更生とは何か
││仏教による更生保護活動を通して││
力
日
藤
博
史
は じ め に 本論文の目的は、自明的に語られがちな﹁更生﹂の核心概念を検討し、その目的と過程と方法の基本について構造 的に明らかにするところにある。論文を展開する方法としては、仏教僧侶による教諒の実際を取り上げて検討するア ブローチをとる。 更生は、字義に従えば、 一 般 的 に は 、 リハビリテーションの訳語 ﹁ 生 ま れ 更 え る L という意味であろう。 し か し として用いられている。リハビリテーションそのものは﹁人間としてふさわしい状態の回復﹂という語意があり、か ﹁権利回復﹂の意味で使用されてきた言葉であり、近年は﹁全人的復権﹂と訳されている。このように、更生 っ て 、 は、ダブルイメージを帯びた概念であるといえる 0 ・ 本 論 文 で は 、 ﹁心から罪を憐悔し、悪行を犯さぬような人格を形 成すること﹂という意味で、更生の概念を使用することとする。 更生は、規範の習得をめざす行動のトレーニング・プロセスではなく、人格の相互形成(可自国内 OHS 田 氏 。 ロ O 内宮5
0 ロ 丸 山 口 同 m m H F q ) 過程である、と認識するところから本論文は出発する。 更生とは何か(加藤) -225ー更 生 の た め に 何 が 必 要 か
罪を自覚するとは
ノーベル文学賞を受賞したへルマン・ヘッセ(国耳目白ロロ出m
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は 、 一 九 一 一 一 一 年 、 ﹁ シ ヅ ダ l ル タ ﹂ を上梓した。高橋健二によると、 ヘッセは、第一次世界大戦中、非戦論を唱えたため、 ﹁母国ドイツから裏切り者と して白眼視され﹂、過労も加わり﹁ノイローゼにかかった﹂とのことである。 病状が悪化したため、 ヘッセは、﹁自滅を避けるべく、妻子と別れ﹂、 以 前 か ら 、 スイスで療養した。この﹁シッダlルタ﹂は、 精神病に擢患していた妻の そのような精神的苦境のなかで、 一九一九年に書き始められた。 ヘッセは、この著書の中で、 シッダlルタに、青年時代の友人ゴlヴィンダに語りかける形で、次のような思想を 表 白 し て い る 。 ﹁私もおん身も罪びとである。現に罪びとである。 2 -s v、 ‘ 、 + h 4 μ ﹂の罪びとはいつかはまた党になるだろ ぅ。いつかは浬換に達するだろう。仏陀になるだろう。さてこの﹃いつか﹄というのが迷いであり、たとえにすぎな 罪びとは仏性への途上にあるのではない。発展の中にあるのではない。われわれの考えでは事物をそう考える、
、 し V -1 -よりほか仕方がないとはいえ。ーいや、罪びとの中に、今、今日すでに未来の仏陀がいるのだ。彼の未来はすべてす で に そ こ に あ る 。 おん身は罪びとの中に、 お ん 身 の 中 に 、 一切衆生の中に、成りつつある、可能なる、隠れた仏陀を あがめなければならない。ゴlヴィンダよ、世界は不完全ではない。完全さへゆるやかな道をたどっているのでもな い。いや、世界は瞬間瞬間に完全なのだ。あらゆる罪はすでに慈悲をその中に持っている。﹂ こ こ で い う 罪 と は 、ω
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精神的な罪﹀だけでなく、。同即日四(規範的な罪﹀を含んでいると考えられる。苦悩をく ぐ り ぬ け て 、 ︽罪は慈悲を包含しており、罪人は只今、仏陀に包摂されている︾という相即の思想の深み ヘ ッ セ は 、 に 至 っ た の で あ る 。 ︽私も罪人である︾という思想と、 ︽ 罪 人 を ヘッセが親驚を意識したか否か詳らかではないが、 あがめる︾という思想は、親驚の思想に相似する。親驚は、﹁悪性さらにやめがたし、こころは蛇蝿のごとくなり﹂、 -226ー 龍谷大学論集﹁貧眠邪偽おほきゅへ、折詐ももはし身にみてり﹂と和讃で詠じ、 よくてころさぬにはあらず﹂と語る。そして、 を 説 く 。 た だ し 、 ﹁業縁なきによりて害せざるなり。わがこころの ﹁他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正固なり﹂と悪人正機 ﹁悪ををそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからず﹂と、あくまで、悪を怖れ避ける べきことを強調している。 梅原猛は、天台大師・智顕(ちぎ、五三八│五七九年、摩詞止観を論じた﹀に関する横超慧日ハ一九
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六│一九九 五年﹀の研究を引いて、次のように述べている。 ﹁地獄の世界のなかに地獄から仏までの世界があり、仏の世界のな かに地獄から仏までの世界がある﹂ ﹁私は地獄の住民であるとする。私の心は悪にまみれ、私のすることは、すべて 殺人、強盗、強姦、そしてそのために私は世にもはげしい苦しみを経験するとする。しかし、その私のなかにも仏の 心がある。煩悩にふりまわされ、悪にまみれ、地獄の苦しみを毎日のように味わう私にもなおかつ仏の心があるので ある。また逆に私が仏になったとする。仏の心よ、 紛 て い る の で あ る ﹂ 。 しかしその仏のなかにもまた地獄の心、煩悩の心、悪の心が隠れ 梅原猛は、智顕の一念三千や三諦円融の思想をへ l ゲルの現象学に比して紹介している。地獄、 同 町 ﹂ 明 り 副 可 羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏の十の世界が互いに具わっている(十界互具﹀という思想刻、良寛は、ω
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の中にたちたる三千大千世界︿みちおおち﹀またその中にあわ雪ぞ降る﹂と歌ったのではなかろうか。はかない降る 雪のなかに地獄界から仏界にいたる大宇宙の﹁三千世風﹂(宇宙の千倍の千倍の千倍﹀が現れ、その世界の中にまた 虚仮と優しさを象徴する雪が降っている。この思想を、若い親購は、最澄の天台の教えを比叡山延暦寺で学ぶなかで 餓 鬼 、 畜 生 、 ﹁ あ わ 雪 身につけたのであろう。冒頭に引いたヘッセの思想と響きあっているといえる。ω
化﹂だけでなく、深みと広がりを持った﹁罪の文化﹂があると考えられる。 天台院の住職でもあり、作家であった今東光は、 こ の よ う に 、 日 本 に は 、 ﹁ 恥 の 文 ﹁生活上のいろんなものがみな罪というものと結びついて、私た 修 更生とは何か(加藤) -227ー"
