衆生摂取不捨の文字も隠彰の文字と信ずる。信眼なきものには他力弘願は秘密である。信眼の前には秘密は公 此意義に於て我は ﹁ 観 経 ﹄ 開 せ ら れ で あ る 。 ︵ ﹁ 選 集 ﹂ 四 ・ 三 二 六
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七 頁 ︶ と理解することにこそ意義があるとしている。そして、同じく﹁九九 自己を知らざるものは真に如来を知るもの に 非 ず ﹂ ︵ ﹁ 界 ﹂ 明 四 五 年 五 月 ︶ に 於 て 、 かくて自己の罪を知るの度合は則ち如来の智慧を知るの度合に正比例するのである。自己罪悪の実験は即ち 如来の智慧の実験である。此仏智を実験して初めて、如来の大悲がしみじみと感味せらる、のである。 感は観に進まねばならぬ。徒なる大悲の感は一箇実想的信仰に過ぎぬ。此れ天降の信念にして地涌の信念で 曽我量深の二河警観 一 一 九 九曽我且一深の二河警観
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ご 、 品 。 手 ハ 廿 し 真に自己を知るの外に仏智は知ることが出来ぬ。知日と信とは此に一致し又信仰と修養とは合一する。我々は 如来の大悲よりその大智慧を実験して復た大悲に帰る。此時蛤てしんみりとした感謝の念が胸の底より涌き来 る の で あ る 。 ︵ ﹃ 選 集 ﹄ 四 ・ 三 三01
一 頁 ︶ と、その大悲が如何なるかを表しているのである。また、﹁凡人の右胸より誕生したる如来の宗教﹂︵﹃界﹂明四三 年 一 月 ︶ では﹃顕浄土真実教行証文類﹄︵以下は﹁教行信証﹄︶と﹃歎異抄﹄との関係を﹃大経﹄と﹃観経﹄の関係 に見つつ、﹃観経﹄を釈尊の我の発表であり、また、弥陀如来の全人格の発表と捉え、親驚が﹁観経﹄の奥底にあ るこ尊の人格的勢力を捉えたのが隠彰秘密の真義であるとし、﹃観経﹂は大慈悲心を一経の背景として、逆詩閤提 が念仏により救済を得る事について、 若し如来の大悲てふことを取り除かば、観経は全く了解出来ぬ謎である。如来は全く因果の過程を離れて、忽 然として顕現せる怪物に過ぎぬ。︵中略︶観経の如来は全く観念の如来である。自我主観の空影である。則ち 観経一部は臨終の悪人が湧然たる空影に依りて一瞬的︵臨終の彼には則ち永久的︶満足を与ふるに過ぎぬ。如 来の大悲てふことの基礎ありて、初めて観経の如来は森厳なる実在となるのである。︵﹃選集﹄二・二五二頁︶ と﹁観経﹄における如来による救済を理解しているのである。その根拠として、 我々の云ふ所の絶対他力と云ふも畢寛相対中の絶対である。否相対とか絶対とか云ふ言語は全く実際的宗教の 天地にはないのである。︵中略︶我等の理想は絶対他力に向ひ、我等の現実は相対他力を捨つることが出来ぬ。 一 初 ﹂ ︵中略︶相対他力と絶対他力とは一他力教の二面でありて決して全く別なるものではない。︵中略︶自我の執着 ︵ ﹃ 選 集 ﹄ 二 ・ 二 五 五1
六 百 八 ︶ と相対有限である人間の現実相を見抜き、その上で倫理、智慧及び信の宗教である﹃大経﹄から漏れた倫理的悪人 をも許し給ふ所が大悲の誓願である。の五悪と宗教的罪人の誹誇正法を救済するのが慈悲の宗教であり、超信仰及び超倫理の宗教の﹁観経﹄としている。 そして筆者は我等が罪の自覚によって真我に触れた時に、弥陀の大悲によって法蔵菩薩は地上に降誕し、その大 悲の元は﹁観経﹄から感発されたものと曽我は位置づけていると考えるのである。そして、この帰結から曽我は二 河警領解により﹃観経﹂を読み、法蔵菩薩の出現の道程を歩んだと考えるのである。
四、法蔵菩薩論への道程