ちが反省していく生活というものが、宗教生活では可能﹂と述べ、罪を自覚する生活の重要性を指摘している。そし M W 罰はおそるるに足りない。﹂として、 て ﹁ 罪 の 方 こ そ お そ ろ し く て 、 罪の意識を不断に画養する宗教の意義を強調 し、日々の憤悔など宗教生活を失った日本人の現況を嘆いている。 と罰を恐れることは、外界の出来事への意識を強めはするが、心の内面性の形成や深化に結びつくことはない。小此 木啓吾は、団藤重光との対談で、﹁罰に対する恐怖がある聞はほんとうの罪意識を体験できない﹂ 罪悪感をもてるようにするための環境を整えていくことが大切﹂と語っている。 ﹁ パ チ が 当 た る ぞ ﹂ ﹁ 禍 々 し い こ と が 起 こ る ぞ ﹂ ﹁ 少 年 が 内 発 的 な 罪の自覚、罪の意識化という点に関して、土居健郎は、別の観点から。 伺 道を通らなければならない﹂とし、 て く る ﹂ の で あ り 、 ﹁人聞が内面性をもつために、非行の回り ﹁他人の眼が届かないということで、はじめて内面性が存在する可能性が生まれ ﹁それはしばしば甚しい葛藤状態をひきおこす﹂、と述べる。非行が、逆に心の内面性の意識化 と深化に不可欠だというのである。むろん、葛藤状態を伴うことが前提条件である。私たちは、生きているうちは、 非行を犯さざるを得ない。私たちが、憎悪、愛着、強欲、迷妄、怒り、倣慢の塊だといっても過言ではないからであ る。しかも、自分の内面の世界を持とうとするとき、秘密の世界や隠蔽する世界をもたなければならない。 非行を犯した後、私たちは、良心の葛藤に陥る。土居は、その葛藤が、人間の人格形成にとって極めて重要だとす る。自分の境遇に対するものではなく、自分自身に対する苦悩や絶望が内面性形成の触媒になるというのである。 苦悩や絶望を自分のこととして受容するには、自分を無条件に丸ごと認めてくれる存在が必要であると ﹁人聞は誰かに認められてはじめて人間的になる﹂と述べる。また土居は、﹁情緒的に甘える﹂ことが、﹁感情 の発達﹂に極めて重要であり、自然に健康な甘えを時と場合と相手をわきまえて発揮することを奨めている。したが M W M W ﹁ほとんど窒息するほどの雰囲気を醸し出す危険がある﹂ような﹁密接な親子関係﹂は、健康な甘えと似て非 土 居 は 、 し っ て 、 な る も の で あ る 。 -228ー 龍谷大学論集一九九七年、神戸で起きた十四歳の少年による連続殺人事件の少年を取り上げ、︽査曲し倒錯した甘えの 世 界 ︾ に 彼 が 陥 っ て い た と し て 、 ﹁ 彼 は 結 局 、 自 分 の 内 心 の 苦 し み 、 痛 み を 解 決 す る た め 土 居 は 、 次のように述べている。 に、自分より弱い動物と人聞を苦しめたのではなかろうか。そうして苦しんでいる弱いものたちに自分をダブらせる
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と言う形で、自分の痛みの解放をはかったと考えることが可能なのである﹂。ω
少年から発せられた﹁殺している時だけ日頃の憎悪から解放され、安らぎを得ることができる﹂との挑戦文は、こ とのほか、少年の本心の表白といえるのであろう。少年は、社会状況の中で強烈にいたぶられ虐められていたと考え られる。少なくとも、少年は憎悪の自縛のなかで安らぎを得られなかった。誰かを自分と同じ自に会わせることで、 憎悪のエネルギーの行き場を求めた。しかしその憎悪は解消されるのではなく、繰り返されエスカレートしていくだ けであった。この少年には、﹁健康な甘え﹂を受けとめてくれる相手が必要であった。家族に問題の責任を転稼し問 題を嬢小化してはいけないが、家族の責任も問われなければならない。それと同時に、家族を追い込んだ社会の責任 が関われねばならない。ただし、まずは、少年の心を家族に代わって受容することが求められる。 灰 谷 健 次 郎 は 、 ﹁盗みを働いている子供というのは、自分にも絶望していると、ぼくは思うんですよ。だから、そ の子供のなかにある悲しみというものを、やっぱりお母さんが一緒に悲しんであげるというふうな、そういう世界が なかったらだめなのと違うか切﹂と語る。自分自身に対する絶望が、悲しみとなって心の深部に沈潜し、それを感受 して、共感しあう関係形成が、子ども自身の自己受容を促進する。 ﹁内面性への試みが敗北に終わった苦痛をこそ味わっている。敗北ω
感に苦しんでいるのだから、悔俊の情が起きてこないのも当然﹂だと論ずる。したがって、闇雲に機悔と悔俊を求め るようでは意味がない。そのアプローチからは、表面を取り繕うものしか生まれてこない。土居は、﹁自らの秘密が 伺 はじめて少年は内面性を自らのものとすることができるようになるであろう﹂ 非行を働き、露見した少年は、土居によれば、 確かめられ保証されることを知って、 更生とは何か〈加藤〉 -229ーと述べて、秘密を保証する関係性を築くことこそ肝要としているのである。 しかし、子どもを甘やかし放しにはしない。灰谷は、 灰 谷 は 、 ﹁先生はたとえどんな小さなことでも、 わるいこと をすればえいきゅうにそのつみはきえないのだと思います。それを一生もって生きていくのが、人間の生きていくす べてだと思いま旬。﹂と述べる。子どもを含めて、罪を犯したものは、 告白し謝罪することがある。 そのようなとき に、往々にして相手が赦してくれるものと期待しつつ告白と謝罪を行う場合が多い。けれども、赦してしまっては、 その人の成長も人格深化もなくなってしまう。どんなに小さなことでも罪は永久に消えない。罪を一生背負って生き ていくことに人生の本質がある。灰谷は罪の内面化を教育の核心に求めているのである。 ﹁保護矯正はこの少年の責任を不聞にする限り、 まったく不可能で 同様に、土居は、神戸の少年事件に関連して、 あ何﹂として、責任を負わせることの重要性を指摘している。土居は、少年に対して、極刑や隔離収容を求めている 伺 のではない。﹁良心に照らして悪いと思うことはけっしてしてはならない﹂という信念をもち、﹁この少年が自分の 犯した罪の重さを自覚し、少しでも償いをしようという気持ちが起きるように指導するのでなければ、この少年は更 鈎 生しようにも更生できないではないか﹂と提起している。 土 居 は さ ら に 、 制 ﹁教育は命懸けで追求すべきものが何であるか教えなくてはいけない﹂と述べる。そして、その命
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﹁命よりも大切なものがあるということ﹂であるとする。命よりも大切なものを 懸けで教えるものについて土居は、 教えないと、本当の意味で命を大切にしなくなるというのである。命よりも大切なものとは何か。 新任の体育教師だった星野富弘は、模範演技の失敗で頚椎を損傷し、上下肢の麻庫状態となり、自殺を希求する日 々を送った。その星野は絶望を潜り抜けた後に、﹁いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。 伺 いのちよりも大切なものがあると知った目、生きているのが嬉しかった﹂と歌っている。星野にとっては、キリスト 教の信仰が﹁いのちよりも大切なもの﹂であったのではなかろうか。 -230ー 龍谷大学論集また、矯正協会会長を務め、全国の死刑囚全員と面談し死刑廃止を信念とした正木売は、更生に関して、 例 徹底して皆にその菩提心を養うということでいったら、刑罰の恐ろしさよりそのほうが近道じゃないか﹂と述べてい ﹁ 宗 教 を る 。 正 木 は 、 ︽ 菩 提 心 ︾ を 、 ﹁いのちよりも大切なもの﹂と考えているように思われる。 更 生 の 凶 の プ ロ セ ス 以上前項で述べたことから明らかになった更生のプロセスについて、構造的に整理して提起する。非行や犯罪を行 った人は、被罰回避意識の優位状態、あるいは、他者評価の過敏状態にあるといえる。 つまり、内面性が十分形成さ れ な い ま ま 、 ﹁周囲に自己を高く有能に見せろ﹂という外部からの教化を精神内部に取り入れつつ、 セルフ・デフレーションをきたしているといえる。 一方で﹁おまえ は駄目なやつだ﹂との低い評価メッセージを押し付けられて、 したがって、更生の第一段階としては、 ﹁被受容化﹂がなされねばならない。まず、 ひとりのかけがえのない人間 として、能力や容姿ではなく存在そのものを全体的に認められ評価されることが必要である。それは、存在の中心か ら発信され存在の中心にむけて届けられ、一貫して安定的に供給されることが肝要である。単なる、気持ち
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窓 口 口 ろ で あ り 、 承 認( B
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ロ ) で あ る 。 更 生 の 第 二 段 階 は 、 ﹁自己受容化﹂である。自己による自己の人格全体の受容である。相手に認められ受けいれら れて初めて、自己を受け入れる志向性が生じる。 更生の第三の段階は、 ﹁共感化﹂である。相手のイマジネーションと自己のイマジネーションが相互に発揮され重 なり合い融合する。相手との共感を引き出す働きを行うこともある。 更生の第四の段階は、 ﹁内省化﹂である。自己受容と共感の発展によって、自己の中心と対話する働きが活性化さ 更生とは何か(加藤) -231ーれ る 。
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・フロムは、これを﹁中心経験﹂として概念化し、それは、生と愛の基礎であるとして、次のように述べて いる。﹁愛とは、ふたりの人聞が自分たちの存在の中心から互いに通信しあう時にのみ、それゆえに彼らのひとりび とりが自分の存在の中心から、自分自身を経験する時にのみ可能なことである﹂。 更 生 の 第 五 の 段 階 は 、 ﹁ 希 求 化 ﹂ で あ る 。 理 想 的 な 自 己 、 アイデンティファイしたい自己が、容姿や能力のレベル 更 生 の 第 六 の 段 階 は 、 いわゆる﹁良心﹂が形成される。 ﹁葛藤化﹂である。現実と快楽との聞の葛藤ではなく、現実と理想との葛藤である。現実の ではなく、人格のレベルで形成される。こうして、 環境や人間関係、自己の心身の状態、自己の能力的限界などと、人格的理想との隔絶に直面し、人格的な苦悩を体験 す る 。 更生の第七の段階は、﹁責任化﹂ り、自分がつくった罪であれば、機悔悔俊し、 である。自分が行った行動について責任をとるという志向性が生じることであ 一生罪を背負い続けて謝罪のためにできるだけのことをする、 と い う こ と で あ る 。 ﹁感情は社会的なもの﹂であるとしている。土居は、 M W ﹁社会的抑制がきかない﹂﹁キレやすい素質﹂になっていく、と指 恐怖心などのさまざまな衝動を、﹁感情として体験できるように﹂してやるべきだとしてい る。人間関係の広がりの体験と多様な感情表現の感受体験が社会化である。先に、親驚が﹁業縁によって人は罪に落 更 生 の 第 八 の 段 階 は 、 ﹁ 社 会 化 ﹂ で あ る 。 土 居 は 、 ﹁ 人 間 関 係が薄い﹂と﹁感情生活が非常に貧困﹂になり、 摘 し て い る 。 そ し て 、 ちたり罪から免れたりしている﹂と唱えたことに触れたが、業縁とは境遇であり、人間関係と社会環境と時代状況で ある。このように、この段階では、社会的脈絡の中で、自分の行った言動を位置づけていくことが求められる。 更 生 の 第 九 の 段 階 は 、 ﹁倫理化﹂である。ここに至ってようやく、善悪の行動規範が、内実を伴って形成される。 それは、その人の人格と一体になった自然体のものであり、周囲の眼を意識したものではないといえる。 -232ー 飽谷大学論集更生の最後の段階は、 ﹁人格深化﹂である。罪の自覚が人格の深化に結びつき、深みと味わいのある人格が形成さ れていく。この段階では、 ﹁ 忘 己 利 他 ( 最 澄 の 言 葉 ﹀ ﹂ 、 つまり己の欲得ではなく、世のため人のために与えられた命 を使おうと志向するに至る。 以上のプロセスは、今後さらに検討を加える必要がある。 ただしここで、筆者の最も強調したいことは、 こ の プ ロ セスの内実が抜け落ちると﹁更生のための倫理化﹂は形骸化するであろうということである。つまり、精神内部の形 成のプロセスを省略して、表面的に倫理規範だけをコーティングする ﹁ ま が い 物 の 更 生 ﹂ に陥るのではないだろう 11' 現にもし﹁上辺だけの更生﹂に陥っているのなら、 なにが欠落しているのか認識把握し改善していく必要があ る、ということである。 四
宗教教諮の概要
一 八 七O
年ごろ、東大寺の僧が、教誇のために監獄に出入りし始めたといわれる。またそのころ心学者が東京の徒 一八七二年七月、浄土真宗 いずれも一時的短期のものと考えられる。監獄の教語は、 大谷派の僧侶・鵜飼啓揮の名古麗監獄において、八月に仰明寺対岳が巣鴨監獄において認可を受け、翌一八七三年四ω
月、本願寺派の僧侶・舟橋了要が岐阜監獄での教詣で後に続いたことを晴矢とする。 場で講話を始めていたという。 一八八一年の統計では、浄土真宗本願寺派一四ケ所、大谷派二ケ所、真宗両派合同三ケ所、仏教各宗合同八ケ所、 仏教神道合同八ケ所、神道四ケ所、心学二ケ所、真宗高田派二ケ所、華厳宗一ケ所、本願寺派神道合同一ケ所となっ"
でいる。東西両本願寺門主が教諒を重視したゆえんである。また、この分野で開拓的な活動をした原胤昭などキリス ト教徒への対抗意識も働いていたと考えられる。一八八一年三月、司獄官吏及び傭人設置程度で教諦師が法文に明示 伺 ﹁ 教 諒 師 、 人 員 俸 給 適 宜 ﹂ と さ れ 、 教 講 師 の 一 履 一 周 は 任 意 で あ っ た 。 さ れ た が 、 更生とは何か(加藤) -233ー西本願寺は、皐釆教順(はなつ M 岬 に当たらせた。教諒師養成の濫腸である。 一 八 八 七 年 二 月 、 きょうじゅん)に大阪府監獄署において教諦実務訓練生の指導 一八八九年監獄則が改正され、教諒師は毎日出勤となったが、依然として本山からの派遣扱いのままであり、財政 的余裕のない宗派は派遣を中止するようになっ
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を聞き、教語研修に力を入れるようにな旬。 講生として派遣してい仇。 一八九一年、東西本願寺は合同で九州を皮切りに監獄教諒連合会 一八九九年には警察監獄学校が開設されると、東西本願寺は教諒師を聴 帥 開 一 九OO
年、監獄は司法省所管となり、監獄費は国庫支弁となる。 仰 の改正によって、初めて教諒師は奏任官・判任官待遇として官制上位置づけられた。 一 九O
三年、監獄官制 一 九O
八年、刑法改正に伴い監 獄法が立法され、教語に関する規定(﹁受刑者には教諺を施すベし﹂監獄法二九条)が法律上に明示されM
。 一 九 一O
年、ワシントンで第八回世界監獄会議が開催されると、東本願寺は武田慧宏を西本願寺は高安博道を派遣して国際ω
的動向を吸収しようとしている。 五円から七五円の十階級であ旬。 伺 っ て い る 。 一九一八年の教講師の年俸は、奏任官五OO
円から一五OO