三章までに曽我の二河警観と法蔵菩薩観を見てきた。筆者は当初、二河誓の教説を因として法蔵菩薩論ができた として問題提起を試みようとした。確かに二章で概観した二河誓領解をまとめれば、最初期には常式的な領解、次 に﹃浄土論﹄との呼応による閣の領解、後に構造的に二河警を捉え真宗の肝要としての法蔵菩薩論へ展開したと考 え る の で あ る 。 しかしここで重ねて考えるべきは、曽我が二河警解釈をしている際に法蔵菩薩論は直接登場することはなかった のである。実際は法蔵菩薩論とそこから派生した阿弥陀や釈尊、そして自身の現実を内観する際に、二河警により 思索することが首我にとって有意義であり、二河警は曽我にとって真宗の教えを考察する時に必須のものであった と考えるのである。この意味に於て二河警を因として真宗の教えを主体的に捉えようとする試みが曽我の法蔵菩薩 論であったといえよう。ただし、その元は﹃観経﹄における大悲心成就によって醸成され、その中身を的確に押さ える手段として二河警の領解が深化しているのである。そのため﹁地上の救主﹂発表以降も論文に幾度も二河警を 引用し、またその意味を吟味し直した領解を何度も発表し、法蔵菩薩阿頼耶識論に到ったと考えるのである。また、 ﹁地上の救主﹂に著された法蔵菩薩論の前後に発表されたこ河警にまつわる多大な論考がその証左であり、その道 曽我量深の二河警観。
曽 我 量 深 の 一 一 河 警 観
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程 と い え る の で あ る 。 親驚が真宗の中核を言語化した際に、その内実は厳密に ﹁教行信証﹄によって著されていると考えるべきである。 ただしその意を押していけば ﹃歎異抄﹄に帰結するものと考えることは可能であり、同様の位置を二河警が担って い る こ と を 、 つまり曽我にとっての真宗の肝要は二河誓領解によっても表明されていることが本稿により領解でき た の で あ る 。 最後に申し添えれば、筆者は曽我が提出した法蔵菩薩論の実際を求めたいと願ったが、曽我の法蔵菩薩論の内実 は紙幅の都合により割愛した。向後、曽我が頻繁に著述内で言及する﹁我と汝﹂というこ河警における鍵語の一つ である語句の解釈と、併せて曽我が明治四五年に著わした﹁一一一二 真宗教義の三大綱甘﹂に於て述べた 一 、 我 は 我 也 二 、 如 来 は 我 也 、 一 一 一 、 ︵ さ れ ど ︶ 我 は 如 来 に 非 ず 。 ︵ ﹁ 暴 風 駿 雨 ﹂ ﹃ 選 集 ﹂ 四 ・ 三 五 一 I I I − 二 頁 ︶ との言葉を手掛かりに考察したいと考えている。そのうえで曽我が法蔵菩薩論を教示したことにより、自己に於て 法蔵菩薩論の意義がどのように発揮されるか考察したい。 凡 例 一 、 引 用 山 山 典 に つ い て は 次 の よ う に 略 記 し た 。 ︵ ﹃ 曽 我 量 深 選 集 ﹄ 第 二 巻 一 O 頁 嫡 生 書 房 ︶ は ︵ ﹁ 選 集 ﹂ 一 一 ・ 一 O ︶ 、 年 五 月 ︶ 、 ︵ ﹃ 無 尽 跨 ﹄ 大 正 五 作 同 月 ︶ は ︵ ﹃ 灯 ﹂ 大 五 年 同 月 ︶ 0 ︵ ﹃ 精 神 界 ﹄ 明治問三年五月︶は日界﹄明四三L ι L ヘ 一 畠 言 品 戸 1J 2 一 二 明 智 彰 ﹁ 曽 我 品 一 深 の 法 蔵 菩 薩 論 の 形 成 過 程 と そ の 原 理 L ︵﹁真宗総合研究所研究紀要﹄第一二号一九九五年︶ は 曲 H 投の法蔵書薩論の形成過程とその原理を﹁地上の救主﹂及びその前後期の随筆﹁暴風紋雨﹂を中心題材にし て 詳 細 に 考 察 し て い る 。 曽我に関する研究且つ題名中に法蔵菩薩の記載があるのは、松原祐善﹁曽我量深先性を追憶して法蔵芹薩の出 現 ﹂ ︵ ﹃ 大 谷 学 報 ﹄ 一 九 O ︿ 五 一 一 一 ﹀ 一 九 七 一 年 ︶ 、 寺 川 俊 昭 ﹁ 曽 我 量 深 に お け る 法 蔵 菩 薩 の 探 求 ﹂ ︵ ﹁ 大 谷 学 報 ﹄ 三仁七︿七一二|一一﹀一九九同年︶、伊東慧明﹁法蔵菩薩曽我量深先生の生涯を貫くものし︵﹃親鷲教学﹄六四 一九九四年三加来雄之﹁宗教的人格の探求曽我量深における法蔵菩薩論﹂︵﹁親驚教学﹄七一一一九九八年︶ 等 が あ る 。 他に﹁仏教の世界観﹂﹁象徴世界観﹂﹁分水嶺の本願﹂﹁地上の救主﹂﹁宿業は本能なり﹂﹁荘厳は象徴なり﹂﹁感応 道交﹂﹁伝承と己証﹂﹁信に死し願に生きよ﹂﹁我如来を信ずるが故に如来在ます也﹂等の曽我独特の思索がある。 ﹁地上の救主﹂には阿頼耶識の話の使用はない。そのため本稿に於て法蔵菩薩阿頼耶識論とは区別し、曽我の法 蔵 金 口 薩 へ の 考 察 全 般 に つ い て は 法 蔵 菩 薩 論 の 語 を 使 用 す る 。 