円の十階級、判任官一 一九一八年十二月末現在で、奏任官は五三人、判任官は八五人、嘱託は六八人とな 一九一一一年十月、司法省監獄局長の谷田三郎は、真宗大谷派本願寺慈善協会で﹁免囚保護と刑事政策﹂と題して講 演し、﹁免囚保護事業の為めに努力を請はんと欲する者は差向き大慈大悲の誓願に依り衆生済度を天職とせらるる宗 川 明 教家諸君を措て他に之を求むる事が出来ぬのである﹂と述べている。教誌や更生保護の分野で宗教界とりわけ、東西 本願寺の果たす役割は非常に大きかったといえる。 川 刷 戦後、刑法十二条、十三条によって、教詩師の職制は廃止された。しかし、収容者の宗教的欲求に応えるために、 日本宗教連盟を母体に宗教教諒中央委員会と地方委員会が結成され、その推薦の基に教諦師が選ばれて教誇が行われ 同 開 帥 開 ている。教諒師は、一定区域の自由な出入りと立会人無しに収容者と面会すること、などが許されている。 一 九 五 二 -234ー 龍谷大学論集年において総集教諒は、全国の刑務所で、真宗六八、 一 一 六 、 カトリック六三、禅宗三七、天理教二七、浄土宗二七、神社庁 日蓮宗二三、などとなっている。出席人数も年問、真宗四二二九六人、カトリック三
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プロテスタント二四、 六七七人、禅宗一二八五七人、浄土宗二ハ六五四人、神社庁一五五七二人、日蓮宗一四三O
六人、プロテスタント一 伺 三九九九人、天理教一一三九三人となっている。個人教諦は、真宗九九五六人、カトリック六八二二人、プロテスタ ン ト 四O
八二人、天理教三O
五六人、神社庁二九六九人、金光教二八六二人、禅宗一O
六O
人などである。総集教諒 と個人教誌とに宗教によって聞きがあるのは興味深い。後者は教誇師との個人的なつながりが大きいのかもしれない。 一九四九年四月十日、西本願寺の大谷光照門主は、大阪拘置所を訪問し、死刑確定者に帰敬式﹁おかみそり﹂を行 った。そして門主は、十一月十五日に第二回の訪問を行い、周囲の気づかいを抑さえ自らすすんで、異様な臭気のす 伺 る独房をひとつひとつ慰問していった。その後も訪問を行っている。門主は教団の意思を身をもって示したといえよ う五
吉川卓爾の教謡活動を通して
吉川卓爾は ( 浄 土 真 宗 本 願 寺 派 ﹀ 一九二八年春 泉南の田尻町吉見にある ﹁ 正 善 寺 ﹂ で一八九八年に生まれた。 に、本願寺の推薦で教諦師となり、大阪刑務所の支所(現和歌山刑務所﹀の教育課に勤務し、 一 九 三O
年に北区支所 (現大阪拘置所)の教務主任となっている。その後京都拘置所に勤務、 一 九 五O
年に西本願寺尾崎別院輪番に就任、 た~翌 何年 t土 再 び 一九七九年三月に逝去し 大阪拘置所に講師として迎えられ、 多くの死刑囚を含めた教詩に尽くし、 六歳で父を病気で失った吉川は、貧苦のなかで育った。そのため、自分よりも厳しい﹁人生の一番どん底﹂にある 受刑者を﹁慰めてやろう﹂と考えて、この道に入り、逆に、 ﹁騎慢心﹂を思い知らされること ﹁ 自 分 の 思 い あ が り ﹂ 更生とは何か(加藤) - 235ー品 開 と な る 。 吉川の教議活動の一端を見てみよう。吉川は、時聞をかけて受刑者との人間関係をじっくり作っていくことを大切 に し た 。 ﹁とかく教諒師は﹃直ぐ開きなおって性急にお説教にもって行こうとする﹄傾向がないでもないが、人と人 即効性のあるものは、 のつながりを育成するためには相当の時を稼がざるを得ないのではないか L 。 表 層 的 で 、 即効的に消え去るものでもある。吉川は、死刑囚と囲碁を楽しむこともあった。 鳴 り 俳 句 、 関係を培ったりもしている。 また、短歌を作ることを通して信頼 同様に、精神医療の分野で医師の中井久夫は、引き寵る患者に往診し、声をかけて返事のないまま戸口に薬を置い て 帰 り 、 一週間後、そのまま放置されている薬を取り替えて帰ることを繰り返す。 ﹁結局、主との聞に半年かけて治 つまり主に守人間の中にはそれほど有害ではなく強 締 引でもなく限度内であなたの役に立とうとしている者がある﹄ことを、強制性なしに伝達しえたことにあった﹂と言 療関係が成立するのだが、 それは、餌づけではなく﹃人づけ﹄、 及 し て い る 。 信頼関係形成のために、吉川は、根気強い努力を払っていく。 数犯を重ねているしたたか者で、これ迄に二ケ所の施設で役人を殺害している経歴の持主で、教化困難者の一人であ ﹁瀬淵であるが、これはまた非常な短気者で、前科 る。私の話に耳をかすような瀬淵ではない。根気よく接している内にやっと入信の茄が見えはじめたかと思っている とぐんぐんその心境が調ってまいり、自己憤悔録を手記し始めたのですが、後悔の余り自己の頭の毛をむしりむしり 一訳とともに書く真剣さである。︿中略)。私は家に持ち帰って、(中略﹀そのノ l トに根気よく朱筆を入れるのであ 伺 った﹂。教詩の仕事は、刑務所内だけに留まるものではない。 吉川は、真剣さをもって接することと、裸になって接することの重要性についても指摘している。機が熟して受刑 者の心の中に自然に信仰心が生まれ、 ﹁先生! 只今から命がけで修養いたします﹂と呼びかけられた吉川は、 -236ー ま た 龍谷大学論集 -, よ
伺 よし、こちらも命がけで応対するよ﹂と語りかける。率直な自己開示が率直な自己開示を呼 び響きあっている姿がここにある。吉川は、受刑者よりも一段高い立場にいるのではなく、対等な立場で共に道を求 く 聞 か せ て く れ た ね え 、 めようとしている。まさに、同朋同行の思想の実践であるといえる。 ﹁只今ここでこの己の命をお前にく あるとき、隠し持っていた凶器で受刑者同士が刃傷沙汰に及ぼうとしたとき、 れてやるから、先ずこの己を刺せ、然る後に坂田を刺せばよ川﹂と、吉川は毅然と語る。吉川自身は、気が弱くて臆 病だったと述べているが、やみくもに唆阿を切ったのではなく、信頼関係の形成で相手に心情が伝わる自信があった から、相手の前に身を投げ出すことができたのではなかろうか。 中本は、生爪を剥がす自虐行為があり、他人の目玉をくりぬきに行く死刑囚のため、二重手錠され看病夫を付けら れていた。吉川は、その中本の居房に慰問し続ける。やがて中本の心が聞いていく。そして、ある日、﹁先生!肩 を 提 ま さ せ て 下 さ い ﹂ と 呼 び か け ら れ る 。 ﹁ お お 探 ん で く れ る か ﹂ と 、 相 手 に 身 を 委 ね る 。 探 み 一 瞬 、 戸 惑 い つ つ 、 な が ら 、 中 本 は 、 ﹁おふくろの肩を諜みたいと思った﹂と話す。中本死刑囚は、吉川の身体を通して母親への感謝を 表そうとしたのである。教諦師は母親の役割を果たすこともあったということであろうか。死刑執行の日、嵐のため 遅参した古川を、中本はオイオイ泣いて待ちわび、吉川に読経してもらい、冗談を言いつつお礼の握手を交わし称名 倒 し て 旅 た っ た 。 仲間の死が信仰心の扉を聞くこともある。仲間の死刑の日、梁がはじめて念仏する。その日帰宅した吉川は、徹夜
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で写経し、翌日持参して梁に手渡した。梁はそれを肌身離さずもち続けた。エリクソンは、﹁英知とは、死そのもの 併 を目前にしての、人生そのものに対する超然とした関心である﹂と述べている。死は虚無に戻ることではなく、永遠 M H 永遠の命を得ることである。親しいものの死に遭遇して自己の死がリアリティをもって迫り来た の 命 に 戻 る こ と 、 り、菩提心が生まれる契機となる。 更生とは何か(加藤〕 -237ー古川は、死刑囚の遺族に、改心機悔の様子や処刑に臨む姿を伝え、 M 明 ためるなど、遺族ケアに当たることもしている。人は、誰かを許すことによって、自分自身を許すことができ、安ら ぎを得ることができる。許さない対象が家族の場合、それは大きな心の重荷になる。吉川は、死刑囚に代わって家族 ﹁清明君を許してあげて下さい﹂と便りにした に 許 し を 乞 う こ と で 、 死刑囚と家族の未完の仕事を完遂できるよう促しているのである。それは、吉川の教諦活動の 自然な一環の取組のひとつであった。 そのほか、古川は、教諦活動の延長線上で、死刑執行を翌日に控えて姉が面会に来たとき、その姉を自坊に宿泊さ 制 せ、妻の着物を直して白装束にして姉に渡すことや、受刑者の内妻が妊娠し出産した後、保護司と調整をして子ども 帥 刊 を養子に出す支援をしている。今で言う、ソ l シ ャ ル ワ l クをしているのである。社会機関や専門サービスが整備さ れていなかった当時としては、これも吉川にとって、自然な取組だったのであろう。 国際キリスト教大学総長だった鵜飼信成は、正木亮との対談で、受刑者に接する仕事をするものはご緒に悩み、 一緒に考えていくという気持ちがないといけない﹂として、 ﹁それが根本﹂と語っている。正木は、 ﹁ 仙 台 の 刑 務 所 にお坊さんあがりの看守がおりましてね。死刑囚と二人で風目に入り、そして背中をこすってやるんですよ。そうし 伺 ているうちにほうとうの人間像にぶつかるというのです﹂ と鵜飼に話している。 まさに文字通り裸の付き合いであ る 。 このような働きかけがあって、初めて、受刑者は更生の道を歩むことができるのであろう。 同行者として人格と人格が出会わなければ、 は無効である以上に有害である。 一切の駆け引きや技巧 教諒は表面的なものに留まる。しか も、死刑を抱え込んだ人の苦悩の水準にふさわしい人格の深さが求められる。それが'無理であれば、それを意識した 謙虚さが求められる。吉川の教諦を受けた死刑囚は、﹁私は人聞に生まれてこなかったら、死刑になることがなかっ h M M 竃 たでしょう。死刑にならなかったら、尊い仏法にあうことができなかったでしょう﹂と述懐する。また、以下のよう -238ー 龍谷大学論集
な詩を歌いあげたものもいる。まさに、新たな生命の誕生である。 ﹁ほんとうに私はおろかもの/二人の子供よさよ うなら/先生お世話になりました/私の罪業だきしめて/如来もともに泣かっしゃると/お聞かせ頂いたその日から /心の曇りは晴れました/ったない私の命をば/お母さんにと添えましょう/世間の人に愛されて/ながいきするよ う願います/私は逝きます西の国/大悲のみ手にみちびかれ/それでは皆さんさようなら/また会いましょうや緒上 開 倶 会 一 処 ﹂ 。 善人 本 心 か ら 、 こ の よ ﹁死後に同じ一つの処で共に会いましょう﹂という信心をもっていなければ、 うな思いを導き出すことはできないと考えられる。 -'-- -/ 、 更 生 保 護 に 生 き た 人 々 伊豆の下回市にある八幡山宝福寺は、浄土真宗本願寺派に属し、本願寺第一一代顕如由来の歴史を持つ。幕末に、 一 八 六 三 年 、 山内容堂と勝海舟が阪本龍馬の処遇を巡り会談をしたところとしても有名である。 一八五四年日米和親 条約締結の日本全権の本陣となって下回奉行所が置かれていた。こうして鎖国が終わった。 一八五六年に、下回に初 代駐日総領事としてハリス(一八
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四│一八七八年﹀が着任し日米修好通商条約(一八五八年)の締結にむけて取組 一八五七年、幕府は、アメリカの真意を探り条約を有利に運ぶため、当時十六歳で許婚もいた芸妓・斉 を 開 始 す る 。 藤きち(一八四一│一八九一年﹀を領事館に差し向ける。いわゆる﹁唐人お吉﹂である。 し、土口は再び芸妓に戻るが、やがて身を持ち崩し乞食の群れに入り最期は投身自殺を図って世を去る。世間の人種的 偏見や嫉妬が士口を迫害したといわれている。宝福寺の住職であった第一五代竹岡大乗は、遺体を引き取り埋葬し﹁貞 一 八 六 二 年 、 ハリスは帰米 観﹂の法名を送った。そのことで竹岡大乗は世間の非難を浴びたという。現住職の竹岡範男は﹁お吉の悲劇的生涯は 私達に、人聞が人聞を殺す﹃偏見﹄と﹃権力﹄、その底にひそむ罪の可能性と愚かさを身を以て教えている﹂と述べて 仰 いる。非難を受けることを承知で吉を弔った大乗は、その後、横浜刑務所での教諒の仕事についたとのことである。 更生とは何か(加藤) -239ーじ よ う か い 、 一八五八│一九一一一年﹀は、岡山市にある浄土真宗本願寺派の光清寺に生まれた。 千輸性海(ちわ 一八八四年、千輪は、本願寺の推薦で岡山監獄の教諒師となっている。 一八八五年、千輸は教諒師を続ける傍ら、岡 山監獄を出て行き場のない少年を自坊に預かると、少年たちが増え始めていったので、 一八八八年八月一五日、自坊 に﹁岡山感化院﹂を設立したのである。感化院の鳴矢である池上雪校の﹁神道祈属所﹂の設立が一八八四年であり、 高瀬真卿の﹁私立予備感化院﹂の設立は一八八五年であるから、千輸の活動はほとんど同時期に行われているといえ よう。一八九五年、千輸は寄る辺のない一般刑余者のために自費をつぎ込んで﹁岡山保護院﹂を白坊に設立してい る。千輸の事業は、初代岡山市長も勤めた実業家・花房端連によって﹁社団法人備作恵済会﹂ 引き継がれて今日の岡山県立成徳学校へと発展していく。そのほか千輸は、真宗青年会(一八九二年﹀や仏教婦人会 ( 一 九
O
三年﹀を組織した功績も大きい。 ( 一 八 九 八 年 ) と し て 一八五九│一九四六年﹀は、山口県下関市にある浄土真宗本願寺派の了円寺に生まれ た。同寺は一七世紀の開基であり、高杉晋作の騎兵隊の駐屯地ともなっている。幼少時に父が脳溢血で寝たきりとな ったため、叔母婿が住職を継ぎ、母親の裁縫と自身の托鉢で貧困の中で育った。苦悩の中でキリスト教の洗礼も受け 丘道徹(おか ど う て つ 、 て い る 。 一八八一年、了円寺の一四代住職を継いだ。檀徒の非行少年の更生に腐心した丘は、 び婦人会﹂を結成して、青少年の健全育成に努めた。一八八八年現在の下関刑務所支所となる赤間関監獄の教講師と なり、一九O
五年まで隔日勤務をおこなった。この間、一八九O
年九月二O
目、自坊に免囚保護寮を開設した。当初 一 八 八 二 年 、 ﹁ 少 年 及 二 人 か ら 始 ま り 、 一年後にはこニ人の刑余者が入所保護されている。 一 八 九 七 年 に 女 子 部 を 新 設 し 、 一 八 九 九 年 に は 知事の認可と助成を受け知事や内務省検事正の視察が行われるに至った。これを機に、 一 九OO
年自坊の外に新築移 転し下関仏教クラブ慈善事業部と合併して名称を﹁下関保護院﹂と改めた。施設は一九四四年六月まで運営され、原 胤昭や留岡幸助も訪れている。 -240ー 龍谷大学論集丘は、院主として院生と寝食を共にし、二時間の学習時聞を与え、クリーニング、有田焼などの授産をおこなって いる。一九三九年の記録では、五
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年聞に入所した実人員は三五O