恵 久 口 隆 戒 先 生 士 口 稀 記 念 ﹃ 浄 土 教 の 思 想 と 文 化 ﹄ ︵ 仏 教 大 学 一 九 七 二 年 ︶ 参 照 。 曽我量深論集第一巻︵丁子屋書店大正一一︵一九一一一一︶年︶ 0 伊東慧明﹁曽我量深||真智の自然人﹂︵﹁浄土仏教の思想﹄第卜五巻講談社一九九三年︶一七八頁参照。 曽我量深論集第二巻︵丁子屋書店大正一一一一︵一九二四︶年︶ 0 論集第四巻﹃内観の法蔵﹄序に﹁私は論集第一巻﹃救済と自証﹄に於て、真宗仏教の他力救済の道が遠く如来の 本願の自証に裏附けらるることを指示し、真宗教学の根元的にして同時に学徒の進むべき新しき将来の方向を予 言し、次いで第二巻﹁地上の救主﹄に於て、遡ってこの心境に至るまでの過去の道程を披渥し、第十九臨終現前 の本願を広間せる﹁観経﹄の隠彰する大悲仏心を深く掘り下げ、初めて因位の如来、法蔵菩薩を発見せし記録を 発表し﹂たと記載している。︵﹃選集﹄四後記五 O 三 頁 ︶ 0 註 ︵ 7 ︶ 一 九 三 頁 。 ﹁選集﹂一・後記五一八頁参照︵註︿ 7 ﹀ 一 五 一 頁 と 一 八 三 頁 参 照 ︶ 0 ﹃ 選 集 ﹄ 一 0 ・月報編集室より七頁参照︵註︿ 7 ﹀ 一 七 四 頁 参 照 ︶ 。 ﹁常式﹂とは、﹁普通、一般人が持ち、また、持っているべき知識﹂の﹁常識﹂ではなく、﹁きまった方式﹂︵共に 3 4 ︵ 5 ︶ ︵ 6 ︶ ︵ 7 ︶ ︵ 8 ︶ ︵9 ︶ ︵ 叩 ︶︵日︶ ︵ 臼 ︶︵日︶ 曽 我 量 深 の 二 河 警 観
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曽 我 量 深 の 二 河 警 観 0 四 14 ﹃広辞苑﹄第六版より︶の意。本稿に於ては他の二河警に関する論考同様の﹁逐語的な解釈﹂を指す。 当該論考に於て曽我は、二河警に於ける東岸上の人を﹃浄土論﹄の世尊を呼ぶ事に、水火二河の東岸の極点に立 つ人を我に、白道を一心一帰命に、西岸上の人を尽十方無碍光如来に、不満を感じつつ東岸に在ることを願に、西 岸を安楽園に配当している。 以降、曽我の独特な釈尊観を引用するが、曽我の釈尊観については拙稿﹁曽我量深における﹃仏説観無量寿経﹂ 理 解 ﹂ ︵ ﹁ 印 度 皐 悌 教 皐 研 究 ﹄ 五 九 ︿ 一 ﹀ 二 O 一 O 年 、 一 一 一 一 一 一 一 d l 六 頁 ︶ を 参 照 頂 き た い 。 未信位中の第一位を﹁警へば人ありて西に向て︵中略︶忽然として此大河を見る﹂まで純白力の十九願の相とし、 特に﹁忽然見大河﹂を第十九願の人の到着点としている。第一一位を﹁即ち自ら念一百すらく、︵中略︶憧怖するこ と 復 た 一 百 ふ べ か ら ず ﹂ ま で 自 力 念 仏 の 相 と し 、 ﹁ 憧 怖 不 可 一 言 ﹂ を 二 十 願 の 自 力 念 仏 の 人 の 落 場 と し て い る 。 第 一 一 一 位を﹁即ち、自ら思念すらく︵中略︶水火の難に堕せんことを畏れざれ﹂と﹂まで第十八願の正信の相とし、第 四位を﹁此人己に此に遣はし︵中略︶善友相見て愛楽己むことなし﹂まで信後行業を一不すとしている。 ﹁曽我量深における法蔵菩薩の探求﹂︵﹃親驚教学﹄六四一九九四年︶七一 d i t − − 五 頁 参 照 。 ﹁ 如 来 表 現 の 範 鴎 と し て の 三 心 観 ﹂ ︵ ﹃ 選 集 ﹄ 五 ・ 一 五 七 j 八 頁 取 意 ︶ 0 ﹁ 選 集 ﹄ 三 ・ 二 O 六 1 八頁取意。一方で﹃大経﹄の第十八、第十九、第二十の三願は﹃観経﹄三心に於て網羅さ れている、という独特の見解を同論中で曽我は示している。 曽我は相対他力と絶対他力を﹁他力教の二大本尊﹂︵﹁界﹄明四十三年四月︶に於て﹁惟ふに絶対他力は如来中心 の他力教であり、相対他力は自己中心の他力教である﹂と定義づけ、白己中心主義は同時に如来中心主義であり、 ﹁私は唯此相対他力の上に絶対他力と絶対白力との二つの要求が遺憾なく実現完備せられて居ることを此に断言 するものである。此相対他力を離れて絶対他力も絶対自力も全くの妄想に過ぎぬのである﹂としている︵﹃選集﹄ 二 ・ 二 六 01 一 一 貝 ︶ 0 15 16 ︵ げ ︶︵同︶ ︵ 四 ︶ 20