二人、そのうち刑と関係のない孤児、高齢者、行 帥 刊 路病者は二二三人となっている。 一 八 七 二 │ 一 九 五 二 年 、 一 八 九 九 年 河野純孝(一八六二l
一九二九年﹀は、浄土真宗大谷派の武田慧宏(えこう、 警視庁教講師として巣鴨監獄などで活躍した﹀と並び称される浄土真宗本願寺派の教謡界の中心人物である。 一年に、堀川監獄で教諺を始めて以来、埼玉監獄、市谷監獄、豊多摩監獄、豊多摩刑務所、などに勤務し、刑余者の 更生保護に文字通り身を挺して尽力した。一八九九年七月に免囚保護事業である斉修会が築地本願寺に事務所を置い て開設されたが、その中心人物も河野である。.河野は、一九二四年、西本願寺の特選会衆に任ぜられている。また、 正木亮とも交友があった。河野の葬儀には武田慧宏が友人代表で追悼の辞を読んでいる。河野の事跡に関しては別稿 ﹁明治・大正期の教護と教諦﹂で詳述した。 一 八 九 川本恵開(一八六六│一九OO
年﹀は、島根県の生まれである。西本願寺で勉学を積み、一八八五年、佐賀市にあ る県教務所の願正寺住職の熊谷広済に師事し、一八九O
年、荒廃した市内の安楽寺を再興し、自坊で更生保護事業を 始めた。川本恵聞は早世したため、その遺志は、熊谷の弟子であり、安楽寺の住職に就いた川本達源(一八七八│一 九四二年﹀に引き継がれた。川本達源は、本名を橋口一権六といい、天草の生まれである。一八九八年から一九OO
年 まで仏教大学(現在の龍谷大学、一九OO
年に大学林から仏教大学と改称し、一九二二年に龍谷大学と改称した。﹀ に学び、一九O
二年に佐賀市の﹁第五仏教中学(現在の佐賀龍谷学園)﹂に編入し、熊谷に師事した。卒業した一九O
五年十月に安楽寺住職となり、十一月に佐賀監獄の教講師に任命されるとともに、自坊に免囚保護場を再興した。 その後、達源は教講師として、一九二三年に三池刑務所に出向、一九二六年に新潟刑務所に勤務、一九二九年に松山 刑務所に勤務、一九三一年まで勤めている。その後も、佐賀県恒産会の監事や評議員に就き、輔成会から表彰も受け 更生とは何か(加藤〕 -241ーM W て い る 。 平原唯順(一八七
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ー一九三三年﹀は、広島県の呉市にある浄土真宗本願寺派の宝徳寺に生まれた。本願寺大学林 (龍谷大学の前身﹀に学び、一八九四年、自坊住職を継承する。一八九八年、平原らの住職集会で慈善事業を起こす 必要性が打ち出され、翌年の広島別院での集会では真宗崇徳教社(一八八七年設立、広島における布教、輿学、慈善 の事業を進めた﹀の運営で取り組むこととなった。こうして一八九九年、広島保護院、広島育児院、広島感化院が設 立 さ れ た 。 一 九O
四年には経営主体は西本願寺の大日本仏教慈善会に移っている。平原は当初からこの運営に参画し、 一九一七年には、三施設の院長に就いている。平原は、この仕事を、﹁仏教徒の報恩的行為﹂とし、富士川滋を顧問 に迎え、入所者の個性を科学的に捉えることをすすめている。平原は生涯この事業に身を捧げた。この施設は後に県"
立教護院となっている。 原田義教︿一八七四│一九六O
年﹀は、宮崎市赤江町の浄土真宗本願寺派の宝泉寺に生まれた。京都西本願寺の仏 教大学(龍谷大学の前身﹀に入学し、本山の給仕をしながら苦学して一九O
二年に卒業した。在学中、先輩の大江真 成や岩切覚法の教諒現場に接して大きな感化を受けた。卒業と同時に本山から選抜されて東京教務講習所に入所し、 その夏に新潟監獄署教諦師となっている。新潟で一年四ヶ月勤めたあと一九O
三年末に岩切の後を襲って、故郷の宮 崎 監 獄 の 教 諦 師 と し て 赴 任 し て い る 。 典 獄 と 図 っ て 一 九O
五年に﹁宮崎県出獄人保護会﹂を創設し た。同会は一九O
九年に日州出獄人保護会、一九一三年には日州保護会と改称し発展していく。原因は、一九一一一一年 に会長に就任している。原田は一九二四年に教務師を退職するまで、全県に一二ケ所の支部を設置している。その後"
八十歳を越えても、原田は宮崎刑務所での特別教諒を続け更生保護に心を砕いた。 こ こ で 原 聞 は 、 藤井恵照︿一八七八│一九五二年﹀は、広島県福山市の浄土真宗本願寺派の正光寺に生まれた。一九OO
年に本願 寺大学林ハ現在の龍谷大学﹀を卒業後、一九O
二年京都監獄での教龍実習生に任ぜられ、その後、本願寺派遣の内務 -242ー 龍谷大学論集省警察監獄学校留学生となっている。市谷監獄の教講師であった河野純孝を訪ね大きな感化を受けてい るのである。一九
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四年、台南監獄教詩師事務嘱託に就き、一九O
九年以降、高松(一九O
九年)、小菅(一九一五 年﹀、東京(一九一八年﹀、豊多摩、市谷の監獄や刑務所の教語師を歴任、一九三六年に東京保護観察所の保護司、一 九三九年に法務大臣官房保護課事務嘱託に就いている。この間、保護施設の台南累功舎の創立、讃岐修正会と東京の 真哉会と両全会の整備、帝国更新会合九二六年﹀と和敬会母子寮の創立に当たった。藤井恵照は、刑務所内の売庖 の権利を獲得して保護事業の資金にするなどのアイデアマンの一方、自宅官舎の一室を事務所兼施設代わりで母子寮 また、逝去するまで家族と共に施設内に住み込むなどこの道に献身した人であ旬。 こ の と き 、 を 創 始 し 、 以 上 、 八人の真宗本願寺派の教諒師たちを取り上げてきたが、この項の最後に、津田海純(一九二六年逝去)につ いて簡単に触れておきたい。津田は、岡山県笠岡市にある浄土真宗本願寺派の浄心寺に生まれ、福山市の福泉寺に養 子にいっていh
o
福井の同門の龍島祐天(旅順監獄初代教詩師、一九O
六│一九O
八年勤務﹀に招かれ、西本願寺旅 順出張所(一九O
六年六月開設﹀で布教しつつ、二代目教講師の長岡覚性のもとで旅順監獄の教講師補助を勤めてい 伺 た 。 そ し て 、 津 田 は 、 一 九O
九 年 十 二 月 、 一 八 七 九l
一 九 一O
年﹀に監獄 キリスト教徒の安重根(あんじゅんぐん、"
で出会い、教務師としての立場を超えた精神的交流を安と結んでいくこととなる。安重根は、周知されているように、 一 九O
九年十月一一六日、ハルピン駅頭で伊藤博文を射殺し、一九一O
年 一 一 一 月 一 一 六 日 、 死 刑 執 行 さ れ た 人 で あ 旬 。 安 は 現在、韓国では祖国の独立を求め東洋平和をめざした義土として尊敬されている。安は、看守の千葉十七や満鉄理事 M W の田中清次郎にも人格的感化を与えている。教講に携わるものは真に深い人格を持つものから感化を受けるセンシピ リティがなければならない。そしてこの事例から、罪とは何かが改めて問われる。安は、処刑前に、 伺 でもない。私の仁が弱かったのは韓国人民の罪である﹂と述べたという。津田が持ち帰った写真の現物を見たとき、 私は安の澄み透った瞳に驚かされ、三幅の揮官宅の素心で毅然とした墨蹟に心を奪われた。津田が安を見下して心を開 ﹁ 私 の 罪 は ほ か 更生とは何か(加藤〉 -243ーかなかったら、安の心も津田に対して閉ざされていたことであろう。
七
人格的交わり
吉光宏昭の教示
大阪市淀川区にある浄土真宗本願寺派昭光寺の住職である吉光宏昭は、法務省保護司と大阪拘置所教龍師を兼ねて いる。仮釈放の決まった人たちに﹁釈前教育﹂という出所前教育の一環で講話をすることから、士口光は教諒をはじめ た 。 そ し て 、 収 容 者 に は 、 ﹁依願読経﹂といって収容者の申し出によって、自分の信仰する宗派の教諦師に、自分の 身内の人の命日や自分が殺めた人の供養をしてもらうことができる。吉光は、この﹁依願読経﹂も数人おこなってお り、正信侮を勤めた後、講話し質問を受けたりしている。そのなかには、死刑囚もいる。 吉光は、特に死刑囚に対しては、 ﹁いいかげんな慰め話をしたって受けいれられない。こちらがしっかりした信仰 の心をもった上で、相手にお話をしなければ、そう考えると、死刑囚に信仰の話をする前に、自分自身の、後生の一 大事が大丈夫なのかと、改めて考え直す﹂と述べる。率直な吉光の告白である。 ﹁ 私 も 迷 っ て い る の で す ﹂ 、 ﹁ 私 は 悟 っ た 人 ﹂ で 、 ﹁ あ な た は 迷 っ て い る 人 ﹂ な の で は な い 。 ﹁共にお浄土へのみちを歩んでいきましょう﹂ だ か ら 、 いう思いを持ち、必ず救いとるという仏の本願力に共に委ねていくのである。吉光は、 MW 死刑囚に語りかけるのである。死刑囚たちは、吉光の顔を見ただけで安心するという。信頼関係が出来あがっている ﹁私も後から参りますよ﹂と のである。吉光は、最近、輪廻の里を離れる話をするようになったという。 に、吉光の温かく柔らかく謙虚な人柄が、死刑を宣告されているものに、安心と信頼をもたらすのであろうと考え る。このような人格と人格の交流こそが、更生にとって生命とも言うべき最も重要なものであり、士口光は、それを、 かっ、この事業に営々と関わってきた本願寺の伝統と龍谷大学に流れる諸先輩たちの足 し か し 、 筆 者 は 、 士 口 光 の 話 の 内 容 以 上 仏教や親鷺の教えから学び、 跡によって身につけたものであろうと考える。 -244ー 種谷大学論集 とJ
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お わ り に 文化人類学の泰斗である川田順造は、 一部なの均﹂と述べている。この思想は、仏教的人間観、人生観と重なるといっても、差し支えなかろう。加えて、 ﹁いま生きている人たちは、生前や死後の者も含めた﹃人間﹄という全体の 仏教の世界観は、人間だけでなく、すべてのいのちと山川草木にまで仏性があり、すべてが繋がっているとするもの である。この仏教的世界観に、さらに日本的心性が加わって、我が国の仏教者による更生保護活動が取り組まれたの ﹁哀しみ﹂である。日本の伝統文化である﹁もののあわれ﹂として表出され ではなかろうか。その日本的心性とは、 る﹁哀しみ﹂は、強くはないが深く澄み切った共感の心といえる。 朝鮮李朝の貴族の出といわれる祖父をもち、貧困の中で禅寺に預けられた父をもち、 四歳で父を失い、九歳で母が 再婚し、親戚をたらいまわしにされて育った立原正秋は、 い旬。そのため、絶望と孤独に沈む非行少年の気持ちを深く受けとめている。立原は、女子少年院を出た少女を自宅"
に引き取ってお手伝いさんとして雇用し、結婚の世話までしている。また鎌倉の非行少年にも親身になって世話を し、ときには﹁ひっぱたたりし﹂て教え、大学進学を果たして高校の教師へと導いていh
。立原は、小説﹁冬の旅﹂ ﹁孤児としての自分の滅亡﹂を視てしまった、と述懐して で 、 少 年 院 の 少 年 た ち が 、 ﹁死んだようなもんだ﹂という言葉を口癖にしている姿を描いている。 ﹁ 死 ん だ よ う な も んだ、とは、どうせ俺はなにをやっても駄目で死んだような人間だ、という意味であった。 M 明 言葉であった﹂と立原はこれを説明している。また、﹁うまれてこなかった方がよかったのだ、と自暴自棄になって 伺 いる者もおります﹂として、自分の出生を呪い自殺を図る少年を紹介している。それは、立原の心のなかと重なるも 一種の虚無感から発した の で あ る 。 少年院の少年たちの中には、中学を出ておりながら﹁手紙一枚書けない﹂仲間がいる。家族に出す手紙を代筆して 吏生とは何か(加藤〉 -245ーもらわねばならないことは惨めで情けなくて悲惨なことである。それは同時に、彼らへのいとしさであり、哀しみで 例 ある。立原は、この小説の主人公に、﹁彼らの悲惨さは私自身の哀しみでした。﹂と語らせている。そして、
"
の哀しさを知った者には、どんな人聞をも恨むことが出来ない﹂ようになる、と独白させているのである。 ﹁ 人 間 すべてのいのちの中で、人間だけがただひとり罪をつくるものである。相手をだまし傷つけ、自分も傷つくもので ある。愚かさゆえに、強欲ゆえに、 そして境遇ゆえに、罪はつくられる。 一方で、人間だけが、その恐ろしきに気づ 品 C 、 日 を 背 け た り 、 乗り越えようと努めたりする。 それが人間存在への﹁哀しみ L で あ る 。 更生保護活動の核心に は、このような深い共感の心が存するのではなかろうか。 ただし、最後に強調しておきたいことは、更生保護活動においては、 ﹁人格交流﹂や﹁内面性の深化﹂と同じウェ イトで重視すべき、 ﹁人権尊重﹂や﹁社会性の認識﹂があるということである。 ﹁人格﹂と﹁人権﹂は、大きく振幅 を保ちつつ、更生保護活動のなかでスパイラルアップしていくことが必要だといえよう。この点に関しても今後、更 生保護活動の批判的検証と建設的提起を続けていきたい。 参 考 ・ 引 用 文 献 お よ び 註ω
ヘ ル マ ン ・ ヘ ッ セ 、 高 橋 健 二 訳 ﹁ シ ッ ダ l ル タ ﹂ 新 潮 文 庫 、 一 九 七 一 年 、ω
同 右 、 一 五O
頁 。ω
愚 禿 悲 歎 述 懐 、 二 首 、 三 首 。 聖 典 編 纂 委 員 会 ﹁ 浄 土 真 宗 聖 典 ﹂ 本 願 寺 出 版 社 、 一 九 八 八 年 、 六 一 七 頁 。 帥金子大栄校訂﹁歎異抄﹂岩波書庖、一九三一年、五六頁、四O
頁 、 五 五 頁 。 例梅原猛﹁地獄の思想﹂中央公論社、一九八三年、七O
頁 。ω
福 田 大 僧 正 米 寿 記 念 出 版 刊 行 会 ﹁ 天 台 皐 概 論 ﹂ 三 省 堂 、 一 九 五 四 年 、 二 一 七 頁 。 し て 居 る ﹂ と あ る 。 例 横 超 慧 日 ﹁ 法 華 経 序 説 ﹂ 安 居 事 務 所 、 二 ハ ニ ー 一 六 三 頁 。 ﹁ 十 界 互 に 通 渉 し て 、 十 界 各 々 他 の 九 界 を 具 一 九 六 二 年 、 三 四1
一 一 一 五 頁 、 一 一 一 頁 。 円 融 相 即 に つ い て と 、 親 驚 が 法 華 経 か ら 無 量 霧 -246ー 龍谷大学論集経 に 移 っ て い っ た 経 緯 が 説 明 さ れ て い る 。 刷機趨慧日﹁仏教とは何か﹂法蔵館、一九六六年、五一 J 五二頁、一五二頁、一四六頁。親鴛は法華経や浬梁経を熟読し、自力 の行に疑問を持ち仏の願力による成仏を求めたこと、法華経の真髄は仏の慈悲にあること、浬鍵経において罪業深重のわれらで も一念の改悔の心が生ずるなら仏の願力に救われるとの教えを説いていると説明している。 例谷川敏朗選﹁良寛の名歌百選﹂考古堂、二
O
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年、二八頁。 帥北川省一﹁良寛、法華経を説く﹂恒文社、一九八五年。ω
ス メ l ル山(須弥山)を中心とする太陽、月、星をふくめた世界の千倍が﹁小千世界﹂であり、その千倍が﹁中千世界﹂、そ の千倍がコニ千大千世界﹂である。松瀞誠廉、長尾雅人、丹治昭義訳﹁大乗仏典第四巻法華経I
﹂ 中 央 公 論 社 、 一 九 七 五 年 、 一 四 五 頁 、 二 八 八 頁 。 帥 ル l ス・ベネディクト(何回昆 V 回Z
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-一 八 八 七l
一九四八年﹀は、﹁他人の批判に対する反応﹂である﹁恥﹂に依拠した 行動パターンをもっ﹁恥の文化公宮目。 n己ZB
どと、﹁自ら心中に描いた理想的な自我﹂である﹁良心﹂に依拠した行動パタ ーンをもっ﹁罪の文化釘巳 pn 己ZB
どがあり、日本文化は前者である、と論じている(長谷川松治訳﹁菊と万﹂講談社学術 文 庫 、 二OO
五 年 、 二 七 二 J 二 七 三 頁 ﹀ 。 帥矯正協会編﹁文化人の語る罪と罰﹂煽正協会、一九七三年、一一五頁。 川明団藤重光、小此木啓吾﹁特別対談、少年法﹃改正﹄問題を考える﹂﹃世界、一九九六年六月号﹄岩波書庖、一九九九年、一二 二 頁 。 帥土居健郎﹁土居健郎選集 8 ﹂岩波書庖、二O
O
O
年 、 五 三 頁 。 帥同右、二五六頁。 M W 土 居 健 郎 ﹁ ﹃ 甘 え ﹄ 雑 考 ﹂ 弘 文 堂 、 一 九 七 五 年 、 三 七 頁 。 伺﹁土居健郎選集 8 ﹂ 一 一 一 一 一 九 頁 。 帥同右、二三四頁。 帥林竹二、灰谷健次郎﹁対談教えることと学ぶこと﹂小学館、一九七九年、二ニ四頁。 帥﹁土居健郎選集 8 ﹂ 五 三 頁 。 倒同右。 更生とは何カ〈加藤〉 -247ー帥 帥 帥 帥 帥 帥 帥 帥 開 制 帥 抑 制 伺 例 制 側 同 倒 切 開 制 帥 帥 灰谷健次郎﹁子どもに教わったこと﹂日本放送出版協会、一九九八年、一二九頁。 ﹁ 土 居 健 郎 選 集 8 ﹂ 一 一 四 一 頁 。 同 右 、 二 一 三 頁 。 同 右 、 二 四
O
頁 。 同 右 、 二 四 三 頁 。 同 右 、 二 五 二 頁 。 星野富弘﹁鈴の鳴る道﹂借成社、一九八六年、八O
頁 。 ﹁ 文 化 人 の 語 る 罪 と 罰 ﹂ 一OO
頁 。 エlp
ッ ヒ ・ フ ロ ム 、 懸 田 克 個 別 訳 ﹁ 愛 す る と い う こ と ﹂ 紀 伊 国 屋 書 脂 、 一 九 五 九 年 、 一 四 三 頁 。 ﹁ 土 居 健 郎 選 集 8 ﹂ 二 四 八 頁 、 二 五 一 頁 。 本願寺派本願寺・大谷派本願寺編﹁日本監獄教務史上﹂一九二七年、五頁。 浄 土 真 宗 来 本 寺 派 ・ 真 宗 大 谷 派 編 ﹁ 教 鶏 百 年 上 ﹂ 一 九 七 三 年 、 一 一 一 一 一 J 一 一 一 一 一 一 頁 。 同 右 、 三 四 頁 。 同 右 、 三 六 頁 。 ﹁ 日 本 監 獄 教 務 史 上 ﹂ 一 一 一 一 一 一 一 頁 。 ﹁教誕百年上﹂四O
頁 。 ﹁日本監獄教謡史上﹂一三七頁。 ﹁教務百年上﹂四三頁。 同 右 、 四 七 頁 。 同 右 、 五 二 頁 。 同 右 、 五 四 頁 。 同 右 、 五 八 頁 。 ﹁日本監獄教詩史上﹂付録の表4枚を集計した。 谷 田 三 郎 ﹁ 免 囚 保 護 事 業 に 就 い て ﹂ 監 獄 協 会 、 一 九 一 二 年 、 五 三 頁 。 龍谷大学論集 -248ー例楠下芳輝﹁矯正教化の施策における宗教の地位﹂法務研究報告書第四十二集第三号、法務研究所、 頁 。 帥 同 右 、 四 三 J 四 四 頁 。 糊 同 右 、 四 五
l
四 九 頁 。 帥 同 右 、 五01
五 一 一 良 。 帥同右、五二頁。 同﹁明日なき部屋の法悦﹂八二頁。 伺同上、八五頁。 倒柏原祐泉、薗田香融、平松令=一監修﹁真宗人名辞典﹂法蔵館、一九九九年、三四一頁。 伺矯正課程研究会編﹁矯正講座創刊号﹂法律文化社、一九七八年、六七頁。 伺同右、六三頁。 駒吉川卓爾﹁明日なき部屋の法悦﹂正善寺、一九八四年、二二O
頁 。 同中井久夫﹁家族の深淵﹂みすず書房、一九九五年、八頁。 伺吉川﹁明日なき部屋の法悦﹂、六五l
六 六 頁 。 制同右、四六頁。 制同右、一一O
頁 。 伺同右、一一五真。 伺向右、六九頁。 制 エ リ ク -H ・ エ リ ク ソ ン 、 ジ ョ l ン ・ M ・ エ リ タ ソ γ 、へレ γ-Q ・ キ ヴ ユ ッ ク ﹁ 老 年 期 ﹂ み す ず 書 房 、 頁 。 伺石上智康﹁﹁この世﹄と守あの世﹄を結ぶことば﹂徳間書応、二OO
五 年 、 速のいのち﹂﹁縁起なる永遠のいのち L と い う 表 現 を し て い る 。 伺吉川﹁明日なき部屋の法悦﹂、六二頁。 制 同 右 、 九O
頁 。 一 九 五 四 年 、 四 二 J 四 三 一 九 九O
年、三七一
O
頁 。 石 上 は ﹁ 縁 起 ・ 空 な る さ わ り の な い 永 更生とは何か(加藤〉 -249ー制同右、六九頁。 伺﹁文化人の語る罪と罰、一二九頁。 刷同右、一二八頁。 制吉川﹁明日なき部屋の法悦﹂、一
OO
頁 。 伺同右、一二六t
一 二 六 J 一 二 七 頁 。 伺竹岡範男﹁宝福寺の由来﹂﹁唐人お吉について﹂、宝福寺ホ l ム ベ l ジ。筆者は二OO
三 年 一 一 一 月 、 下 回 の 宝 福 寺 を 訪 ね 、 竹 岡 大乗が教認の仕事をしたことを知り感銘を受けた。 紳士口岡三平﹁千輪性海花房一端連﹂法務省保護局更生保護誌編集委員会編﹃更生保護史の人びと﹄日本更生保護協会、一九九九 年、一九Ol
一 九 六 頁 。 伺北野幸男﹁丘道徹﹂﹃更生保護史の人びと﹄五01
五 六 頁 。 同加藤博史﹁明治・大正期の教護と教鶏│仏教者の実賦と思想﹂龍谷大学龍谷学会﹃龍谷大学論集﹄第四六二号、二OO
一 一 一 年 、 二 三 五 J 二 五 五 頁 。 付厨勝彦﹁川本恵関、達源﹂﹃更生保護史の人びと﹄一七六 J 一 八 二 頁 。 同鎌倉利隆﹁平原唯順﹂﹁更生保護史の人びと﹄二八九 J 二 九 五 頁 。 M W 弘中慧見﹁原田義教﹂﹃更生保護史の人びと﹄二八二 J 二 八 八 頁 。 制山下存行﹁藤井恵照﹂﹃更生保護史の人びと﹄二七五i
一 一 八 一 頁 。 制斉藤充功﹁伊藤博文を撃った男﹂中公文庫、一九九九年、六九t
七四頁、一九九三年に浄心寺を訪ねた斉藤は、偶然、津田海 純の名を知り安との関係を知る。 紛 同 右 、 八 五 J 八 八 頁 。 帥同右、二二七 J 一 三 八 頁 。 制津留今朝寿﹁天主教徒安重根 L 自由国民社、一九九六年、二ハO
頁。津留は、殺人者として安の信徒資格を剥奪した天主教団 が抽仰の正義と愛を実践した真のキリスト者として一九九五年に復権したことを、皮肉を交え批判している。 伺 斉 藤 泰 彦 ﹁ わ が 心 の 安 重 根 ﹂ 五 月 書 一 房 一 、 一 九 九 七 年 。 制 胸 中 野 泰 雄 ﹁ 安 重 根 、 増 補 版 ﹂ 亜 紀 書 房 、 一 九 九 一 年 、 七 一 一 貝 。 -250ー 龍谷大学論集制 帥 悌 制 制 倒 例 制 士 口 光 宏 昭 氏 か ら の 私 信 と 談 話 に よ っ た 。 お 教 え 賜 っ た 吉 光 民 に 感 謝 申 し 上 げ る 。 川田順造﹁月間福祉八四巻七号﹂全国社会福祉協議会、二